「 人は どこからきて どこへ ゆくのか」は、フランスの画家ゴーギャン(1848-1903)が残した名言ですが、
同じような意味で中世の鴨長明は「方丈記」に書いています。 私の好きな本の一冊です。最初のさわり部分を少し記してみます。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある、人と栖と、又かくのごとし。 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき人の住ひは、世々を経て、尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋れば、昔しありし家は稀なり。或は去年焼けて今年つくれり。或は大家ほろびて小家となる。住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似りける。 不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主と栖と、無常を争ふさま、いはゞあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。 − 鴨長明(かものちょうめい)−1155〜1216
特にここでの後半部分の「不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。」より、「日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。」までに書かれた文面は、15世紀の蓮如上人(浄土真宗)によって広められた御文章「白骨の章」の文中にある−されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。−と書かれ、驚くほど共通していて、大変興味深く感じました。 およそ人間とはいつの時代も同じ悩み、同じ苦痛を味わっていたのだと言うことをあらためて感じさせてくれます。 人はどこからきて 何処へ 行くのか 風に吹かれて・・・
在日韓国人として日本に生まれ育った私は、いつの頃と意識するわけでなくそんなことを漠然と考えていたように思う。日本人ではない私が何故?日本にいるのか。いや、私は何故日本人に生まれなかったのかと思った方が先だったかも知れない。 自分は一体何者なのか?そう問い続ける中で、自分探しの旅がはじまったのかも知れません。 日本とは。韓国とは。民族とは。・・・ 一喜一憂のヒストリーの果てに気づいたことは、何処で生まれようが、何処で生きようがお釈迦様が言うごとく生とは、四苦(生老病死)であり逃れ得ないものだということでした。そうした意味では人類は平等と言えます。 しかしそれ以外の人類の不幸は、不毛な民族や、国家の優劣をいたずらに競い、暴力でこれを封じてしまうことです。人類の種は、元を正せば同根であり、中でも日本と韓国はもっとも近い親戚のようなものです。 日本の古代史に「今来人」という渡来人の呼び名が出てきますが、その伝で言うと私たち現在の在日達は、現代版 ”超今来人”と言えるかも知れませんね。 古代日本の草創期は韓国文化の影響なくして日本史は語れません。こんにち、よく言われる”日本古来の伝統文化”とは古代韓国三国(高句麗、新羅、百済)からの渡来人によってもたらされたものです。 このコーナーでは昨年11月講演に使用した「日本の中の韓国文化」の資料をさらに編集し、順次掲載して予定予定です。
序章 −人類の起源〜日本列島へ
人類の起源は、およそ500万年前と言われていますが、私たちにもっとも近い人類は、15万年前現代型のHomo Sapiens がアフリカから出たアフリカ人、ヨーロッパ人(クロマニヨン人)、東アジア人、オーストラリア先住民として世界へ進出していったといわれています。
環境は、ありとあらゆる生物、動物に影響を与えてるといわてれますが、人もまた例外ではなくアフリカから始まった人類の祖先は、黒色の人種として数十万年の歳月をかけて欧州では白色人種として、東アジアでは黄色人種として変容して行きます。勿論皮膚の色だけでなく生存の本能は自然環境に順応、適応を重ねながら文化を創造してきたのだと言えます。私たちが住む日本もアジアからのこうした人類の祖先が大陸や、半島を経由して日本列島に辿りついたと考えるのが自然だと思います。そうした意味でも日本は渡来人による渡来の文化、渡来人の国といえるのではないでしょうか。
それでは一体、どのくらいの人が渡来してきたのでしょうか。「縄文時代」を書いた小山修三氏によれば−弥生時代直前、つまり縄文時代(8000年)の終わりごろの日本列島の人口は推定約7万6千人で、千年後の7世紀の人口は、推定約540万人である。−とし、これをもとに年平均増加率を計算すると、0.4%を越えるそうです。
このころの世界各地の人口増加率は0.1%以下だったことを考えると、この0.4%というのは高すぎるということと、当時の日本列島の人口増加率を世界と同じ0.1%と考えると、約7万6千人が千年で約540万人になるためには、約300万人が日本列島の外から来ないと不可能という計算になるのだそうです。そして、7世紀の日本の人口の中で渡来系の人が占める割合は、縄文以来の人びとより圧倒的に多くなるという研究が出ています。
家畜生理科学者の田辺部雄一氏は、「犬から探る古代日本」の中で現在の日本犬といわれる犬は弥生時代に渡ってきた朝鮮半島からの犬と縄文人に飼育された犬が交雑されてできたとし、人と共に渡来したこと示唆しています。最近では韓国済州島いる珍島犬と秋田犬のDNAが一致していたことが判明しています。 また、自然人類学者の埴原和郎氏は「アイヌは原日本人か」「日本人誕生」などの著書で大陸系の人々の渡来は、すでに縄文末期からはじまり、まず北九州を中心に渡来集団が居住し、やがて山陽をへて近畿地方に達した。こうした弥生人の渡来集団が大和政権を樹立する過程で、これをさけて影響化を逃れた人々は南では沖縄、北は北海道のアイヌと呼ばれるようになったとしています。
それでは序文はこれくらいにして、そろそろ本文に入って行きましょう。 1.【古墳文化】
日本の草創期に重要な役割を果たした渡来文化を考えると、その中心にあるのは古墳や神社に見られるシャーマン信仰(呪術信仰)や仏教信仰に注目すべきものがあります。 これらの一連の信仰は、こうした思想に付随して社会生活を営む衣食住の文化をも同時にもたらすものでもありました。古代史の足跡は、そうしたことから古墳や神社・仏教などの成り立ちを検証して行くことで歴史の真実が明らかになるのだ考えます。
古代研究学者・上田正昭氏の研究によれば、この膨大な数の渡来人は、大きく4回にわたって日本にやってきたと考えられる述べています。
第一の波は弥生時代の前期、紀元前3世紀の頃、第二の波は4世紀から5世紀のはじめ。秦氏は第二の波の時に日本列島に渡ってきた。そして第三の波は5世紀の後半から6世紀のはじめ。第四の波が7世紀天智天皇の時代。百済が滅亡する663年です。
第一の波 紀元前3世紀から紀元3世紀にかけての人びとです。弥生文化(稲作や金属器)をたずさえて、日本列島に渡来。
第二の波 4世紀はじめから5世紀はじめにかけての人びと。朝鮮半島は高句麗・百済・新羅・加羅諸国に分立しており、日本列島はそれらとかかわりの深い王国が大和(奈良)・吉備(岡山)・出雲(島根)・筑紫(福岡)などにあったと考えられる時期にあたります。
第三の波 5世紀終わりから6世紀にかけての人びと。朝鮮半島では加羅諸国が新羅にほろぼされ、百済も高句麗や新羅に圧迫されます。日本列島では近畿地方の大和政権が強大になる時期です。かたい須恵噐(すえき)や機織り(はたおり)などの技術、それに仏教がこの時期に伝えられています。
第4の波 7世紀の人びと。朝鮮半島は新羅によって統一され、その前に百済と高句麗は滅びます。日本列島でも、壬申の乱ののち統一国家が成立します。高句麗・百済からの亡命者がとても多かったと考えられる時期です。
こうしてみると、日本に渡って来た渡来人は弥生文化をもった弥生人を始めとしてそのほとんどが韓半島(朝鮮半島)からの渡来人が中心となっています。そして古代の遺跡や古墳、文物から見えてくることは、村落共同体から国家形成にいたる過程を検証するには、古墳・神社や仏教の創建に注目すべきものがあります。そこでここでは、神社や仏教のことを中心に検証すると共に、日本に根ざす渡来文化についてお話しして行きたいと思います。
□古墳
韓国では前方後円墳を、楽器のチャングになぞらえ長鼓墳と呼んでいますが、この起源が韓国にあるという説を打ち出したのは、韓国・嶺南大学の姜仁求教授でした。姜教授は1983年に発見した慶尚南道の松鶴1号墳を4世紀のものであるとし、日本の研究者に大きな波紋を投じました。 それ以来、韓国では日本の興味を引く長鼓墳が次々に発見されました。特に1993年、韓国西南にある光州市の月桂洞1、2号長鼓墳は横穴式石室を有し、また盾形の周囲の堀から多数の円筒埴輪が出ました。 また、94年に同じ光州市の明花洞長鼓墳からは円筒埴輪の列が発見されました。埴輪列は10本が1列になって50cm間隔で出土しました。
これらの長鼓墳の年代はだいたい5世紀頃とされていますが、問題は昨年発見された、光州市南西にある万家村の古墳群です。ここから3世紀の瓦質土器が発見されました。もし、この長鼓墳が発見者の林教授の言うように土器と同じ年代の3世紀であるとすると、前方後円墳では日本最古(?)の箸墓古墳(290年頃)より古くなります。
林教授(全南大学)は「前方後円墳は3世紀に全羅南道の栄山江流域で誕生した。その後、古墳を造った集団が日本に移住したため、前方後円墳は日本で普及、発達したが、再び朝鮮の故郷に戻った子孫が、栄山江流域に新たな前方後円墳を造ったのではないか」との解釈を公表しました。
これに対し、日本の学者の意見は慎重です。次に現地調査をした学者の意見を紹介します。 大塚教授、「朝鮮半島に古い前方後円墳があってもおかしくないが、本当に前方後円形かどうか。墳丘を全面的にきちんと調査してみないと判断できない」「将来、3世紀の前方後円墳が確認されるかも知れないが、その時まで日韓前方後円墳起源論はともに資料を蒐集する努力を傾けるべきである」
西谷正九州大学教授、「土器は相当古い形式であることは間違いなく、3世紀代の古墳と見てよいのではないか。ただし墳丘は部分的な発掘なので、若干の疑問が残る。早急に全面的な調査をする必要がある」
高句麗式古墳
前方後円墳については、以前NHKのテレビで北朝鮮にその原型と言えるような墓が発見されたという番組を見たことがあります。その時には、江上波夫氏が現場を見られて、騎馬民族征服説の論拠とされていたように思います。
江上さんを団長とする「高句麗会」のメンバーおよびNHKが北朝鮮を調査したのは1992年10月のことです。場所は、中朝国境を流れる鴨緑江河岸にある慈江道・雲坪里(ウンピョンリ)古墳群ですが、この時の報告がNHK出版から「騎馬民族の道はるか」と題して昨年出版されました。 この本の著者の森浩一氏(同志社大教授)によると、ここは古墳群というより郡集墳というべきであるそうですが、古墳の数は200以上にものぼり積石塚の博物館と呼ぶにふさわしいそうです。時代的には紀元前後から6、7世紀ころまで約700年間にわたって継続して古墳が築かれたようです。
問題の前方後円墳ですが、韓国の前方後円墳については一時懐疑的であった森教授も、ここは間違いないと太鼓判を押していました。しかし日本との関連については、これらが日本の前方後円墳の遠い源流になっているかどうか即断できないと慎重でした。
調査団は前方後円墳の確認以外に思わぬ発見をしました。四隅突出形に似た古墳を同地で見つけました。四隅突出形古墳は日本では出雲世界(周辺を含む)に特有ですが、こうした古墳の意義と今回の発見との関連について森教授は次のように書いています。
(日本において)四隅突出形古墳の発見が戦後、重要な意味をもったのは、大和に古墳が造られる以前、つまり弥生時代に、前方後円墳とまったく違うかたちの古墳が存在していたことがわかったからなのである。つまり、少なくとも古墳について、大和朝廷の勢力の進展に伴って日本列島の各地に古墳が造営されるようになったという、それまでの定説的な考え方の図式が、四隅突出形の出現によって崩れたのである。そして、今回の雲坪里でみたように、日本海沿海地域に限られていた四隅突出形古墳に類似する古墳が鴨緑江のほとりにもあったことで、より問題がふくらんだのである。しかも雲坪里には、前方後円形と四隅突出形という、日本の古墳につながる二つの大きな要素が共存している。
今まで起源が謎とされた四隅突出形古墳もどうやら今回の調査で光が見えてきたようです。水野裕氏によれば、出雲はその後も高句麗などの騎馬文化を取り入れ発展し、国際感覚を身につけた先進地域として古代史に重要な役割を果たとしています。 たとえば、藤ノ木古墳から出土して脚光を浴びた金銅製の冠なども出雲、越の国の豪族が最初に身につけたのが始まりで、大和ではそれより7、80年遅れてみられるようになりました。それも、越の国から出た継体王朝の一天皇、崇峻の時代であるとしています。この冠ひとつをとっても出雲世界の先進性は明らかであるようです。 なお、こうした冠は外国の使節が来たときなどに正装としてかぶるものですが、これはいうまでもなく朝鮮半島伝来の文化です。
2.【神社・神宮】
神=カミについて 檀君神話に出てくる熊のことを韓国語では「コム」といいますがこれが訛って日本の神様の「カム」となる。「カム」は神さまの「カミ」です。 神の依り代の樹木を韓国語で「カムナム(神ノ木)」といいますが神奈備(カンナビ)と呼ばれる神社語はここからきていると言われています。その神社の原形が熊神籬(ひもろぎ)であると言われています。 アイヌ言語でカムイは神。アイヌ文化の中にも朝鮮半島からの言語が外にも混じっていると言われています。
カンナビ=奈良県大和三輪神社には本殿がなく、神社の裏にある三輪山が神体になっていてこれを神奈備(カムナビ)といいます。カムナム(神の木) 「神社その起源について」 谷川健一
《韓国の神話壇君神話》
桓因(ハンイン)の子、桓雄(ハンウン)が3000人の部下を連れて天符印などの宝器を持って壇の木の下に降りてくるとそこに熊と虎がいて、二匹とも人間になりたいと桓雄に願います。そこで桓雄は熊と虎にヨモギトとにんにくを与えて、百日間、日光に当たらず蟄居すれば、人間に生まれ変われるだろうと言いわたしました。しかし虎のほうは我慢できず途中で逃げ出すのですが、熊は百日間がんばって、美女として生まれ変わります。やがて桓雄はその美女と結婚、その後の二人の間に生まれたのが壇君王検で、壇君朝鮮すなわち朝鮮の国を最初に建てた王様であったという神話です。
古代日本では高句麗のことを高麗(こま)と言い、やがてそれは朝鮮全体をさす名称となりました。
神社に行くとたいていコマ犬がいますが「狛犬」だとか「高麗犬」と書かれています。 もともとコマのもとはクマで韓国にある壇君神話に由来するのではないかと思われます。 熊は聖なるものとして崇められのはここから出ています。 今年世界遺産に登録された熊野古道の地に熊野神社がありますが有名なところでは伊勢の奥の三重県にある熊野ですがこの熊野の野は「ヌ」とも読むのだそうです。 「日本地名学研究」を著した中島利一郎氏によると古代日本では野は国土という意味を持ったと言うことですが、そうすると熊野を韓国に訳すとコムナラ、カム、神の地、神の国ということになります。 熊、駒、巨摩と名のつく神社や地名は全国に分散していますが、これらもほとんどすべては高句麗(高麗)文化の影響であったといえます。この高句麗の文化に新羅、百済からの渡来人たちによりもたらされた文化が混合りあって飛鳥、奈良時代を形成していったのだと思われます。
☆神社・神宮の起源はどこから来たか
韓国の古史、三国史記によると紀元6年春正月に新羅二代目の南解王(ナムヘオウ)によって祖神廟が祭られたとある。三国史記1.P10 その後新羅二十一代?知王(しょうちおう)のとき西暦487春2月、神宮を奈乙(なおつ)〔慶州市塔里=始祖赫居世生誕地〕においた。とある(?は火=召を合成)
−三国史記1.P82より 金富軾著 井上秀雄・鄭早苗訳 東洋文庫 平凡社−
いまある神宮の元は祖神廟であることがこれによりうかがえるわけであるが、そうすると来年2006年は神社・神宮創建二千年という節目の年ということになるわけである。 本来であれば、節目の年を控えて大々的な記念行事が発表がされても良いようにも思われるがいまのところそうした動きはなく、これからも起きそうな気配は全くない。 日本古来の伝統文化を自称している手前まあ、無理もないと思うが。
さて、その世界初の神宮に祭られた新羅初代国王、赫居世(ヒョク・コセ)であるが実はヒョクは名前でコセは日本では「様」にあたる尊称だといわれています。それが日本では神社の社が「コソ」となり コセ→コソ(神社)と次第に転訛し 神社→社(やしろ)とも読まれています。つまり、神社とは神様と呼んでいることになるわけです。 伊勢には小社(オコソ)神社社をコソと呼ぶ名前に村社(ムラコソ)大社(オオコソ)がある。新羅に由来する呼び名が神社にも及んでいることを証明しています。 −三重県津市史− −江戸学者 判信友−
その新羅では仏教が入ってくると神宮なる形は消滅していきます。韓国では、新興勢力の台頭と共にそれまでの体制を否定してしまいます。仏教文化もやがて儒教に取って変わります。それが日本においては各地に拡散、やがては精神的支柱としたモリ(韓国語で頭)となり鎮守の森(杜)ともなり、営々と今日に受け継がれて来ました。 神輿をかつぐ時のかけ声「ワッショイ」は韓国語のワッソの転訛とは今では一般的に知られるところです。受容した文化を文物ともに受け継いでいくのは日本の特徴といえるでしょう。
□伊勢神宮
伊勢神宮は壬申の乱(672年)以後、天武天皇の時代に成立。 伊勢神宮=内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)併合されている。
■豊受(とよけ)大神宮はもとは丹波(京都府)にあったものが、天照大神が時の雄略天皇の頼み移されたと言われている。
丹波は早くから稲作が開けていて政治力はないが宗教的才能を持つ出石(いずし)族(朝鮮からの帰化した部族)がいて、そこへあとから来た天孫族が出石族よりさらに先住部族である出雲族を従えるため出石族を利用した。 そうした意味から伊勢神宮とは出雲を制した記念碑的存在であるといわれている。
その伊勢神宮とはいったいどこからつけられたものなのか? 伊勢神宮=伊蘇の宮 内宮の祭神、天照大神の別名はオオヒルメムチといい、ムチとは巫女の称号で司祭の女性でした。その巫女「神妻」の司祭がのちに天照大神となり信仰の対象となったと言われいる。天照大神はさらに別の名があり、瀬織津比�(せおりつひめ)といった。 瀬織津比�は「都つ媛(ソウルつひめ)」「京つ媛(セオルつひめ)」の義であって、日本語「添(ソホリ)」も「都」の義であり、天照大神自身は新羅の首都にいたことが、「日本書記」の仲哀天皇紀、神功皇后紀に明記されている。 伊勢神宮=祭神は天照大神(海照大神)で新羅のソウル(都)にいた。 −中島利一郎 日本地名学研究より−
伊勢のイ、阿蘇のアは発語、接頭語であってこれ自体に意味はない。 イセのセ、アソのソ、などのセやソの持つ意味が重要である。 九州にあった伊都国のイトと伊勢のイセとは同じ名称であった。つまりソ族の移動であったと言える。
伊勢国は伊蘇国ともいい、其処に奉祀する神宮もまた伊蘇ノ宮であった。磯の宮、五十鈴川というのも、もとは伊勢と同一原から出たものであると考えられる。 徐羅伐・徐那伐・徐耶伐・徐伐=斯羅・新羅、これらはみな同義語であって、もとはみな徐羅伐、「ソの国のフル」。ソの羅・那・耶とはソの国または国土という意味で、フルは都京という。国としての原号はソ。 このソが日本に入ってそれぞれ接頭語をもった阿蘇・伊蘇・伊勢・宇佐・余佐・伊都などの呼び名で各地に点在していった。 −「京都」金沢庄三郎 著−
■伊勢と新羅との関係 伊勢神宮が神祠から神宮の称号を付するようになった転訛の契機は、六世紀後半における新羅との関係にあって、新羅の祭祀制の影響によるものではなかったかと考えられ、神宮の称号の起源は新羅の神宮に由来したものではないだろうかと思うのは先に書いたとおりである。すなわち、新羅の祭祀制において、始祖廟から神宮に移行することによって、穀霊信仰から日神として神格化された始祖霊に対する信仰を王権の中に位置づけ、その強化をはかったように、伊勢神祠に神宮の称号を付することによって、皇室の始祖霊としての日神をまつる社としての地位を高め。王権に基づく宗教的支配の強化をはかり、併せて日神を皇祖神とする意識とそれに対する信仰とを生じさせたと考えられるからだ。
前川明久『伊勢神宮と朝鮮古代諸国家の祭祀制』副題「神宮の称号をめぐって」より抜粋
■イカルガ(鵤・斑鳩・伊賀留我) カルは韓泊のカラからきているのではないかと言われている。 −松本清張氏−
伊豆 一の宮の三島(嶋)
三島明神を信仰する瀬戸内の集団 是沢恭二氏の「韓神について」より 韓神の神楽歌は「三島と朝鮮」 三島とは御島とも書かれ朝鮮を意味する。 「韓招ぎ」とあるは韓の技芸〜韓風の伝来した芸能
■神社の数
神社本庁(東京都渋谷区)によると全国の登録数では79,090社あり全国の95%この内神職にある人は約4万人で一人平均2社を受け持ち中には6〜7社受け持っていると言われている。 これに神社本庁に登録されていないえびす神社は3,000社伏見稲荷などを含めると85,000社だと言われている。これで12万社以上その他住吉神社、諏訪神社、八幡神社などの摂社・末社を加えると30万社以上の神社があると推定される。 さらに村里の祠も神社として据えると100万社を超える。
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