ブルブル ブルース (Blues)

荻哲の音楽日記−Blues、世界の音楽、よもやま話など

2006年11月

a55c5fae.jpgちょっくら、日本に散歩に行ってきます。というわけで、今回はこのビデオで、まずはしばらくのお暇のご挨拶にいたしましょう。
Take A Little Walk With Me

この間は、イメージ写真として弟の勝新を載せたので、今度は兄貴の方でも。「極道ブルース」。私も早くブルースの道を極めたいものです。


ブルブル・ブルース亭主人 オギ哲

31b5ca8f.jpg以前、アメリカの議会図書館のサイトのことを紹介しました。Vera Hallという黒人女性シンガーのことを調べていた時、偶然にそのサイトにたどり着いたというわけです。宝の山を探した気がしました。

今回は、そのVera Hallについて少し書いてみようと思います。
ベラ・ホールは1902年にアラバマ州で生まれ15歳の時に鉱夫と結婚し、子供も生まれましたが、その後すぐに寡婦となり、洗濯や賄いなどをしながら家族を支えて来ました。彼女は1964年に亡くなっています。これは何処にでもありそうな典型的な黒人女性の話ではあります。

だいぶ前のことですが、或るアメリカ人が私にこんなことを話してくれました。アメリカでは黒人男性よりも黒人女性の方が、さらに社会的地位が低いのだと。つまり、彼女達は人種差別に加えて、性差別も受けるということらしいのですが、これが現在どの程度真実として当てはまるかは分りません。しかし、ベラが生きていた時分にはこういう二重の差別からの苦労も有ったことと思われます。

哀愁を帯びた彼女の歌は、ゴスペル、フォークソング、ブルースなどのレパートリーに及び、地元の教会などの集まりでいつも歌っていたそうです。ある意味では、歌っているその時だけは、浮世の辛さを忘れ自分を慰めることが出来たのでしょう。

1936年に北部からJohn Lomaxという白人が来て、彼女の歌を国会図書館のために録音しました。この時の録音により彼女の歌が知られるようになりました。私が見つけたサイトでもその時の録音が収められています。その後、息子のAlan Lomaxも彼女の歌を採集してます。彼女は後にニューヨークのカーネギーホールなどでも歌を披露しています。

議会図書館のサイト

以下は彼女の歌が聞けるサイトです。
Vera Hallの歌:
Vera Hallの歌
この中には彼女が一人で歌っているものと、他のミュージシャンと歌っているものがありますが、始めに7番の”Down On Me”を聞いてみて下さい。この歌はジャニス・ジョプリンも歌ってます。彼女も南部の出身なのでこのようなゴスペルに若い時から親しんでいたのでしょうか。

Alan Lomaxのサイト:
Vera Hallの歌
1) Another Man Done Gone
5) I Been Drinkingは彼女の歌です。

Vera Hallの歌
11) Trouble So Hardが彼女の曲です。

写真はベラ・ホールです。普通の黒人のオバちゃんなのであります。

2b934386.jpg世界に有名な日本人の芸術家は多いだろうが、その中で一人を選んでみろといわれたら、私は北斎を最初に選ぶだろう。北斎は江戸時代の後期に江戸で生まれた。今で言う墨田区の辺りだと言われている。この絵師は自分を画狂人と呼び、約90年の生涯、そのエネルギーを絵に注いで来た。

風狂人でもあった北斎は生涯何回も転居を繰り返したらしい。どうやら、絵に集中する余り部屋が汚れて荒れてくると、掃除が億劫なので引っ越したといわれている。家主にとってはたまらない男だ。自分の号もひっきりに変えている。これは、彼が自分の号を弟子に売って収入としたからだと言われている。とにかく自分が絵に没頭出来る環境を得ることが第一だったのだろう。自分の服や食べるものなどにも無頓着だったといわれている。以前に北斎を扱った映画で緒方拳が好演していたのを思い出す。

写真は彼の大作、「富岳三十六景」の中でも有名な作品「神奈川沖浪裏」である。
富士山を遠景に夕暮れの冬の海は荒れ、舟は木っ端の様に揺られている。波は今にも舟を襲わんと大きく手を広げて生き物のようだ。船頭達はこの様な波にも慣れているだろうが、舟客は尻を上げて後生とばかり舟底にしがみ付いている。中には念仏を唱えている客も居るはずだ。自然の力に比べると人間はちっぽけな存在である、とこんなドラマが見えてくる。

波が描く美しい曲線を大胆に取り入れた構図が素晴らしい。藍色を使った波には、しぶきの冷さや自然の持つ冷淡さが感じられる。それに対比し遠方の空は淡い桃色で、色の対比も上手に図られている。富士にかかる空は濃い灰色で、船客の不安な心理を写し出すかのようだ。この絵には美しさと荒々しさの二つが同居している。

さて版画は、まず絵師が描き、彫師が板を彫り、最後に刷師が仕上げるという共同作業の芸術である。どこかで読んだことがあるが、現代ではこの様な微妙な線を彫れる職人が居ないそうだ(居たとしても高齢だろう)。江戸時代の彫師などは、一枚幾らで短時間に数をこなしていたはずで、チャッチャカと彫りまくっていたのだろう。色ごとに版を起してたのだから、この北斎の版画でも8枚の板を彫っているはずだ。多色刷りの版画を支えていた職人の技術にも感心する。

余談。私の子供の頃は「肥後の守」というナイフが売られていて、色々と工作に使った。このようにして刃物の使い方を自然と覚えて行った(指を切った時の手当ての仕方も)。また、折り紙などは手先の器用さを発達させる役目もあるに違いない。今の子供の手先は訓練されているのだろうか。彼らはナイフで鉛筆をキレイに削れるだろうか、などと余計な詮索をしてしまう。

北斎、この風狂画人は、画家のゴッホやゴーギャンなどにも大きな影響を与えているので有名だ。作曲家のドビッシーも彼の絵からインスピレーションを与えられて作曲(交響曲ー海)をしたという。北斎が彼らの時代に先立ち、国際的にも優れた作品を残していた証であろう。

富岳三十六景は北斎が70歳代の時の作品であるが、北斎は現場に行ってスケッチを起したのだろう。当時の旅の不便さを考えると、そのバイタリティーには驚くばかりだ。彼は「90歳になったら俺の絵も神妙の域に入るのだ」と人に語っていたそうだ。この時代の人の二倍も長生きして、絵を人生の中心に置いて生きた画狂人北斎は、確かに並みの人間ではなかった。

大きな画像で見たい方に
「神奈川沖浪裏」
「凱風快晴」

私信:
日本に行くことが決まって、心の中はすでに子供の様にワクワクとしている部分があるけれど、反対になんだか億劫になっている部分もあって、この二つが毎日交互に現れて気持ちが定まらない。とはいえ、日本で何を食べようかなどと考えている毎日。最初はラーメンと餃子を薄汚いラーメン屋で食べるのであろうなぁ。私のお里が知れましょう。

4
66098cf9.jpgご隠居 「また、オギテツが日本に来るそうじゃよ、婆さん」

お婆   「頼まれもしないのに、また来るのかい?」

ご隠居  「こらこら、そんなに憎まれ口を叩くもんじゃあない。ヤツにも家族や友人が居るんだろうし…」

お婆   「そんなこと言っても、あの人は親のところには余り居付くかないで、ブラブラとするんでしょう」

ご隠居 「今度は11月25日土曜日に、またドラゴンさん達や他のミュージシャンとコンサートを小金井のあたりで演るそうだよ」

お婆  「アタシにゃ関係ないよ。行くんだったら自分の小遣い使うんだよ!」

というわけで、アメリカが感謝祭などという祭で七面鳥を食べている頃、私は日本で一人気ままに寛ぐのであります。今回は、日本に到着して二日目にコンサートをするのです。時差ぼけをおしての演奏になります。外タレ並みでしょ?

11月25日に「EST−4 楽(がく)」という所がコンサート会場ですが、私を入れて4セットのステージ。開始は午後6時です。

演奏者:
1)オギィ板
ハーピストのドラゴン板谷とオギテツが、カントリーブルースやシカゴブルースを基本に日本語と英語で歌います。CD「ハッケヨイ!」に入れてない曲も幾つか演る予定。

2)ミニココ:
ハープ、ベース、ギターのシンプルな構成で、渋く決める大人のブルース。このバンドの前身ココモ・ブルース・バンドには、オギテツもしばらく席を置いてました(20年近く前)。

3)宮本洋平:
最近、武蔵野あたりで活躍がめざましい若手ブルースマン。高田渡風のラグタイムやカントリー・ブルースを弾くそう。

4)コージー大内:
九州は日田弁でブルースを歌うユニークな方。悪魔ではなく、ライトニング・ホプキンスに魂を売ったという噂もチラホラ。ライブ歴も長いツワモノ。

「EST−4 楽」の場所は小金井市東町4-20-18
Tel(携帯)090-1041-5922 
最寄り駅: 西武多摩線新小金井駅徒歩1分 JR中央線東小金井駅徒歩10分
会費制で2500円で飲み物食べ物付き。開始は6時で終了は10時頃。


写真は勝新の座頭市。最近、髪の毛をまた短く刈りましたので、コンサートの時にはこんな頭になっていることでしょう。ギターに刀でも仕込んでおきましょうかね。

45950876.JPG私の持っているカントリーブルースのオムニバス・レコード(CD)には、サン・ハウスの曲が入っていることが多くて、その全て戦後の録音ばかりだった。例えば、“Death Letter Blues”や”Pearline”といった曲。他のミュージシャンの曲は殆んどが古い録音なのでシャリシャリと雑音が入るが、サンの曲の音は澄んでいる。しかし、余り深い印象も無く、サン・ハウスはしばらく私にとって重要なミュージシャンではなかった。

サンに対する考えが変ったのは、やはり彼の戦前の録音を聞いた時だ。特に”Dry Spell Blues”や”My Black Mama”は始めて聞いた時には驚いた。何か収まりきれないエネルギーというか、何かを表現したいという衝動が迸っていた。そして、何回も聞き返した後に、天国に居られるであろうサンに、心の中で今までの私のツレナイ態度を謝ったのです。やはりサンは偉大なるブルースマンなのだと認識したのでした。

考えてみれば、彼は晩年に脳溢血かなんかで倒れてるので、その後の録音で評価するの片手落ちでした。戦後でも血気盛んな頃の録音はやはりソウルフルで、Alan Lomaxの録音した“Walkin’ Blues”などは訳が分らないぐらい興奮させる、というか彼自身が歌いながらアドレナリン過多に陥っている。こんなところがサンの真骨頂なのかも知れない。

さて、サン・ハウスというと出てくるのがロバート・ジョンソンとの絡みだ。
才能が無いと思っていた若造がある日姿を消して、しばらくしてサンやパットンがたむろする酒場に戻って来た。とにかく一曲弾かせてくれと頼み、サンの持ち歌の一つでもあるプリーチング・ブルースを全く新しい解釈で弾いて見せたのだから、以前の彼を知っている人々は一様に驚いた。サンを一番驚かしたのは、ギターの腕と共に、ロバジョンの歌に鬼火の様な情念が感じられたからだ。ある人はロバジョンが悪魔に魂を売って腕を身に付けたと冗談まがいに言った。実際、ロバジョンが関わったのは「悪魔」ではない。練習の「鬼」だ(鬼も悪魔も同じかな)。

イマジネーションが沢山有る人などは、サンがロバジョンに敗北したとか、負けを認めたとかそんな風にも書く。新しいロバ君にサンが驚嘆したのは間違いないし、自分よりも優れた技巧を彼が何処かで身に付けた事も分ったことだろう。しかし、現在の私達からすれば、二人とも重要な功績を残しているユニークなブルースマンなので、どちらの音楽が優れているとかという優劣論議は、所詮余り意味を成さない、と自分は思う。

この話で、私が思うのはこんなことである。サンはロバ君よりほぼ10歳ほど年上だが、この二人には顕著なブルースにおけるジェネレーション・ギャップが見られるということだ。

サンは典型的なデルタ・ブルースのミュージシャンで、地元では大いに人気が有ったし、戦後でも様々な機会に古き時代のデルタの音楽を再現して見せた。しかし、彼はあくまでも土着のミュージシャンで、そのスタイルを変えることはなかった。20代半ばにしてギターを始めたサンであれば、音楽的な器用さもなかったに違いない。

一方のロバジョンは、幼い頃に家の東側の壁に釘を打ち針金を張って家ギターを作って演奏したり、シガーボックス・ギターやハーモニカなどで、子供の時から音楽に慣れ親しんで来た。この放浪者は様々な土地で音楽を演奏し、多くの違うスタイルのブルースも見聞きして来た。放浪者であるからこそ、彼の音楽には多様性が出た。

新しい音楽が生まれる。その揺籃の中からしばらくすると、新しい方向や息吹が出て来る。サンとロバジョンは丁度その境に立っていたような感じがする。サンはその場で立ち止り、ロバジョンは新しい方向に歩み始めた。後に、マディ・ウォーターズなどがエレキ・ギターでブルースをやり始めた時や、リトル・ウォルターがアンプリファイドされたハーモニカを吹いた時にも、同じような事が起きたに違いない。

キング・オブ・デルタブルースと冠されたロバジョンは、実は土臭いデルタブルースという枠から出ようとしていた。”From Four Till Late”や “Molted Milk”はロニー・ジョンソンの影響があるようだし、”Hell Hound On My Trail”などは、いわゆるスキップ・ジェームスなどでおなじみのベントニア系のEmチューニングを使っている。これらの曲は、生涯に二回行なった録音セッションの最後の方で録音されている。切なく歌っている”Love In Vain”もこの時のセッションだ。彼の音楽は徐々にメロディアスでモダンな方向に向かっていたのだと思う。

もう一つは、歌詞の違いだろう。ブルースとして個人的な体験が歌い込まれていることは二人に共通しているが、サンの歌詞は直接的で分り易い。十代から説教師を始めた彼の歌は、時には説教じみてもいる。彼の歌に「悲しみ」や「憤り」は有っても、ロバジョンの歌のような「人間の業」や「絶望」のようなネガティブさは無い。ロバジョンの歌詞は、ボブ・ディランが詩人としても評価したほど含みが多く屈折している。

妻と子を出産で共に失ったロバート・ジョンソンには、神に対する不信や背信があろう。だから、自分には地獄の犬がまとわり付き、悪魔と一緒に歩いて行くと歌ったが、最後までゴスペルを歌っていた素朴なクリスチャンのサンは、決して悪魔と一緒に歩くことはなかった。この二人の違いはそんな処にもあるのだと思う。

写真:フィラデルフィアにある自由の鐘とサン。サンには白いシャツが良く似合う。

675a0c39.gifその3話
千葉市に住んでいた私はもっぱら国鉄の総武線を使っていた。総武線は愛とドラマの鉄道線だ。

私が大学4年の時に津田沼駅からヤクザサンが二人、総武線の黄色い各駅電車に乗って来た。二人とも酔っていた。乗客は皆、下を向いて目が合わないようにしていた。さて、私の左側には人が一人座れる位の間が有ったので、私は右側に寄って広げてあげた。私は親切な男である。すると弟分が目ざとく見つけて、「兄貴、ここ開いてます」と兄貴分を座らせた。私は座った兄貴の両手を見てびっくり。指が4本無いのだ。しかも右手の親指を詰めていた。これはエンコ詰めのプロだ。妖怪人間ベムと同じ数の指しかない。

私は試験期間だったのか、心理学の教科書を拡げていた。項目に「性愛における心理」とか何とか書かれていて、隣のベムさんが私に聞いてきた。「性とか愛とかは、本を読めば分るモンなのかい?」と。私は、その本が教科書であることを説明し、最後に付け加えた。「自分はまだ年が若いので、性も愛も分らないことが多いのですが、本だけの知識だけでは本当のことは分りませんよね」。

私が素直に答えたのが気に入ったのか、彼は私に何やらと自分の事を話し始めた。彼は沖縄の出身だというので、私も沖縄にしばらく居て非常に楽しかった事を話した。すると彼はポツリと、「俺は島のことは忘れたよ。あそこには帰りたくない」。色々と嫌な思い出が有るのだろう。中学卒業ごすぐに本州に来たという。釘に当りあちこちで弾かれて落ちてゆくパチンコの玉のように、今まで人生を生きて来たのだろう。もちろん、その話の中には自己憐憫も有ったが、なんとなく彼の話を聞いていて気の毒な気もした。

「俺はねぇ、女一人も幸せに出来ないくらいの大馬鹿だけど、貴方はシッカリ勉強して幸せな生活を送って下さい」など諭されてしまった。まさかヤクザさんにこの様な励ましを受けるとは思わなかったので、「でもこれから人生まだまだですから、兄さんも余り気を落とさないで下さい」などと返答した。その内、彼らの降りる駅が来たので、二人とも降りていったが、ドア口でそのベムさんが私に深々と頭を下げて「ありがとう。元気でな」と一声言ったので、私もペコリと頭を下げた。

周りの客は私をなんだろうと思っただろう。向かいに座っていた中年の婦人は敵意のある嫌な視線を私に向けていた。私にはその視線が疎ましかったので、しばらく窓から外を眺めていた。

1c6da4e0.jpg私はこれまでヤクザという職業に付いたことはもちろん無いけれど、何回か彼らとの邂逅はある。

その1話
大学一年の時のこと、友人のM君がアルバイトの話を持って来た。テキヤの手伝いだという。一日一万円も貰えるというので、私は乗っかった。彼の知り合いのN大生が時間の都合が付かないらしい。何でも仕事に穴を開けると叱られるそうなので、M君に助けを求めて来たらしい。仕事は土曜と日曜だ。都合、私のクラスから4名ほどがアルバイトに参加した。

最初に雇用主を見て後悔した。丸っきりの893じゃあないの。祭りの場所に行くまで、車の中で彼らが話しているのは、某幹部の武勇伝や組長の出世話などだ。なるほど、こういう機会に兄貴分が下っ端に教育を施しているのかと感心もした。

私は「ピカ」を売らされた。ヘリウムを入れて膨らませた銀色の風船である。ピカピカと光るので「ピカ」らしい。しかし、売値を聞いた時にタマゲタ。一つが200円…、売れっこないじゃん。原価なんて10円も掛からないだろうねぇ。当初、私の売り上げは悪かった。こんな値段で売りつけることが憚られ気兼ねしていたからだ。また、通行人の私の見る目の中に明らかな敵意や侮蔑が見られたのも嫌だった。みんな私を893だと思ったのだろう。よほど学生証を首にぶら下げようかと思ったくらいだ。

テキヤのオッサンが見回りに来て、私がサッパリなので商売のコツを授けた。「親が値段を聞きに来る前にな、ガキに手渡すんだよ。そうすりゃガキが、買ってくれーってせがむからな」。うーん、やはりアコギな商売だ。しかし、児童心理を上手く利用している。さて、売り上げを出さなければ、アルバイト代は出ない仕組みなので、私は試しに彼に言われた通りにやって見た。確かに、以前より売れた…。

こうして、どうにか二日間が過ぎた。一日12時間ぐらい働かされた。アルバイト代は二日で2万。しかし、売り上げからくすねた分が5千円ほど加わる。これは、半ば公然と許されている行為らしく、ある程度売れたらその一部をポッケに入れて良いらしいのだ。丁度、歩合制のボーナスと同じだろう。友達で一番良く売り上げたヤツは、なんと2万をポッケに入れていた。確かに彼は顔といい性格といい、この仕事に向いているタイプだったな。ようやくアルバイトから開放された時は、ホントに嬉しかった。人生に一度のテキヤ体験。ヤクザの資金源稼ぎの手伝いをしたとご批判が出るかもしれないが、世に疎い私は当時そんな事も考え付かなかった。


その2話
幼い頃、私の近所にヤクザの情婦が住んでいた。子供が居なかったためか、子供に優しい人だった。たまに自分のアパートに呼んでくれて、お菓子などをくれたので、私もなついた筈だ。私の母はヤクザは大嫌いだったが、この女性には何となく同情していたようだ。時どき、「女はね、男次第で変って行くものなのよ」などと言っていた。私には何のことだかサッパリ分らなかったけれど。彼女は歌謡曲のレコードかラジオを良く聞いていた。今でも畠山みどりや美空ひばりなどの歌を思い出す。部屋はいつもこざっぱりと片付いていた。旦那が来ると家に帰されたので私はその男が嫌いだった。この大場という男も子供が好きではなかったのだろう思う。

ある夏の日に大場は部屋を訪れて来たが、私は残ってしばらく居て良いことになった。何かを頂いていたのかもしれない。大きく開かれた窓から流れてくるそよ風、風鈴の音、窓下の爽やかな松の緑などが思い出される。彼がシャツを脱ぎランニングシャツになると、両肩に鮮やかな刺青があった。銭湯などで時々見かける意気地の無い筋彫りとは格が違うことは小学生でも分った。

私にとっては今まで近所の優しい叔母さんだったその女性の言葉遣いや態度が、大場の前では違うことに気が付いた。自分の男の前ではやはり彼女は「女」に変るのだ。小学校三年生ぐらいの当時はもちろん性については知らなかったが、何となく居心地が悪くなってサッサと帰ってしまった。まもなく彼女は何処かに引っ越したので、彼女の事もいつの間にか忘れた。

中学生一年の頃、新聞を読んでいてメメ組構成員の大場某という男が、千葉港付近の倉庫の駐車場で撲殺死体となって発見されたという記事を読んで、二人のことを思い出した。あの女性はその後どうしたであろうか。

e28da9d2.jpg最近、久々に映画館で新しい映画を観た。タイトルは“The Illusionist(幻影師アイゼンハイムの物語)”。舞台はウィーンだが、撮影に使われたのはプラハの街でなのだそうだ。

主人公の魔術師(幻惑師)を演じるのはエドワード・ノートンという俳優で、その恋人役はジェシカ・ビールという女優。二人とも顔は見覚えがあるけれど、特別に憶えているという俳優ではなかった。でも、これで多分二人とも私の記憶に留まるであろう。ジェシカ・ビールの方は、童顔だけれどとてもセクシーで、私はこの映画を観ていて所々ゾクリとしてしまった。

ストーリーは恋愛ものだ。
幻術師になることを目指す少年と王女があるキッカケで出会い、幼い恋心から駆け落ちをしようとするが捕まってしまう。そして、二人は別れ離れとなる。それから月日は流れて15年、少年は今をときめく魔術師としてウィーンに戻り、一方の王女はオーストリアの皇太子の許婚となっている。この二人が、彼のショーで出会うのだ。幼い恋は再燃する。今度こそ愛を成就したい!

しかし、一つ問題がある。彼女の許婚の皇太子である。この男はかなり感情的で、以前付き合っていた女性を殺害したという噂もある。コヤツに知れたら二人とも殺されるだろう。ここで魔術師の技が披露されるというわけだが、余り種明かしをしては、これから見る方に失礼だろう。最後のどんでん返しも有りますし。

映画を観ていて時々思い起こすのは、プラハという不思議な町のことだ。カフカはこの街の出身である。高校の時に彼の「変身」を読んでとても感動したことを思い出す。ある朝起きたら自分が巨大な甲虫になっていた、という奇抜な発想! 色々なことを私に考えさせた小説だった。

またこの街はユダヤ人のラビ、ベン・ショロムが土塊からゴーレムという人造人間を作ったとされる街だ。プラハの独特な街並みと数々の不思議な伝説…。私にとって、この神秘的な都市はヨーロッパ圏では行ってみたい都市の筆頭に挙がるのであるまする。

ところでこの映画の舞台はウィーンということなのだが、ウィーンというと心理分析のフロイトが思い出される。この人間の深層を解き明かそうとした心理学者は、これまたカフカと同じユダヤ系だ。この心理分析はその後、数々の批判を浴びることになるし、その批判も正鵠を得ているものもあると思うのだが、この時代に人間の心理的抑圧についてこれほど上手に説明してみせた人は居ないのではないのではないだろうか。彼の理論が古く臭く思える人は、このフロイトが生きた時代性というものを考慮に入れなくてならないと思う(その意味では現代には余り適用しない理論かもしれないけれど)。

この映画は観客に幻想を見せる魔術師の話である。私達の心理の深層はどんな幻想をを望んでいるのだろうか? つかの間であっても幻想師は私達にほのかな夢想を売ってくれるのかも知れない。映画もまた一つの幻想を私達に与えてくれる。

映画通はこの映画に色々と批評はあるようだが、私は最近の有名スターを使ぅてとにかく興行を成功させようとするハリウッドタイプの映画に飽き飽きしていたので、久々に映画というものを楽しんだ気がする。私としてはお勧めの映画であります。

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