愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
ミヤマフユイチゴ たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 コリント人への手紙第一 13・2−7 いかに愛にあふれるような行為をして、貧しい人たちを助けたとしても、愛がなければ何の役にも立たないということは、とても厳しい教えだと思います。もちろん、貧しい人を助ける行為を否定しているのではなく、そのような行動の動機として神の愛が必要だということでしょう。私たちの行動が神の愛からきているのか? あるいは人に施したいとか、人に良く見られたいとか、クリスチャンはこういった善行をすべきだというような考えによるものなのか? 日本に住む人々にとって、「愛にあふれる行為」はたいへんわかりやすいですが、その動機としての「神の愛」はわかりにくいかもしれません。 寛容であり、親切であり、人をねたまず、自慢せず、へりくだる。私たちが困難になる人と共にいて、共に泣き、共に苦しみ、共に悩む。そのようなことを主は教えてくださっているのかもしれません。
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2009/9/4(金) 午前 7:11
「愛」を「神」と読み替えれば、この文章は、割と分かり易いのですが、では何故筆者パウロは、神ではなく「愛」と書いたのか?と言う疑問に突き当たりますよね。
そこがクリスチャンにとっての「愛」の奥義なのでしょうか?
2009/1/11(日) 午前 0:46
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ぴーた@さん、
鋭いコメントありがとうございます。「神の本質は愛」ということなのではないでしょうか?
2009/1/11(日) 午後 10:54
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