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「課題の作文(将来・進路について)を考えています」おばんです!パソ吉です。昨日は、調子が悪かったので昼寝をしようと、パタンと閉じている布団を敷いてしまったのですが、それを皮切りに、ずっと横になって過ごしてしまっていました。それで、寝る時間などが適当になってしまいました。そんなことはまあ別にどうでもよいのですが、今朝、目覚ましを止めたところまでは覚えているのですが、その後の記憶が無くて、お昼まで寝てしまっていたようです(汗)今日は、さすがにまずいなあと思い、今日は30分に15~20分というかなりの長い時間の休憩を挟みながらも、一日中机に向かっていました。ちなみに休憩中は、ヘッドホンとアイマスクを着用し、軽くリクライニングになっている椅子で足を上にあげて、肩のストレッチをするなどして過ごしていました。それでも、勉強は大して捗っていないので、受験もそうですし、入学後もどうなることやら……と思いますよ……切実に。そんな、「どうなることやら」な話題を扱った作文をすることが、学校の夏休み中の課題の一つにあります。将来についての、展望・夢・進路について、日常の生活での体験を交えて、述べなさい。というような内容でございまして、昨年もありました。これがまあ、昨年はかなり格闘した記憶は今でも鮮明に覚えていまして、正直今年もこれ書くのかぁ…と思うと気が重いです。夏休みが始まって、既に2週間以上が経っていますが、まだ、構想も練っていません……^^;何を書くかだけ決まってしまえば……と思いますが、何を書くか……がすべてですよね。こういう作文って……うまく書くのではなくて、何を書くかなんですよね。上手い・下手は正直、どうでもよろしい。文章ばかり無駄にうまい自己啓発本と同じくらいどうでもよろしい。それで、昨年は、ニーチェの快楽主義な雰囲気で作文したことを思い出しました。> 第一に問うべきは、私たちが、はたしておのれに満足しているかということでは全然なく、はたして総じてなんらかのものに満足しているかということである。もし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するなら、私たちはこのことで、私たち自身に対してのみならず、すべての生存に対して然りと断言したのである。なぜなら、それだけで孤立しているものは、私たち自身のうちにも事物のうちにも、何ひとつとしてないからである。だから、私たちの魂がたった一回だけでも、絃のごとくに、幸福のあまりふるえて響きをたてるなら、このただ一つの生起を条件づけるためには、全永遠が必要であったのであり――また全永遠は、私たちが然りと断言するこのたった一つの瞬間において、認可され、救済され、是認され、肯定されていたのである。―「力への意志」よりこの文を読んだ時、とにかく生を肯定していく姿勢に、「なんかすげー!」って思いました。たった一回の、魂が弦のごとく震える出来事で、人生すべてが肯定されるんです。ということは、私の心はもう既に、救済されている?と、思ってしまう訳です。今まで十数年の人生ですが、なんだかんだ言いながら幸せに暮らしています。その時その時の嬉しい出来事、ありました。他のものがどうでも良くなるくらいに、ハマったもの、ありました。ぼくは十分に幸せなのではないか?と、思いました。過去はすべて肯定します。未来もすべて肯定します。人生すべてを肯定します。。これでイイんだよね……なんて思った訳です。全部肯定できるなら……と心が軽くなった気がしました。で、それはさておいて、一口に、快楽主義と言ってもいろいろあるみたいで、よくわからないのです。私が思うに、自分がいい(快い)と思うように行動してみればいいんじゃないの?善悪深く決めつけないで……したいようにすれば……と思います。話がズレました。それで、今年も原稿用紙5枚位で作文するのですが、実体験を交えての作文じゃないといけないので、インドアな私はなかなかどうしてネタに困ります。話を創作(盛る)するわけにもいきませんしねwまあ、今回は枚数が多い分には良いそうなので、そこは気楽ですね。原稿用紙3枚以内とかで書きなさいと言われると、削りまくった結果、刺々しい言葉ばかりが残ります。多い分には良いということですので、丁寧に書くことができますね。どうしても、身近な人に見られると思われるので、最低限の配慮はしたいところであります。(根本的に合わない人ははじめからお断りですけどね)以上。
パソ吉の自分用日記ブログ
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