ネットのない時代は、たしかに「火のないところに煙はたたない」ものだった。でも、今は違う。たんなる悪意、個人的な好き嫌い、いいかげんな思い込み、そして嫉妬心などで、火のないところにバンバン煙がたつ。
— 樹林伸(怪盗ルヴァン モーニング連載中) (@agitadashi) 2014, 11月 24
Twitterは気をつけないと『思想濃縮装置』になる。自分の指向に合った人ばかりフォローし共感に浸り続けることで、自分と違う考えを受け入れられない思考回路が出来上がっていく。RTでたまに回ってくる意見に対して「こいつバカだ」などと呟いてるようだと、この病はかなり進行している。
— 樹林伸(怪盗ルヴァン モーニング連載中) (@agitadashi) 2014, 11月 24
田舎に多い現象。目立つ人、美しい人がいると、まず自分に取り込もうとする。その人が懐に入ってこないと、敵だと見なして反発、攻撃する。仲間か、そうでなければ敵か。自分に関係ない人という概念が弱い。敵でも味方でもなく他人と距離をおいて自分らしく生きたい人は、田舎では無駄に苦労する。
— 松岡宏行 (@higetch) 2014, 11月 23
都会は比較的、埋没に寛容です。数量的に一つ一つの関係性が薄く軽くなることのメリットのほう。しかし、田舎ではそうはいかない。コミュニティーとして一律な価値観や行動を強制されることも多い。抜けるシステムに不備がある。どちらかが絶対的に良いとか悪いではないが、「合わない」はある。
— かつらぎゆう【林檎焼菓子】 (@mayakima) 2014, 3月 11
そもそも東京で(きっとNYやパリでも)、恥ずかしげもなく、都会人を気取ってる輩はイナカッペ、と古来より決まっている。どうして、そういう人類普遍の法則をわからない奴がいるのかなあ。
— 嶋野夏樹 (@72ki_s) 2014, 4月 27
ハレとケ、とか知ったような口を聞かせてもらえば、カッペにとって都会はハレの場かもしれないが、そこが出身地(故郷なの!)の人にとっては、ケなんです。それだけのこと。どうしてわかんないかなあ。なので、わからん奴はカッペです。イナカモンです。だって、そうでしょ?
— 嶋野夏樹 (@72ki_s) 2014, 4月 27
インターネットとは、いわばバーチャルの「巨大都市空間」のようなものである。
都心の繁華街を歩くと、ここがまさにインターネットではないかと思う。駅やビルの上を埋め尽くしている屋外広告看板は、ポータルサイトのバナー広告のようだ。ネット上にはありとあらゆる性別・世代・社会属性・興味関心の人たちのためのサイトが無数に存在している。
アニメオタクは「WEAR」を知らないし、ファッション気取りは「pixiv」を知らない。だが、もっとその趣味を突き詰めると、同じ関心を持つ人同士でもコアな人しか行きあたらない無数のサイトに行きあたる。都市空間であれば、同じ商業施設に入居しながら客層の全く被らないアニメイトやブランド店であったり、路地裏の同人誌販売店やセレクトショップであったりする。
20世紀後半の昭和育ち世代の全盛の時代は田舎の人間は、まともな文化を手に入れるために上京する必要があった。都市と地方の明確な格差があったため、根本的に社会構造が違うということが分かった。
これは今の日本とアジア諸国の関係性を引き合いに出せばわかりやすい。東京を「日本」だとすれば、東北が中国で、島根がカンボジアだったわけである。
ところが2000年代では、大都市でも地方でも、コモディティが横行するようになっている。表面的にはみな同じようにファストファッションを着こなし、ヤマダ電機で家電を買い、ニトリで家具を選び、スシローで食事をしていたりする。
これまでそうした消費文化はむしろ大都市では通用しなかった。
大型家電量販店などないからみんな最寄りの小さな家電店を利用した。東京ならさくらや、神奈川ならノジマ、大阪ならジョーシン、名古屋奈良「看板が白かったころのエイデン」であろうか。それでも物足りなければ秋葉原・大須・日本橋などの電気街を頼ったのだ。
地方都市でラウンドワンが広まったが、都市部は出遅れたため、地方ではそもそも存在しないかとっくに廃れている古いボウリング場やゲームセンターや釣り堀やバッティングセンターが生き残っていたりもした。
地方が東京に比べ明確に差があった歴史や、都市部が国道バイパス型消費文化に欠乏していた過去は、今は表面上には解消されたように思えるが、だからこそ生じる問題がある。
農耕社会の悪しき精神がネットに蔓延していく
「下から目線のプロ素人」や「ネット原住民」と呼ばれる匿名ネット型の人間は、田舎者にインターネットを与えることによって生じた問題点だと思う。その問題性は島国根性やムラ社会の負の面にそっくりで、地方出身者や地方在住親戚のダメな部類を見ている気分になる。列挙してみると以下の通りだ。
・可視範囲に飛び込む情報に対し、どのようなことでもやたらと反応を示したがる
→生活の中で触れる情報の量が著しく乏しい
・その反応の仕方がことごとく、自分の日常生活の常識感覚に合致するか否かや、快不快の感情で判別した否定か同調の二元論である
→自分とは異なる常識に生きていたり、考えや趣味を持つ人間がこの世に存在していることを想像できず、物事についてじっくり理論的に考える能力やゆとりがない
・わけのわからないジャーゴンを振りかざす
→自分の村限定のハイコンテクストが世間の非常識であることに気づいていない
・藁人形論法を頻繁に用いる
→自分の常識軸を守るためなら悪意のある他者への不寛容にも躊躇が無いくらい閉鎖的。あるいは単純に読解力や表現力がない
・嘲笑や陰口の会話をやたら用いたがる
→場の空気が悪くなること、自分の印象を下げることであり、目の前から人が離れていく原因であるということに気づいていない
観ての通りである。これはまさに、マイルドヤンキーやヤンキーにすらなれない田舎者の特徴そのものではないか。
世の中には自分と常識や趣味や柄や主義主張が異なる存在はいくらでもいるということ、異なる存在に不寛容を示しても何も得るものはないという都市部の常識がまるで存在していない。誰かを不快にさせるような話題や態度をすれば人付き合いや他人からの自分の印象に悪影響を与えるから控えなければいけないということに気づけないのは、そもそも人間関係が固定化されていて、減ることはあっても増えようがなく、選びようがない運命共同体であればそれでもしょうがないことだろう。
感覚値としては、Yahoo!BBが日本中にコンパニオンを派遣してモデムを配っていた2000年代半ばあたり以降急にこういう風潮がネットに蔓延するようになった。これはイオンモールなどの全国チェーンが普及した時期と同じ。つまり、「田舎者がネットデビューした時期」である。地方の国道を数十キロくらい走って、出てくる自治体すべてが築年数がせいぜい10年未満とおぼしきイオンとヤマダ電機とかっぱ寿司に占領されている光景には戦慄するが、そういう文化圏の人間がそのままネットを用いることがいかに危険なことかということが、よくわかったのだった。
自分の地元が東京都心はおろか埼玉郊外にすら根本的に逸していて、同じような苗字・顔つき・方言・ムラ社会や島国根性の精神の人間だらけだったとして、そこでマイルドヤンキーやヤンキー(ネットスラングでいうリア充やDQN)になれなかったり排除された人間がネットを「逃げ場」や「居場所」にしたとすればどうなるか。なおさら「同質性への渇望」が強化される。
たとえば疎外感やイジメ経験などのルサンチマン交じりに田舎の人間が「(マイルド)ヤンキーは間違った存在なのだ」と書いたとする。それを見たマイルドヤンキー化現象を知らない東京都港区育ちの人間が、「本来なら都心ほどチャラく、のどかな原風景に相応しくない存在である」事実を理由にショックを受けた上で共感したとするとどうなるか、「地元より圧倒的上位社会の東京の人間も自分の考えを全面的に理解し、正しいと思ってくれた」ことに快楽を感じ、都合良く誤解してしまうわけである。そこでは、「本来なら都心ほどチャラく、のどかな原風景に相応しくない存在である」と言う異文化ならではの論拠の存在は無視されてしまう。
そうやって「自分の地元と同じレベルの田舎環境の非ヤンキー層」という超狭い中でしか存在しない常識や理想(または妄想)を解体することなく、日本全体、下手すれば世界中がその単一で内向的で偏狭な常識が通じるし、自分の生活実態の中にある不都合な現実ではなく理想としていたことこそが「真実」なのだとか、勝手に思い込んでしまう。その繰り返しで、田舎者にインターネットを与えると「こじらせてしまう」のである。
下町の飲み屋やみこしをかついだ祭りの風景を見ていればわかるように、東京や神奈川育ちの人間は昔からある街の庶民であれば精神的にはマイルドヤンキーと何も変わらない。見た目がオタクっぽくて実際かなりコアなアニメオタクで2ちゃんねらーな人間が、元中の同級生のDJが経営するライブバーでに入り浸っていたりもする。ヤンチャそうな人間もツーカーで話している。
文化経験が豊富で自分と異なる存在を認める暗黙知があるからこそ円滑な人付き合いのための無意識的な単純化が起こり、細かいことにいちいち文句を言ったり、拒絶や不理解を示す人が出にくくなり、変態みたいな人間がいくらでもいたとしおても田舎の人間のような「絡みづらい」ことはない。
田舎のマイルドヤンキーは悪ではない
私は都会のマーケターのおっさんが田舎のマイルドヤンキー若者を否定する風潮が嫌いだ。
なぜなら彼らは何も悪いことをしていないし、そこで彼らが中心層であれば、それが普通だというだけである。アメリカ人が日本にやってきて米を食べる文化にケチをつけているようなものである。
明治時代の日本人が横浜港から欧米の文化が流入された途端に街並みをヨーロッパ式のものに作り替えて洋服を着てハイカラになったように、しまむらやドンキのようなヤンキーセンスの文化が地元に蔓延すればそれに染まらない方がむしろおかしい。日本版バイブルベルトの北関東や福島県・新潟県あたりでにわかにもヤンキーに流されない人間がいたとしたら、そのほうがおかしいだろう。
彼らは案外地域活動にも関心を示したり、協力をしたりする。同級生と培う地元愛があるからこそ、東京と言う異文化に対して謙虚に尊重ができたりもする。どこかの毎年のように医者を追い出しまくっている村みたいに余程地域が腐っているケースならまともな人間が疎まれても仕方がないものの、マイルドヤンキーはチャンス次第で地域再生の救世主にもなりえると思う。
ヤンキーに満たない田舎者にインターネットを与えると「こじらせてしまう」問題はとにかく深刻だ。
昭和と違って上京しても別世界の洗礼を受けて自分の常識をリセットできない。地元時代に引き続きネット原住民として同じタコツボネット環境に入り浸りながら、イオンやヤマダ電機を往復し、近所でどんな素晴らしい市民イベントがあろうが、素敵なインド人が隣に住んでいようが楽しい団塊の八百屋のオヤジがいようが、それらを知らず存ぜずである。こういう人間に薀蓄を与えると余計に酷い人間ができあがるし、秋葉原殺傷事件やヘイトスピーチデモを起こす「無敵の人」スレスレの人も多いだろう。
厄介な彼らを受け入れたくなくても集めてしまっている東京にとっても迷惑な問題だし、クニの老いた両親やマイルドヤンキー同級生からしても有害で、ネット社会を閉塞感をもたらしている。こういう連中をどうにかする手段を講じるために、たとえば地方の学校教育はもっと積極的に情報化を進める必要がある。