福島の壮年さんへ
このたびのことにつきまして 自分はどのように感じたのか
何故そのように感じたか、そしてどうしなければならなかったのか
ひとつ、ひとつ、考えて参りました。
ここに書きますことも、自分の気持ちに正直に、
そして何より 自分の気持ちを「正確」に
書いていかなければならないと思いました。
インターネットの世界にて個人がブログを立ち上げ、
自身の考えを綴るようになりましてから10年以上が経過しております。
ブロガーの数も、これからさらに多くなっていくことでしょう。
思えば 今から30年ほど前は
こうして見知らぬ方々と意見交換が出来ることなど
(少なくとも私にとりましては)容易に想像することはできませんでした。
この創価カテゴリにおきましても
メンバーは目まぐるしく替わっていくことでしょうし
こうして文章を綴る私自身も、いつかはこのカテゴリを去ります。
学会員同士の意見交換の機会もさらに増えていくことでしょうし
今回のようなことも多く起こってくることでしょう。
今後もカテゴリの中におきまして
意見がまっぷたつに分かれてくることもあろうかと思います。
これから数十年後 あらたに創価カテゴリに集うであろうメンバーに
思いを馳せつつ、少し書き綴って参りたいと思います。
意見が分かれた場合、「問題とするべき点」「話し合うべき点」は
数多くあると思うのです。
その時々に起こってくる問題は「一本の棒」のようなものではない。
例えるなら広い野球場のようなものではないかと。
ある人は「一塁ベース」の辺りで問題点となるものを見つけるかもしれません。
そしてある人は「外野」、もしくは「三塁ベース」にて。
ひとつの問題に含まれる「話し合うべき点」など
(極端なことを言えば)関わる人の数だけあるはずなのです。
そしてまた問題のきっかけとなった方々のうち
一体「誰に焦点を合わせるのか」で
こちら側の対応もまるで違ったものとなってくるはずです。
問題にぶちあたり真に解決していこうと思うのであれば
起こって来るであろう多くの「話し合うべき点」に思いを致すべきであり
あとは、個々において自分の考えをまとめ
「今後」に生かしていけばいい。
そして議論はあくまで理性的に行われるべきでしょう。
ましてや、相手への人格攻撃など論外であります。
もはやそれをしてしまった時点で、「本当の議論」は行われなくなってしまう。
まことに残念なことです。
意見や主義主張がその時々において違ってくるのは至極当然のこと、
1人1人置かれている状況も 取り巻く環境も全て違う。
だからこそ、意見が違って当たり前だと思うのです。
(その点を踏まえた上で) 意見は違えど、そしてやり方は違えど
「目的」は同じであるはず。
私自身も、他の方々と同じく
この創価カテゴリを大切に思っている1人であります。
生命哲学を学ぶ私たちの このカテゴリの中におきまして
議論とは無関係の筈の、人格攻撃が起きてしまうのは本当に惜しい。
ただ それだけです。
>自身の信念に基づいて、「あの1件」に関してストレートに、
関わった人たちのHNが表記された記事やコメントを
「コメント」をお寄せ頂いた方々のものも含めて、「非表示」と
させて頂きました。
これ以上書き綴りますことは
福島の壮年さんの御心に反することとなってしまいます。
最後に。
>私がこれまで、この創価カテニ入って以来、一貫して主張しているのは
「己義や邪義を振りかざして、純真な学会員を誑かすな!」ということです。
>「自身の無明」による行為で、他の信仰者・学会員までを
巻き添えにしてしまえば、それこそ「度し難い」「一闡提」の道に
我が境涯を落としてしまいかねません。
>だからこそ、そういう人は厳しく糾弾し、気付かせてあげなければいけない。
仏法の因果とは、「希望の原理」でありながらも
それに反する行為を繰り返す者には、極めて厳しく厳粛なものであると
私は思うのです。
福島の壮年さんに深く共感いたします。
信心深く、そして人への優しさを秘める福島の壮年さんが
1人の人を大事になさらぬわけがありません。
「気付かせてあげなければいけない」
本当に仰るとおりだと思います。
徹して大事に思うからこそ、敢えて言わなければならない。
まさに「1人を大事にする」「悪は悪だと言い切っていく」
そのどちらも欠けてはならないものだと思うのです。
このたびのきっかけとなりましたことについて
「言わずにはおれなかった」福島の壮年さんの御心を思います。
何故言わずにはおれなかったのか。
仏法は厳しいものなのだと伝えたかった。
だからこそ 謗法を重ね不幸になるのを分かりながら
それを黙って見てはいられなかった。
敢えて厳しく仰ったその言葉の奥に何があったのか
その先に何を見ていらしたのか
私はその点をこそ
深く理解致したいと思っております。
続きます