魔獣の森のメデューサ その5
そう――このままでは、俺は……ショタコン(ホモ)の世界に目覚めてしまう。
自分の中で、危険な感情が芽生えているのを察知した勇気は、首を左右に振った。
――俺はファンタジーの女で美形ならなんでも有りだが……流石にそれは不味い。
「ねえ、お兄ちゃん……? 続きを……」
「だが断るっ!」
アナスタシアは半泣きになった。
彼女は――この半年間誰とも喋っていない。
例え、相手が恐ろしい人間だとしても、どうしても人恋しさには抗えないのだ。
「俺はもう、この屋敷から退散する」
「え……もう帰っちゃうの?」
「ここにいると頭がどうにかなっちまいそうだ」
「そっか……でも、もうボクにお仕置きするつもりは無いんだよね?」
「お仕置きとか……そんな気分じゃない」
そこでアナスタシアは安堵と共に、急激に寂しさに満たされていく。
殺される危険は無くなったらしい、そうであれば……本当に、もっともっと誰かとお喋りがしたいのだ。
と、そこでアナスタシアは気が付いた。
「ねえ、お兄ちゃん……もう……夜だよ?」
確かに窓から外を見てみると、夕陽が西に沈んでいっているところだった。
異世界に飛ばされてからの勇気の経験上、魔物は夜に活動を活発化させる。
魔獣の森と呼ばれるこの場所で、野宿は非常によろしくない。
――何しろ、HPは1なのだから。
「ねえ、お兄ちゃん……お願いだから泊まっていってよ」
真珠の涙を浮かべ、こちらを見上げるような恰好で懇願するアナスタシア。
ポロリと大粒の雫が頬を一滴流れ落ちる。
勇気はゴクリと生唾を呑んだ。
――うわぁ……本当に可愛い。
「分かった……泊まる……」
つい、勢いでそう言ってしまった。
「やったっ!」
急に無垢な笑顔を浮かべるアナスタシアを勇気は手で制した。
「この家には……屋上はあるのか?」
「うん、あるけど?」
「俺はそこで寝る。そして今から屋上に向かう。そして夜明けと共にここから去る」
「えっ……何で……?」
相手は性欲旺盛なド変態だ。
夜中に迫られるのは想像に難くない。その状態で、同じ部屋で一晩とか言われると……自分を抑制する自信が無い。
「とにかく、俺はお前とは一緒に寝る事は出来ない」
「お願いだよ、ボクと……ボクと……もっと……」
『お喋りしてっ!』と言いかけたところで勇気は口をはさんだ。
「俺がここを去る前に、とっておきのプレゼントをあげるから……お願いだから、俺を誘惑しないでくれ……」
相手は子供だ。
プレゼントがあるとか適当な事を言っていれば、喜んで騙されるだろう。
「……分かったよ」
プクリとふくれっ面を作ったアナスタシアだったが、彼女はプレゼントがどうのとかいう言葉には期待はしていない。
目の前の男は、自分を遠ざけようとしている。
その事を何となしに察したので、彼女は勇気の迷惑にならないように引き下がったのだ。
「それじゃあ、俺は屋上で寝るからな」
「うん……」
出入り口に向かい、勇気は背中でアナスタシアに語り掛けた。
「それと……あの事なんだが……本当に……今後は注意した方がいい」
「……」
――俺も猫が好きだ。
その気持ちは本当だ。
だから、勇気は彼女が猫と接すること自体は責めてはいない。
要は、やり方の問題なのだ。
けれど、アナスタシアは増えた猫の処理の仕方が分からずに、どうしていいか分からずに家の外に追いやった。
せっかく懐いたのに、結界まで張って……屋敷の中に入りたがる猫の気持ちを拒否した。
アナスタシアを――愛していたであろう猫の気持ちも踏みにじり、ただ、手に負えなくなったからと……外に放り出した。
そこが一番気に食わない。
――だから勇気は……本当に怒っていたのだ。
「まあ、飯も食べてないってのも本当だろうし、お前が反省しているのも本当なんだろうけどさ」
言葉通り、アナスタシアは病的なまでに痩せていたし……というよりはやつれて見えた。
元が綺麗なだけに、可憐には見えるのだが……やはり、それは今にも壊れそうな美としか表現できない。
陰陽で言えば、どうしても陰の部類に入る表現となってしまう。
勇気の諭すような口調に、面くらいながらも、アナスタシアは応じた。
「……うん」
「多分、お前が全てを投げ出して、ただ……自分を責める事しかできなかったのは……知恵が足りないからなんだと俺は思う。やり方は本当にいくらでもあるんだよ」
「……やり方? どうすれば?」
「俺はこれ以上、お前と関わり合いになる気は無い。それに、それはお前が考える事だ。でも……投げ出す以外の道もあるはずだ」
「……投げ出す以外の……道?」
「そう、お前が遠ざけた色んな物。お前が本当は欲しかったもの……共存の道もあるはずだ。それはお前の心と、ほんの少しの知恵と工夫で……どうとでもなる問題のはずだ」
「……共存……?」
「それじゃあな。もう会う事も無いだろう。言うまでもないことだが……夜中に屋上に入ってきたら張り倒すぞ?」
ドアノブに手を置いて、最後の言葉を勇気は紡いだ。
「プレゼントは用意しているから……だから、本当に夜中に屋上には来るなよ?」
廊下を歩きながら勇気は思う。
プレゼントなんて何も用意していないけど……まあ、ああいう風に言っておけばプレゼント欲しさに夜這いは自粛するだろうと。
翌朝。
魔女の洋館の屋上、そこは平屋根となっているような場所だった。
そもそもから、屋上で何か作業を行うという事は想定外となっているのだろう。特に落下防止フェンスのようなものは無い。
東から太陽が昇り、一面が朝焼けに包まれている。
風の強い日だった。寝ぼけ眼の勇気のマントが激しくたなびいている。
「よし……朝か……リンダール皇国に向けて出発しないとな」
と、そこで勇気は激しい尿意を感じた。
「なんで朝って絶対にションベンしたくなるんだろうな」
屋上の端へと向かう。
昨日から思っていたが、中途半端に石化したトランクスの履き心地は非常に悪い。
けれど、一張羅だ。一応、衣類としては機能する以上、捨てるわけにもいかない。何しろ……捨ててしまえば全裸マントだ。
そして屋上の端に辿り着いた、勇気の眼下には庭の花壇が広がっている。
「酷いな……全然手入れが出来ていないじゃねーか」
雑草が生え放題で、花々は朽ち果てている。勇気はその中でポツンと置かれている石像を見つけた。
「なんであんな所に石像が……? オブジェにしちゃあ……ちょっとアレだし……」
まあ、いっかと呟き、トランクスをずらした。
そして、イチモツを掴んで放尿を始める。
風に乗り――微かな飛沫が広範囲に広がっていく。
――昨日、勇気がアナスタシアの視線を受けても石化しなかったのには理由がある。
正確には、勇気は石化していた。
けれど、石化と同時に……体細胞が異常な治癒を行っていたのだ。
それは、那由多のHP(生命力)が産み出した現象だ。
そして、那由多の生命力を持つ肉体が作り出した尿もまた――生命の源泉であり、特殊な力を持っている。
更に――アナスタシアの素直で健気な思い。
――少年の石化を解いて、もう一度、少年と会いたいと言う思い。
石化と言う現象は、術者の思いが全く反映されないという訳ではない。ただ、術者の解呪の力を、石化の力が大幅に上回っているというだけの話。
風に乗り、一面に飛び散る生命の水――そして、アナスタシアの思い。
その二つが複雑に絡まり合い、魔術的に、あるいは科学的に複合変化を起こしていく。
――奇跡が起きた。
野鳥が今朝はやけに騒がしい。
目を覚まし、起き上がったアナスタシアはテラスに向かい、外の花畑の様子を眺める。
――絶句した。
枯れ果てた花々が息を吹き返している。
桜、紫陽花、向日葵、マーガレット、アネモネ……。
色とりどりの花々どころではない、その色の数は数十色、あるいは数百色。
四季の感覚を完全に無視し、本来は――同時期に咲くことの無い花々が共演し、見事な景色を作り上げていた。
そして――虹。
朝の陽光が、何かの飛沫によって光を捻じ曲げられ、虹の橋が中空に架かっている。
この世のものとは思えない程の美しい光景だったが――アナスタシアはそのことについては、心ここにあらずだ。
彼女はその場で崩れ落ち、涙を流していた。
溢れ出る涙に任せるままに、満面の笑みで涙を流していた。
涙でボヤけた視線の先では――灰色だったはずの少年の肌が、そのままの意味で肌色に戻っている。
半年間、立ったままの姿勢だった彼が――今は意識を失っているけれど――地面に横向けになって倒れている。
石化が――解けていた。
――なんで、なんで……?
その時、アナスタシアは勇気の言葉を思い出した。
『プレゼントを用意している』
そう、彼は確かにそう言っていた。
そこで彼女は、この近辺に伝わる古い伝承を思い出した。
寿命の短い人間族では口伝の影響が強く、元々の文言は捻じ曲げられてしまったが――本来は次のような一文だ。
――その者、覇王の衣を纏いて魔獣の森に降り立つべし。
――金色の聖水を大地に振りまき、失われし少年と少女の絆を取り戻すだろう。
――人と魔を繋ぐ虹の架け橋を築き――ついには幼きメデューサの閉ざされし心を導かん。
彼が何者かは分からない。
けれど……自分には彼の力は想像すらつかない。
魔王と匹敵する、あるいはそれ以上の圧倒的規格外――石化も彼には通用しなかったことから……彼にはこのような芸当も出来るのだろう。
昨日、彼がずっと言っていた言葉を思い出す。
『もっとやりようはあっただろう? 何故、お前はやるべきこともやらずに、引きこもる道を選んだんだ?』
『お前が遠ざけた色んな物。本当はお前が欲しかったもの……共存の道もあるはずだ。それはお前の心と、ほんの少しの知恵と工夫で……どうとでもなる問題のはずだ』
――ああ、そういう事だったんだ。
あの人は、最初からボクに……全てを失ったボクに……もう一度やりなおすチャンスを与えてくれるつもりだったんだ。
だから彼は、あんなにも怒り、次は失敗するなという言葉を言い続けてくれたんだ。
そして、彼はこうも言っていた。
『朝方、俺はこの屋敷を去る』と。
アナスタシアは急いで玄関へと駆け出した。裸足が、大理石の廊下を打ち鳴らす音が響く。
彼が伝承の勇者かどうかは自分には分からない。
何者なのかなんて……どうでも良い。
でも……とアナスタシアは思う。
――お礼も言わないうちに……このまま帰らせるなんて、絶対に嫌だっ!
思いを加速に変えて、彼女は玄関を突き抜ける。
屋敷の門へと差し掛かった時、黒いマントの後姿が見えた。
見ると、勇気はしゃがみ込んで猫たちと戯れている様だ。
「お前か……」
「お、お、お兄ちゃんっ!」
「で……こいつらはどうするんだ?」
勇気の言葉と共に、猫たちはアナスタシアに駆け寄り、その頭を膝先にこすりつけてくる。
「……ボクはこれから……屋敷でこの子たちと一緒に……住むよ」
「うん、それで良い。なんだかんだで……根は素直なガキじゃないか」
良し……と勇気は深くうなずいた。
全てをやり遂げたかのような満足げな笑みを浮かべる。
「それじゃあな」
そのまま彼が歩を進めようとしたところで、アナスタシアは叫んだ。
「待って……待ってよっ!」
――トクン、トクン。
胸の鼓動が高鳴る。
なんだか、良く分からない力に脳が汚染されていくような感覚を覚える。
それがハーレム属性の影響であるとは、彼女の知る由でもないが――ともかく。
アナスタシアの胸の高鳴りは止まらない。
「ありがとう……本当にありがとう、お兄ちゃん」
「いや、俺は別に礼を言われるような事は……」
桜色に脳が汚染されていく。
生ぬるいような、くすぐったいような――頭がクラクラする。
脳裏に、盲目の少年の横顔がちらりと浮かび――胸がチクリと痛んだ。
けれど、得体の知れない追い風に乗せられた彼女の胸の鼓動は止まらない。
あのね……と、頬を朱色に染めたアナスタシアは言った。
「ボクは……お兄ちゃんの事……」
すっと、掌を勇気はアナスタシアの眼前に差し出した。
「それ以上は言うな、それを言ったら……もう止まらなくなる」
アナスタシアは思う。
思えば、彼は最初から全てを知っていた。
そして、最初からこうする予定でここに現れたのだろう。
全ては伝承の勇者をなぞるが如くに――彼は全てを知っていた。恐らくは、今現在自分の胸にうずまいた、淡い恋心も含めて。
「迷惑……かな?」
「そういう問題じゃあない。それはいけない事なんだ」
勇気は思う。
これで本当に……女だったらと。
そしてそれは本当にいけない事なのだ。それ以上先の言葉を言われてしまえば――本当に、何かに目覚めてしまうではないかと。
「そっか……そうだよね……」
彼は、自分の恋心に気付いたうえで、『それはいけない事』だと言っている。
石像だった少年と、アナスタシアの関係を知ったうえで、『それはいけない事』なんだと……優しく諭してくれているのだ。
そこで、アナスタシアは自らの頭を包んでいた――何らかのモヤが急速に飛散したような感覚を感じた。
ハーレム属性に――彼女は打ち勝ったのだ。
「――ボク……どうかしてたよ。これからは心を入れ替えるよ。それはやっぱりいけないことだよね」
「うん、最後の最後で本当に素直で良い子になったな。俺は嬉しいよ」
「後さ……お兄ちゃん? ボクには大切なモノは他にもいっぱいあるけど……」
それでも……と彼女は続けた。
「好きとかそういう意味とは少し違うけど……恩人……憧れのお兄さんって言う意味で……お兄ちゃんはボクの特別な人になっちゃったんだ」
「……?」
「だから……ね? これをボクだと思って……持っていてくれれば嬉しいな」
彼女は覆面を脱ぐと、勇気に差し出した。
この覆面は、周囲の全てを拒絶する彼女の固い意志だった。
そして、勇気は言ってくれた。
『お前が遠ざけた色んな物。本当はお前が欲しかったもの……共存の道もあるはずだ。それはお前の心と、ほんの少しの知恵と工夫で……どうとでもなる問題のはずだ』
そう言ってくれたのだ。
これから、自分は人間、あるいは魔族と関わりを持つ道を歩んでいくだろう。
それが勇気が自分に教えてくれたことであり、本来の彼女がやりたかった事――他者との関わりを持ちたいと言う強い気持ちなのだから。
「お兄ちゃん? この覆面を持っていってほしい。この覆面を脱がしてくれたのは……お兄ちゃん……だから」
「ああ、もらっておくよ」
……なんで覆面なんだよ。サッパリ訳が分からない。
まあ……装備的な意味では……無いよりはマシかと思い、勇気は受け取って置くことにした
「ねえ、お兄ちゃん? 最後に……名前だけでも、ボクに教えてくれないかな?」
晴れやかな笑みと共に、勇気は言った。
「俺は通りすがりの――はぐれメ〇ルさ」
それだけ言うと、彼は覆面を被る。
そして後ろ手を振りながら勇気はその場から去って行った。
「ありがとう。本当にありがとう――バイバイ……お兄ちゃん」
いつまでも、いつまでも勇気の背中を見守りながら、アナスタシアは手を振っていた。
次回、メデューサ編エピローグです。
アナスタシアと盲目の少年のその後を、ちょっとだけ描きます。
彼が登場しないので、綺麗な終わり方になるはず……。
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