上杉隆連続インタビュー
だから若者は新聞を読まなくなった
上杉隆(ジャーナリスト・(株)NO BORDER代表取締役)
「ダサい」「縦書きって面倒」「読みたい記事がない」……。朝日問題の前から新聞は瀕死状態だった
約五年ぶりに山手線に乗った。車内にはモニターが設置され、せわしなく広告を流している。それに負けじと、雑誌の中吊り広告は変わらない位置に陣取り、大見出しとともにスキャンダル記事を伝えている。
だが、そうしたモニターや中吊りを見る者はそう多くない。大半の乗客は手元のスマートフォンでSNSやゲームに興じたり、メールやニュースをチェックしたりしている。
約三十年前の高校時代、通学で使っていた山手線にかつての雰囲気はない。そういえば、一車両に何人かは手にしていたあの“脇役”の姿もないではないか。
新聞のある風景が少なくなった。映画でもテレビドラマでも小説でも、新聞が大事なシーンに登場して、名脇役として活躍する時代ではなくなってしまったようだ。
特に、若者が新聞を持つ姿をみることは皆無だ。持つだけではなく、新聞を購読している者が激減しているようだ。
今年四月の総務省統計によれば、平日に新聞を読んだ人の割合は、二十代で九・二%、十代では三・六%まで下がっている。替わって台頭しているのがネットだ。同統計によれば、二十代で九〇・六%、十代でも七八・八%の若者がネットから情報を得ていると回答している。
しかし、新聞の退潮はネットの進出だけが原因ではないだろう。
戦後、官僚システムによる保護政策と日本語という障壁、さらには再販制度や宅配制度、記者クラブ制度に守られ、長らく新聞業界は特権的な地位に安住してきた。さらに、二十世紀末、海外の新聞がネットの台頭を予見して、自ら変化することに挑戦し続けている間も、日本の新聞は変化を拒否し、自己改革に踏み出すことを怠ってきたのだ。
こう振り返ると、現在の新聞の断末魔は自業自得の顕れではないかとも疑いたくなる。新聞の値上げをする一方で政府には軽減税率を求め、各紙の東京本社の大半は国有地払い下げというような特権にあぐらをかきながらも、そこに違和感を持たない新聞に、同情が集まらないのも当然といえば当然だろう。
だが、そうした奢りがあろうとも、やはり新聞は消してはならない言論の光のひとつといえる。
記者クラブ問題などを批判しているためか新聞業界と一部の新聞記者から蛇蝎のごとく嫌われている筆者だが、それでも六紙を購読し、新聞を読み続けているのは、かつて新聞で働いた同業者だという理由からだけではない。新聞が若者の手元にある社会の方が、そうでない社会よりもずっと健全で豊かであると、短くはあるが三年間という取材記者生活で確信しているからである。
果たして、本当に日本の新聞は若者から見捨てられたのか。新聞世代とネット世代のはざまにある三十代から四十代前半の各分野の若手に、ずばり新聞について聞いてみた。