地方都市の最大の問題点は、つまるところ「発展途上国の精神」にある。
日本は実質的に世界経済第二位の先進国だとされている。しかし実際には東京首都圏などの大都市がずば抜けて栄えているだけにすぎない。
これは何も今に始まったことではない。戦前だって、アジアの有色人種国家では唯一の列強として欧米各国と肩を並べていたが、日本各地および植民地からかき集められた富は「帝都・東京」に最も集中したのだった。帝国大学が作られた9つの場所はみな後の大都市である。本質的な先進社会は大都市にしか存在していない。
「発展途上国の精神」=「ないものねだり」
発展途上国の精神とは、要するにないものねだりのことである。
たとえば悪い地方都市ほど地域の「身の丈」を外れた高層ビルが建っていたりする現象があるが、それは高層ビルで満たされた都会に対するコンプレックスの証拠ではないか。今の中国や東南アジアや中近東を見ていればわかるように、途上国ほど工業化すると首都にビルを作りたがる傾向がある。
しかし、 途上国と地方都市が大きく違うのは、途上国は独自産業があり、それによって得た富でないものねだりの開発を行っているということ。日本の地方都市は基幹産業が破綻しており、ないものねだりの開発自体が産業の代わりとなっているのだから、状況はよりひどい。
この手の地方都市の無駄な高層ビルの中身は役所だったり、オフィスビルだったり、マンションだったり、ホテルだったり、商業施設だったりする。
公共施設としては税金の無駄だし、そもそも地方都市に産業なんて存在しないからオフィスフロアはいつまでたっても空室だらけだし、働く会社がない地方都市ならマンションを買って住む人もいないし、出張旅行や観光者もいないためホテルが賑わうこともなく、地元民は郊外のイオンモールに、旅行者は道の駅に行けばこの手の商業施設は選択肢にされようもないのだ。
小中学生でもちょっと考えれば想像のつくことだが、どういうわけかこの手のビルはバブル崩壊後の不景気の歴然とした平成以降に着工しているのだから常軌を逸している現実がある。
身の丈外れた高層ビルが建つのは、「おらが町の一番のランドマーク」として地域のだれもが集まり、よその人もこんな立派な物は有難がって訪れたがり、波及効果的に近隣も高層ビルだらけになって地元は東京のように賑わうであろうという根拠もない「願望」があるからなのだ。
この呆れた現実に、大都市は他人事ではない。
国の税金である地方交付税や国庫支出金などの税金がこうしたビル建設や運営維持にあてられているのだ。人口の7割が大都市にあり、日本の経済活動はその都市部に存在していることを考えてほしい。
「厚木すら廃れている現実」に地方都市は目を向けよ!
神奈川県厚木市をご存知だろうか。
人口約23万人。神奈川県中央部の中枢都市である。都心まで小田急線の通勤圏のためベッドタウンとして戦後急成長した街だ。郊外には高速道路の分岐点があり、第二次産業も盛んだ。
だが本厚木駅前は近年凋落している。デパートや大型専門店がいくつも店じまいし、シャッター店舗が増加。人の数も減った。以前は相模川の向こうの海老名からわざわざ買い物などに訪れる人が多かったものの、いまは逆に、厚木市民が海老名に向かうようになってしまった。
厚木市の凋落は1990年代にわかり切っていたことだ。厚木インターチェンジ沿いに1995年に建てられた「厚木アクスト」という高層タワーがある。県央の情報拠点として、バブル時代の国の政策をもとに神奈川県や厚木市や民間などが連携して整備されたものだが、できてから入居者がほとんど集まらず、地元では「バブルの塔」と揶揄されていた。
神奈川県厚木市の平成時代の流れは、首都圏・大都市圏の中から見れば散々な体たらくかもしれない。
しかし、なんだかんだで神奈川県。人口密度がある。朝晩はラッシュアワーの賑わいもある。東名高速道路は日本の物流の大動脈だ。それは、大都市圏に所属できず、まして中心軸には到底なれっこない地方都市から見ればはるかに立派である。
そんな厚木市であっても、身の丈外れたビル建設は失敗するし、工業団地に空地はあるし、中心街も空洞化するのであれば、根本的にレベルの違う地方都市が同じことをやって、栄えるわけがない。この現実はぜひ肝に銘じなければならないだろう。
新潟市民に「ださいたま」と言う資格は存在しない
青森から山口にかけての本州の裏側で最も栄えている都市は新潟市らしい。「人口80万の政令市」というと立派そうに思えるが、21世紀になってから15市町村を合併して無理やり大きくなったものである。神奈川県の東半分に匹敵する広大な市域はほとんどが新潟らしいコメ作りを行う田んぼで、旧新潟市域すらもほとんどが片田舎だ。大合併で自治体をひとくくりにし手も本質は何も変わらない。
ランキングサイトによると、新潟市の人口密度は全国で339位。埼玉県の40自治体に負けている。沖縄県の中城村や北中城村にすら劣っていることを考えると、かなりの過疎地帯だ。おまけに新潟最大のターミナル駅である新潟駅の1日の乗車人員は約3万8000人しかいない。埼玉県の南越谷駅は武蔵野線単体で7万人に膨れ上がるし、隣接する新越谷駅(東武線)は14万人いる。埼玉にいくつもある郊外市である越谷市のサブ駅のそのまたサブ路線の利用者に満たないのだ。
常識的に考えれば、東武線と武蔵野線が接続され、都心と郊外を結ぶ拠点である南越谷駅の方が新潟駅如きよりも立派に作られるべきではないか。ところがなぜか、新潟駅と南越谷駅を比べると、新潟駅の方が無駄に大きく作られている。
メインの北口はもちろん、裏側の南口さえも大規模再開発の最中にある。駅前に立派な道路を作ったり、ビルを建てられるのは、それだけ税金がばら撒かれていることになる。田中角栄を生んだ新潟県と異なり、越谷市のある埼玉県第3区には有力な政治家がいないために、こうした「公共事業の偏在」が存在する。越谷市役所どころか埼玉県庁すらも小さくボロボロだ。
埼玉県を揶揄する「ださいたま」と言う言葉がある。
それは、東京に比べてパッとしないことはもちろん多摩地区や神奈川や千葉の郊外から見ても冴えないことを小ばかにした表現だが、新潟市すらこの程度の現実がある。ましてや新潟以下の裏日本の自治体は、たとえ県庁所在地だろうと「北朝霞以下」の街が大半だ。人口13万の朝霞市どころかその街の外れの北朝霞に実質が満たないのである。
それでいて、しかも、埼玉を含めた大都市の人間は日々のラッシュアワーや交通渋滞などを我慢して生活していて、そこで生じた税収は中央の「変換アダプタ―」を通じて地方都市のバラマキに使われている現実がある。
新潟市民に「ださいたま」と言う資格は存在しないということは明白だろう。次元があまりにも違いすぎるのだ。
地方都市は先進国レベルの質の成長を図るか、切り捨てられるかの覚悟を持て
日本の問題点は地方都市がおこがましくも「東京」を目指しすぎたことにある。
昭和40年代以前ならまだわかる。埼玉や神奈川だって郊外化していなかったし、北日本最大の仙台市の人口も今の半分くらいだった。右肩上がりの高度経済成長、ベビーブームによる人口増加があった。日本全体が等しく成長していた。
だから、東京にあやかって、中心街を「銀座商店街」と名付け、銀座と同じオフィスやデパートの地元支店を誘致させたりしたのだろう。
しかし、そんなものはもはや無理であることは、平成以降の日本社会の転換で歴然と判明したはずだ。銀座ですら、オフィスを閉じた会社はいくらでもあるし、そごうも西武も松坂屋も撤退したのだがから、ましてただでさえ人口も経済規模もちゃっちくて、半世紀くらいずっと若者が流出し続けて高齢者だけが残っている地方都市で成り立つわけがないだろうに。
先進国全体の特徴だが、大都市が繁栄しても地方地域は首都と同じ繁栄は絶対しないのだ。アメリカの中西部がニューヨークになれるわけがない。イギリスだってフランスだって首都けが人口も経済規模もずばぬけている。地方都市は、地元の身の丈に合ったインフラに不満を漏らさず、地域独自の産業や魅力の開拓を行っている。日本の地方にはアジアを見下す右翼的な大人が大勢いるが、この傾向は韓国や台湾でも同じだ。旧植民地にして戦後も日本を後追いしたこの2地域ですら地方の質は日本よりも遥かにマトモなのだ。
今、地方都市は1つの方向性が迫られている。
韓国台湾に遥かに劣る発展途上国の精神を脱皮し、地方地域の在り方を先進国水準に見直すことだ。さもなくば、切り捨てられるしかないだろう。
このまま金目にくらみ、税金のバラマキの公共事業に明け暮れるようであれば、日本政府はさっさと地方分権に踏み切って、捨て置くしかない。財源は限られているのだ。
もしこのまま大都市の税収を未来のない精神的発展途上国の地方に分配する構造を辞められなければ、日本国そのものが財政破綻するという最悪の結果になりかねないのだが、土建屋利権政治を渇望する馬鹿はその程度の想像力もないのだ。