猫箱ただひとつ

いま、この瞬間に解らないこと、どうしても知りたいって思うこと、その内容の全てを理解している―――そんなお前がこの先のいつかの時間に必ずいるから

作品を語るときになぜあなたは「文脈」を使うんですか?(4510文字)


 新世紀エヴァンゲリオン (14) (角川コミックス・エース)

アニメやラノベやエロゲから舞台、映画、演劇。

そういった作品*1について語るとき、歴史的観点、時代背景、イデオロギー、作者といった「文脈」を何故あなたは使うのか? 

物語はもう既に完結し閉じられているというのに、なぜわざわざ文脈を挟み込み語らなければいけないのか。

ポニョは宮﨑駿が目指した◯◯だったとか、エヴァは当時のアダルトチルドレンについて表されたものだったとか、白い巨塔は封建的な機構と人間関係を描いたと作者が明言したのだからそういう物語だとなぜ言い語るのか。

本歌取り? 文脈を用いて語らないと考察を尽くしていないから?違うでしょ。楽だからだよ。

文脈(=作者、時代など)を用いて語るのはインスタントでお気軽でお手軽なものだからだ。

いくつかの同著作品を読めばその作者を含めた語りなんて誰だってできるし、アニメを100本も見れば業界論だって平気な顔で語れるようになれる。

内実に全然詳しくないのにね、業界に通じてるわけでもないただの一般人なのにね、でもアニメーターの年収はどうだとか、アニメ制作現場の構造がどうだとか、それがこのA作品では如実に表れているとかネットで齧った知識で語っちゃうんだよ。

エロゲ『Phantom』『沙耶の唄』をプレイした人が『まどか☆マギカ』を見ればすぐに「虚淵玄が到達したもの」「虚淵玄が目指したかったもの」だと語っちゃうようにさ。

現在*2虚淵玄脚本の『楽園追放』という映画が公開されているのでネットでは近々そういう記事が投下されることだろう。

もちろんその語る内容の質の高低は書き手に依存はするけれど、ただ文脈を用いれば作品をお手軽に語れるってのは実感したことあるでしょ。

ね。そういうことだよ。

 

逆にいえば文脈をなくした状態で語るのはとても難しい。時代性、文学上の位置付け、作者のことさえも言及せずに作品を語ってみればいい、それがどれほどに難しいか分かるから。

自分が好きな作品について語ろうとすると、おそらく何も言えないという状態になっちゃわないだろうか。「虚淵玄というキーワドをなしでまどか☆マギカ語るの辛いな」とかね、そんな感じに。

そして間違っても文脈があるものが"本気の考察"だなんて呼んじゃいけない。エヴァを考察するならエヴァの枠内で考察しろ、まどかを考察するならまずはまどかの中だけで考察しろ。

作品の枠内で"考え察し"もせずに、外部情報である作者などを用いて語ることのどこが"考え"ているんだ? "考えて察する"という行為は、自分の既存の知識を持ち寄って解明することではないんだよ。

文脈を使った語りなんてものはただの知識の連想ゲームにすぎないし、目の前にある作品を見て考えているのではなく、自分がすでに知っているものでちょこっと頭をひねったものでしかない。

 

「考える」というのは、自分の中にある知識の枠組みを取っ払った状態で結論を出すことだ。つまり(作品を語ることに限れば)、文脈を殺すことに他ならない。
↓ 

アニメをアニメとして、エロゲをエロゲだけで見る「物語の内在視点」のススメ。作者なんてものは存在しない


そしてもし本気の考察というものがあれば、物語を内在的に読み解き明かしたあとに、その上で、文脈をつかった外在的な読解をすることだろう。 

 

 

文脈を使う引き出し型と、使わないアジェスト型

 

作品を楽しむ方法について、「引き出し型」と「アジェスト型」に分類した興味深い記事がある。すこし引用してみようと思う。

続・作品の楽しみ方 「引き出し型」/「アジャスト(調整)型」 - Togetterまとめ

 

 

 

 

(できれば元記事にいって流れを汲み取るとよりいいと思う)

ここで言われている引き出し型とは文脈や知識がないと物語を楽しめない人のことであり、アジェスト型は作品にのめりこむほどの熱意があり文脈に頼らなくても(深く考えようとせずに)楽しめる人のこと。*3

あるいは「物語の読み方を増やそう」とするタイプか、「順応力を高めて」物語に耽溺するタイプかのどちらかだ。

この後いずみのさんは2つの分類に対する詳細な内容を語らず、かわりに哲学さんがタイプの解釈を残している。おそらくこういう解釈でいいんだとは思う。 

 


アジェスト型は文脈(=作者、時代、知識など)に頼るのではなく、感性的に作品に接する者なんじゃないだろうか。その物事の本質をすうっと感じ取り理解するというのは、感覚的なものを連想とさせる。

ここから私の解釈になるんだが、アジェスト型というのは「子ども」のことだろう。小さい頃、今思えばつまらないことでも楽しんでいたし、それを本気で享受していた。

大人が見ればチープな映画でも楽しめていたし、箸が転がっただけでも大笑いし、些細なことで傷つき泣いて、友達のちょっとした優しさに笑顔をほころばせたりもしていた。街のなかを冒険と称し闊歩し、友達を引き連れて公園に落ちているペットボトルの蓋をまるで宝物のようにコレクションしていたり、雪が降れば大はしゃぎで外にでて寒いにもかまわず遊び続けたりね。

きっと小さい頃は一回性の連続だったから、些細な経験でも鮮烈な体験となり得た。

しかし年齢を重ねるとそうはいかなくなってくる。そしてそれでもなお、大人になっても一回性の感受を持つ人を「アジェスト型」と呼ぶんじゃないだろうか。

つまりセンス・オブ・ワンダーがある人のことだ。

イデアに触れられるということだ。"イデアに手を突っ込める"人のことだ。凡庸な風景から価値のあるきらきらしたものを見つけ出し、体感することのできる力だ。

一定の対象(SF作品、自然等)に触れることで受ける、ある種の不思議な感動、または不思議な心理的感覚を表現する概念であり、それを言い表すための言葉である。

――センス・オブ・ワンダー - Wikipedia


物語に感動するには【祈り】こそが鍵になる

 

 

いずみのさんの一連の意見に批判があるとすれば

この部分のところだろうか

「我々の気付きとは全く関係なしに価値は元から存在していたし、発見後もその価値はなんら変わらない」くらいの謙虚さが本当ならあるべきで。


「人間は主観というフィルターで世界を認識している為、元から存在する、作品のありのままの価値なんてものはないのでは? 」という批判が考えられる。

しかし「文脈を外した状態」のことをありのままの価値と言うのなら納得はいく。作者や時代背景を取っ払た状態はまさしく、作品のそのままの価値だろうから。
 


この意見にはとても同意してしまう。

何度でも繰り返すが文脈を殺した状態で、作品を語ることは想像以上に難しいものだ。

そして文脈がある状態で作品を語ったとしても、それは作品を語ったのではなく文脈を語っただけなんだ。

ここを履き違えるから、「作品考察」を、作者や関連作品で連動させるべきものだという人が出てくる。

作品を考察することは「☓☓のオマージュだ!」と言うことではないというお話

 

最後に。

今まで語ってきた内容は「自分のことが大事」かで反応も変わってくることだろう。理解や共感もずいぶん違うんじゃないかな。

それも当たり前で今まで「文脈ありで語るのが当然」と思ってきた人に、「文脈なんて重要じゃない」なんて言ってもはいそうですねとはならないだろうからね。

でも何度だって言おう。

物語を語るさいに、読解するさいに、楽しむさいに文脈なんぞいらない。作者も歴史もイデオロギーもすべて殺せ。

 

 

<関連>

 

*1:作品というと範囲が広すぎて見失うのであくまで「物語」性が強い作品に限定する 

*2:2014年11月

*3:ここでいう「楽しめる」というのはアジェスト型の1流や1.5流にのほうが深く楽しめるということであり、引き出し型の人が全くもって作品を楽しめないということではないことを強く言っておく