決して善への努力をやめるな<2>
特に慎ましくあるべき財務は、宗教組織には不適切で過度な奢侈のなかにあって、収入と支出のバランスに謙虚な姿勢をうかがうことができない。今までの経験から余剰金があるところに問題が起きるのであって、清貧な環境にある清潔な聖職者はお金の使い道に悩んだりしない。企業同様、合理化と管理組織の縮小に努めるべきであり、職員に高額なボーナスを支給する宗教組織などありえないと思う。頻繁なテレビCM、一般紙や雑誌への広告掲載、会館建設。こぼれ落ちるほどのお金を懐に入れていないと安心できないらしい。信濃町には餓鬼界の風が吹き、名聞名利の雨が冷たく降っている。
先生のご家系では、名誉会長を一代目とすれば、三代にわたり本部職員ですので世襲と言ってもよいでしょう。採用は能力には関係ないようです。戒めを自らの家系で破るのですから、その他の職員も推して知るべしです。でもどこか控え目。やはり後ろめたさがあるのかもしれません。宗教貴族はやがて名門化し、組織を蝕む。すでに腐り始めている。一般会員は自分に関係ないことなので関心を持たず、巧妙に目隠しされていて気づかない。お人好しなのか、アンチがよく言う思考停止なのかわかりません。
わたしはいっそ、選挙制度をとりいれ会長選挙をやればよいなどと考えてしまいますが、責任職と言いながら人気職になってしまうと政治力や経済力がある人、人脈がある人が当選し信仰など関係なくなるかもしれません。宗教教団は経営するもの。商品は御本尊です。株式にあたるのは会員一人一人の寄付でしょう。
また選挙となれば買収がセット。この際倫理を語れば、人間の業はどこまでいっても深い。組織の業も底無しです。トインビー対談で「社会のカルマ」が話題になりましたが、社会にあるのなら組織にもありそうです。組織に業があるのかと反論されそうですのでこれ以上書きません。
従軍慰安婦報道にもみられるように歴史改竄は取り返しがつかない結果を招く。朝日新聞は潰れてほしい。過去記事の検証はもちろん、記事を書いた記者の執拗な悪意も同時に検証してほしい。
記事を書いた一人、松井やよりはプロテスタントです。信仰と反日思想は関係ありませんが、人権蹂躙はおおいに信仰者と関係があります。なんでも好きなことをおしゃべりできる民主主義の日本でも、信仰者は時に差別を受け、時に罵られることがあるからです。したがって信仰者は人権について敏感に反応する感覚を自然に身につけると言ってもよいでしょう。信仰は自由を基本としていることから、抑圧や悪意を込めた批判に対抗していかなければなりません。また信仰を理由にした搾取も、使命感と善意に過大に訴える搾取らしくない搾取も、人権問題の範疇に入るでしょう。
わたしは創価史を人権という視点から再編集することを望んでいます。
例えば、初期の折伏教典はほとんど人権を考慮していなかったと断定してもよいでしょう。生命尊重が法華経の思想とすれば、戸田先生の生命論があったにも関わらずその精神は理解されていませんでした。そもそも折伏は、勘違いや誇大解釈すると人権に配慮しない過激さを表してきます。それは現在でも同じです。わたしは折伏無用論者ですが、成熟した民主主義社会では摂受が最適でしょう。教条的な折伏論ではなく人権への配慮を欠かさない現代的な摂受論の展開を望むものです。
折伏を大上段に構えるから争いが起きるのです。はっきり言えば、折伏は人間(法華経の敵)を殺すことです。開目抄には、
『無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし』
法華経には折伏という文字は一つも出てこないのに、なぜ『常不軽品のごとし』となるのかわからない。礼拝行が折伏行とはならない。
「摩訶止観」には『夫れ仏法に両説あり、一には摂、二には折なり。安楽行の長短を称せざるが如きは是れ摂の義なり。大経の刀杖を執持し、乃至首を斬るは是れ折の義なり』とあり、物騒な定義を披露していますが、これは天台の独自のものと思われます。天台はどこか強引で荒々しさを感じさせる聖人です。強引さといったら、五時八教説(教判)などその典型でしょう。師・南岳大師の迫害につぐ迫害の生涯は大聖人以上ですね。中国と日本では武力や暴力は規模も質も違うというか、残忍さも相違しているように思う。「イスラム国」も真っ青です。大陸的風土、陸続き風土と小じんまりとした島国風土の違いかもしれません。
僧と言えば現代人は穏やかさやおごそかさをイメージしますが、南岳や天台はおそらく厳しい闘争者であったと推測します。自宗の存続をかけて他宗と激しいやりとりを繰り広げた。荒々しい口論や、ときには暴力的な応戦も頻繁にあったのではないか。中華の民族性と言えばよいのか、時代のせいなのか、おそらく両方でしょうが、昔も今も変わらないのですね。
創価でもその役職名に特徴がありました。参謀や隊長や部隊長などとアーミー式を応用したのは、宗派の勢力図を拡大する闘争という認識があったからと考えています。日本でも平安時代からならず者や犯罪者も混じった僧兵もあったくらいですので、宗派間戦争は死者なんて当たり前、経は読めなくても刀や槍を研く強者集団でした。
大聖人は天台の「論」をそのまま受け入れながらも、大聖人独自の解釈を加えたと考えたほうが正しいでしょう。「法華折伏破権門理」にその意思が集約されます。このようなキャッチフレーズはいかようにも再解釈できるからです。法華経が折伏思想に転換するためには大聖人の激しい性格も影響しているように思われます。
この激しさゆえに戦前、日蓮主義者が戦争容認以上に過激な推進派にならざるをえなかった。わたしは創価教育学会の実験証明座談会にも戦争遂行の内容が含まれていたという疑いを持っています。こういった戦前戦中の創価の平和思想に積極的にアプローチしている松岡幹夫氏に期待を抱いていますが、今までわたしを納得させる論文や著作は、残念ながら拝見しておりません。
絶対平和主義は釈尊の非暴力を範としています。公明党の政策に見られるように現実主義路線の平和主義とは全く異なるものです。公明党はなぜか、与党への固執が強い。自らの信念を貫くことよりも与党でいることが優先されているように思われます。結局、擬似平和主義なのです。政治は半身を捨てて半身を活かすもの。支援者・支持者によほどの覚悟がないかぎり、公明党に真性の平和主義を求めても不可能なのですね。
テロリズムが蔓延する時代、創価の絶対平和主義の進化ともいうべき新しい形をわたしは評価していますが、仏教的宿命論を見つめ克服しようとする日常に根ざした教育的平和主義について、創価の青年部にその議論がないことに甚だ失望しています。絶好の機会を逃しているという自覚すらないでしょう。創造的なアプローチがないのは問題意識が希薄だからです。生活改革者・社会改革者である仏・菩薩は、最良の平和教育者でもあります。
また創価史のことを言えば、戸田先生はアル中だったのではないでしょうか?
諸原稿も一升瓶を脇に置いて書いたかもしれませんし、アルコールは酒豪のレベルを越えて身体を傷つけていたかもしれない。わたしの想像の域をでませんが、ありえないことではありません。もちろん酔っぱらいがリーダーになったとしても一向にかまいません。そんな会則は今までもなかったし、これからも作る予定はございませんので。
一部では愛人もいて子どももいたというスキャンダラスな話もありますが、こういうことは闇から闇へ葬られる性格のものですので検証は難しいのかもしれません。
最も良く創価を理解していたと考えられる戸田先生の奥様やご子息と、池田先生が離反したのはなぜなのか?
悪知識に遭い謗法を犯したと恩ある人を冷たく見つめる。根底に人間不信があるのでしょう。
わたしたちはそれぞれ、心のなかの弊害を克服するために善なる行為で自らを戒める。ときには心のなかの醜い部分を補完し治療するために真逆の行動をとり、人格完成をめざすのです。人格は知性の延長です。賢い自己は愚かな自己のリバースサイド。信は不信から生まれ、人間主義は否定的自己を救済するために、悩める自己が自らを導いて生まれた。
戸田先生が長生きされていたならば、二代会長と三代会長は別行動をとった可能性が大きいと思う。戸田先生のご家族の姿を見れば、そのように推量したとしても無理ではありません。またここに戸田先生のお言葉を引用するまでもありません。大御本尊への誠を誓う言葉、決して大御本尊から離れてはならないとする戒めの言葉に溢れており、現在の創価とは著しく相違しています。それはとりもなおさず、戸田先生と池田先生の指導の違いでもあります。
師弟関係はときには争いのタネにもなりますが、争えば師弟とは言わないのかもしれません。忠実に従うことは命懸けです。思想に殉じることを信仰とも言いますが、師弟という人間関係は、思想に殉じるから師弟というのであって、人生の英知を法に求める貴重で稀な関係です。混乱する世界を救いたいという堅固な意志と叡智は、釈尊の第一の説法であり、願いであり、大聖人の行動を決定した動機でもあります。この叡智と困難を、仏弟子たちは継承したのでしょうか?
動機は出世の本懐と訳されますが、大御本尊こそ人類への希望であることを、すなわち、掛け替えがないものであることを強く再考すべきです。今は手の届かないところにありますが、何事も永遠には続かないのです。さらに御本尊さまの力を過小評価する過ちをおかしてはならない。
大河の水は元をたどれば山の端から流れ、谷から注ぎ、ついには山の頂上から流れる一滴が始まりです。一滴は代替できません。一滴が失われると河も失われ、作物も育たない荒野になるのです。創価も牧口先生という一滴から始まりました。その一滴を想い慕わずして創価は創価でなくなるのです。
また競走馬のように選挙レースを走らなければなりませんね。ご苦労様です。
Imagine Dragons
I Bet My Life