NPO法人の代表者が、小4年生になりすまし自民党に対して批判的なサイトを作った今回の事件。なぜ慶應生がこのような極めて幼稚な嘘をついたのか。誰もが首を傾げることだろう。
しかし、私はこのような事件が「慶應生」によって起こるのは自然だったと思っている。私は慶應義塾大学に数年前に一般入試で入学したものだが、私が在学中の頃から、一般入試入学の者はこのような事件が起こることを危惧していたように思う。
ご存じの方はあまり居ないかもしれないが、某小学4年生が在籍していた慶應法学部の入学者の、実に6~7割近くが推薦入試を経て入学しているのである。この比率は日本の大学でもトップクラスであったように記憶している。そして、特にAO(FIT)入試では、御存知の通り「面接」「論文」などで合否の大部分が決まる。海外の大学のようにSATなどの筆記試験は存在しない。すると、受験生はどれだけ面接で「取り繕うか」を覚える。取り繕うことが出来た人ほど、合格につながるからだ。
しかし、ただ取り繕うだけではダメである。ちょっとした「ばれないレベルの嘘」を織り交ぜることが大切なのだ。例えば、親戚の家の雪かきをしたことを「ボランティア活動で雪かきを行いました」などという、そのような「嘘」を織り交ぜることが合格の秘訣なのである。
活動の中身なんて殆ど無い、名ばかりのNPOに所属し、面接では大きな顔で「NPO法人で高校3年間、活動しました!」と主張すれば合格に一歩近づくということだ。
面接のみが重視されるということはすなわち、「いかにバレない嘘をついて自分を大きく見せるか」の試験になってしまっているのである。そして、その試験に晴れて合格した慶應生は「嘘をつく」ことの味をしめてしまう。努力もせず、適当に自分を「大きく盛る」だけで、人生がうまく行ってしまったのだ、そう思うのも当然だろう。
さて、三年になると、彼らは自分の経歴をどれだけ美しく見積もるかに、再び全力を尽くす。入試対策と、慶應での2年間で培ってきた能力はここでも遺憾なく発揮される。中にはTOEICなどのスコアを偽る人も出てくる始末だ。先輩達からの情報が豊富なので「○○という企業はTOEICのスコアシートを提出させないから嘘をついても大丈夫」などという具合に、情報が至る所でまわってくるので、嘘をついても「ばれない」自信があるのだ。
これが慶應の就職が東大より良いと言われる"からくり"である。
自己弁護をしておくと、私達一般入試組やセンター入試組はわりとこのような事を忌み嫌っていた人が多いように思う。実際に外部組はTOEICなども高得点を比較的楽に取ることができていた。なので偽る必要もなかったのだ。
しかし、残念なことに、「どこまで嘘をついても大丈夫か」をAO入試で入った慶應生は研究する。サークルの先輩などからの情報を集め、「ギリギリセーフ」のエントリーシートを作成することに躍起になる。彼らにとっては良い就職こそが正義であり、嘘をつく事に対しては何の良心の呵責も感じないのだ。
当然である、彼らは面接で慶應に入学してきたわけである。そこでは、自分を粉飾し、大きく騙ることこそがよしとされてきた。そのような入試形式を経て入学してきた生徒なのだ。どうして、自分を「大きく飾る」ことに疑問を持てようか。
海外の大学などでは確かに人物中心入試が行われては居るが、これらはSATやGREなどの学力試験と平行して行われている。面接と学力。総合選抜を行っているのである。これは慶應のAO入試とは全く違うものであると断言できる。今でこそ、多くの学校で導入されたAO入試だが、元々AO入試は慶應で生まれ、慶應で育ったものである。面接だけの学力無関係入試は、慶應が作り上げたものなのだ。つまり、嘘をついて自分を大きく見せる事は、あえて言うならば「慶應の文化であり、脈々と受け継がれてきた伝統」とも言えるだろう。
教授達は「面接で嘘は見抜ける」と考えてこのような制度を行ってきた。しかし、見抜けていないことは誰の目にも明らかだろう。とある塾などではNPOに入ることで自分の経歴「飾り」を行う事を推奨し、AO入試でラクラク慶應に合格させていくという。
出来上がるのは、実績もない、学力もない、有るのはただ「自分を大きく見せる」という嘘つきの能力だけを持つ学生である。悲しいかな、一般入試で入学した人は「自分を以下に偽るか選抜」で合格した人と机を並べて学び合うのである。
この事件をきっかけに、面接選抜のようなAO入試が廃止され、学力と人物どちらともを評価できるような入試を慶應義塾が導入することを、慶應出身者としては祈るばかりである。