「目的→行為」モデルへの疑問

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)の後半部分、具体的分析方法、とくに理念型について検討する前に、まずは「行為」と「目的」について厳密に検討してみようと思う。

〔主観的に抱かれた〕意味をそなえた人間の行為につき、思考を凝らして、その究極の要素を抽出しようとすると、どんなばあいにでもまず、そうした行為が「目的」と「手段」の範疇〔カテゴリー〕に結び付いていることが分かる。われわれがあるものを具体的に意欲するのは、「そのもの自体の価値のため」か、それとも、究極において意欲されたもの〔の実現〕に役立つ手段としてか、どちらかである。(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』30~31ページ)

私たちが一般的に考えているのは、

目的→手段・行為→結果

というモデルであろう。
しかし、よくよく考えてみればこれはあくまで”モデル”、私たちが世界を見る上での”仮説”である。

そしてすべての行為の背後に目的があるのかどうかも怪しいものである。

私たちの日々の行為を直接経験として厳密に見直してみればどのようなものだったであろうか?

・机の上にお菓子が置いてあるのが見えた
・何か言葉に表せないような(あえて言えばうきうき感とでも言おうか)感覚を感じた
・お菓子に近づき手が伸びた
・お菓子を食べた

あるいは、

・机の上にお菓子が置いてあるのが菓子が見えた
・とっさに近づいて手を伸ばしお菓子を食べてしまった

ということもあるかもしれない。

普通、机の上のお菓子を食べるとき、目の前のお菓子を見た後で、「私はこのお菓子を食べようと思う」などと考えながら食べるであろうか?

一般的な見方においては、私たちはこれら一連の行為を記述する際、

・机にあるお菓子は私が好きなお菓子であった
・私は机の上にあるお菓子が(好きなお菓子だから)食べようと思った
・それで手を伸ばしお菓子を食べた

と説明するかもしれない。そうすることで、これら一連の行為を「理解」したと考えるかもしれない。

しかし、ここで大事なことは、

・そのお菓子が私の好物であった
・「お菓子を食べようと思った」から食べた

というのはあくまで”後付け”の説明、因果関係を用いた事実関係の把握(というか推測)であり、
直接経験としては与えられていないものなのである。
目の前のお菓子を取って食べた時点において、そんなことは経験さえしていないのだ。

そして、その行為を「理解した」と思ったとしても、それが本当であるという確証はない。

それが因果関係である。

因果関係に客観性をもたせるためには、

・事象の繰り返し:何度見ても、何度やってもそうである
・他の人との事実の共有:誰が見ても、誰がやってもそうである

が必要である。
しかし、一度きりの私たちの行為の理由・原因を”客観的に”把握しようと思っても、
一度きりの体験では客観性を持たせようにも持たせようがないのだ。

このような状況下において考えられる因果関係の連鎖、メカニズムは、一種のストーリーである。
広く行われている自己分析も、一種のストーリーにしかすぎない。
恣意的に並べられた因果関係の連鎖なのである。

(竹田青嗣氏が、人間の心は因果関係では把握できない、心の説明はストーリー構築であるようなことを言われていたと思うが、おそらく上記のような感覚で述べられたのではないかと想像する。
しかし、「因果関係」および「客観性」というものの構造は、自然科学であろうが社会科学・心理学であろうが、実は一貫しているのだ。
つまりストーリーとは、客観性のない因果関係把握である、と説明することができる。)

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一方、明確に「○○をするのだ」と認識して行動する場合はどうであろうか?

例えば「明日、郵便局へ行って切手を 買おう」(前田氏『システムにとって意図とは何か』からの事例)と思った上で、実際に次の日に郵便局に行って切手を買ったとする。

そのとき、切手を買うために郵便局に行ったのだ、と結論づけるであろう。

しかし、本当にそうなのか?あるいはそれだけなのか?
実のところ、この”因果関係”は常に可疑的なのである。

ひょっとして、私はその郵便局の雰囲気が好きなのではないか?
散歩がしたかったのではないか?
あるいは、私にもわからない得体の知らない”何か”が私を郵便局に向かわせたのではないか?

学者が研究費獲得のためにプロポーザルを書くとする。
その研究が社会にいかに貢献することができるかを説明するかもしれない。
しかし、当然その研究者はその研究をする理由がそれだけだとは思っていないであろう(たぶん)。

ただ知りたいだけかもしれない。
学者という地位を維持したい、アカデミックな雰囲気が好きでその世界にいたいのかもしれない、
他の人に先んじてすごい研究をして認められたいのかもしれない。

ある人が、貧しい人たちを救うために、ある団体を設立したいと考えたとする。
「貧しい人たちを救う」という目的は自明であると思われる。
しかし、本当にそうなのか?あるいはそれだけなのか?
と疑うことはいくらでも可能である。

団体を設立することで、優秀な人材を活かしたい、と思ったのかもしれないし、
自分自身の居場所を探している、という理由づけも可能かもしれないし、
その他、考えられることはたくさんありうる。

ただ、自分自身の働き場所が得られ、さらにはその団体の活動が自分自身の喜びにつながったとしても、
「貧しい人たちを救いたい」と考えた事実が消滅するわけでもない。

 一般に、「善いこと」の起源は、利他的行為にあると言われるが、これはウソである。本来の「よい」とは、この反対に利己的行為から出ている。つまりそれは自分自身を豊かにする力(能力)の感情に結びついている。自分にとって「快いもの」「美しいもの」「豊かなもの」を創り出すような行為や力が、「よい」の起源である。(『エロスの世界像』竹田青嗣著、講談社学術文庫:68ページ)

もしニーチェがこのようなことを言っているのであるとしたら、ニーチェもまた一面的にしか私たちの欲望を見ていなかった、ということになる。

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要するに、一つの行為に一つの目的、というモデル設定自体が怪しい、ということなのである。

伝統的な経済学モデル(特にミクロ経済学モデル)は、例えば貨幣収入の増大という「目的」に沿った行為(合理的な行為)としてのモデルと考えられているであろうが(最近のモデルは人間の様々な精神的動きも考慮されているようではあるが)、
実際のところは、
あくまで「このようにしたら貨幣収入が最大になるよ」というモデル、
つまり「目的」ではなく「結果」を定めた上のモデルなのであり、
ある個人がそれに沿って行動したからといって、貨幣収入を最大にする目的でそうしたのだ、と断定できるものではない
、ということなのだ。

ヴェーバーの言う「理解」について、もっと厳密に検証しなければならないであろう。

社会現象は「法則」によって包摂されえないが、それでも統計的分析は社会科学の客観性確保に必要なものである(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』再読その3)

繰り返し信じられてきたところによると、決定的な標識(メルクマール)は、文化科学においても、究極において特定の因果結合の「法則的」反復のうちに見いだされるという。見通しがたいほど多様な現象の経過のうちに認識できる「法則」が、内包として含んでいるものこそ、――この見解によれば――そうした現象における科学上唯一「本質的なもの」でなければならない。すなわち、われわれが、ある因果結合の「法則性」を、包括的な歴史的帰納という手段により、例外なく妥当するものとして証明したにせよ、あるいは、それを内的な経験として直接直観できる明証にまでもたらしたにせよ、そうしたならばただちに、そのようにして見出されるいずれの定式にも、同種の諸事例が、たとえどれほど数多く考えられても、ことごとく包摂される、というわけである。(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店:74~75ページ)

これは、社会科学における統計的分析に関するヴェーバーの「誤解」から来るものである。
もちろん統計的分析により見出された「法則」に、社会現象が”ことごとく包摂される”ことなどありえない。

社会現象において統計的分析で現れてきた相関関係や回帰分析における有意な関係は、”ある事象Aが生じたときに別の事象Bが生じる確率が高い”ということなのであって、”確率が高い”という事実そのものは客観性を持つものである。

しかし、そのことが科学上の「本質」であると決めつけることが問題なのである。

しかも事象Aと事象Bとの相関関係が見られたからといって、
これから将来事象Aが起こったときに必ずしも事象Bが起こるとは限らないのである。

統計的分析によって見られた事象Aと事象Bとの関係は”過去の話”であって、
将来は、事情が変わってしまっているかもしれないのである。
事象Aと事象Bに影響を与えうる様々なその他の事情が変化しているかもしれないのである。

社会科学における法則的関係は(実は究極的には自然科学も同じなのであるが)、あくまで過去のこと、将来の事象を決定する、あるいは包摂するという確証はないのである。

ただ、このことが社会科学における「法則性」に意味がないということにはならない。

そのときどきの個別的実在から、このようにして「法則的なもの」を抽出したのちに、なお把握されずに残るものは、科学的にまだ加工されない残余で、「法則」体系がさらに完成されていけば当然そのなかに組み入れられると見なされるか、それとも「偶然的」であって、まさに「法則的に把握」できず、つまり事象の「類型」には属さず、したがって「無意味な好奇心」の対象となりうるにすぎない、という理由から、科学上非本質的なものとしておよそ除外されつづけるか、いずれかである。この見解に即応して、すべての認識、したがって文化の認識もまた到達すべきであり、たとえ遠い将来のことであっても到達することのできる理想は、実在を「演繹」できるような学説体系〔の完成〕にある、という考えが、――歴史学派の代表者にも――繰り返し現れることになる。(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』:75ページ)

ヴェーバーは上記の見解を批判しているわけであるが・・・”実在を「演繹」できるような学説体系〔の完成〕”が可能であるとは私も思わない。ただし、「法則的なもの」に収まりきらない部分を客観的に、科学的にどこまで分析可能か・・・ということに関しては(私は)懐疑的である。

たとえばある歴史的人物が、ある政策決定を行おうとしたとき、そのきっかけとして、社会的背景、経済的背景や、支配層における勢力争い、その他様々なものが考えうるのであるが、

人の決断というものは、あくまでプライベートなものである。
その歴史的人物が、ある朝、家族と食事をしていて、食事の味付けで奥さんと喧嘩になってしまったとか、
前の夜に、不吉な夢を見てしまったとか、
個人的に頼る占い師の占いが頭から離れなかったとか、

実はそういった要因も大きい可能性があるのだ。
しかも、一度しか起きなかった事象について、考えられる要因のどれが”一番重要か”ということは、客観的に決めることができない。当然統計的に分析することもできない。
要するに主観的な印象なのである。そしてそれが本当に正しいのかも確かめる術はない。
さらに言えば、それらこまごまとしたプライベートな要素一つ欠けても、実際にその決定がなされなかったかもしれないのだ。
つまり社会現象において、すべてを「演繹」できるような「法則」を確立することなど、どだい無理な話なのである。
なぜなら、過去に起こった事象、しかも記録にさえ残っていない事象を、確かめる術がないからである。
歴史的人物が奥さんと喧嘩した事実もわからないし、彼がどんな夢を見て影響されたかもわからないからである。

・・・しかし、そのことで社会現象の統計的分析による相関関係(法則的関係)が無意味であるということにはならない。事象Aが起こったときに事象Bが起こることが多い、という事実は明らかに客観性を持つからである。

一方で、個別事例の因果関係把握は、常に主観的印象を伴う可能性がある。
もちろん分かる範囲で、ある事象が生じた要因を挙げることは可能である。

ただ、その事象と要因との関係に客観性を持たせようとするならば、
やはり繰り返し、ヴェーバーの言う「法則的」反復を見出すしか他に方法がないのである。

われわれが推し進めようとする社会科学は、ひとつの現実科学である。われわれは、われわれが編入され、一方では、そうした現実をなす個々の現象の連関と文化意義とを、その今日の形態において、他方では、そうした現実が、歴史的にかくなって他とはならなかった根拠に遡って――理解したいと思う。(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』:73ページ)

つまり、ヴェーバーの手法では、上記ような因果関係把握に「客観性」を持たせることは困難である可能性があるのだ。
・・・さらに分析を続けてみたい。

価値基準は「根底にある」のではなく「形成されていく」ものである

尾場瀬氏の下記の論文、

尾場瀬一郎(2002 年)「ヴェーバー社会科学における討議論の意味」『立命館産業社会論集』
第 38 巻第1号:125~138 ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/381pdf/obase.pdf

は、ヴェーバーの価値自由を前提とした価値討議および科学的討議について検証し、さらにはヴェーバーの“討議する人間像”というものを浮き彫りにした非常に興味深いものである。この論文を分析しながら、ヴェーバーの価値議論についての問題点を確認してみようと思う。

まずは、価値討議と科学的討議についての説明である。

一言でいえば,価値討議は価値判断をおこなう場であり,科学的討議は科学的批判および科学的認識を専らにする場である。より具体的にいえば,価値討議は各人が相互に価値判断をおこない合い,それぞれの依拠する価値基準を明瞭化するものである。それに対して科学的討議は,価値討議によって明らかになった価値理念を前提にして,それが現実の展開のなかでどのような軌跡を描いていくかを,その実現のための手段,そこから派生してくる結果と関係づけながら,思考実験してみるのである。科学的討議は,他者の価値理念を評価する価値討議とはちがって,他者の価値理念を対象とし,価値自由に因果分析をおこなう。価値討議によって析出された価値理念は,科学的討議において因果的に展開され説明されてはじめて,理解されたということができるのだ。ヴェーバー討議論は,以上の二つの構成要素から成りたっている。(尾場瀬:126~127 ページ) 

それぞれの依拠する価値基準を明瞭化する“、という作業は、一見もっともらしいのであるが、 具体的に考えてみると、論理的に問題があることは、既に指摘してきた。

理解的説明は,科学にとってもきわめて重要な作業である。第一に,人間の行為の実際上の究極的動機を知るためになす行為の経験的な因果的考察という目的にとって,第二に,(実際上あるいは外見上)評価を異にする人と討議する場合,実際上,相対立する評価的立場を確定するために。この第二番目の場合が価値討議の本来意味するものである。すなわち,自分の論敵(あるいは,そこに自分自身も加わる)が心に抱いている事柄,つまり議論の当事者同士が単に外見的にではなく,実際に依拠している価値を把握していること,そしてその後,この価値に対して何らかの態度がとれるように仕向けること,これが価値討議の本来の意味なのである。そうであれば,経験的な議論における「価値自由性」を要求する立場からすれば,評価に関する討議は不毛であったり,ましてや無意味であったりするなどといったことはなくて,実はそうした評価をめぐる討議の意味の認識こそ,あらゆるこの種の有益な議論の前提なのである(GAzWL, S.503.)2)。(尾場瀬:127 ページ)

ヴェーバーの提唱する「価値討議」は,他者の価値基準を「正当と認めること」(Billigung)には通じてはおらず,他者と自己との「相対立する評価的立場」を確定することに向けられている。彼は別のところでは,「そこでは〔各個人の〕立場を確定することが出来るだけであって,意見の一致は原則上,価値討議が目指す目標では決してありません」と,言っていた(GAzSS, S.488.)。そこではまず第一に,自己の「価値基準」と他者の「価値基準」とがどの点で一致しないのか,どの点に差異が存するのかを討議にかけ,分析されなくてはならなかった。
言いかえるなら,われわれは討議の過程を通して,各人が「実際に依拠している価値」を確定しなくてはならない。そしてその上で,わたしは他者に対してそれに相応しい「態度決定」を迫ることになる。また他者は他者で,討議を通してわたしが「実際に依拠している価値」を確定し,それに相応しい「態度決定」をわたしに迫ることができるのだ。(尾場瀬:127~128ページ)

互いの意見の違いを認めることの重要性については同意する。しかし意見が一致する可能性を否定してはならないだろう。尾場瀬氏自身も、合意説・対立説という論点そのものに疑問を呈している。

しかしわたしは,合意説をとるにしろ,対立説を主張するにしろ,両者ともに論点先取りをおこなっているという点で,納得できない。討議は,具体的な内容をもっている。討議が対立するか,合意に至るかは,その内容に依存するだろう。(尾場瀬:135ページ)

ただ、私が問題としているのは、既に述べてきたように、「究極的動機」「議論の当事者同士が単に外見的にではなく,実際に依拠している価値」「価値基準」(あるいは「根底にある価値・理念」)を知ることなどできるのか? ということなのである。

すでに見たように,科学的討議は「価値自由な」ものだった。「感情」にとらわれた対話においては,特定の「価値基準」から他の「価値基準」が外在的に否定されるだけであった。そこには「偏見なく」対話が行われる可能性はない。他者の価値理念に対する「知的な理解」も,「科学的批判」も成立しようがない。そのような感情的態度とは異なって,他者との間に「距離」(Distanz)を置いた対話は,参加者の価値自由な態度を可能にする。言いかえれば「知的な理解」や「科学的批判」は,自己の理想や価値理念に対する感情的態度を抑制して,「自分自身に対する距離」を保持する契機を与えてくれる。科学的討議は,盲信的とらわれや狂信的態度に対する「『相対化』作用」(GAzWL, S.504.)をもっている。自己相対化機能をもった討議は,価値理念への無自覚な埋没を反省し,多様で新しい価値理念の展開可能性を担保するものだった。(尾場瀬:132 ページ)

私がこれまでに述べてきたように、価値理念そのものは感情によってもたらされている。つまり価値についての議論は、感情を排するものでは決してない。それゆえに、

自己の理想や価値理念に対する感情的態度を抑制して,「自分自身に対する距離」を保持

とは、実際のところは自らの感情を、そして互いの感情を、冷静に見つめ、相対化し、その上で妥協するのか妥協しないのか、その他考えられる様々な具体的共存策を探っていく、ということになるのである。 

同報告のなかでヴェーバーは,社会政策学会の長老A・ヴァーグナーに対して,持ち前の討議論を実践している。彼の報告によれば,ヴァーグナーは,ドイツ社会全般の合理的経営を主張した。そして私的経営の中枢部においても国家官僚の権限を拡大し,その精確で合理的な経営を期待していた。ヴァーグナーは,ドイツ国家官僚の合理的能力を盲信しており,その一般化を望ましいことと考えていたのだ。このように合理化の限界を弁えないヴァーグナーの主張の核心には,「純粋技術的な基準」が秘められていると,ヴェーバーは喝破した。ヴァーグナーはかつて,マンチェスター学派の「産業機械化の純粋に技術的な成果の手放しの礼賛」を戒めていた。しかし今や彼は,以前に反対した価値基準を無自覚なまま採用していた。(尾場瀬:133 ページ) 

ヴェーバーとヴァーグナーとの議論について、あまり詳しいことは分からないが、仮に「国家官僚の合理的能力への盲信」と、過去のマンチェスター学派の「産業機械化の純粋に技術的な成果の手放しの礼賛」への戒め、という行為とが、論理的に相いれないことであったとすると、要するに、ヴェーバーはヴァーグナーに対し、実質的には「前と言っていることが違うのではないか」という主張をしたにすぎないのであって、 

ドイツ社会全般の合理的経営を主張した。そして私的経営の中枢部においても国家官僚の権限を拡大し,その精確で合理的な経営を期待していた。

というヴァーグナーの考えそのものについて、ヴァーグナーの「究極の動機」も探れたわけではないし、本人がどう考えていたかも結局のところはわかっていないのである。(そこは本人に聞いて確かめるしかなかろうが・・・本心がわかるかどうかも謎だ。そもそもそんな「究極の動機」などあるのかどうかもわからないのである。)
そして、ヴェーバーがヴァーグナーの主張の論理的齟齬(それも”形式論理的に評価”されるわけではなく、実際の社会を想像しながらそれに照らし合わせて検証されるものである)を指摘したとしても、価値に関する議論はそれで終わるわけではないのである。

ドイツ社会全般の合理的経営、私的経営の中枢部においても国家官僚の権限を拡大し,その精確で合理的な経営を期待

というヴァーグナーの主張に対し、ヴェーバーは、

ドイツの「合理化」や「機械化」の急速な進行を指摘し,「進みゆく官僚制」に警告を発した。そしてこのような趨勢をヴァーグナー流の社会政策が推しすすめるならば,ドイツ国民は臆病な小市民になるほかない(尾場瀬:133 ページ)

とその政策の影響評価を行っている。その上でヴェーバーは「そんなのはいやだ!」と言っているのである。つまり「底板」は感情である。

そこでヴァーグナーは、二つの点において反論の可能性がある。たとえば、
(1) ヴェーバーの政策影響評価に、誤りがあるのではないか。私は別の影響もあると考える。「合理化」「機械化」によりいち早く経済成長を遂げることができるかもしれない。
(2) 仮にヴェーバーの政策影響評価に賛同するとしても、その結果に対して私自身は「それでいいと思っている」(あるいは「仕方ないと思っている」)。

ヴェーバーはさらっと言ってしまっているが、実際のところ政策影響評価は非常に難しい。ある政策の影響について、正反対の見解が生じお互いに対立し合っている・・・現代におけるマスコミでも日常的に見られる光景である。政策の影響評価(ヴェーバーの言う科学的討論)に対する賛否と、政策そのもの及び政策の影響に対する感情・気持ちの相違・・・それらが入り混じって現実の議論はやっかいなものになる可能性がある。

ただそれでも、価値観に関する議論の基本的プロセスそのものは明らかである。
ある政策(あるいは理想)を実行・実現しようとした場合に予測される影響、あるいは実際に実行した場合の結果をより具体的に評価しながら、それらに対し、自分たちはどのように感じるのか、「好ましい」と思うのか「好ましくない」と思うのか(あるいは関心がなく「どちらでもよい」と思うのか)、それらを自らに問うてみる、それらの作業の中で、自らの価値観を、より厳密に、より具体的なものとしていくのである。
そうする中で、はじめて互いの共通点と対立点が、どこが譲れてどこが譲れないのかが、より明瞭になって来る。それらの感情を互いに冷静に認め合い、共感するのかしないのか明確に認識し、その上で共存の道あるいは闘いの道を求めるのか、それも各々が自らに問いかけることなのである。

そういった意味では,ヴェーバーの社会理論においては,首尾一貫した価値理念を帯びた「人格」が,他者との討議を構成するのではなかった。むしろ逆に,他者との討議こそが,人を「人格」へと高めるのである。言いかえるならば,価値理念を予め内蔵させた「人格」が討議を構成するのではなくて,他者との厳格な討議が人を「人格」へと生成させるのである。なぜならば,他者の価値理念との対立や闘争を経ないならば,「『人格性』のあのもっとも内面的な要素」である価値理念は,鋭く明晰なかたちで析出されることはないからである。ヴェーバーの理論的前提には,独白的個人ではなくて,討議する人間像が据えられていたのである。(尾場瀬:135 ページ)

価値理念というものが、最初から私たちに内蔵されているのではなく、他の人との討論(あるいはコミュニケーション)の中から、次第に形作られている、という見方には同意する。
それならば、なぜ具体的目的の「根底にある理念」などという表現になるのであろうか?
なぜそれが、具体的目的から”形式論理的に”導かれるなどと考えるのであろうか?

そこにヴェーバーの矛盾がある。

究極の価値基準は「根底にある」のではなく、コミュニケーションその他新たな体験の中で「形成されていく」のである。そして、もちろん形成されないこともあろうし、形成されねばならないということもない。私たちの「生」そのものが「究極の価値理念」のもとにあるわけではないからだ。人の感情が変化することは、実際よくあることではなかろうか。

「根底にある価値・理念」があって、私たちの欲望、具体的目的、行為があるのではない。
日々の体験から、私たちの価値観というものが構築されていくのであって、私たちの根底や背後に、究極の価値理念や究極の動機というものが隠れているのではない。
究極の価値理念や究極の動機、根底にある価値・理念と一般的に思われているもの、それは、 私たちの日々の体験により形作られ、私たちの日々の体験により修正され、変化していくものなのである。

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)でヴェーバーが述べているような、

具体的な目的の根底にある、あるいはありうる「理念」(33 ページ)
根底にある理想(35 ページ)
具体的な価値判断に表明されるこの究極の価値基準(35 ページ)

というものは、根底にあるのでもなく、背後にあるのでもない。具体的な日々の体験から、後付けで導かれ、修正を加えられていくものなのである。

やってみて初めてわかることもある

ヴェーバーは、良いこともたくさん言っているとは思うのであるが、
いわゆる「机上の論理」であることも多い気がする。

〔2〕もしある考えられた目的を達成する可能性が与えられているように見えるばあい、そのさい必要とされる〔当の〕手段を〔現実に〕適用することが、あらゆる出来事のあらゆる連関〔にいやおうなく編入されること〕をとおして、もくろまれた目的のありうべき達成のほかに、いかなる〔随伴〕結果をもたらすことになるかを、当然つねに、そのときどきのわれわれの知識の限界内においてではあるが、確定することができる。そうすることで、われわれは、行為者を助けて、かれの行為の意欲された結果と、意欲されなかったこの〔随伴〕結果との〔相互〕秤量が、できるようにする。すなわち、われわれは、意欲された目的の達成が、予見できる出来事の連鎖を介して、他のいかなる価値を損なうことになるか、そうした形でなにを「犠牲にする」か、という問いに答えることができる。(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店:32ページ)

私が思うに、このあたりは研究者がいちばん苦手とする分野ではないかと思うのだが・・・

そもそもが一つの政策の影響に対して、
様々な予想結果が出てくるのが普通である。
政府の政策の影響が吉と出るか、凶と出るか、研究者その他の人々の間で全く正反対の意見が出て、
お互いに議論し合っている様子は、よくテレビなどでも見られる光景である。

将来のことを予測するのは難しい。

予測をしているつもりで、
実は単なる”思い込み”にすぎないかもしれない。

矢沢永吉さんがCMで、

過去のデータで未来の事がわかりますか!

って言っていたが、私もそうだと思う。
(そのセリフを考えた人は誰なのか分からないが・・・)

もちろん過去の情報を集め、同じ失敗をしないように気を付けることも大事である。

しかし、過去に認められた因果関係が、
将来にも適用できるという保証はない。
なぜなら、その他の状況が同じでないからである。
時代が変わっているかもしれないのである。

とにかく、やってみなければわからないことはたくさんある。
新しいことを始めるのは理屈ではない。

もちろん、現実社会がどうなっているのか、それを忘れてしまっては話にならない。
しかし、やってみて初めてわかることもたくさんあるのである。

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価値・理念について議論するとはどういうことなのか
~「なんのための」社会学か? の批判的検証を中心

http://miya.aki.gs/miya/shakaigaku1.pdf

西研氏の「なんのための」社会学か? ( http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/nan.htm
ヴェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)前半部分
の批判的検証です。

価値・理念について議論するとはどういうことなのか ~「なんのための」社会学か? の批判的検証を中心に

西研氏の「なんのための」社会学か? ( http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/nan.htm
ヴェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)前半部分

の批判的検証を一つのファイルにまとめました。
ブログ記事に修正を加え、順番も変えました。
(※ 11月17日に第Ⅲ章におけるヴェーバーの文章の引用部分を追加、19日に付録2を追加。)
価値・理念について議論するとはどういうことなのか
~「なんのための」社会学か? の批判的検証を中心に

http://miya.aki.gs/miya/shakaigaku1.pdf
(PDFファイル、だいたい441KBです)

<目次>
Ⅰ.社会学は思想か?
Ⅱ.具体的な目的の「根底にある理念」を探ろうとしているが、結局、具体的目的実行の結果の推測・評価をしているだけ
Ⅲ.「根底にある理念」で一元的に私たちの行為、あるいは具体的目的を説明することなどできるのか?
Ⅳ.様々な側面があることと「なんとでもいえる」ということとは違う
Ⅴ.価値について議論するとはどういうことなのか

(付録1) 「本性」「理性」というのは根拠のない恣意的な分類である
(付録2) ヴェーバーの価値討議における問題点

・・・これで、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』前半部分における、社会科学と価値・理念の問題に関して私の見解を説明できたと思います。

次は、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』後半部分、
具体的分析方法や理念型の有効性についての検証、
そして苫野氏の著作の分析をしていく予定です。