空中キャンプ

2014-11-23

[]『紙の月』

f:id:zoot32:20141123224123j:image

人間関係において、他者に何かを与えるということが、いまだによくわからない。自分は長らく、与えることのできる人間になるべきだと考えてきた。見返りを期待することなく与える姿勢を持つ必要があると。純粋に、贈与をしたいという感情の発露として、与える側の人間になれないものかと思案してきたが、そのような考えはやや単純だったし、与えさえすればいいというものではないらしいと気づくまでに、やや時間がかかってしまった。仏民族学者、マルセル・モースの『贈与論』は、世界のさまざまな民族、共同体における贈与の形態を研究したテキストだが、同書では「どんな社会においても、贈り物の性質の中には期限付きでそれを返す義務が含まれている」「十分にお返しをする義務は強制的なものである」と論じられている。モースが正しいとすれば、どうやら、返礼のない贈与は両者の関係を破壊してしまうらしい。

銀行で横領した巨額の金を、恋人との逢瀬でひたすらに蕩尽する『紙の月』の主人公を見ながら、与えるとは何かとあらためて考えてしまう。他人のために労力を使うこと(これも贈与の一形態である)や、何かを贈ることとはいかなる行為か? 本作の主人公と恋人の関係がそうであるように、十分な返礼のない贈与は破壊的な結果をもたらしてしまう。モースの説を採るならば、些細な贈与であろうとも、返礼がなければ関係は破綻してしまうはずであり、事前に返礼が約束されていない以上(贈与の前に返礼の意志があるかどうかを確認することはできない。まさか念書を取るわけにはいかない)、関係を保つためにわれわれは何も贈るべきではなく、他者へいかなる労力をも割くべきでもない、という虚しい結論になってはしまわないだろうか。それでは、他者との関係はきわめて搾取的になるほかなく、コミュニケーションそのものが成立しなくなるのではないか。

『紙の月』の主人公は、贈与と返礼の循環を実感したかったかのように見える。中学生だった主人公は、タイの恵まれない子どもへ募金をし、感謝の手紙を受け取る(素朴で美しい返礼の手紙)。かかる贈与の循環によって主人公は陶酔のきわみに達し、やがて最初の蕩尽をおこなう。メレナシア人が、ポトラッチと呼ばれる贈与において、家を燃やし、財産を破壊し、貴重品を海へ投げ入れる蕩尽の徹底で相手への敬意を示すように、主人公は度を越して募金に没頭する。しかし、この作品において彼女の贈与はつねに失敗してしまう。外国への募金も、恋人への贈与も、破壊的な結果をもたらした。なぜ贈与は成立しないのか。それとも、単に主人公に人徳がないだけで、世の中の人びとはみな、贈与と返礼の循環のなかで豊かなコミュニケーションを行っているのか。よくわからない。

乱雑な自宅でひとり、証書を偽造し、証拠書類を燃やす主人公を見ながら、まるで自分のようだとおもった。彼女が抱える後ろめたさ、罪悪感も含めて、まるで過去に自分がこのような経験をしたのではないか感じるほどだ。これほどみじめで孤独な人物の顛末に、奇妙な懐かしさや甘美を覚えてしまうのはなぜだろうとふしぎだった。そして何より、彼女が返礼を求めながら、それを得られずにいることが非常によく伝わるのだ。贈与を受け取る者はどこか鈍感である。だからこそ主人公は満たされず、静かな苛立ちをつのらせる。むろん、贈与に見合った返礼がくる、などという関係は空想なのかもしれない。主人公はしばし蕩尽の快楽にひたり、恋人との短い蜜月をへて、荒涼とした現実へ引き戻される。しかし、たとえ贈与が不可能であるとしても、他者へ何かを贈るという行為の誘惑に、いったい誰が勝てるだろうか?

『紙の月』関連ツイート
http://twilog.org/campintheair/search?word=%E7%B4%99%E3%81%AE%E6%9C%88&ao=a