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戒名が語る 元禄地震 津波の教訓

◆伊東市で多数の墓に刻む

伊東市内に残る元禄地震の犠牲者の墓。右側に「元禄16」、左側に「11月22日」を刻む

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 「大震動波信士」「吸波禅定門」…。元禄十六(一七〇三)年の年号とともに、風変わりな戒名を刻んだ墓が伊東市にある。三百十一年前の十一月二十三日の夜中、伊豆半島東海岸を元禄地震の津波が襲った。この年の墓石は江戸時代を通して最も多く、伊東の村人に最大の惨禍だったことを物語る。市生涯学習課の金子浩之主幹(54)は「戒名を読むと犠牲の多くは女性や子どもだ。生き残った者への戒めの意味もあっただろう」と話す。

 「伊東を襲った津波は江戸時代より前にもある。しかし、被害実態を読み解けるのは元禄地震が最古」と金子さん。それ以前の文書や碑文は残っておらず、庶民に墓が広がりだしたのは江戸時代以降だからだ。

 市は二〇〇〇〜〇五年、市内九十一カ所の墓をくまなく調べた。元禄十六年十一月二十二日か二十三日の墓が群を抜いて多い。当時は夜明けを一日の始まりとすることもあったため、二十二日も津波の犠牲と考えると二百三基、二百五十六人の戒名を刻んでいた。平年の墓の四倍に相当する。

 元禄十六年全体だと二百四十二基になった。天明の飢饉(ききん)があった一七八四(天明四)年の二百四基、天保の飢饉の百十八〜百二十四基(天保八〜九年)も上回った。津波は飢饉より被害が大きく、一度に多数の命を奪ったことを示している。

 戒名は津波供養塔では分からない男女内訳も明らかにした。成人女性が51%を占め成人男性の二倍。子ども・幼児も22%いた。金子さんは「逃げ遅れた子どもや女性が巻き込まれた。男性が少ないのはギリギリの体力差ではないか」とし、墓石は被害の実態に迫る有効な史料だと指摘する。

 一部の戒名は「合水」「伝流」などの字を含み、津波による犠牲を示唆している。曹洞宗弘誓(ぐぜい)寺(伊東市新井)の深沢隆孝(りゅうこう)住職(67)は「通常は穏やかな言葉を選び、合水や大震動波とは付けない。後世に『気を付けなさい』との思いを込めたとの解釈もできる」と話す。

 県が昨年公表した地震被害想定によると、元禄型は市内に最大の被害をもたらすタイプ。十分後に八メートルの津波が襲来し、最大二千八百人の犠牲が予想される。ひっそりたつ三百十一年前の墓は、津波の教訓を今に伝える碑でもある。

(斉藤明彦)

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