あさき夢みし

心に浮かぶことを 自分の言葉で。

私信(22)



福島の壮年さんへ


このたびのことにつきまして 自分はどのように感じたのか
何故そのように感じたか、そしてどうしなければならなかったのか

ひとつ、ひとつ、考えて参りました。

ここに書きますことも、自分の気持ちに正直に、
そして何より 自分の気持ちを「正確」に
書いていかなければならないと思いました。



インターネットの世界にて個人がブログを立ち上げ、
自身の考えを綴るようになりましてから10年以上が経過しております。

ブロガーの数も、これからさらに多くなっていくことでしょう。

思えば 今から30年ほど前は
こうして見知らぬ方々と意見交換が出来ることなど
(少なくとも私にとりましては)容易に想像することはできませんでした。

この創価カテゴリにおきましても
メンバーは目まぐるしく替わっていくことでしょうし
こうして文章を綴る私自身も、いつかはこのカテゴリを去ります。



学会員同士の意見交換の機会もさらに増えていくことでしょうし
今回のようなことも多く起こってくることでしょう。

今後もカテゴリの中におきまして
意見がまっぷたつに分かれてくることもあろうかと思います。


これから数十年後 あらたに創価カテゴリに集うであろうメンバーに
思いを馳せつつ、少し書き綴って参りたいと思います。


意見が分かれた場合、「問題とするべき点」「話し合うべき点」は
数多くあると思うのです。

その時々に起こってくる問題は「一本の棒」のようなものではない。
例えるなら広い野球場のようなものではないかと。

ある人は「一塁ベース」の辺りで問題点となるものを見つけるかもしれません。
そしてある人は「外野」、もしくは「三塁ベース」にて。


ひとつの問題に含まれる「話し合うべき点」など
(極端なことを言えば)関わる人の数だけあるはずなのです。

そしてまた問題のきっかけとなった方々のうち
一体「誰に焦点を合わせるのか」で
こちら側の対応もまるで違ったものとなってくるはずです。

問題にぶちあたり真に解決していこうと思うのであれば
起こって来るであろう多くの「話し合うべき点」に思いを致すべきであり
あとは、個々において自分の考えをまとめ
「今後」に生かしていけばいい。



そして議論はあくまで理性的に行われるべきでしょう。
ましてや、相手への人格攻撃など論外であります。

もはやそれをしてしまった時点で、「本当の議論」は行われなくなってしまう。
まことに残念なことです。


意見や主義主張がその時々において違ってくるのは至極当然のこと、
1人1人置かれている状況も 取り巻く環境も全て違う。

だからこそ、意見が違って当たり前だと思うのです。

(その点を踏まえた上で) 意見は違えど、そしてやり方は違えど
「目的」は同じであるはず。


私自身も、他の方々と同じく
この創価カテゴリを大切に思っている1人であります。

生命哲学を学ぶ私たちの このカテゴリの中におきまして
議論とは無関係の筈の、人格攻撃が起きてしまうのは本当に惜しい。
ただ それだけです。



>自身の信念に基づいて、「あの1件」に関してストレートに、
 関わった人たちのHNが表記された記事やコメントを
 「コメント」をお寄せ頂いた方々のものも含めて、「非表示」と
 させて頂きました。

これ以上書き綴りますことは
福島の壮年さんの御心に反することとなってしまいます。



最後に。


>私がこれまで、この創価カテニ入って以来、一貫して主張しているのは
  「己義や邪義を振りかざして、純真な学会員を誑かすな!」ということです。

>「自身の無明」による行為で、他の信仰者・学会員までを
     巻き添えにしてしまえば、それこそ「度し難い」「一闡提」の道に
     我が境涯を落としてしまいかねません。

>だからこそ、そういう人は厳しく糾弾し、気付かせてあげなければいけない。
    仏法の因果とは、「希望の原理」でありながらも
    それに反する行為を繰り返す者には、極めて厳しく厳粛なものであると
    私は思うのです。


福島の壮年さんに深く共感いたします。

信心深く、そして人への優しさを秘める福島の壮年さんが
1人の人を大事になさらぬわけがありません。


「気付かせてあげなければいけない」

本当に仰るとおりだと思います。
徹して大事に思うからこそ、敢えて言わなければならない。

まさに「1人を大事にする」「悪は悪だと言い切っていく」
そのどちらも欠けてはならないものだと思うのです。



このたびのきっかけとなりましたことについて
「言わずにはおれなかった」福島の壮年さんの御心を思います。

何故言わずにはおれなかったのか。


仏法は厳しいものなのだと伝えたかった。
だからこそ 謗法を重ね不幸になるのを分かりながら
それを黙って見てはいられなかった。


敢えて厳しく仰ったその言葉の奥に何があったのか
その先に何を見ていらしたのか

私はその点をこそ
深く理解致したいと思っております。





続きます



私信(21)



福島の壮年さんへ


>学会の地区にあっては、地区部長・地区婦は
    地区同志の皆さんにとっては、なくてはならない親であり、
    地区部長・地区婦は、地区員の皆さんをわが子のように慈しみ
    育てなければいけない「使命」を持っています。

本当に仰るとおりだと思います。

地域によりましては、ひとつの地区にどのくらいの世帯があるか
それは様々だとは思いますが、多くの地区にありましては
(少なく見積もりましても)30世帯以上、もしくはそれ以上であると。
その数十世帯にも及ぶ家族の「親」であります。


生まれたばかりの赤ちゃんから、幼児、小学生、中高生、
そして青年部、ヤングミセス、働き盛りの方々、高齢者の方々。

それぞれが抱えておられる問題も様々でしょうし
家庭不和、経済苦、病苦を抱えている方もいらっしゃることと思います。


地区の方々に接するときにも、訪ねる時間帯、言葉遣い等々
細やかな配慮を必要と致します。

まさに「慈しみ育てる」との気持ちでなければ
到底やりおおせるものではないと思うのです。



>先生から託された地区を護り抜く使命感と
  「何があっても『地区組織のため』『地区同志のため』にやりぬく気概。
  それによって『広宣流布』は確実に進展し、
    そのことで自身の境涯もまた大きく開かれ、
    人間革命が実現できるという、確信」があればこそです。


深く共感いたします。

地区の方々は、地区部長・地区婦人部長の「気概」「覚悟」に感銘を受け、
ともに闘おうとなさるのではないでしょうか。


・・・この年齢になり、しみじみと思うことですが
人は皆、鋭い。

違いは、その「鋭さ」を表に表すか表さないか、だけだと思うのです。

地区幹部の姿勢に対し舌鋒鋭く指摘する人も
何も言わず、ただ静かに微笑むだけの人も
その表面にあらわれる態度に差異こそあれ、
「人を観る」鋭さという点におきましては 両者に何の違いもない。


地区部長の「信心に対する奥底の一念」は
その態度や言葉の端々から悉く地区の方々に通じていると思うのです。



>幼いお子さま方を遺し、逝かれた白ゆり長。
  過酷な状況の中、地区部長として闘い抜かれた方。

>ハンデをものともせず活躍なさっている方。

>常に最前線で広布に邁進なさっていた方。


ひたすら前を向き、一歩一歩闘っておられる姿。

その底力は一体何処から湧きおこるものだろう、と。

その姿はそのまま 周りの方々の、
そしていつか同じ苦難の道を行く方々の
確かな道しるべとなるのではないでしょうか。


  

続きます





私信(20)



福島の壮年さんへ


>「地区部長」が担う使命と能力は極めて重要です。
  重要であるだけに、地区部長・地区婦人部長は、多忙を極めます。

>婦人部との協調、青年部や未来部の育成、上位役職者と下位役職者との
    軋轢の緩和、古参と若手との連携、怨嫉への対処等々、
    人間関係の調整役としても責任が問われます。

>日々の報告・連絡・相談、折伏戦においても法戦においても
    新聞啓蒙の推進にも、まさに地区部長には率先垂範が求められます。

>毎週、毎月の座談会や協議会を始めとする各種会合の運営と
    指揮・運営や上位役職者との連携。更には家庭訪問等々。
    休んでいられる時間がありません。



・・・・本当に仰る通りだと思います。

改めて、地区部長の責任の大きさを思いました。



>「自涌の菩薩」としての使命を放棄
    「他者のために悩み」、「同苦する」器量と境涯を持ち合わせてはいない

役職を全うするということは、まさに「自涌の菩薩」としての使命を果たし
また、果たそうと精一杯の努力を重ねることなのですね。

「他者のために悩み」、「同苦する」器量と境涯を持ち合わせることもまた、
日々、無慈悲な自分と闘い続けることに他ならないのだと思います。



>「自分の広布の使命を果たすため、
      思う存分に活動時間の取れる環境を与えたまえ」

まさにこのお言葉の中に、多忙な中にあっても
自分の使命を絶対に果たしていく、とのつよいお気持ちが
込められていると思います。



>3.御書(教学)の研鑽
    かなり読み込み、工夫を凝らしてお話しをさせて頂きました。
    その姿勢は、今も変わっておりません。
    だから私は、講義の最中よりも、その直前までの方が緊張します。

福島の壮年さんが誠実でいらっしゃるからこそ、と思います。
だからこそ、難解な仏法用語を分かりやすく
1人1人の心に即してお話し下さっている。

福島の壮年さんの御書講義をおききになり
講義の途中で「そうだったのか!そういう意味なのか!」と感動する人も、
そして、こんなに分かりやすく講義してくださるために、どれほどの時間を
かけてくださったのだろう・・・と感謝する人も多くいらっしゃることと思います。



義妹さまについての文章を拝見しましてからは
私もお題目を送らせていただいております。

>そこで使命を放棄して死ぬわけにはいかないのです。
    その使命を生命の内奥で深く覚知している義妹の死を、
    長男を守る諸天が赦してはくれません。

深く、深く胸に残りました。




続きます。




私信(19)



福島の壮年さんへ


>「元本の無明」という生命に巣食う癌細胞を
      外科手術で根本から切り取り、「元本の法性(ほっしょう)」という
      穢れなき清浄な生命へと変革することで、
      根こそぎ「宿業」を清算してしまうわけですから、
      当然に「痛み」も「苦しみ」も伴います。


病を得ましたことで、ひとつ学んだことがございます。

福島の壮年さんが仰いました「痛みも苦しみも伴う」こと。
この(図らずも)自身が受けねばならなくなった苦痛さえも
必ず「他者のために役立てる」ことが出来るのですね。

宿業を根こそぎ精算するための苦痛なのですから
それは喜び感謝するべきものであり、
のみならず、その苦しみさえも他者のために役立てることができる。

いえ、必ず役に立てなければならない。
そう痛感いたしました。



>現代の私たちが、最も理解し易い例を挙げるならば
    母親はわが子が何らかの原因で苦しみ悶えているのを見れば、
    何としてでも、その苦を和らげてあげたいと思うことでしょう。
     しかし、その苦を除く手段が現実に存在しないなら・・・。
   「できることなら、自分が代わってあげたい」と、願うことでしょう。


深く共感いたします。


>その「宿命転換」「転重軽受」の鍵こそが、母が子を思い、
    また子が親を思う「慈悲心」であると。

>全民衆の救済の陣列に連なり、自分と同様の宿業に苦しむ
    衆生・眷属(けんぞく)を救うために、自らが、それらの衆生の
    苦しみ、辛さを受け、それを克服していく姿を見せていく。
    自らが誓い願ってきたところの「業」。
    自らの「業」が、他者救済という崇高な「願」を「兼」ねるという
   「願兼於業」の法理こそが、結局は「其罪畢已」や「転重軽受」にも
    繋がっていきます。


福島の壮年さん、本当にありがとうございます。

「宿命転換」「転重軽受」「願兼於業」が一体どのように繋がっているものか
そして、互いにどのような関係性の元に成り立つものか、
私自身、今まで漠然としておりました。

仏法を学ぶ上におきまして、確かに自己研鑽も必要でありましょう、
しかし、それと同時に「教えていただくこと」も同じく必要であります。

教えていただくことで、今まで分からなかったこと、
薄く霧のかかった状態であったものが晴れてゆく。


病と闘う中におきまして、福島の壮年さんに教えていただきましたこと、
大きな光であります。

本当にありがとうございます。



>自身が造ってきたところの重き先業の報いも、「他者救済」のために
    使おうと発願するならば、その自らの報いも「転重軽受」へと向かい、
    自他共に「其罪畢已」の確かな道に入っていく。
    何と素晴らしい「希望の哲学」でしょうか。


本当に仰るとおりだと思います。

思うのですが、何故に自分が福島の壮年さんの文章に惹かれるか、
ひとつに 非常に理路整然としていることも挙げられることと思います。

難解な仏法用語を本当に分かりやすく説明してくださる。

そして、その文章の中に「はっとさせられる」ものが含まれている。



・・・いくつか挙げましたけれども 
やはり最大の理由は「誠実さ」ではないか、と。

その文章の奥に光る「人としての優しさ」ではないでしょうか。


確かに理路整然とした文章、そして仏法用語を分かりやすく解説した文章を
お書きになる方は他にたくさんいらっしゃることでしょう。

しかし、確かな文章、心にしみわたる温かさ
読む者の心を奮い立たせてくださる方は、
そう多くはないのではないか、と。



続きます。


私信(18)



福島の壮年さんへ


>そのご自身のご様子を書き続けておられるブログの記事を
    ずっと注目して拝見させて頂いておりました。

福島の壮年さん、本当にありがとうございます。
心より御礼申し上げます。

病を得ましてからというもの やはり様々なことで心は揺れ動きます。

例えますなら それはまるで長距離マラソンではないだろうかと。

主治医より「寛解」もしくは「完治」の言葉を聞きますまで
その状態は何年も続くわけです。
その辛さは 自分がなってみて初めて分かるものばかりでした。

・・・そんな時、何より、何より嬉しいのは
あたたかな励ましのお言葉であります。

そのあたたかさに胸をつかれるのです。



>度重なる病魔への恐れと不安と苦しみ。

周りを見渡せば 自分と同じ世代の方々は生を謳歌し
病の影に怯えてはいません。

そのことをどんなに眩しく、羨ましく思ったことでしょう。


検査ひとつ受けるにしましても、ある程度の苦痛は付きまといます。
手術となればなおさらであります。

やはり人間ですから「どうしてこんな痛い思いをしなければならないのか」と
疑問にも思いますし、不安はわきおこって参ります。

その疑問にしましても
「大事な検査なのだから少々の痛みは当たり前だろう」などという
答えを求めているわけではなく
「何故、自分なのだ」と、「苦痛を感じなければならない理由は何なのだ」と
思いはその部分に行き着くわけです。

もっと言いますと「(身体的精神的)苦痛に対する理由」
しかも「心から納得する理由」がほしかった。


>生命に巣食う癌細胞を外科手術で根本から切り取り、
  「元本の法性」という、穢れなき清浄な生命へと変革することで
    根こそぎ「宿業」を清算してしまうわけですから、
    当然に「痛み」も「苦しみ」も伴います。


・・・自身がそういう精神状態であったからこそ、
さらに この福島の壮年さんのお言葉が響きました。

どんなに嬉しく 有り難かったことでしょう。


>尋常ではない辛さ苦しさも、この信心を唯一無二に疑いなく貫き通す
    ことができたなら、後は晴れやかな自由自在の境涯が待っています。

福島の壮年さん、本当にありがとうございます。

仏法を他者に語り続ける方は 心の名医だと思うのです。

他者が心の奥で抱えている苦悩、不安、恐怖を取り除いてくださる。
そして希望へ、幸せの方へと向かわせてくださる。

そこには行き詰まりなどありません。




続きます。



私信(17)


福島の壮年さんへ



>今回の御書学拝読範囲は冒頭から、そのありがたさに体がふるえ
 心が熱くなり、眼頭に滲むものを感じました。

>現代の大聖人門下一人ひとりに宛てられたものであると拝するとき、
 最初に書いたように、震える感動が体を走ります。


この箇所を拝見しましたとき、30年前の御書講義を思い起こしました。

当時、女子学生局での御書学習会であったと記憶しておりますが
講師の方が御文を拝読し終えた後
言葉に詰まりしばし沈黙なさったのです。

どうしたのだろう・・・と疑問に思っていましたところ
講師の方がはらはらと涙をこぼし
「講義の途中でごめんなさい、
 あまりに慈愛溢れる御文に感動しまして・・・」と。


当時、私自身、まだ10代後半ではありましたが
その講師のお姿を今もまだ鮮明に覚えております。

御書は本来、このような心で拝するべきものなのだ、と
痛感する出来事ではありました。


福島の壮年さんと その30年前の講師の方とを
重ねて見る思いです。




>心が熱くなり、眼頭に滲むものを感じました。

福島の壮年さんのこのお心は
壮年さんの講義を受けられる全ての方々の胸に
深く残ることと思います。



>日常の学会活動そのものが、
 そのまま御本尊への御供養となっていきます。

この箇所に嬉しくなりました!

「驚きと感動でした(*゜∀゜)=3  凄い凄い!」と
みかん。さんも仰っていますように
本当に嬉しく、元気になれたのです^^

題目の音声も、学会活動も全て御本尊への供養に繋がっていく。
何と豊かな そして心強いことでしょう。



>『地涌の菩薩』としての使命(他者救済)を忘れている人は
 『自由にボサっ(じゆうのぼさっ)』としていると言って、
 「仏(ほとけ)」にはけしてなれず、
 「ほっとけ」と言われてしまいます。
・・・済みません。脱線しました。「雑記帳」ですので・・・


福島の壮年さんの文章を拝見していまして
笑みのこぼれるときがあります^^


以前の「テーマパークに言ってくる!」「何を!?」

この箇所を拝見しましたときにも
絶妙のタイミングで(しかも)突然繰り出されるそのユーモアに
普段のご様子とのギャップも相まって(笑)
とても楽しかったことを覚えております。

これもまた福島の壮年さんの魅力のひとつなのでしょうね^^




以前の記事にも書いたことではありますけれども
御書講義をなさる方々はご自分の時間を割き、
一体どのようにしたら他の方々に伝わるだろうか
元気を出していただけるだろうかと 
さまざま心を砕いておられることと思うのです。

自分の心も、エネルギーも、知識も全て
講義のために費やしていく。

そのことが、どれほど他の方々の生きるエネルギーとなり
支えとなっていくことでしょう。



>そのありがたさに体がふるえ
 心が熱くなり、眼頭に滲むものを感じました。

まさにこの福島の壮年さんのお言葉こそ、御書を拝する際に
最も大切なことではないかと思うのです。


福島の壮年さんの講義を直接受けることのできる方々は
本当にお幸せだと思います。




私信(16)



福島の壮年さんへ


お忙しい中、貴重なお時間を割いていただきまして
本当にありがとうございました。

福島の壮年さんの掲示板を毎日、拝見いたしております。


これだけの分量の記事を更新下さるのに
一体どれほどの時間を必要となさったことだろうと思うのです。


確かに、以前仰いましたように

>実際に前回のコメント程度の分量でしたら、構想さえ練られていれば
  本当に「昼休みの時間」で作成することができてしまいます。

そうお書きになっていましたけれども
昼休みの時間・・・・本来ならば心身ともに休養なさる時間帯に
わざわざ記事を作成してくださる・・・本当に感謝の気持ちで一杯です。


構想を練る時間、ご自分のお考えをまとめる時間
そして それらをどう文章に表していくか熟慮なさる時間。

「時間」もそうでありますし、記事に要する「エネルギー」も
私などの想像より遙かに、遙かに大きいと思うのです。

福島の壮年さん 本当にありがとうございます。



>文の体裁などに拘らず、
  誠心誠意、思うところを綴らせて頂くことに致しました。


「誠心誠意」 このお言葉が深く心に残りました。


インターネット上におきましては、(確かに動画や画像などもありましょうが)
「文字での伝達」が主流であります。

そこには声音も表情も仕草も、一切入っては来ません。
だからこそ、「言葉」が光ると思うのです。



福島の壮年さんの記事を拝見し
何度涙を浮かべたことでしょう。

「言葉」は文字となり、読む人の心の支えとなります。
何度も読み返し、自らを奮い立たせることができると思うのです。


福島の壮年さん 
本当にありがとうございます。




続きます。




時とともに



この夏から、右手がほとんど使えなくなり
パソコンのキーボード、マウス、そして暮らしの中では
ドアの開け閉めから荷物の上げ下ろしまで 全て左手で行っている。

最初の頃はなかなか上手くゆかず
かなりいらいらもしていたけれど(笑)
数ヶ月経つ今では、かなり慣れてきたのではないかと思う。


病気になる前の自分だったら
これら全てのことをマイナス要因として考えたろうけれど、
今では「左手でもいろんな事ができるようになったのだからOK」と
肯定できるようになってきている。

左手もフルに活用していれば脳も活性化されるだろうし
何より、何より、左手を使う時の「頭を耕す感覚」が心地良い。


・・・うまくできたもので どんな状況に置かれたとしても
その中から「楽しみ」を見出していく姿勢を(いつの間にか)
培うことができているのではないか・・と思う。



つよく そして柔軟に。

これからもそんな風に生きてゆければいい。




余談ではあるけれど 「梁塵秘抄」の中にて次の一節を見つけた。


風になびくもの 

松の梢の高き枝  竹の梢とか 海に帆かけて走る船

空には浮雲  野辺には花薄



まるで野分の後の風を思わせる。

空を 海を 野を駆けてきた風が音を立て、過ぎてゆく。



「・・・松の梢の高き枝」と口ずさみつつ
ただ 時とともに流れる日々を思う。




あなたとともに



この「あさき夢みし」の中においては
プライベートについて書く機会もないだろうと思っていたのだけれど
たまには 思いつくままに書き綴ってみようと思う。


病を得て早くも3年。

その間、家族には様々なことで迷惑をかけてきてしまった。

今まで何度腹痛に苦しみ 意識を失い倒れたことだろう。
そのたびに夫と娘が介抱してくれた。

夫の「救急車や!」との叫び声
かわいそうに 右往左往する娘の足音。

・・・家族には心から感謝をするとともに
本当に申し訳ないという気持ちで一杯である。



夫とは30年前、大学のキャンパスにて出会った。

同じ学部であり、クラブも一緒であった。

お互いにさほど話をする機会もなかったのだけれど
夫に対する印象は、心の真っ直ぐな人だな・・・というものだった。


大学の卒業式の翌日に 夫からのいきなりの告白。

「どうして卒業式の次の日に?」との問いに
「大学には恋愛をしに来たわけではない」との夫の答え。

そのあまりの「直球」に、ただ頷くしかなかった(笑)。



・・・5年間の遠距離恋愛の末に結婚したのだけれど
それまで喧嘩もデートらしきものもほとんど無いままの結婚生活。

育った土地も、環境も、文化も何もかも違っていたため
最初の数年間は喧嘩ばかりの日々であった。

お互いの思考回路を余すところ無く説明し、
自分の考えをできるだけ正確に伝え、
お互いに 解決の糸口を探る。


結婚して22年目に入った今でも、この作業は続いている。



・・・今、思っていることを様々書き綴りたくも思うけれど
ここは創価カテゴリ内ゆえ 控えておこうと思う。
(おそらくはジャンルが違う)




ただ、ひとつだけ。


夫とともに生きてきて 人は温かいのだ、と知った。

こんなに真っ直ぐで 心のきれいな人がいたのかと思った。

生きるって、こんなにたのしいことだったのかと思った。



夫とともに生きてきたこの22年間を 誇りに思う。




私信(15)



福島の壮年さんへ


掲示板を、毎日拝見させていただいております。
本当にありがとうございます。


・・・今年の春から夏にかけて
同じ病でともに闘っていた方々が次々にお亡くなりになり
さすがに6人目の訃報をお聞きしましたときには
「どうしてみんな、そんなに早く・・・」と言葉にならぬ日が続きました。

そんな中「頑張らなければ」と自分を叱咤する気持ちと
ともすれば不安に負けそうになる自分。


そんな精神状態の中 拝見しました貴掲示板。

福島の壮年さんのお言葉が、本当に心に沁みました。



ブログを書き始めて十数年、
これまで様々なブログを運営してきましたけれども
この創価カテゴリの存在を知りましたのは つい昨年のこと、

少しでも信心のことを書き遺しておきたいと思い参加いたしましたが
このカテゴリ内におきまして 福島の壮年さん、そして多くの皆さまから
あたたかなお言葉を頂戴し、感謝の思いで一杯でございます。

本当にありがとうございます。



(福島の壮年さんがそうしてくださいましたように)
お書きになる記事が完結となりますまで、
私も返信を控えさせていただきたいと思っております^^

お仕事、活動、そのほか様々なことで
本当にお忙しいことと思います。

ですので どうぞくれぐれも
ご無理をなさらないでいただければ・・・と思っております。


福島の壮年さん
本当にありがとうございます。

心より御礼申し上げます。


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