決して善への努力をやめるな・・・創立記念日に

創立記念日、おめでとうございます。
『決して善への努力をやめるな』寸鉄11・18

11月7日の聖教に会長指導が掲載されていました。会則の変更について解説したものです。

『法』が唯一絶対と説きながらその法を変えるのですから、師子身中の虫とはこういう信仰者を言うのでしょう。つまり、法華経の行者に害を及ぼす魔です。魔は尊貴な姿かたちをしているとうかがいましたが、外見や言葉に惑わされてはならないのですね。今まで、エゴのために菩薩の面を被り、慈悲の言葉で自分を飾る人間を見てきました。悪比丘は決して絶滅しないのです。比丘とは聖職者のことですが、創価リーダーも宗教商売で生計を立てているのですから、この分類に入ることは言うまでもありません。新興宗教なみに教義を変更するのは教団維持、つまりはお金ですが、商売継続に支障をきたすからと考えたからでしょう。会員はいつものようにおとなしい羊のように気づかない振りをしていらっしゃるから、会員もまた与同罪を犯し総罰を受けるのは必定。
「罰を受けますよ」とわたしが言ったら、罰なんてありませんと幹部の方が言われました。罰なんてネガティブな問題を気にかけるのは妙法ではないとも言われました。「今どき御本尊を問題にするなんて時代遅れね」「???……」御本尊は時代とともに変わるらしい、そうだったの……知らなかったわ。
とても謙虚で真直ぐな婦人部幹部ですが、わたしもそう言われるとそんな気がしてきます。でも問題の所在をずらしているように思えます。わたしのまわりの婦人部が主導する組織には教学的哲学的深みは全くありません。もちろん婦人部と争いたくないので、男性会員諸氏はネコのように静かです。というより最初から考えていないのかもしれません。
御本尊には「若悩乱者頭破七分」と刻まれているのに。
法華経の行者を脳ます者は頭が七分に割れるんだそうですよ。
御本尊にケチをつける者も同罪!

素直に考えればわかることです。大御本尊は謗法の山にあっても清浄な御本尊。腐ったゴミの山にあっても黄金は黄金なのです。金剛不壊なのです。建物自体に善悪はないのに、悪人が住む建物は不浄だと言いたいのでしょう。正本堂を破壊した日顕の論理と同じです。
大聖人が否定するスピリチュアリズムな考え方です。
正しい信仰の場でなければ、正しい御本尊も正しくなくなると言うのですね。人法一箇というのに、大聖人も見下されたものです。主師親の三徳具備した池田先生と主張しただけあります。先生は仏になられたのですね。先生がご逝去されると本尊になるかもしれません。これからは、なんでもありです。 
宗門(大石寺)も創価を批判する資格はありません。宗門史は、日寛上人のような賢僧の時代もありましたが、大概は邪僧が支配した時代であり、大聖人のご真意を理解していなかったという驚くべき歴史を生きてきたからです。
秘伝・秘法の神秘主義がお好みの堕落論者・・・法主。智慧欠損の世襲比丘。

血脈があるかないかといった信仰評価も実に流動的な基準に左右されます。魂の独立を主張したとたん、「魂の独立」が評価基準になります。
あなたは魂の独立を果たしましたか?
果たしていなければあなたに血脈は流れていません。創価は魂の独立を果たしたと主張していますが、一人一人の会員個人はどうなのでしょう。集団で考えるより個人の次元で考えるべきです。厳しい自己認識もなくただ与えられた木にぶらさがるのは、独立なんて夢の言葉であり、逆に服従という信仰者が最も忌み嫌う生命劣化の始まりかもしれません。
明治以来の近代日本が強烈な他者(外国)の脅威に対峙するなかで自己再生を試みてきたように、人間自身もまた強烈な他者のそばにあって本来の自己を取り戻す。それはきっと他者との境界で、失っていた尊厳に気づくからかもしれません。仏教徒にとって最初の他者はブッダです。自他不二が信仰の究極ですが、わたしたちは信仰を通して自己を再発見する。他者を通し自己を発見するのですが、他者と自己をつなぐものは慈悲に他なりません。
強烈な他者がいつの間にか強烈でなくなるように、カリスマもいつまでもカリスマではないのです。


各家庭の御本尊はすべて大御本尊の完全な複製です。複製が正しく、元本が受持の対象にならないという倒錯した考えは、第六天の魔王が考える究極の企みです。破壊者はサンガ集団のなかに現われるという仏教不変の悲しい定めから、創価も逃れられないのですね。悪はいつまでも悪とは限りませんし、善もいつまでも善とは限りません。だから善悪不二と言うのです。
また大御本尊を否定すると色々な矛盾や問題が噴出してきます。
大御本尊の力用は末法万年永久不変と今まで理解していましたが、そのとりまく環境によって変化するのですか?
変化しないということであれば唯一無二ということですね。
変化するというのであれば永久不変でなくなり、御書と整合性がとれなくなります。
わたしが退転でもするとわたしの御本尊はただの紙切れになるということ。
よくお札を例に御本尊の価値を説明いたしますが、環境が変われば一万円札もただの紙切れになるという恐ろしいロジックなのですね。どういうアルゴリズムなのでしょうか。

 

例えば、血脈も信心もある!会員のわたしが正確に模写した御本尊は、御本尊として通用しますか?
通用しないと言うならどういう理由からでしょう?
宗教法人にとって御本尊は一番大切な財産です。したがってこの御本尊を勝手に作られたら、法人としては商売あがったりでいずれ立ち行かなくなります。わたしが言ってるのは法的問題ではなく、御本尊そのものの価値を言っているわけです。法人で作った御本尊と個人で作った御本尊はどこが違うのかということです。見分けがつかない同じ模写でも価値は違うということですか?
個人で正確に複製した御本尊でも信仰対象にならないとしたら、それはなぜか?
個人には資格がなく、組織には資格があるとしたら、どのような理由があるからでしょう?


複製の複製の複製は御本尊として通用しますか?
デジタルコピーでも複製を繰り返していくと、微妙に歪んできますが、この歪みはどこまでが許容範囲ですか?

中央に題目だけ書かれた紙片を御本尊として用いることは可能でしょうか?

御本尊には四天王や天照大神などの想像上の神々がしたためられていますが、一閻浮提なのですからこれにキリスト教やイスラム教の神を書き加えてもおかしくはないのでは?
そのほうがより閻浮提の意味を正確に捉えているではないでしょうか。御本尊はこうして勝手に作っても、根本尊敬の資格がありますか? ありませんよね。
彩色された御本尊はどうですか?

3Dプリンターを見たこともなければ構造も詳しくは理解していませんが、近い将来、人間が模刻するよりも正確に御本尊を作り出す技術進歩があれば、なかには勝手に板本尊のように製造する人が出てくるでしょう。コンビニでコピーするような手軽さで、3Dプリンターのサービスが提供される。そのとき、その御本尊は正統なご本尊なのかどうか。血脈も電話線を通じて流れるかもしれませんが、会則の付則欄に、学会本部の許可を得なければ功徳はないといった注意書きが書き加えられるかもしれません。
なさそうでありそうな会則変更。宗教法人は功徳の許認可権限も持っているのかと呆れてしまいますが、宗教的権威というおきまりの論法ほどバカバカしい嘘八百はありません。はじめから宗教に権威などないのですから騙されてなりません。
大御本尊から遠ざける行為に仏罰が出ないはずがありません。賢いと思われていても、同じ過ちを二度三度と繰り返すのですね。
以前このブログで、創価は平気で教義を変えていくだろうと書きましたが、そのとおりになりました。

 

わたしは自分が考えることや正しいと思えることを遠慮なく言ってきました。そのために白い目で見られてきました。わたしはとっくに仲間外れにされているのです。柔順でない者、不服であることを論理的に言い立てる者は、矛盾を矛盾と認識できない人にとっては目障りです。明確な弁証能力こそ、流動する社会のなかで実証を示す信仰人が持つべき特性なのに、無条件の服従を強いる。批判する者は地獄におちるなどと脅す姿は日顕宗と同じです。
また都合の悪いことには触れないという陰険さ。宗教というのはいつの時代でも自分本位で、たとえ醜悪な姿であっても自分で自分を礼讃してきました。特に教団のなかでは、巧妙に自己礼讃を他者の礼讃にすりかえるのです。
宗教的リーダーは自己アピール力に優れていることは言うまでもありません。しかも弁舌に陶酔し、いつの間にか誇大に自分史が作り変えられて伝説化するように組み立て直されるのです。誰だって自分の好きな夢を見て彷徨い歩いているのですから、虚構に生きるのも幸福ならそれで良いのかもしれませんが、ムリヤリおしつけられるほうは大変迷惑です。しかし受け入れないと不信心の烙印を押されてしまう。挙句に、あなたは性格が歪んでいる、病気になるだろう、事故に会わないように注意したほうがよい、不幸になる、といった悪口を承るのです。可愛い娘に向ってなんという不埒な言葉の数々。創価セクハラは今に始まったことではありません。

 
こういう言い方は変だと思われるかもしれませんが、宗教に真のリアリズムは存在しないのだと考えるようになりました。だって理想論ばかりなんですもん。現実認識はむしろプラグマティックな祈り体験のおかげです。会員の体験発表を聞くとよくわかりますよね。現実認識が成功の因になっています。
「みじめな自分に何ができるか?」という重大な問いを心の底からシリアスに発するわけです。そして変わることを決意する。現実から目を背けることなく変化するための手段と順序を定めるのです。すべて現実認識と自己への失望に起因している。祈りは不思議とそのような自己を目覚めさせ、回復への希望を自らに与えてくれるのです。暗から明へ、失望から希望へ、自己再生は困難と戦うことから始まります。
もしも願うことが叶わなかったらプラクティカルに「祈り方」を変えてみればいいわけです。人間の癖ですぐ普遍的な祈りを求めがちですが、時間や態度に縛られるのでなく、要は心のあり方次第。賢く道理を考え、合理的に、シンプルに、禁欲的に。卑しい乞食信心に落ちぶれてはダメ!
結局他人はごまかせても、自分をごまかすことはできないということです。自己洞察こそ仏法の基本であることをもう一度よく考えてみなければなりませんね。

 

この度の教義変更は、池田先生の指示によるものと思います。先生が何も語らないということが悩ましい。"弱い善人"のときと同じですね。影に隠れて反応を見ているわけです。不義は弟子の責任とでも言い訳する手段を残しておきたいのでしょうか。真の弟子は師を守る弟子だと言って憚らないわけですので、この場合の師弟は、なんて社会常識からかけはなれた関係なのでしょう。諸天の加護だけでは物足りないのでしょうか。不軽のように地獄にも一人で飛び込むのが真の勇者というものです。地獄とは娑婆のことです。今まで何度も一人立つと言われているではありませんか。
『師弟こそ仏法の真髄であるからだ。仏法の根本は「師弟」だ』
「こそ」で強調していますが、本当でしょうか?
仏法の真髄は、法華経だと思うのですが、間違いですか?
『仏法の根本は信を以て源とす』という有名な御文もあります。


わたしは師弟不二を離脱すると宣言しましたのでひとまず安心です。また御本尊への疑心がないかぎり、離脱宣言をしてもわたしを創価から追い出す正当な理由にはなりません。
しかし、わたしはいつか創価から破門されるかもしれない。破門されたわたしは『魂の独立』を果たす。この場合は破門とは言わずに、上から目線の除名と言うかもしれませんが、少しも改悛の情は起きてきません。
無冠の者を除名するほど不名誉なことはないし、御本尊への疑心がない者に御本尊への不信があると断定し除名するのは、不誠実な組織の性格を表しています。
善はいつも過少で、悪は忖度しない傲慢さと自信、不思議な力で人々を魅了し群れを作る。悪に親和性を持たないと誓ったのですから、この際、犀の角のように一人歩むのも人間本来の輝きを取り戻すチャンスなのかもしれない。妙法が志向する自己改革の毎日が、小さな悩める凡夫の精一杯のレジスタンスでもあるわけですので。

 

我れ等が・はかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし、いづれもいづれも・心に入れて習ひ願はば生死を離るべしとこそ思いて候に、仏法の中に入りて悪しく習い候ぬれば謗法と申す大なる穴に堕ち入つて、 十悪五逆と申して日日・夜夜に殺生・偸盗・邪婬・妄語等をおかす人よりも・五逆罪と申して父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となりて身には二百五十戒をかたく持ち心には八万法蔵をうかべて候やうなる、智者聖人の一生が間に一悪をもつくらず人には仏のやうにをもはれ、我が身も又さながらに悪道にはよも堕ちじと思う程に、十悪・五逆の罪人よりも・つよく地獄に堕ちて阿鼻大城を栖として永く地獄をいでぬ事の候けるぞ、譬えば人ありて世にあらんがために国主につかへ奉る程に、させるあやまちはなけれども我心のたらぬ上身にあやしきふるまひかさなるを、猶我身にも失ありともしらず又傍輩も不思議ともをもはざるに后等の御事によりてあやまつ事はなけれども自然にふるまひあしく王なんどに不思議に見へまいらせぬれば、謀反の者よりも其の失重し、此の身とがにかかりぬれば父母・兄弟・所従なんども又かるからざる失にをこなはるる事あり。
謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず・但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に・此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり、所謂勝意比丘・苦岸比丘なんど申せし僧は二百五十戒をかたく持ち三千の威儀を一もかけずありし人なれども、無間大城に堕ちて出づる期見へず、又彼の比丘に近づきて弟子となり檀那となる人人・存の外に大地微塵の数よりも多く地獄に堕ちて師と・ともに苦を受けしぞかし、此の人後世のために衆善を修せしより外は又心なかりしかども・かかる不祥にあひて候しぞかし/妙法比丘尼御返事

 

特に慎ましくあるべき財務は宗教組織には不適切で過度な奢侈のなかにあって、収入と支出のバランスに謙虚な姿勢がうかがえない。余剰金があるところに問題が起きるのであって、清貧な環境にある清潔な聖職者はお金の使い道に悩んだりしない。企業同様、合理化と管理組織の縮小に努めるべきであり、職員に高額なボーナスを支給する宗教組織などありえない。頻繁なテレビCM、一般紙や雑誌への広告掲載、会館建設。こぼれ落ちるほどのお金を懐に入れていないと安心できない。信濃町には餓鬼界の風が吹き、名聞名利の雨が冷たく降っている。
先生のご家系では、名誉会長を一代目とすれば、三代にわたり本部職員ですので世襲と言ってもよいでしょう。採用は能力には関係ないようです。戒めを自らの家系で破るのですから、その他の職員も推して知るべしです。でもどこか控え目。やはり後ろめたさがあるのかもしれません。宗教貴族はやがて名門化し、組織を蝕む。一般会員は自分に関係ないことなので関心を持たず、巧妙に目隠しされていて気づかない。お人好しなのか、アンチがよく言う思考停止なのかわかりません。
わたしはいっそ、選挙制度をとりいれ会長選挙をやればよいなどと考えてしまいますが、責任職と言いながら人気職になってしまうと政治力や経済力がある人、人脈がある人が当選し信仰など関係なくなるかもしれません。宗教教団は経営するもの。商品は御本尊です。株式にあたるのは会員一人一人の寄付でしょう。
また選挙となれば買収がセット。この際倫理を語れば、人間の業はどこまでいっても深い。組織の業も底無しです。組織に業があるのかと批判されそうですのでこれ以上書きません。


従軍慰安婦報道にもみられるように歴史改竄は取り返しがつかない結果を招く。朝日新聞は潰れてほしい。過去記事の検証はもちろん、記事を書いた記者の執拗な悪意も同時に検証してほしい。
記事を書いた一人、松井やよりはプロテスタントです。信仰と反日思想は関係ありませんが、人権蹂躙はおおいに信仰者と関係があります。なんでも好きなことをおしゃべりしてよい民主主義の日本でも信仰者は差別を受け、時に罵られることがあるからです。したがって信仰者は人権について敏感に反応する感覚を自然に身につけると言ってもよいでしょう。信仰は自由を基本としていることから、抑圧や悪意を込めた批判に対抗していかなければなりません。また信仰を理由にした搾取も、使命感と善意に過大に訴える搾取らしくない搾取も、人権問題の範疇に入るでしょう。
わたしは創価史を人権という視点から再編集することを望んでいます。
例えば、初期の折伏教典はほとんど人権を考慮していなかったと断定してもよいでしょう。生命尊重が法華経の思想とすれば、戸田先生の生命論があったにも関わらずその精神は理解されていませんでした。そのそもそも折伏は、勘違いや誇大解釈すると人権に配慮しない過激さを表してきます。それは現在でも同じです。わたしは折伏無用論者ですが、成熟した民主主義社会では摂受が最適でしょう。教条的な折伏論ではなく人権への配慮を欠かさない現代的な摂受論の展開を望むものです。
折伏を大上段に構えるから争いが起きるのです。はっきり言えば、折伏は人間(法華経の敵)を殺すことです。開目抄には、
『無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし』
法華経には折伏という文字は一つも出てこないのに、なぜ『常不軽品のごとし』となるのかわからない。礼拝行が折伏行とはならない。
「摩訶止観」には『夫れ仏法に両説あり、一には摂、二には折なり。安楽行の長短を称せざるが如きは是れ摂の義なり。大経の刀杖を執持し、乃至首を斬るは是れ折の義なり』とあり、物騒な定義を披露していますが、これは天台の独自のものと思われます。大聖人は天台の「論」をそのまま受け入れながらも、大聖人独自の解釈を加えたと考えたほうが正しいでしょう。「法華折伏破権門理」にその意思が集約されます。法華経が折伏思想に転換するためには大聖人の激しい性格も影響しているように思われます。
この激しさゆえに戦前、日蓮主義者が戦争容認以上に過激な推進派にならざるをえなかった。わたしは創価教育学会の実験証明座談会にも戦争遂行の内容が含まれていたという疑いを持っています。こういった戦前戦中の創価の平和思想に積極的にアプローチしている松岡幹夫氏に期待を抱いていますが、今までわたしを納得させる論文や著作は、残念ながら拝見しておりません。
また創価史のことを言えば、戸田先生はアル中だったのではないでしょうか?
一部では愛人もいて子どももいたというスキャンダラスな話もありますが、こういうことは闇から闇へ葬られる性格のものですので検証は難しいのかもしれません。
最も良く創価を理解していたと考えられる戸田先生の奥様やご子息と池田先生が離反したのはなぜなのか?
悪知識に遭い謗法を犯したと恩ある人を冷たく見つめる。根底に人間不信があるのでしょう。
わたしたちはそれぞれ、心のなかの弊害を克服するために善なる行為で自らを戒める。ときには心のなかの醜い部分を治療するために真逆の行動をとり、人格完成をめざすのです。人格は知性の延長です。賢い自己は愚かな自己のリバースサイド。信は不信から生まれ、人間主義は否定的自己を救済するために、自己が自己を導いて生まれた。
戸田先生が長生きされていたならば、二代会長と三代会長は別行動をとった可能性が大きいと思う。
戸田先生のご家族の姿を見ればそのように推量したとしても無理はありません。
師弟関係はときには争いのタネにもなりますが、争えば師弟とは言わないのかもしれません。忠実に従うことは命懸けです。思想に殉じることを信仰とも言いますが、師弟という人間関係は、思想に殉じるから師弟というのであって、人生の英知を法に求める貴重で稀な関係です。混乱する世界を救いたいという堅固な意志と叡智は、釈尊の第一の説法であり、願いであり、大聖人の行動を決定した動機でもあります。

動機は出世の本懐と訳されますが、大御本尊こそ人類への希望であることを、すなわち、掛け替えがないものであることを強く再考すべきです。今は手の届かないところにありますが、何事も永遠には続かないのです。さらに御本尊さまの力を過小評価する過ちをおかしてはならない。
大河の水は元をたどれば山の端から流れ、谷から注ぎ、ついには山の頂上から流れる一滴が始まりです。一滴は代替できません。一滴が失われると河も失われ、作物も育たない荒野になるのです。創価も牧口先生という一滴から始まりました。その一滴を想い慕わずして創価は創価でなくなります。


また競走馬のように選挙レースを走らなければなりませんね。ご苦労様です。



 

更新の意欲を失いブログを放置している間に、コメントをいただきました。 十数人の明朗な方々には自分の信念と強い意志で問題解決していくことを望みます。
リコメントはありません。ありがとうございました。

 

 

soka

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