スピノザ再論(1)
あらためてスピノザについて論じてみたい。すでに何度も論じてきたが、もっとわかりやすい形で、現代に哲学する人々に直接的に役立つように、というのは無理としても実質的に参考となるように論じ直してみよう。
一般に、スピノザを論じることの難しさは、一方で特有の論じ方をテクストに即して解明するために、厄介な解釈的議論に立ち入らなくてはならないが、他方で、そのような訓詁学に留まるには、スピノザの洞察が無視しえない現代的重要性を持つことをも同時に明らかにせねばならないという点にある。この二つを同時に満足するのはなかなか難しいのだ。
我々は、現代的問題意識という口実で、テクストの細部を歪曲するようなことは許されない。それでは、かえってスピノザの洞察を無視して、勝手な先入見を読み込むことになりがちである。解釈者の先入見を突き抜けるためにこそ、テクストに即した解釈が必要なのである。たとえば、往々にして解釈者は、デカルトをはじめとする思想史的背景を基にスピノザ解釈に立ち向かおうとするが、それはスピノザのテクストの見かけに欺かれているのである。彼が思想史的伝統とはまるで違った概念使用をしていること、それは彼のテクストの全体から遡ってその意味を解釈されねばならないことを、一時も忘れてはならないのである。
1)マラーノ
1492年は、コロンブスの新大陸発見で有名だが、サラセン人のグラナダの陥落の年であるとともに、スペインからのユダヤ人追放令の年でもある。これらは相互に密接に連関している。
ジェノヴァ人コロンブスがイザベラ女王に頼ったのは、オスマントルコが東方を占領し、地中海貿易の価値が低下したことと関係している。以後スペインは、1588年の無敵艦隊の敗北に至るまで、世界の海を制覇することになった。
またそれは、サラセン人を追い出してレコンキスタを完成したスペインの勢いと関係しているが、他方では、このような愛国的・宗教的熱狂は、ユダヤ人の迫害を副産物として生み出していた。しかしまたそれは、スペインの自滅につながっている。はたせるかな、技術や富を有するユダヤ人(Sepharadi)を受け入れたオランダやイギリスがその後世界帝国にのし上がることになったのに、スペインポルトガルは近代化に立ち遅れることになったからである。
長く続いたレコンキスタの高まりとともに、ユダヤ人迫害が強まったために、多くのユダヤ人たちが、表向き改宗しキリスト教徒として生活せざるを得なくなった。これをマラーノと呼ぶ。マラーノたちは、表面ではキリスト教を信奉するふりをし、内面ではユダヤ教徒にとどまる(一種の隠れ宗徒)。その結果、彼らには常に内面的宗教的反省の習慣が根付くことになった。他方、長年にわたってユダヤ教徒としての生活や習慣を失ったマラーノたちは、知らず知らずの間に、実質的にユダヤ教徒ではなくなっていったともいえる。なぜなら、ユダヤ教は本来ユダヤ民族の共同体とその習慣・規律と一体の宗教であり、それを離れて内面化した場合、それはすでにキリスト教的宗教に変質してしまっていたとも言えるからである。
それゆえ、彼らがついに迫害に耐え切れずにイベリア半島を離れ、アムステルダムという新天地で信仰の自由を手に入れた時、ユダヤ教徒に復帰した彼らには、思いもよらぬドラマが待ち構えていることが多かった。長年憧れていた祖先の宗教を自由に信仰できる立場になった時、彼らは失われていた記憶を取り戻そうと、ヴェネツィアのような都市からユダヤ教徒としての生活習慣を教えるラビたちを招いた。ラビたちは多くは東方ユダヤ人(Ashkenazi)であり、スファラジたちとは来歴も習慣も違うところに、外から権威的に強制されるユダヤ教は、強い違和感を醸し出さざるを得ないからである。
そのような例として、スピノザより47年ほど年かさのマラーノUriel da Costaがいる。彼は、もともとスペインのユダヤ系の裕福な家に生まれたカトリック教徒であるが、どういう経緯か先祖の宗教への憧れやカトリックに対する不信から、ついに大変な危険をおかしながら、イベリア半島でのあらゆる地位と財産を捨ててアムステルダムに移住し、ユダヤ教徒になった人物である。しかし彼はその内面的吟味という身についた態度によって、たちまちアムステルダムのユダヤ教に幻滅してしまう。そこに馬鹿げた迷信や権威に対する盲目的服従しか見られなかったからである。
こうして彼はほどなくしてユダヤ教を捨てるが、ユダヤ人社会を離れて生きるすべが彼にはなかった。そこで、苦しんだ挙句又再びユダヤ人社会に復帰しようとする。その復帰の儀式がいかに屈辱的なものであったかは、彼自身の伝記的手記に詳しく記されている。しかしそのかいもなく、ダ・コスタはいわれなき誹謗や密告にさらされ、再び破門され、ついには自殺して果てたといわれている。スピノザ8歳の時、1640年のことである。
19世紀のHirszenbergの絵に、スピノザと晩年のダ・コスタを描いたものがある。もちろん彼らが互いに知り合いであった可能性は低い。しかし、ダ・コスタの手記が出版されヨーロッパ各国語に翻訳されて、多くの人に強い印象を与えたために、ローマン派の心を刺激したのであろう。最晩年のダ・コスタが、膝に8歳のスピノザ少年を抱いている、妙に神秘的で怪しさをたたえた絵である。
ダ・コスタの悲劇は、スピノザには起きなかった。それはスピノザが、父の商会に17歳ごろから(長兄の死亡によって)経営に参加せざるを得なくなったために、その事業を通じてキリスト教徒市民たちとの付き合いがあり、破門された彼を支えることができたからである。1656年(24歳)に破門されてから、スピノザはラテン語学校(ファン・デン・エンデンの学校)へ通いつつ、当時の先進的科学や政治思想にふれていく。やがて、そこからコレギアント派のキリスト教徒と知り合い、その中で頭角を現す。27歳ごろ(1659)ライデン大学に通った可能性もある。デカルトに対する理解もそのころの勉強によるもの。1660年頃(28歳)『知性改善論』が執筆されている。
Posted by easter1916 at 01:43│
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