PREVIOUS NEWS
2014.11.25 TUE
TEXT BY KEI WAKABAYASHI
ILLUSTRATION BY SUMMER HOUSE
「死」の特集をやりたい、と前々から言っていたらしい。「いよいよやるんですね!」と知人に言われて、さも死に執着しているかのように見えてた自分がいささか気恥ずかしい。むしろ逆なのだ。死はよくわからない。葬儀はいつだって苦手。できれば近寄りたくないのが正直なところ。
自分の祖父の兄が亡くなったとき、それを聞いたうちの祖父はただ一言「あ、そう」とだけ答えたのだという。居合わせた母が「もうちょっと言いようがあるでしょうに」と憤慨していたのを覚えている。「どうもうちの家系はそういうことに淡白なのよ!」。というわけで、ぼくはきっと自分も「そういうこと」には淡白なんだろうと、勝手に思いこんでいるのだが、実際にどうなのかはよくわからない。
なんにせよ、そんな人間だからこそ、こんなうかつな特集がやれるのだということは言えるかもしれない。死をめぐる哲学や、生命倫理などをめぐる議論も、それがとても大事なものであることはわかるけれど、深くは知らない。「死」というものを軽々しく扱いすぎていると見えたなら黙って頭を垂れるしかない。
とはいえ、死というものが、いたるところで問題化しているのは知っている。孤独死とか、住宅街に遺体安置所ができて近隣住人とモメているとか、亡くなった人のネット上のアカウントはどうなるの?とか。現代社会と、その行く末を考える上で、これは、実に大きな問題だ。世界規模の話で言えば、人口の増大は、当然死者の増大をも意味する。日本の話で言えば、この先ぼくらを待ち受けているのは超高齢化する社会だ。
いつだかとある都市開発業者に新しいプロジェクトの話を聞かされて、聞けば聞くほど疑問に思えてきたのは、「この街で人は、どうやって死ぬことになるのだろう?」ということだった。新しい街を開発する人たちは、新しくて楽しい「生」の希望は描いてくれるけど、よりよい「死」については思いを馳せてはくれない。
思うに近代社会は、できるだけそれをコンパクトに取りまとめて遠ざけておくべく死を管理し、制度化してきたのだろう。死体は、要はでっかい生ゴミなのだ。とっとと焼くか、とっとと埋めるか。魂とか天国とかを信じなくなった社会において、「遺体」に意味はなく、合理主義と経済の理屈においては、素早い「処理」が正しいソリューションとなる。死体安置所を巡るモメごとは、原理的にはゴミや下水処理のそれと等価にある。出家をした人ですら、結局は最後は「施設」で最後を迎えることになる、とかいう話を聞いて、なんだか残念な気がするのはぼくだけではないはずだ。
そんなふうにして、死は最も遠ざけたいもののひとつとして現代社会に取り憑いている。とりわけ日本ではそうだ。「死を考えること」が日本人は世界に較べて突出して多いらしい。けれども、そこで言う「死」は、死後の後始末であったり、お金の算段を指している。死は人生最大の厄介ごとであるという、なんとも釈然としない矛盾。幸福な「死」を考えることができるのは裕福な人ばかり、なんて議論もそこからは出てくるだろう。
SPECIAL
PREVIOUS NEWS
コメントをシェアしよう