アングレーム国際漫画フェスティバル――世界中のバンド・デシネ(漫画)が集められ、近年では日本の作家も多く参加する漫画フェスは、どのように生まれ、発展していったのか。また、2014年1月には慰安婦漫画出展をめぐる騒動で注目されてしまったが、その経緯とはどのようなものだったのか。世界、アジアをめぐる漫画事情と、騒動の経緯について、アングレーム国際漫画フェスティバルプログラムディレクターのニコラ・フィネさんに、荻上チキがインタビューを行った。(通訳/鵜野孝紀、コーディネーター/原正人、構成/金子昂)
5月革命直後に変容したバンド・デシネ
荻上 今日は、アングレーム国際漫画フェスティバルのプログラムディレクター、アジア担当であるニコラ・フィネさんにお話を伺います。今回のインタビューにはふたつの狙いがあります。ひとつは、アングレーム国際漫画フェスティバルはどういったフェスティバルで、なぜ生まれたのかを読者に伝えること。たとえば、日本のアングレーム国際漫画フェスティバルに関するwikipediaでの記述が非常に偏っていて、しかもそれがネットにある数少ないソースになっています。
ニコラ アングレーム国際漫画フェスティバルに関するwikipediaのページが偏っているという印象は以前からありました。ただ、私たちはなにもできないんですよね。その代わりに、近いうちに日本語で書いたフェスの説明文をサイトにアップする予定です。
荻上 もちろんWikipediaはどの国でも偏っているとは思いますが(笑)、国際的に注目される漫画祭に関する情報が少ないのは残念です。もうひとつが、今年1月に話題にあった、慰安婦漫画出展をめぐる出来事についてです。今回の出来事がいかに起き、また長きにわたる文化交流の中でいかに不幸な出来事だったのか、考えていきたいと思います。ちなみに、ニコラさんがフェスそのもの関わりはじめたのは、いつごろからですか?
ニコラ アングレーム国際漫画フェスティバルと一緒に仕事したのは、1989年です。当時わたしは、「(ア・シュイーヴル)[*1]」というバンド・デシネ雑誌の編集部で仕事をしていました。この雑誌は、どちらかというと文学的な作品が中心のものでしたね。「アングレーム・ル・マガジン」というフェスを取りあげた雑誌[*2]も作ったこともあります。
[*1] (Àsuivre)。かつてカステルマン社が刊行していたバンド・デシネの月刊誌。タイトルはフランス語で(つづく)の意。1978年2月創刊1997年12月廃刊。『メタル・ユルラン』(MétalHurlant)と並んで、バンド・デシネの歴史上重要な雑誌。ストーリー面に重きを置いた文学的な作品群を連載していた。
[*2] 1989年1月に行われた第16回アングレーム国際漫画フェスティバルに合わせて作られた。
どっぷりとアングレーム国際漫画フェスティバルに関わったのは1999年が初めてです。スタッフとしていろいろな仕事をしてきましたが、いまはプログラムディレクターという立場で、アジア担当として、フェスのプログラムを作る仕事をしています。
荻上 では、アングレーム国際漫画フェスティバルが創設された経緯をお話ください。
ニコラ アングレーム国際漫画フェスティバルは、1974年に創設され、来年2015年1月で42回目の開催となります。ヨーロッパのバンド・デシネに関連するフェスでは最古のもののひとつですね。
このフェスは、バンド・デシネの歴史における転換期に生まれたものです。1960年代後半、民衆が政府に対して反抗の運動をした時期のすぐあとに、バンド・デシネは徐々に変容していくんですね。
荻上 「五月革命」の頃ですね。政治局面だけでなく文化的にも大きなムーブメントがありました。
ニコラ そうです。それまで、子供向けの娯楽漫画でしかなかったバンド・デシネは、5月革命に呼応するかたちで、だんだん大人の読み物として変質していくんです。フランスで、そして西ヨーロッパの他の地域で、非常におとなしいお行儀のいい作品ではなく、新しい作家、新しい出版社による、非常にラジカルな内容を含んだ新しい作品が生み出されていく。これは音楽や映画においても同様の動きがあったのだと思います。
そうした動きの中で、フランスの地方にある、本当に小さなバンド・デシネ好きなグループが市の助成を得た上で、初めてバンド・デシネフェスを開いた。これがアングレーム国際漫画フェスティバルの始まりです。それ以降、フランスでバンド・デシネが徐々に注目されるようになり、いまに至るというわけです。
荻上 ニコラさんも当時のことを覚えていらっしゃいますか?
ニコラ そうですね。少年時代の私も、いち読者として、新しいジャンルの作品がでてくることに興奮していました。
世界中のバンド・デシネを扱う
荻上 アングレーム国際漫画フェスティバルは、そもそもなにを目的として始まったのでしょう。
ニコラ 当初の野心としては、世界中のバンド・デシネを包括的に扱い、バンド・デシネというクリエイティブな活動に関するすべての行為を紹介し、その発展に寄与するというものでした。イタリアのウーゴ・プラット[*3]、アメリカのウィル・アイズナー[*4]、ベルギーのアンドレ・フランカン[*5]など、初期から世界中の作家を取りあげています。
[*3] Hugo Pratt(1927-1995)。イタリア人作家。アルゼンチン、フランスなど世界を股にかけて活躍。同名の船乗りを主人公にした作品『コルト・マルテーゼ』(Corto Maltese)でヨーロッパでは広く知られている。
[*4] Will Eisner(1917-2005)。アメリカ人作家。代表作『ザ・スピリット』(The Spirit)で広く知られるほか、『神との契約』(A Contract with God)でグラフィック・ノヴェルの確立に貢献したと評価される。コミックの理論家としても知られる。サンディエゴで毎年行われるコミコン・インターナショナルで授与されるアイズナー賞は彼の名前に由来する。
[*5] André Franquin(1924-1997)。ベルギー人作家。戦後バンド・デシネの重要な作家のひとり。主にユーモア・ギャグ系の作品で注目を浴びた。代表作に『スピルーとファンタジオ』(Spirou et Fantasio)、『ガストン』(Gaston)など。
創設から10年、ヨーロッパにおいて最も大きなバンド・デシネのフェスになりました。その知名度の高さや規模の大きさは、例えば1982年に手塚治虫氏がフェスに来場されていることを紹介すればお分かりいただけると思います。手塚氏はすでにフェスについて多少の知識をお持ちで、ほぼ自腹でお越しになったと聞いています。
荻上 日本の漫画が、特に深く関わるようになったのはいつ頃でしょうか?
ニコラ 1991年に日本の企画を立ち上げたことがありました。日本大使館の協力も得て、想像以上に多くのゲストを迎えられる、規模の大きな企画になるはずだったのですが、湾岸戦争の影響で海外渡航を控える関係者が続出してしまい、結局、谷口ジロー氏、寺沢武一氏、田中政志氏の3名の作家のみお越しになっています。
ここ10年は、大友克洋氏、平田弘史氏、池田理代子氏、松本零士氏、丸尾末広氏、武井宏之氏、しりあがり寿氏、幸村誠氏、カネコアツシ氏など、必ず日本の作家さんが参加して下さるようになりました[*4]。2007年には、水木しげる氏の『のんのんばあとオレ』が、日本の作品で初めて最優秀作品賞[*5]を受賞しています。【次ページへつづく】
[*4] 他にも以下のような展覧会も行われている(作者が渡仏していない場合もあり)。2008年にCLAMP展、2009年に水木しげる展、2010年にONE PIECE展。
[*5] 日本本人の主な受賞歴(『漫画・アニメの賞事典』日外アソシエーツ、2012年より)。
1999年、手塚治虫『ブッダ』8巻、スペシャルメンション
2001年、谷口ジロー『父の暦』、全仏キリスト教コミック審査員会賞
2003年、谷口ジロー『遥かな町へ』、最優秀シナリオ賞
2004年、浦沢直樹『20世紀少年』、最優秀シリーズ賞
2004年、中沢啓治『はだしのゲン』、ヒマワリ賞
2005年、夢枕獏+谷口ジロー『神々の山巓』、最優秀美術賞
2005年、辰巳ヨシヒロ、功労賞
2007年、水木しげる『のんのんばあとオレ』、最優秀作品賞
2009年、水木しげる『総員玉砕せよ』、遺産賞
2011年、浦沢直樹『プルート』、世代を超えた作品賞
2012年、森薫『乙嫁語り』、世代を超えた作品賞