幕末に米国の駐日総領事として下田に来たハリスは、牛乳を飲むために大変苦労した。所望したが奉行に拒絶された。そもそも牛乳は子牛に与えて育てるもので、人が飲むものではない――といった通訳との問答が記録に残る▼が、どうやら役人が折れたらしい。のちに近隣の村で集めて届けたと文献は伝える。その後、牛乳は文明開化に乗って広まっていった。領事館だった玉泉寺(ぎょくせんじ)にはいま「牛乳発祥の辞」の石碑が立っている▼国内の酪農が細り、バターの品薄が深刻とのニュースに、そんな幕末の話を思い出した。時は流れて牛乳もバターも日本人に欠かせない。だが、もとになる生乳(せいにゅう)の生産は近年、下降の一途をたどる。酪農家の経営は危機的と伝えられる▼「搾(しぼ)っても搾っても、先行きが見えない」。北海道で50頭を飼う一家も、話すのは弱気な言葉だ。飼料の高騰などに加え、環太平洋経済連携協定(TPP)で安い外国産が入ってくる不安がのしかかる▼ハリスといえば、貿易のルールを定めた日米修好通商条約を迫った人。条約は不平等を含み、明治政府は後に是正に苦心した。21世紀のルールであるTPPによって市場原理の大海に放り出されたとき、この国の農と食は大丈夫か。案じる声は消えていかない▼一方で、地球の人口は膨らみ続ける。たとえば穀物にせよ、金を積んでも外国から買えなくなるときが、いつか来るのではないか。クリスマスケーキにも影を落とすバター不足が、遠い兆しでなければいいが。
過去1年分の天声人語を新聞と同じ大きさで印刷できます。スクラップに便利(有料会員限定)。
200万冊を超える大ヒット!
3カ月分がまとめて読めます。
天声人語で英語学習!タイピング機能も。
朝日新聞デジタルをフォローする
PR比べてお得!