「日本の大学入試は学力偏重すぎる」「もっと学生の個性や適性を見る入試に切り替えるべきだ」という各界の批判を受け発足したAO入試。
しかし、一般入試出身者との学力格差が中教審から指摘されたり、中退率の高さに大学側が頭を抱えたり、はたまたSTAP細胞の小保方晴子氏や小学4年生なりすましの青木大和氏など、文理を問わず「やらかし」がち人材を多く輩出してしまうなど、日本での運用はお世辞にも上手く言っているとは言えません。
しかし一方で、アイビー・リーグを始めとするアメリカのトップ大学は、そのほとんどがAO入試により学生を選抜し十分な結果を残しています。
なぜ、日本のAO入試は上手くいかないのでしょうか。どんなところがアメリカと違うのでしょう。
本稿では「なぜ日本ではAO入試が上手くいかないのか」を日米の教育環境の違いから論じます。
【そもそもアメリカのAO入試には学力試験がついている】
日本のAO入試は、ほとんどの場合
書類選考(推薦状、小論文)+面接
のみで選考されます。基本的に、数学、英語、国語などのペーパー試験での「学力」は一切鑑みられません。
これは早慶などの最難関私大でも変わりません。有名人から推薦状がもらえて面接の受け答えができれば、大抵の所には受かります。
一方、アメリカのAO入試では、例外なく学力試験が課されます。
SATと呼ばれる日本のセンター試験のようなテストがアメリカには存在し、アメリカの大学受験志望者はほとんど例外なくこれを受けさせられます。
科目数も少なくありません。数学、国語読解力、国語記述力の基礎3科目に加え、志望大学に応じて生物・化学・物理・米国史・世界史・英文学などの個別教科の試験も行われます。
こういった学力選考にプラスして、推薦状、小論文、内申点、面接などの試験を課すのがアメリカの「AO試験」です。
一方は書類選考と面接のみ、一方は厳しい学力選考にプラスして書類選考と面接を課す。
これで同じ「AO入試」という名前をつけるのがそもそも間違いのようにも思えます。
【日米の学部教育の役割の違い】
また日本の大学とアメリカの大学では、大学のカリキュラム、とくに学部4年間のカリキュラムが全く違う、という事情もあります。
アメリカの場合、学部4年間の目的は大学院修士課程で専門的な学習を行うための準備を整えることです。ですので、学部4年間はほぼ丸々「基礎」の学習に費やされます。
大量の文献を読み込ませ大量のレポートを書かせる、という独特の学習スタイルもこのためです。「とにかく学生に基礎知識をつけさせること」アメリカの学部ではこれを重要視します。
一方、日本の学部教育はまた事情が違ってきます。
日本はアメリカと違い、大学院進学率が極めて低いです。そのため、学部の早い時期から各学科の専門教育を行わなければなりません。
ゆえに、大学に入ってすぐに高度な教育を行えるよう、高校生の時点で「基礎知識の詰め込み」を終わらせようと考えます。その結果が厳しい受験戦争であり、知識偏重型の高校教育です。
つまり換言すると、日本の大学はアメリカより早くから高度な内容を扱うのです。国を代表するような大企業役員や、中央銀行の総裁、官僚機構のトップですら大学院の学位を持っていないのが当たり前の国ですから、ある意味で当然です。トップ校だと、学部のうちにアメリカの修士課程くらいの内容は終わらせてしまいます。
さてそんな日本の大学に、基礎学力の伴っていないAO入試組が入ってくるとどうなるか。答えは明白です。早期からの専門教育についていけず、脱落する学生が続出します。特に理系ではそれが顕著です。
日本の大学は基礎学力がないと落ちこぼれる可能性が高い。なぜそんな制度の元で学力試験を介さないAO入試を導入するのか、全く理解できません。
【大学入学者の年齢が異様に若い日本の特殊事情】
また、日本では大学出願者の年齢が異様に若いという、日本独自の特殊な事情もあります。文部科学省の作る「教育指標の国際比較」によると、OECD平均では入学者の20%が25歳以上なのに対し、日本ではほぼ全員の入学者が19歳以下です。
つまり、OECD諸国ではある程度社会経験を積んでから大学に行くことは極めて普通のことなのに、日本では高校を出たらすぐ大学に入ることが極めて強い慣習になっているということです。
これは、AO入試という仕組みを運営する上で極めて大きな障害になります。
そもそもAO入試の目的は学力だけではない、多様な個性や能力を持った学生を選別することでした。
アメリカではそれがある程度上手く行きました。社会に出て労働者として就業経験を積む、芸術や音楽に専心する、起業などの経済活動に従事する、そういった多様なモラトリアム期間を経てきた受験生が豊富におり、彼らの経歴を吟味して選別を行うことが出来ました。
しかし日本の場合そうは行きません。「多様な個性」を選抜しようにも、日本のAO入試に出願してくる学生のほぼ全員はただの高校生です。しかも受験勉強に忙しく、何らかの「個性」を伸ばす暇もありません。はっきり言って、AO入試で選抜できるほどの多様性を日本の出願者は有していないのです。
するとどうなるか。
出願者に多様性が全くないため、「いかに履歴書がキラキラしているか」でほとんど合否が決まります。そこで履歴書を手軽に豪華にするための民間ビジネスが興隆するというわけです…。
【日本独自の「AO入試ビジネス」の存在】
日本のAO入試出願者は、日本の教育制度上ほとんど多様性がないので、AO入試がAO入試として機能しない、というところまではお話しました。
しかし「機能しない」と言っても、大学は合否を分けなければなりません。
もちろん面接の上手さや小論文の文章力などというファクターはありますが、それだけではほとんど出願者間に差は出てきません。
では最終的に、大学側はどういう基準でAO入試の合否を分けるのか?
お答えしましょう。
「いかに履歴書がキラキラしているか」
「どんな人から推薦状をもらっているか」
この2つがAO入試の合否の決め手になります。
「履歴書がキラキラしている」とは、要するに履歴書に課外活動の実績がたくさん書いてあるということです。
NPO、NGO、ボランティア、留学、部活など、こういった活動の経験で履歴書の空欄を埋めることができると、AO入試では極めて強い武器になります。
「じゃあAO入試を受ける人は頑張って色々な活動に参加しているのか」
と言うと、確かにそういう方もいます。
独自のユニークな活動で評価されていたり、部活で大きな業績を残したり、プログラミングや電子工作などの自分の技能を活かした活動で履歴書を輝かせた方も、もちろん多いです。
しかし問題なのは、この「履歴書のキラキラ」がお金で買えてしまう構造を持っていることです。
例えば、有名なAO入試専門の予備校に通います。すると、そこでは面接対策や小論文の指導と平行して、「AO入試ウケ」のよいNPOやボランティアを紹介してくれたりするのです。
例えば2012年の慶應大学法学部のAO入試では、定員160名中64人が、ある有名なAO入試専門の予備校出身者に占められました。
1校舎しか有さない予備校が占める割合にしては、あまりにも高い占有率です。
カラクリを明かすと、この予備校は有名なNPOやボランティア団体と強いコネクションを有しており、自分たちの生徒をそういった団体に積極的に受け入れさせることが出来たというわけなのです。
結果、生徒は履歴書に箔がつく。それを大学側は評価する。
「推薦状」についても便宜が受けられることは言うまでもありません。
こういったことが常態化すると何が問題かというと、地方出身者や、こういった予備校に通うお金のない受験生や、こういう「裏情報」に通じていない受験生が入試で著しく不利になるということです。
「学力考査で見落とされがちな受験生の能力を発掘しよう」という試みが、単なる親の所得や自宅の立地条件でで左右されるというのは、最悪の状況と言っても良いと思います。
日本のAO入試は、単に機能していないばかりか、「弊害」すら持ち始めているのです。
【まとめ】
まとめます。
・アメリカのAO入試は「学力試験+人物考査」。日本は「人物考査」のみ
・日本の学部教育は早期から高度な内容を扱うので、基礎学力が欠如していると極めて厳しい
・出願者のほぼ全員が高校生の日本で「多様な個性」を選抜するのは無理がある。
・その「無理」が「AO入試ビジネス」のような歪な構造を産み始めている。
これらを見ると、「日本型AO入試」に制度的メリットはほとんど無いように思えます。
幸い、こういった弊害は徐々に周知されつつあり、各大学は自己推薦入試を廃止したり、AO入試の定員を縮小したりという動きを見せているようです。
AO入試が一概に悪いとは言えません。しかし、再受験や浪人が許容されにくい日本の受験生にとって、「試験」1回の意味は極めて重いものです。公平で適切な試験形式がしっかり広まることを願います。
幸い、こういった弊害は徐々に周知されつつあり、各大学は自己推薦入試を廃止したり、AO入試の定員を縮小したりという動きを見せているようです。
AO入試が一概に悪いとは言えません。しかし、再受験や浪人が許容されにくい日本の受験生にとって、「試験」1回の意味は極めて重いものです。公平で適切な試験形式がしっかり広まることを願います。