※2010年1月19日
超今更ですが、動作軽量化を期して、字の大きさ、字間、行間調整のタグを外しました。一度wordなどにコピペして、各々で読みやすくレイアウトするなり印刷するなりしていただくと読みやすいかと思います。
ついでにあとがきを貼り付けようかと思ったのですが、執筆投稿後4か月ほどが経過する中で、私の中でのこの物語の意味合いが若干変化してしまったため控えさせていただきます。いつか自分なりの総括を書いてみたいと思うのですが。
コメントに対する返答もしたいのですが、もう少し待ってください。申し訳ありません。たくさんの方に好評いただけたようで、中には「まさにこの言葉が聞きたかった!」というような言葉もあって大変感激しています!
霊夢と紫と旅立つための10の言葉
・人が人を想うとは何か、私なりに本気で考えた渾身の実験作。
・「渾身」= very long めっちゃ長いです、気をつけて!
・合計136000字(word調べ)の3部構成です。1部は40000字、2部は55000字、3部は40000字くらいあります。
・ねちょは薄いわけではないのですが、1か所、1万字ほどあるだけです。この3部構成の話を分割しなかったことを考えれば、ねちょシーンがどこにあるかはわかりますね?
・途中で視点が複数回入れ替わるので、そのタイミングに注意して読んでください。
・緻密に見えて、突っ込みどころ満載。いや……、そんなの突っ込まないでぇ……!(///)
・文体がぶれるのは、適当という名の仕様です。最初の固めの文章を見て、うわなにこれ、と思った方、最後までは続きませんのでご安心ください。最初の固めの文章を見て、ktkr、と思った方、最後までは続きませんのでご安心ください(あれ?)。あ、表現力が上下するのは、技量の限界という名の仕様です。
・ゆかれいむはマイジャスティス。ゆゆようむ、マリアリもマイジャスティス。
・私の夏休みはこのSSのために犠牲になりました。
・みんな! 私のしかばねを! 越えていって!!(誰
Ⅰ. 遠き恋
この神社には巫女が一人暮らしている。
幻想郷の端に位置しながら幻想郷の中心的な役割を果たしているこの神社だが、普段は閑散としている。確かにここは妖怪たちの人気もそれなりにあるが、それでも普通の妖怪たちが寄りつくことはほとんどなく、普通の人間たちは妖怪が恐ろしくてやはり寄りつかない。
結局、神社を訪れるのは大抵が巫女と個人的に知りあっている者たちだった。彼女たちは神社に来れば勝手気ままにくつろいでいくのだが、もちろん彼女たちには彼女たちの生活があるわけで、普段は溜まり場と呼べるほどには来客はない。一日中誰も訪れない日の方が多いくらいで、そんなときには巫女が一人穏やかに過ごしていた。
「霊夢」
「またあんたね」
私が背後から声をかけても彼女は特に驚く様子を見せない。縁側に座っている彼女は振り返りもせず手にしたお茶をすする。
彼女は普段からこうして静かに暮らしている。することがないわけではない。博麗大結界を管理し、異変があれば解決に出向き、来客があれば丁寧にあるいは適当に接待し、多くの仲間が集まる宴会をほぼ一人で切り盛りする。忙しい時は息をつく間もないくらいなのだが、これらはいずれも日常的に起こることではなく、要するに普段の彼女は暇なのだ。
そして暇といえば、私も彼女に劣らず普段は暇だ。私ほどの力を持つ者が軽々しく出しゃばるべきではないし、大抵の問題は藍が解決してくれる。私は眠って過ごすのも好きだったが、最近はいきなり神社に押しかけて暇にしている霊夢にちょっかいを出すのが日課になりつつあった。
いちいち断りを入れることもなく私は霊夢の隣に腰を下ろす。彼女は少し気だるげな表情で私を一瞥してからまた正面に向き直った。
「最近は驚いてくれないのね」
「そんなにいつもいつも驚かされてはたまらないわ」
「誰もいないと思っていたところに、突然背後から声をかけられることほど驚くこともそうないと思うのだけれど」
「何度も何度もやられてたら慣れるわよ」
「残念。あなたの驚く顔が見たいのに」
「そんなこと言ってもダメよ。驚いてほしければ手口を変えることね。……でもきっと無駄ね。だって……」
「だって……?」
「ううん、なんでもない」
霊夢はごまかすようにお茶に口をつける。
そんな彼女が寂しいと、私は少しだけ思う。彼女は誰に対しても朗らかで親しみやすく、それでいて誰にも気を許さないのだ。何かを言いかけて途中でやめるくらいのことは誰でもする。でも彼女は違う。彼女は自分のことをあまり話したがらないし、こんなふうに途中で言うのをやめてしまったときは、誰が何を言っても、実はね、と言って語ってくれることはなかった。
「それよりあんたも飲まない?」
「昼間からお酒はいいわ」
「お酒じゃないわよ。お茶よ、お茶」
「あら、私の分も用意してくれてるの?」
「あんたの分なんかわざわざ入れておかないわよ。……台所にお茶が少し余っているんだけど、飲む?」
「ええ、いただこうかしら」
「うん。じゃあ、ちょっと待ってて」
そう言って霊夢は湯飲みを置き、台所に向かった。
彼女は確かに深い人づきあいを避けるが、それでもだんだん親しくなれている。そんなふうにも私は感じていた。
目に見える態度にも変化が起きていた。以前、最初に私がお茶が飲みたいと言ったとき、彼女は嫌だ、面倒くさいと一蹴したのだ。仲が悪かったわけではないが、ただの話し相手くらいにしか思われていなかったのだろう。その程度で私がこりるはずもなく、会うたびに冗談半分でしつこくお茶が飲みたいと言い続けていたら、次第に、残っているお茶が台所にあるから自分で注いで飲めと言うようになった。
そして今日は、ついに自分から台所まで取りに行ってくれた。先ほどの話を濁すという目的もあったのかもしれないが、それでも私はかまわない。霊夢が少しずつでも私に心を開いてくれていると思うと嬉しかった。
彼女の残した湯飲みに手をふれてみる。ひんやりと冷たい感触が手に心地よかった。夏らしい暑さの中、障子は開け放たれ、風が柔らかく吹きぬけて肌を撫でる。ここに座って飲む冷たいお茶はどんなにおいしいだろう。
ふと、霊夢のお茶を飲んでみようかと思う。勝手に間接キスされたと知ったら霊夢はどう思うだろうか。さすがに怒られるかもしれないから、そんなことはしない。でも、もっと親しくなれたなら。そのときはお茶が飲みたいと言う私に、私のをどうぞ、と言って湯飲みを手渡してくれるだろうか。そんな想像をするとなんだか気恥ずかしくなるが、そんな未来があっても悪くないと思う。
「お待たせ、紫」
「ありがとう」
台所から戻ってきた霊夢から湯飲みを受け取り、口をつける。質素ながらも上品な甘さがひんやりと私の体に広がっていく。
「どう?」
「おいしいわ」
ここでは静かに時が流れる。焼けつくような外の暑さとは違い、ここには風のおかげもあって過ごしやすい、優しい暑さがある。わずかに汗がにじみ出るのが気持ちいいとさえ思えるような、そんな平和な夏があった。縁側に座ってのんびりと一日を過ごす霊夢の気持ちもわからないではなかった。
「もしかして私のお茶飲んだ?」
「え……、飲んでないわよ」
霊夢が突然問いかけてくる。嘘はついていないが、わずかにうろたえてしまう。そんな私の様子に気づいたのか、彼女はいたずらっぽく笑ってこちらを見る。
「ふぅん。でも、飲んでみようかなって思ったでしょ?」
「そうだとしたら?」
「ふふふ。あげない」
そう言って霊夢はからかうように首をかしげて微笑んだ。
霊夢は勘がいい。若くて少女らしいあどけなさの残る彼女だが、しかし時に私以上に何もかもを見通してしまうのだった。
そして明るく笑って、ただ、あげない、とだけ言うのだ。その意味は、飲め、でも、飲むな、でもなく、ただ私からはあげない、ということでしかない。飲んでみたければ飲んでみなさいと、その瞳が試すように私の目をのぞきこむ。
そんな何気ない彼女の仕草に胸がどきどきするのを感じていた。可愛らしい表情と、鋭い勘に裏づけられたユーモアが私の心をくすぐり、一方で大人びた一面をのぞかせるつぶらな黒い瞳に吸いこまれそうになる。ただの愛らしい少女にとどまらない彼女に、私は今まで会ったどんな者にもない魅力を強く感じていた。
霊夢の隣で冷たいお茶を楽しんでいると、やがて彼女は後ろに倒れて横たわった。両手で頭を支えると、そのまま口を押さえることもなく、ふぁ~ぁとひとつ大きなあくびをかいて目を閉じる。
「霊夢、そんなに口を大きく開けてあくびをしてははしたないわ」
「なんであんたなんかに慎ましいところを見せなきゃいけないのよ」
「ああ、以前はもっとおしとやかで可愛らしかったのに。これが噂の倦怠期なのね」
「倦怠期って何よ。いつ結婚したのよ」
「ひどいわ! 私たち、愛を誓いあったじゃない……!」
「ぷっ……、ふふふっ」
「ふふふっ」
わざとらしい抑揚をつけて演技してみせると霊夢はこらえきれなくなったのか、ついに噴き出す。そんな彼女につられて私も笑った。
静けさが戻ると、霊夢は独り言でもつぶやくように言った。
「ねぇ、紫。……たとえば好きな人にはさ、きれいな自分だけを見てほしい? それとも飾らない自分も見てほしい?」
「……どうかしら。あなたはどう思うの?」
「うーん、よくわかんない。でも……飾らないところを見せて簡単に嫌いになっちゃうような人だったら嫌かな。だって、きれいなところだけを都合よく見て好きになっていたってことじゃない? そんなの長続きしないと思う」
やはり今日は幸運な日だと思った。霊夢が自らの考え方とか価値観とかについてこんなふうに語ってくれるのはめずらしい。私は幼い頃からの彼女を知らないわけではなかったが、直接会って話すようになったのはそう昔のことではない。会ってすぐに魅力的な子だとは思ったが、つきあいがそれほど長いわけではなく、彼女の一歩引いた性格もあいまって、彼女についてくわしく知っていると言える自信はあまりなかった。
「あ、でも、きれいじゃない部分をさらけ出すばかりでも嫌かな。これが現実だよ、ってまざまざと見せつけられても、なんかなぁ、ってなっちゃうかも。やっぱり自分が好きな人には、純粋に自分を好きでいてほしいと思うもの。なんていうか、余計なことは知らないままで、いい気分で自分を好いてほしいってことかな。ほら、知らぬが仏とも言うじゃない」
彼女の中でも考えが固まらないようだ。元々一言で片付けられる類の話ではない。それでも私は、口に出すかどうかは別としてもはっきりと物を言うことの多い彼女のことだから、私はこうだと思う、と言い切るのではないかと内心思っていた。人離れした印象のある彼女だったが、悩みながらもひとつひとつ言葉を選んで話す姿は年相応の憂いを秘めた少女のそれだった。
「やっぱ、よくわかんないや。ははは……」
言葉が途切れてしまう。沈黙が続く中、私は霊夢の言葉について考えていた。好きになるからには上辺だけじゃなくて、自分のすべてを好きになってほしい。それはそうだろうと私も思う。しかし、知る必要のないところまで見せつけてとまどわせたくない。それもそうだろう。
そこで気がつく。問いの上では二つのうちの一つを選ぶみたいだが、本当にこの二つは両立しないのか。この二つの望みは決して矛盾するものではないはずだ。
「……飾らないところを見せても変わらず好きでいてくれると信じられる人に、互いに無理のない範囲できれいなところだけを見ていてもらいたい、というところかしら」
「紫ったらやたら上手くまとめちゃうんだから。……でも、きっとそういうことよね」
このようなまとめ方をしては、話が続かなくなってしまう。私は少しだけ後悔したが、しかしそれは充分に選ぶに値する解決策には違いないはずだった。少なくとも霊夢は、それがきっと一番お互いのためよね、とつぶやいて納得してくれた。
「一方がお風呂から上がって裸のままうろついているのを見ると、残念に思うってよく言うじゃない? 仲が悪くなるわけじゃなくても、緊張感がなくなるというか、いざという時にエッチな気分に」
「ちょ、ちょっと、ちょっと、紫……!?」
「ふふふふふ」
少ししんみりとしすぎてしまったから。霊夢は純情な子だからこの手の話に弱いだろうと思ったら、案の定、彼女はうろたえだした。きっと赤い顔をしているだろうと思うのだが、しかし私はその顔を見ることができない。
一瞬。ほんの一瞬。私と彼女が互いに裸で向きあっているところを想像してしまって、わずかに顔が熱くなるのを感じ、とっさに前を向いて顔を隠した。余裕ぶった笑いをつくろってみたものの、私自身、彼女に負けないくらいうろたえていた。
いい年してどうしてこの程度で動揺しているのだろう、と思う。でもきっと私は悪くない。悪いのは霊夢だ。私が冷静ではいられないのは、霊夢があまりに魅力的だからなのだ。赤くなった顔を見られたくないし、横たわった彼女の体を見たら余計に意識してしまいそうだから再び振り向くことが出来ない。話題を少し前のものに戻して自らを落ち着けるのが精一杯だった。
「ああ、でも、飾らない部分にも互いに慣れすぎて互いに対する意識が弱くなって、それが原因で仲が悪くなるということもあるかしら。一概には言えないわね」
「まぁ、結局は人それぞれってことになっちゃうか。……じゃあさ、紫」
「うん?」
振り返ることなく先を促す。
「私が今ここで、口をあんぐりと開けて、大きないびきをかきながら昼寝したら、私のこと嫌いになる? ……あ、ちょっと待って。今のナシ」
これじゃまるで好きあっているみたいじゃない、と霊夢が小さくつぶやいたのが聞こえて、また体が火照る。顔はおろか、首の裏まで赤くなっているかもしれなかったから、首を隠してくれる自らの長髪に感謝した。
それでも、それはむしろ素敵だと思った。少女らしさと女らしさ、その二つの絶妙なバランスが他者を惹きつけずにはおかない霊夢が、きっぱりとした物言いはしても無骨さとは無縁な霊夢が、私のそばにいるときだけは安心しきって、体面にもかまわずどこぞの親父かと見まがうような豪快さで眠るのだ。そんな想像をするとやはり恥ずかしくなるが、でもこの体の火照りもなんだか心地よく感じられた。
「私がだらしなくいびきをかいて寝たら、あんたは私の隣にいるのが嫌になって帰っちゃう?」
「どうして? あなたの寝顔を眺めるチャンスじゃない。それにこんな可愛い子がいびきをかくというのならぜひ聞いてみたいわ」
「まったくあんたは変な冗談ばっかり」
霊夢の再度の質問への答えを、彼女は冗談だと言って笑い飛ばす。あながち冗談ばかりでもなかったが、わざと冗談っぽく聞こえるように言ったのだし、ほとんど本気だと言い直す度胸もない。とにかく私は彼女といられさえすれば楽しい。彼女は私の冗談にも笑ってくれる。それだけで充分だった。
そのとき、ふっと風が強く吹いて、外に意識が向けられた。日差しは真夏にしては控えめで、にじみ出た汗を風がさらっていき、ときおりセミの鳴き声が聞こえる。のどかだった。こんな時間がずっと続いたらいいのに。ずっとずっと、続いたらいいのに。そう願わずにはいられなかった。
「ああ、なんか幸せ。というかホントに眠くなってきた。寝てもいい?」
とろんと、甘えるような声で霊夢が呼ぶ。しばらくぶりに振り返って霊夢の顔を見ると、もうほとんど眠っているような表情をしていた。
「ええ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
そう言うと霊夢はすぐに安らかな寝息を立て始めた。
私はじっと彼女の姿を見つめる。思っていたよりも華奢な体つき。穏やかに上下する胸元。格好のいい腰。しなやかな腕。温かくて柔らかそうなその体にふれたいと思ったが、彼女を起こしてはいけないとの思いが先立った。
そして彼女の寝顔に見入る。どちらかというと可愛らしい顔だと思っていたが、その寝顔は可愛いというよりは美しい。普段よりずいぶん大人びて見える霊夢の表情をずっと見つめていると、また胸がどきどきしてくる。だが彼女は寝入っているから、もう顔を背ける必要はなかった。
「どんな夢を見ているの」
霊夢に呼びかける。もちろん返事はない。規則正しい寝息が返ってくるだけだ。幸せそうな彼女の寝顔を見つめているだけで、自分の表情も力が抜けて柔らかくなるのを感じる。ただ、いい夢を見ていますようにと祈った。
私も霊夢の隣に横たわる。霊夢の横顔が近くに見える。安らいだ気分に浸っていると、すぐに眠気が襲ってきた。
「おやすみ、霊夢」
気持ちのいい昼寝ができそうだ。私もいい夢が見られるかもしれない。誰かがそばにいる、そんな安心感を抱きながら私は眠った。
目が覚めたときには夕方になっていた。寝汗が少し気持ち悪かったが、それ以外はずいぶんさわやかな目覚めだった。しかし、今日という幸福がまたひとつ、終わりを告げようとしていることに気づくと一抹の哀愁を禁じえなかった。
霊夢はまだ眠っていた。私が寝る前と変わらず穏やかに眠っていたが、じきに目覚めるだろう。
ぼんやりと見つめていると、やがて霊夢は体をわずかにぴくっと震わせたかと思うと目を開き、伸びをした。
「ふあぁあ。……もう夕方か、結構寝ちゃったなぁ」
「ええ、よく寝てたわ」
「まだいたのね。……もしかしてずっと私の寝顔見てた?」
「可愛かったわ」
「ば……、もう、紫ったら……。でも、あんたも寝てた?」
まだ夢現な声と瞳が愛らしかったが、私の冗談が恥ずかしかったのかすぐにいつもの調子に戻る。そんな彼女の様子がまた微笑ましくて、私は表情がゆるむのを見られる前に体を起こした。
「正解」
私がそう答えると霊夢も体を起こし、私の顔をのぞきこんだ。目が合うと、彼女はじっと私の目を見つめてきた。こちらが照れくさくなるくらいきれいな瞳だったが、今度は目をそらそうという気にはならなかった。霊夢は私を見つめながら、何かを考えるようにときおり小首を傾げていた。
「そっか。じゃあ挨拶しなくっちゃね」
やがてそう言うと彼女はふわりと微笑んだ。夕陽のせいか、いくぶん哀しげに見えたが、それ以上に希望を抱かせてくれるような、そんな明るい笑みだった。だからだろうか。
「おはよう」
それは、明日は今日よりもいい日になる、そんな祈りの言葉のようにも聞こえた。
***
また別の日。やはり霊夢は何もすることがなくて一人縁側でお茶をすすっていて、やはり私も何もすることがないから彼女の元を訪れ、彼女の隣でお茶を飲みながら気だるい夏の午後を過ごしていた。
「……静かでいいわね」
「うん」
「風も気持ちいいし」
「うん」
「お茶も冷たくておいしいし」
「うん」
「こんな夏の過ごし方も悪くないわね」
「うん」
「寒いわね」
「それはないわ」
「あら、勢いで、うん、って言ってくれると思ったのに。意外と考えてしゃべってるのね」
「そんな簡単にはひっかからないわよ」
こうして縁側にたたずんでいるときの霊夢は何も考えずにぼうっとしているように見える。ぼんやりした表情をしていて、お茶をすする仕草さえなければ眠っているのではないかと思うくらいに。
だがそんなときでも、話しかければ彼女はいつもはっきりと受け答えをした。ゆっくりとした口調になることはあっても、寝ぼけたことを言ったり返事がなかったりしたことはなかった。完全に頭を休ませているわけではなく、この静けさの中で彼女には彼女なりに、感じるところ、考えるところがあるのかもしれない。
「でも霊夢、夏の過ごし方と言えば、もっと他にないのかしら。若いのにじっとしてばかりではもったいないと思うわ。子供は夏に成長するって言うじゃない?」
「私は子供じゃないわよ。というか、あんたから見れば永琳とか以外はみんな子供みたいなものなんじゃないの?」
「そうかもしれないけどそういう話じゃなくて。あなたはいささか暇を持てあましているように見えるわ」
「あんたも私に負けないくらい暇にしてるんじゃない?」
「私はいいのよ。あなたほどは若くないんだから」
「やーい、おばさんおばさん」
「あら、ひどいことを言うのね。せめてお姉さんと呼んでよ」
「ふふふ。でも、暇っていいことじゃない。何をしてもいいということでしょう?」
霊夢は他人事みたいに軽く笑って、のらりくらりと言い逃れる。
暇というのは確かに悪いことではない。それは平和なことだ。何もせずのんびりとお茶を飲んで過ごす。これ以上の平和が一体どこにあると言うのだろう。そんな過ごし方が私も嫌いではない。だが、彼女の暮らしぶりには何か引っかかるものがあるような気がしていた。
「……あ、いやいや、突っこまないで。言いたいことはなんとなくわかるから」
私が難しげな顔をしていたからか、霊夢は笑って手をひらひらと振った。
私としては思うところがないわけではなかったが、ただの話題という以上のことは考えていなかったし、これ以上深追いしようというつもりもなかった。
「だって、こうやって過ごすのが好きなんだもの」
だから彼女がこんなことをぽつりと漏らしたのが意外だった。
「こうやってお茶飲んで、ゆっくり過ごすことができるだけで、充分に幸せかなって」
「…………」
その言葉の真意を測りかねて、それがどうしても気になって、私は問いかけた。
「それはその、たとえば、他にどうやって過ごせばいいのかわからない、ということだったりしない?」
「……あんまりいじめないで」
こんなとき、彼女は儚げに笑うのだ。
私は彼女の笑顔が好きだった。だがこういうときの彼女の笑顔は嫌いだった。
それは哀しい笑顔だった。うら若い少女の浮かべる笑みではなかった。何もかもを悟った上で何もかもを諦めたような、そんな弱気な表情だった。傾いてきた陽が彼女の顔を赤く照らし、先日のような明るさを感じ取ることもできなくて、なぜか涙が出そうになった。
「……ごめんなさい」
素直に謝った。軽率な自分を嫌悪した。気配りの足りない質問が彼女を悲しませてしまった。
「ううん、こっちこそごめん。いきなり、いじめないで、だなんて、そりゃないわよね」
そう言った彼女はもういつもの朗らかな笑みを取り戻していた。
「そうだ、あんたも暇ならさ、夕食につきあっていってよ。暇だからあんたの分も作ってあげる」
気まずくなりかけた雰囲気を和らげてくれたのかもしれない。もちろん悪いのは私だった。でも、そんな私を彼女は夕食に招いてくれた。彼女の考えていることがすべてわかるわけではない。それでも彼女は私といることを楽しんでくれているのだろう。
あるいは、誰か、で彼女にとっては充分なのかもしれない。彼女は基本的には明るい性格だし、親しい友人もたくさんいる。そばにいるのが私である必要はないのかもしれない。今日はたまたま特別な用事がなくて、今日はたまたま来客がなくて、それでも今日はたまたま私がいるから、私を誘っただけなのかもしれない。
そこまで考えて、普段より自意識過剰になっている自分にとまどった。今まであまり感じたことのない心の動きだった。私にも、自分の考えていることがすべてわかるわけではないのかもしれなかった。
いずれにせよ、招待を断る理由はなかった。たとえ彼女が誘っているのが私ではなく誰かに過ぎなかったとしても、今はかまわなかった。彼女といるのが嬉しい、それだけで今は充分だと思った。
「ええ、ぜひごちそうになろうかしら」
「うん、そうこなくっちゃ。何がいい? 私、和食しか作れないけど」
「なんでもいいわ。あ、油揚げはいつも飽きるほど食べてるからそれ以外で」
一度家に戻って藍に夕食は不要だと伝えてから(当然のことながら移動は一瞬でできるのでたいした時間はかからない)、台所で料理をする霊夢の姿を眺めた。彼女は手際よく調理を進め、野菜を切る音や鍋に水を注ぐ音が響いていた。
「最近はちゃんと料理しているの?」
「うん。もうあんなのはこりごりだからね」
「あまりぐうたらしていてはダメということね」
「そうね。あんまり怠けてばかりじゃあんたみたいになっちゃう」
「私みたいじゃ嫌なの?」
「嫌よ」
ものぐさな霊夢がちゃんと自炊しているのには訳があった。
元々彼女には自分で料理する習慣があったが、一時期、食事をせんべいなどのおやつですませていたことがあった。おいしいし楽でいいと彼女は言っていた。せんべいくらいならわざわざ食卓で食べる必要もないわけで、昼夜を問わず気が向いたときにぼりぼりと食べていた。誰もが紫みたいになるぞと言った。どこが私みたいになるのかわからなかったが、とりあえず私も私みたいになるぞと言って脅かした。大丈夫、大丈夫、私太らないし、と言って聞かず、彼女はだらだらとせんべいを食べ続けた。
変化はすぐに起きた。霊夢はそのような習慣を始めてから太ったのだ。元々華奢な子だったから少し太ったくらいでも充分に格好のいいと言える体つきだったが、しかし誰もが、ほら見たことか、紫みたいになったじゃないかとはやし立てた。私は面白いとは思ったけれど、ちょっとむっとしたから同調はしなかった。その代わり、一日三食、ちゃんと調理されたものを食べる習慣を再び持つように霊夢を諭した。
太って喜ぶ女の子はあまりいないわけで、さすがの霊夢も肩を落としていた。紫みたい、紫みたいとからかわれていたときだったから、もしかして私みたいだと言われるのが嫌なのかと尋ねた。そのときの彼女は違うと言った。太ったことももちろん悲しいが、それに加えて、だらしない生活をしていても紫は太らないのに自分だけが太るのがなんだか癪に障るのだと言った。私みたいになったのが嫌なのではなく、私みたいになれなかったのが嫌だと思っていると解釈することもできたから、私は安心した。私が普段からぐうたらしていると霊夢にも思われていることが少しだけ引っかかったが、他の人が私と同じ生活をしていればやはり私もものぐさだと言っただろうし、普段なまけていると思われていれば本当になまけたとしてもあまり文句を言われないですむのだからと思い直したのだった。
「ところで私みたいってどんなの?」
「うーん……。何もしなくても何一つ不自由がないってことかしら」
「あら、それなら私以外にもいるじゃない」
「どこに?」
「ほら、そこに」
「え?」
霊夢は一瞬、きょろきょろとあたりを見回したが、すぐに自分のことだと気づいた。
「私はちゃんと巫女っていう仕事があるわよ」
「私だってちゃんと毎日仕事してるわよ?」
「何してるの?」
「夢を見ること」
「寝てるだけじゃない。それ仕事って言わないし」
「えー。でも、あなたも普段はずいぶん楽にしていると思うわ」
「まぁそれは否定しないわ。でもあんたにはない不自由が一つある」
「何かしら?」
「ご飯は自分で用意しなくちゃいけないのよ」
「あ、なるほど。お疲れさま」
料理がもうすぐできるのか、醤油で味付けされた煮物のおいしそうな匂いがただよってきた。
「じゃあ、今更かもしれないけど、何か手伝おうかしら?」
「あら、ものぐさな紫が手伝ってくれるなんて」
「しばらく料理はしてないけど、料理を焦がすことならお手の物よ」
「ダメじゃない、それ。まぁたいした料理じゃないし、もうすぐ終わるから……あ、じゃあ、食器持っていったりご飯よそったりとか頼める?」
「わかったわ」
食卓から立ち上がって台所に向かう。茶碗を二つとしゃもじを見つけ、自分のご飯をよそってから霊夢に尋ねる。
「霊夢はご飯は山盛り食べるんでしょ?」
「そんなに食べないわよ」
「ふふふ。どのくらい? このくらいかしら?」
適当な量をよそってみせる。
「もっと少なめ」
「このくらい?」
「もっと……あ、うん、それくらい」
「うーん、ちょっと少なくないかしら?」
「いいの、いいの。そんなにたくさん食べたらまた太っちゃうし」
その他のおかずも霊夢がよそって私が食卓に運ぶ。もちろんたいした作業ではないが、上手く息を合わせて準備できたような気がする。
献立はご飯に肉じゃが、焼き魚、ほうれん草のおひたし。シンプルでバランスのよい組み合わせだ。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせ、食べ始める。まず肉じゃがに手をつける。温かくて奥行きのある甘みが口一杯に広がる。
魚をひとくち食べてご飯を口にすると、霊夢が私のことをじっと見ているのに気がついた。
「どう?」
「うん、おいしくできてるじゃない」
「その……、藍が作るのと比べても悪くない?」
霊夢は自分は料理に手をつけず、不安げに私に尋ねる。
「ふふふ、大丈夫。藍のにも負けないくらいおいしいわ。味の加減も魚の焼き具合もちょうどいい」
「よかった……」
そう小さくつぶやいて安心した表情になると、やっと彼女は食べ始めた。
「このほどよく醤油の効いた温かい味が、ほっとするわよね」
「あら、あんたもそんなふうに思うんだ」
「そりゃそうよ。長生きしてるからって仙人になるわけじゃないわ。永琳を見てみなさい。私なんかまるでかなわないくらい長く生きてるのに、どう見てもただの怪しい薬剤師じゃない」
「そりゃそうよね。……そりゃそうよね」
小さく二度つぶやくと、霊夢は今度はほっとしたような、何かを考えるような、複雑な表情をした。
長く生きているから大概のことは知っているつもりだったが、生きることに飽きるということはなかった。必要とは言えないさまざまなものを、私は悟ったような顔をして不要だと切り捨てたくはなかった。どれだけ長く生きても、こんな何気ない一日が大好きだったし、そんな生活にもなんらかの意義があると本気で考えていた。
見たこと、聞いたこと、感じたこと、そのすべてを大切にしたかった。霊夢のしおらしい一面が垣間見えたこと、霊夢が私の反応を気づかってくれたことが嬉しかったし、だからこそ、私が別世界の生き物では決してないこと、本当に霊夢のご飯がおいしいと思っていることを彼女にも知ってほしかった。
「でも、やっぱりあなた、食べる量がちょっと少ないと思うわ。せっかく料理が上手いんだからもっと食べればいいのに。また太るのを気にしているの?」
「気にしてなくはないんだけど、私は元々これくらいしか食べないわよ」
「そうなの? ……まぁ体格から考えても、私よりは少なくてもおかしくないわね」
「うん。というか、逆にあんたは別に何も食べなくても生きていけるんでしょ?」
「まぁね。でも、ちゃんと食べた方が心にも体にも健康的じゃない」
「それももっともね。……一日の半分を寝て過ごしてるようなのが健康もクソもないような気がするけどね」
「あら、ひどいわ。でも、これだけちゃんと料理できればいいお嫁さんになれそうじゃない?」
それは何気ない話題のつもりだった。しかし霊夢は一瞬とまどうような表情を見せて。
「いや、いいよ私は」
まただ。またやってしまった。
私は長く生きても自然な生き方をしたいと思う自分がちょっと好きだったが、どれだけ長く生きて、どれだけ強大な力を手に入れようとも、こんなささいなところで詰めの甘い自分が大嫌いだった。
誰かと一緒になった自分の姿を想像して頬を染めたりしたら可愛いと思ったのだが、甘かった。霊夢はわかりやすく見えるが、その実、まるで単純な子ではない。
霊夢はただ寂しげに微笑んだ。心配させまいとして無理に笑っているのがわかって、余計に心配せずにはいられなくなるような、そんな心の痛くなる笑顔だった。そんな表情にさせてしまったことが悔しかった。
「あら、そう? ちょっと残念」
今の私にできることは、これ以上雰囲気を暗くしないように努めることだけだった。
その後は何事もなかったかのように食事をした。霊夢は先ほどのことを引きずっている様子はまるでなかったし、だから私も普段通りに楽しむことができた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま。おいしかったわ」
「うん、お粗末さまでした。……あら、魚、ずいぶんきれいに食べてるじゃない。ものぐさなあんたのことだから、もう少し適当に食べると思っていたのに」
霊夢が、私が残した魚の骨と皮を見て言った。
「食べ物は大切にしなくちゃね」
「あんたがそんな殊勝なことを言っても、なんか胡散臭く聞こえる」
「ひどいわ。……実は前はもっと適当に食べていたの。でもね、そうすると橙が目を輝かせて言うのよ。紫さま、これ食べてもいいですか、って。あの子、魚が大好きだから、骨までしゃぶるようにして食べるのよ。自分としては食べ終わって後は捨てるだけだと思っているものを食べるなんて、行儀悪いというか、あまり橙にそういうことをして欲しくないのね。そんな訳で魚はちゃんと食べるようにしているの」
「そっか」
霊夢は私をものぐさだと言ったが、彼女だって負けていないと思う。しかし、霊夢も魚をきれいに食べていた。
「ねぇ、あなたの魚の骨、しゃぶってもいい?」
「ダメ! 絶対嫌!」
「ふふふ、よかった。しゃぶってもいいって言われたらどうしようかと思った」
霊夢は感情が豊かで、それに応じて表情も豊かだった。怒った顔も可愛かった。
「この後はお酒が出てくるんでしょ?」
「お酒はないわよ」
「あら、亭主が帰ってきてるというのにお酒の一本も出ないのかしら?」
「誰が亭主よ、誰が!」
と言いながらも彼女はすぐに焼酎を取り出し、二人分注いで持ってきてくれた。
「いいの?」
「うん。私も飲みたい気分だし」
「じゃあ遠慮なく」
私たちはしばらく一言も話さずにお酒を味わった。軽く焼ける感覚が喉とお腹に広がり、それからじわりと体が熱くなった。
静かな夜だった。今日という一日が終わりかけているはずなのにそれを感じさせないような、まだ何かいいことが私たちをじっと待っていると予感させるような、そんな気分のよい夜だった。
「一人でも良く飲むの?」
「一人のときはあんまり飲まないわ。元々そんなに飲まないようにしてたけど、この前太ってからはさらに飲まなくなったわね」
「でも宴会のときはいつもずいぶんたくさん飲んでるじゃない」
「宴会のときくらい好きなだけ飲みたいからね」
「いつも思うんだけど、あんなに飲んで酔わないの? 少食だから酔いやすいはずなのに」
「それが……、不思議と酔わないのよね」
「ふぅん……」
一瞬、何かを言うのをためらったように見えた。それがやはり少し寂しかった。もちろん私にはそれ以上問いただすことはできない。それが彼女なりの人づきあいであることはわかっていたし、それ以上に、先ほどのように彼女の心の深い部分を刺激したくなかった。
ただ私は、彼女には何の負担もかけない勝手な、しかし率直な望みを口にした。
「私、あなたの酔ったところ、見たいな」
「それは無理な相談ね」
「酔ったところ、見たいな」
「諦めなさい」
「見たぁいなぁ……」
わざとらしく目を軽く閉じ、誘惑するようなつもりで霊夢の瞳をじっと見つめる。彼女は驚いたように目を開き、私と目を合わせたまま固まってしまった。
どれくらい見つめあったのだろう、霊夢は急に顔を赤く染めたかと思うと目をそらした。
「そ、そんなこと言っても、ダメよ……」
「ふふふ。……霊夢、可愛い」
それは私の本心だった。彼女と一緒にいて、彼女を見ているだけで、甘い気分になれた。見とれているのは私の方だった。
「もう、紫ったら……」
頬を染めたままちらちらとこちらの様子をうかがう彼女が、また愛おしかった。
***
そのようにして日々が過ぎていった。目立った事件もなく平和だったし、異変さえなければ私も霊夢も好きなようにのんびりと過ごしていたから、よく似た暇な者同士としても私たちは気が合った。
彼女と過ごすほどに、彼女の魅力に強く惹かれるのを自覚せずにはいられなかった。それは私としても不思議な気持ちだった。私はいわゆる色恋沙汰とは縁がなかった。縁がなかったというよりも、そういうきっかけを自ら切り捨ててきた。私は自他共に認める特殊な妖怪なのだ。私には私の使命がないわけではなかったし、何より、私は自分でもよくわからないくらい長生きしそうなのだ。本気で誰かを愛してしまったなら、その人が死んだ後、喪失の悲しみと死ぬまで戦い続けなければならない。その後に新たな伴侶を得ることも、そもそも本気では愛さないということも考えられなかった。私を全力で愛してくれる者に対して私だけが全力では応えないことになる、そんなのは不公平だからだ。だから最初から一定以上には誰とも親しくしようとは思わなかったし、深い仲になってしまいそうなときには無理やりにでも距離を置くように努めてきた。そのようにして生きてきたから、他の者たちがどう考えているかは知らないが、自ら疼きを鎮めることはあっても誰かとまぐわうという経験はなかった。
彼女は違った。もっと彼女の顔を見ていたい。もっと彼女の声を聞いていたい。もっと彼女のことを知りたい。もっと彼女のそばにいたい。それは恋と呼ばれる感情なのかもしれなかった。私はとまどいを覚えた。いつものように距離を置いて切り離そうとした。だが、すべてはもう遅かった。もはや抗うことができなかった。二度と彼女と会わないようにする、そう考えただけで身を裂くような切なさに苛まれた。進退窮まったと悩む一方で、運命的なものを感じていた。
だからだろうか、彼女のひどく寂しげな笑顔がどうしても引っかかった。ひどく寂しげ、とは主観的な言い方で、彼女を注意深く見ていなければ普段の笑顔とは見分けがつかないかもしれなかったし、区別できたとしても、単に彼女の笑顔の種類の一つだと言ってすませてしまうかもしれなかった。だが彼女の表情をよく見ていれば、明らかに異なる種類の笑顔であることは明白だった。
彼女と過ごす中で何度かそのような笑顔を見ることがあったし、その時の状況と、彼女の言葉から、私はその原因をおおよそ以下のように推測していた。
すなわち、自らの可能性の否定。
彼女には使命がある。博麗大結界を維持し、幻想郷を管理、守護すること。彼女はおおざっぱな性格に見えて、その実、完璧な巫女だった。
どれほどたくさんのものを放棄してきたのだろう。どれほどたくさんの覚悟を積み上げてきたのだろう。私も若かった頃は幻想郷を守るべく必死だったこともあったが、少なくとも長い命があることはわかっていたし、だから可能性を未来に託すことができた。だが、彼女は違う。彼女は純粋な人間なのだ。どれほど人間離れした力を持っていようとも、普通に生きていては百年もしないうちにこの世を去ってしまう。可能性を託すことができるほどの未来が彼女には約束されていないのだ。
彼女以前にももちろん博麗の者はいた。誰もが充分に役割を果たしたが、霊夢ほど完璧な者はいなかった。幻想郷に影響が出ない範囲で、彼女たちはそれぞれに自らの幸せを求め、手にしていった。幻想郷の守護は必ずしも簡単なことではなかったが、少なくとも、巫女に少し至らない点があるくらいで壊れてしまうほどやわなものではなかった。
それにも関わらず、霊夢は巫女としては実に完璧だった。普段はのんびりと過ごしていても、異変が起きたと知るや否や真っ先に、文字通り飛んで駆けていき、冷静かつ確実に異変の原因を取り除く。彼女は仕事においては常に完璧であろうと強く意識しているようなのだ。
そのような志向が、ただでさえ博麗の巫女として重大な責任を負う立場にある彼女が苦悩を募らせる一因なのではないかと私は考えていた。常に大きな精神的負担を負っているから、普段の生活ではたとえ暇そうにしていたとしても、負担が増えそうなことを避けたいのだろう。そうして自らの可能性を閉ざし、ただ、寂しげに笑うのだ。何もかもわかったような顔をして笑わないで。何度そう言いかけたことだろう。だが、彼女が無理に笑うのは他の者たちを巻きこみたくないからなのだ。それがわかっているから、私には何も言えなかった。
とは言うものの、彼女は自らの可能性を明確に拒絶しているようには見えなかった。嫌だから突き放すのではなく、考えたくても極力考えないようにしてなんとかやりすごしている、あるいは、悩んだ結果、手にするのは無理らしいと見当をつけて諦めているように私には思われた。彼女は若いから、もっといろいろな可能性を手にできるはず。そう考えるからこそ、私は彼女を放っておけないのだろう。
私は霊夢に、使命を果たすだけではなく、もっと人間らしい生を謳歌して欲しいと願っていた。彼女の仕事ぶりは素晴らしいものだったが、むしろ、もっと息を抜くことを知ってもいいと彼女に言ってあげたかった。私は彼女が好きだし、だからこそ、もっと生きることを楽しんで欲しかった。余計なお世話かもしれなかったが、偽らざる本心だった。
そもそも幻想郷は何かを犠牲にして成立するという類のものではない。原理的には人妖共に広く受け入れるという性質が強かった。人妖の対立構造は他方を滅ぼすことを想定しているものではない。もし一方が滅びれば対立構造そのものが消えてなくなり、幻想郷の存在が根底から揺らぐことになるからだ。むしろ、人妖の区別を軸にみんなでやりたい放題騒ぐ、という説明の方が実態に即していると私は考えていた。
そしてその象徴が博麗の巫女、すなわち霊夢だった。人間のみならず、妖怪、幽霊、鬼、魔女、月人、吸血鬼など多様な種族の者たちが、霊夢の主催の下、博麗神社に集い、お酒を飲んでみんなで楽しく過ごす。この宴会が、ただの遊びのように見えて幻想郷の本質を表してもいるのだった。人妖問わず広く受け入れる幻想郷が、誰かの、とりわけその中心である霊夢の犠牲の元に成り立つなどということがあってはならなかった。幻想郷はあなたの幸せをも受け入れることのできる寛容な場所なんだよ、と彼女に教えてあげたかった。
霊夢は太陽みたいな子だと私は感じていた。幻想郷の中心であり、誰もが彼女に惹かれ憧れる。一方で、彼女自身は一定以上には他者を寄せつけない。そんな彼女に私はどうしても近づきたかった。彼女の大いなる光に隠れた闇を照らせるのなら私はイカロスになってもいい、そんな気さえしていた。
だがその前にまず、彼女に対する私の想いを見極めなくてはならなかった。彼女の心を外に開かせることと彼女と深く愛しあう関係になることは、一応は分けて考えるべき問題だった。前者を単体で解決することは可能なはずだし、前者は後者の前提であると思われた。つまり、まずは前者を解決することを考え、それと同時に私自身の気持ちについてよく考えるのだ。本気で彼女を愛そうと決めたなら、それから後者の解決に努めればよい。
結論はすでに出ているように思われた。だが、これは慎重に慎重を重ねて向きあわなければならないことだった。私の一生もさることながら、彼女の一生にも関わることなのだ。彼女と愛しあう仲になることは、種族差ゆえの苦しみを彼女にも負わせることでもあった。愛する者と添い遂げることのできない辛さを彼女に味わわせ、彼女の死後、私も死ぬまで悲しみを背負うことがわかっていてなお彼女を愛する覚悟があるのか、命を賭けて彼女を愛すると自身に誓えるのか、これはそういう問題なのだ。
だから今答えを出すことはできない。彼女のことを想うだけで温かい気持ちで一杯になる、これだけが今確かなことだった。この気持ちを大切に、まずは一歩を踏み出そうと私は思った。
***
今日は飲むわよー! と霊夢は昼間からはりきっていた。ひさしぶりに宴会を催す気になったようだ。
宴会は一週間から半月に一回程度、彼女の気が向いたとき、つまりお酒が飲みたくなって、かつ膨大な準備を進んでできるくらいに機嫌がいいときに開かれる。気まぐれな宴会だったが、不思議と仲間たちの出席率はよかった。後片付けは妖夢や咲夜がたまに手伝うこともあったが、準備は霊夢がいつもほぼ一人でこなしていた。
ふと、準備を手伝おうかという気が起きた。そんなことを考える自分に少しだけ驚いたが、しかし、申し出はしなかった。藍に手伝わせようかとも思ったが、それも違うと思った。いきなり私が雑用を申し出ると怪しまれるような気がしたし(私だって彼女の立場ならそう思うだろう)、霊夢は大変だ、大変だとぼやく割には存外楽しそうに準備しているから彼女に任せておけばいいと思った。
代わりにというか、萃香への伝言を頼まれることにした。宴会の招集は、霊夢が直接あるいは私を通して萃香に頼み、萃香が気を萃めることでするのが常だった。萃香に伝えると、今日は飲むよー! とはりきっていたが、すでに、というかいつも通り酔っ払っていた。それから私は家に帰り、考え事をしているうちに眠っていた。
「……さま、紫さま……」
「ん……」
何者かに体を揺すられ、目が覚める。
目をこすりながら起き上がってみると見慣れた顔がそこにあった。
「藍……?」
「はい。もう宴会が始まっていますが、紫さまはご出席なさらないのですか?」
私は藍の言葉から、いささか寝すぎてしまったことに気がつく。
「いいえ、行くわ。ありがとう」
「いえ、起こすのが遅れてしまって申し訳ありません。まさか家に戻っていらっしゃったとは気がつかなくて……」
「そういえば一言も言わなかったわ。玄関を通らずに寝室に戻れるのも考えものね」
「せめて家の中でくらい、紫さまがお帰りになるのを察知できるようになればよいのですが。まだまだ修行が足りませんね」
「あなたの得意分野ではないし、無理をしなくていいわ。……それより、藍」
「はい、なんでしょう」
少しばつの悪そうな顔をしていた藍だったが、呼びかけるとすぐに表情を締め、忠実な視線を私に向けた。
「近いうちにあなたに、……頼みごとができるかもしれない」
「そのように畏まらずとも、なんなりとおっしゃってください」
私の神妙な態度に気づいたのか、藍は気づかうように表情をゆるめて私の言葉を促す。
私はある計画を思案中だった。そう安々と実行できるものではなく、短期的には幻想郷に抽象的な危険をもたらすものですらあった。しかし長期的には、幻想郷にとってもむしろ利益になるものだと私は信じている。その短期的な危険を最小限に抑えるために、藍の協力が不可欠だと考えていた。
「今は話せないけれど重大な、あなたにしか頼めないことだから……。その時が来たら、頼まれてくれるわね?」
「はい、お任せください」
藍は従順な、しかし勝気な笑みを浮かべて答えた。余計な心配をしないで、そう藍は言ってくれているような気がして、私は勇気づけられる思いがするのだった。
遅れて神社に行くと、妖夢を伴った幽々子が霊夢に絡んでいた。
「霊夢、最近、どうなのよ?」
「まぁ普通に元気に暇してるわ」
「そうじゃないわ。紫とのことよ。紫と上手くやってるの?」
「なんで、どうなのとだけ訊かれて紫とのことを話さなきゃいけないのよ。まぁ紫とも楽しくやってるわよ」
「ふぅん。……ねぇねぇねぇ、紫とどこまでしたの? 手繋いだ? チューした? それとも……、きゃーー!」
「何を想像してるのよ、まったく! なんで紫とそんな仲ってことになっちゃってるのよ」
「えー、違うの? 紫、この前言ってたわよ。私、実は霊夢のこと、好きなのって」
「あれ、そんなことおっしゃってましたっけ?」
「そのとき妖夢も酔っ払ってたから、きっと覚えてないだけよ」
「うーん、じゃあそうかもしれません」
「でも話の流れから察するに、まるっきりの嘘ね」
「本当よ。この前ウチに遊びに来た時にね、たくさんお酒飲ませてね、べろんべろんに酔わせたの。こう、赤い顔してね、うっとりした目をしてね、言うのよ」
「具体的な状況を説明してくれても信じないわよ」
「もう、本当なのに。その後にね、言ってたわ。霊夢と、エッチしたいって!」
「わ……幽々子さま……」
「ちょっと……! もう、余計にあんたが胡散臭くなったわよ!」
「だけど当然エッチする前にはキスとかするわけよね。紫、あなたのぷっくりと赤い、可愛いけど情熱的な唇を見るたびにどきどきするんだってさ」
「…………ホントに紫、そんなこと言ってたの?」
「幽々子にはそのようなことは何も言っていないわ」
私がいない間に妙な噂話をしていたようだ。幽々子の虚言を霊夢は少し信じかけていたように見えて、これ以上遅刻しなくてよかったと胸を撫で下ろしながら三人の近くに座った。
「あ、紫……」
幽々子の話に動揺していたのか、霊夢は遠目から見てわずかに強張った面持ちだったが、私に気がつくと安心した表情を浮かべた。
「あ、紫さま」
妖夢も私に気がつくと妙にほっとした顔をした。いくら幽々子が冗談を言う性格だとはいえ、主の言葉よりも私の言葉を信じなくてはならない妖夢に少しだけ同情する。
「あ、本人来ちゃった。残念。でも、私には、ってことは、誰か他の人には言ったんでしょ?」
しかし、私が来ても幽々子の冗談は衰えるところを知らない。
「他の誰にもそんなこと言わないわ」
幽々子の冗談は普段からひどく(他人のことを言えないかもしれないが)、酒に酔うといつも悪化した。しかもさらに質が悪いことに、幽々子は白い肌をしているくせに酔っても顔色がまったく変わらない。だから宴会の席で冗談を言っても酔っているのか酔っていないのかわからなかった。これを悪用することを幽々子は学んだらしく、宴会の席ではいつも酔う前から酔ったふりして全開だった。いずれにせよ、笑顔だけはすごく柔らかくて感じのよいものだったから、憎もうにも憎めなかった。軽い冗談なら楽しく聞き流せばよかったが、悪質なものは徹底的に潰さなくてはならなかった。
「私の霊夢に手を出さないで」
…………。
「…………」
「…………」
「…………」
………………あ、まずっ。なんてこと言ってるのよ!
恥ずかしすぎて顔どころか全身が火照る。穴に入りたいどころか泣きたい気分だった。
霊夢は驚いたように目を見開いて、真っ赤になって固まっている。妖夢は困った顔をして、場を収めようと口を開きかけるも何を言えばいいかわからないようでおろおろしている。幽々子も、何がどうなっているの、とでも言いたげな、きょとんとした表情だ。何がどうなっているのって私が訊きたいわよ。
「こ、言葉のあやよ、言葉のあや! 霊夢にでたらめ吹きこまないでってことよ!」
私はごまかすように勢いよくお酒を飲んだ。ちょっとヤケぎみだった。
間の悪い沈黙が続いたが、幽々子はすぐに笑顔に戻る。噂好きのおばちゃんよろしく、わざとらしく右手を、手の平を左に向けたまま左頬に寄せて、右隣の妖夢に言った。
「奥さん、紫さんはどうやら本気のようですよ」
「わわ、私に話を振らないでください。きっと紫さまには紫さまのお考えが……」
妖夢はさらに困った顔になった。私を気づかってくれたのだろうが、それはあまりフォローになっていない。
幽々子は同じようにして左隣の霊夢にも言った。
「奥さん、今の告白に対してどのようにお返事します?」
「こ、告白!?」
霊夢の視線が泳ぐ。
「いや、ただの言い間違いでしょ。あんたがいやらしい話をするから紫も動揺しちゃったんじゃないの」
霊夢が正論を言ってくれたが、しかし幽々子は涼しげな顔だ。
幽々子はわざとらしく真剣な顔つきになると今度は私に向かって言った。
「紫、ただの言い間違いで流されちゃったわよ。どうするの」
「ちょっと幽々子……」
「ちょっと幽々子……」
……あ。ハモってしまった。
「ふふふあはははは、もうダメ、二人とも面白すぎる……!」
幽々子は涙さえ浮かべながらお腹を抱えて笑い出す。幽々子が、私はともかく霊夢までからかっているのかと思うと、憎めないとは言ったが、ちょっとだけ憎みたくなってきた。
「幽々子にはちょっとおしおきが必要かしら?」
そう言って私は幽々子を見つめる。恥ずかしいやらなんやらで事実、私は混乱していたが、それでも目を軽く細めて幽々子に微笑んでみせた。
「あら……、激しくしてもいいのよ?」
その程度で怖気づく幽々子だとは私も思っていない。誘うような目つきで見つめ返してきた。
「ふぅん……」
自分の口元が自然と吊り上がるのがわかる。
先に表情を崩すか目をそらした方が負けだとなんとなく思った。絶対に負けられなかった。
しばらく視線の応酬が続いたが、先に破顔したのは幽々子の方だった。
「待って待って、降参。助けて、妖夢、紫が怖いよう」
「知りません! 悪いのは幽々子さまですよ」
幽々子が妖夢に抱きつく。妖夢はおとなしく抱かれはするものの、自らの主にあきれたのかそっぽを向いた。
「はぁ……」
なんかどっと疲れた。
幽々子が静かになったところで霊夢と顔が合った。彼女はまだほんのり赤く頬を染めていた。私も顔がまだ熱くなっているのを感じていたから、きっと似たようなものだろう。
「まぁ私はあんまり気にしてないからさ、あんたも気負わなくて大丈夫よ」
そう言って霊夢はふわりと微笑んだ。思わず私は見とれてしまう。幽々子の言うようなことをしたいなどと大それたことを考えているわけではなかったが、大筋では幽々子の言葉を認めざるを得なかった。
恥じらいを隠せず、でもどこか喜んでいるようにさえ霊夢は見えた。その言葉の意味は、そもそも私に興味がないということではなく、幽々子にあのように言われても嫌ではないということなのだろうと、ずいぶん都合のいい解釈だと思いながらも私にはそう感じられた。
しばらく談笑した後、霊夢は魔理沙に呼ばれて席を立った。少々話し疲れたこともあって私は黙ってお酒を飲んだ。その間、幽々子は妖夢に無理やりお酒を飲ませる遊びに興じていた。妖夢は幽々子に頼まれると断りづらいらしかったが、一つも嫌そうな顔をせず楽しそうにお酒を飲み続けた。
私はぼんやりと、魔理沙やアリスと話す霊夢の後ろ姿を眺めていた。一度、彼女が振り返って目が合った。途端に、なぜか悪いことをしてしまったような気分になって私は目をそらしてしまった。
しかし私はちらちらと彼女の様子をうかがい続けた。他に見るものがないからだと自分に言い訳した。妖夢はお酒が回って眠くなったのか、椅子を寄せて幽々子にしなだれかかった。幽々子は愛おしそうに微笑むと両腕で妖夢を抱きしめた。そのまま妖夢は安らかな寝息を立て始めた。
霊夢の様子を盗み見ていると、魔理沙が私に気がついた。魔理沙はにかっと笑った。それがどういう意味を持つのかはわからなかったが、もう霊夢をこっそり見るのはやめておこうと思った。
「霊夢のことが気になるのね?」
ふいに幽々子が尋ねてきた。
「……否定はしないわ」
「でも、まだ決心がつかない。そうでしょう?」
「……ええ」
幽々子はどこか遠くを見つめるような表情をしていたが、やがて私の方を向いた。
「……どうしようか迷うようになったら、たぶんもう手遅れよ。想いを打ち明けないままには終われない」
「…………」
「言葉にしないことには伝わらないわ」
「でも私たちには……」
「でももしかしもない、……と言うのは無責任に過ぎるわね。あなたたちには幻想郷の根底に関わる大事な使命がある。種族の差も私たちのよりうんと大きい。ひとつ屋根の下で気楽にやっていける私たちとはわけが違う」
幽々子は妖夢の頭を撫でた。妖夢は安心しきっているのか、くぐもった声を漏らすだけで目を覚ましそうにない。
「でも結局、二人の想いがどれほど強いのか、それだけだと私は思うの。障害があるほど燃えるなんて他人事みたいなことは言わないけれど、でも障害があるのならそれを超えるくらい強く愛すればいい。その障害と、想いの強さとの勝負なのよ」
「…………」
「もちろん意志の強さだけでは超えられない障害だって中にはあるわ。たとえばどうしようもなく貧しいとか、どうしようもなく体が弱いとか、要するに二人が協力しても普通に生きることすら辛いような場合とかね。この世の中にはそんな悲しい物語だってある。でも」
幽々子は私の目を見て言った。
「あなたたちに不可能はない。私はそう思ってるわ」
「幽々子……」
「……なーんてね、大先輩に偉そうなこと言っちゃったわ。お酒を飲むとダメね、適当なことばかり言って」
幽々子は真剣な眼差しだったが、すぐに表情を和らげた。そこにあるのはからかうような態度ではなく、他意のない親友の気づかいであり、そして彼女の強さと優しさだった。
幽々子は、今腕に抱いている妖夢と、数多の試練を経て結びあった。気楽だなどと幽々子は言ったが、彼女たちには彼女たちの苦悩があった。いつも軽い雰囲気の幽々子が思い悩んでいたのを私は知っている。だが彼女たちは想いの強さを信じることができた。
そして信じることが彼女たちを強くし、優しくした。二人は以前よりも息が合っているように見えたし、微笑ましくなるくらい、ときに見ていて恥ずかしくなるくらいに仲睦まじかった。いつも活き活きとしていたし、笑顔が増えたようにも思う。愛は盲目という表現があるが、二人を見ていると、愛は冷静な判断力を失わせるという意味ではなく、愛は余計なことを考えずにいられる強さをくれるという意味であるように思われるのだった。
「ううん……、これについては幽々子の方が先輩だから」
「どうやらそうみたいなのよねぇ。紫ったら百戦錬磨だとずっと思ってたのに、意外とウブなんだもの。びっくりしちゃった」
「悪かったわね」
「ううん、むしろいいくらいよ。可愛いじゃない。……わお、私が紫に可愛いなんて言う日が来るなんて」
「あまり誉められてる気がしないわ」
「誉めてるのよ、もうベタ誉め。……恋のキューピットってあるじゃない? 私そういうのやってみたいのよね。自分のおかげで誰かが幸せになってくれたらさ、嬉しいじゃない。それに紫だって私の相談に乗ってくれたでしょ。……感謝してるのよ」
「そう言えばそんなこともあったかしら」
「だから、今度は私の番かなって」
幽々子は静かに言った。私の行く先を案じてくれる親友がいること、それがこんなにも気立てのよい少女であることに私は感謝した。
「そうだったの。……ありがとう」
「で、二人がくっついた後は、今頃やってるのかな、って想像してニヤニヤするの!」
と思ったが、やはり幽々子は幽々子だった。
「もう、礼を言って損したわ。大体、そんなこと言って霊夢にないことないこと吹きこまれても困るわよ。少し見ないうちに意地が悪くなった?」
「そんなことないわよ。というか紫も想像してるんでしょ?」
「何を?」
「私たちが……」
「してないわよ!」
「想像しても、いいのよ?」
「しろと言われてもしないわ!」
「霊夢にフラれたら、私たち、いつでも待ってるからね」
「それも嫌よ」
「ごめん、それは私も遠慮しておくわ。妖夢に怒られちゃう」
幽々子はいたずらっぽい笑みを浮かべていたが、柔和な調子に戻って妖夢の頭をまた撫でた。
「でも今日は、ひさびさに紫をからかえて楽しかったな。いっつもやられちゃうんだもん。たまにはやり返さないとつりあいが取れないわ」
「確かに今日はしてやられたわね」
ずいぶんなからかわれようだったが、しかしむしろ晴れやかな気分だった。思い悩んでいた私を幽々子が笑わせたり怒らせたりしてくれたことで、幽々子がおとなしくなってから、自分の気分が軽くなっているのを実感した。ここまで来て、今日の幽々子の態度のすべてが彼女なりの励ましだったことに気がついた。
「紫も恋の前にはただの女の子なんだから、あまり気張りすぎちゃダメよ」
そう言って幽々子は微笑んだ。
気持ちを察してくれるよき友人にまた礼を述べようかと思ったが、やめておいた。
私たちはこの先どうなるのかわからないのだ。幽々子が冗談で言ったように霊夢にフラれるかもしれない。そもそも想いを告げることすらできないかもしれない。
そんな否定的な可能性を前にしても、しかし私はなんとかなりそうな気がした。幽々子がそう思わせてくれた。私は霊夢と向きあえる、そんな勇気が今は満ちている。だから幽々子にはその後、すべてが終わってから報告しようと思った。
***
「あんたたちはよろしくやってるの?」
私は魔理沙とアリスに声をかける。
「ああ、よろしくヤってるぜ」
「ちょっと、魔理沙……」
ニヤニヤしながら質の悪い冗談を飛ばす魔理沙と、そんな魔理沙に振り回されて焦るアリスの様子を見て、いつも通りの二人だなと安心した。
「霊夢はあいつとはよろしくヤってるのか?」
「あいつって誰よ」
「お、言わなきゃわからないのか?」
「紫のことでしょ。まったく、あんたも幽々子も。あんたの言う意味ではやってないわ」
と言いながら、なんとなく背後を振り返る。
あ。紫と目が合う。
でもすぐに目をそらされてしまう。何よ、そらさなくたっていいじゃない。そう思いかけたけれど、こんなところから見つめあっている方がおかしいと思い直した。
「ははぁ、これは重症だな」
魔理沙はしたり顔になると妙に楽しそうに言った。
「以前のお前だったら、特別によろしくやるような人なんかいないって即答だったろうに」
「何が言いたいのよ」
「お前、恋をしているな?」
恋をしているな、と訊かれて、そんなことはないとすぐには答えられない自分がいた。
私は誰に対しても同じように接してきた。もちろんつきあいの長短などから来る違いはあったし、たとえば魔理沙には魔理沙に対するつきあい方が、紫には紫に対するつきあい方があったけれど、誰かを特別だと思ったこともなければ、誰かに対して特別な感情を抱いたこともなかった。誰もが愉快な仲間。良くも悪くも、それ以上でもそれ以下でもなかった。そのはずだった。
しかし、ここしばらくの間、私は紫に対して他の誰かとは違う何かを抱きつつあるのを自覚しないわけにはいかなかった。違和感というか、何かむずがゆいような気持ちなのだ。私自身、何と呼べばいいのかわからなかったけれど、否定的な感情ではないということだけはすぐにわかった。同時に、紫の私に対する眼差しがわずかに柔らかくなったような気がしだした。それは単なる思い違いかもしれなかったし、事実だったとしても、私のこの感情が先なのか、紫の眼差しの変化が先なのかはわからなかった。
「し、知らないわよ……」
「知らない、と来たか。恋をするとな、今まで知らない感情が生まれてな、自分でも自分がわからなくなるんだ。どうすりゃいいのかわからない」
「…………」
「だからいつもすましてるアリスも真っ赤になって取り乱す」
「待って、魔理沙」
「アリスったら可愛くて、うわ、ほごもご……」
アリスが魔理沙に思いっきり抱きついて口を手で押さえた。黙らせるのに必要な以上にぴったりくっついているように見えて、やっぱり二人は仲がいいんだな、とぼんやり思った。
「まぁ恋をするのは悪いことじゃない。命短かくても長くても恋せよ乙女と言うじゃないか。なんなら、この恋色の魔法使いたる魔理沙さまが導いてやってもいいぜ?」
「あんたの導きはなんかダメそうな気がする」
「そんなことはないぜ。何事も練習だ。お前の大嫌いな練習だ」
「一言余計よ」
「ははは。というわけだから、とりあえずは私に恋をしてみるんだ。ああ、恋をするだけだぞ、告白はしちゃダメだ。二人同時には愛せない」
「魔理沙」
「私がダメなら、こっちの可愛いのを貸してもいいぜ。でもおさわりはなしだ」
「魔理沙!」
アリスがあきれたように魔理沙を見つめる。魔理沙はその視線をなんでもないことのように受け止めていた。
アリスは不信感を抱いているようにはまったく見えなかった。いつものことなのだ。魔理沙がどんなに節操のないことを言っても、それがすべて軽い冗談に過ぎないことがアリスにはわかりきっているのだ。二人のそんな視線のやり取りは、彼女たちの一種の愛情表現ですらあるのだろう。
「結局、のろけ?」
「なんだよのろけかよ、ってジト目で相手を眺めたくなるのはな、羨ましいからなんだぞ」
「羨ましくなんかない!」
思わず、叫んでしまった。
私は恋愛沙汰には興味がない。ずっとそう思いこもうとしてきた。
私は博麗の巫女。幻想郷の結界の管理人にして、人妖のバランスを調停する者。人妖問わず誰に対しても等しく接して、もって幻想郷の守護に資する使命があった。
私は幻想郷が大好きだった。もちろん仕事はあるが、勝手気ままに遊んで過ごすことができたし、呼べば集まってくれる仲間たちがいる。幻想郷を守ることは使命であり、私自身の望みでもあった。そしてこの巫女という立場は、人妖平等に接することを要求した。誰とも深い仲になってはいけないという規律が明確にあるわけではなかったけれど、私はこの幻想郷を維持するためには特定の者とだけ深くつきあうことは望ましくないと考えていたし、そんな余裕もないと思っていた。仲間たちに囲まれるこの暮らしが充分に幸せなものだと思っていた。
私は恋愛沙汰には興味がない。ずっとそう思いこもうとしてきた。けれど、そんなはずはなかった。年相応の少女なりに(と自分で言うのも変な話だけれど)、恋というものになんとなく憧れていた。深くわかりあえて、身を寄せることができ、あるいは守ってあげられる。誰かとそんな温かい関係、ちょうど目の前の二人のような関係になれる日々を夢見ないわけではなかった。
それでも私は恋愛を諦めた。叶わない夢だと割り切り、あまり考えないようにして感情的な部分から切り離した。それでなんとか使命を果たし、私も自分自身でいられるはずだった。
「羨ましくなんか……ないもの」
それなのに、ダメだった。割り切れてなかった。ちょっと刺激を受けただけで、私の心はこんなにも弱くなってしまう。私自身、羨ましいと言っているようにしか聞こえなくて、ただ情けなかった。
「魔理沙。ちょっとやりすぎよ」
アリスは黙っていられなくなったのか、眉をひそめて魔理沙にささやく。
「待った待った、本気にしないでくれ、霊夢。悪気はなかった。たぶん。……悪いのは私だよな?」
「一方的にあんたが悪い」
アリスはそう言うが、しかし謝らなくてはいけないのは私の方だった。
「ごめん。私も悪かった。……何やってるんだろ、私」
「お前は気にするな。まぁ、なんていうか……、気持ちの整理がつかないうちは自分でも何するかわからないし、自分で自分がわからないなら、まぁ言わなくてもわかるだろうが、自分で自分のこと見つめてみるしかない」
「…………」
「恋のあり方なんか人それぞれなんだから、他人から言えることってあまりないんだな。お前だって私にあれこれ説教されたら嫌だろ?」
「いや、別に私は……」
「いやいや、無理しなくていい。私だったら嫌だな。なんでこんな白黒に説教されなくちゃいけないんだ」
そこまで言って、魔理沙は突然満面の笑みを浮かべた。私やアリスの方を向いているのではなく、私の背後、紫たちがいるあたりを見ているようだった。私も背後を振り返ってみた。しかし、誰も私たちの方を向いてはいなかった。
「何かあったの?」
「安心しろ、紫はお前のことが気になって気になって仕方がないらしい」
「え?」
「さっきからずっとちらちらとこっちの方、というかお前の方を見ていたぜ」
「紫……?」
さっき目が合った後も私の方を見ていたのには気づかなかったけれど、魔理沙にそう言われて胸が少しどきどきするのを感じた。こんなふうにどきどきすることは何度かあったけれど、原因はすべて紫に関係のあるものだった。それを恋と呼ぶ自信はまだ持てなかったけれど、しかし、誰かに対してだけ胸が高鳴る、こんな気持ち以上に恋と呼べそうな感情を私は知らなかった。きっとこれは、私が切り捨てようとしてきたものだと思った。でも、なんだか熱いようなこの気持ちを、私は冷静に突き放すことができる気がしなかった。
やがて魔理沙は立ち上がって言った。
「さて、ちょっと一騒ぎしてこようかな。アリス、後は任せた。こいつに愛の手ほどきをしてやってくれ」
「え、手ほどきって……? さっきあんた説教するようなことじゃないって言ってたじゃない」
「もっと具体的な、女の子の愛し方だ。あっちをああさわってこっちをこう……」
「もう、さっさとあっちに行きなさい!」
「わかったわかった」
アリスは魔理沙を追い払うように手を振る。魔理沙は得意げに笑ったかと思うと私の方を向いた。
「霊夢」
「何?」
「アリスを取っちゃダメだぜ」
「取りゃしないわよ!」
にぎやかな魔理沙が去って、私はアリスと二人きりになった。
「あんたもなんか話してよ。魔理沙とのこと」
アリスは多人数の中にいるときは口数が少なく、特に魔理沙がそばにいると、なんだか恥ずかしくなるのか、それとも魔理沙が恥ずかしいことばかり言うからなのか、さらに口数が少なくなった。
けれど、それは単にアリスがしゃべりたくないからなのではなく、考えてから物事を言う傾向が彼女は強いからだと私は思っていた。多人数の速い会話の流れに乗るのが苦手なだけでいつも楽しそうに話を聞いていたし、二人きりになると思ったよりたくさん話をしてくれた。
「うーん、あまり他人の恋愛話を聞きたくないんじゃないの?」
「いや、魔理沙が変なふうに言うからはりあっちゃうだけよ。私だって、その……、そういうのに、まったく興味がないわけじゃないし」
恋愛に興味があるともないとも誰かに話したことはなかったが、自分では体験できないと思っていた分、他の人の恋の話を聞いてみたいとはなんとなく思っていた。でも、もしかしたら、紫との関係を考える参考にしようとこのとき思っていたのかもしれない。
「いいわ、じゃあ話してあげる。でも、のろけ話になっちゃうかもよ?」
「いいのいいの。恋の話なんて大体がのろけ話か失敗談かのどちらかなんじゃないの?」
「違いないわね。……魔理沙ってね、本当はすごく優しいのよ。……ってこれはつきあいの長いあんたならなんとなくわかるかしら?」
「まぁね」
それは確かに私も知っていることだった。
魔理沙は日頃から質の悪い冗談を飛ばしまくったし、少しくらい聞いている方が嫌な顔をしてもおかまいなしだった。しかし本当に嫌だと思いそうになると、魔理沙は妙に鋭くそのことを察して冗談を言い止めたり、あるいはさっきのように素直にわびた。だから私たちはどんなに魔理沙の口が悪くても、安心して彼女とのつきあいを楽しむことができた。そして魔理沙がこの場を去ったのも、私が口数の少なくなりがちなアリスと話しやすくなるようにと、彼女なりに私を気づかってくれたからかもしれないという気がしていた。
「じゃあ……」
まだそれしか言わないうちに、アリスの顔が少し赤くなった。
「これはあんただけに特別に言うんだから。誰にも言っちゃダメだし、私が話したって魔理沙に言ってもダメよ」
「うん、わかった」
「その、ね……、魔理沙って本当はすごく……可愛いのよ」
「可愛い?」
「愛は盲目だなんて言いたいかもしれないけど! ……でもやっぱり、可愛いの」
「大丈夫、そんな突っこみ入れないから」
アリスは恥ずかしいのか話しづらそうにしていたけれど、それでも話そうと思ってくれているのがわかった。そんなアリスの邪魔をしたくなくて、私は先を促すように笑いかける。
「うん。……その、アレをするときなんだけどね、魔理沙はおとなしく、というかしおらしくなっちゃうの」
「……うん」
アリスが顔を赤くしてアレとか言った瞬間に、思わず、聞いているこっちも恥ずかしいと突っこみかけてしまったが、ぐっとこらえる。恥ずかしいのは当然だし、アリスはもっと恥ずかしく思っているのだから。
「普段の魔理沙を見てるとさ、アレのときでも妙に気楽な雰囲気で、その、いろいろやってくれるのかな、なんて思ってたの」
「うん」
「私はそういう経験なくてさ、いざってときになって初めて魔理沙に訊いたの。どうすればいいかなって。魔理沙のことだから、さもわかったような顔をして何か言ってくれるような気がしてたんだけど……」
こういうときはこうするんだぜ、と言う魔理沙の顔は確かに想像しやすかった。
「あの子、ちょっと困った顔をして、わかんないって言ったのよ。もう、そのときの魔理沙が可愛くて可愛くて。思わず抱きついちゃった」
「…………」
そこまで聞いて、アリスと魔理沙が裸で向きあって、あの魔理沙が自信なさげに、わかんない、と小さく漏らして、そんな魔理沙をアリスがぎゅっと抱きしめるところを想像してしまった。顔が急激に火照るのを感じて、必死に想像を振り払う。
「普通に考えてさ、あの子にそういう経験が豊富にあるわけないじゃない。だから当然と言えば当然だったのかもしれないけど」
「まぁ魔理沙が経験豊富ってのは確かに考えにくいわね」
「ええ。でも、何度かそういうことをしているうちに、少しずつ要領がわかってくるじゃない。それでも、あの子、いつもそんなふうにおとなしくなるの。そりゃ、おちゃらけた雰囲気でするようなものでもないけど、いつも軽い態度の魔理沙がおとなしくなるのが何度見ても可愛くて。そういう顔を見せてくれるのが嬉しいなっていうお話よ」
「ふーん、なるほどね……」
アリスはずっと顔をほんのり赤く染めていたが、晴れやかな笑顔を浮かべていた。すごく幸せそうだった。そんな彼女を見て、恋する乙女とはこういうものかと妙に納得した。
「で、その先は?」
「この話はここまでよ。いくらあんたでもこれ以上は無理」
「ふふふ、そりゃそうよね。しかし、あんたをここまでにするなんて、魔理沙もやるわね。あんた、もう少しすましてるイメージがあったんだけど」
「そうかしら? ……そうよね、私もこんなに夢中になるなんて思ってなかった」
アリスはそう言うと目を閉じた。これまでの日々を思い返しているのだろうか。
「でも恋ってさ、割とささいなもんなのよ、きっと。ささいなことでその子が気になって、ささいなことで喜んだり悲しんだり。そんなささいなことだから、誰にでもその可能性があって、それが私の場合はたまたま魔理沙だっただけだと思う。だからさ」
アリスは私の方を向くと微笑んで言った。
「あんたも紫が気になるんならさ、それは立派な恋よ。あんたも他人には話せない思い出いっぱい作りなさいよ」
そんなアリスの言葉がありがたかった。だが、彼女の笑顔に報いることができる自信がなかった。
確かに紫のことが気になってはいた。どうやら紫も私のことが気になっているらしかった。でも、この恋のような気持ちは結局は何事もなかったかのように終わるのだろう。たとえどんなに私がこの気持ちに動揺させられたとしても、結局私とは無縁のものなのだ。紫も、もし私のことが本気で好きになったとしても、何の考えもなしに踏みこんでくることはないだろう。だから、ただの気の迷いだと思いこもうとした。それですべては丸く収まる。
……だから、この胸の痛みも、ただの気の迷いなのだ。
***
縁側でお茶を飲んでまったりする日々が戻ってきた。
ここからは幻想郷を広く見渡すことができた。私はこの風景を見るのが好きだった。どれだけ見ても飽きなかった。見る、という言い方は正確ではないのかもしれない。どこに何があるということを意識せず、ただぼんやりと眺めているだけだったからだ。いつも通りの風景を眺めて、いつも通りぼぉーっとしていた。
人の顔が目に入った。やはり見慣れた顔だった。その顔は、どうしたの、とでも言うように小さく首を傾げた。しばらくその顔を眺め続けた。その顔も、何も言わずにただ私の方を見続けていた。やがて、その顔が微笑んだ。なんだか嬉しそうな笑顔だった。やはりどれだけ見ても飽きない顔だった。それどころかずっと眺めていたいような気さえした。
「私のことが好きになったの?」
紫の言葉にはっとする。私はいつのまにか少し首をひねってずっと紫の方を向いていたことに気がついた。同時に、ずっと眺めていたいと感じたことを思い出して恥ずかしくなった。
「誰があんたなんか」
憎まれ口を叩きながら、私は正面に向き直る。
「そう? 残念だわ」
「私は別に残念じゃないわ」
また憎まれ口が出る。
「うーん……」
紫は小さくうなって何かを考え出した。
そんな紫の隣で、私はまずいことを言ったのかなと思った。残念じゃないと私が言って、紫が、そうよね、残念なんかじゃないわね、とでも答えたらどうしようかと考えた。こんなふうに気を揉まなくてはならないのがなんとなく癪だったけれど、気にしだすと妙な不安が募った。
「ゆ・か・り・ん、とぉーっても、ざんねんだなぁ~♪」
その心配は全くの無用だった。私は内心、大きな溜息をついた。
「あんたがそんなふうに言っても可愛くないわよ」
「そう? やっぱり可愛い路線は無理かしらね」
「うん、あんたには無理。諦めなさい」
とは言ったが、少しだけ可愛かった。紫の声質を意識するのはおそらく初めてのことだったけれど、紫はきれいな声をしていたから高い声を出せばそれなりに可愛く聞こえた。こんなことを考えさせる紫が、やはりなんとなく小憎らしかった。紫に対してたとえ美人だと言うことがあったとしても、可愛いとだけは絶対に言うまいと誓った。
「というか、あっついわねぇ」
先ほどぼんやりしていたときにはなんとも思わなかったが、頭がはっきりしだすと急に暑いと感じだした。今日は風も弱く、汗で服が体にくっついて気持ち悪い。服をつまんでぱたぱたとあおぐ。
「あら、霊夢」
紫がまた微笑む。なんだか今度は邪な考えを持っていそうに見える。
「……何よ」
「霊夢、肩の部分から……」
「見ないでよ!」
とっさにあおぐのをやめる。思ったとおり、いやらしいことを考えていた。大方、服の下の肌が見えているとでも言いたいのだろう。
「あら、まだ何も言ってないのに」
「どっちでも同じよ、まったく」
そう言いながら私は立ち上がる。
「あれ? どこ行くの?」
「色情魔から逃げるのよ」
もう紫にはどんな冗談を言っても大丈夫な気がした。
部屋の中ほどで横になる。本当はただ暑くてだるいから寝転がりたいというだけだった。
「あ、じゃあ私も」
紫も私のそばまで来るとそのまま私の隣にごろんと横たわる。私が何を言ってもやっぱり紫はついてきた。そんなことがなんだか嬉しかった。
私たちはそのまましばらく横になっていた。やはり穏やかな一日だった。風は吹かず、汗はなかなかひかなかったけれど、おとなしくしていればそれほど不快なものには感じられなかった。セミの鳴く声が遠くから聞こえて、目を閉じると紫が息を吸ったり吐いたりする音がよく聞こえた。それ以外には何も聞こえなかった。先ほどまではにぎやかだった紫も一言も話さなかった。寝ているのかと思ったけれど、横を見やると目を閉じていることもあれば開けていることもあり、ときおり目が合った。このまま昼寝をしたら気持ちよいだろうと思ったけれど、不思議と眠くはなかった。
突然、紫が体を起こした。そのまま片膝を抱いてじっとしている。何か考え事をしているのだろうか。声をかけようとしたところで紫が先に口を開いた。
「暇よねぇ」
そんなことを言ったので少し拍子抜けしたけれど、うん、とうなずいておいた。
「そんな暇な夏と言えば、旅よねぇ」
私はもう一度、うん、とうなずいた。
「旅と言えば、海よねぇ」
幻想郷に海はないと言いかけたが、なぜか憚られて、うん、とうなずいた。紫の声に何か、ほんの少しの違和感のようなものを感じた。
「ねぇ、霊夢」
紫は立ち上がって縁側の方に歩いていった。私も体を起こして彼女の背中を見つめた。
彼女はちょうどさっき私たちが座っていたあたりに立つと、少しうつむいた。やがて顔を上げ、両腕を広げた。
「海、見てみたいと思わない?」
紫は歌うようにそう言った。
「え……海……? でも、幻想郷には海はないんじゃ……」
とても冗談を言っているようには見えなかったけれど、それでも彼女の言いたいことがわからなくてそんなことしか言えなかった。
「外界に行くのよ。本物の海を見に。……大きくて、青くて、きれいな海」
私は紫の背中を見続けた。彼女は幻想郷にはない海を知っているのだろうか。彼女は今、どんな風景を想像しているのだろうか。
彼女はゆっくり振り返ると私を招くように人差し指を立てて微笑んだ。
「旅、してみない? あなたとわたし、二人きりで」
幻想郷の空を背に私を誘う紫の笑顔が明るくて。そんな紫に一瞬目を奪われる。紫と私だけで、旅……。
「え、でも……」
それでもまず心配しなければいけないことがあった。
「あんたと私が同時に幻想郷を出たりして大丈夫なの?」
「それは大丈夫よ」
そう紫は言い切った。
「もちろん望ましいことではないけれど、でも、幻想郷は今、これまでにないくらい安定しているの。何故だかわかる?」
「……なんで?」
「あなたがちゃんと仕事してくれてるからよ」
「え、私はするべきことをしてるだけよ」
「ええ、もちろんそれはそうだけど、でもあなたは今までのどの巫女よりもよく仕事をしてくれている。あなたのがんばり以外にもいろいろな要素がないわけじゃないけど、とにかく、幻想郷は今、すごく安定しているの。どれくらいかって、遊び半分に異変を起こしたくなるくらいに平和なのよ。そんなに長く出払うわけにはいかないけれど一応それなりの手は打っておくし、あなたと私、少なくとも一週間くらいならこっそりいなくなったって幻想郷はビクともしないわ」
「でも……、なんだか心配よ。私たちがいなくなるのを見計らって騒ぎを起こす奴もいそうだし……」
「それでも心配はいらないわ。私たちには頼れる仲間だっている。少し騒ぐ奴が出ても、きっと彼女たちが解決してくれる。結界に干渉されたら確かにまずいけど、私が見たところではこの幻想郷にはあなたと私以外に結界をまともに扱える者はいないようだし、ほんの少しなら藍が対応できる。何の心配もいらないのよ。だからあなたもたまには羽を伸ばしてもいいと思うの」
「休憩するということだったら、私、大丈夫だけど……」
「さっきみたいに寝転がるんじゃなくて、もっと、ぱぁーっと気晴らしをするのよ。自力で空を飛ぶのはナシ。転移するのもナシ。二人でずっと一緒に歩いて、いろんなものを見てまわるの。どう?」
「…………」
紫は何も心配いらないと言ったけれど、私は何か漠然とした不安を拭いきれなかった。というより、何がなんだかわかっていなかった。
私はそもそも幻想郷を出るということを考えたことすらなかった。いろんな人や物が神社を通って行ったり来たりするのは見てきたけれど、それでも外界はまさに別世界のものだと思ってきた。それだけに私は混乱していた。
「うーん、すごく楽しそうだけど……、ちょっと待ってくれる? 一晩くらい考えてみるわ」
だから私は今すぐ答えを出すことはできない。考えておかなくてはならないことがたくさんある気がするのだ。
「ええ、一晩でも二晩でも待つわ」
そう言うと紫はまた私に背中を向けた。
「どうしても嫌っていうなら無理にとは言わないけれど……。それでも、いい返事を待ってるから」
急に紫は声の調子を落とした。なんだか少し、紫の背中が小さく見えた。
そこで、さっきから感じていた小さな違和感の正体にやっと気がついた。紫の声だ。彼女は確かに明るく話してはいた。しかし、注意して聞かないとわからなかったかもしれないけれど、彼女の声は緊張している人のそれとよく似てわずかにうわずっていたのだ。
***
紫の言葉には大きく分けて二種類ある。
一つはただの冗談。これは聞き流していい。
もう一つは真実。彼女は仮にも妖怪の賢者と呼ばれる者だ。幻想郷のことを誰よりも知っているし、間違っていること、不確かなことを本気で言うことはなかった。
つまり、彼女が冗談のつもりで言うことは本当に冗談だし、彼女が本当のつもりで言うことは本当に真実なのだ。彼女が言っている内容について考えるまでもなく、彼女が本気で言っているのかどうかさえわかれば、その内容が正しいのかどうかを判断することができた。妙なことを言っているようだが、この点については私は紫を信頼していた。
問題は紫の日頃の胡散臭さにあった。彼女は真面目な顔をしていても冗談を言ったし、笑っていても本当のことを言った。彼女の発言はそれが誠実なものなのかどうかわかりにくいのだ。
ここで一つ参考になることがある。、紫は幻想郷を愛している。彼女は幻想郷の根底に関わることがらについては決して冗談を言わなかったし、誰かがそういう冗談を言って笑いを取ろうとしても彼女は笑わなかった。おそらく彼女は幻想郷が乱れることを何よりも恐れているのだ。
私と紫が外界に旅に出かける。私たちが幻想郷からいなくなることの意味を紫がわかっていないはずはなかった。それでも彼女は大丈夫だと言い切った。だから大丈夫、なのだろう。
理屈の上ではそうかもしれない。紫を信じていないわけではない。それでも、普段の私ならきっと断っていた。事件さえなければ幻想郷を適度に見守りつつのんびりと過ごせたけれど、どんな形であれ、ましてや私が楽しみたいなどという理由で幻想郷から離れるようなことがあってはならないのだ。
でも、すぐに断ることはできなかった。紫の様子が気になったからだった。紫がいつものように余裕たっぷりで、ただ気まぐれに私を誘っただけだったなら、私は何も難しいことを考えずに断ってそれでおしまいだったかもしれない。だが、紫は余裕のあるふうを装ってはいたけれど、なんだか少し不安げだった。私が何と答えるかを気にしているみたいだった。そして私が断ったら紫はきっと悲しそうな顔をするような気がして、それは嫌だなと思った。そう考えると、紫のためにも旅についていこうかなという気になってくる。
もちろん、紫のためだけに行くなんておこがましいことを考えているわけではない。私自身、すごく興味がある。本当は行くべきではないのかもしれないけれど、すごく行きたい。紫の気持ちを考えるのは、行きたいと思う自分を納得させるための方便なのかもしれなかった。
「少しくらい。少しくらいなら……いいよね……」
誰にでもなく、ただ自分自身に言い聞かせる、おまじない。
確かに幻想郷から離れるのは望ましくない。事件がなくてのんびりできるとはいえ幻想郷を見守るのも立派な仕事だから。でも、たった数日だけだ。恋愛のように長く続くものではないのだ。平和で、頼れる仲間だっている幻想郷に、たった数日私たちがいなくなる。そんな小さな危険をおかすだけで私は紫との旅を楽しむことができ、紫だって喜んでくれる。単純に言えばそういうことだ。考えれば考えるほど、私にもそのくらいなら許してもらえるかな、と思えてくる。
だから、私は外界に行くのは初めてだからなんとなく不安になってしまうけれど、やっぱり紫のことを信じよう。幻想郷は大丈夫。何も問題ない。実際、ここしばらく幻想郷はあきれるほど平和だったし、何もしないでぼんやりする日々ばかりが続くことに疑問を感じないわけでもなかったのだ。
となれば、もう紫の誘いを断る理由は何もなかった。ひとまず幻想郷は大丈夫だと安心するといろいろな想像が駆り立てられた。紫と一緒に見知らぬ土地を歩きまわる。外界。幻想郷とは違う世界。くわしくは知らなかったけれど、幻想郷にはないさまざまなものがあると聞いていた。そのうちの一つが海だ。幻想郷は内陸にあるから湖はあっても海はなかった。絵に描かれた海を見ても、湖をもっと大きくしたものだと考えてみても、いまいちピンとこなかった。ないものはないと言って特に深く考えたこともなかったけれど、それを間近に見られると思うと自然と興味がわいた。
何より、紫とずっと一緒。すごく素敵なことだと思った。いつ、どこに出てくるかわからない紫と、ずっと一緒にいられるのだ。彼女はそもそもどこに住んでいるのかよくわからないから(教えてくれればいいのにと思うのだけれど)、会いたいと思ったときに会えなかった。最近はよく私の元に遊びに来てくれたけれど、それでも多くは昼時だけだった。紫とたくさんお話できる、たくさん顔を見ていられると思うと、胸がときめいた。
そこまで思ったところで、やはり私は恋をしているのだろうかと考えた。この気持ちを恋だと認めるのはためらわれる。でも、これだけ紫のことを意識していながら恋ではないと言いはるのもなんだかおかしな気がした。
「私は、紫に……、恋を、している」
そう、小さくつぶやいてみた。私の発する一言一言が、私の耳に、私の頭に、ごく自然になじむように響いた。
「私は紫に、恋をしている」
もう一度つぶやいた。私の言葉が、確かな意味を持って私の胸に響いた。と同時に、胸がじんわりと熱くなる。思わず両手で胸を抱きしめる。どきどきしているのがわかった。
胸がきゅっとして、少し切なくて、でも温かい。不確かな未来だけど、紫のそばにいたい、紫の笑顔が見たい。幸せな未来を望まずにはいられなくなる、そんな想い。
私は紫に恋をしていた。私は正直に、この想いを恋と呼ぼうと思う。
しかし恋をしているとなると新たな悩みが現れた。
私に、人並みの恋が許されるのだろうか。
博麗の巫女として幻想郷を管理するからには、恋愛などするべきではないし、してはならないと心がけてきた。紫のように長く生きられればいつかは余裕ができて恋愛をすることもできるかもしれなかったが、私はこれでも普通の人間、百年足らずのうちに死んでしまうのだからそんなことはできないと思っていた。恋愛に興味がなかったとはもう言わないけれど、なくても困らないと思っていたし、仲間たちに囲まれていれば充分に幸せだとも思っていた。きっかけを持たないようにも心がけてきたつもりだった。それでもダメだった。私は恋をしてしまった。気づいたら恋をしてしまっていた。
放棄しえない使命がある。両立できないのなら、恋愛を放棄するのが当然だった。でもそうしようとすると、心が悲鳴を上げた。この恋心は、まだそんなには大きくなっていないのかもしれなかったけれど、簡単に手放せるほど生易しくはなかった。両方を取ることはできず、片方だけを選ぶこともできず、悩めば悩むほどに苦しかった。
とりあえず、今はこの問題については考えない方がいいかもしれない。まずは紫との旅だ。幻想郷は大丈夫だと紫は言い切ったのだし、私もこれくらいの楽しみなら充分に許されると思った。だからあまり難しいことを考えずに心ゆくまで楽しみたい。そうしないと誘ってくれた紫に失礼だし、何よりせっかくの機会を台無しにしたくなかった。これは紫がくれたチャンスなのだ。見知らぬ土地を歩いて、紫と一緒に過ごす。紫と向きあって、それから、正面から素直に自分自身と向きあうのだ。
ふと、この旅は紫にとっても、私と、そして紫自身と向きあう機会なのかもしれないという考えが浮かんだ。この前の宴会での紫の言葉や、私が魔理沙たちと話しているときに私の様子をうかがっていたらしいこと、私を旅に誘うときのどことなく緊張した様子からすると、紫も私のことが気になっているのかもしれなかった。好きな相手が自分のことを気にしてくれていると思うと、互いの恋が成就するかどうかは別として素直に嬉しかった。いつもは余裕のある態度を見せる紫が、一人でいるときは私みたいに悩んでいるのかもしれないと想像すると親しみが持てた。
「紫、連れてって。私を、私の知らないところへ!」
翌日、紫に会うなり私はそう伝えた。
早く紫に答えを聞かせたくて、うずうずしていた。そんな私の威勢のよさにちょっとびっくりしたのか、紫は少しきょとんとしていたけれど、すぐに満面の笑みを浮かべる。
「ええ、わかった。あなたをいっぱい連れまわしてあげるんだから!」
紫は安心すると同時に、興奮を抑えきれないみたい。こんなに嬉しそうな紫が見られただけでも、まずはよかったと思った。
***
やった、やった、やった!
霊夢が旅についてきてくれることになった。霊夢は幻想郷から離れることをよしとは思わないだろうから(私だってよいことだとは思わないけれど)、ついてきてくれるかすごく心配だった。これはただの気まぐれな旅ではない。半分は霊夢のためのおせっかいな、そしてもう半分は私が私自身と向きあうための、特別な旅なのだ。
あの後、霊夢と旅について話しあった。霊夢は外界のことはくわしくないから私にすべて任せると言ってくれたし、元々私は面倒なことをすべて引き受けるつもりでいた。
どうせ行くのならそんなに遠くないうちに出かけようということになった。海を見に行こうというのにずるずると先延ばしになって冬になってから行ったんじゃ最悪よ、と言ったら霊夢は笑っていた。思い立ったが吉日というつもりではないが、早速準備に取りかかるため今日はあまり遅くならないうちに家に戻った。
とは言っても旅行自体についてはそれほどたくさんすることがあるわけではなかった。どこに行くかは大体見当をつけてあったし、きれいな海を見るために遠いところに行こうとすると海以外にはあまり回れないかもしれないと言うと彼女は納得してくれた。立てた計画に縛られずにのんびりと旅をしたいのでホテルの予約などもしないつもりだった。
むしろ問題は、私たちが幻想郷を離れるにあたって幻想郷の平和を確実に守るための対策だった。結界を増やしてみるとか外界にいる私との連絡手段を用意してみるとかいろいろ考えてはみたが、結局、藍にほぼ一任しようと思った。神社は元々強力な結界に守られているし、大掛かりな措置を取ればそれこそ潜在的な敵勢力に感づかれる危険性があった。私は元々表面的には幻想郷内にいるようないないような生活をしていたから問題はないし、霊夢もたまたま数日間誰かの家に遊びに行っていると思わせることができれば、それが一番の得策だろう。
「藍」
「はい」
「あなたに頼みがあるわ。以前、重大だと言っていた頼みのことよ」
「はい。なんなりとお申しつけください」
藍はいつものように忠実な瞳を私に向ける。
「近いうちに私は霊夢と一緒に外界に出かけるわ。長くても五日以内には帰るつもりよ」
「…………?」
藍はわずかに眉をひそめる。
「私と霊夢が同時に、数日間幻想郷を空けるということよ」
「……はい」
「その間、あなたに私と霊夢の代わりに幻想郷を守ってほしい」
「え……」
藍は目を閉じて口を真一文字に結び、考えこんでしまった。
「ふふふ。言いたいことがあるのなら遠慮なく言ってごらんなさいな」
藍は目を開くが、ばつが悪そうにしている。
「おっしゃっていることはわかりました。いつものようにお任せくださいと申し上げたいのですが、私に紫さまと霊夢の代わりなどとても……」
「そう言いたい気持ちもわかるわ。私と霊夢がいないと、特に結界関係で幻想郷は困るでしょうね」
「はい……」
「でもこの平和な幻想郷からたった数日間、私と霊夢がこっそりいなくなるだけよ。あなた以外には誰にも言わないつもり。私の見たところでは、この幻想郷に私や霊夢ほど結界を扱える者はいない。このたった数日の間に私と霊夢の不在を見破って、私たちが帰ってからでは遅いくらいに幻想郷に損害を与えられる者が現れる確率ってどのくらいだと思う?」
「高くはないと思われます。ですが……」
「それにあなたを始め、幻想郷には他にも力を持った者たちがいる。ここしばらくについて言えば、私や霊夢がいなくても解決できたような異変しか起きていない。それに結界を脅かす者が万一現れたら、結界に手をつけられる前にみんなで倒せばいい」
「…………」
「つまり、あなたにして欲しいことは、いつもよりほんのちょっとだけ警戒して幻想郷を見守ること、もしも事件が起きたらそのときはあなたが中心となって幽々子や魔理沙たちと連携して解決してもらうことだけなのよ」
「しかし、形だけとはいえ私にお二人の代わりなど務めきれるかどうか……。このようなことを言って申し訳ありません。ですが私にはどうしても不安で……」
藍は臆病でもなんでもない。ただ生真面目なだけなのだ。少しでも失敗する可能性のある仕事を自信満々な顔をして引き受けたくないのだろう。藍のそういうところはむしろ信頼しているし、無理のある頼みだとは私もわかっていた。
「うーん、謙虚なのは悪くないんだけど……。あなた、自分の力がどのくらいかわかってる?」
「え……?」
「まぁ私ほどの力はないわよね。でも、だからと言って幻想郷を守る役目を果たせないとは限らないわ」
「…………」
「ただ幻想郷を守るだけなら、私の力は自分で言うのもなんだけど、はっきり言って過剰よ。藍、あなたがもう少し力をつけて、もう少し結界の扱いが上手くなれば、私は完全に隠居しても大丈夫というくらいに思っているの。短い間なら今のあなたでも何も問題はない」
「…………」
「ふふふ。腑に落ちない顔をしてるわね。まだ自信が持てない?」
「はい……」
私は藍のとまどう目をじっと見据えて言った。
「藍。あなたの主人は誰?」
「もちろん紫さまです」
「そう。あなたは私の最高の式神。見くびってもらっては困るわ」
「!?」
藍ははっとしたように目を見開いたが、やがてその瞳に勝気な輝きを取り戻す。そんな藍を見て私も自然と表情がほころぶ。
「任されてくれるわね?」
「はい、お任せください。……紫さまはお優しいのですね」
「いいえ、事実を言ったまでよ」
そうやって私たちは主従の絆を確かめあった。
藍は確かに元々は面倒なことを押しつけられる小間使いが欲しいというつもりで召喚したのだったが、せっかく式神を召喚するからには最高のものにしようと苦心したし、使役するようになってからは対等の人格を持つ者として信用したし、また愛着も抱くようになった。藍もそんな私を信頼してくれているらしく、どんなにたくさんの仕事を押しつけても嫌な顔ひとつしなかった。そんな藍に感謝していたし、彼女が幻想郷の守護を引き受けてくれるのなら私は何の心配も必要ないと思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
Ⅱ. 夏の宝物
私たちは幻想郷を出た。
右も左もわからないまま紫についてしばらく歩き、バスというよく揺れる乗り物に乗った。最初のうちは森や山が多くあまり幻想郷と変わらないと思ったけれど、だんだん人が増え、無機質に角ばった建物が目立つようになった。
やがて都市部に着く。陽が昇ってきたこともあって都市部は暑苦しかった。木や土といった自然のものが少なくて金属などの人工物が多い都市部にはヒートアイランド現象というものがあるのだと紫は言っていた。そして、都市部はとにかく人が多かった。誰もがむっつりとした表情でせわしなく歩いていて、もたもたしているとすぐに他の人とぶつかりそうになった。何度か紫とはぐれそうになって、はぐれたら私には何もできないことがわかっていたから、怖くて必死に紫についていった。はぐれてしまいそうだと紫に言うと、紫は手をつなごうかと言った。少しつなぎたい気分だったけれど、恥ずかしいからと言って断った。紫は、あなたがいつもそばにいるか確かめながら歩いているから大丈夫と言ってくれた。やっぱり恥ずかしかったけれど、それで私は安心した。
今度は電車という乗り物に乗った。バスとは違った揺れ方の乗り物でたくさんの人が乗っていて、走る音がうるさくて大きな声で話さないと会話ができなかった。朝と夕方はもっと混雑して文字通りぎゅうぎゅう詰めになるのだと紫は言った。なんとなく、都会は大変なんだなと思った。
電車を降りると、もうそこは空港という場所らしかった。私たちは飛行機というものに乗るらしい。この飛行機というものが、普通の人間の社会においては遠隔地を結ぶ主な手段になっているということだった。紫が手続きをしてくれている間、私は手近な椅子に座って彼女を待った。
空港にもたくさんの人がいた。ちょうどこの時期は故郷に帰ったり旅行に出かけたりするために飛行機を利用する人が多いのだと紫は言っていた。手続きのために並ぶ人たち、あわただしく歩きまわる人たち、仲間らしき者と笑いあう人たち。私が座っているあたりには他にもたくさん椅子があって、じっと何かを待っているらしい人たちもたくさんいた。この人たちはどこに行くのだろう。いろいろな地域の人がたまたま今、ごく限られた時間だけここにいて、そしてすれ違うようにまたみんな別の場所に向かう。そう思うと、空港というのはなんだか不思議な場所だと思った。
紫が戻ってきて二人でしばらく待った。喉が渇いたと言うと、彼女は自動販売機という機械からお茶を買ってくれた。お金さえ入れればいつでも飲み物を買うことができるものらしく、便利だなと思った。プラスチックの容器には確かにお茶が入っていた。冷たかったけれど少し味気ないような気がした。
飛行機の時間が近づいてきてから、私たちは手荷物検査というのをやらされた。危険な道具を持ちこむことができると簡単に飛行機を乗っ取ったり、あるいはたくさんの人を殺したりできてしまうから、そういうのを未然に防ぐのだと紫は言った。そんな危険なものは持っていないから大丈夫だと思ったけれど、さっき買ったお茶を持ちこんではいけないと言われた。よくわからなかったけれど、こっそり危険な液体を持ちこむのを防ぐということらしかった。その場で飲もうとしたけれど飲みきれなかったので、残りを何気なく紫に手渡した。紫は一瞬きょとんとした表情をしたけれど、何も言わずに残りのお茶を飲み干した。検査が終わって、紫と二人並んで飛行機に向かって歩いているときになって、やっとさっきの紫の表情の意味がわかった。私たちは間接キスをしていたのだった。そのことに気づいても何も不快だとは思わなかった。むしろ何か偶然によいことが起きたみたいで、なんとなく嬉しかった。自然に間接キスをしてしまえるくらいには私たち、仲良くなれたのかな。そう思って紫の顔をうかがってみた。彼女は穏やかに微笑み返してくれた。
すぐに機内に入った。天井が少し低くて座席がたくさん並んでいた。
「えーと、私たちの席は…………。ここよ、霊夢」
紫は目的の座席のそばに立って私を待つ。
「荷物を入れなくちゃ。霊夢は先に座ってて」
「うん、ありがと」
荷物を紫に任せ、私は窓側の席に座る。日よけの取っ手を持って上に引っぱると外が見えた。
「外が見えるでしょ? 飛んでいるときの景色がきれいなのよ。窓際の席が取れてよかったわ」
そう言いながら紫は私の隣に座る。
「ふぅん。でも、この乗り物、ホントに空を飛ぶの? これ、要するに金属の塊なんじゃないの? 重すぎると思うんだけど」
「それが飛んじゃうのよねぇ。あ、たま~に落っこちるけどね。ふふふ」
「それ笑い事じゃないじゃん。落ちたらどうするの?」
「どうしようもないわ。私たちも飛んじゃダメってルールだから、おしまいね」
「私は嫌よ」
「私はあなたと一緒ならかまわないわ」
「え……」
思わず紫の方に振り返る。本気とも冗談ともつかない口ぶりだったが、その目は本気の色の方が強く見えた。
「……それはもっと嫌」
思わず私は顔を背けて窓の方を向く。
「私と一緒じゃ、嫌?」
紫が急に気弱な声を出して、そんな紫がなんだか心配になって、私はまた振り向く。
「そういうわけじゃ……」
紫と一緒が嫌なんじゃなくて、私は……。
しかし、紫はすぐに明るい笑みを浮かべた。
「ううん、困らせちゃったわね、ごめん、ごめん。それに飛行機は99.999パーセントくらいは大丈夫らしいのよ。だから心配するだけ無駄よ」
「うん……」
私は再び窓を向く。紫は面白くはない話題になりそうなのを避けてくれたのだろうと思った。それでも私は小難しいことを考えてしまいそうだった。
「本日も当航空をご利用いただきましてありがとうございます。この飛行機は……」
思わぬ声が思考をさえぎってくれる。
「もうすぐ出発?」
「ええ、もうすぐね」
アナウンスが続く。
「……シートベルトをしっかりと……」
「これを、こうするの」
紫がシートベルトの使い方を教えてくれて、それを真似する。
もうしばらくアナウンスが続いた後、飛行機がゆっくりと動き出した。
「あ、飛行機は助走をつけてから飛ぶのよ。私たちみたいにその場でいきなり浮くわけじゃなくてね」
「ふぅん。なるほどね」
飛行機がゆっくりと方向転換をして、それから徐々に加速する。
「さぁ、もうすぐ飛ぶわよ」
「うん……」
空を飛ぶなんて私にとってみればたいしたことないはずなのに、緊張する。加速して、加速して、加速して……。
そして機体が傾いた。思ったよりはなめらかに離陸したと思ったけれど、空を飛ぶとき特有の、内臓が下の方に引っぱられるような感覚を意外と強く感じた。慣れているはずだったけれど、自分の意思とは関わりなく空を飛んでその感覚を味わうのは妙な気分だった。
「飛んでる……」
思わずそうつぶやいた。窓から外を見やる。空港から離れていって、街が目に入ってそれもどんどん小さくなっていった。
陸から離れて、一つ一つの建物の形も見えなくなる。山が、森が、川が一望できる。陸上からはっきり区切られた青い部分、あれが……。
「あれが海、よね?」
「ええ。幻想郷の湖なんかちっちゃいもんでしょ?」
「うん……」
ここからはかなり広い範囲が見えるはずなのに、どこを見ても青い。
「今日はあんまり時間取れないから海には行かないけど、明日はあそこで泳ぐからね」
「え、あ、あんな広い海で? 私、泳げないよ」
「冗談よ。陸から近いとこしか行かないし、泳げなくても楽しめるわ」
「あ、そりゃそっか。紫は泳げるの?」
「ちょっとならね。そんなには上手くないけど」
「ふぅん」
話しているそばからどんどん陸が遠くなって雲が目に入る。
「こんな高いとこ飛ぶんだ……」
上には透き通る青。よく晴れた日に地上から見上げるのとは違って、明るいというよりは淡い。空が近いと感じた。
下には雲が一面に広がる。どこまでも同じようなまだら模様が続いて見えて、模様の一つ一つが違う表情を見せる。ときおり雲の切れ目が見えるが、地上から切り離されて、そこはただ青く見えるだけだ。
日常の風景とは違う、澄んだ冷たさに心が洗われるようだった。
「どう? きれいでしょ?」
「うん……」
私は生身のままこんな高いところを飛ぶことはなかった。飛ぼうと思えば飛べなくはないと思うがそんなことをする必要はなかったし、そもそも寒すぎて体を壊してしまって風景を楽しむどころではないだろう。だから、いくら私が空を飛べるとはいえこんなふうに雲を眺めたことはなかった。
「あ……」
紫が小さく声を漏らす。
「どうしたの?」
「この景色って、なんだか地上から見た海に似ているなと思って」
そう言った紫の瞳は、なんというか、何か新しいものを見つけた子供みたいだと思った。紫は知らないことなんかないように見えて、私だけに新しい旅なのかなという気がしていたから、紫と同じものを見て二人で感動を分かちあえたことが嬉しかった。
「こんなふうに雲があると、下から見ると曇り空なんでしょうけどね」
「ああ、それはちょっと残念かも」
「……晴れるといいね」
「うん……」
そして私たちは同じ祈りを分かちあった。
「そろそろお昼にしよっか」
「あ、う、うん」
ずっと窓の景色を見ていた私は紫の声ではっと我に返った。
「ってこんなところで買えるの?」
「大丈夫よ、飛行機の中でお弁当売ってるの。いくら空を飛ぶ巫女さんでも空でご飯を食べたことはないでしょう?」
「そんな行儀の悪いことしないわよ」
「ふふふ……あ、すいません、お弁当お願いします」
乗務員の人がこちらに向かってくる。
「お弁当はおかずが肉のものと魚のものがありますが、どちらになさいますか?」
「霊夢どうする?」
「私、魚で」
「じゃあ私は肉で」
「ありがとうございます。お会計は……」
紫がお金を払ってくれ、お弁当を受け取る。確かに私のには白身魚のフライが二切れ、紫のには焼肉が入っていた。
二人でいただきますと声を合わせてから、それぞれのお弁当に手をつける。
「空で食べるとまたおいしいでしょう?」
「うん」
お弁当自体は特別おいしいわけでもなく、そもそもパック詰めの食べ物には慣れていなくてなんだか苦手だと感じていた。それでも紫の隣で、空を見てこれからの旅に思いをはせながら食べるお弁当は格別だった。
しばらく二人で静かに空の食事を味わっていると、やがて紫が口を開いた。
「飛行機のパイロットって二人乗っていて、その人たちもお弁当を食べるんだけどね、二人は必ず別々のものを食べるんだって」
「なんで?」
「万一お弁当がくさっていたり毒が入っていたりしたときに、二人とも体を壊しちゃう危険を減らすためなんだって」
「ふぅん……」
紫の表情をのぞきこんでみる。何か言外に言いたいことがあるのかもしれなかったし、ただの食事中の話題なのかもしれなかった。しかし彼女はいつもどおりの表情で、やっぱり私はわからなくなってしまう。
「……まさか、あんたのお弁当もそこまで考えて選んだの?」
だから私は思い切って尋ねてみる。
「そんなわけないじゃない」
そう答えると紫は焼肉をいく切れか私のお弁当箱に移し、私の魚をつまんで口に入れてしまった。
「あ……」
「あなたと別のにしておけば、二人で二倍楽しめるでしょ?」
そう言って彼女は楽しそうに微笑んだ。
***
空港に着いて飛行機を降りる。荷物を受け取って建物から出ると、絵に描いたような青い快晴と燃えるような熱気が私たちを迎えた。暑さに萎えるどころか自然とはりあいたくなるような、そんな高揚感に満たされる。
私は紫について空港のそばにある小さな建物に入った。紫が手続きをしてカウンターの人が彼女に何かを手渡した後、私たちは建物を出た。
「何もらったの?」
「ふふふ。秘密」
「えー。まぁいいや」
少し歩くと自動車がずらりと並んでいる場所に着く。そのうちの一つに紫が近づくと、突然ガチャリと音がした。
「あ、あれ? 今、何をしたの?」
「ふふふ、魔法をかけたの。車よ、開け~って」
「そんなはずはないでしょ。外界にそんなものはないはずよ」
「それが本当に魔法をかけたのよ。ほら」
そう言って紫は先ほど手続きをしたときに受け取ったものを私に見せてくれた。
「これが車を使うための魔法の道具よ。これを押すと鍵が開いて、こっちを押すと、ほら」
ガチャリ。
「あれ、今度は閉まったの?」
「ええ。あなたもやってみる?」
紫に謎の道具を手渡され、二つ並んだボタンを交互に押してみる。
ガチャリ、ガチャリ、ガチャリ。
「……本当に魔法みたい」
「でしょ? なかなかよくできてるわよね。あ、まず後ろに荷物入れて、その後そっちからドアを引いて中に入って」
そう言うと紫は車の反対側に回り、後部ドアを開けて荷物を入れ、それからドアを引いて車内に入る。私も同じように荷物を入れてから中に乗りこんだ。
「うっわ、なにこれ、あっつい……」
外とは比べ物にならない暑さに、幻想郷で地底に潜ったときのことを思い出す。あのときほどではないけれど、さすがに参ってしまいそうだった。
「冷房つけるからしばらく我慢しててね」
紫がスイッチの一つを押すと、ガーという音と共に冷たい風が四角い穴から出てきた。
「別に魔法でもなんでもなくて、赤外線とか電波とかっていうのを使ってるんだけどね」
そう言いながら紫は座席の位置をずらしたり鏡の位置を調整したりする。
「あ、シートベルトお願いね。飛行機で使ったのと同じよ」
「うん……ってどこ? あ、肩か」
紫がシートベルトを締めるのを見て、それが肩の近くにあることに気がつく。私はそれを引っぱって腰元の留め具に固定した。
飛行機と同じと言われて、確かに使い方は同じだったのだけれど、ほんの少し違うだけで私はとまどってしまう。
「なんか、ごめんね、紫。私、外界のことは何もわかんなくて……」
紫の足を引っぱっているんじゃないかと思って申し訳なくなる。
「いいのよ。外界のことを知らないのはあなたのせいじゃないわ。それに私は……」
そんな私に紫は笑いかけてくれた。
「むしろあなたが私のわがままにつきあってくれてるんだと思ってるもの。だから私には何も遠慮しなくていいわ。あなたは大船に乗った気分でいてよ。私なんでもしちゃうから」
紫がそんなふうに言ってくれるのが嬉しかった。建前としてそう言うしかなかったのかなと一瞬思ったけれど、ううん、それは違う。きっと紫は全部わかってるんだ。私が外界のことを何も知らないことも、そのことで私が引け目を感じていることも。だから、ずうずうしくなっていいというわけじゃないけれど、変に紫に遠慮したらむしろ失礼だと思った。
「……いいの?」
「ええ」
「うん、わかった。どんどん頼っちゃうからね」
そう言って私は自然に笑い返すことができた。
「よし、じゃあ出発よ」
「うん!」
私はしばらくの間、車の運転をする紫の姿がめずらしくてずっと紫の方を見ていた。
紫の足元の右側のペダルを踏むと車が前進して、左側のペダルを踏むと車が減速するらしかった。そして紫が握っている丸いものを時計回りに回すと右に進んで、反時計回りに回すと左に進んだ。
車の運転についてなんとなくわかると私は窓の外に目を向けた。私が座っている左側の窓からは木や畑が見えて、幻想郷を出てすぐの景色に似ていると思ったけれど、植物の種類が違うのか色が明るく見えたし、山らしい山はなかった。
そして、紫が座っている右側の窓。遠くの方に青いものがわずかに見える。見慣れないあれはなんだろうと思って。
「あれ、海よね?」
「ん?」
「ほら、遠くの青いの」
「ええ、そうね……」
ついに陸から見た海のお目見えだ。しかし、なんだか実感がわかない。青いものが広がっているらしいことはなんとなくわかるのだけれど、遠くてかすんで見えるし、車が少し内陸の方を走ってしまうとすぐに見えなくなってしまう。
「うーん、よく見えないわね」
「……」
「まぁ明日思いっきり味わえばいいわよね」
「そうね……」
そこまで話してなんだか妙だと思った。いつもの紫らしくない気がする。普段の彼女なら私が何を話しても楽しそうに応えてくれるのに、今はどこかうわの空だ。それに、顔色一つ変えない。
不思議に思いながらも私は窓の景色を眺めることにした。
ふいに車が止まる。信号待ちのようだ。
そこで紫がひとつ、小さな溜息をついた。
「ダメね、私」
振り返ると紫が暗い表情をしていた。
「どうしたの?」
「ごめんなさい、あまりお話できなくて」
「あ、それはまぁいいんだけど……。でも、本当にどうしたの?」
紫はこちらを向くと、弱々しく微笑んだ。
「私、車の運転には自信あったのよ。いつもなら運転しながらでも普通に話せた。でも、怖いのよ。ちゃんと運転していれば事故なんか起こらないはずなのに。今回もいつも通り運転できると思っていたんだけど、いざ、あなたを乗せると急に不安になっちゃって。それでお話する余裕がなかったの。ふふふ、おかしいわよね、そんな難しいことしてないはずなのに」
「紫……」
彼女が自嘲気味に笑うのが私には辛かった。
「ごめんなさい、こんなことを愚痴ってしまって」
「ううん、私は……」
私は紫がしてくれたことの結果ならすべて引き受けられる。
一瞬、私がそう言いかけたことに自分で驚いた。私の心がこんなにも紫に近くなっていることにあらためて気づかされる。それでもこれは本心だと言い切ることができた。
飛行機での紫の言葉も今ならわかる気がした。けれどやっぱり私は、紫には私に対して同じことを言ってほしくなかった。だって、私のせいで紫が苦しむのは嫌だもの。それは紫も同じかもしれないと思った。
だから私はもう一つの本心を紫に伝える。
「私は、私にとって今、世界で一番信用できる車に乗ってるのよ」
「え……?」
「だって私のことをこんなにも想ってくれる人が運転してるんじゃない。この車が安全じゃなくてどの車が安全だって言うのよ」
「……」
「私はあんたのこと信じてるからね」
すごく自然に紫の目を見て、すごく自然に言葉にできた。私はこんなに自然にお世辞が言えるほどポーカーフェイスじゃないことくらい自覚してる。
「霊夢……」
紫は驚いたように私を見つめていたけれど、やがて屈託のない笑みを浮かべた。
「ふふふ、ありがとう。なんだか自信が持てそう」
普段の紫に戻ったところでちょうど信号が青になり、紫は運転を再開する。その表情にはもういつもの余裕が見えた。
確かに落ちこむ原因は私にあったかもしれないけれど、偽りのない想いが紫の助けになったこと、私でも紫の支えになれたことが嬉しかった。特に旅を始めてからは紫に頼りっぱなしだったから。
紫の表情を確認してから私は窓の外をまた眺めた。ぼんやりして落ち着いてから、ふと先ほどのことを思い返すと。
「なんか私、すごい恥ずかしいこと言っちゃった気がする」
急にここから逃げて隠れたい気分になった。
「ふふふふふ」
紫が余裕そうに笑うから余計に恥ずかしくなる。
逃げて隠れようにもそんなことはできない。私は私の一番頼れる車に乗っているのだから。とりあえず、しばらくはずっと窓の景色を眺めることにしよう。
結局紫にしてやられたような気がして少しだけ癪だったけど、でも心が弾む思いだった。
***
私たちは街で夕食を食べてからホテルに向かった。緑の鮮やかな木々が立ち並ぶ中、その大きな建物は一見異様に見えたけれど、しかしその白い外見はよく見ると周囲の自然と調和しているようにも思われた。
中に入ってすぐ、紫がカウンターに向かって何か手続きを始めた。本来ならホテルの部屋は事前に予約しておくのだけれど、幻想郷内から予約することはできないし、気まぐれに旅をするのも楽しそうだからしなかったのだと紫は言っていた。ちょうど混んでいる時期だから部屋が取れないかもしれないけど、それでも車の中で寝られるから大丈夫と彼女は笑っていた。私もつられて笑ったけれど、体を洗いたかったし、もっと広くて柔らかいところでぐっすり眠りたかったから部屋が取れるように願った。
結局、部屋は見つかったみたいだった。紫がほっとした表情を見せたような気がした。彼女がお金を払って鍵を受け取ると、私たちはエレベーターに向かった。このエレベーターは飛行機に乗る前にも一度乗ったけれど、狭い内部にいると閉じこめられたように感じてやはり慣れなかった。
エレベーターから降りて私たちは部屋が立ち並ぶ廊下を歩き、そのうちの一つの扉を紫が開けると私を中に入れてくれた。部屋はそれほど広くはなかったけれど、大きなベッドが二つ並んでいた。私は適当な場所に荷物を置いてからベッドに座りこみ、それから大の字になって横たわった。遅れて入ってきた紫が私を見た。だらしないとからかわれるような気がしたけれど、穏やかな表情でお疲れさまと声をかけてくれた。それから紫も荷物を置くと、私と同じように大の字になって横たわった。きっと私の真似をしているのだろうと思った。あんたもお疲れさま、と返してから私は目をつむった。私たちは一言も話さず、旅の疲れを少しだけいやした。
「そろそろお風呂入ろっか。大浴場もあるし、この部屋にもお風呂ついてるけど、どうする?」
しばらくして紫が私にそう尋ねた。
「うーん、この部屋についてるんならそれでいいかな」
「そう。じゃあ霊夢先に入ってきていいわ」
「うん、ありがと」
私は体を起こし、荷物の中から洗面用具と着替えを取り出す。それから風呂のドアを開ける。
「あれ?」
確かにそこは風呂だった。大きくはないけれど浴槽らしきものがついていたしシャワーもついている。しかし、もっと手前に目をやるとそこにはトイレがあった。
「ああ、ホテルの個室のお風呂ってね、トイレと一緒になってることが多いの」
尋ねる前に紫が教えてくれた。
「普通のお風呂みたいに浴槽の外に体を洗えそうな場所がないでしょ? 浴槽の中に入って、カーテンがあるはずだからそれを閉めて、その中で体を洗うのよ」
「ああ、なるほど。じゃあその後にお風呂にお湯を……ってそれじゃあんた体洗えないわね」
「霊夢が体を洗って、その後私が体を洗って、それからお湯をわかして二人で仲良く入ればいいのよ」
「ふぅん……って! 普通に説明するみたいにさらっと冗談言わないでよ」
「その小さい浴槽で二人ぴったり体をくっつけてお風呂を楽しむのが外界の旅の醍醐味なのよ」
「嘘でしょ」
「本当よ」
「紫が本当だって言うことほど嘘っぽいことってないわ」
「あら、私を信じてくれるんじゃなかったの?」
「あれはあんたの運転を信じるってだけのことよ」
「そう? 残念」
「私は残念じゃない。つまり私が体を洗った後、先に一人でお湯を入れてあったまればいいのね」
「じゃああなたが体を洗った頃合を見計らって乱入するわ」
「鍵をかけておくもの」
「あ、鍵ついてるわね。でもその鍵さ、外から見ると、鍵を挿し入れる形じゃなくて、細長いくぼみがついてるんじゃない?」
「……そうね」
「それ、十円玉使えば簡単に開けられるのよねぇ」
「うわ、あんたもずる賢いわね」
「それが私の取り柄ですから」
そこで私たちは笑いあった。よくよく考えると紫はすごいことを言っていたけれど、私は不思議と不快な気分にはならなかった。どうせ冗談だと思っていたし、冗談であるということにこだわろうという気にもならなかった。
「まぁ、霊夢の好きにしてくれていいわ」
「いや、体を洗ったら出るよ。あんたを待たせちゃ悪いし」
「あら、優しいのね」
「誰が。……ってもう、拉致があかないから入るわよ!」
私はこりない紫を放って中に入ってドアを閉める。紫の笑い声が聞こえた気がした。
紫に言われた通り、浴槽に入ってカーテンを閉めてから体を洗った。頭や顔を洗う分には不便はなかったけれど、体を洗うのは、立ってすると転びそうになるし、座ってすると狭かった。結局座りながら体を洗って立ちながらシャワーを浴びた。
湯船に浸かれない分、たっぷりとシャワーを浴びることにした。ずっと浴びていて熱すぎないよう、痛くないように水温と水量を調節する。温かい水が頭、首を通って、胸、お腹、背中をつたうのが気持ちよかった。
誰かに肌を撫でられているみたいだと思って、さっきの紫との会話を思い出す。紫と一緒にお話しながらお風呂を楽しむのも素敵だと思った。シャワーは気持ちよかったけれど、せっかく紫と旅行に来てるのに一人で入っているとなんだか物足りなかった。一緒に入ろうなどという彼女の冗談をあれやこれや言って断ったけれど、誘ったら一緒に入ってくれたのだろうか。
でも、お風呂に入るとなるとやっぱり裸なわけで、それはなんか恥ずかしい。というより、紫と入るのが恥ずかしい。魔理沙となら入ったことあるし特になんとも思わず楽しめたけれど、紫は背が高くて格好いいし、そのくせ胸は大きい。紫はずるい。だからあまり並んで入りたくないし、それとは関係なく、……たぶん、意識してしまう。それに浴槽はこんなにも小さい。どうがんばっても肌が密着してしまう。この中に二人で入るとしたら、紫の上に私が座る?
うわ、恥ずかしい。なんか体が熱くなってきた。私はあれこれ思わせられているというのに紫は余裕たっぷりに笑っている気がした。もう、知らない。シャワーのせいよ、シャワーのせい。
水温を下げて熱くなった体を冷ます。少し冷静になる。
私、紫のことが気になって気になってしょうがないんだ。今さらそんなことに気がつく。思えば最近、紫のことばかり考えている気がする。私の頭の中は、紫がそばにいても紫のこと、紫がそばにいなくても紫のことでいつもいっぱいだった。魔理沙の言うように、重症なんだと自分でも思った。今だって、部屋に戻ったら紫が待っていると思うだけでこんなに胸がどきどきしてる。
何もかも、無縁だと思っていた。外界のこと、それから、この恋心。この身で知ってしまった以上、もう知らないまま素通りするはずだった自分の姿を想像することができなかった。幻想郷にいたころの自分が遠く思われた。
そろそろ上がろう。ちょうどいい体温になったし、紫が待っている。シャワーを止めてタオルで体を拭く。パジャマを着てお風呂を出る。
「お待たせ、紫」
「霊夢のパジャマ、可愛い」
紫は私の姿を見るなりそんなことを言った。こそばゆくて私はただ笑い返した。彼女は楽しそうに笑いながら、私と入れ違いにお風呂に入っていった。
ベッドに横たわる。時計を見るといつも寝る時間よりはまだ早かったけれど、すぐに眠気がやってきた。長かったけれど、短い一日だった。今日の朝、幻想郷を出発して、都会に出て、飛行機に乗って、車に乗って、今、ホテルにいる。どの光景も鮮明に思い返せるけれど、あっという間にベッドの上にたどり着いてしまったような気がした。
それでもまだ眠るわけにはいかなかった。お風呂からシャワーの音が聞こえる。紫も今頃気持ちのいいシャワーを浴びているのだろう。
充実した一日だった。紫はどう思っているのだろう。楽しんでくれているのかな。私たちが二人で旅に出るのは初めてのことだったからお互いに思うところがいろいろあったけれど、私は楽しかったし紫も朗らかな顔をしていた。
しばらくして紫がお風呂から出てきた。ほんのり赤く染まった頬と、濡れて艶やかに輝く髪に少しどきどきした。やっぱり一緒にお風呂に入らなくてよかったと思った。
紫はベッドの上に横たわると私の方を向いた。
「今日はどうだった? 余裕なくて真っ直ぐここに来ただけだけど」
「ううん、楽しかった」
私がそう言うと紫はにっこりと笑った。
「よかった。明日はいよいよ海に行くからね。とびっきり可愛い水着を買ってあげる」
「ありがと。期待してる」
「可愛い水着に?」
「海の方よ」
「ふふふ。私はあなたの水着姿に期待してるわ」
「やっぱりあんたっていやらしいわ」
「ありがとう」
「誉めてないわ」
「素直じゃないのね」
「……そうかもね」
私はいろいろ難しいことを考えすぎて素直になりきれていないのかもしれなかった。それでもとにかく、紫と二人きりの旅を思いっきり楽しむ、そう決めたんだったっけ。
「私は素直な霊夢も、素直じゃない霊夢も大好きよ」
「ば、馬鹿……」
思わずうろたえると紫は愉快そうに笑った。ああ、またやられちゃった。もう普段通りすぎて悔しくもないんだけど、悔しくないと思っているのがバレたらやっぱり悔しいから私は顔を背けてみせる。
「ふふふ。……明日は早いからそろそろ寝ましょう。目の下に隈なんか作って行ったらせっかくの可愛い顔が台無しよ」
「うん、おやすみ」
「ええ。おやすみなさい」
紫におやすみの挨拶をする。私はこのために起きていた。紫と共に旅をして紫と同じ部屋で寝るからには、彼女におやすみと言って眠りたかった。いつものような別れの言葉としてではなく、明日目を覚ましたらまず二人の存在を確かめあおう、そんな祈りの言葉を彼女と交わしておきたかった。
寝る前にもう一度、紫の方を向く。彼女はまだ起きていて、目が合うと安らいだ表情になる。それで私は安心して目を閉じた。今夜は紫の方を向いたまま寝よう。明日、真っ先に紫を見つけられるように。
***
光を感じる。もう朝だろうか。
まどろみながら目を開く。
「あ……」
紫がいる。
数回まばたきをする。
ちゃんと紫がいる。
「おはよう」
紫が声をかけてくれる。
「おはよう」
私は紫に応える。
目をこすって、もう一度紫を見た。
夢じゃ、ないよね?
「よかった……」
思わずつぶやいた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
朝になっても紫が私の隣にいた。それだけで、今日は今までにない特別で素敵な一日になる、そんな予感をせずにはいられなかった。
私たちは服を着替えて朝食を摂り、荷物をまとめてホテルを出た。今夜はまた別のホテルに泊まるのだと紫は言った。まだ朝早い時間だったし、いつもなら用事さえなければまだ眠っていてもおかしくない時間だったけれど体はよく動いた。今日は元気いいねと言って紫は笑ったが、それもそのはずだった。今日は海に出かけるのだと思うと落ち着いていられなかった。あまり具体的には想像できないから実感は薄いのだけれど、紫の話しぶり、飛行機や車から見た光景から、なんだかすごいものなんだと思わずにはいられず、わくわくしていた。
私たちは車に乗った。まず水着を買いにデパートに行くのだと紫は言った。幻想郷内で買っておくこともできないわけではなかったけれど、幻想郷内で水着を着るような場所といえば人里離れた湖くらいしかなく、そんなところにわざわざ行く人は滅多にいないから水着が売れず、つまり種類が非常に限られていた。外界で買った方が種類も多いし思い出になると紫は嬉しそうに話していた。
デパートに着く。都会の中心に位置する巨大な建物だった。建物に入ってすぐのところにデパートの地図を見つけ、紫と並んで見た。八階まであるらしく、地図の至るところに、食品、洋服、化粧品、日用品、家電といった文字が並んでいてそれだけで目が回りそうだった。ついでにいろいろ巡ってみるかと紫は言ったけれど、確かに面白そうだったけれどそれ以上に頭が痛くなりそうだったのでやめておいた。
水着売り場に着く。びっくりするほどたくさんの彩り豊かな水着が並んでいた。
「なんていうか、下着みたいなデザインのが多いわね。着ていて恥ずかしくなっちゃうと思うんだけど」
「幻想郷にある水着がおとなしすぎるのよ。そりゃ中には恥ずかしく思う人もいるでしょうけど」
「ふぅん……」
「それに普通のお店にはあまりないけど、世の中にはもっと過激なのだってあるわよ。ほとんど裸と変わらないのから、肌が透けて見えちゃうものまで」
「うわ、そんなのあるんだ」
「あなたも試してみる?」
「そうねぇ……、あんたが先に着たら私も着ていいよ」
「あら、それは挑戦のしがいがありそうね」
「待った。あんただったらやりかねない気がする」
「ふふふ、残念」
私たちは冗談を交わしながらどの水着がいいか見比べる。楽しい作業になりそうだったけれど、あまりもたもたしていると海に行く暇がなくなってしまう。
「ちょっとあっちの方見てくるわね」
「うん」
そう言って彼女は別の場所で探し始めた。
こうもたくさんあると、どれがいいのかわかりにくい。とりあえず全部見ようとするのは諦めて、一つ一つ手にとって見てみる。
これはもうちょっと年上の人向けかな。
これは逆にきゃぴきゃぴしすぎ。
もっと明るい色の方がいいかな。
これはちょっと地味か。
………………。
あ、これ、いいかも。
目に止まったビキニを手にとってよく見てみる。私の好きな赤色。鮮やかな赤色なんだけど、どぎついという感じじゃなくて明るい。柄がなくてシンプルで、情熱的なのに可愛い。それでいて流れるような線のデザインが格好いい。どうしよう、これにしようかな。
でも、他のに比べてちょっと布地が少ないわね。胸は全体を覆いきれるわけじゃなさそうだし、脚の付け根もあまり隠れそうにないし、お尻もちょっと見えてしまいそう。大体この紐、ほどけたらどうするのよ。すごくいい水着だと思うんだけど、さすがにこれは恥ずかしい。そう思って、結局棚に戻した。
しばらく悩んでいると紫が水着を一着持ってこちらに来た。
「これにしようかと思うんだけど、どう?」
紫が持ってきたビキニを見てみる。こちらも上下共に柄がない、薄い紫色だった。紫はやっぱり紫色が好きなんだなと思った。紫色の水着は地味になりがちだったけれど、この淡い紫色はおとなしいけどさっぱりしたきれいな色合いだった。ボトムは布地が多すぎも少なすぎもしなくて品がいい。トップスは胸の比較的広い範囲を押さえるようになっていて、首で支える部分はなく、背中に当たる布で支えるようだ。胸を強調するというよりはむしろ目立たなくするデザインだったけれど、胸当ての左右の部分が三本の紐でつながっていて胸の谷間がのぞけるようになっていた。
「すごくよさそうじゃない。大人のお姉さんって感じで。……というかすごく似合いそうだと思わせるあんたがなんかむかつく」
「ふふふ。ありがとう」
紫は私の憎まれ口もさらっと受け流して涼しげに笑った。
「霊夢はどう? いいのが見つかりそう?」
「うーん……もうちょっとかかるかも」
二人並んで水着を探す。
「あ、これとかいいんじゃないかしら」
「うん? ……あ」
紫が一着の水着を指差す。それはさっき私も目をつけた赤い水着だった。
「すごく可愛いじゃない。あなたに似合いそう」
「それは悪くないとは思うんだけど、ちょっと恥ずかしいかな。もっとおとなしいデザインのでいいよ」
私がそう言うと、紫はにっこりと微笑んだ。
「何言ってるのよ。若いんだからもっと弾けなくちゃ」
「……そんなこと言われても」
あんたにそんなこと言われたくない。そう言いかけた。でもできなかった。だって紫は本当に楽しそうに笑っているんだもの。紫は言外に違うことを言うこともよくあったけれど、彼女が悪気を持ってこういうことを言う人じゃないことくらい知ってる。
私は若い。そりゃ確かに若いけど、私が若いままいられるのなんて今だけなんだから。そんなことは当然わかってる。でも私は、紫には、紫にだけは、こんなことを言ってほしくなかった。私と紫は違う、そんな現実をこんなところで私に突きつけてほしくなかった。
「……ごめんなさい、また軽はずみなことを言ってしまったわね」
私は表情が暗くなるのを隠し切れなくて、そんな私を見て紫はばつが悪そうにうつむいてしまった。
「ううん、紫は悪くないの。私が勝手に落ちこんでるだけなんだから」
紫はわかっていないわけではないのだ。ただ、紫の何気ない一言に、私が勝手に連想してしまっただけのこと。
「いや、悪いのは私よ。……自分がこう言ったら相手はどう思うのか、どんなことを考えるのか。言葉っていうのはそれくらい当然考えてから言うものなんだから」
紫が下唇を噛むのが見える。悔しがるような、どこか焦ってさえいるようだった。
そんな紫を見るのが辛かった。私たちの事情は誰よりも紫が一番よくわかっている。私が落ちこむと紫も一緒に落ちこんでしまう。だからなおさら辛かった。
私たちはお互いに何らかの闇を抱えている。それでも私たちは旅に出た。いろんなしがらみはとりあえず忘れて、思いっきり楽しもうって。その中で、紫は私のことをいっぱい気づかってくれたし、私も私なりに……紫のことを想っている。
「そんなに自分を責めないで。紫が私のことで自分を責めると、私まで悲しくなっちゃうから。それに私、紫は悪気がないどころか、……私のことをいつも想ってくれてるって信じてる」
「……じゃあ、私はただ純粋に、子供にも大人にもなりきれない今のあなたにぴったりだと思ったってこと、信じてくれる?」
紫の不安そうな瞳と目を合わせる。
「もちろん。……じゃあさ、実は私もさ、私の好きな赤色の、可愛いのに格好いいこの水着が、恥ずかしいけどちょっと気になってたって、紫のためとかじゃなくて自分のためにこの水着が欲しいって言ったら信じてくれる?」
「ええ……」
「ね? きっと、そういうことなのよ。世の中ってさ、そんなに難しいことばかりじゃないのよ。私も他人のこと言えないけど」
互いのことを信じあえる。互いのことを想いあえる。ここから始まるんだ。どんなことがあっても、結局はこれがすべてなんだって、そんなふうに思うことができた。
「私はこのくらいであんたが嫌いになるほど甘くないからね」
私は手を差し出す。
「…………」
紫は私の手を見つめて。
「あなたのこと、子供にも大人にもなりきれないなんて言ったけど……、強くなったわね、霊夢」
そして私の手をしっかりと握ってくれた。
「あんたほどじゃないわ」
やっと紫は安心した表情になって、そして私たちは笑いあえた。
私たち、またひとつ仲良くなれたよね?
紫の手はとっても温かくて、私はさんざん偉そうなことを言ったけどやっぱり紫にはかなわないと思った。
私は赤い水着を買ってもらうことにした。誰がなんと言っても恥ずかしいのには変わりなかったけれど、私自身気に入ったし、紫が似合うと言ってくれたから。紫に会計をすませてきてもらうことにして、私はもう少しだけいろいろな水着を眺めた。
一人でいて冷静になると、さっきのことで急に恥ずかしくなってきた。
ああ、もう昨日といい、なんてことを言っちゃうのよ、この口は。体が火照って困る。あたりを見回す。見ず知らずの人にあんなところを見られたとは思いたくなかった。幸い、このあたりはお店の隅だし、少なくとも今は近くには誰もいない。
でも、私は周りに他人がいたとしても、きっと同じことを言っただろう。それに、自分でもびっくりするくらいすらすらと言葉が出てきた。後から思い返しても、自分に嘘をつくようなことは言っていないと思えた。言葉にすることで私は私自身の想いを理解しているのかもしれなかった。あるいは自分で考えても整理がつかない想いがあって、でも紫にどうしても知って欲しくて、その願いが言葉を紡ぐ力になってくれるのかもしれなかった。
ほとんど告白したも同然のことを言った気もするけれど、気持ちはむしろ晴れやかだった。もっと素直に紫と向きあえる、そんな期待で胸が一杯だった。
***
私たちは昼食を摂ってから海へ向かった。雨が降ることも多い時期らしかったけれど、雲一つ見えない快晴だった。
車を降りるとかすかにしょっぱい匂いがした。これが海の匂いなのだと紫は言った。焼きそばやらジュースやらかき氷やらを売っている露店が並んでいた。あたりを歩く人たちのほとんどは水着姿だった。私は紫について更衣室に向かう。
私たちは別々の個室に入って着替え始める。私はさっき買ってもらった水着を手にとって見た。今からこれだけを身に着けて外に出るのだと思うと緊張した。でも紫だって水着姿で出てくるのだ。私だけじゃないなら、大丈夫。
私は服を脱いで、まず水着のボトムを身に着ける。両脇の紐を結んで支えるデザインになっていて、ちょっと履きにくそうだ。右の紐を軽く結んで、左の紐も軽く結んで、それから右の紐を一度ほどいてからしっかりと結び、左の紐も同じようにした。ビーチに行ってからほどけたら最悪だ。お嫁に行けなくなっちゃう、なんて冗談が思い浮かぶ。ちゃんと紐を結べていることを何度も確認してから、水着のトップスを身に着ける。
胸に当たる部分を調節しながら首裏の紐を結ぶ。それから背中の紐を結ぶ。首裏の紐をほどいて結び直して、背中の紐もほどいて結び直して……。
なんだか心もとない。見えない部分だから結びにくいし、結べているかどうか確認するのも難しい。簡単にほどけてしまいそうな気がして不安になる。
「着替え終わった?」
紫が外から尋ねる。
「ううん、まだ。……ちょっと来てくれる?」
内側から鍵を開けて紫を招き入れた。
「あ……、似合ってるじゃん」
「ふふふ、ありがとう」
紫はちょっと照れくさそうに微笑んだ。
「あ、それでね、ちょっとお願いがあるんだけど、私の水着の紐、紫が結んでくれない? 自分じゃ見えないからちゃんと結べてるか不安でさ」
「ええ、わかった。ちょっとそっち向いてて」
私は紫に背中を向ける。
「一度ほどくから胸当てを持ってて」
私はうなずいて両手で水着を胸で支える。
「ほどいたわ。位置を合わせた? 首から結ぶわよ」
私は胸当ての位置を確認してからもう一度うなずく。
水着を支える手に胸の鼓動が伝わる。紫の指がときおり私の首や背中にふれるのがくすぐったくて、私は目を閉じた。
「ゆるく結んでもいいかしら?」
「ふふふ。やってみたら?」
こんなところでも冗談を欠かさない紫に、私は笑ってそう答えた。言葉とは裏腹に、紫の手から伝わる力や振動が頼もしかった。
「できたわ」
「ありがと」
私は紫の方を振り向く。
紫は一歩離れて私の全身を一瞥してから穏やかに微笑んだ。
「霊夢、すごく可愛い」
「ば、ゆ、紫……」
すごく恥ずかしかった。だって私、今までにないくらい、誰かに肌を見せている。水着はやはり少し面積の小さいもので、胸も脇の方が見えていたし、脚の付け根もちらちらと見えて、お尻も下の方がわずかにはみ出ているのがわかった。しかも紫に、こんな間近で見られて、可愛いだなんて言われてしまった。体が熱くなって汗をかいてしまった気がして、それすらも見えるかもしれないと思うとさらに恥ずかしくなった。
でも、嫌な気分じゃない。紫が私を見てくれる。いつもは勇気が出なくて見せられない部分をさらけ出して、そんな私を紫が受け入れてくれているみたいで嬉しくて、こんな機会を持てたことに感謝したかった。紫に体を見られてどきどきしてるけど、それがなんだか心地よくて胸が一杯になる。それに私だけじゃない。
「紫も、すごくきれいよ」
私も紫の水着姿を見つめる。すらりと長く伸びた腕と脚。腰は格好よくくびれていて、お腹は余分な肉がついていないのにしなやかさを感じさせる。細くてきれいな体つきなのに胸はふくよかで、胸を押さえるデザインの水着なのに胸元は高らかに突き出ていた。私のよりは布地の多い水着で、長い金髪もあいまって大人の女性らしい慎ましさを感じさせるのに、深くて柔らかそうな胸の谷間を大胆に見せつけていて女の私ですら見ているとくらくらしそうになる。きめ細やかな肌を見せる首元や肩にはうっすらと汗をかいているのが見えてなまめかしかった。
「…………」
紫は驚いたように目を見開いて固まってしまう。頬がぽっと赤くなったのが見えた。
「ありがとう。……い、行くわよ」
紫は目をそらして、個室を出ようと背中を向ける。
やっぱり紫だって恥ずかしいんだ。いつも余裕ぶってる紫だって、やっぱり女の子なんだ。それに、紫は肌を見せることにきっと慣れていない。いつも顔以外ほとんど肌を見せない服を着てるもの。もしかしたら私よりも水着姿を恥ずかしがってるのかもしれない。必死に余裕そうに見せかけていたのに、恥ずかしくてどうしようもなくて余裕のある表情を保てなくなったのかな、なんて想像すると紫が可愛く見えてきた。
ふと、紫は誰かに誉められ慣れていないのかもしれないと思った。たぶん、強いとか賢いとか言われることはあっても、きれいだねと言われることはあまりない、そんな人生を送ってきたんじゃないかという気がした。それならなおさら、紫のことを誉めてあげたかった。紫に、自分が魅力的で素敵な女性なんだって気づかせてあげたかったし、もっと彼女のいろいろな表情を見たかった。
紫について更衣室を出て、海に向かう。少し歩いたところで紫が立ち止まって肩越しに振り返った。
「霊夢」
「うん?」
「水着の紐、ちゃんと結んだのかって訊かなくていいの?」
「ああ、そういえばそうね……」
それは普段の私なら真っ先に尋ねたに違いなかった。そして紫がちゃんと結んだと言っているのに、いまひとつ信じられない顔をしている私の姿がすぐに思い浮かんだ。
でも今は違う。そんなことは尋ねない。だって、紫のことを信じてる。彼女がしっかり結んだと言ってもゆるく結んだと言っても、彼女が結んでくれる限りほどけるはずがない。
「ほどけたらあんたが責任取ってくれるんでしょ?」
紫の表情はよく見えなかったけれど、口元を歪めて得意げに笑った気がした。
「ええ。行きましょう」
お互いに何かを試すような、そんな言葉のやりとり。今までだって相手の反応を見るようなことをしてきたけれど、それもお互いに信頼しているからこそできたんだって、今ならわかる。
さあ、見せてよ。信じる者と分かちあう世界の輝きを、私だけでは届きえなかった幻想を――。
***
どこまでも、どこまでも、青い。
視界いっぱいに広がる、空と海。二つが接するその先を見通せず、無限を感じさせる。
海は深く雄大にただ私の目の前にあって、それでいて淡く優しく、そっと私を手招きする。
海のきらめきが、白い砂浜がまぶしくて、少し目を閉じる。
真夏の日差しを、さわやかな風を、両腕を広げて全身で受け止める。深呼吸して、潮の香りを体に染みこませる。自然に私が私でいられる、そんな喜び。
さらけ出した素肌に刻まれる熱気に、解放的な高揚感を抱く。それでいて大いなる自然に溶けこめるような安心感がある。
自分の汗の匂いが少し鼻について、早くあの海に入りたいと体が求めている。
ここは楽園なのだ。
誰もが晴れやかな表情で真夏のひとときを楽しんでいて、ここにいれば私は使命も掟も何もないただの少女だった。
紫は砂浜にシートを敷いて手荷物を置くとビーチサンダルを脱ぎ、海へと歩き出す。私もサンダルを脱いで、一歩一歩砂を踏みしめる。焼けるような大地の熱を感じる。足の指の間に入る砂が少しくすぐったい。
波打ち際まで来る。人々の歓喜の声にまぎれて、耳をすませると波が寄せて返す海の声が聞こえる。
一歩一歩、海に向かって歩く。冷たい。波が私の足元に打ち寄せて、少しとまどう。けれどそれは私の足首を優しく撫でただけでまた戻っていった。
膝下まで海水に浸かる。思っていたよりもずっと冷たく感じたけれど、きんとしびれるような感覚が心地よかった。でも太ももが水に浸かるところで、私は立ち止まる。
「冷たいね」
あまりの冷たさに、それ以上深く入るのがためらわれる。
「ええ」
紫もまた太ももまで水に浸かる場所で立ち止まっていた。
もう少しだけ進んでみる。内股が急激に冷えて、思わず体が震える。
「どうしよう。もっと入りたいけど、冷たくて入れないや」
そんなことをぼやく私に紫は優しく微笑んだ。
と、その時。
「うわ、何すんのよ!」
紫が腰を屈めたかと思うと両手で思いっきり水をかけてきた。とっさのことに私は目をつむることしかできない。
全身に水を浴びて急に体が冷える。お風呂上りにいきなり水をかけられたような感じ。ちょっと目に入った水がしみて、ちょっと口に入った水がすごくしょっぱかった。
「ふふふ、気持ちいいでしょ」
紫は相変わらずの笑顔だ。
「やったわね!」
私も負けじと紫に水を浴びせる。
紫はすかさず私に背を向けてかわした。私の水は紫の腰に少しかかっただけだった。
「悔しかったらここまでおいで!」
紫は振り返ってそう言うと、波打ち際に沿って走り出した。
「あ、待て!」
私もすぐに後を追う。水に足をとられて走りにくい。
紫が逃げて、ときおり振り返って私に笑って水をかけ、そのたびに私は全身に水を浴びた。やられっぱなしだったけれどそれが楽しくて、紫を追い続けた。
私は少しだけ気合を入れて走り、紫との距離を縮める。紫がまた水をかけようと振り返ったその瞬間、私はすかさず紫に思いっきり水を浴びせかけた。
「お返しよ!」
「きゃあ!」
私の反撃に紫は可愛い悲鳴を上げる。ようやく紫もびしょ濡れだ。紫はあまり水に濡れていなかったから、さぞかし冷たい思いをしていることだろう。
紫はぎゅっと目を閉じて立ち止まる。何かあったのかと思って顔をのぞきこむと、紫は顔を手で拭ってから笑った。私も微笑み返した。
「どう? 冷たい水を浴びる気分は」
「まだまだよ」
そう言って紫は私に水をかける。同じヘマはしない。私は背中を向けてかわす。
「ここまでおいで!」
そう言って私は沖に向かって走った。じゃぶじゃぶと音を立てて、腰が、お腹が、胸がゆっくりと水に沈んでいく。さんざん紫に水をかけられた後だったから、もう冷たさに体が慣れている。
「わ、冷たい、冷たい!」
紫も私の元に走ってくる。紫は私ほどは水を浴びていなかったから、冷たさにちょっとだけ顔をしかめていた。
やがて私たちは首元から上を残して全身が海に入った。体が少し浮いて、かかとが砂に着かない。両腕を浮かべてバランスを取る。
「気持ちいいね」
「でしょ?」
紫も私と並んで立つ。紫は私より背が高かったから私よりは立ちやすそうにしていたけれど、私と同じような姿勢で立っていた。
海水の冷たさはひとたび慣れると心地よく、熱い体を冷やしてくれた。ゆるやかな水の流れを全身に感じる。海に優しく抱きしめられて揺すられているみたいで、体の芯までいやされていくように感じる。
ここで昼寝したら気持ちいいかもしれない、なんて思った。
「ここでお昼寝したら気持ちよさそうなんて思ったでしょ?」
「思ってないわ。そんなことしたら溺れちゃうわよ」
そう答えると紫は愉快そうに微笑んだ。たぶん嘘だってばれてる。
でも一方で、私はもっと遠くに行ってみたいと思っていた。地平線の方を見つめていると、まだまだ私の知らない素晴らしい場所があるような気がして、誘惑されているみたいだった。
「浮き輪を借りてきましょう」
「え?」
「もっと遠くに行きたいんでしょ?」
「……どうしてわかったの?」
「だってもっと遠くに行きたそうな顔してたもの」
紫は笑いながらそう言い、それからふっと真剣な表情になったかと思うと海の方を見た。
「私たち、もっと遠くに行けるわよ」
「そっか……。そうだよね……」
そんな簡単に諦めちゃダメ。たとえ泳げなくても遠くに行く方法はある。海を見つめる紫の横顔がそう語っているような気がした。
私たちは一度砂浜に戻って浮き輪を借りてきた。ついでに水中メガネも借りた。つけると鼻では呼吸できないようになっていて、代わりに口で呼吸するためのパイプがついていた。紫にならって額につけて歩こうとしたけれど、頭をがっちり締めつけられるのが嫌だった。ずっとつけてると頭が痛くなりそう、とぼやきながら外して手に持つと、紫も笑いながら私にならって水中メガネを外した。
腰まで水に浸かるところまで歩いてから、私たちは浮き輪の中に入った。そのまま歩くとすぐに足が砂に着かなくなり、私の体を支えるのは浮き輪だけとなった。浮き輪の穴はちょうどいい大きさだったけれど、油断して万一落ちてしまうと溺れてしまうと思ったから、自然と浮き輪を持つ腕が緊張した。
紫の真似をして適当に脚をバタバタさせていると前に進んだ。けれど波に流されてしまうこともあってゆっくりとしか進まなかったし、紫からどんどん離れてしまう。紫は私が遅れていることに気づくと戻ってきてくれた。泳ぐために脚を動かすときは、膝をあまり曲げずに脚の付け根から大きく動かすように意識するといいと教えてくれた。なんだか慣れない脚の動かし方だと思ったけれど、確かに少し速く進める気がした。それに、紫が私の浮き輪の紐を持って私を引っぱってくれるのが頼もしかった。
砂浜からだいぶ離れたところまで来た。水は澄んでいて、かなり深いところまで見通すことができた。
「あ、魚が見える……」
水面が光を反射するせいもあって見づらかったけれど、よく見ると魚が数匹泳いでいるのが見える。
「水中メガネの出番ね」
紫は水中メガネを着けると、水面に顔をつけて水中をのぞきこんだ。私も紫にならって手に持っていた水中メガネを身に着け、水中をのぞきこもうと身を乗り出す。しかし浮き輪の後ろの部分が水面から浮くのを感じて、あわてて元の体勢に戻る。
紫は浮き輪の後ろの部分を浮かせたまま、器用にバランスを保って水中をのぞいていた。私も真似しようとするけれど、もし前のめりになりすぎて浮き輪がひっくり返ってしまったらと思うと怖くてできなかった。
やがて紫が顔を上げる。
「あれ、どうしたの?」
「あの、海を見ようとすると、浮き輪が引っくり返りそうになって、見られないの」
そう正直に言うのが恥ずかしかった。周りには私よりも小さな子供が浮き輪も何もないままこのあたりを泳いでいる。それなのに私は、浮き輪があっても海をのぞきこむことすらままならない。あんなにきれいに見えた海も、足が地面に届かないと怖くて、私一人では浮き輪につかまってぷかぷかと浮いているのが精一杯だった。私は水に慣れていないからしょうがない、そう自分に言い聞かせるけれど、それでも惨めだった。
「大丈夫よ、私が持っていてあげるから」
しかし紫はそんな私を一言も責めず、優しく笑ってくれた。それだけで私の悩みは晴れていく。
きっとこの笑顔が、私の救いだった。旅に出てからずっと、私は何もできなくて紫に迷惑をかけてばかりだった。それでもいつも紫は笑って私を支えてくれたし、紫さえそばにいてくれればできないことなどなかった。紫のさりげない、でも深い気づかいが心にしみて、もっと彼女が好きにならずにはいられなかった。
「さあ」
紫が私の浮き輪の紐をつかんでくれる。
「うん、やってみる」
そして私は身を乗り出す。
少しずつ重心を前に移して、顔が水面にふれる。
見えた! 水は余計なものが何も溶けていないかのように透き通っていて、海底にサンゴや海草が生えているのが見える。魚も水面上から見たときはぼんやりした何かが動いているというくらいにしか見えなかったけれど、今は一匹一匹の魚の色や模様がはっきりと見てとれた。ある魚は青と黄色のしましま模様で、また別の魚は橙色の表面に白色の線が三本ほど縦に入っていた。魚と言えば普段食べている地味な色の魚を想像していたので驚いた。どの魚も鮮やかな色をしていてきれいだったし、入りみだれて泳ぐ様はなんだか楽しそうだった。
顔を上げて、紫の方を向く。
「どうだった?」
「うん、カラフルできれいだった。ありがと」
私がそう答えると紫は明るく笑った。胸がどきどきした。どんなに澄んだ空よりも、どんなに雄大な海よりも、どんなに色鮮やかな海中よりも、私には紫の笑顔がきれいでまぶしくて仕方がなかった。
それから私たちはもっと沖の方へと泳いだ。振り返るたびに砂浜が遠ざかるのが心細かったけれど、紫と一緒にいるから何も心配することはなかった。
体は海に浸かっているからひんやりと心地よかったけれど、頭はさっきからずっと水に濡れていないから日光が当たって熱かった。私の髪の毛が黒いこともあって、頭に手を当てると手が焼けそうだった。浮き輪から抜けて溺れないように気をつけながら、私はときどき手を海面につけては頭につけるということを繰り返した。何度かやっていると、紫が水をかけてあげようかと言ってくれた。少し口元がニヤついていたから、もしかしたら紫が私に水をかけたいだけなのかもしれなかったけれど、私は水をかけてくれるようにお願いした。紫に背中を向けると、彼女は私にばしゃばしゃと水をかけてくれた。頭だけが、最初に海に入ったときみたいに冷たく感じて、紫が水をかけ終わるころには頭がすっきりした気分だった。
その後、私にも水をかけてよと紫が言った。私とのつりあいを取ってくれたのか、金髪でもやはり頭が熱いのか、それとも単に私に水をかけられたい気分だったのかはわからなかったけれど、少なくとも私は紫に水をかけたいような気がした。私は右手で浮き輪を押さえつつ、左手だけで紫にぱしゃぱしゃと水をかけた。水をかけ終えて紫が振り向くと、彼女はなんだか楽しそうだった。それで私までなんだか楽しい気分になった。
そんなことをしながら私たちはのんびりと沖合いに向かった。波のせいでゆっくりとしか進まなかったけれど、確実に砂浜から遠ざかっていった。
近くには誰もいなかった。このあたりを浮き輪なしで泳ごうという者はいなかったし、浮き輪ありで来ようという者も私たちしかいなかった。広い海の中、私たちは二人きりだった。行こうと思えば紫と二人でどこまでも行けるような気がした。紫と一緒にぷかぷかと波に揺られて世界中の海を巡るところを夢想した。馬鹿らしい想像だとはわかっていたけれど、素敵だと思った。
「ここまでね」
紫の言葉にはっとした。前をよく見ると、水面下に網が張ってあるのが見える。
「がんばれば、そこの網を越えてもっと遠くに行けそうじゃない?」
「そうねぇ……。行けなくはないと思うけど、たぶん危ないわ。きっと、網のおかげでこちらには来られない危険な生き物がたくさんいるもの」
私たちは沖合いを見やる。どれだけ遠くまで来ても、空と海以外は何も見えない。あるいは、この先には空と海が続く以外には何もないのだろうか。
「もっと遠くに行きたいの?」
紫は微笑んでそう言った。私はもっと遠くに行きたいのだろうか。紫の顔を見ながらぼんやりと考える。何かがしたい、そんなくすぶるような欲求を感じていた。でもそれが何かはわからなかった。
だんだん考えるのが億劫になって、なんとはなしに紫の顔を眺め続けた。紫は何も言わず、きょとんとしたり、にこにこしたりした。やがて彼女は気だるげに目を軽く閉じた。私たちは互いの瞳をずっと見つめあった。
海に揺られて、風が吹いて、気持ちよかった。うとうとしてきて、私は考えることをやめた。ここには私たちしかいなかった。ただ、紫の瞳だけが目に入った。彼女の目はきれいに澄んでいて、深い輝きを湛えていた。彼女の瞳を見つめていると、互いに何もかもわかりあえて、つながってひとつになれるような気さえした。
ふと、紫が顔を背けてしまう。一瞬、何か大切なものを失ってしまったような錯覚にとらわれたけれど、彼女はまたこちらを向いて照れくさそうに微笑んだ。
「私たち、変ね。こんなところで見つめあっちゃって」
そこでようやく私も我に返った。
「そうだよね。何やってるんだろ、私たち」
私たちは笑いあう。私たち二人が、なんだかおかしなことをしている似た者同士のように感じられて、妙な一体感があった。
「でも、どうするの? いつまでもこうしているわけにはいかないわ」
「うん、帰ろう」
ごく自然に、帰ろうと言えた。はるかなる海にまどわされることはもうなかった。
「私、気づいたの」
ようやくわかった、私自身の望み。
「私、ただ遠いところに行きたかったわけじゃないのよ」
ただ、紫がそばにいてくれて、紫が笑ってくれれば私は幸せだったんだ。
紫は一瞬驚いたような表情をしたけれど、すぐに笑顔になった。
「私たち、やっぱり気が合うわ。私もね、ただ遠くに行けばいいってもんじゃないなと思ってたの。だって私は……」
紫は笑ったまま言葉を濁す。
「私は……?」
「ううん、なんでもない。帰りましょ」
紫は明るく笑ってそう言うと、私に背中を向けて砂浜へと泳ぎ始めた。そんな楽しそうな紫を見て、私も気だるかった気分に元気が戻る。
紫が何を言いかけたのか少しだけ気になった。もしかしたら私に関係のあることかもしれない、と紫の背中を見て思った。
紫は一人で先に戻ることに飽きたのか、すぐに振り返って私を待ってくれた。それから、沖合いに来たときと同じように二人並んでのんびりと泳いだ。ちょっと疲れを感じていたけれど、波のおかげで思ったよりも速く前に進むことができて、どんどん砂浜が近づいてくるのが見えたから気は楽だった。
砂浜に戻ると、少し休憩しようと紫が提案した。海に上がると体が重く感じられてどっと疲れが出てきたので、私は彼女に賛成して二人でビーチパラソルを借りにいった。砂浜に戻る前に紫がサンオイルというものを買ってきた。肌が日焼けして荒れるのを抑えるものだと彼女は教えてくれた。
ビーチパラソルを立て終わると、紫はさっそくサンオイルを自らの体に塗り始めた。少しずつ手に取って長い脚、お腹、胸元、腕、顔にサンオイルを丁寧に塗りこんでいく様は妙になまめかしかった。
それから紫は少し考える素振りをした後、わずかにはにかみながら、背中に塗ってくれるかしらと言った。私はいいよと言ってサンオイルを受け取った。
紫がうつ伏せになる。しなやかに締まった背中が格好よかった。変にどきどきしてしまうけれど、とにかく手に取ってまず腰から塗る。紫の背中は温かくなめらかで吸いつくような手触りで、サンオイルがよく延びた。オイルの名に違わず、ぬるぬるとしていた。サンオイルを塗ったところが妖しく輝く。思わず顔が熱くなる。はっきり言って、エッチだと思った。でも今さら断るわけにもいかなかった。気持ちのよい手触りだったから塗っていて余計に恥ずかしくなった。
腰と背中に塗り終わると、紫は私に礼を言って、あなたの背中にも塗ってあげると言ってくれた。私はおとなしくうつ伏せになったけれど、内心、あのぬるぬるしたのを自分の体に塗られるのかと思うと変な気分だった。紫も私の腰から塗ってくれた。確かにぬるっとした感覚はあったけれど、思ったよりも気持ちよくて心が安らぐようだった。紫の手つきはとにかく優しかった。撫でるようにマッサージしてくれて、ときおり手の平や指の腹で圧迫してくれた。
だんだんうとうとしてくる。もう少しで眠ってしまいそうだと思ったところで、ただサンオイルを塗るだけにしては時間がかかりすぎていると思った。いつまでやってんのよ、と言ってみたら紫は悪びれもせず笑って、前にも塗ってあげましょうかなどと訊いてきた。ちょっとだけやってもらいたいと思ったけれど、さすがに恥ずかしかったので断って自分で塗った。
私たちはシートの上に並んで寝そべった。背中には砂の熱が温かくて、肌には風が涼しかった。パラソルの日陰の中で疲れがいやされていく。自然と呼吸がゆっくりになっていく。人々の声が、波の声が、遠く聞こえる。
不思議と眠くはならなかった。この静けさをもっと味わいたくて、もったいなくて眠れなかった。紫は目を閉じて安らかに呼吸していた。
「起きてる?」
「ええ、どうしたの?」
「ううん、呼んだだけ」
意外とはっきりした返事だったので、彼女も眠くはないのかもしれなかった。眠っていたのならもちろんそれはそれでかまわなかったのだけれど、私が呼びかけて、紫が応えてくれる、そんな単純なことが嬉しかった。
ふと、こんな穏やかな時間がいつまでも続くような、そんな気がした。明日になっても、明後日になっても、私たちは笑いながら水を浴びせあって、浮き輪で沖の方まで泳いで、それからこんなふうにビーチで横になるのだ。もう少しの間しかここにいられないということが嘘のようだ。だって来たときと変わらず、ここは暑くて、明るくて、大きくて、情熱的だ。私の知っている場所と違って、ここでは時計があっても秒を刻む音が聞こえない気がした。だから、こんな時間がいつまでも続いてほしいと願うまでもなかった。こんな幸せな時間がずっと続くんだと、私は心のどこかで信じていた。
しばらく休んでじっとしてはいられなくなった頃、私は体を起こした。呼ぶまでもなく、まるで私がそうするのを待っていたかのように紫も体を起こした。私たちはシャワーを浴びてサンオイルを落としてから再び海に向かった。しばらく砂浜にいて体が熱くなっていたから、海水がひどく冷たく感じた。さっきと同じように紫が私に水をかけてきて、私たちは追いかけっこをしながら水を浴びせあった。紫は終始笑顔を浮かべていた。私もたぶんずっと笑っていた。さっきと同じことをしているだけなのに、飽きないどころか楽しくて仕方がなかった。
それから、紫に泳ぐところを見せてもらった。すごく美しかった。全身が流れるように動いていて、思わず見とれた。動きに無駄も乱れもなく、波に逆らって驚くほど速く進んだ。少し泳いだところで彼女は向きを反転し、今度は蛙みたいな泳ぎ方で戻ってきた。長い脚を存分に活かして一掻きごとに大きく進んだ。
紫は砂浜に戻ってくると、お気に召されましたか、などとわざとらしく言った。大義であった、などと答えるのが私の役割なのかもしれなかったけれど、私はすっかり心を奪われていて、一言、格好いい、とつぶやいただけだった。紫は笑った。頬が赤かった。それはただの日焼けの跡かもしれなかったし、恥ずかしかったのかもしれない。
私は少しだけ泳ぎ方を教えてもらうことにした。紫はクロールという、腕を回しながら脚をバタバタさせて泳ぐ方法を教えてくれた。腕の回し方も脚の動かし方もなんとなくわかって、とりあえずやってみようとしたら、そもそも水にまともに浮かぶことさえできなかった。顔を水面につけたままおとなしく水に浮かぶことがどうしてもできなくて、私は溺れかけている人よろしく体をバタつかせた。紫はそんなにすぐにできるようになるものではないわと言って笑った。少しだけ悔しかったけれど、紫が笑ってくれたから充分だった。
***
「そろそろ帰りましょう」
ふいに紫がそう言った。
「うん」
私は深く考えずにそう答えた。
「私は借りてたものを返しにいくけど、あなたはもう少しここにいる?」
「うん」
紫は砂浜に戻り、ビーチパラソルをたたみ、浮き輪と水中メガネを持って立ち去った。
彼女を見送ってから、私は違和感を感じた。
静かすぎる。波の音がときおり聞こえるだけで、あたりにはほとんど人影がなかった。
涼しすぎる。さっきまでの燃えるような熱気が嘘のようだった。
暗すぎる。砂浜はさっきまでの白い輝きを失い、自分の影が長く伸びて不気味だった。
太陽はどこ? 私は空を見回す。
あそこだ。海の上だ。さっきまで、あんなところにはなかったはずだ。
確かにそれは輝いていたけれど、あまりまぶしくなくて、それに赤い。
太陽は長く生きて少し疲れて、眠りにつこうとしているかのようだった。
消えてしまう前の最後の生のきらめきを精一杯、放っているみたいで。
――見届けなくてはならない気がした。
確実に落ちていく太陽は悲壮感さえ漂わせるのに、美しかった。少し見ていると太陽が目に見えて沈んでいくのがわかって、時の流れが速く感じた。
まだ太陽はあたりをほのかに赤く照らしていた。さっきまで若々しくて、何もかもを明るくする力強さがあったのに、今や憂いを秘めた儚げな表情をしていた。私はもう充分に楽しんだ、そう自分に言い聞かせて空の中心にいるのを諦めたかのようだった。
ふっと風が吹いて、体が冷えていることに気がつく。太陽はもう私に熱をくれなくて、私は両腕で自分を抱きしめることしかできない。
体がぶるぶると震えだす。歯がかちかちと音を立てる。それでも私は目をそらせない。
「あ……」
ふわりと空気が動くのを感じた瞬間、誰かに背後から抱きつかれた。紫だった。
「だ、抱きつかないで……」
私はとまどってしまって、かすれた声でやっとそれだけつぶやいた。
「嫌よ……」
紫はぎゅっと力を込めて私を抱きしめた。声が震えていた。
「離さない。絶対に」
「……うん」
私はそれだけ答えて、私の首に回された紫の腕に両手を添えた。
紫は温かかった。紫はもう一方の手で私のお腹をさすってくれて、胸とお腹を私の背中にぴったりとくっつけてくれた。
太陽がまた海に近づく。彼女は孤独だった。彼女には抱きしめてくれる人が誰もいなかった。空の中心で輝いてみんなの人気者になっても、最後には一人寂しく死んでしまうんだ。
こんなにきれいで、こんなに温かいのに、終わってしまう。
すべてが、終わってしまう。
涙が出た。
ただ静かに涙が流れて、ゆっくりと頬をつたう。
悲しかった。一日が終わってしまうこと。旅が終わってしまうこと。もっとここで紫と一緒に過ごせなかったこと。紫を心配させたくなくて声をあげて泣くこともできないこと。何もかもが悲しかった。
寂しかった。紫はこんなにもそばにいてくれるのに、永遠なんてありえなくて、私と紫は別の人でひとつになんかなれなくて、結局私は一人で、そんなことばかりが寂しかった。
体がぽっと熱くなる。泣いているから、なんて単純なものじゃない。どうして太陽は冷たくなって沈んでしまうの。あんたはそれでいいの。たった一人で消えてしまって、それで満足なの。私は、私はもっと……。
紫が頭を撫でてくれる。私の体を温めてくれたその手で、私の心を温めてくれた。孤独な私のすべてを、ただ優しく包みこんでくれた。
「うっ……うあぁ…………」
もう止まらなかった。涙が溢れ出す。
私は声をあげて泣いた。もう何もかもわからなくなってしまった。どうしようもなく悲しくて、寂しくて、胸が凍ってしまいそうなのに、紫の想いが温かくて、体が溶けそうなくらい熱かった。
紫に頼らずにはいられなかった。体が震えて、足に力が入らなくて、私は紫に体重を預ける。紫は何も言わずに私を支えてくれた。
太陽が海に接する。
終わってしまう。本当に何もかもが終わってしまう。嫌だ。もっと紫と笑いあっていたいよ。もっともっと、いつまでも紫と一緒にいたいよ。
太陽が海に飲みこまれて、どんどん消えていく。私まで飲みこまれていくような気がして、紫の温もりだけがもう私のすべてだった。どうせなら紫が私を奪って飲みこんでくれればいいのに。
「うぁぁっ……ああぁ、ああぁっ…………!」
太陽はもう半分ほど見えなくなって、見る見るうちに消えていった。ほんの少し前まであたりは赤くてきれいで、海もまだ淡く輝いていたのに、もはや自分だけをぼんやりと明るく見せるのが精一杯みたいだった。すべて沈んでしまう頃には私の体もすべて涙になって消えてしまう気がした。紫と一緒にいられないのなら、いっそこの涙を、私の想いを紫に叩きつけてしまいたいとさえ思った。
そんなことをしても紫を悲しませるだけなのに。私はこんなことを願ってしまった私が嫌になって、いっそう激しく泣きじゃくった。そんなどうしようもない私を、紫は抱きしめて、撫でてくれて。
――紫はいつまでも私を愛してくれた。
***
あたりはもうすっかり暗くなっていた。太陽は向こう側に隠れて、夜が来た。いっぱい泣いて少し落ち着いて、私は紫の顔が見たくなってもぞもぞと動くと彼女は腕をゆるめた。
「落ち着いた?」
振り返ると紫は優しく笑ってくれた。彼女の目元がわずかに濡れていた。
「……馬鹿」
私は紫に抱きつく。私の胸が、お腹が、腕が、紫の温もりでいっぱいになる。
どうしてあんたまで泣いてるのよ。あんたまで泣かなくたってよかったのに。そんな憎まれ口を思いついたけれど、それでも紫が一緒に泣いてくれたことが嬉しかった。代わりに紫の胸元に頭を寄せて、私はまた泣いてしまう。
「あ……、私、なんかまた悪いことしちゃった?」
私が急にまた泣き出すから紫があわててしまった。
「ううん、あんたは悪くないの。……でもやっぱりあんたが悪い」
自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
「え、あ……、ごめん」
「違うの。そうじゃないんだけど……」
言葉を濁らせてしまう。私ってやっぱり素直じゃない。はっきり言わなくっちゃ。どうして欲しいのか、言わなくちゃ伝わらない。
「もう少し、このままでいさせて」
私はそう口に出して言った。言う前はなんだか恥ずかしかったけれど、言ってみたらたいして恥ずかしくなかった。
「ええ」
紫はそう言ってまた私を撫でてくれる。
「少しなんて言わず、あなたが望むだけ一緒にいてあげるから。……泣きたいだけ、泣けばいいんだから」
紫が優しければ優しいほど、私は胸が熱くなって涙が止まらなかった。
泣いて、泣き止んで、また泣いて。一生分泣いた気がするくらい泣いた頃、私は顔を上げた。
「大丈夫?」
紫はさっきと同じように笑ってくれた。
「うん、今度こそ大丈夫だと思う」
今度は私も笑い返せた。
「もっと泣いていてもいいのよ?」
「ううん、ありがと。私は本当に大丈夫」
だって、まだ紫がそばにいてくれるから。
「風邪引いちゃうから、帰ろ」
「そうね。もう帰りましょうか」
私たちは海に背中を向けた。もう私たちは泣かなくても大丈夫だった。
それから私たちはシャワーを浴び、服に着替えた。肌が日に焼けたからか、シャワーの水が少しひりひりした。妙な感慨にふけりながら脱いだ水着を眺め、それからタオルにくるんだ。
車に乗りこむとすぐに眠気が襲ってきた。紫に申し訳なくてがんばって起きていたけれど、目はほとんど開かなかったし、頭がこくりこくりと揺れた。
「寝てもいいよ」
紫はそう言ってくれた。
「さんざんあんたを困らせておいて、ここで眠ったらあんたに悪い」
私はそう言ったけれど、今にも寝てしまいそうだった。
「今さら遠慮なんかしなくていいのに」
しょうがないわね、という感じで紫は少しあきれたような笑い方をした。
「今日は私に甘えちゃってもいいのよ」
「そう言われると甘えたくなくなった」
「じゃあ私に甘えちゃダメ」
「……そう言われると甘えたくなってきた」
なんか子供扱いされてるような気がしてきた。でも実際に私は紫に頼ってばかりだったし、それにもう眠くて、子供扱いされてもいいやという気になってきた。
「ごめん……、ううん、ありがとう。ちょっと寝るわ」
「ええ、おやすみ」
「うん、おやすみ……」
たくさん遊んで、たくさん泣いて、私はもうへとへとだった。目を閉じるとすぐに意識が遠のいた。
紫に揺り動かされて目を覚ます。もうホテルに着いたらしい。寝ぼけ眼のまま荷物を持って紫についてホテルに入る。
紫は昨日と同じようにカウンターで手続きをした。そばで話を聞いていると、どうやら一人用の部屋しか空いていないらしかった。紫はちょっと悩んでから私に、一人用の部屋でもいいかしらと尋ねた。私がいいよと言うと、紫は手続きをして部屋の鍵を受け取った。
部屋に着くと、確かに一人分のベッドしか置いてなかった。
「ごめんね、霊夢。私がさっさと予約しなかったから。私、床で寝るわ」
紫は申し訳なさそうな顔をしてそんなことを言った。
「何言ってんのよ。紫が謝るようなことじゃないわ」
「でもあなたが寝る場所が……」
「あんたが床で寝るんなら私も床で寝る」
さんざん紫に苦労をかけているのに、こんなところで私だけいい気分になるなんて嫌だ。
「霊夢……」
「一緒に寝ればいいじゃない。充分入れるわよ」
私がそう言うと、紫は弱々しい表情になる。
「……あなたは嫌じゃないの?」
その訊き方は、ちょっとだけずるいと思った。嫌なわけないけれど、嫌じゃないと答えるのは恥ずかしい。
「嫌じゃないよ」
それでも私ははっきりと答えた。
「……いいの?」
「別に私を襲うわけじゃないでしょ。私はあんたを信じてる。何も問題ないじゃない」
まったく紫は変なところで控えめなんだから。
「私にいきなり抱きついておいて、私と寝るのが嫌だなんて言わせないわよ」
ちょっと脅してみる。自分でも卑怯なやり方だと思ったけれど、どうしても紫を説得したかった。
「あんたはあんたで、もっとずうずうしくてもいいのよ。いつもみたいに不敵に笑って、私と一緒に寝るのが嫌ならあなたが床で寝なさいとぐらい言いなさいよ」
私がそこまで言うと、やっと紫はほっとしたように微笑んだ。
「……そっか、私そんなふうに思われてたんだ」
「あ、いや、そういう意味じゃないの。ごめん」
「ううん、ありがと。私、変なことで悩んでたわね」
紫は穏やかに微笑んだ。
「私と一緒にベッドで寝る? それともあなただけ床で寝る?」
「もちろんあんたと寝るわ」
私はそう宣言した。やっぱり恥ずかしい。紫と一緒のベッドで眠るなんて。そもそも一緒に寝るという言い方がいやらしい。でも急に紫と一緒に眠れることになったのが嬉しくて、胸が高鳴った。
「よし、大丈夫ね。これであんたが床で寝てたら、私、怒るからね」
「そんなことしないわよ」
「じゃあ今日は紫が先にお風呂入っていいよ。私、眠くてたまんない」
紫が床に寝ないということで安心すると、思い出したように私は眠くなった。
「さっきシャワー浴びたし、お風呂に入らないで寝てもいいと思うわ」
「うん、たぶんあんたがお風呂入っている間に寝ると思う」
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
私はベッドに横たわり、片側に寄って目を閉じる。紫がシャワーを浴びる音を聞いているうちに私はまた眠りについた。
***
いい匂いがする。
ふんわり甘くて、優しい匂い。
なんの匂いだろう。
胸一杯に吸いこむ。
頭が覚めて、目を開ける。
紫の寝顔が視界一杯に広がった。
「あ、わ、わ…………」
どうなってるの、これ? 私は体を起こす。
紫が私の隣で眠っていた。そうか、そういえば私が寝る前に、一緒に寝ようという話をしていたんだっけ。
ちゃんと紫は私の隣で眠っている。安心した。
でも、すごくどきどきした。紫が目の前で眠っていて、それに、すごくいい匂いがした。いい匂いだなぁとか思いながら胸一杯に吸いこんじゃった気がする。
うわ、恥ずかしい。まさか紫、寝たフリしながらほくそ笑んでたりしないわよね?
私は逃げるようにベッドから出て、とりあえずお風呂に入ることにした。
服を脱いで鏡を見る。肌が全体的に少し赤く日焼けしていて、水着を着けていた部分だけが浮き出たように白かった。自分の体なのに、なんだか変な感じ。
シャワーを浴びる。また少しだけひりひりした。髪を洗う。海水の成分が残っているのか、指の通りが少し悪かった。体を洗う。日焼けした肌のために気持ち弱めに体をこすったけれど、思ったほど痛くはなかった。
体を洗い終わった後、またシャワーを浴びる。全身をつたう水が気持ちよくて、昨日も同じようにシャワーを浴びたことを思い出す。あれから一日しか経っていないことが信じられなかった。紫と同じ部屋で寝て起きて、水着を買いに行って、水を浴びせあって遊んで、沖合いまで泳いで、砂浜で休んだ。ずっと紫と一緒にいられたことが純粋に嬉しかった。いっぱい笑いあえて、いっぱいわかりあえて、もっと親しくなれたと思う。
そして夕焼け空を見て、いっぱい泣いて、紫が抱きしめてくれた。あの時の気持ちは、私自身今でもよくわからない。悲しかったけれど、幸せだった。そういうことなのかもしれなかった。すごく充実して楽しい一日だったけれど、二度と帰ってはこない。過去の思い出として抱きしめるしかないのだ。
シャワーを止めて、紫の温もりを思い出す。すごく、温かかった。すごく幸せだったから、すごく悲しかった。いつまでも続くわけじゃないとわかっているからこそ、すがりたくなるのだろうか。また涙が出そうになる。
あの温もりももう二度と帰ってはこないのだろうか。そう考えると胸が締めつけられて、怖くなって、私は急いでお風呂から出る。戻らなくっちゃ。紫はまだあそこにいるんだから、いなくなる前に戻らなくっちゃ。
紫は規則正しい寝息を立てて、さっき見たときと同じ穏やかな表情で眠っていた。それだけで私はなんだか安心する。
眠ろうとして、机の上にメモ書きがあることに気がつく。
サンドイッチが冷蔵庫の中にあるから、お腹が空いたら食べてね
ゆかりん
「ゆかりんって誰よ」
思わず吹き出す。冷蔵庫を開けてみると確かにサンドイッチが入っていた。カツサンドと野菜サンドのセットだった。
お腹がぐぅっと鳴る。そういえば昼食の後、何も食べていなかった。きっと私が眠っている間に紫がコンビニに寄って買ってきてくれたのだろう。ささやかな気づかいがありがたかった。
椅子に座って食べる。紫の顔がよく見える。ゴミ箱にはすでにサンドイッチを包んでいたビニールが入っていた。紫も私の寝顔を見ながらサンドイッチを食べたのかもしれない。でもよく考えたら私は反対を向いて寝ていたから、こちらからは寝顔は見えないはず。もしかしたらわざわざ反対側に椅子を持っていってそこで食べていたかもしれないなんて想像すると、おかしかった。
紫の寝顔は可愛かった。紫の顔といえば、端正な顔立ちで不敵に微笑んでいるという印象が強いから、可愛いというよりは美人というふうに思っていた。でもその安らかな寝顔は、やはり美人というよりは可愛かった。案外、子供っぽい顔つきだと思った。一方でその体つきは色っぽい。長い手足。女性らしい腰つき。豊かな胸。反則だと思った。何をどうしたら、こんなに細いのに格好よくて、胸もこんなに大きくなるんだろう。やっぱり紫は胡散臭い。
サンドイッチを食べ終えると私は紫の隣に潜りこんだ。温かくて柔らかい匂いにくらくらしそうになる。どきどきするのに、どこか安心する。少女臭だの華麗臭だの言っている連中は、紫がこんなにいい匂いがすることを知らないんだ。でも別に知らないままでいい。今、私だけが紫を独占しているんだと思うとなんだか誇らしかった。
紫は確かに目の前にいる。彼女に抱きしめられる温もりは本当に日没と共に終わってしまったのだろうか。彼女は手を伸ばせば届く距離にいる。体温をほのかに感じることのできる場所にいるのだ。
その胸に飛びこんで、甘えたい。はっきり好きだと言って抱きついてしまえば、すべてが決するのだと思った。私のこの悲しさも寂しさもすべて消えてなくなって、ただ幸せに愛しあう、そんな未来が待っている気がした。
そんなはずはない。私には使命がある。誰かと結びあう余裕があるとは今でも思わない。彼女にも使命がある。私が彼女以外、あるいは彼女が私以外の誰かと結びあう以上に、私と彼女が結びあうことは難しく感じられた。互いに互いが弱みとなってしまうからだ。それに私は人間で彼女は妖怪なのだ。私はともかく、私が死んだ後に彼女に辛い思いをさせることになる。問題は山積みなのだ。
何もかも忘れて愛しあえたらいいのにと思った。実際、旅行に出てからはほとんど忘れていたのだ。この数日の間、難しいことを考えずに紫とふれあっていたら、紫のことがもっと好きになってしまったみたい。ちょっと油断したなと思わないでもないけれど、まずいとは全然思えなかった。そんな自分がすでにまずいのかもしれない。
好きだと言えず、後戻りもできず、苦しかった。この微妙な距離感は心地よくもあったけれど、いずれはっきりさせなければならないのだと思うとやるせなかった。たぶんお互いにすでに愛しあっていたけれど、口ではお互いに言わない。それでなんとかこの距離を保っているのだった。
それはどのくらいの距離だろう。私はもう少し紫にすり寄って、彼女の胸元に顔を近づける。きっと、このくらいだ。抱きあわないけれど、紫の匂いがより濃くはっきりと感じられる距離。全身が熱くなってとろけてしまいそうな甘美な香り。何度も胸一杯に吸いこんだ。抱きつくことはできなくても、充分に幸せだった。自分のことを馬鹿だ、変態だと思ったけれど、やめられなかった。私からこの温もりを奪ったなら、一体どんな幸福が残るというのだろう。今、これ以上紫から離されたなら、きっとまた泣いてしまう。だから今は、このくらいなら許されてもいいよね?
いつまでもこうしていられたらいいのに。いずれ別れなくてはならない未来しかないのなら、太陽なんか昇らなくていい。私はこうしていられるだけで幸せ。これ以上は求めないから、もう抱きあえなくたっていいから、紫を感じることのできるこの場所にいさせてよ……。
ふわふわと、温かくて、柔らかい感触。
私のすべてを優しく包みこんでくれて、私をすべてから守ってくれて、大丈夫だよとささやいてくれる。
あらゆる束縛から自由で、私の望むすべてが許される。
ただ素直に、正直に、私は幸せだよって言える。彼女が笑ってくれて、嬉しくて、私も笑う。私の思い描きうる最高の幸せがここにはあった。
何かふにふにしたものがふれている。気持ちいい。私は暑くてぐっしょりと汗をかいていたけれど、不快じゃなかった。
光を感じて目を開ける。紫の胸や首がすぐ目の前にある。もう驚かない。少し上を見上げると紫の寝顔があった。太陽が昇って明るくなっても、ちゃんと紫のそばにいることができたことがわかってほっとする。
紫も暑いのだろう。まだ眠っているけれど、首元に汗をかいているのが見てとれる。生の紫の体の匂いだ。普通は汗臭いとか言うところなのかもしれなかったけれど、それは頭の芯までじんじんとしびれさせるような甘い香りだった。少なくとも私は嫌な匂いだと思わなかったし、もっと嗅いでいたかった。
体をよじろうとして、体が動かないことに気がつく。私の腰に温かいものがふれていた。紫の腕だ。
「あ……」
私は紫に抱きしめられていた。嬉しくて、涙が出そうになる。離れていてもくっついていても泣くんじゃない、と頭の片隅で思ったけれど、私にはどうしようもないもの。
もう二度とこの温もりにはふれられないと思っていた。でもまだチャンスが残っていたんだ。だってまだ……。
「ん……」
紫がかすかにぴくっと体を震わせて、目を開ける。
「おはよう」
「おはよう」
紫と目を合わせて、陽が昇っても二人また逢えたことを喜びあう。
「霊夢、今日は朝から積極的ね」
紫は私と体がふれあっていることに気がついたのか、とろんとした瞳のまま微笑む。面白い冗談だと思ったけれど、きっと紫はまだ寝ぼけている。
「よく見て。抱きついてるのは紫の方よ」
「ん?」
紫はまだ夢現なのか、幼い子供がするみたいに首を傾げる。やっぱり紫は可愛い。
「……あ、ご、ごめん」
腕を回しているのは自分の方だと気づくと紫は私から腕を離そうとした。けれど、私はすかさずその腕をつかまえる。
「いいの! ……もう少し私を抱いていて」
紫は少し驚いたみたいだったけれど再び私の体を抱いてくれる。今度は私も腕を回して、抱きあう格好になった。
「だって、まだ旅は終わっていないじゃない」
まだ夢は覚めていない。いろんなことをとりあえず忘れて、旅を楽しむんだって決めたじゃない。
「もう少し、こうしていてもいいでしょ……?」
今日でこの旅も終わる。こうして紫と一緒に朝を迎えられるのだって、これで最後かもしれないから。
「……ええ。もう少し、こうしていましょう」
紫は私をぎゅっと抱きしめてくれた。最後にまた抱きあえたことが嬉しくて、私は涙が溢れる前に紫の胸に飛びこんだ。
伝えたい、でも伝えられない想いがある。一度手にした幸せをなかなか手放せなくて、ずるずると引きずっていたけれど、いつまでもこうしていられるわけじゃないことはわかっているつもりだった。それでも、私は心の中で叫んでいた。
――紫、大好きだよって。
***
私たちは一言も話さず抱きあっていた。霊夢は顔を私の胸元に埋め、胸とお腹をぴったりと私の体にふれあわせ、腕で腰を抱き、脚を絡ませてきた。ためらいもせず抱きついてくる彼女が愛おしい反面、彼女はどこか必死にしがみついているようでもあった。
この旅を通じて、彼女が私を好いてくれていることはわかった。旅の間、彼女はとても明るく笑ってくれたし、今や彼女には私の体とふれあうことに抵抗がないようだった。その直接のきっかけは、やはり私が夕暮れの砂浜で彼女を抱きしめたことだろう。彼女はとまどったのか一度は抱きつかないでと言ったが、離せなかった。私だって必死だった。あの太陽と一緒に彼女まで消えていなくなってしまう、そんな気がしてしまったから。彼女の背中を見つめながら、そんなことがあるはずがないと自分をなだめたけれど、不安で仕方がなくなって気づいたら彼女を抱いていた。
私が抱きついてからだろう、彼女は泣き出した。最初は気づかなかったが、彼女の体がぽっと熱くなって、それから彼女の首に回していた腕が濡れるのを感じた。何か、悲しい気持ちになったのだろう。それは私たちの旅に、それから私たちの間柄に大いに関わるに違いなかった。
幻想郷から離れた私たちは普通の人だった。使命とか種族とかそういう面白くないことはみんな忘れて、私自身として霊夢自身と接した。しがらみから解放されていたのは彼女も同じらしく、宴会さえなければ閉じこもりがちですらあった彼女は屈託のない笑顔を見せてくれた。彼女は旅に出ることを少し迷っていたが、存分に楽しんでくれているようだった。思い切った旅行だったけれど、彼女が喜んでくれたこと、彼女の笑顔が見られたこと、それだけで今回の旅行は充分に意義があったと思う。
私を阻むものも何もなく、旅に出てからだけでも、彼女の魅力に吸い寄せられるように刻々と想いが募っていった。元々抱いていた慕情を、旅に出てからやっと自覚しただけのことなのかもしれない。
私ははっきりと言うことができた。霊夢を愛していると。
愛してしまった、という表現の方がきっと正しいのだろう。しかし、今この想いを伝えるわけにはいかなかった。私たちは幻想郷に帰るのだ。私たちが普通の人でいられるのは、外界にいるこの数日の間だけなのだ。普通の人として愛していると伝えるのと、幻想郷の中であらゆる責任と重圧を覚悟して愛していると伝えるのとでは、事情が違いすぎる。それに旅に出ているからということで私自身浮かれていないとは言い切れなかった。告白をするとしても、最低限、幻想郷に戻り、私たちの関係についてもう一度じっくり考えてからだろう。
そもそもこの想いを伝えてよいのかという問題もある。今すぐにでも伝えたくて仕方がないというのが正直なところだったけれど、感情に流されてはいけない。いずれこの恋心を殺さなくてはならないかもしれないのだ。だからこそ、あの夕暮れのときは私自身、悲しい気持ちでいっぱいだった。
これで最後かもしれない。だから私たちは抱きあった。霊夢は少し痛いくらいに私にしがみついてくる。私も彼女を思いっきりぎゅっと抱きしめた。霊夢の体つきを、体温を、その香りを我が身に刻みこむように。汗が流れても私たちは離れなかった。汗が互いの服を越えて相手の体へ届けば、私たちは心も体も溶けあってひとつになれるとでも言うかのように。
ふと、壁にかけられた時計を見た。昼が近かった。もう長くこうしてはいられなかった。帰らなくてはならないのだ。時計を見たことを後悔した。この部屋の時計をすべて壊してしまえば、いつまでも霊夢と抱きあうことができたんじゃないか。そんな想像をしてしまうくらい、私は何かに焦っていた。
「ねぇねぇ」
霊夢に呼びかけようとしたところ、先に彼女が私を呼んだ。彼女は私の胸から顔を上げる。その顔は穏やかだったけれど、私は胸元に、汗というには明らかに多すぎる水気を感じていた。
「うん?」
「その……、私、汗臭くない? 汗びっしょりで」
彼女は急に不安そうな顔になる。そんな彼女がなんだかおかしくて思わず笑ってしまう。
「ちょっと、笑わないでよ」
「ごめん、ごめん。霊夢ったらすごくいい匂いがするのに」
「な……」
彼女は顔を赤くして黙ってしまう。元々体が熱くなっていたから、ほとんどゆでだこみたいになった。
霊夢はいい匂いがした。ハーブを思わせるような、すっきりしていてほのかに甘い匂い。花も恥らう少女の香り。彼女は汗をかいても甘酸っぱくてさわやかな匂いをしていて、かすかに漂う大人の女性らしさにどきどきした。
「それより、私の方こそ汗臭くない?」
私も急に不安になって霊夢に尋ねる。
「ふふふふふ」
「ちょっと、あなたこそ笑わないでよ」
「あんた、もしかして少女臭だのなんだのってささやかれてるの気にしてるの?」
ぎくっ。
「まったく気にしていないとは言わないけど……」
そう答えると、彼女はいっそう楽しそうに笑った。
「そんなこと言う連中はね、紫の匂いを知らないか、紫のいい匂いをひがんでるかのどちらかなのよ。あんた、自分じゃわかんないだろうけど、びっくりするくらいいい匂いしてるのよ」
「…………」
体が火照る。たぶん私もゆでだこだ。臭いと言われるよりはずっといいけれど、こんなに可愛い子に面と向かっていい匂いだなんて笑顔で言われたら恥ずかしくない方がおかしい。
「あんたね、変な奴近づけちゃダメよ。あんたの匂いに冷静ではいられなくなって襲われちゃうかもよ」
「そんな輩は追い返してやるわ」
「誰もあんたのことなんか心配してないわ。誰もあんたにはかなわないもの」
「そうかしら?」
「……ねぇ」
霊夢が私を呼ぶ。彼女は一瞬遠くを見るような顔をしたかと思うと、体をひねって私を組み敷いて、上から私の目をじっとのぞきこんだ。それからぞくりとするほど妖艶に笑うと低い声でささやいた。
「私があんたを襲ってもいい?」
「…………」
彼女の漂わせる圧倒的なまでの色香に、私ですら正気を失いかける。
それは痛烈なジョークだった。しかし、彼女の瞳はどこまでも勝気だ。
「前にやったときは私の負けだったわね」
そんな彼女に負けじと私も笑みを浮かべて応えた。
「私は次も絶対に負けないわ」
弾幕で負けない、というだけの意味ではなく、私を必ずモノにするということだろう。
「ふふふ、待っているわ」
誰かと結びあう、そんな未来があるのかはわからなかったけれど、あるとしたら、それはもう霊夢と以外には考えられなかった。霊夢に襲われてモノにされるのなら、むしろ本望だ。
私たちは見つめあう。今だけは、共に歩む確かな未来を信じることができそうな気がした。
「よし、じゃあ起きよう。着替えなくちゃいけないし、喉渇いた」
彼女はいつもの笑顔に戻ると、あとくされなく私から腕を離した。私も腕を離すと彼女は体を起こし、着替えを持ってバスルームへ向かった。
彼女の背中を見て、彼女は未来に小さな可能性を残したのだろうと思った。これで最後だと思ってしまったなら、きっといつまでも離れられない。人は希望なくして生きることはできないのだ。また抱きあえると無理やりにでも思わなければ、彼女は笑って私から離れることができなかったのかもしれない。私だってそう思いこまなければ、きっと悲壮な顔を見せずにはいられなかっただろう。
そして、まだ一日ある。旅は帰るまでが旅なのだ。残された時間を笑顔で分かちあおうと心に決めた。
***
私たちは全身が汗でぐっしょり濡れていたからシャワーを浴びた。服を着替えてから、急いで一階の食堂で朝食を摂った。もう少しで朝食を食べられる時間が終わってしまいそうだったからだ。それから部屋に戻って荷物をまとめて、チェックアウトをすませて車に乗りこんだ。
「あのさ」
「どうしたの?」
「できたらでいいんだけど……、最後にもう一度だけ海に連れて行ってくれる?」
霊夢は自信のなさそうな表情で言った。
「あの、昨日みたいに泳ぐんじゃなくって、ただ……ちょっとでいいからもう一度だけ見ておきたいの。ダメかな?」
彼女は上目づかいに私を見つめた。
「そうねぇ……」
私は彼女から目をそらし、代わりに時計を見た。霊夢は反則だと思った。ちょっと泣きそうな顔で上目づかいに見つめる彼女の瞳は、たとえ本当にダメなことでもいいと即答してしまいそうな魔力があった。
「時間は充分あるわね。行きましょう」
実際、今日中に飛行機で幻想郷に戻るだけならかなり余裕があった。初日は、外界に慣れない霊夢を早く休ませて海水浴に備えさせたいと思って早くホテルに着くようにしたけれど、今日はもう帰るだけだからそのくらいの余裕は充分にあった。
「やった! ありがと」
霊夢は明るく笑った。この笑顔を見るためならやはり私は時間がなくても、いいと言ってしまったかもしれなくて、好きになった方の負けとはこういうことかもしれないと思った。
「…………」
私たちは海に着いた。霊夢は表情を変えないまま一言も話さず、砂浜で遊ぶ人たちを見たり、遠い海を見やったり、空を見上げたり、私の顔を見たりした。
海は昨日と変わらない熱気に溢れていた。暗い気分も吹き飛ばす陽気。ときおり肌を撫でて心を和ませる風。底抜けに明るい笑顔と声の数々。あの夕暮れが実はただの夢で、昨日太陽が沈む前の時間から直接今日につながっているかのようだった。
やがて彼女はほっと小さく溜息をついた。
「そっか。太陽はまた昇るのよね」
そう言うと彼女は安心したように穏やかな表情を浮かべた。
「なんか昨日あんなに泣いてたのが馬鹿みたい。どうせ笑ってたって泣いてたって昇るんだったらさ、笑ってた方が得だと思わない?」
「そうかもしれないわね」
「絶対そうよ。なんか、ごめんね。つまんないことであんたを困らせちゃった」
「そんなことないわ。私だって、ここにまた来てよかったと思っているんだから」
ものごとには終わりがある。それは残酷な真理だ。いつまでも続くものなど、何もない。いつ希望を絶望の内に突き落とす脅威が迫るかわからないのだ。
それでも太陽は昇る。何もかもがそんなに簡単に終わってしまうわけではない。いつか来る終末に怯えるあまり、ほぼ確実に訪れる明日の存在を忘れてはいけないのだ。彼女との離別を恐れて抱きついてしまったけれど、なんてことはない、さしあたり今日はまだ彼女と一緒にいることができる。
「太陽はまた昇る。それがわかっただけでも意味があったのよ。あなたにとっても、私にとっても」
彼女はきょとんとしていたけれど、やがて明るく微笑んだ。
「ありがと。そう言ってもらえると気が楽」
この砂浜で、終わりを憂えたこの場所で、私たち二人はまた笑いあえた。彼女といっぱい笑って、いっぱい泣いて、また笑って。短い期間だったけれど、大切な思い出がたくさんできた。
もう二度と彼女とここには来られないかもしれない。今回の旅は、確かに終わる。私は彼女と共に幻想郷に帰るのだ。旅が終わっても長く彼女と笑顔も涙も分かちあいたいと、私は空に、海に、祈った。
***
私たちは来た道を引き返して空港に向かった。一昨日には期待に満ちた目で車窓の景色を見つめていた彼女だったけれど、今日は少し寂しそうだった。それでももう悲しそうではなかった。宴会が終わった後の神社を眺めているときの表情に少し似ていると思った。寂しい気持ちになるのは、きっと旅を楽しんでくれたからだ。
行きと様子が違うのは彼女だけではなかった。私はむしろ明るい気分だった。行くときは不安なことでいっぱいだった。事故を起こして彼女の身に何かあったらどうしよう、彼女が旅を楽しんでくれなかったらどうしよう、そんなことばかり考えていた。そんな私を彼女は励ましてくれた。今は彼女の存在が頼もしかった。私は彼女が隣にいてくれさえすればいい。楽しい旅だったと、晴れやかな気持ちで振り返ることができた。
しかし都市部に入って空港が近づくと、やはり寂しく感じた。飛行機に乗って、再び陽が沈む頃には幻想郷に戻るのだと思うと惜しくなった。幻想郷に帰りたくないわけではない。ただ、彼女との外界での生活が思った以上に気楽で心地よかったのだ。幻想郷に戻ってから彼女との関係についての難しいことを考える前に、もう少しだけ、ただ純粋に彼女とふれあえる時間を持つことができたなら……。
「まだ時間あるから、今のうちにお昼食べましょうか」
私は車を運転しながら霊夢に言った。
「うん。あ、まだ時間あるって、どのくらい?」
「結構まだ余裕あるわね。お昼食べた後、どこかで時間をつぶすのもいいかしら」
「じゃあさ、私、あんたと歩きたい」
「歩くの? いいけど、暑くない?」
「私たち、暑いのなら慣れてるじゃない」
そう言って彼女は笑った。
「それもそうね」
私もつられて笑いながら、自分でもおかしなことを言ったと思った。ここしばらく彼女とふれあった時間は、ずっと汗がにじみ出るような暑くて熱い日ばかりだったのだから。
私たちはレンタカーを返して大きな荷物をコインロッカーに預けてから街に出た。都市部とは言ってもここはそう大きな街ではなく、彼女とはぐれる心配もなく歩きやすかった。海の方とは違っていわゆる近代的な造りになっていたからか、むわっとして、さわやかとはちょっと言いにくい熱気だった。それでも彼女といればさほど気にならなかった。
「ねぇ、紫」
少し歩いてから霊夢が私を呼んだ。
「手、つなごうよ」
そう言って彼女は左手を寄せた。私は何も言わずに右手を彼女の手に絡ませた。
「あ……」
彼女は急に顔を赤らめる。
「そっか、指が絡みあうように手をつなぐんだね。私、握手するみたいに手をつなぐんだとなんとなく思ってた」
「そういうふうにする?」
「ううん、こっちの方がいい。こっちの方が気分が出るじゃない。……デートって感じがする」
彼女は頬を染めたまま嬉しそうに微笑んで、私はどきどきしてしまう。
私はただそうするのが自然という感じがして、特に何も考えずに彼女と手をつないだ。しかしよく考えてみれば、手をつないで街中を歩くのは特別な関係にある者たちなのだ。私たちはそういう関係だと通りすがりの人たちに宣言して回っているような気分になって、少し恥ずかしくなる。けれど、霊夢の手は細くて柔らかくて可愛らしかったし、私たちは特に信頼しあえる関係にあるということが強く意識されて、胸がぽっと温かくなった。
私たちは歩き続ける。同じ陽を浴びて、同じ風を感じて、同じ土地を踏みしめて、同じ風景を見た。手汗がひどかったけれど、私たちは手を離さなかった。そこだけ溶けてくっついてしまったかのように私たちは手をつなぎ続けた。それだけで心までつながっているような気さえした。私たちは特に最近はほぼ四六時中一緒にいるからときおり話題が尽きてしまうこともあったが、お互いに何も話さないままでいても気まずく思うことはなかった。会話をしているときは会話を楽しむように、沈黙のときは沈黙を味わった。彼女は終始楽しそうにしていたし、顔が合えば微笑んだ。異なる者同士が、今、まったく同じ感覚を共有できていると信じることができた。
昼食を摂ってから私たちは空港の方に引き返した。店を出るなり、当然のことのように私たちは手をつなぎ、来たときとは違う道を通って戻った。少しでも多くの場所を彼女と歩いておきたかったのだ。
空港のそばに土産物屋があるのが見えて、私たちはそこに入った。店内は冷房がよく効いていて、この地に来たばかり、あるいはこれから帰ると思われる人たちがたくさんいた。
「うわ、大きいわね」
霊夢が店の大きさに驚く。
「なんかお土産買ってあげるわ」
「ありがと。これだけいろいろあると迷っちゃいそうだけどね」
そう言って彼女は笑った。
私たちは店内を軽く一巡りした。お菓子、服、キーホルダー、タオル、置き物などさまざまな土産があった。それから彼女と一旦別れて、私は酒を並べた棚に向かう。少し上等そうな泡盛を二本手に取り、霊夢を探しに戻った。
彼女は真剣な面持ちでじっとしていた。彼女の視線の先には髪飾りが並べてあった。赤や青、黄色に緑などさまざまな色を基調としていて、プラスチック製の花をあしらったものだった。
「どれにするか決めた?」
「うーん……」
まだ迷っているようだった。彼女は右隣の棚を見ては髪飾りを見て、左隣の棚を見てはまた髪飾りの方を向いた。
髪飾りが気に入ったのか、彼女は一つ一つ手に取って見つめ始めた。どの色がいいかと考えているのだろうか。
「……二つ買ってもいい?」
「欲しかったら全部買ってもいいのよ」
「そんなにはいらないわ。ありがと」
彼女は表情を崩しながらそう答えると、赤色のものと紫色のものを手に取った。
「これとこれお願い」
きっと気分によって付け替えるのだろう。
「ええ。他にも欲しいのあったら買ってあげるわよ」
「ううん、もう充分。ありがと」
「じゃあ行きましょうか」
会計をすませて外に出る。
「あ、さっきの髪飾り、早速つける?」
「うん」
「一昨日来たときにもここに寄っていれば旅行の間に着けていられたのに、ごめんね」
「ううん、いいの。旅の記念というか、幻想郷に帰ってからも着けるもの」
ビニール袋から髪飾りを二つ取り出して霊夢に手渡す。彼女は髪飾りを見つめていたかと思うと、一つを私に差し出した。
「はい、これはあんたの」
「え……?」
「あんたとわたし、おそろいの髪飾り。いい記念になるでしょ?」
そう言って彼女は微笑んだ。
彼女は最初からそのつもりだったのだろう。彼女が私に差し出した髪飾りは紫色のものだ。彼女が最初から私のことも考えて選んでくれたことが嬉しくて、そのことに気づかないで気分によって付け替えるのだろうなどとのんきに考えていた自分が恥ずかしくなる。
「あ、ありがとう」
少しどぎまぎしながら彼女から髪飾りを受け取る。私は紫色の、彼女は赤色の髪飾りをそれぞれ身に着けた。
「うん、似合ってるじゃない」
「ありがと。霊夢も似合ってる」
赤色の髪飾りは彼女の黒髪によく似合った。明るい色の花細工が少女らしいみずみずしさを際立たせ、髪に浮きも埋もれもしない一本の赤い線が女性らしい艶やかさを強調した。
「まぁあんたにあげるって言ったって、あんたのお金で買ってるんだけどね。あんたの分も合わせて、私のわがままのためにお土産を買ったんだと思っといてよ」
そう言って彼女は苦笑いした。
私は素直に嬉しいのに。そんなことを気にする彼女がなんだかおかしくて、私も笑顔で応える。
「だったら、霊夢を可愛くして私が勝手に満足するアクセサリーを買ったんだと思っておくことにするわ。それに、あなたが私のために選んでくれたってことが大切なのよ。私は普通に嬉しいんだから」
私がそう言うと彼女は赤くなって黙ってしまう。格好のいいことを言っておきながら、私は照れた霊夢も可愛いだなんて思ってしまって、何も言わないことをいいことに彼女の顔を見つめていると彼女は少し乱暴に私の手を取って歩き出した。
***
空港に戻ってコインロッカーから荷物を出すと、もう私たちを引き止めるものはなくなり、あとは幻想郷に帰るだけとなった。
「もう、帰るんだね……」
霊夢は穏やかな表情をしていたけれど、その声にはこの地との別れを惜しむ色が見えた。
「ええ」
私も微笑んでそう答えたけれど、内心寂しく思っていた。
「……ねぇ霊夢、ちょっと相談があるんだけどさ」
だから私は彼女に尋ねる。
「帰りはさ、実は飛行機以外に、この近くに港があってそこから船という手もあるんだけど、どっちがいい? 空の旅か、海の旅」
「あ、船という手もあるんだ」
ふぅんと言って彼女は考える。
「じゃあ、今度は海の旅がいい」
「よし、決まりね」
私たちは港に急ぎ、手続きをした。出港する直前にも関わらず、幸いにして二人用の部屋を取ることができた。少し待つとすぐに船は港に到着して、私たちは乗りこんだ。
「あ、なんかいい感じの部屋」
私たちの部屋に着くと、そこはホテルの部屋のような内装が施されてベッドも並んでいてくつろげるようになっていた。
「見て見て、ここから海が見える」
部屋には窓がついていて、霊夢は興奮したように私を呼んだ。
「あ、ホントだ。いい部屋が取れたわ」
彼女の隣から外を見ると見晴らしがよかった。まだ船は港にあるから、海が見えるというよりは港が見えるという感じだったが、出港した後は広い海を見ることができるだろう。
「それにしても、船ってこういうふうに部屋がついてるもんなの? ベッドまであるし」
彼女はベッドに座って言った。
「そうねぇ……。この船、いつあっちに着くと思う?」
「うーんと、普通に今日の夕方には着くんじゃないの?」
「残念、丸一日後でした。船って飛行機ほど速くないのよ」
「え……?」
彼女は驚いたような迷うような複雑な表情になった。
「そんなことしていいの?」
そのとき、ぼぉーという大きな音が鳴って船がゆっくりと動き出した。
「あ……」
「いいも悪いもなくなったわね。もう降りられないわ」
彼女がだんだん心配そうな顔になる。
「私は半分くらいしか悪くないわよ。提案したのは私だけど選んだのはあなただもの。私たち、共犯よ」
それでも私は笑顔を貼りつけ続ける。
「…………」
彼女は難しい顔をしたまま私を見たり窓を見たりしていたけれど、しばらくして吹っ切れたのか愉快そうに微笑んだ。
「うん、共犯ね」
***
確かに彼女にどちらにするか選ばせはしたけれど、船の方が時間がかかることを彼女は知らないだろうと思ったし、そこに私はつけこむような形になった。あまり誉められたやり方ではなかったが、私はもっと彼女と一緒にいたかった。予定より遅く帰ることに後ろめたさをまったく感じないわけではなかったから、私の一存で船で帰ることを選ぶのはためらわれた。だからこそ彼女に問いかけ、形だけでも彼女と一緒に決めたということにした。思惑通り彼女は船旅を選んでくれて私は内心喜んだし、逆にもう一度飛行機に乗りたいと言ったなら素直に諦めようと思っていた。
船で帰ると遅くなるということを知って、彼女はまずいことをしたかもしれないと思ったようだった。ここも一つの賭けだった。私たちは今日中にも幻想郷に帰る覚悟をしていたのだし、もしかしたら、こんな往生際の悪いことをして幻想郷に戻るのが遅れてはならないと言って彼女は怒るかもしれなかった。それでも彼女は屈託なく笑って受け入れてくれた。
そういうわけで私たちの旅は一日延びた。これが、外界で気楽に彼女とふれあえる本当に最後の機会だった。この船があちらに着いたなら、あとは幻想郷に戻るしかないのだから。
私たちは今朝のようにいきなり抱きあうということもなく、それぞれベッドに寝転がって体を休めながらとりとめのない会話をして過ごした。
「それにしても、外界って便利な機械がいっぱいあるのね。どこを見ても車が走っているし、どこに行っても冷房があるからびっくりしちゃった」
「ええ、いわゆる非科学的なものがないならないなりになんとかやってるのよね」
「本当よね。この部屋にも冷房あるし。ああ、極楽。私んちにもつけられないかな」
「電気をどうするのかとかいろんな問題があるから現実的じゃないわね」
「そっか……。でも私、やっぱり外界には住みたくないかな」
「どうして?」
「なんか窮屈なんだもん。海行ってるときはすごくのどかですごく楽しかったけど、いつもあんなふうに遊んでいられるわけじゃないんでしょ? 都会を歩いてるとさ、すごいたくさん人がいてさ、大体がなんか妙に忙しそうな顔してるんだもん」
「まぁ確かにあなたが外界で暮らすのは無理ね」
「あんたに言われたくないわね」
「私は大丈夫よ。外界のこといろいろわかってるし」
「あ……、なんかごめんね。私が無知なせいでいっぱい迷惑かけた。幻想郷に戻るの遅くなるって知らなくて船を選んじゃったし」
「あ、ううん、そういうつもりじゃなかったの。ごめん。でも私も、たまに外界をぶらつくのはいいけど住み着くのは勘弁かな」
「そう? あんたなら余裕の笑みを浮かべながらやっていけそうだけど」
「もう、霊夢ったら。でも、生きていくだけなら困らないだろうけど、やっぱり精神的に窮屈ね。みんな心に余裕がないし、何が本当に大切なことなのかわかっていない人が多い。私たちの今回の旅は、外界のいわば贅沢な部分だけを切り取ってきたようなものね」
「そっか……」
「でもすごく贅沢してる気分だったでしょ」
「うん。楽園はこっちにあったのかと勘違いしそうになるくらい」
「楽園の巫女とも言われるあなたが、楽園は外にあったなんて言い出したら世話ないわね」
「ふふふ、まったくよ」
「でも実はもうちょっと外界で過ごしていたかったでしょ」
「それは……」
「あら、私はもう少し味わいたかったわ。外界の、贅沢なところだけをね」
「うん……、幻想郷を放っておくわけにはいかないけど、もうちょっと外界にいたかったかも」
「正直に言ったわね」
「な……、それはあんたが……」
「いいのよ。嘘をつくことを覚えちゃダメよ」
「それもあんたに言われたくない」
「私はいいのよ。嘘はバレなきゃ嘘じゃない」
「あんたの嘘なんか全部お見通しよ」
「え……、嘘でしょ?」
「嘘よ。でも、大体はわかるよ。なんとなくだけど」
「本当に?」
「うん。私、これでも勘がいいのが取り柄だしね。船に乗るか飛行機に乗るか私に訊いたのだって、ホントはあんたがゆっくり帰りたくて船に乗りたかったからでしょ?」
「ええ、よくわかったわね。だからこそ船の方が時間かかるってわざとあなたに言わなかったのよ」
「こら。もう、それじゃあ共犯なんかじゃないわね。悪いのはあんたよ」
「ゆっくり帰れてあなたもまんざらでもないでしょ?」
「馬鹿。……すごく嬉しい」
………………。
霊夢とたくさん話して、いつのまにか二人とも昼寝していて、気がついたら陽が傾いていた。
「寒い」
彼女はそう言った。私たちがこの部屋に入ってからずっと冷房がついたままだった。私にとってはまだ心地よいといえる気温だったが、寒いと感じる人がいてもおかしくないとは思った。
「じゃあ冷房切りましょうか」
「ううん、そうじゃないの」
しかし彼女は私を制止する。
「寒いんだったら冷房を切った方が……」
「違うの。寒くないんだけど、寒いの」
「どういうこと?」
「寒いったら寒いの」
彼女を見る。べつだん、寒そうにしているようには見えない。顔がいたずらっぽく笑っている。でもその瞳はまるで。
「ふふふ。わかった」
もの欲しそうな、甘えたがりな子供のようで。
「おいで」
私は両手を広げて彼女を待った。
「わーい」
彼女は無邪気に笑うとベッドから立ち上がり、私に抱きついてきた。私の胸に顔をあてがい、腰に手を回す。彼女の胸元がわずかにふくらんだりしぼんだりするのを感じて、息を深く吸ったり吐いたりしているのがわかった。
「そんなに思いっきり匂い嗅がないで。恥ずかしいから……」
私がそう言うと彼女は顔を上げる。
「紫、いい匂いがする」
彼女は頬をわずかに染めてそう言った。また私の胸に顔をあてがうと、今度はぎゅっと抱きついて顔をぐりぐりと押しつけてきた。
「んんん~~っ」
「わ、ちょっと霊夢……」
私はとまどってしまう。霊夢は猫みたいに遠慮なくじゃれついてきて、くすぐったいし身動きが取れない。でも押しつけられる彼女の体は温かくて柔らかくてふわりといい匂いがする。
やがて彼女は顔を上げると、にっと笑った。
「どーだ、参ったか」
妙に可愛い声でそんなことを言った。
しかし彼女はふと寂しげな顔を見せたかと思うと、再び私の胸に顔を埋めてしまった。
「今日はあんたを離さない。あんたが参ったと言うまでいくらでも抱きついてやるんだから」
わずかに声が震えていた。どんなに明るく振舞っていても、やはり近い旅の終わりを忘れることができないのだろうか。彼女に悲しんで欲しくなくて、強く抱きしめる。
「あ……」
「温かい?」
「うんっ。あったかい、あったかいよ……!」
彼女は声を震わせて涙を流し、体を震わせて温もりを求めた。
寂しいと寒いは似ていると思った。それなら満ち足りた幸せと温もりも似ているのだろうか。温かいと言いながら泣く彼女はどうしたら笑ってくれるだろうか。
「私がそばにいるから。ずっと離さないから」
私には何もわからなくて、ただ必死に彼女を抱きしめることしかできなかった。
***
しばらくして彼女は泣き止んだ。表向きはもうなんともなかったが、それでも彼女は寂しげで物足りなげだった。私と話している間だけ無理に笑おうとするのが見ていて辛かった。
彼女は陽が沈めば暗くなったからと言って抱きつき、夕飯を食べればお腹が一杯だからと言って抱きつき、お風呂に入れば一人で入るとやっぱり寂しかったと言って抱きついてきた。理由なんかなんでもよく、そもそもそんなものはいらなくて、ただ私たちは抱きあった。お風呂といえば、私も彼女も一緒に入ろうとは言わなかった。今、一糸まとわぬ姿で向きあえば一線を越えてしまう、口には出さなくても互いにそう思っていたからだろう。それだけはしてはならないと意識していた。
その代わりというか、一線を越えない限界を試すかのように私たちは戯れた。胸や秘所など欲情を促しそうなところを避けつつ全身をまさぐりあった。お尻をさわさわと撫でると彼女はくぐもった声を漏らしたし、服の隙間に手を入れてお腹や腰、背中にふれてしなやかな肉体の感触を確かめた。彼女も私のお腹や腰にじかにふれ、あるいは頬ずりをしたから、互いに服装が乱れた。脚を絡ませて密着させていたから彼女の股に私の太ももがふれていたし、私の秘所にも彼女の太ももが軽くふれていた。強く押しつけたり刺激を与えたりはしなかったから意識を奪われることもなかったが、意識を向けてみると何かが疼くようにじんじんとする感覚があって、わずかに下着が汗ではない何かで濡れるのを感じた。
とにかく甘い時間だった。彼女とふれあうこと以外に何も考えられないような、とろけるような温もりに浸った。二人きりの密室で、望めば欲望のままに求めあうことさえ可能だったが、それでも劣情を抱くことはなかった。そのようなきっかけを避けようと意識していたこともあるが、今、これ以上の幸福を望もうとは思わなかった。彼女はとろんとした瞳で幸せそうに微笑む。愛しい人と純粋にふれあえる、愛しい人が私のそばで笑っていてくれる、これ以上の幸せが一体どこにあるというのだろうか? 今を超える一瞬が一体どこにあるというのだろうか?
時は残酷だった。いつのまにか、もうすぐ日付が変わるという時間になっていた。日が昇れば今度こそこの甘い温もりは終わりを告げ、私たちは幻想郷の守護者に戻る。今度こそ私たちは抱きあえなくなるかもしれないのだ。その前に、私たちが私たち自身でいられたことを彼女と祝福しておきたかった。
「ねぇ、お酒飲まない? 昼に買ったのがあるんだけど」
「いいね、飲もう」
私は泡盛を取り出し、彼女が備え付けのガラスのコップを持ってくる。
「ああ、せっかくのお酒なのにこんなコップじゃ雰囲気が出ない」
「でも質素なコップの方が、私たちは旅をしてるんだっていう雰囲気は出るじゃない?」
「それもそうかも」
そんなことを話しながら泡盛のふたを開け、コップの一つを受け取って注ぎ、彼女のコップにも注ぐ。それからベッドの上に並んで座り、壁にもたれかかった。
「かんぱい」
「かんぱい」
ちりん。軽くコップをふれあわせる。さわやかで涼しくて、静かで儚い音がした。
ひとくち飲む。まろやかで飲みくちがよく、飲もうと思えばどんどん飲めそうだったけれど、一方で度はきつくて油断するとすぐに酔いそうで、まるで何かに誘惑されている気分になった。
「これ、とろりとしていておいしいんだけど、アルコールは結構きついわね。何度?」
彼女はそう尋ねるものの余裕の表情だ。
「えーと、32度ね」
「ああ、やっぱり結構入ってるわね。もしかして私を酔わせたくてそれ選んだ?」
「まさか。酒豪のあなたを落とすならもっときついのをたくさん用意するわ」
「あんた、今でも私が酔ったところ見たいと思ってる?」
「もちろん。萃香あたりと飲み比べしてくれたら面白いのに」
「嫌よ。あんなのに勝てるわけないじゃない」
「まぁ萃香はお酒について言えば右に出る者なしね。……ねぇ、私があなたに、べろんべろんに酔うまでお酒を飲んでくださいって頭を下げてお願いしたら飲んでくれる?」
「それはずるいわ。……だってあんたに頼まれたら断れないもの」
彼女はいじけた顔をしてお酒を飲む。
「ふふふ。口を尖らせて文句を言う霊夢も可愛い」
「な……」
彼女は顔を赤くした。
「やっぱりあんたはずるい。そんなあんたには、こうなんだから」
そう言うと彼女は私の胸元に頭を預けた。
「どう? もう顔が見えないでしょ」
「残念。あ、こっちにおいで」
私は脚を開き、その間に入るように促した。彼女は私の前に座るとお尻を前の方にずらし、私は胸で彼女の頭を支え、膝で彼女のお尻を挟む格好になった。お酒を飲んでいるからか、彼女の体はぽかぽかと温かい。左手を彼女の胸の下に回して抱くと、彼女は何も言わずに右手の指を絡めてきた。
それからしばらくは何も話さず、互いの体温を感じていた。彼女はときおりお酒を飲んでいたけれど、私は顔のすぐ下に霊夢の頭があるからお酒を飲みにくかった。代わりに彼女の頭の上にあごを乗せ、右手で彼女の首元を軽く抱いた。彼女がお酒を飲むとこくこくと震えたし、お酒を飲まなくても彼女の動脈の鼓動が伝わってきた。彼女とふれあっている方がお酒よりよほど私を甘く酔わせてくれた。
彼女は泡盛が気に入ったらしい。空になったコップに私がお酒を注ぐと、彼女はありがとうと小さく言ってまた飲んだ。何回か繰り返すとお酒がなくなったので、私は自分のコップに残っていたお酒を最後にひとくち飲んでから彼女に手渡した。
「いいの?」
「私は充分飲んだわ。遠慮しないでどうぞ」
「うん、ありがとう」
そう言うと彼女は私の飲みかけのお酒を飲み干した。
「ごちそうさま。おいしかった」
「お粗末さまでした」
私の右手と霊夢の左手が空くと、それも彼女の胸の下でつないだ。私の腕に彼女の腕を、私の指に彼女の指を感じていると、まるで私が抱きしめられているような気分になった。
やがて彼女は振り向くと、私に正面から抱きついてきた。
「ねぇ、私、酔っ払っちゃった」
彼女は甘えた声でそう言うと私にしなだれかかる。
「酔った勢いってあるよね? 私、何しちゃうかわかんないよ?」
潤んだ瞳。上気した頬。舌足らずな言葉。熱っぽい体。私を甘く淫らに誘っているようにも見えるけれど。
「眠くなっちゃったのね?」
「ふふふ、ばれちゃった」
彼女はころっと笑った。彼女はただ眠くなっただけなのだ。私は彼女を抱いたまま横たわる。
「眠いんだけど、眠りたくない」
「どうして?」
「だってもったいないじゃん。せっかくあんたとこうしていられるのに」
「あ、嬉しい」
「……ってなんか余計なこと言った気がする。眠いと口が軽くなってダメだわ」
「でも私はこのまま寝るのも幸せなことだと思うわ。だって、朝になって目が覚めても互いにそばにいるって信じられるからこそ、今眠れるんじゃない?」
「なるほど。そういうのもアリか」
そう言うと彼女は口を開けてひとつ大きなあくびをかき、目を閉じた。
「あら、花も恥らう乙女がはしたないわ」
「大丈夫。あんたにしか見せないから」
「ありがとう」
「……ってまた変なこと言っちゃった」
「ふふふっ」
彼女は本当に眠そうで、話すのを止めたらすぐにでも寝てしまいそうだった。
「口を滑らせるあなたも面白いけれど、無理に起きていなくてもいいわ」
頭を撫でてあげると、眠っているのと見分けがつかないくらい穏やかな顔になる。
「私たち、夢の中でも逢えるといいね。……おやすみ」
「うん、おやす…み……」
そう言い終わるか終わらないかのうちに彼女は眠ってしまった。いつまでも離れたくないとでも言うかのように私にしがみついたままの彼女が愛おしくて頭を撫で続けた。
やがて陽が昇って私たちは幻想郷に戻る。それはわかっている。けれど、幸せそうな顔をして眠る彼女を抱いていると、いつまでも夜が明けなければいいと思わずにはいられなかった。
きっと恋とは理性ではなく衝動なのだろう。恋が理性の領域にあるのならそれはそれで気楽だったかもしれないし、こんな非現実的なことを考えもしなかっただろう。短くない人生においても、ほとんどまったく感情を暴発させることなく冷静に振舞ってきたし、そんな理性的な自分に自信すら持っていた。だからこそ、この恋心にはとまどうばかりだった。何をしても自分は冷静でいられると思っていたのに、恋には理性では抗えなかった。ただ、彼女の中に踏みこみすぎないようにするのが精一杯だった。確かに今日はそれで満足だった。彼女と抱きあってふれあって、甘く濃い時を分かちあった。しかし、もし明日も同じ状況になったら? 明後日は? 欲望が大きくなって抑えきれなくなることがないと言い切ることはできそうになかった。
最低限の距離を保ちつつではあったが、それでも感情に身を委ねて彼女とふれあう日々は本当に幸せだった。心が洗われるような、いやされるような、温まるような、勇気づけられるような、そんな思いだった。霊夢のそばにいること、こんなに単純で素晴らしいことが世の中にはあるのだと知った。
私たちの間には感情で片付けられない問題があったけれど、幻想郷に戻ってから自分自身を理性で律することができる自信が今はなかった。できることなら、思うがままに振舞える今のうちに想いを伝えたかったが、もちろんそれも叶わない。せめて彼女が眠っている間にでも言葉に出せば、少なくとも私一人だけでも納得できるのかもしれない。けれど言葉は力を持つ。幻想郷に戻る私たちへの禍根となってはならない。だから。
「霊夢、可愛い……」
眠っている彼女の耳元にそうささやくにとどめる。心の中でだけ、あなたを愛していると宣言した。
「私も……ゆ、か……」
「!?」
私も紫が、だろうか。今の私の言葉を聞いていた?
いや、きっと寝言だろう。彼女はさっきまでと同じように安らかな寝息を立てている。それに、私も紫が、なら、私の心の中での言葉への返事と考えた方が意味が通る。
しかし、そうだからこそなおさら驚いた。一瞬、心が通じたような錯覚を感じた。今回ばかりは運命を信じたいとさえ思った。想いの強さがあらゆるしがらみを超越して、心までひとつになれる。そんな運命を。
***
目が覚める。
少し薄暗かったけれど夜ではない、そんな明るさをまどろみながら感じる。昨日最後に見たのと同じ部屋に、私は一人で横たわっている。
……一人?
「霊夢、どこ?」
はっとして体を起こし、あたりを見回す。室内はがらんとしていて私以外には誰もいない。昨日の温もりが夢のようで、うすら寒い。
「霊夢、霊夢!?」
バスルームのドアを開けるが、そこにも彼女はいない。
「嘘……でしょ?」
恐怖した。彼女が消えてしまった。私のすべてが奪われてしまった。体が震えそうになって。
「そんなはずはない」
下唇を噛んで必死に考える。彼女が消えるなんてありえない。船の中にいるはず。
窓を見ると小さな水の粒がたくさんついていた。
「きっと船内ね」
私はすぐに部屋を飛び出した。
おかしい。どこにもいない。
さすがに他の人の部屋までは見ていないけれど、廊下や食事スペースなど、一般の乗客が入れる場所はすべて探した。トイレも、鍵がかかっている個室があれば彼女の名前を呼んだ。それでも返事がなかった。
「どこ、行っちゃったの……?」
心臓がどくどくと鳴って、たいして走ってもいないのに息が詰まる。
「嫌よ、私は……」
これが最後の別れだとしたら、最低だ。ちゃんと終わっていないどころか、彼女とはまだ何も始まっていないのに。
もう一度あたりを見回す。ふと、階段が目に入った。それは甲板へとつながる道だ。雨が降っているから外にはいないと思いこんで無意識のうちに無視していたけれど、晴れていればたくさんの乗客が景色を楽しむために通るに違いない。
ここにいなかったら今度こそ彼女は船にいないだろう。霊夢がいますように、と強く祈りながら私は階段を昇った。
「霊夢!」
見覚えのある背中を船の先端に認めて、私は叫んだ。
雨が少し降っていて、風もある。その中で彼女は甲板の先端の柵に寄りかかって前を向いていた。落ちたりはしないだろうが、夏の薄着が少し寒そうだ。私は滑って転ばないように気をつけながら彼女の元へと歩く。
「心配をかけたわね、紫」
彼女はゆっくりと振り返ると、どこか大人びた笑みを浮かべた。
「でもあんたなら必ずここに来てくれると思ってた」
「風邪を引くわ。部屋に戻りましょう」
彼女の眼前に立つ。どれくらいここにいたのだろう、彼女の髪や服が濡れているのが見てとれた。
「そんなのはいいのよ。船に乗れるのは今だけ。嫌じゃなきゃ、あんたもここで優雅な船旅としゃれこまない?」
「……しょうがないわね。つきあうわ」
彼女は戻るどころか、逆に私を誘った。彼女は寒そうな顔はしていないし、二人一緒に風邪を引くのならそれでもいいだろう。
彼女の隣に立って柵にもたれる。空は一面雲に覆われて、心なしか海も荒れて見える。向かい風を強く感じ、雨が顔をくすぐる。
空が泣いている。何か悲しいことがあったのだろうか、ふとそんな思いを抱くような静けさの中、船だけが轟音を立てながら前へ進む。
彼女はただ前を見つめていた。いつもの飄々とした雰囲気はなく、真剣な眼差しだった。憂いの中に強い意志を秘めた瞳が遠くを見据えていた。凛々しい横顔が魅力的で、頼もしくて、でも儚げで。いつもとは別人のような彼女の顔から私は目を離すことができない。
「ねぇ。私……、どこに向かっているんだろう」
やがて視線を落とすと、彼女は小さくそうつぶやいた。
「…………」
地理的な意味ではないのだろう。彼女の瞳が不安げに揺れる。
「すごく、楽しかった。私の知らないところにこんな世界があったなんて……。でも、もう二度と帰ってこないのよね」
「……あなたさえ望めば、いつかまた」
彼女は落ち着いた顔をしているのに、なんだか泣いてしまいそうに見えて、私は声をかける。
「ううん、そういうことじゃないの。楽しかった時間は思い出になって、もう手が届かないんだなって」
そう言って彼女は小さく笑った。
「二度と帰らない時をさまよって、それでも前に進んでる。前に突っ走るしかないのよ。寝てたって時間は経つんだから、その意味では前に走らされてると言ってもいい」
「…………」
「早く帰りたいと思おうがまだ帰りたくないと思おうが、この船だって帰るべきところに帰る。でも……」
彼女は少し身を乗り出し、船の下をのぞきこんだ。
「船って力強く進むのね。見えないくらい遠いところに向かって、雨が降っても風が吹いても水しぶきを上げながら」
私も彼女にならって身を乗り出す。
船は白い水しぶきを絶えず上げながら、その先端で海を掻き分けて進んでいた。広大な海の中、ちっぽけな船が一隻、雨や風にさらされながら前進している。
彼女は柵から降りると私の方を向いて微笑んだ。
「人生って有限なんだなって、最近ちょっと感じるの。小さい頃はさ、何もかもが無限にあるように見えるのよ。でもそうじゃないんだって気づいちゃったの」
その笑顔は少し寂しげだったけれど、悲壮感を漂わせるでもなく、彼女はぽつぽつと語り続ける。
「だから数ある選択肢の中からどうするのが一番いいのか考えるじゃない」
「…………」
「でも未来のことなんかわかんないじゃん。結局、いいことがありますようにと祈りながら選ぶしかない」
彼女はまた前を見つめた。前を見ても陰気な曇り空と海以外には何も見えないと思ったのか、再び私に向き直った。
「人ってさ、結局みんな一人なのよ。どうするのがいいかなんて最後に決めるのは自分だもの」
「…………」
「でも一人で歩いてると道に迷う。気が迷ってここから飛び降りようとしたとしても、止めてくれる人がいない」
そう言うと彼女は片手を私のそばに置いた。
「手、握っててよ。私、何するかわかんないよ?」
彼女はいたずらっぽく笑った。彼女が飛び降りると思ったわけではないけれど、私はその手をしっかりと握った。
「それに一人でいると味気ない。一人でも力強く生きてる人ってのは、案外、大丈夫なフリしてるだけだったりしてね。一人じゃ面白いはずのものもつまらない。寒いときに温めてくれる人がいなかったら心細いもの」
彼女はつながった手を見つめていた。やがてもう一方の手を上に重ねると、私に身を寄せて肩をふれあわせた。
「あったかい……」
彼女は静かに目を閉じる。
「寒かったの?」
「ううん。でも、どうせならあったかい方がいいじゃない」
「それもそうね」
私は一度手を離すと、その手で彼女の肩を抱いて引き寄せた。
「あ……」
彼女は小さく声を漏らすと、私の腰に手を回し、頭を私の肩に預けた。
彼女の体は少し冷えていた。やはり無理をしていたのかもしれない。私も顔や服が濡れてきて寒く思い始めていた。
それでも彼女とふれあっていると温かかった。肩や腕しかふれていないはずなのに、まず胸の奥から温かくなって、それから全身に熱が広がっていくようだった。
「……ごめんね、こんなつまんない話を聞かせちゃって。なんか感傷的な気分になっちゃったみたい」
「つまらないことないわ」
つまらないはずがない。霊夢のことならどんなささいなことでも聞いていたい。いつだって私は、霊夢の思いを知りたくて、霊夢の声を聞いていたいのに。
「ありがと。……いつもこんな小難しいこと考えてるわけじゃないのよ。ただ、自分の気持ちが自分でもよくわからないの。よくわからなくて不安はあるけど、不快じゃなくて、胸がときめく感じ」
彼女は私の肩から頭を離す。私と目を合わせると、そのまま私たちは見つめあった。彼女の瞳はきれいに澄んでいて、吸いこまれそうになった。薄暗い天気の中、彼女の瞳だけが輝いていた。
彼女はふいに私に顔を寄せると、目を閉じる。
唇がそっとふれあった。
「今はこうしておきたい気分かな」
彼女はほんのり頬を赤く染めて微笑んだ。
どきどきする。体が熱くなる。私、霊夢とキスをしたんだ。ほんの少し唇が当たっただけなのに、切なくなるくらい甘くて、胸がきゅんとした。
これが彼女との初めてのキスだったことに気がつく。どんなに抱きあっていても、唇がふれあったことはなかった。そのことがなんだか不思議に思われて、今までしなかったキスの分だけ口元が寂しくなって、彼女の唇を意識してしまう。
「……キス、しちゃった」
今そのことに気づいたかのようにつぶやくと、彼女はふっと表情を曇らせた。
「私、初めてのキスだったの。すごく温かくて満たされるのに、なんか苦しい……」
もしかしたらそれは私と同じ想いだったのかもしれない。私自身、キスは初めてだった。何気なくて、でも幸せな口付けだった。それなのにさっきのキスは偶然という名の気まぐれみたいで、彼女の唇が恋しいのに、どうしようもなく遠い。たったこれだけの距離をもう埋めることができないような気がして。
「最初で最後……って思ったでしょ?」
それは自分自身への問いかけでもあった。
「えっ……?」
彼女は驚いたような、気まずいような顔をして、しかし小さくうなずいた。
「……最初なのに、最初で最後なんて思っちゃダメよ。次もある、その次もきっとあるんだって、祈らなくちゃ」
霊夢に、そして私自身にそう言い聞かせて、それから彼女の頬を両手で支えて唇を重ねた。
今度はすぐには離さない。ついばむように口付ける。彼女は一瞬体をぴくっと震わせて離れようとしたけれど、すぐに私を受け入れた。
軽く口を開いて、舌をふれあわせる。湿っぽくなってきた彼女の唇を何度も味わった。キスに慣れていなくて、もどかしくて拙い口付けしかできなくて、私たちは不器用に想いを伝えあった。
幻想郷に戻ってからのことなんて今は知らない。それでも今は確かに愛しあえている、そんな夢を見ていた。
「ね? またできたでしょ?」
そっと唇を離すと、私たちは互いの息づかいが感じられる距離で見つめあった。
「……やだ。優しくしないで。私、また泣いちゃう」
彼女の瞳は潤んで今にも涙が溢れそうで、抱きしめた体が震えていた。
「泣けるときに泣いておけばいいのよ。その分だけまた強く生きられるはずだから」
そうなだめる私まで泣きそうになって、ただ彼女の背中をさすってあげる。
「将来のことなんてわからない。でも、とりあえず、祈りましょう。これはあなたが教えてくれたことでしょう?」
私は彼女に笑いかけた。昨日の朝の彼女がそうしてくれたように、私も彼女を支えてあげたかった。彼女は声を上げて泣き出してしまって、それから唇を重ねてきた。激しく泣いてしまって思うように口を動かせないのが辛かったのか、彼女は口を離そうとしたけれど、私は彼女の頭を抱き寄せた。涙に震える唇を舐めて、彼女の口の中を優しく撫でた。そして彼女の顔に何度も口付けて、彼女の涙を、彼女を曇らせる雨水を丁寧に吸い取っていった。また晴れますように。また霊夢が笑ってくれますようにと祈りながら。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
Ⅲ. 夜を越えて
あれから私は霊夢に会っていない。
あの後、私たちは部屋に戻って着替えて、夕方前に船が着いて、すっかり暗くなってから神社に戻った。そこで別れたときの笑顔が、彼女についての最後の記憶だった。
特に彼女と会えない事情があるわけではない。ただ、少しの間彼女と距離を置いて冷静になってみた方がいいと思ったのだ。
旅の間、彼女に近づきすぎてしまった。本当に幸せな日々だったけれど、うかつだったと思わないでもない。旅の解放的な気分に流されて、彼女と深くつきあいすぎてしまった。きっと旅から戻ってすぐに彼女と会えば、旅の延長線上にいるつもりで彼女と接してしまっただろう。そうすればなし崩し的に、欲望のままに彼女に詰め寄ってしまうのは時間の問題だった。だから彼女と会わない日々もまた、彼女と、そして自分自身と向きあうために必要な時間だった。
変化は一日目からあった。何か物足りない感覚がずっと続いて、何をしても気が晴れなかった。人肌恋しくて、ずっと彼女のことを考えていた。
二日目は、胸が締めつけられる思いがして、切なかった。頭が呆けたようにぼうっとして、あまり物事を深く考えることができなくて、体が少し熱かった。彼女に買ってもらった、おそろいの髪飾りを見つめてなんとか気を落ち着けていた。
三日目はひどかった。胸がどきどきして、体が火照って、おまけに秘所が疼いて仕方がなかった。朝からこんな調子で、調子が悪いのかと藍に心配された。ふと油断した隙に手が下半身に伸びて、そのたびに自己嫌悪に陥った。ここで彼女を想って自らを慰めてしまえば、彼女を欲望の対象物として見てしまうことになるからだ。
四日目はもっとひどかった。気持ち悪いくらい頭がくらくらして、彼女の柔らかい体のことばかりが意識された。鏡を見ると顔が赤くて、少しやつれていた。即物的なものに悩む自分にいらだったけれど、抗えず、悶々として夜もろくに眠れなかった。
そして今日、五日目、私は欲望に屈した。強烈な衝動を感じて、彼女が欲しくて、それ以外には何も考えられなくて、貪るように自らを慰めた。指が秘所を撫でる水音と抑えることのできない浅ましい喘ぎ声が寂しく響く中、無我夢中になって彼女を求めた。気づいた頃には月明かりが汗で濡れた私の体と、汗ではないものでぐっしょりと濡れそぼつ指とシーツをぼんやりと照らしていた。体の疼きはだいぶ収まったものの、余計に虚しく切なくなって、彼女を淫らな目で見てしまった罪悪感に襲われた。
病気だと思った。彼女のそばにいて心でふれあっているだけで満足だったはずなのに、突然欲深くなって彼女の体が欲しくてたまらなくなった自分に失望した。自分は肉欲は薄い方だと思っていたのに、猿みたいに自慰に耽ってしまった自分を軽蔑した。
それでも彼女に逢いたくて仕方がなかった。彼女から離れると冷静になるどころか余計に不安定になって、ただ、彼女なしでは生きていけないのだと強く感じた。
霊夢は今回の旅を楽しんでくれた。見知らぬ世界に飛びこむ喜びをいくらか感じ取ってくれたと思う。引きこもりがちな彼女がもっと自らの幸せを積極的に求める、そのための小さなきっかけになるようにと願う。きっと彼女は幸せにやっていける。私が何もしなくても彼女は上手くやっていけたのかもしれないが、とにかく、自分でも驚くくらいいつになくおせっかいで心配性になっていた私もようやくこれで安心した。
彼女はどんな幸福を思い描くのだろう。彼女は私なんかいなくてもやっていけるのだろうが、その幸福の中に私はいられるのかな、と思ってしまう。彼女が誰かを愛して生きるという人生を選ぶかどうかはわからないが、選ぶとしたら、その誰かは私であって欲しかった。リスクがあることは彼女だってわかっている。幻想郷の守護者たる私たち二人が同時に伴侶を持つために幻想郷を守ることだけにその身を捧げることが難しくなること(その二人が互いに結びあうのだから当然のことだが)と、種族差ゆえに避けられない悲しみ。この壁が、私がこんなにも彼女に恋焦がれているのに想いを打ち明けることのできない理由だった。
壁は絶望的なくらいに大きく思われたけれど、彼女も私を想ってくれているのならなんとか乗り越えられる。彼女となら、きっと上手くいく。陽が昇ったら彼女に会いに行って、彼女の顔を見て、それからどうするのか決めよう。これは私と彼女の問題なのだから。
***
「やっと来てくれた」
そう言って霊夢は振り返ると嬉しそうに微笑んだ。
「あ、あら……? 驚いてくれないの?」
私はひさしぶりに神社に来て霊夢に会った。どうせならやっぱり驚く顔が見たかったから彼女の背後を狙って出てきたのに、彼女はまったく驚いた顔を見せない。
「びっくりしてるわよ。ひさしぶりに来てくれたんだもの。……ああ、いきなり背後から出てきたのに驚いてないってこと?」
「ええ」
「ふふふ。実はね」
彼女は得意げに笑った。
「ウチにいるときだけだけどね、あんたが来るのわかるのよ、三秒くらい前に。私がここにいてあんたが台所に出てきても同じ。霊気が歪んでね、あんたがそっと神社に忍びこむのがかすかに感じられるの」
「なんだ、そういうことだったの。それならそうともっと早く言ってくれればよかったのに」
「ふふふ。だからびっくりしてあげようにもできないの。残念でした」
彼女を驚かせようとしたことはこれまでにも何度もあったから、少しだけ損した気分になる。
一方で、彼女の笑顔にはっとさせられる。すごく楽しそうで、私まで嬉しくなってしまいそうな明るさ。以前は見られなくて旅の間だけ見せてくれたような、素直な笑顔。それを旅から帰ってきてからも私に見せてくれた。一週間近く経ってもまだ旅の気分が残っているのだろうか。そうじゃないとしたら……。
夏はまだ続いていて、今日は日差しが強かった。汗がにじみ出る陽気の中、やっぱり彼女は縁側に座ってお茶を飲んで過ごしていた。
「あんたも飲まない?」
「昼間からお酒はいいわ」
「ぷっ」
思わず彼女が吹き出す。
「ああ、もう、ちょっとお茶出ちゃったじゃない」
「あら、そんなに面白いことは言ってないわ」
「ううん。これ、前にもあった気がする。懐かしいなって思ってさ」
彼女はまだくすくす笑いながら、人に会うわけじゃないしまぁいっかとつぶやいて、手で受け止めたお茶を服にこすりつけた。
「確かにあったかもしれないわね」
彼女と過ごした夏の日々。めずらしく彼女から飲まないかと言ってくれたときに、とっさに冗談をついたのを今でも覚えている。
「もらえるかしら?」
「どうぞ」
彼女は手に持っていた湯飲みを差し出すと、にこっと笑った。
「あ……」
そしてこれも確かにいつか夢見た光景だった。彼女がわざわざ別の湯飲みを用意するんじゃなくて、彼女のお茶をそのまま私に分けてくれたら素敵だなと思ったことがあった。それが現実になった。私たちの関係は、確実に変化している。
「ありがとう」
私は湯飲みを受け取ってひとくち飲んだ。
「どう?」
なんだか甘い味がするような気がして。
「おいしい」
「よかった」
そんなささいなことで彼女が微笑んでくれるのが嬉しかった。
私は彼女の隣で気だるい夏の午後を過ごした。旅の前とあまり変わらない過ごし方だったけれど、私たちの間にある湯飲みはひとつだけだったし、以前よりも彼女に近い場所に私は座っていた。退屈だから一緒にいるという距離ではない。ただ一緒にいたいから私はここにいる。
「……ひさしぶりね」
「うん、本当にひさしぶり」
他のどの場所よりも、彼女の隣こそが私の居場所だった。
「最近、どうしてた?」
「最近はあんたがいないから退屈してた」
そう言って彼女は笑った。
「冗談みたいな、でも本当の話よ。一度魔理沙が来てくれて、宴会がなくて退屈してる萃香にお酒飲まされて、後は買い物に行くくらいでほとんど家にいたわね。どこか散歩してもよかったんだけど、暑いし、あんたが来たら困るし。あとは……考え事? とか…………ま、まぁそんな感じよ」
彼女は妙に照れくさそうに笑って言葉を濁す。
「それより、あんたこそどうしてたの?」
「私は……」
ここしばらくの生活を思い出して、また少し自分が嫌になる。
「旅の疲れをいやしつつ、ひさしぶりにたくさん眠っていたわ」
あなたとの将来について考えていた、あなたが恋しくて仕方がなかった、だなんて言えない。言えるはずがない。
「ふぅん……?」
彼女の純真な瞳が私をのぞきこむ。自分が汚れた者であるというような気がしてしまって、私はごまかすようにお茶を飲んだ。
「そっか」
彼女は私が嘘をついたことに気づいたのかもしれなかった。それでも彼女は深く追究しようとはしなかった。
真実を話さなかったのは自分なのに、それがなぜか寂しかった。それ以上尋ねない彼女の気づかいには感謝しつつも、なぜか悔しかった。今の私たちの関係の限界が見えてしまった気がした。もっと彼女とわかりあいたいと思っていたはずなのに、これ以上は話せなかった。
飾らない自分の姿も彼女にだけは知っておいて欲しい、そんな願望がないわけではなかった。けれど、そんなことをしては彼女を傷つけてしまう。私たちは、まだただの親友なのだ。最高の相方ではあっても、互いのすべてを引き受けるというような関係ではない。この距離でわかりあえるのはここまでなのだ。
「ふぁ~ぁ」
霊夢はひとつ大きなあくびをかいた。
「旅の疲れってわけじゃないんだけど、最近あんまり眠れなくてさ」
そう言って彼女は横たわる。
「せっかく来てくれたのに悪いんだけど、ちょっと寝てもいい?」
「ええ」
「あと、嫌じゃなければでいいんだけど、あんたがそこにいてくれるといいかも。なんか安心してよく眠れそう」
「じゃあそうしようかしら」
私も横たわると、霊夢はとろんとした瞳で私を見つめる。外界で彼女と過ごしたこと、彼女と抱きあったことがふっと思い返される。今はもう遠い夏の日々。それが恋しくなって。
「ついでに添い寝してあげようかしら。あなたが眠るまで抱きしめて撫でてあげても?」
つい、そんな冗談を言ってしまう。
「あ、いいねぇ、それ」
彼女は恥ずかしがって断ると思ったのに、彼女はふわりと微笑んで甘えるようにすり寄ってくる。そんな彼女をいつかのように抱きしめた。
彼女は温かくて、柔らかくて、いい匂いがした。この感覚を私は知っていたはずなのに、遠くに置いてきてしまったものをやっと取り戻せたような懐かしさと喜びを感じる。
汗が吹き出る。彼女の背中に回した手に湿り気を感じる。彼女の汗の匂いが濃くて甘ったるくて酔いそうな気分になった。
「やっぱ暑い」
そうは言っても彼女はどこか嬉しそうで、ぎゅっと私にしがみついて離れない。
「そりゃそうよ」
「でも、いいの。そのままでいて。暑いけど、あったかい」
そう言うと彼女は私の胸に顔を埋めた。
「や、やめて。そんなとこ汗だらけよ……」
「紫の匂い……」
彼女のうっとりした声に体が熱くなる。恥ずかしくて、でも彼女と離れたくなくて、私はじっと彼女を抱きしめ続けた。
やがて彼女は穏やかな寝息を立て始めた。私の体の匂いを嗅ぎながらそのまま眠ってしまったのだ。そのことに気がつくと、熱中症にならないのが不思議なくらい体が火照りだす。それでも私の体に、私の心にぴったりと寄り添ってくれる彼女が愛おしくてたまらなかった。私はそっと彼女を抱き寄せて仰向けになり、私の体の上で抱いた。もっと彼女の体温を感じていたかった。もっと彼女の存在の重みを感じていたかった。
ああ、旅にこだわる必要なんてなかったんだ。今、初めてそのことに気がつく。
きっと旅はきっかけに過ぎなかった。ただ、私が彼女と抱きあう理由が欲しかっただけなのかもしれない。何も難しいことのないところで普通の人として抱きあうことができれば、次は幻想郷で抱きあうことができると期待していたのかもしれない。
結局、私たち自身がどう思うかなのだろう。ならば、彼女の笑顔に、彼女の温もりに、彼女のこの安心しきった信頼に勝るものがありうるのだろうか。もっと想いあえる。もっとわかりあえる。そんな未来が確実に手に届くところにあるように思われた。使命や種族なんて小さな言い訳に過ぎない。だから必ずこの想いを伝えよう。やっと巡り逢えた、たった一人の最愛の人に。
***
すぐその日には告白しなかった。悪い雰囲気ではなかったと思うが、どんなふうに言うかまったく考えていなかったし、彼女は眠っていた。寝起きの彼女に好きだと言うのも、自分が逆の立場になったときのことを想像するとなんとなく滑稽だと思った。それに、彼女を抱いたまま私も眠った。寝つきが悪いのは彼女だけではなかったのだ。
家に戻ってから、どんなふうに告白しようかと考えてみた。けれどたいした案は浮かばなかった。どんなに考えてみても、彼女に面と向かって、愛していると言う以外にはない気がした。それに、大切なことはそれだけなのだ。ムードなどいらないとは言わないが、結局は想いを素直に伝えられるかということなのだろうと思った。
夜に家で一人横たわっていると寂しさが募った。さっきまで彼女と一緒にいたのに、少し離れただけで涙が出るくらい切なかった。あたりには誰もいなくて、自分が呼吸する音以外には何も聞こえなかった。明日のことを思うと緊張したし、彼女の隣でぐっすりと寝てしまったから今夜はあまり眠れそうになかった。
それでもいつのまにか眠っていて、いつのまにか陽は昇る。誰が何を考えて何を言おうとも、地球は回るし太陽は昇る。物事には成り行きというものがあるのかもしれないと思った。世の中、そんなに難しいことばかりじゃないと霊夢は言っていた。信じあえるかどうか、そんな単純なことだけが重要な場面だってあるということだったのだろう。私が彼女を愛していて、彼女も私に想いを寄せてくれているのなら、あとはただ伝えあうだけだ。
「あ、今日も来た」
霊夢はいつものように笑って迎えてくれた。
「ええ」
私は彼女の隣に座るとそのまま彼女を抱き寄せる。
「ふふっ、今日は積極的ね」
「嫌?」
「ううん」
彼女はまんざらでもなさそうにくすりと笑った。
「ん? なんかどきどきしてる?」
彼女はくりっとした目で私を見上げた。
「あなたがそう思うなら、そうかもしれないわ」
「ふふふっ、やっぱりあんたって面白い。ねぇ、なんかわけがあるんなら聞かせてよ」
「特に何かあるわけじゃないわ」
「なんか言ってくれないと、いつ私の服を剥いでやろうかと興奮してどきどきしてる変態さんってことにしちゃうわよ」
「剥いであげましょうか?」
「待った。あんたにはこの手の脅しは効かないってことを忘れてたわ」
危うい冗談を飛ばす彼女の顔は涼しげだった。いつものようにやり返しながらも、私は確かに一人だけどきどきしていた。
「でも、そんなに大きくは外れていないわ。だってあなたのそばにいると楽しいんだもの。夜に家に戻って一人でいると、静かで、退屈なのよ。あなたは夜はどうしてるの?」
「私もあんたとおんなじ。たいがい暇にしてるわ」
「じゃあさ、今夜はあなたの家にお泊りしてもいい?」
「うん、いいよ」
彼女はそう言って無邪気に笑いかけてくれた。
そんなわけで私は夜になってもずっと神社にいた。いざ想いを伝えようとすると、いつ言い出せばいいのかわからなかった。彼女には気づかれていないと思うが、ずっと緊張していた。
夕食後、私は彼女を夜の散歩に誘った。なんとなく、普段と違う場所の方が想いを伝えやすいような気がしたからだった。
私たちは手をつないだまま空を飛んだ。少しバランスが取りにくくて何度か手が離れそうになったけれど、息を合わせつつゆっくりと飛んだ。夜風が涼しくて気持ちよかった。
私たちは当てもなく飛び回っていたけれど、ふと通りかかった湖が目に付いて、ほとりで一休みすることにした。
「きれいね」
彼女はそうつぶやいた。
満月のきれいな夜で、湖に映された月が妖しく揺れていた。湖の周りは木も少なく、雲もないおかげで月明かりだけでも見通しがよかった。
「ええ、きれい」
私は彼女の顔を見ながらそう答えた。
「ちょっとどこ見て言ってるの?」
「あなたの顔は満月よりもまぶしくて、じっと見ていられないくらいに美しい」
「うわ……」
「なーんてキザなこと言いたくなるくらい、霊夢は可愛い!」
そのまま私は彼女をぎゅっと抱きしめた。自分でも歯の浮くようなセリフだったけれど、嘘ではなかった。月明かりにぼんやりと照らされた彼女の横顔は艶っぽくて、きれいな顔のつくりが際立ってどきどきした。
「もう、紫ったら……。でも。こうしてあんたに抱かれてると、なんか海に行ったときのことを思い出すなぁ。ちょうど目の前によく似たものがあるし」
「また水浴びしよっか?」
「それもいいかも」
「海と違って小さいけど水もきれいなのに、この湖は昼も人が全然いないわよね」
「まぁ妖精とか妖怪とか出るからね。紫みたいに危険なのとか」
「あら、ひどいわ」
「じゃあ、こうしよう。あんたが湖に来るときは必ず私も一緒に来る。もちろん見張りとしてね」
「ふふふ。その時はよろしく」
それから彼女は湖を見つめていた。私は湖を見たり彼女を見たりしていた。
静かな夜だった。虫がりーんりーんと鳴いて風が木や草の間を舞う以外には、私たち以外に音を立てるものはなかった。彼女はたまに目が合うと微笑んでくれた。私たち二人だけがここにいて、彼女とだけ同じ思いを分かちあえているような気分になった。きっとこんな夜には想いがよく伝わるかな、と思うような。
「よく考えたらさ、こんなふうに散歩するんだったら毎日でもできるわよね。滅多に外界に遊びに行けなくたって、幻想郷の中を散歩しているだけでも素敵だと思わない?」
「うん」
彼女がうなずいたのを見届けて、私はじっと彼女の目を見つめて切り出した。
「私、あなたといろんなところに行きたい。二人で同じ所に行って、同じものを見て、同じものを聞いて……。ううん、わざわざどこかに出かけなくてもいいの。ただ……、あなたと一緒にいたい」
最初で最後の、たった一人の恋人に。
「ずっと一緒にいたいの。私、霊夢のことが好き。愛してる」
私の想いが届きますように――。
「…………」
霊夢は何かを考えるようにうつむいて、何も言わない。
私はだんだん不安になる。
どきっとするくらい魅力的に微笑んで、私も好きだよって言ってくれる彼女の姿を夢見ていたのに。
「……このままだと、いつかあんたがそんなふうに言うんじゃないかって気がしてた」
彼女はそう言うと私の腕をほどいて一歩離れた。
「言わなければよかったのに。あいまいなものを都合よく解釈しておきたいってこともあるんだから」
ねぇ、どうして離れるの? どうして笑ってくれないの?
「ダメよ。はっきり言葉にされちゃったら、私は応えられない。私は私にしかできない使命を負った、数十年後には死ぬ普通の人間。悪いけど、あんたにはつきあいきれない」
何を言っているの? 私は彼女がわからなくなってしまって、言いようのない恐怖に襲われて、ただ立ち尽くすしかない。
「微妙な距離のまま、あんたと笑いあって冗談を飛ばしていられれば私は充分楽しかった。あいまいな関係だったけど悪くなかったし、あいまいだったからこそすがっていられた」
彼女は軽くうつむいたままで目元が見えない。端正な口元だけがぞっとするほど冷静に言葉を紡ぐ。
「無理なのよ。私とあんたとはちょっと立場が似てるけど、でも事情が違う。からかう気分で私にまとわりついて引っ張りまわして好きだよって言って、それで私が死んだ後はころっと忘れて新たな人生が待ってるあんたとは違うのよ。私はあんたみたいに幻想郷を守るついでに誰かを愛するような余裕はないし、あんたみたいに生きている間に何人も愛するようなこともできない。私だって何人目かわからない。そんなあんたに私の中に踏みこまれても困る」
そこまで言うと、彼女の透き通るように冷たい瞳が私を射抜いた。
「冗談だったのよね。今日のところは忘れてあげるから」
嫌! そんな目で見ないで!
私はもう何もかもわからなくて、私の認識する世界のすべてが恐ろしくて、ぎゅっと目をつむる。
「私は……!」
涙が出た。
「私は、いつだって本気だった……!」
どんなに目を強くつむっても涙は溢れ出て、凍えるような胸の痛みが苦しかった。
「誰かを好きになったのは、あなたが初めてだったのよ! 手をつないだのも、キスして抱きあったのもあなたが初めて! 私だって幻想郷の守護者。軽々しく誰かを、それも人間を好きになってはいけないってわかってはいたつもり」
頭が、口が、体がぶるぶると震えて、両腕で体を抱いて、必死に叫んだ。
「それでも好きになっちゃったのよ! 今まで会ったどんな人よりも私はあなたに惹かれた。恋焦がれた。愛おしくて愛おしくて、たまらなかった……!」
壊れてしまいそうなくらいの激情をただ吐き出し続けることしかできない。
「あなたの笑顔が、温もりが、私のすべてだったのに…………!」
私はもう一度目を開く。顔はもう涙でぐちゃぐちゃで、視界もぼやけていた。鮮やかな赤と白の巫女装束、可愛らしい顔、艶やかな黒い髪、そのどれもがもうよく見えない。私が生まれて初めて憧れたものはもう手に入らないのだと悟ると、私は逃げるように走り出した。
ただ、すべてが終わったんだな、とだけ思った。
あれから私は道もよくわからないまま必死に走り、息が切れて脚がもつれても走り続け、そして転んだ。服のおかげで外傷はなかったけれど、顔は涙とか鼻水とかで汚れていたし、体もどろどろだった。惨めだった。私はまた泣き叫んだ。何千年ぶり、いや、こんなに泣いたのは生まれて初めてかもしれなかった。
やがて涙が枯れて、声が出なくなった。どうしようもなく疲れていたし、喉が渇いて痛かった。そこで私はやっと、転移して自分の家に戻ればよかったということに気がついた。そんな気力もなかったけれど、これ以上こうしていても余計に悲しくなるということがわかってしまったから私は気力を振りしぼって転移した。
今にも倒れそうな体を奮い立たせて服を脱ぎ、シャワーを浴びて体をざっと拭いてから、服も着ないでベッドに飛びこんだ。もう動けなかったし、何も考えられなかった。すぐに眠れたなら楽だったろうに、目だけが冴えてそれさえもできなかった。
最初からこうなる運命だったのだ。私も彼女も宿命を負っている。想いが強くさえあればきっとわかりあえる、なんて思った私が甘かったのだ。とんだ思いあがりだった。私はちゃんと彼女の気持ちを考えたのだろうか? 霊夢という人に会うことができた、それだけでも奇跡だったと思うべきなのだ。彼女ほど私の心を強く揺さぶる者はいなかったし、きっとこの先にも現れないだろう。
あんなふうに言われてしまって、もう彼女と今までのような関係でいられるとは思えなかった。幻想郷を守る人と妖として顔を合わせることはあるだろうけれど、積み上げた絆は失われ、事務的なつきあいになってしまう気がした。
彼女がもう笑ってくれないのなら、この人生にどんな意味があるというのだろう。大好きだったはずの幻想郷も色あせて見える。私はもう疲れた。孤独な妖怪の賢者として幻想郷を見守り続け、たった一人愛した者ともわかりあえなかった。
私は目を閉じる。やっぱり夜なんか明けなくていい。この意識が私の最後の記憶でいい。眠くなんかなかったけれど、目に入る光が嫌で、私はもう目を開かなかった。
***
取り返しのつかないことをしてしまった、と思った。
私は紫から想いを打ち明けられて、それで混乱してしまってなんかよくわからないことをいろいろ言って、気づいたら紫がいなくなっていた。その意味がわからなくて、一人で湖にいても仕方がないからとりあえず家に帰った。
なんとなく寝る支度をしようと思って、なんとなく台所に立って皿を洗った。なんか皿が普段より多いなと思ったら、それは紫が使ったものだった。そのことに気づいた途端、私はわっと泣き出した。紫は私の前からいなくなってしまった。それも私が突き放してしまったのだ。今日は私の家に泊まるんだって約束していたのに。いっぱい紫に甘えられると思ってわくわくしていたのに。
自分の気持ちをちゃんと整理していなかった私が全部悪い。ここのところずっと紫との将来について考えていた。旅から帰った後急に一人になって寂しくて仕方がなくて、たまたま遊びに来てくれた魔理沙とか萃香と話してなんとか気をまぎらわせていた。それでも一人の夜は切なくて泣きそうだった。
実際、あいまいな関係にすがっていたんだと思う。正直言って、私と紫がちゃんとした形で結びあうことができる気がしていなかった。だって幻想郷を守りきれる自信がないし、先に死んだ方も残される方も結局は辛い思いをする。ただ気楽にいちゃいちゃするだけの関係でもずいぶん幸せだったし、私たちが進めるのはそこまでなのかなと思っていた。だからいつか紫が私に告白しても、もしかしたら断るかもしれないという気はしていた。それでも私はまだ迷っていた。そうだったら、落ち着いて、もう少し考えさせてと言うだけでよかったのに。断るにしても、もっと他に言い方があったはずなのに。どうしてあんな言葉がすらすらと出てきたんだろう。あんなの私じゃない、と叫んでみてももう遅かった。
紫は泣いていた。あの紫が、泣き叫んでいた。誰よりも強い心を持ったあの紫が、いつでも冷静に自分を抑えてきた紫が、どうしようもないくらい激しく泣いた。私が泣かせたんだ。私がめちゃくちゃに壊してしまった。どうして? ほんの少し前まで信じあえていたはずなのに。
別れとはこういうのを言うんだと思った。きっと私は紫に甘えていた。何があっても結局は彼女に会えると思いこんでいた。でも紫は私に背中を向けていなくなってしまった。きっともう彼女は振り返ってくれない。あれだけ傷つけておきながら、私を好きになって、だなんて言えないもの。二度とないかもしれない、なんて甘いものじゃなかった。二度とない、という残酷が現実になった。
どうすることもできないということだけが痛いほどにわかった。また私は一人ぼっち。元に戻っただけ? 人の温もりを知ってなお一人で生きられるの? 最初から知らなければよかった? 最初から紫とつきあわなければよかったの? ねぇ、どうすればよかったの? こんなときにいつも私を助けてくれた彼女はもう隣にいなかった。
わめくことすらできなくてさめざめと泣いていたら、いつのまにか明るくなっていた。途中で少し眠れたのかもしれないけれど、よくわからない。ただ、ひどい寝覚めだった。頭は重くて何も考えられないし、喉は渇いていたけれど水を飲みに起きる気にはならなかったし、お腹も空いていたけれど食欲はなかった。暑くて体がだるくて、紫と一緒にいたときには気持ちいいとすら思っていた暑さが今はうっとうしい。このまま干からびて死んでしまう気がしたし、それでもいいようにさえ思われた。
「霊夢、いるかー。いなくてもいいや、邪魔するぞー」
突然、場違いなくらい元気な声が聞こえる。魔理沙の声だ。
「邪魔するわよー」
続いて聞こえる声はアリスのものだ。神社は誰もいなければ静かで、扉もほとんど閉めていないから彼女たちの声が筒抜けだ。
「霊夢、いないのかー。返事しないとお酒持っていくぞー」
「ちょっとあんた本だけじゃなくてお酒まで盗むの?」
「何度も言っているが死ぬまで借りるだけだ」
「本は読んでもなくならないけどお酒は飲んだらなくなっちゃうじゃない」
「お酒は飲んだ者の心にいつまでも残る。お、この酒はうまそうだな」
「格好よさそうなことを言ってもダメよ。とりあえず霊夢を探すわよ。あんた、霊夢をからかうんだって言ってたじゃない」
「まぁ酒は後からでももらえるしな」
足音が近づいてくる。
「霊夢、どこ? ……あ、いた」
「お、霊夢、まだ寝てるのか? もう昼なのに、相変わらずのんびりした奴だな」
「相変わらずって言ったって、霊夢はいつも朝は早かったと思うけどね。起きてる?」
呼びかけられて振り向くと、魔理沙とアリスが並んでしゃがんで私の方を見ていた。
「起きてはいる……けど、なんか元気なさそうね」
「それに、今日もあいつはいないのか? まぁいたら私たちが来るどころじゃなかっただろうけど」
「紫ならいないわよ。何しに来たの? お酒なら持って行けばいいじゃない」
私はぶっきらぼうにそう言った。私だけが一人虚しく横たわっていた。魔理沙にはアリスがいて、アリスには魔理沙がいて、でも私には誰もいなかった。心にぽっかりと大きな空白ができているのが意識されて、水分不足のせいか涙は出なかったけれど、そのかわりなんだか気持ち悪くなった。仲の良さそうな二人をこれ以上見ていられなくて、私は顔を背ける。
「一人で飲んだって、不味いだけよ」
二人は何も言わなかった。紫に続いて、せっかく訪ねてくれた友人まで遠ざけてしまったことに気がついたけれど、もう私には何もできそうになかった。私が二人を傷つけてしまう前に二人が帰ってくれればいいと思った。
「お前、顔色悪いぞ。ちゃんとなんか食ったのか?」
「なんも食べてないわ。大丈夫よ」
「この顔を見て誰が大丈夫って言うのよ。なんか取ってくる」
アリスはそう言うと立ち上がって台所に向かった。
「まったく、お前、これ以上ダイエットしてどうするって言うんだ。しかもえらい汗かいてるな。暑いんじゃないのか」
「……いつも通りの暑さでしょ」
「このままでは熱中症になってしまうかもしれない。脱がせるぞ?」
「好きにしたら」
「なんてこった、霊夢はすでに熱中症のようだ。しかも相当重度の」
アリスが戻ってくる音がする。
「持ってきたわ。とりあえず、お茶とおせんべい」
「いらない」
「なんか食べなきゃ元気出ないわよ」
「いらないってば。帰ってよ」
「食べなさい」
アリスが語気を強める。何で私に怒るんだろうと癪になって、私はアリスの方を向く。
「ねぇ、何があったの? 紫となんかあったんでしょ? 嫌なら話してくれなくてもいいけど、誰もあんたにそんなふうに死んだような顔をしていて欲しいなんて思っていない。そんな顔されたら、嫌でも心配になるでしょ?」
「…………」
アリスが泣きそうな顔をしていた。
「……わかったわよ。食べるってば。あんた意外と涙もろいんだから。ここで泣かれても困るし」
私は重い体を起こしてアリスからお茶とおせんべいを受け取った。
ごくごくごく。アリスが持ってきてくれた水は冷たくて、心地よく体に染み渡る。ぼりぼりぼり。確かな歯ごたえと濃い味付けが私の目を覚ましてくれて、食欲のない私の喉を通ってくれた。それらは、この世にはもう何もないと憂えていた私の口にもおいしくて、食事を摂って少し気力がわいてくるとまた涙が出てきた。
「ごめん……。せっかくあんたたちが来てくれたのに、冷たくあしらったり泣いたりして。でも、もう私には何がなんだかわからないの」
「それはいいのよ」
そうアリスは言ってくれた。
「それより、何があったのか話してくれ。ああ、もちろんお前が嫌じゃなければでいいから」
魔理沙も心配そうに私を見つめた。
「……話しておくわ」
私はひとつ息を吸って話し始めた。
「昨日、紫に告白されたの。それで、私、混乱しちゃって、断っちゃったの。そうしたら紫、わんわん泣いちゃって、いなくなっちゃったの。私の家に泊まる約束してたのに、いなくなっちゃった……」
「告白されて、混乱しちまったってことか」
話しながら昨日のことを思い出して、余計に涙が出てくる。
「どうして混乱しちゃったのか話してくれる?」
「よくわかんない」
「……まぁ、それがわかったら苦労はしないな」
「ごめん」
「謝らなくていい。お前は今は自分のことだけを落ち着いて考えてくれればいい」
「うん……」
魔理沙とアリスは、正直に想いを告白してくれた紫をひどい言葉で傷つけて、二人の友情をも無下にしようとした私を気づかってくれた。どうしてこんな私にかまってくれるのかはわからなかったけれど、少し救われる思いだった。
「……わかんないんだけど、たぶん私、紫と結びあうことなんてできないと思ってたんだと思う」
「どうしてか教えてくれる?」
「……私も紫も、幻想郷を守らなくちゃいけない。私たちが一緒になっちゃったら、きっと全力で幻想郷を守るなんてこと、できなくなる。それに、紫だけが私よりうんと長く生きるのよ」
「まぁ、間違ったことは言ってないか……。難しいな」
「好きだったのに……! どうして私、あんなこと……」
話せば話すほど、私は紫が好きだったこと、それなのにひどい言葉をかけてしまったことを自覚してしまう。そんな私が魔理沙たちの前にいるのが恥ずかしくて、顔も涙でぐちゃぐちゃで、私は両手で顔を覆った。
「紫にはなんて言ったのか、よければ具体的に教えて?」
「確か……、あいまいな関係だったから楽しく過ごせたけどちゃんとした形でつきあうことはできない、紫とは事情が違うんだって……、そんな感じのことを言った気がする。あと、冗談でしょ、なんて言って、私、馬鹿みたい……」
「ふぅん……」
アリスは考えこむ。
「ねぇ、霊夢。あんた、はっきり、嫌いだって言っちゃったの?」
「言ってない……と思う。だって、どんな事情があったって……、好きだもん」
「それならさ、まだ行けるわよ」
アリスはぱっと明るく微笑んだ。
「え……?」
「あんた、紫とちゃんと話しあってみなさいよ。だってあんたたち、立派な両思いじゃない。事情は複雑だろうけど、そんな簡単に諦めちゃもったいないわよ。紫だってきっと勘違いしてるだけ。そりゃあんたの言い方も相当悪かったんだろうけど、紫が好きだって言ったのに対して、あんたは難しいって言っただけじゃない」
「…………」
「思うところがあるならちゃんと言葉にしてみなくちゃダメよ。言わなくても伝わることだってあるし、特にあんたたちなんかそういうの多い印象があるけど、でも互いに心が読めるわけじゃないでしょ。何も言わないうちからくよくよしていても始まらないわ」
……あ、ホントだ。
誰も嫌いだなんて言ってない。まだ、好きっていう気持ちが残ってる。私にも、もしかしたら紫にも。
紫にはさすがに嫌われてしまったかもしれない。だって自分でもぞっとするくらいひどいことを言ってしまった。でも、もう一度ちゃんと会って話さなくちゃ。嫌われちゃったらそれは私のせいだけど、誤解されたままは嫌。背を向けたくなる事情はあるけど、それでも好きなんだって、今度は私から言わなくっちゃ。
もう嫌いだって紫は言うかもしれない。私が言ったのと同じくらいひどい言葉を言い返す権利がきっと紫にはある。その時は、もう本当にダメだと思う。でも私はその言葉はまだ聞いていない。まだ望みがあるはずなんだ。紫が本当に好きなら、まだ諦めちゃいけないんだ。
「私、まだ紫と分かりあえるかな?」
「ええ!」
少しだけ希望が見えてきた私をアリスは励ましてくれる。その隣で魔理沙も微笑んでいる。
「どうだ、アリスもなかなか言うだろう?」
「全部魔理沙が教えてくれたのよ」
「うぁ……」
私を笑わせようと思って魔理沙はそう言ったのだろうけれど、逆にアリスに返されてしまって魔理沙は赤面する。そんな二人がなんだかおかしくて、私は少し気分が軽くなった。
「でも私、紫がどこにいるのかわかんない。好きなのに、家がどこにあるかもわかんない」
「おっと、それは大問題だな。私にもわからん」
「私も知らないわ」
好きな人のことなのに、家がどこにあるのかすら知らないことに気がつくとやはり悲しかった。
私たちはしばらく考えていたけれど、やがて魔理沙が立ち上がった。
「よし、今から私がなんとかしてやろう。行こう、アリス」
「ええ」
「ああっと……、どっちか残った方がいいか?」
魔理沙が心配そうな顔を向ける。
「ううん、もう大丈夫。ありがと」
私はずいぶんひさしぶりに微笑むことができた。
「二人一緒に行きなさいよ。好きな人同士で一緒にいられる時間って大切じゃない」
「そうか、悪いな」
魔理沙は安心した表情を浮かべると、私の目をじっと見つめてきた。
「霊夢」
「うん?」
「たまにはお前の本気を見せてやれ」
「う、うん……、がんばる」
めずらしく真剣な瞳が、魔理沙が私のことを本当に気にかけてくれていることを教えてくれる。彼女の気の強さを少し分けてもらえた気がした。
魔理沙とアリスは背を向けて去っていった。
「で、どうするの?」
「うーん、どうすればいいんだろ」
そんな会話が聞こえてきたような気がしたけれど、私は二人を笑顔で見送ることができた。
***
二人が帰ってから、私は紫が来るようになる前のように、縁側に一人で座って幻想郷を眺めながらのんびりとお茶を飲んで過ごした。そのころの気持ちを思い出そうとしたけれど、もう遠く彼方にかすんでしまっていた。一人で穏やかに過ごしていたという事実はわかるのだけれど、自分のこととしての実感をほとんど伴わなかった。
やはりこの場所で思い出すのは紫と並んで過ごした日々だった。最初は、退屈しなくていいというくらいにしか思っていなかった。紫は飽きもせずにいろいろな話題を持ってきてくれた。私は適当にあしらうことも多かった気がするけれど、内心ではいつも楽しく彼女の話を聞いていた。もしかしたら紫も暇だったのかもしれない。最近の幻想郷は確かに平和だったのだから。
紫はなんとなく私のところに遊びに来てなんとなく家に帰るということを繰り返していたけれど、次第に私に笑いかけてくれるようになった。彼女はだいたいいつも余裕たっぷりの不敵な笑みを浮かべていたけれど、そんなのじゃない。穏やかで優しくて、素敵な笑顔だった。その頃から、私の知らない、でも嫌じゃない感情が生まれた。それがこの恋のきっかけだったのかもしれない。私がぎこちなく笑い返すと、紫はもっと明るく笑ってくれた。それが嬉しくて私は自然に笑うことができた。
紫が旅に誘ってくれたのも、こんな穏やかな日のことだった。私に恋なんか無理だと思いながらも、紫のことが気になって仕方がない頃だった。紫が喜ぶ顔が見たかったし、私自身、彼女と旅行に行ってみたかったし、たった数日なら羽目を外してもいいかと思って出かけることにしたのだった。
柄にもなくつまらないことばかり考えてしまっていた私にとって、あの旅は私自身を見つめるよい機会だった。紫と近くなりすぎて、もう引き返せないところまで来てしまったけれど、それでよかったんだと今ならわかる。だって、私は本当に幸せだった。海で紫に抱かれたときも、少しとまどったけれどすごく嬉しかった。あの包みこんでくれるような温もりが忘れられなくて、私はずっと紫に甘えていた。
旅から帰ってしばらく、紫に会わなかった。おそらく紫も私との将来について考えていたのだろう。私自身、紫との将来について考えていた。一度彼女から離れていれば冷静になれると思っていたけれど、それは間違いだった。やはり私に恋愛なんて無理だと思って、彼女との将来を諦める方に傾いていた。寂しくて、紫に会いたくて仕方がなかったのに、どうしてそんなふうに考えたんだろう? どうしてあの温もりを手放せると思ってしまったんだろう?
ひさしぶりに紫に会えたときはすごく嬉しくて、また彼女に甘えてしまった。旅はもう終わったんだって自分に言い聞かせたけれど彼女から離れられなかったし、旅が終わっても紫が甘えさせてくれたことが嬉しかった。
その次の日、私と紫は一緒に私の家で泊まる約束をして、夜の散歩に出かけた。普段と違って夜になっても紫と一緒にいられると思うだけで胸が高鳴ったし、湖は静かできれいだった。
そこで紫に告白された。たとえ紫のことが嫌いだったとしても、好きだよと言ってしまいそうなくらいにロマンチックな夜だった。そこで雰囲気に飲まれてしまえばよかったのに、私も好きだよとは言えなかった。とまどってしまって、何かが急に怖くなってしまって、紫を傷つける言葉が恐ろしいくらいたくさん口をついて出た。気づいたら紫が泣いていて、走り去ってしまった。
混乱したまま家に帰って、そこでやっと私は気がついた。紫を失ってしまったことに。自分から紫を遠ざけておきながら、どうしようもなく紫が好きだったことに。失うことの意味を知ったあの夜、私はずっと泣いていた。気分が悪くなるくらい自分を責めた。
そして今日、魔理沙とアリスが励ましてくれた。まだするべきことをしていないんだって気づかせてくれて、少しだけ勇気が出てきた。だって、するべきことがまだあるということは、その分だけまだ希望があるということのはずなんだから。
だから私はあまり暗いことを考えすぎないようにしながら今日を過ごしたけれど、やはり一人で沈んでいく太陽を眺めていると不安が募った。紫は私のことが嫌いになってしまったんじゃないか。紫は私の言葉を聞いてくれるのか。そもそも紫は私に会ってくれるのか。私には紫がどこにいるのかわからないから、紫が私のところに来てくれるのを待つしかなかった。それについては魔理沙がなんとかすると言ってくれたけれど、具体的にどうするのかは想像できなかったし、夜になっても紫は来なかった。そんなにすぐに上手くいくはずがないと頭ではわかっていても、涙が出た。
私はいつもと同じ時間に床に就いた。眠かったわけではないけれど、これ以上起きて何かをしようという気にもならなかった。
言うまでもなく私は一人だった。昨日だったら隣に紫がいたはずだったのに、私が台無しにしてしまった。昨日私があんなことを言わなければ、今日だって今頃隣に紫がいてくれたかもしれないのに。
不気味なくらい静かな夜だった。どんな独り言を言ってみても何の返事もないのがひどく奇妙に思われた。私だけが一人ここに取り残されて闇に飲みこまれてしまうような気がして、言いようのない恐怖を覚えた。
いつもと変わらない夜だ。それに今夜とは限らなくてもきっと紫は来てくれる。そう自分に言い聞かせて平静を保とうとしたけれど、自分の呼吸の音だけが一つ聞こえるたびに息が苦しくなっていった。暑い夜だったはずなのに、寒々しくて体が震えた。いつも私を抱きしめてくれた大切な人が今はいない、そんな孤独感に溺れ死んでしまいそうだった。
「紫……」
私は思わず手を空中に伸ばす。
紫、早く来て。私を助けて。私、もうダメ……。
「…………」
何も起きない。そんなことをしても紫が来てくれるはずがないのに、悲しくなってしまう。無意味だとわかっていても他に私には何もできなくて、この手を下ろしたらもう二度と紫は私の手をつかんでくれない気がして、腕がしびれてきても私は手を下ろさない。
「…………」
腕の感覚がなくなってくる。私、このまま終わってしまうのかな。もう紫とは会えないのかな。腕が私の意志に逆らって落ちそうになって。
「え……?」
なんだろう。普通ではない、でも温かい気の歪み。
ぱしっ。
次の瞬間、私の弱った手は誰かにしっかりと握られていた。
「ゆか……り……?」
私のよく知った、私の大好きな顔が空中から私をじっと見つめていた。
信じられなかった。
私は夢を見ているの?
そうだとしたら、手から伝わるこの温もりは……?
「紫! 紫っ……!」
涙が溢れ出た。紫が来てくれた。もう会えないかもしれないと思っていたのに、それでも紫は来てくれたんだ。
「あ、あれ、霊夢?」
彼女はスキマから這い出てきて床に座った。最初は不安げな顔をしていたけれど、急に私が泣いてしまっておろおろしている。
私も体を起こした。
「泣かないで、霊夢」
紫も泣きそうな顔をしていた。
「大丈夫……。紫が来てくれて、嬉しいだけだから……」
私は流れ続ける涙を拭いながらそう言った。
私は思わず紫に抱きつきかけた。でも、すんでのところで思いとどまる。今はダメ。紫は来てくれたけれど、まだ何も解決していない。このあいまいな関係のままではきっとまた同じ過ちを繰り返してしまう。
「どうして、来てくれたの?」
私は紫に抱きつく代わりにそう尋ねた。
「それはあなたが気になったからよ。話せば長くなるんだけどね」
紫は穏やかな表情で言った。
「私だって、好きな人にフラれてたった一人で一晩で立ち直るほど強くないわ。今日の朝、藍と話していたの。私は気落ちしていて話す気分になれなかったんだけど、あんまり私がひどかったものだから藍ったら泣き出しちゃったのよ。仕方ないから洗いざらい話してみたんだけど、藍ったら、なんて言ったと思う? 霊夢は一言も嫌いだなんて言ってないって。びっくりしたわ。私、もしかしたら勘違いしてただけかもしれないって、ちょっとだけ希望がわいてきたの。それから藍は、私の気を楽にしようと思って幽々子のところに行くように言ってくれたの。家にこもってないで外の空気を吸ってこいって。幽々子は、まぁいつもみたいに冗談ばっかり言ってたけど、ちゃんと話さなきゃダメって諭してくれたわ。妖夢にも励まされちゃった。帰る頃には確かにずいぶん気が軽くなっていて、やっぱりあなたに会いたいなって思ったの」
そこまで言うと紫はわずかに顔を曇らせた。
「帰ったらね、藍が言ったの。あなたが私に会いたがっているらしいって魔理沙が言っていたと橙から聞いたって。でも、すぐに会いに行けるとは思わなかったわ。だって怖かったもの。藍は、霊夢は嫌いだとは言っていないと言うけれど、やっぱり私は嫌われちゃったのかなって思ってた。フラれて、それでもしつこくあなたのところに行って、それでどんな顔すればいいのかわからなかった。だから今日は行くのをやめて寝ようと思ったんだけど、全然眠れなかったの。布団に入るとあなたのことばかりが頭に浮かんで、気になって仕方がなかった。それで私、夜に来ることにしたの。いつものあなたなら眠っている時間だから、寝ているんだったら顔を合わせなくてすむかなって。あなたが何も悩まないで幸せそうに眠っていたなら、私、もう諦めようと思ってたの。でもあなたは起きていた。よくわからないんだけど、あなたが手を上げていたから握ってみた。そしたらあなたは私が来てくれて嬉しいって言ってくれた。これはまだ脈があるのかなぁ……なーんちゃって……」
紫はおどけて見せながらも、その笑顔は弱々しかった。
「そっか……。ねぇ、紫」
私は紫に頭を下げた。
「ごめんなさい……。私、紫にずっと謝りたかった。なんで私、あんなこと言ったんだろうって、今自分で思い出してもぞっとする。あんたのこと、全然嫌いなんかじゃなかったのに……」
私は紫の瞳を見つめた。涙で視界がぼやけていたけれど、確かに紫は私の目を見てくれている。
「ねぇ、私の話、聞いてくれる?」
「ええ、あなたの話を聞かせて」
紫は私の手をしっかりと握り返してくれた。
***
「私、あのときは本当にいっぱいいっぱいで、何もかもよくわからなくなっちゃったの。たぶん、一度にいろんなこと考えようとして頭がパンクしちゃったんだと思う。私、勘はよくても頭は特別いいわけじゃないもの」
私たちは手を握りあって、見つめあった。紫を傷つけてしまった私の話を、紫は優しい瞳で静かに聞いてくれた。
「私、最近はあんたとどういうふうにやっていくかってことをずっと考えてた。旅から帰ってきても紫は甘えさせてくれたけど、本当は私、旅は終わったからもうダメなのにって悩んでた。いけないと思ってたけど、紫がどうしようもなく温かくて、恋しくて、私、離れられなかった」
「そうだったの……。悪いことをしたわ。旅が終わったらあなたはもう抱きついてきてくれないかもしれないとはなんとなく思っていたけれど、そこまでは考えなかったわ」
「ううん、いいの。普通はそこまで考えないわ」
紫が申し訳なさそうな顔をする。紫に気を使わせてしまうことが辛かった。私が黙っていれば紫も悩むことがない、もしかしたら私はそんなふうに思っていたのかもしれない。それを口実に私は言葉を尽くして伝えることからずっと逃げてきた。でも、結局はそれが紫だけでなく私自身も苦しめた。そういうのはもう終わりにしよう。私は何もかもを紫に話しておきたかった。
「私、恋愛なんて無理だとずっと思ってたのよ。だって、私は博麗の巫女。全力で幻想郷を守らなくちゃいけない立場じゃない。だから、恋愛なんてする余裕ないと思ってた。別にそれはそれで困らないし、友達はたくさんいるからまぁいいやって納得してたの」
「あなたがそう思っていたことはなんとなくわかっていたわ。……私もそう。私だって身を賭して幻想郷を守らなくてはならない立場。もちろん幻想郷は愛しているけれど、それとは別に、私には恋愛は難しいのかなって思わないでもなかった」
「うん。あんたもこの辺のことはだいたいわかってると思ってた。でも、ある日突然、不思議なことが起こったのよ。私、誰にだってだいたい同じように接してきたのに、あんたにだけなんか違うふうに感じるようになったの。あんたといるとなんだか楽しくて胸が高鳴るのに心が落ち着いて、あんたといないときはいつも心のどこかであんたを探してる。なんか変だなと思っていたんだけど、後でわかったの。これが恋ってものなんだなって」
紫が少し嬉しそうに表情をやわらげた。
「でも、そうなったところでやっぱり私には恋愛なんて無理だと思ってた。たぶん、心の奥底でそういうものだと思いこんでたのよ。ずっとそう思ったまま育ってきたからね。特に何も起きないまま、いつのまにか恋心は消えてなくなるんだと思ってた」
紫が寂しそうな顔をする。それだけで私はくじけそうになってしまう。紫にはいつも笑っていてほしいから。けれど私は正直に話し続ける。
「それでもあんたは旅に誘ってくれた。私、あのときもすごく迷ったんだけど、まぁたった数日なら幻想郷を離れてもいいかなって思って行くことにしたの。私は、巫女だから、とかそういうの全部忘れてあんたと楽しむんだって決めてた」
「あ、やっぱり。嬉しい。私もね、普通の人同士としてあなたと楽しむんだって決めてたの。それにね、私は最初から、あなたに難しいこと全部忘れてもらおうというつもりで旅に誘ったのよ」
「え? そうだったの?」
「そうよ。だって霊夢っていつもすごく可愛く笑ってくれるのに、たまにすごく寂しそうに笑うことがあったじゃない。なんていうか、私にはあなたが幸せになることを諦めているように見えた。私、幸せの味をあなたに知ってほしかったの。一度思いっきり楽しむことを覚えたら、もう忘れることはできなくて自分から幸福を探し求めるようになってくれるんじゃないかな、っていう私のおせっかい。もちろん、私があなたとの旅を楽しみたいというのもあったんだけどね。私、もうあの頃からあなたのことが気になって仕方がなかった。誰に対しても同じように接するあなたを、私だけが独占したかったんだと思う」
「そうだったんだ……。じゃあ私は上手い具合にあんたに乗せられちゃったわけね。紫と一緒にいられて、すごく楽しくて、もっと仲良くなれて、本当に幸せだった。こっちに帰ってきてから、私、どうしようって思ったのよ。調子に乗ってあんたに近づきすぎちゃったって思った。あっちに行ってる間、あんなにべったりあんたに甘えていたのに、私、まだ自分には恋愛なんて無理だって考えてたのよ。もう、馬鹿みたいでしょ?」
「ふふふ、そんなことないわ」
私が小さく笑うと、紫も笑ってくれた。笑い事じゃない気もしたけれど、紫と一緒なら自然に笑うことができた。
少しの間、無言のまま見つめあった。紫は穏やかな瞳で私の目をじっとのぞきこんだ。どんなわがままでも聞いてくれるんじゃないかと思ってしまいそうな、とても優しい眼差しに私は胸がどきどきした。
今までにも、こんなふうに見つめあうことがあったことを思い出す。言葉にはできなくても、お互いに想いあえているところもあったんだ。きっとそれが今までの私を支えてくれていたんだと思う。
でも、言葉にしないとわかりにくいことは、言葉にするともっとわかりあえる。私は話の続きを切り出した。
「私、巫女だから恋愛なんかしちゃいけなくて、でもどうしようもなくあんたが好きになっちゃって、ずっと悩んでた。自分の中で答えを出さないまま、宙ぶらりんの微妙な関係にすがってあんたに甘えてた。そんなたるんだことしてるから、あんたに告白されて混乱しちゃったんだと思う。私も好きだって言いたかったのに、そう言ってはいけないってまず思ったの。それから、何か言わなくちゃと思って、それで出てきた言葉があれよ」
「ううん、私も悪かったわ。ごめんなさい。私、あなたの気持ちをちゃんと考えていなかった。私、あなたが抱きついてきてくれるから、てっきりあなたも私のことを好いてくれているんだと単純に考えてた。告白したら、あなたは笑ってうなずいてくれるに違いないって勝手に思いこんでた。私、もしかしたら焦ってたのかも。旅から帰ってから、私、しばらくあなたに会わなかったでしょ? あれね、その方がお互いに冷静になれるかなって思ってわざとそうしたの」
「あ、やっぱり」
「でも、逆よ。全然冷静になんかなれなかったわ。一週間くらいは離れていようと思ってたのに、一週間なんか持たなかったわ。一日目から四六時中あなたのことが思い浮かんで、そのうち熱に浮かされたみたいにあなたが恋しくなって……」
「うん、私も全然落ち着いていられなかった。いつも寂しくて泣きそうだった。暑いはずなのに寒いような毎日だった。ずっと一人でいるとどんどん悪い方に考えちゃって、あんたのことが恋しくなるほど私は恋愛なんかしちゃいけないと思っちゃって、ずいぶん思いつめてた。それだけでも辛かったのに、昨日あんたを間違ってフっちゃってからの私はひどかった。昨日はずっと泣いていて、今朝はもう死んだような気分だったっていうか、きっと死んだような顔してたんでしょうね。魔理沙とアリスが遊びに来てくれたんだけどさ、やっぱり死んだような顔って言われたわ」
「そんな、私……」
紫が泣きそうな顔になってしまう。
「ううん、紫は何も悪くない。私の、まぁいわば自業自得だから、あんたは気にしないで、ね?」
紫が私のために悲しんでいるのを見ると私まで涙が出そうになったけれど、私は言葉を止めない。止めるわけにはいかない。
「それから、紫が藍や幽々子たちと話してたみたいに、私も二人と話してたの。アリスもね、あんたのところの藍と同じことを言ったのよ。嫌いだって言ったわけじゃないって。私、アリスに言われてやっとそのことに気がついたの。私、間違ってそう言っちゃったような気分だったけど、どんなに間違えてもそこだけは間違えなかった。それで私、ちょっとだけ希望が持てたの。あんたがどこにいるのかわからなくて私は待っているしかなかったんだけど、でも紫も同じようにちょっと希望を持つことができて、そうして今、私たちはここにいる。そうでしょう?」
私たちは一緒に笑ったり泣いたり、もっと互いのことを知りたくて近づきすぎて時にぶつかったり。そんなふうにして、今、こうして向きあえている。
「ええ……」
互いに辛い思いをすることもあったけれど、それらをすべて乗り越えて、私たちは互いを信じて見つめあっている。
「ねぇ、もう一回やり直させてよ」
私は紫の手を胸に抱いて、目を閉じた。届いてる? 私の鼓動。
いつも胸に秘めて伝えられない言葉があった。たった一言なのに言えなくて泣いた夜もあった。私の想いを受け入れてくれる世界が想像できなくて恐ろしかった。そんな私には紫の温かさが何よりも嬉しくて頼もしかった。
紫の心に直接届けたくて、彼女の目を見つめる。いつも私を守ってくれる紫にずっと伝えたかった言葉。
「私、紫を愛してる。ずっとそばにいさせて」
私のたった一人の大切な人。聞いて、私のたった一つのお願いを――
紫のきれいな目から涙が零れる。
「うんっ。私も霊夢を愛してる……!」
紫がそう答えてくれた瞬間、私は紫に飛びこむように抱きついた。紫は両腕を広げて私を受け止めてくれて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
嬉しかった。想いを伝えられたこと。紫が私の気持ちを受け入れてくれたこと。紫が今でも私のことを好きでいてくれたこと。紫が私を抱きしめてくれること。
温かかった。言葉とか思考とかそういうのが紫の優しさに包まれて全部ふにゃふにゃに溶けてしまって、胸が一杯になって、もうすました私ではいられなかった。
「好きだった……! ずっと、ずっとあんたのこと好きだった……!」
深く眠らせていた想いが溢れ出る。もう大丈夫。紫がそう言ってくれている気がして、想いをせき止めていたものがひとりでに壊れてしまった。
「博麗の巫女? それがなんだって言うのよ……! 巫女やってたら人並みの幸せを望んじゃいけないって言うの……!? 幻想郷以外に守るものを引き受けてはならないの? どうして? 私、巫女をやめるわけじゃないわよ!」
紫から離れたくなくて、私は何者かに必死に訴える。
「起こるかどうかもわかんない危機に備えて一人でじっとしてなきゃいけないの? 知らないわよ! そんなもののために一人で寂しく生きろっていうの? できるわけないじゃない……!」
私は愛に餓えた獣となって紫に体をこすりつけた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、赤子が母親にすがるように泣きじゃくった。
「私はただ紫と一緒にいたいだけ……! そのくらい、許してよぉ……!」
「ゆるすわ。わたしがあなたのすべてを」
頭の上から声が響いた。
「幻想郷は、私の知っている幻想郷は、あなたの幸福を拒絶するような狭い場所じゃないわ。確かに、私もあなたも、全力で幻想郷を守るのは難しくなるかもしれない。でも、考えてみて。私たちがわかりあえれば、もっとお互いに協力することができると思わない? それに、幻想郷にいるのは私たちだけじゃないのよ。愉快で心強い、今回も私たちを支えてくれた仲間たちがいるでしょう? 私たちだけが幻想郷を支えなきゃいけないわけじゃないの」
紫の柔らかい手が、私の体をそっと撫でてくれた。紫の話す一言一言が、私の心を優しく撫でてくれた。
紫なら私のすべてを受け入れてくれる。きれいな私も、醜い私も、全部。
「だから、あとはあなたがあなた自身を許せるかどうかなのよ」
紫は私のすべてを信じてくれる。そう思った瞬間、また涙が溢れ出た。私の胸は何かから解放されたように軽くなって、じわっと熱くなった。私はもう手放しで紫のことを信じることができて、安心しきって、紫の胸で涙を流し続けた。
少し落ち着いて顔を上げる。紫も泣きはらした目をしていたけれど、ほっとしたように微笑んでくれた。
「落ち着いた?」
「うん……。私、まだ少しだけ悩んじゃうかもしれないけど、もう逃げない。あんたが私を認めてくれるなら、私は一生あんたについていく。ただ、今は紫を感じさせて」
私はそう言うと、紫に口付けた。私の涙と紫の涙のせいで少ししょっぱかったけど、甘かった。
もう私たちを止めるものは何もなかった。私たちはお互いの唇を吸って、舐めて、舌を絡めて、口の中を味わった。紫の味がした。よだれが垂れてきたのにもかまわず口をしゃぶりあった。全身が心地よくしびれるような甘美なキスだった。
口を離すとやっぱり少し名残惜しく感じて、私は紫のあごについたよだれを舐め取った。紫はくすぐったそうに笑って、私のあごについたよだれを舐めてくれた。それから私は紫の胸に頬を預けた。涙とかよだれで服が汚れてしまっていたけれど、彼女の腕の中はどんな場所よりも私を安心させてくれた。
紫の心臓の鼓動が耳に、頬に伝わる。それは私のに負けないくらい力強く脈打っていた。私と一緒だ。そう思うと嬉しくて、もっと紫の鼓動を感じていたくて顔を押しつける。でも思ったように伝わらない。紫が服を着ているからだ。
そういえば私も服を着たままだ。それがひどく奇妙なことに思われた。紫の腕の中は温かかったけれど、私の肌を撫でるのは布の感触だった。口と口を直接つなげていたみたいに全身でじかに紫とつながっていたいのに。溶けて混ざりあってひとつになっちゃうくらい紫とくっついていたいのに。こんなの、邪魔だよ。
「ねぇ、服を脱がせてよ」
「え?」
紫はとまどった顔をする。
「なんでこんなの着てるのかわかんなくなってきた。もっともっと紫を感じていたいよ」
「……いいの?」
「うん、お願い。早く」
私が腕を上に持ち上げると、紫は少しためらってから服に手をかけて優しく脱がせてくれた。下着姿になると紫がわずかに顔を赤らめた。下着も脱がせてくれると、全身に空気がふれるのを感じて汗ばんだ体に心地よかった。
「どうしたの紫、顔、真っ赤よ」
私が一糸まとわぬ姿になると紫はさらに顔を赤くした。
「だって……」
それだけ言って紫は黙ってしまう。
それで私は急に恥ずかしくなってしまって、顔が熱くなる。水着姿になるだけでも恥ずかしかったのに、裸になってしまった。あまり大きくない胸も、あそこも丸見えだ。私の体を紫に見てもらえるのは嬉しいけど、やっぱり恥ずかしい。
「あ、あんたも脱いでよ」
「え、ええ」
紫は自らの服に手をかけたけれど、そこで止めてしまう。
「ねぇ」
紫が顔を上げて私を見つめた。頬が赤くて、少し緊張した様子が可愛く思えてしまう。
「霊夢が脱がせて」
「う、うん……」
さっきしてもらったみたいに紫の服に手をかけると、彼女は両腕を持ち上げる。いざ脱がせようとすると緊張する。私は一気に、でもゆっくりと紫の服を脱がせた。
紫は、やっぱりというか紫色の、上品だけど色っぽい下着を身に着けていた。ブラジャーを脱がせようと紫に近づいて手を背中に回すと、胸元の肌が目に一杯広がって、紫の汗ばんだ匂いがふわりと香ってくらくらしそうになる。それからショーツを脚から引き抜く。少し濡れて染みができているのが見えてどきっとした。
「きれい……」
思わず見とれた。裸になった紫の体は何もかも忘れて陶酔してしまうくらい美しかった。私は言葉を失ってしまって紫の体をまじまじと見つめた。透き通るように白いのに温かみがある肌。形がよく柔らかそうで、思わず飛びこみたくなる豊かな乳房。じんわりと汗をかいた胸の谷間。慎ましくも誇らしげな乳首。しなやかな肉付きの腰がなまめかしくて、その下には秘所が恥ずかしげに見え隠れしていた。
「そ、そんなに見ないで……」
しおらしげにそう言う紫の顔がまた可愛くてきれいだった。目がなかなか合わなくて、紫も私の体を見つめていることに気がつくと、私は恥ずかしくて我に返って紫に抱きついた。
「あ……」
やっと紫とつながることができた。ひとつになれたんだ。紫の胸から、腕から、お腹から、腰から、脚から、紫の温もりが、優しさが伝わってくる。紫は私を愛してくれていると、心と体で感じることができた。
ずっとずっと求めていたもの。一人じゃないってささやいて抱きしめてくれる人。私を笑わせてくれて、感動させてくれて、守ってくれて、愛してくれる人。誰よりも優しくて素敵な、私だけのパートナー。ずっと好きだった紫を私は抱きしめていて、紫は私を抱きしめてくれる。
私は幸せ。こんなに幸せでいいのかなっていうくらい幸せだけど、私はもう手放すつもりはない。
紫は幸せに思ってくれているのかな。顔を上げると、紫は愛おしそうに目を細めて私を見つめ返してくれた。
もう一つだけ、私たちの間には問題があった。本来的には、私にとってではなく紫にとっての問題。私はもう紫との将来を手にした。私はもう思い悩むことなんかないんだ。それでも紫のために、紫の幸せのために、私たちはもう一つだけ話しておかなくてはならないことがあった。考えるだけでも辛いことだけど、逃げてはいけない。だって、私だけが幸せなんて嫌だもの。紫も幸せになってくれなきゃ絶対に嫌だ。
ねぇ、今度は私の番だよ。私が紫を幸せにしてみせるから――
***
やっと想いを伝えあうことができた。一度は霊夢に嫌われてしまったかと思ったけれど、諦めなくてよかった。彼女はあの夜になぜあのように言ってしまったのかを丁寧に教えてくれて、それからあの夜の告白をやり直した。
霊夢は私を愛していると言ってくれた。初めて私の心を芯から揺さぶった憧れの人。長く長く生きてやっと見つけた、命よりも大切な人。その彼女が私を愛してくれた。もう死んでもいいと思えるくらい私は幸せだった。今、彼女は私の腕の中にいる。必死にしがみついてくる彼女が愛おしくてたまらなかった。
「ねぇ、紫」
霊夢はどこか迷っているような表情をして私に呼びかけた。
「話すのは辛いんだけど、もう一つだけ話しあっておきたいことがあるの。私の問題じゃなくて紫の問題なんだけど、どうしても今のうちに訊いておきたいの」
「ええ……」
彼女が何を言うのか、なんとなく察しがついた。
「私は今、すごく幸せ。紫といられて、もう一生私は幸せに過ごせるんだって信じてる。でも、紫はどう? 今のことじゃなくて、将来のこと。あんまり私のこと好きになっちゃうと、きっとあんたは私が死んだ後辛い思いをすることになる。本当は私が気にすることじゃないってわかってる。でも、どうしても気になっちゃって……。ねぇ、私が死んだらあんたはどうするの?」
私は妖怪。霊夢は人間。それだけはどうしても変えることができない。霊夢は百年足らずのうちにいなくなり、私は幾万の時を生き続ける。私は一生を霊夢と共にすることはできないのだ。
結局、私はこの問題から逃げ続けてきた。その時にどうするにせよ、今、霊夢と愛しあうことが私の切なる願いだったからだ。霊夢を愛することさえできれば、彼女が死んだ後にはどんな悲劇を引き受けてもいいという以上のことは考えていなかったし、その時が来たときの自分自身にあまり興味が持てなかった。
「あなたが死んだらそれはとても悲しいでしょうね。……そのときには私も」
そういう選択肢すら、ありえると思っていた。
「それは許さない」
しかし私が言い切る前に、それは彼女の真剣な瞳に否定された。
「それは許さない。許せないよ……。そんなの嫌だよ……」
霊夢の目に涙がにじんで、零れ出た。はっとしたけれど、もう遅かった。
また私が彼女を泣かせてしまった。どうして私はいつも肝心なところで間違えるの。霊夢のことを想うなら、このようなことを言っては、いや、そもそも考えてはいけないのに。
「忘れられるのは嫌、忘れられなくて辛い思いをさせるのも嫌。でも、私のわがままなんか気にしてくれなくていい。だってよく考えたらさ、死んだ後のことなんて知らないもの。それに、私と関わることでその人を縛りつけるようなことをしたくない。それでも、紫、あんたに後を追われるのだけは絶対に嫌。だからさ、紫」
霊夢は涙が流れ続けるのにもかまわず、じっと私の目を見つめた。
「あんたはあんたの幸せのために生きて。私のことを気にかけてくれるのと同じくらい、あんた自身を気にかけてよ。私が死んだ後はさらっと忘れるなり別の人を見つけるなりしてくれていいから、ちゃんと幸せに生きるって約束して。そうしてくれたら私も安心して紫を愛して、安心して死ねると思うの。私のことは今だけでいい。今だけでいいから、私を愛して。今だけでいいから、いい夢を見させてよ」
私も涙が溢れ出た。霊夢がこんなにも私のことを想ってくれるのが嬉しくて、彼女に辛い思いをさせてしまったことが悔しかった。きっと彼女は、彼女の死後、私が自ら命を絶つことも考えているということを見抜いていたのだ。だからこそ霊夢は今、彼女の死後について私に尋ねたのだ。
霊夢の可愛さや勘の鋭さや純真なところ、なんともいえない、神秘的ですらある魅力に最初は惹かれていた。でも、彼女はそれだけじゃなかった。周囲にあまり興味を持とうとしなかった彼女だったけれど、私を好いてくれるようになると、彼女自身の大いなる強さと優しさを示してくれた。
霊夢が私を想ってくれるほどに、私は彼女のことを考えることができている自信がなかった。ここまで真摯に、純粋に、誰かの幸せを願うことができるだろうか? 逆の立場だったとしたら、私は自分が死んだ後も幸せに生きてくれと、涙を流しながら伝えることができるだろうか?
「……約束するわ。あなたが私のために悲しんでくれるのなら、私は生き続ける」
霊夢が私の誤りを正してくれたことに感謝した。私自身のために、そして願わくば霊夢のためにも、私は彼女の愛に報いたかった。
「それに、たとえあなたが死んでも私たちは終わらないわ。あなたが死んだ後に別の人を探すような、そんな半端な愛と覚悟しかないのならあなたには手を出さなかった」
私は生涯を霊夢のために捧げられると確信することができた。彼女に巡り逢わせてくれた運命にも私は感謝した。
「ねぇ、私はあなたに命を賭けてるのよ。私の人生は、この幻想郷であなたと共に生きる、まさにこの瞬間にかかってる、そんな気さえしている。そしてあなたが死んでも、あなたを想い続ける限り、きっと強くなれる。寂しくてもやっていけるわ。だから心配しないで。私は今だけじゃなくてずっと幸せよ」
霊夢に安心して欲しかったけれど、彼女は泣き止んでくれなかった。私も涙が止まらなかった。こうは言ったものの、彼女を失う孤独に耐えられる自信を今から持つことはできなくて、考えれば考えるほど不安が募った。生きることから逃げてはいけない、そう彼女は教えてくれたし、それが正しいと今ならわかったけれど、立ち向かう勇気が持てなくて恐怖に押しつぶされそうだった。
「幸せって言うんなら、泣かないでよ……」
彼女は涙を流し続けながらそう言った。
「霊夢こそ泣かないで。ごめんね、私のことで辛い思いをさせて」
これは彼女も言った通り、確かに私の問題なのだ。彼女にはこんなことを気にしないで笑っていて欲しかったけれど、彼女は優しかった。
「私は大丈夫、大丈夫なの……! あんたの方が辛いはずなのに……、ごめん、涙が、止まらない……!」
彼女はよりいっそう激しく泣きじゃくった。
私たちは心が読めるわけじゃなくて、他人の苦しみがどのくらいかわからない。霊夢は感受性が豊かだから、私よりも私のために私の悩みについて苦しんでいた。それなのに彼女は、自分は大丈夫だと言って私を安心させようとしてくれる。そんな彼女の胸中を思うと私も余計に涙が溢れてしまって、彼女にどんな言葉をかければいいのかわからなくて、ただ彼女が泣き止んでくれますようにと祈りながら抱きしめることしかできなかった。
「ごめん、私、やっぱりダメだね。昨日は長く生きる紫をひがむようなことを言ってみたり、本当は辛いのは紫だとわかったかと思ったらわんわん泣いてみたり。みっともないね」
霊夢の目はまだ赤かったけれど、だいぶ落ち着くと私にそう言った。
みっともないのは私の方なのに。こんなに若い彼女に自分の死後について考えさせるなんてそれだけで罪なのに。
「ううん。むしろ、ありがとう、って言わせて。私の問題に、あなたが逃げずに向きあってくれたのが嬉しかった」
そう答えると、やっと霊夢は小さく笑ってくれた。
「ありがと。……ねぇ、自分から言っておいてなんだけど、この問題は今はあまり考えこまないほうがいいと思うの。私が死んだ後もあんたはちゃんと生きるって言ってくれたから、私はもう安心した。だから、終わりのことばかり気にするんじゃなくて、今は今だけを楽しもうよ。あんたと旅したときもさ、すごく楽しかったけど、帰るときのことがずっと頭を離れなかった。ちょっとだけ、もったいなかったなって思うの。そういうの忘れたらさ、きっともっと幸せになれる」
霊夢は私に口付けて艶っぽく笑うと私をそっと押し倒した。頬に残った涙がきらきらと輝いて、潤んだ瞳が勝気に揺らいで、心を奪われる。
「今度は私があんたの難しいこと、全部忘れさせてあげる」
***
「ん……」
霊夢は私の体の右側にぴったりと体を押しつけると、両手で私の胸をゆっくりと揉みほぐす。彼女の手の温かさが伝わってじんわりと胸が熱く柔らかくなる。
「私、エッチってしたことなくてわかんないから、下手でも許して」
霊夢はそう言うと私の乳首に口をつけた。
「んっ……」
甘くしびれるような刺激が走って、乳首が張ったように突き出るのを感じる。
霊夢は唾液を塗りこむように乳首をくりくりと舐めて転がし、口に含んでちゅうっと吸った。一生懸命な霊夢の姿が、まるで私のおっぱいを吸おうとする赤ん坊みたいに思えて愛おしくて、私はそっと彼女の頭を抱き寄せた。
甘美な感覚がなだらかに全身に広がって、体に力が入らない。頭もぼぉーっとしてきた。膣のあたりがきゅんっと疼いて、ひとりでに腰がぴくぴくと動いた。
「紫のおっぱい、大きくて柔らかくていいな。極楽ってきっとこんなのよ」
霊夢は私の胸の谷間に顔を埋め、そのまま両手で私の胸を寄せてこね回す。突然、ぬるっとしたものが私の胸を撫でた。
「れ、霊夢……?」
「おいしい……」
彼女は酔ったような甘い声でそうつぶやいた。かぁ~っと熱くなる。だってそこは、きっとたくさん汗をかいていたんだから。
霊夢は私の胸の谷間をぺろぺろと舐め始めた。ときおり彼女の息がふれて、私の乳首が彼女の頬にこすれる。彼女の頭の匂いがふんわりと香って、優しい刺激がもどかしくて、いつのまにか私は霊夢の脚を股に挟んで押しつけていた。
「はぁ、はぁ……」
霊夢は顔を上げると、頬を真っ赤にして息を荒げていた。
「私、もうダメ。紫の体とか匂いとか、エッチすぎる……」
それから彼女は私の乳首を指でつまんだ。
「んくっ……!」
私は目をぎゅっとつむって刺激に耐えた。そんな私に満足したのか、霊夢は妖艶に微笑んだ。
「あんたも欲しくてたまらないんでしょ?」
彼女は淫らに潤んだ瞳で私を見つめたかと思うと、右手を私の下半身に伸ばした。
「ああんっ……!」
いきなり敏感なところに手がふれて、思わず腰がびくっと跳ねる。あられもない声を出してしまって恥ずかしくなる。
「ま、待って、霊夢……」
「そんなこと言って、あんたのここ、もうこんなにぐちゅぐちゅよ。そんなに欲しかったの?」
霊夢は秘所の割れ目を、愛液を延ばすようになぞった。何度も何度も指が通るたびにぞわぞわっと腰が震える。尖ったところを撫でられるのが、刺すような鋭い刺激なのにクセになる。
「気持ちいい?」
「うんっ、うんっ……!」
私はまともな言葉で答えることもできなくて、子供みたいに必死にうなずいた。
霊夢は手の平を使って私の秘所全体を優しく揉んだり圧迫したりした。あそこが燃えるように熱くなって、愛液が少しずつ溢れて漏れるのがわかってしまって顔まで熱くなる。それを彼女は塗り広げて、手の平と秘所がこすれてねちゃねちゃと音を立てる。敏感なところをちゃんとさわってくれないのがじれったくて私は腰をくねらせてしまう。
「んはぁ……、あっ…ん………、わ、わたし、もう……」
「そろそろ?」
「うんっ」
「ふぅん……」
「あっ、霊夢……」
霊夢は愉快そうに口元を歪めると手の動きを止めてしまう。
「どうして欲しいのか言ってみて?」
「やだ……ずるいよ……」
そんなはしたないこと言いたくないのに。いじわるな彼女の微笑みがすごくきれいで、背筋がぞくぞくっと震えて涙まで零れてきた。
「イカせて……お願い……!」
気分が異様にたかぶって暴れだす。私は泣き叫ぶように懇願した。
「ふふふっ」
「あ、ああん、ん……、んくぅっ……!」
霊夢は小さく笑うと、クリトリスを指で集中的に愛撫した。次々と押し寄せる快感に理性が押し流されていく。全身がぴくぴくっと痙攣して、頭の中が真っ白になる。切ないような、苦しいような、胸が締めつけられる気がするのに、温かくて心地よくて、空をふわふわと浮いているような解放感。
「はむっ、ちゅ、ん、んん~~っ、ちゅう、ん……」
あえぎ声をあげ続ける私の口を霊夢の口が塞いだ。彼女のキスは激しく情熱的で、私の舌を撫でたり歯茎をすみずみまで舐めたりしてから、舌を差し入れてきた。私は懸命に彼女の舌をしゃぶって滴り落ちる唾液を飲みこんでいると、真っ白になった頭が霊夢でいっぱいになってきた。
ああ、私、イカされちゃうんだ。こんなに若くて可愛らしい子にいいようにされてイカされちゃうんだ。私の方が大人だと思っていたのに、私はこの子に感じさせられて、浅ましくよがってイっちゃうんだ。もう体もふにゃふにゃで力が入らなくて、抵抗しようとしてもできない。
あ、ダメ。来る、なんか来る。
イっちゃう! 私、もうイっちゃう!
「んんっ、んむ、んっ…んんん~~~~~!!」
私は霊夢と口付けたまま絶頂に達した。頭の中で、体の中で、溜まりに溜まった何かが勢いよく爆ぜる。背中が反り返ったまま強張って、全身がしびれたようになって、ときおりぴくっと震えて余韻を残していた。
「はぁ、はぁ、はぁ…………」
「紫、汗かいてる」
霊夢は口を離すと、暑くて汗をかいている額や首をそっと吸ってくれた。彼女の柔らかい唇が達したばかりの火照った体にくすぐったくて心地よかった。
目を開くと涙がこめかみのあたりをつたうのを感じて、霊夢の穏やかな笑顔が視界に入った。
「……気持ちよかった?」
「はぁ、はぁ……。霊夢ったら純真に見えて小悪魔なのね」
「あう……、ごめん。その、あんたの体にさわって匂いをかいでたら、なんかこう……、どうしようもないくらいむらむらっと来ちゃって。あんたにひどいことしちゃったかもしれないけど、大丈夫?」
彼女は不安そうに私の目を見る。
「大丈夫、すごく気持ちよかったわ。ありがと」
さっきまでと変わって急にしおらしくなってしまった霊夢が愛おしくて私は彼女を抱きしめた。
「よかった。……じゃあさ」
霊夢はほっとした表情を見せたかと思うと、欲情に濡れた瞳で私を見つめた。
「今度は私にも同じことをしてよ。私、さっきからずっとどきどきしていて、あんたのきれいな手でさわって欲しくてたまんないの」
「ええ」
霊夢に誘われるまま、再び気分が高まる。
「思いっきりお返ししてあげるわ」
「ふふっ、期待してる」
私は霊夢に一度小さく口付けてから、彼女を抱き寄せて体を左にひねった。霊夢は布団の上に横たわり、私は彼女の右側に体を寄せる。ちょうどさっきの私たちと逆の姿勢だ。
私は霊夢の形のよい胸を、乳首の周りを撫でるように揉み、首筋を舌で舐める。
「ん……」
霊夢はくぐもった声を漏らし、ときおり体を小さく震わせる。私は体をずらし、霊夢の胸元に何度も口付けながら、彼女のほっそりした腕やなめらかなお腹、柔らかい太ももに手を這わせていった。
「じらさないで。早くさわって……」
霊夢は腰をよじりながら物欲しげに私を見つめる。とろんとした瞳と切なくて零れた涙がきらきらと輝いてきれいだった。
「お返ししてあげるって言ったじゃない。まだまだよ」
「そ、そんな……。私、さっきからずっと我慢してるよ?」
そう言う霊夢にもかまわず、私は執拗に彼女の体を敏感なところを避けながら撫で続けた。
霊夢の体は羨ましいくらいみずみずしくて張りがあった。肌はすべすべしてさわり心地がよく、うっすらと汗をかいていて温かい。思わずお腹に頬ずりをすると甘い香りがした。いつまでも彼女の体を味わっていたかった。
「早く、早くさわってよぉ……」
霊夢は今にも泣きそうな子供みたいにむずがる。涙ながらにねだる霊夢が可愛いからって、ちょっといじわるしすぎちゃったかな。私も、もっと霊夢のいろいろなところをさわりたい。
「んっ……」
小さな桃色の乳首を撫でると、彼女は甘い声を漏らした。その声に胸がときめくような感じがしてもっと彼女の声を聞きたくて、私はいじらしげに突き出てきた乳首を指で挟む。
「あ、あ…、ん…………」
痛くしないように気をつけながらつまんでくりくりと刺激すると、その声に艶が混じる。霊夢の声が頭の中で響いて、私まで切なくなって腰が自然に揺れた。
早く霊夢にも気持ちよくなってもらいたい。そんな思いを私自身押さえきれなくなって、彼女の秘所に手を伸ばした。
「ひゃ…、や、やだ! 感じすぎる……!」
霊夢は全身を強張らせる。彼女は敏感なのだろうか。私は割れ目をゆっくりとなぞり続ける。
「やだ、あ、こ、怖い! 怖い! 助けて……!」
どうしたのだろう。霊夢は何かに怯えるように小さく震えだした。
私は手を動かすのをやめて霊夢を抱き寄せた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「はぁ、はぁ……。ごめん……。その、自分でさわるのなんかよりずっと気持ちよくて、びっくりしちゃって……。あんなに、早くさわって、なんて言っておきながら、ホント、ごめん……」
「いいのよ。慣れないうちはしょうがないわ」
泣きそうな顔の彼女にそっと口付けて頭を撫でてあげた。私の胸元に頬を寄せていると少し落ち着いたのか、彼女はゆっくりと語りだす。
「あのね、私、イクっていう感覚を知らないの。なんかそういう気持ちいいのがあるらしいっていうのはなんとなく知っていて、それで、たまに体がなんだか火照っているようなときにね、……その、自分でさわってみるの。でも、ダメなの。何度かやってみたことあるんだけど、何度やっても途中で怖くなっちゃうの。それなりに気持ちいいんだけど、だんだん視界が暗くなってきて、体から意識だけ引っこ抜かれちゃうような気がしてきて、自分が自分じゃなくなるみたいなの。それでいつも、なんかよくわかんないまま終わっちゃうの。さっき紫に抱きついていてむらむらしたっていうのは本当よ。紫がすごく気持ちよくなってくれて、いいなぁって思ったの。私、びっくりするくらいどきどきして、紫にしてもらえるならきっとイクことができるって気がしたの。でも、ダメだった。ごめん。私も一緒に気持ちよくなりたいのに、どうしたらいいのかわかんなくて……」
「そうだったの……」
「ごめん……! 私、いつも肝心なところで踏み出せなくて紫の足手まといになってる……!」
霊夢は大粒の涙を流して嗚咽を漏らし始めた。
全然そんなことないのに。私の方がむしろ足手まといなくらいなのに。
「足手まといなんかじゃないわ。私はあなたといられるだけで幸せなんだから。だから泣かないで、気負わないで。以前みたいに、あーしろこーしろって言ってくれるくらいでいいんだから。それに、焦らなくていいの。時間はたっぷりあるわ」
「それだけじゃ、ないの。それもそうなんだけど、悔しいの。私だって……、紫に頼られたい」
「あら」
そんなことを言う彼女がおかしくて、愛おしくて、ぎゅっと抱きしめた。
「私はずっと霊夢を頼りにしているのに。あなただけが私の心の支えなのよ。あなたがいないと私は不安で不安で仕方がなくなっちゃう。でも、あなたさえいてくれれば、私、強く優しくなれるような気がするの。あなたさえいてくれれば、怖いものなんか何もない。だからさ」
私は霊夢の頭に小さくキスをして、耳元にささやいた。
「泣き止んで、笑ってよ。そうしてくれたら私も、もっと幸せになれる」
霊夢はしばらく何も答えなかった。鼻をすする音が聞こえなくなると、彼女は顔を上げて私の目を見つめた。きょとんとして、まだ少し気弱な瞳をしていたけれど、やがて表情を崩して笑いだした。
「ふふふっ、やっぱり悔しい」
霊夢は涙を拭いながらそう言った。
「私、あんたがいないとダメだ。そんなこと言うんなら、あんたが嫌って言うくらいべったり甘えちゃうからね。覚悟してよ」
「嫌って言わせられるものなら言わせてみてよ」
霊夢は私にぎゅっとしがみつくと口を近づけた。私は霊夢の唇をそっと咥える。はむはむっと撫でる、甘いキス。ちろちろと舐めると、彼女はくすぐったそうに目を閉じた。だんだん体の力が抜けて、ふにゃっと柔らかくなった霊夢の体が気持ちいい。
「そういえばさ」
「うん?」
「何度か自分でやってみたって言ったじゃない。もしかして、旅から帰ってから私と会うまでにもやってみた?」
「な……! どうして……?」
「ふふふっ。恥ずかしがらなくてもいいじゃない」
顔を真っ赤にした霊夢が微笑ましくて、ふと、自分も話しておこうという気になった。
「……その頃にね、私も、自分でしたのよ。なんだか悪いことのような気がしてずっと我慢してたんだけど、何日か経つと寂しくてたまらなくなっちゃって」
彼女は少しだけ驚いたように私を見つめた。それは言う必要のあることではなかった。そんな私の姿も霊夢にだけは知っておいてもらいたいという、ただの私のわがまま。
「こんな私は嫌い?」
彼女をむやみにとまどわせるだけかもしれないのに。
「ううん、嬉しい」
けれど、霊夢は明るく笑ってくれた。
「だって心だけじゃなくて体でも私を愛してくれてるってことでしょ? それに全然悪いことなんかじゃないと思う。そりゃこういうのってなんか恥ずかしいけど、でも、たぶんすごく自然なことなのよ。私もずっと紫にこういうふうに抱きしめて欲しくてたまらなかった」
「…………」
その笑顔に見とれた。彼女の魅力の前には、私は小さな存在であるようにすら思われた。
私の醜い姿を彼女はすすんで認めてくれた。それに、醜いことだと悩む私を彼女はそうではないと諭してくれた。ときに悩みこんでしまう私を、彼女はその悩みごと受け入れてくれる。彼女の器の広さを心から尊敬し、また、感謝した。霊夢になら、私のすべてをさらけ出せる。そう確信することができた。
「私もがんばるよ。体でももっと紫を愛したいし、そうすれば心でももっと愛することができる気がする」
そう言ってくれた霊夢に、私は言葉の代わりにキスで応えた。あなたが私の恋人でよかった。私は私のすべてであなたを愛している。そんな気持ちを込めて、穏やかに舌を絡めあった。
そのまま私たちは猫みたいに全身をふれあわせてじゃれあった。霊夢は私の顔や首、胸、腕などをさわったり舐めたりしてくれて、そのたびにその部分がほんのりと温かくなった。彼女が幸せそうに笑ってくれると胸の奥が熱いもので満たされた。私たちは確かに心でも体でも愛しあっていた。激しい絶頂に達することも官能的で魅力に溢れていたけれど、霊夢とこんなふうに優しい時間を分かちあえるだけで私は世の中の幸福をみんな手に入れたような気さえした。
なんとなく霊夢のお尻にあまりさわっていないなと思って、お尻の肉をくにくにとこねてみた。彼女のお尻はすらりと格好いいのにふにふにと柔らかく、手によくなじんだ。回すように揉むと、お尻の穴が広がったりすぼまったりするのがくすぐったいのか、もどかしげに腰を動かした。
「あんまりお尻ばっかりさわらないで……」
「だって霊夢のお尻可愛いんだもの」
彼女の目を見つめながらお尻を揉み続けると、彼女の頬が少し赤くなった。
「なんか、またあそこがむずむずしてきた。ねぇ、紫」
霊夢は少し不安げに、でも確かに潤んだ瞳で私を見つめた。
「もう一度、私にしてみてよ。このままじゃ終われないもの」
「ええ、わかった。とびっきり優しくしてあげる」
私は霊夢に口付けてから、励ますように笑いかけた。
「えーと、体を起こして後ろ向いてくれる?」
「え……。紫の顔が見えないとやだ」
恥ずかしがりもせずそう言って上目づかいに私を見つめる霊夢は、もう襲っちゃいたいくらい可愛かった。
「霊夢、可愛い。でも、大丈夫よ。まず霊夢のおっぱいとかお腹とかいっぱい撫でてあげる。その後に前から抱いて、あそこをさわってあげるわ」
「うん、わかった」
私たちは上体を起こし、霊夢は私の脚の間に座って背中を向けた。
「あ……」
この体勢って。
私は霊夢の首元に腕を回して抱きしめる。
「ねぇ、霊夢。こうしていると海に行った時のこと、思い出さない?」
「うん、私も思った。懐かしい……」
海で彼女を背中から抱いたことを思い返す。霊夢があの時のように私の腕に手を添えてくれた。
「私を初めて抱いてくれたのもあの時だったよね」
「ええ」
「私、あの時なんだかすごく悲しくて、でも紫が抱いてくれてすごく安心した。よくわかんなくなっちゃってたくさん泣いたなぁ」
私もなぜだか不安になって必死に彼女を抱きしめた。彼女の体の形、温もりはあの時から変わらない。けれど。
「でも私、もう大丈夫だよ。今、あの時みたいに安心できてるけど、あの時みたいに怖いものはない。顔が見えなくたって、紫がいてくれるってわかってるもの」
今の私たちは未来を信じることができる。霊夢さえそばにいてくれれば怖いものはもう何もない。
「お願い、紫。やっぱりこの体勢でいい。このまま私を私の知らないところまで連れて行ってよ」
「ええ、任せて」
霊夢の顔は見えなかったけれど、彼女は笑っているような気がした。
私は霊夢の胸に手を当てた。乳首に手の平が当たるようにしてかすかに刺激を与えながら、乳房全体を大きくゆっくりと揉みほぐした。
「ん……」
乳首を指で撫でると彼女はくぐもった声を漏らした。胸を撫でながら、もう一方の手でお腹や太ももにふれる。秘所に近いところを重点的に手の平で軽く圧迫したり指で揉んだりすると、霊夢の体がぽっと熱くなる。
「私、もう大丈夫だよ……?」
「ううん。じらすってわけじゃないんだけど、もっと霊夢がとろとろになってからね」
霊夢は次の段階に入るように促したけれど、私は彼女の体を撫で続ける。体が快感に慣れていないうちは、余計なことを考えられないくらいに心も体も高まってからの方が上手くいくはずだから。
霊夢はイクことへの恐怖からかわずかに体を強張らせていたけれど、だんだんまた柔らかくなっていった。
「んんっ……」
声の艶が増す。しつこいくらい彼女の体を愛撫していると、どんどん温かく、柔らかくなっていって、文字通りとろけてしまうんじゃないかという気がした。
「さわるわよ」
「うん、お願い……」
私は右手を霊夢の下半身に伸ばす。霊夢を驚かせないように、ゆっくりと膣に指を当て、それから手の平で彼女の秘所にふれて状態を確かめた。霊夢は一瞬ぴくりと体を震わせたけれど、緊張して体が強張ったわけではないらしく、すぐに柔らかい体に戻った。
霊夢の秘所はしとどに濡れていて、布団にしみができていた。クリトリスにふれないように気をつけながら、指で愛液をすくって少しずつ周囲に伸ばしていった。
「じんじんする……」
霊夢は甘えた声でそうつぶやいた。それは私も指に感じていた。霊夢の秘所は燃えるように熱くなっていたし、左手に感じる彼女の胸の鼓動と同じ間隔で、とん、とん、とかすかに脈打っていた。そろそろだろう。
「少しずつ、あなたの敏感なところを刺激していくわ」
「うん……」
私は手で霊夢の秘所を覆う。ぷっくりと突き出た部分があるのを手の平に感じる。刺激を与えすぎないように意識しつつ、手で秘所を軽く圧迫しながら揺らした。
「少しずつ大きくなる気持ちいい感覚を、優しく育てるようなつもりで意識するの。何も怖いことはないわ。その感覚は決してあなたを襲わないから」
たっぷりと時間をかけて、ゆっくりと霊夢を導いていく。彼女と永遠にふれあうことはできなくても、彼女に気持ちよくなってもらう時間はまだまだいくらでもある。少しずつ、一歩ずつでいいから、激しく愛しあうことの悦びも知って欲しい。
「あ…、ん、んっ……!」
霊夢は切ない声を漏らして腰をくねらせる。彼女の全身は熱を持ち、ぴったりと合わせた脚や背中にわずかに汗をかいていた。誘うような雌の匂いが悩ましい。私はたかぶる気持ちを抑えて、あくまで穏やかに彼女を愛撫する。
「ん、あ、んくっ……! また……ちょっと怖くなってきた……」
霊夢の体がわずかに固くなる。私は秘所を刺激する手の動きをさらにゆるめ、もう一方の手で胸やお腹をさすってあげる。
「ゆっくり息を吸ったり吐いたりしてみて」
「すぅ……、はぁ……、すぅ、んっ、すぅ、はぁ……」
霊夢はときおり刺激に体を震わせながらも深呼吸するが、体に入った力が抜けない。
「大丈夫。私がついているわ」
彼女の耳元にささやく。
「あっ……、う、うん……」
それで霊夢は安心してくれたのか、少しずつ体の強張りが取れていくのがわかった。
「あ、なんか来るかも……」
その時、下腹部がびくっと痙攣して、それを皮切りに胸やお腹、太ももが緊張してはほぐれるということが断続的に続いた。
「あぁ…、ん、はぁ、あっ、あああっ……!」
霊夢は脚をぎゅっと閉じて快楽に耐える。少しだけ怖がっているみたいだけど、きっと大丈夫。可愛いところを見せて。きれいな声を聞かせてよ。
「あぁん、んっ、あ、ああああぁぁぁぁん!!」
激しくあえぎながら霊夢は絶頂に達する。一際高い嬌声が、余韻に打ち震える体が、未だ手に感じる秘所の脈動が、狂おしいほどに愛おしくて彼女をぎゅっと抱きしめた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
「霊夢、すごく可愛かった」
「い、言わないで……。恥ずかしいから」
霊夢は私に正面から抱きつきなおす。まだ体に力が入らないのか、甘えるように私にしなだれかかってきた。
「はぁ、はぁ……。ありがと、紫。思っていたほどは怖くなくて、思っていたより気持ちよかった」
「でしょう?」
「うん。たぶん次からは怖がらずにできると思う」
「クセになっちゃいそうなんでしょう?」
「ば……。エッチな子みたいに言わないでよ!」
「私はエッチな霊夢が大好きよ」
「そ、そう?」
霊夢は恥ずかしそうにそう言うと、私の肩に頭を預けた。
「……なんか紫にされてるとね、体がどんどん熱くなるだけじゃなくて、心もあったかいものでいっぱいになって、私、紫に愛されてる! って感じになるの。エッチってもうちょっとお下品なものだと思っていて、そんなには興味なかったんだけど、こんなに幸せなら私、もっとエッチになってもいいかなって思っちゃう」
「霊夢がそんなふうに素直になってくれると私も嬉しい。ねぇ、霊夢。したいこと、なんでも言って。私、あなたのためならなんでもする。エッチしたくなったら、したいって正直に言って。私、いくらでも可愛がってあげる」
「うん、わかった」
私たちは静かに抱きあった。霊夢の心臓の鼓動が私の胸に伝わった。それから自分の心臓の鼓動が意識された。とくん、とくんと。
やがて、私たちの心臓は共鳴した。私たちは言葉を発さず、共に歩む胸の鼓動を抱きしめた。彼女の心臓が震えるから私の心臓も震えている、あるいは私の心臓が震えるから彼女の心臓も震えているようだった。
「私ね、きっと誰かに甘えたかったのかも。こんなふうに私のそばに来てくれて、わがまま聞いてくれて、べったり甘えさせてくれて、私を抱きしめてくれる人。友達はたくさんいるけど、なんていうか、巫女って立場が寂しいの」
「……私も寂しかったのかもしれないわ。あなたみたいに、私にも分け隔てなく接してくれる人って少ないのよ。妖怪の賢者なんて言われちゃうくらいだから」
「もしかしたら私たち、ちょっとだけ寂しい似た者同士だったのかも」
「そうかもしれないわね」
そんなことを話していても、私たちは笑いあえた。もう寂しくなんかなかった。なんとなく寂しく思っていたころのことも、そう思っていたからこそ霊夢と一緒になれたんだと、積極的に受け止めることができた。
「寂しい同士でもいいもん。こうなったらあんたと二人きりでとびっきり幸せになってやるんだから」
霊夢は明るくそう言うと私に思いっきり口付けてきた。私の唇をねっとりとしゃぶり、強く吸って、口の中までなぶるように激しく求めてきた。霊夢の勢いに気圧されて私はされるがままに彼女のキスを受け止める。貪るような口付けに胸がどきどきして、体が熱くなる。
よだれが零れ出てあごを、首をつたった。そのまま胸まで落ちると、霊夢のよだれと混ざりあった。彼女が胸を上下に動かしてこすりつける。柔らかい感触が私の胸をぬるっと撫でるのが気持ちよくて肌が粟立つ。
霊夢は口を離すと妖しく微笑んだ。ぬらぬらと輝く口元が淫らだった。
「ねぇ、またしたくなってきたんでしょ?」
「あら。どうしてわかったの?」
「そんなのあてずっぽうに決まってるでしょ。私がまたしたくなったから、あんたもかなって思っただけ」
そう言うと彼女は体重をかけて私を押し倒した。
「ね、今度こそ一緒に気持ちよくなろうよ」
霊夢は私の秘所と自身の秘所に手をやって愛液をたっぷり手に取ると、両手で混ぜあわせて私の胸やお腹に塗りたくった。
「ふふふっ。紫ったらいやらしい」
霊夢はそう言うと太ももを私の秘所にあてがい、私の太ももを挟んで自らの秘所もあてがうと、体をこすりつけてきた。
私と霊夢の汗とよだれと愛液が混ざりあって、私たちの肌を滑らかに擦りあわせる。ぬちゃぬちゃといやらしい音がした。私たちの体がから出たものがひとつになっている。そう思うと体が熱くなった。彼女と体を重ねていると胸やお腹が、あそこがじんじんと疼いてきて、どろどろに溶けて彼女とひとつになれるような錯覚さえ感じる。
「はぁ、はぁ……、いい、これ、止まんない……!」
「んんっ……、霊夢、私も、すごく……!」
霊夢は誘惑するような笑みを浮かべていたが、すぐに余裕がなくなる。腰をもどかしげによじらせ、お尻を突き出したり引っこめたりするようにして胸とお腹をふれあわせる。目からは涙を流し、口を半開きにしてよだれを零してあえぎながら私を見つめる霊夢は美しく淫らだった。私も我を忘れて彼女の濡れた体をまさぐり、腰を動かす。
「あ、あぁん……、紫、私、もう……!」
霊夢は体を支えられなくなって私の上に倒れこむ。そのまま私たちは激しく口付けあった。
私たちは腰をくねらせ、互いに快楽を与えあう。私の五感は文字通り霊夢でいっぱいだ。
「ねぇ、一緒に……!」
「ええ、一緒に……!」
絶頂の期待に震える体を必死に抱きしめあう。霊夢と離れてしまわないように。どこまでも一緒に、高く、高く。
「はぁん、あ、あああああぁぁぁん…………!!」
「あっ、ん、あ…、ああああぁぁんん…………!!」
嬌声を絡めあいながら私たちは絶頂に達した。私の中から彼女のこと以外が消えてしまって、違うところに飛ばされるような気がして。
そこはあらゆるものの終着点。そこでは愛する喜びだけが意味を持ち、私は溺れそうなほどの愛に包まれて彼女とふれあい、じゃれあい、抱きしめあう。
私はもっと彼女とここにいたい。もっとここで彼女と愛しあいたい。私は恍惚の中で再び腰をくねらせていた。彼女を愛したい。そんな、衝動にも似た願いが私の体を衝き動かした。
彼女と腰を押しつけあって、私たちはまもなく次の絶頂を迎える。もっと愛しあうことができて、もっともっと愛しあいたくなる。より早く、より深く。どんどん高い波に乗るように。
もはや何回達したかなどは意味を持たない。やがて絶頂は点ではなく線となり、愛と幸福と欲望と快楽の渦の中で私たちは求めあった。
***
気づいたときには体が動かなくなっていた。息は絶え絶えで、全身が汗でびっしょりだった。
私は布団の上で霊夢を抱いていた。最後に覚えているのと同じ光景だ。彼女も息を切らし、全身に汗をかいて熱かった。苦しそうに目を閉じて息継ぎをしていた。
「はぁ、はぁ……、大丈夫?」
霊夢はかすかにうなずいた。相当疲れているのだろう。私だって考えるのが億劫になるくらい疲れている。
私たちは狂ってしまいそうなくらいに激しく愛しあった。想像を絶する幸福感だった。まだ体がふわふわして、ときおり余韻に震える。
あんなに強く求めあうことになるとは思っていなかった。けれど、私が求めた分だけ彼女も応えてくれると信じることができて、私が愛したら彼女はもっと愛してくれて私はもっともっと愛して。とどまるところを知らず、結局、私たちを止めたのは肉体の限界だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……。調子に乗ってやりすぎた……。もう死にそう。っていうか死んでもいい……」
「はぁ、はぁ……。あなたは、この程度で満足なの?」
「はぁ、はぁ、そんなわけ、ないじゃない……」
霊夢は息を整えながら、小さく笑った。
私はもっと彼女と愛しあいたい気分だったけれど、体が言うことを聞かない。体も心も彼女を愛していたいのに、体だけは限界が存在することに気づいて悲鳴を上げ、今や心だけが一人歩きしているようだった。
でも私たちは激しく愛しあうだけが愛の形ではないことを知っている。私は今こうして静かに彼女と抱きあうことができて幸せだった。いやしあうような、優しい愛。私たちは互いの呼吸が落ち着いていくのを聞きながら、火照りを鎮めあった。
「ああ、私、初めてなのに、なんかすごいことしちゃった気がする」
「私は悪くないわ。悪いのは、エッチで可愛いあなたの方よ」
「あんたがこんなに優しくていやらしくなければ私だってもうちょっと冷静でいたわよ」
「でも、初めての夜が激しいってなんだか素敵じゃない?」
「そうかも。……私ね、今、すっごくあったかい気持ちでいっぱい」
霊夢は穏やかに目を閉じると温かい言葉を紡いだ。
「限りある人生の中でね、またひとつ、幸せになれたんだなって。私の中にね、またひとつ刻まれたの。後で思い返すと優しくて強い気持ちになれて、それだけでこの先どんなに辛いことがあってもやっていけそうな、そんな思い出が」
「ええ……」
それは私の中にも刻みこまれた。霊夢は確かに私の心の中に居ついてくれた。彼女と離れることがあっても、心の中の彼女が私を励ましてくれるような、そんな頼もしい気分だった。
「でも、まだまだこれからよ」
「うん」
これは始まりに過ぎない。彼女が恋しくて切なかった日々は終わりを告げ、心ゆくまで愛しあう日々が始まるのだ。
「あら……そろそろ陽が昇るころかしら?」
月明かりとは違う、淡く蒼い光に気づく。
「そうかも」
そう言って彼女は体を起こす。
「ここから見えるかしら?」
私は重い体を引きずって障子を開けた。
「……ってここからじゃ見えないわね」
「いいところがあるわ。ついてきて」
霊夢が私に手を差し出す。私はその手を取り、導かれるままに歩く。階段を登って二階に上がり、部屋の一つに入った。
「幻想郷でもっとも早く日の出を迎える場所よ」
彼女は縁側へと続く障子を指で示す。
「紫が開けてほしいな」
彼女はそう言って微笑んだ。
「ううん、霊夢が開けて」
ここまで導いてくれたのは霊夢だから。けれど霊夢は、私が彼女を導いたのだと思ってくれているのかもしれない。
「じゃあ……」
「一緒に」
「うん」
どっちかだけじゃない。二人で支えあってここまで来たんだ。私たちは二人で障子に手を添え、ゆっくりと開いた。
私と霊夢は縁側に並んで立った。
森が一面に広がって見え、空はまだほの暗く、風が私たちの体をくすぐる。それは寂しげな光景だったが、事態は必ずよくなる、そう信じさせるものがあった。空は静かにその時を待ち続ける。
「太陽は沈んでも、必ずまた昇る」
「うん」
私たちは手をつないだ。楽しかったことも辛かったことも彼女と共にしてきた。心が離れそうになっても手をつなげば私たちはまたわかりあえた。
太陽は長い夜を経て再び昇る。どんなに悲しいことがあっても、どんなに苦しいことがあっても、あらゆる運命をありのままに受け入れて世界を再び照らす。
空が赤みを帯びる。限りある命の輝ける誕生を予感させながら。
「また一日が始まるのね」
「ええ」
太陽が顔をのぞかせる。少しずつ、ゆっくりと。何よりも明るく、何よりも力強く。それは私たちの行く末を、今は明るく照らしてくれた。
「きれい……」
霊夢は空を見つめていた。大切なものを慈しむような優しい瞳で。誰よりも明るく、誰よりも強くて、誰よりも優しい、そんな彼女の横顔に目を奪われる。ほのかに赤く照らされた顔は儚げで、でもその目は確かな未来を信じていた。その表情は神々しくすらあって、私は声をかけるのが憚られる。
ふっと霊夢の顔が明るく照らされて、彼女は目を閉じた。私の方を向いてから静かに目を開くと、彼女は私に微笑みかけてくれた。
「霊夢」
私に笑顔を見せてくれる彼女に、伝えたいことがあった。
胸に手を当てる。私の心からの想いを、彼女にこそ受け取ってほしかった。
「私は、私の一生分、霊夢を愛するわ」
「あ…………」
霊夢の目から涙が溢れる。頬をつたうのにもかまわず、彼女も胸に手を当てた。私の想いを、彼女は確かに抱きしめてくれた。
「私も、私の命を賭けて、紫を愛するよ」
霊夢は満面の笑みを浮かべて彼女の想いを伝えてくれた。
無制限などありえない。無限にあるのは私の彼女を想う気持ちと、彼女の私を想う気持ちだけ。それでも私たちはあらゆる運命をただ受け入れたのではない。運命に抗おうとする強い想いを抱いて結びあったんだ。
「好きよ、霊夢」
「私も好きよ、紫」
私たちは指と指を絡め、気持ちを込めてそっとキスをした。
私と霊夢はここから始まるんだ。私たちにできないことなんか何もない。
霊夢と過ごし、霊夢を愛する一日一日を大切にしていこう。無限の愛を、彼女と一緒にひとつひとつ形にしていこう。新たなる旅立ちを祝福してくれる光に、私を愛してくれる霊夢に、そして自分自身に、私は誓いを立てた。
ゆかれいむって何て素晴らしいのかと、とっくに知ってたけど改めて再確認させてもらいました
二人に限りない幸のあらんことを!
これまでは長編作品を読み終えると決まってスッキリとした気分になるものだったが、今回はそれはなかった。
代わりに不思議な充実感に心が満たされています。愛ってなんだろうなぁ。
文章も、五感の表現が多かったり、一場面の長さもちょうどよかったりで、読みやすかったです。
ネチョは、情事シーンよりも、匂い~~のくだりのほうに官能を刺激された。匂いってえろいよね。
しかし長かったなぁ……これほど紙媒体で読みたいと思った作品はあんまりない。
たぶん夜伽の最長作品なような気がします。
でも長さに見合った満足を得られた作品でした。ありがとうございました。
思わずじっくり読んでしまいましたww
第2部、3部にもすっごく期待しています!
長かったけど、全然苦にならないくらい読みやすかった。
できることならもっと読み続けたかったくらいです。
堪能させて頂きました。ありがとうございました。
内容も濃く、甘く美味しかったし。
ここまで凄い作品、そうはお目にかかれないわ。
今回は事務連絡で失礼します。普段のコメ返しはまた後日。
>3
3部構成というのは、この話が1~3(=Ⅰ~Ⅲ)に分かれているということで、
このお話はこれで完結です。
これと同じくらいのものをもう2つ書くなんてとてもできないです><
>4
せっかく読もうとしていただいたのに申し訳ないです。
Ctrl+Aで全文をコピーして、メモ帳に貼ればPCへの負担が少ないと思いますが
さしあたってそれで対処していただけないでしょうか?
俺がⅠ部とⅡ部にネチョがない話を書いたりするからこんなことにorz
他にも負荷がかかりすぎて読めないという方がいらしたらご報告いただけますでしょうか。
読めない方があまりにもたくさんいらっしゃるようでしたら、Ⅰ部とⅡ部をネチョなしのまま
三分割させていただけないか、管理人さまに相談してみようと思います。
許可が下りたとしても、書き込み規制に巻き込まれているのですぐには対処できませんがorz
実はこのコメントも友人に頼んで代筆してもらっています(泣)。
(そういう方がいらっしゃっても、そもそもここに報告しようとしてもできないかも……?
コメント入力も重くなる可能性がありますが、一度メモ帳に書いてから貼り付けていただくと
うまくいく可能性が高くなると思います)
↓簡易メモ
XP Core2Duo E8500 メモリ4GB(3.25GB) IE8.0 だとコピーはできるけどドラッグすると固まる
XP Celeron 1.20GHz メモリ512MB IE6.0 だとドラッグはできるけどコピーは稀に失敗
友人のPC(Vista U1400 1.20GHz firefox3.5.3)でも割と普通に読めるらしい。
悪いのはブラウザ?
素晴らしい。
とりあえず満点でおkですか?
すごく良かったとだけ。
船のいちゃいちゃシーン最高でしたっ!!!ゆかれいむがマイジャスティス!!!!
ご馳走さま
長さといい内容といい、そうか、こう言う人を神と言うのか。
これが自由研究なら余裕で金賞を差し上げたい。
ホント愛するってなんだろうなあ。
脇役のアリスがなにげに可愛いです・・・。
堪能しました
本当に良かった。感動した。紫と霊夢がもっと好きになりました。
私も一生ゆかれいむを愛するよッ!!!
表現に関して言えば、幻想郷と現実世界、どちらも鮮明に、けれど柔らかに映し出されていた。文章で作られた基礎がしっかり。
そしてその上に理想のゆかれいむよ…どちらも幻想郷の守護者としての責任を強く感じつつ、
紫は自分の楽しみを受け入れ、一生の愛を霊夢にささげると。
霊夢は愛することを受け入れると。
積極的で、感情的な紫はいいものだと、控えめで、達観しているけれど乙女の要素ははっきりと残っている霊夢はいいものだと、改めて確信しました。
魔理沙アリス幽々子妖夢藍…みんな名わき役だよ…。
これはすごい…心の中が紅と紫の何かでいっぱいになっていく感じ。なぜか読むとき息が止まっていた。
素晴らしい夏の使い方だと思います。あなたに熱海行きチケットくらい差し上げたい。
ゆかれいむ至高!
葛藤とか甘甘とか
「互いに好きあっているのがわかっているのに一歩が踏み出せない
それでも手探りでギリギリの所を進んでいく」
っていうのが上手に表現されていた
もうひとつ素晴らしかったのが、風景の描写
二人の関係や情念と重ねて、思わず涙してしまうほど
少し気になったのが、言葉の語尾
「~た」が多かったり、同じ言葉を繰り返していたり
これを改善するだけではるかに素晴らしいお話がかけるだろう
再び会えることを楽しみにしている
とにかく素晴らしかった、ボリュームと内容的に単行本にしても売れますよ・・・
この作品に出会えた事と作者様に至極感謝いたします。ありがとうございました!
これはいいゆかれいむ。夏休みの読書感想文はこれについて書くしかないですな。
紫が霊夢から半径5mちょい離れるビジョンが頭に浮かぶだけで、無頼漢がー!とか、ナンパされるー!とか考えてしまって。
でも、別にそんなことはなく、無事に帰って行ってホッとしました。
幻想郷を、霊夢や紫、その他多くの少女たちを傷つけないように閉じ込めておく鳥かごのように考えてる自分に気付いてうすら寒くなりました。
彼女らに幻想郷は狭いとも、思うのだけれども。
いやいや何を言っているんだ私は。
急ぎ過ぎない展開が凄く良かった。
じれったい位にお互い悩んで、それでも悩み足りないのがしっくりきて。
時間のあるときにじっくり読み返して改めて悶えたい。
それを励まし支える周囲の優しさ
遂に結ばれた二人の優しくも燃え上がるような情事
ここまで心にきたゆかれいむは久しぶりだった
『 あ り が と う 』
ゆ か れ い む が 俺 の ロ ー ド
この作品の素晴らしさ、人が人として生きるあり方を問うこの宿題を、噛み締めながら
最高だ
最高すぎる
酒の肴に読み始めて気がつけば午前4時……若干酔うとります(笑)
ヤッバイくらい顔が2828しています。
誰か顔はつってくれぇ!そして抱きしめてくれぇ!できれば女性に!(オイ
どうしよう……他の作品みれそうにないです(笑)
素晴らしいとかそんなもんじゃないときは何と表現すればいいんですか……
語彙と脳味噌の足りない自分にはわかりません。
ただただ素晴らしかったです。
長々とすみませんでしたが最後に一つ……
赤面するゆかりんかわいいよ 赤面するゆかりんかわいいよ
大事なことだから二回(ry
作者様…ゆかれいむは最高だと日々思っていますが…
この作品を読むたびそのことを再認識することができます。
本当にありがとうございました!
ゆかれいむはやはり至高。と、改めて考えさせてくれる作品でした。
良作をありがとうございます!
なんと有意義な夏休み・・・妬ましい
ゆかれいむに目覚めてしまった
責任とってよ
PSP333MHzでは固まらない不思議
(最近sswが重い気ガス)
ギャラクシーからだとコメが打ちにくいだけで普通に読めましたよ
重たいので最後に一言だけ
ゆかれいむさいこー!
書いてくださりありがとうございました…!
小説としてもちゃんとできていますし、文章力も良くできてます!
それに甘々な感じがとても良いですね
それと、個人的にはエロシーンがチ○コ生えてたらいいなって(ry