『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)の後半部分、具体的分析方法、とくに理念型について検討する前に、まずは「行為」と「目的」について厳密に検討してみようと思う。
〔主観的に抱かれた〕意味をそなえた人間の行為につき、思考を凝らして、その究極の要素を抽出しようとすると、どんなばあいにでもまず、そうした行為が「目的」と「手段」の範疇〔カテゴリー〕に結び付いていることが分かる。われわれがあるものを具体的に意欲するのは、「そのもの自体の価値のため」か、それとも、究極において意欲されたもの〔の実現〕に役立つ手段としてか、どちらかである。(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』30~31ページ)
私たちが一般的に考えているのは、
目的→手段・行為→結果
というモデルであろう。
しかし、よくよく考えてみればこれはあくまで”モデル”、私たちが世界を見る上での”仮説”である。
そしてすべての行為の背後に目的があるのかどうかも怪しいものである。
私たちの日々の行為を直接経験として厳密に見直してみればどのようなものだったであろうか?
・机の上にお菓子が置いてあるのが見えた
・何か言葉に表せないような(あえて言えばうきうき感とでも言おうか)感覚を感じた
・お菓子に近づき手が伸びた
・お菓子を食べた
あるいは、
・机の上にお菓子が置いてあるのが菓子が見えた
・とっさに近づいて手を伸ばしお菓子を食べてしまった
ということもあるかもしれない。
普通、机の上のお菓子を食べるとき、目の前のお菓子を見た後で、「私はこのお菓子を食べようと思う」などと考えながら食べるであろうか?
一般的な見方においては、私たちはこれら一連の行為を記述する際、
・机にあるお菓子は私が好きなお菓子であった
・私は机の上にあるお菓子が(好きなお菓子だから)食べようと思った
・それで手を伸ばしお菓子を食べた
と説明するかもしれない。そうすることで、これら一連の行為を「理解」したと考えるかもしれない。
しかし、ここで大事なことは、
・そのお菓子が私の好物であった
・「お菓子を食べようと思った」から食べた
というのはあくまで”後付け”の説明、因果関係を用いた事実関係の把握(というか推測)であり、
直接経験としては与えられていないものなのである。
目の前のお菓子を取って食べた時点において、そんなことは経験さえしていないのだ。
そして、その行為を「理解した」と思ったとしても、それが本当であるという確証はない。
それが因果関係である。
因果関係に客観性をもたせるためには、
・事象の繰り返し:何度見ても、何度やってもそうである
・他の人との事実の共有:誰が見ても、誰がやってもそうである
が必要である。
しかし、一度きりの私たちの行為の理由・原因を”客観的に”把握しようと思っても、
一度きりの体験では客観性を持たせようにも持たせようがないのだ。
このような状況下において考えられる因果関係の連鎖、メカニズムは、一種のストーリーである。
広く行われている自己分析も、一種のストーリーにしかすぎない。
恣意的に並べられた因果関係の連鎖なのである。
(竹田青嗣氏が、人間の心は因果関係では把握できない、心の説明はストーリー構築であるようなことを言われていたと思うが、おそらく上記のような感覚で述べられたのではないかと想像する。
しかし、「因果関係」および「客観性」というものの構造は、自然科学であろうが社会科学・心理学であろうが、実は一貫しているのだ。
つまりストーリーとは、客観性のない因果関係把握である、と説明することができる。)
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一方、明確に「○○をするのだ」と認識して行動する場合はどうであろうか?
例えば「明日、郵便局へ行って切手を 買おう」(前田氏『システムにとって意図とは何か』からの事例)と思った上で、実際に次の日に郵便局に行って切手を買ったとする。
そのとき、切手を買うために郵便局に行ったのだ、と結論づけるであろう。
しかし、本当にそうなのか?あるいはそれだけなのか?
実のところ、この”因果関係”は常に可疑的なのである。
ひょっとして、私はその郵便局の雰囲気が好きなのではないか?
散歩がしたかったのではないか?
あるいは、私にもわからない得体の知らない”何か”が私を郵便局に向かわせたのではないか?
学者が研究費獲得のためにプロポーザルを書くとする。
その研究が社会にいかに貢献することができるかを説明するかもしれない。
しかし、当然その研究者はその研究をする理由がそれだけだとは思っていないであろう(たぶん)。
ただ知りたいだけかもしれない。
学者という地位を維持したい、アカデミックな雰囲気が好きでその世界にいたいのかもしれない、
他の人に先んじてすごい研究をして認められたいのかもしれない。
ある人が、貧しい人たちを救うために、ある団体を設立したいと考えたとする。
「貧しい人たちを救う」という目的は自明であると思われる。
しかし、本当にそうなのか?あるいはそれだけなのか?
と疑うことはいくらでも可能である。
団体を設立することで、優秀な人材を活かしたい、と思ったのかもしれないし、
自分自身の居場所を探している、という理由づけも可能かもしれないし、
その他、考えられることはたくさんありうる。
ただ、自分自身の働き場所が得られ、さらにはその団体の活動が自分自身の喜びにつながったとしても、
「貧しい人たちを救いたい」と考えた事実が消滅するわけでもない。
一般に、「善いこと」の起源は、利他的行為にあると言われるが、これはウソである。本来の「よい」とは、この反対に利己的行為から出ている。つまりそれは自分自身を豊かにする力(能力)の感情に結びついている。自分にとって「快いもの」「美しいもの」「豊かなもの」を創り出すような行為や力が、「よい」の起源である。(『エロスの世界像』竹田青嗣著、講談社学術文庫:68ページ)
もしニーチェがこのようなことを言っているのであるとしたら、ニーチェもまた一面的にしか私たちの欲望を見ていなかった、ということになる。
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要するに、一つの行為に一つの目的、というモデル設定自体が怪しい、ということなのである。
伝統的な経済学モデル(特にミクロ経済学モデル)は、例えば貨幣収入の増大という「目的」に沿った行為(合理的な行為)としてのモデルと考えられているであろうが(最近のモデルは人間の様々な精神的動きも考慮されているようではあるが)、
実際のところは、
あくまで「このようにしたら貨幣収入が最大になるよ」というモデル、
つまり「目的」ではなく「結果」を定めた上のモデルなのであり、
ある個人がそれに沿って行動したからといって、貨幣収入を最大にする目的でそうしたのだ、と断定できるものではない、ということなのだ。
ヴェーバーの言う「理解」について、もっと厳密に検証しなければならないであろう。