通訳:小坂史子 監督:・・・(略)・・・こういう状況を目の当たりにしたときに、この場所に中国の社会の緊迫した状況が集約されている、そんなイメージを受けました。地域社会の変化もそうです。それが映画を撮るきっかけになったことは間違いないと思います。また同時に、地元の人たちの主体的に前向きに生きるその姿、生きることに積極的な彼らのエネルギーにも僕は強く惹かれました。かといって、私がこの映画で一番撮りたかったのは、社会的な出来事がどのように個人に影響を及ぼすかという問題でなく、むしろもっと個人の自我の問題なんです。人は、様々な現実に向き合いますが、個人個人で生きていく人間が、自分の現実にどう向き合っていくか。そういうときにどんな行動をして、またどんな選択をするんだろう。そこで自由を得るのかどうか。その主体的な姿です。ですから『長江哀歌(エレジー)』の男女の主人公ともに、そうやって自分の個々の問題へと向き合って行きます。そんな視点でこの作品を観ていただければ、この映画は確かに中国の出来事を撮った作品ですけれど、中国に限らず、日本のみなさんがご覧になっても共感を持ってもらえるんじゃないか、と思っています。 質問:古都・奉節を最初に訪れた時に、「生の目映さ」を感じたといいますが、その強烈な生のエネルギーを映画として撮影するのに大切にしたことを、映像と音の二つの面で教えてください。 監督:今の答えにふさわしいかは分かりませんが、まず、奉節の町に行ったときに「生の目映さ」を感じた印象についてお話したいと思います。一つはですね、奉節の町に初めて、船で着いたときに、降りたとたんにまず出会ったのが、13歳か14歳ぐらいの少年でした。彼は客引きでしたので、最初に聞いてきたのは、「泊るとこある?」。要するに、僕が旅館を手配しましょう、紹介しましょうという話でした。すると今度は「食事はどうですか?」。「いや、もう食事する場所も決まっているから」と答えると、次には「じゃあ車は?」。僕がそのときびっくりしたのは、たった13歳くらいの少年が仕事をする術を知っていて客引きをしているという、その状況でした。その子は、そうやってずっと僕らについてきたんですが、その子がこの映画のなかで、歌を歌っている少年です。それは本当に、生活に対する意欲というか積極的に生きているのをみた最初の印象深い出会いでした。もうひとつは、奉節ではすでにダムのプロジェクトが始まっていたので、あちこちに取り壊しの現場がありますよね。解体工事をしている現場で、実際に解体工事に従事する、上半身裸の労働者の人達を最初に見たとき、強い日射しが照りつけるなかで彼らが裸で仕事をしているのを見たときに、人間自身の個体の肉体美というものにも非常に感動したんです。 質問(*1):監督の前作『世界』にしても今回の『長江哀歌(エレジー)』にしても、とっても素敵だなと思う映像が何度も出て来るんです。人物の心理描写にしろ、遊園地にしろ、今回の三峡の自然にしても。これは撮影監督のユー・リクウアイとのコラボレーションだと思うんですが、例えばどういうふうなやりとりがあるんですか、映像をフィルムに焼きつけるうえで。例えば『長江哀歌(エレジー)』のラストシーンのあの綱渡り。あれよく中国のお祭りで千メートルくらい綱渡りするものだと思うんですが、それを例にとってちょっとコラボレーションの秘密をお聞かせいただければと思います。 監督:それぞれの映画を撮る前に、僕はまず今回の映画のビジュアルはどんなところが新しい試みだろうかということを考えます。それぞれの映画のストーリーが違うように、それぞれ違う空間、違う場所で撮っていますから、同じように絵を撮っていくということは有り得ないからです。だからまず一番最初に非常に自覚的に絵作りを考えます。 質問(*2):映画の中で、マンゴーのパッケージの煙草、16年前には流行っていたという煙草ですね、それが印象に残ったのと、マークが配っていたウサギ印の飴、ああいったものは中国の庶民の人たちから見ると、とても大事なものなんでしょうか。 監督:今おっしゃった二つのものを含め、字幕画面で「煙草・酒・茶・飴」4つのものを出しました。それは本当に中国人にとって日常生活に溶け込んだものです。それと同時に、かつて僕らが育ってきた時代には、いつでも誰かがお金で買えるものではなくて、国からの配給品でした。ですので、その4つのものは、いわゆる計画経済だった時代を僕に思い出させます。三峡のこのプロジェクト自体が中国としても例をみないような非常に大きな国のプロジェクトなので、僕はこの計画経済を思い出した、身近な小さな物質としてその4つのものを使いました。 質問(*3):廃虚となったビルが突然飛び上がっていく場面がありましたが、ここで監督が意図したところを教えていただけますか。 監督:あの建物は奉節の町に着いたときに一番最初に目についた建物で、なぜかというと、とても美しい景色があり、その河のほとりに、景色とそぐわない、変なおかしな建物がたっている、という印象だったからです。地元の人の話によると、あれは移住政策のメモリアルとしてのタワーを造るはずだったのが、半分くらい造ってお金がなくなって、建設途中で放ったらかしになっているということでした。それが三峡の光景として全く合わなくて、あまりにも非現実的だったので、あれはきっと異星人か何かがどこかから持ってきた建物なんだと思えました。それで、あの建物がどこかに飛んでいってしまえばいい、と思ったのがあの場面を撮ったきっかけです。 質問:ビルが崩れる場面も、CGなんですか。 監督:あれはビルの倒壊自体は、実際に崩れていくところを撮っておいて、後で手前の人間の絵と合成しました。 質問:ラストの方の綱渡りは? 監督:あれは北京で撮った実際の綱渡りを合成しました。 質問:北京にはビルとビルの間を綱渡りする人が実際にいるんですね。 監督:北京の郊外にある芸術家村などに、そういうパフォーマンスをする人がいます。 質問:先ほど監督がおっしゃっていた、作品のなかで何度か切々と歌う少年のシーンがとても印象的だったんですが、あれは本作にどのような効果をもたらしていると思われますか。歌わせていた理由も聞かせてください。 監督:彼に映画のなかで歌ってもらったのは、情緒的なものを表すためでした。映画の中では、人が行動を起こす、人を訪ねたり、つまり動く行為が多いのですが、その中で情緒、感情をあらわすものとして彼に歌を歌ってもらうのが狙いでした。中国でも伝統的なお芝居で、ちょうど切々とした気持ちを伝えたいところだけ歌ったりしますが、それと同じような役目を担っているわけです。 質問:なぜその曲を選んだのですか 監督:映画の画面のなかで表そうと思っているものと歌の世界が非常に合っていると思ったからです。 質問:この作品はベネチアで賞をおとりになったんですけど、歌を歌っている少年など映画に出た地元の方々は、映画を観て、どのような反応をされていましたか。 監督:奉節は大都市と言うわけではなく、四川省では、重慶がいちばん大きな都市なので、撮影の時に地元でお世話になった方、出演してくださった方をお招きして重慶で上映会をしました。そのときに、やはり地元の人たちが、映画がどう観るのかということに中国の記者が大変関心を持ち、映画を見た人たちにインタビューをしました。その時、インタビューされた人の中に、たまたまサンミンの逃げた奥さん役の方がいらして、その人はもちろん役者さんではないですから、インタビューにどう答えていいか随分考えていたんですが、いきなり非常にストレートに、「わたしたちの生活は辛い」と、そう言ったことを僕はよく覚えています。 質問(*4):私はこの映画を観たときに、シェンホンが行く先々でお水をペットボトルに入れているシーンが、非常にその人を表していると感じたんですが、監督が記録ではなく映画として、脚本を作り上げていくときに、キャラクター造形というのはどういうふうにされていったのかということをお聞きしたいと思います。 監督:例えばシェンホンが水を飲むという描写ですが、一つには現実として、あの場所はとても暑いところなのでお水を飲んでいないといられない場所という、気候から来る描写でもあります。でももう一つは、彼女の役は、二年間夫が帰って来ない、もう結婚生活が壊れ破綻してしまって、そこには夫がいない結婚生活を暮してきた女性の内面的な枯渇感、乾きがある。水を飲むという描写で、ある意味彼女の行動と彼女の置かれている状況を重ねて表現したかったんです。 質問(*5):先ほど三峡ダムそのものが中国の今を象徴しているとおっしゃっていたんですけど、今回監督には珍しく、中年の男女が主役ということでそれは監督自身が年を重ねられたっていうこともあると思うのですけど、まず二人に中国の現実をかなりしょわせているのでしょうか、キャラクター設定をどのへんから組み立てたかをもう一度教えていただきたいです。 監督:僕は1997年に『一瞬の夢』という最初の作品を撮ってからずっと今まで、そのときそのときの今の中国を撮ってきました。それが今回、三峡を舞台にした映画を撮るときに、さまざまな不合理や、非現実的なことや、理屈の通らない事が社会のなかにたくさん起こるのをみているうちに、これまで中国社会が通過してきたこと、解決してこなかったことが、今になって現れているんじゃないかと強く感じたんです。 質問:最後に、ベネチアで金獅子賞をとったときの気持ち、またフランスでとてもヒットしていて、18万人もすでに動員しているそうなんですが、今回のこの映画の大きな成功を踏まえて、今後の自分の映画のつくり方でどういうプランを持ってらっしゃるか教えてください。 監督:去年の8月に、溝口健二監督の国際シンポジウムに招待していただいて、まだベネチア映画祭にエントリーする前に日本に一度来ているんですが、そのとき今まで僕の作品をプロデュースしてくださっている市山さんに、映画祭はどうしようかなと話したんです。市山さんが間に合うんだったら出せば?と言ってくれたので、僕は日本から帰って本当に急いでその作業をしました。でもその時点では、ベネチア映画祭側も僕がエントリーに間に合うかどうかわからなかったので決まってはいませんでした。また去年は、父を急に亡くしまして、父が死んだことによって自分の仕事が一時中断してしまったんです。ちょうどエアポケットになってしまったようで、気持ち的にもなかなか元に戻れない。父の死による打撃もありましたので、そんな状況の中で急いで仕上げた映画が最終的には間に合って出品できたので、そのときは、ただくたくたに疲れていて、受賞ができるとかできないとかは全く考えていませんでした。 (*1:エキサイト二井さん *2:シネマジャーナル影山さん 3;平井さん 4: シネマトピックスオンラインの林さん *5:AORさん)
(取材・カネコマサアキ)
2007年6月12日(火)16:20-17:20(港区汐留バンダイビジュアル会議室にて)
僕は今までどちらかというと人間関係を追って映画を撮ってきたんですが、こうして一個の人間を個体として見て、その労働する身体の美しさというものに感動したのも初めての経験でした。そうしたことも、自分にこの映画を撮らせるエネルギーとなっています。次に視覚的、または音というご質問だったんですが、まず、僕は宜昌(イーチャン)という場所から奉節へ船で最初に訪れまして、僕が目にした風景というのは本当にまさに山水画の世界、しかもとても静かな、そういう光景のなかで船が進んでいって、いざそれが奉節の町の岸に着いて降りるなり、もう全く違う世界が広がっていたんです。人がたくさんいて、活気があって。そこで僕がビジュアルとして印象的に記憶しているのは、料理を作っている人たちです。それも本当に崖っぷちのところで。あとはもう断崖だけで、下は河というような場所です。そんなぎりぎりのところで平気な顔をして料理を作る、それが彼らの日常生活なんだなと思いました。僕は北の方で育った人間なので、視覚的な意味でも、そういう光景を見た時に非常に感銘を受け、刺激を受けました。
音の話は、例えば撮影するときには雑音が気になるものです。例えば解体工事では、建物を壊す作業は、これが都会であれば、普通、機械で一気に壊してしまったりするものですが、奉節では人の手で壊している音がする。機械ではない、体力と汗を代償としてその音が響く、それが非常に強く感じられました。それで、僕はその話を録音技師にして、それを雑音として録らないで、音楽のリズムのような感覚で捉えて録音してくださいと話をしました。もちろんその奉節の町で労働する人達自身は、自分の生命力とかエネルギーをみせるために音を出しているわけではありません。彼らが人の手で取り壊しをするのは、取り壊した廃材をリサイクルして売るというお金のためであり、生活のために仕事をしているんですが、僕らには彼らの持っているその原始的な力を感じさせるわけです。
最初にこの三峡を船で訪れてみたとき、僕が目の当たりにした風景というのは、いわゆる中国の伝統的な絵画に出てくるような風景でした。そこで、僕が最初に考えたのは、中国の伝統的な絵画の手法です。中国は歴史が長いので絵画とひとくちにいっても様々ですが、いわゆる山水画の緑がかった、青緑に近いような色のことを考えました。また、カメラワークは、そういう考え方がありましたので、レールを長く引いて、巻き物を横に開いていくような、そういったイメージで撮っています。
これは撮影前にカメラマンと僕らはこういう方向でいこうと約束した決めごとなんですが、その考えを実践してくれたカメラマンのユー・リクワイはやはり非常にプロフェッショナルな人だと思います。山水画みたいな感じでいこうと話しをしたとき、彼はカメラの焦点もぼけるとまでいきませんが、焦点のゆるいものを使っています。
しかも今の現代社会の一般庶民の暮しの中でも、その4つは人との付き合いに使われています。例えば、男性同士だとまず「煙草一本いかがですか」というのもあるでしょうし、病気の人を見舞いにいくときや何かを贈るときにお茶を贈ったり、お酒を贈ったり、何かお祝い事があるときに飴を配ったり、今の日常生活にも非常に密着したものなんです。
マンゴー印の煙草に関しては、こんな話があります。かつて東南アジアの政治家が中国に来たときに中国の政治家にマンゴーを贈り、その中国の政治家は贈られたそのマンゴーを、いわゆる労働者階級の、工場で働いている人に渡してプレゼントした。それは、国のリーダー格の人達が一般庶民の人をとても関心を持って見ていますよ、という象徴として非常に話題になりました。それで当時、マンゴー印の煙草は高級品だということで人気がでました。ウサギ印の飴は、もともとその工場は上海にありまして、本当に小さな子たちがみんなその飴を食べて育ったものです。今でも生産されていますし飴を食べる人はたくさんいます。
実はそのシーンだけでなく、映画の中に、いくつかの違和感のあるシーンを入れています。UFOのようなものが出てきたり、ビルが突然崩れたり。なぜ僕がそれらの場面を入れたかというと、中国の社会の発展があまりにも急激過ぎて、それに派生して起こる出来事も、とても理屈では説明できるようなものでなかったり、現実離れしたことだったり、つまり中国では非現実なことが起こるからです。例えば奉節は2600年の歴史がある街で、それだけの時間をかけてゆっくり街ができてきたはずなのに、それをたった二年という短い期間のうちに壊してしまう。その街がたった二年で消えてしまう。つくってきた時間に比べ、その壊す速度の早さというのも、あまりにも理不尽で現実離れしていると感じました。だから僕はそういう画面を入れ込むことによって、中国社会が今持つ複雑さや非現実的な雰囲気をだしたいと思いました。
ちなみにビルが飛んでいくところはCGでつくりました。
中国では、CGは高等な技術的な作品だという言い方をするんですが、僕らは低い技術、非常に初歩的な技術しか使っていないので、そういう風に自分達で呼んでいました。綱渡りのシーンのことなんですが、最初に僕が綱渡りを見たのは、僕の故郷で、そこは北の方の地域ですが、そこで見せ物として川を渡る綱渡りをやっていたんです。それで、今回、長江をみたとき、昔僕が見た川を渡る綱渡りの記憶を思い出してこのシーンを思いつきました。
それで思い出したんですが、映画の冒頭で、客引きが騙して連れ込み、お金を騙し取るようなインチキなマジックショーがあります。あれも実は、自分の経験にあったことをそのまま使いました。楽しみでもあり悪いことでもあり、というような奇妙さを経験しました。
彼が歌った曲というのは二つともインターネットを通じて広まった曲です。
それで思い出したんですが、上海の近くに崇明島(ソンミンダオ)という島があり、三峡からかなりの数の方が移住した島で、僕はその崇明島にも行きました。そこには、やはり住み着くことができなくて、また他に出稼ぎにでている人達がたくさんいます。それを知ったときに、はっと思ったのは、すでに三峡という故郷をなくしてしまった人たちは、新しくあてがわれた、移住させられた場所にも馴染むことができなかった。これは拠り所のないたくさんの人たちのドラマなんだと思い、彼らの体験談も聞きました。
映画に出た人たちの反応に戻りますが、もちろんそれぞれの人の性格で反応も随分違うんですが、チョウ・ユンファが好きだっていう男の子がいましたね。彼は、映画を見て非常に残念がったんです。せっかく映画に出たんだから、ピストルを撃ちたかったと。ああ、なるほどと思いました。歌を歌う少年は、観たとき、ああ、映画に出るんだったら自分の好きな黒いかっこいいサングラスをかけとけばよかったって。彼ららしい反応です。
シェンホンに持たせたのはペットボトル、それと同じように僕がサンミンに持たせたのは、彼がいつも持っているカバン。一度僕はジョークで彼に、それは手品のカバンで何でも出てくるんだと言ったことがあります。それは冗談なんですけど、僕がサンミン役に考えたキャラクター設定というのは、一見、彼は大人しく控えめな感じの男性なんですが、ところがどっこい、自分は自分の知恵を持っている。何かあったときには即決できる決断力を持っている。だから例えば昔の妻に会ったときに、そこでもう一回やり直さないかと切り出す、いろいろな局面で何かを決断できる人間にしたかった。そういうことを考えて設定しました。
それから、旅館の家主さんであるおじいさん。彼は帽子をかぶっていたんですが、あの帽子は1949年以前、明国の時代、まだ国民党がいたころの男性が良くかぶっていた昔ながらの帽子なんですね。ですから、人をみるとき、例えば彼がそれをかぶっているということから彼の年齢も分かるし、船着き場があり人の往来のあった奉節のような町ですから、いろんなことを経験してきた旅館の主人という設定で、そこに時間の流れとか歴史性というものを託すこともできます。
今回の主人公を若い人ではなく中年にした理由は、それに重なるのですが、若い人とちがって彼らの年代はすでに過去を持っていて、そして経験があって、何かしらのストーリーを自分のなかに抱えているはずです。例えばサンミンは16年前から会っていない自分の妻子に会いに来る。シェンホンは二年間戻ってこない夫を探しに来る。二人とも問題解決をするためにこの町にやってきて、行動を今、起こしているんですが、それは過去にあったことの解決をしようとしているわけです。今起こっていることの原因は必ず過去にあります。そういうものを踏まえて考えたときに、今回の主人公は、若者ではなくて、このぐらいの年齢の人という発想になりました。
僕が三峡に行ったのは2005年の8月からですが、そのときにはこの三峡ダムのプロジェクトはもう後半でしたので、ダムもほぼ完成していました。ダムのプロジェクトも終わりかけ、完成も間近という現実、それは人間でいう中年にあたる若くない人達のことを表すのであって、人生のスタートにいる人達ではありません。白紙の状態からスタートできる二人ではない。今までいろいろあった痕跡を携えてこの町にやってきている二人。そういう意味でも三峡での撮影をスタートさせたころの状況と、登場人物というのが重なっているわけです。
そんななかで思いがけず金獅子賞をいただいたので、こうやって中国の市井の人々を撮った映画で評価していただいたということが、非常に心に残りました。
次に僕の心に浮かんだのは、自分が困難だったときにずっと映画の製作を支持してくださった市山さんを始めとするオフィス北野の方たちへの感謝の気持ちでした。
僕は1997年に映画を撮りだしてから2003年までの間、中国では映画の上映を禁止されている、ブラックリストの監督でした。そういう状況のなかで『プラットホーム』『青の稲妻』が作れたのも、やはり彼らの支持があったからだと思っています。
これまでなかなかお礼の気持ちを伝えるチャンスがなかったので、この重要な賞をいただいたときにその場を借りて、オフィス北野さんに感謝の辞を述べました。
僕はこれまでプロデュースをしてくださった市山さんに電話をしました。市山さんはどうやら夜中にインターネットでみて、僕が受賞したのを知っていたんですが、今回この賞がとれたのもやはり今まで市山さんが一緒にやってきてくれたおかげだから、二人で一緒に受賞したのと同じだという話しをしたのを覚えています。
それは体裁でお礼を言ったわけではなくて、本当にこの10年間撮影をしてきてそう思いました。
アリガトウ(日本語で)