その日。特に予定のない休日。本屋から帰ってきた小夜子は、玄関に、見覚えのある見慣れない靴があるのに気づいた。
「あれ? お母さーん、お兄帰ってきてるのー?」
恐らくはリビングで数独と戦っているであろう母の方へと問いかけると、案の定「そうよー」と返事だけが響いてくる。
(珍しいこともあるもんだ)
小夜子には兄弟がいるが、アラサーになっても堂々とパラサイトシングルを続けている小夜子と違い、兄は一人暮らしを始めて久しい。自立心があるというよりは、彼女となし崩しに同棲を始めただけだが。
最近は少しヤンチャも収まってきたらしいが、実家に帰ってくることは滅多にない。家族よりも女と遊び。自分とは真逆のどストレートな生き方を貫く兄だったが、意外と兄弟仲はそこまで悪くない。男女の性別の違いもそうだが、いっそここまで性格が真逆だと、お互いの意見が違いすぎて嫌いになることもできなかったのである。
(お兄、今日は夕飯食べてくのかなー……)
トントン、とそんなことを考えながら階段を登り、部屋のドアを開けると。
「よぉ、サヨ。久しぶりだな」
「何してんのお兄」
兄がいた。
兄が、土下座していた。
さして広くもない六畳間の自室。だが、まぎれもなく彼女の部屋である。狭いながらも一応クローゼットもついていて、自分の給料で買ったパソコンやテレビもある。小夜子にとって、この世でもっとも寛げる場所。本来ならば、彼女だけの神聖なるテリトリーであるはずの部屋に、無礼な不法侵入者の姿を発見して、彼女はほんの少し眉根をくもらせた(土下座自体は日常茶飯事なのでどうでもいい)。
いや、兄妹だ。家族である。別に、部屋に入るのは構わない。土下座していても構わない。だが、本人が留守中に勝手に入るとは何事か。しかも、年頃の(誰がなんと言おうと!)妹の部屋に勝手に入るなど。
しかし、そんな乙女心など知るよしもなく、きちんと足を揃え、扉の前でそれはそれは綺麗な土下座を披露している兄は、お代官様に訴状する村民のごとく頭を床に擦り付けたまま、
「実は、お前に折り入って頼みがある」
「嫌だよ」
「実は、ちょっと金を貸して欲しい」
「嫌だってば」
「頼む。この通りだ!どうか、兄ちゃんを助けると思って! 一生に一度のお願いだ!頼む!」
「お兄の一生って、私が聞いたことあるだけで、軽く五十回以上あるよね」
一体人生を何回リトライすれば気が済むんだろう。
「今度は違うから!今度は本当に最後だから! つーか、ここでお前が金貸してくれないと、俺彼女に振られちゃいそうなんだよ!だからな、頼む!本当、マジ頼むから!」
「えー、だから嫌だよ。お兄ってそう言っていつも返さないじゃん。私だって、今度の連休で友達と旅行に行く予定あるからお金ないの」
「マジで? え、なになに? お前もついに彼氏が出来たんか?」
「違うよ。友達と旅行って言ったじゃん。女の子だよ。一緒に島根の出雲大社に行くの。ちょっと恋愛運が上がるようにお参りしようと思ってさ」
ほら、と買って来たばかりの旅行雑誌を得意げに見せると、兄はなんとも言えない憐れみの表情を浮かべた。
「……なぁ、サヨ。人生経験豊富な兄ちゃんからアドバイスをしてやるとだな。本気で彼氏が欲しいんだったら、んなとこ行ってねーで、合コンでも行った方が早いぞ」
「嫌だよ。知らない人とお酒飲むのとか怖いじゃん」
「んじゃ、百歩譲って街コンでもいい。怪しい神頼みなんかより、絶対効果があるから」
「煩いなー。だいたい、そんなこと言ってお兄の方こそ、変な女の人に引っかかってんじゃないの?お金ないと別れるなんて、それ絶対カモられてんじゃん」
「ちげーよ!あいつはそんな女じゃねぇし!別に金をたかられてるわけじゃねーよ!ただちょっとーー記念日とか、イベント関係を必要以上に大事にする奴っつーか……」
「は? 何それ。どゆこと?」
ベッドにごろんと寝そべり、さっそく買って来たばかりの雑誌をめくりながら尋ねる。お、ここ素敵。チェックしとこ。
「お前……真面目に聞く気ねえだろ」
「それがスポンサー様(候補)に対する態度?いいから話てみなよ。乙女心は女子に相談するのが一番っていうでしょ?」
◆◆◆
だらだらとベッドの上で寝そべりながら、詳しく話を聞いてみれば、酷く単純な話だった。
「つまり、彼女さんがデートの時ぐらいオシャレなお店で食事したいっていうから、その資金を貸せってこと?」
「おう。ほら、俺もさ。仕事がシフト制だから、夜勤とかあるだろ?そうすっと、休日早く起きるのはしんどいんだわ。でもさ、なんか最近パンケーキとか?なんかテレビとかでそういうオシャレな朝飯が流行ってんだろ?あいつも、そういうとこ行きたいらしくってさ。でも、時間的にむずいじゃんか。したら、せめて記念日とかのデートの時には居酒屋じゃなくて、どっか雰囲気のいい店で飯でも食いに行きたいって」
兄はこう見えて(童顔)結構な酒飲みなので、家族で外食に行っても、大抵は居酒屋が多い(勿論、子供たちがみんな成人してからだが)。居酒屋と言っても、最近流行りのいわゆる女子会とかに使われそうなシャレオツな店ではなく、カウンター越しに大将が焼き鳥と焼酎出してくれるような、コッテコテの大衆居酒屋だ。無論、それを好む女人というのも、世の中には確かにいようが、ロマンチックな記念日デートには、別の店を好む女子がいるのも、当然のことだろう。
「えー、それはお兄が悪いよ。彼女さんの気持ちも分かるなー。記念日に居酒屋連れてく男とか、正直ありえない感じ」
「いや、俺だってそりゃ、誕生日とかなら奮発するぜ⁉︎それか、クリスマスとかならさ! でも、付き合って三ヶ月だの、ダイエットに成功して半年だの、始めてドライブデートから一ヶ月だの、会うたびにイベント設定されてみろよ⁉︎なんぼなんでも付き合ってられんわ!」
「なーるほど。んで、お金を貸してくれってわけ?」
「……おう。なんだかんだ言って、断ってばっかりだったし、たまにゃー妥協してやろうかなって思ってよ。でも、ああいう店って結構いい値段すんじゃんか。一回で一人三万とか吹っ飛ぶじゃんか。ちょっと今月キチーんだよ。というわけで、小夜子銀行様にご投資いただけないかなーと」
なっ、と両手を合わせて小首を傾げ、拝むような姿勢で懇願してくる兄は(オマケにとどめとばかりの上目遣い)、その童顔と合間って、なるほど我が兄ながら確かにモテる理由も分からなくもない。妹と違い、昔から異性には事欠かない兄である。だがしかし、必殺の泣き落とし(あるいは女落とし)のポーズであれ、それが半分以上同じ遺伝子で構成された実妹とあっては、大した威力も発揮しない。むしろ無駄撃ちもいいところである。アンデッドにデス系魔法かけるぐらいの不適切さだ。
さて、どうやってこの面倒ごとを抱えた厄介な生物を追い出すか。
兄にとっては切実な(しかし小夜子にとっては比較的どうでもいい)事態に早くも興味をなくし、彼女は密かにうーんと頭を悩ませた。きっぱりと男らしく一言で拒否するのは簡単だが、一度粘り始めた兄のしつこさたるや、その程度の拒絶で防げるほど生半可なものではない。そんじょそこらのトリモチなんぞ、軽く凌ぐほどのしつこさである。ATフィールドを全開にしても、位相空間を力づくで中和されてしまいそうだ。
小夜子がはて、どうしたものかと知恵を絞っていると、ふと彼女の目にあるものが止まった。それは、以前帰宅時に見つけたとあるお店で貰った、店舗カードだった。
「……ねえ、お兄。デートの場所ってさ、別に値段が高くなくても、雰囲気よくてご飯が美味しかったらいいんだよね」
「むしろ、そんな店があるなら願ったりだ」
「なるほど。それなら――」
いい店あるよ。と、小夜子はにっこり微笑んだ。
◆◆◆
『真夜中カフェ(元)魔王』
相変わらずのこじんまりとした店。相変わらずのひと気のない深夜。相変わらずの古びた看板を親の仇のように眺めながら、口をへの字に曲げた兄は、疑わしそうに「ここか?」と尋ねた。
「そうだけど……なんでそんなに怖い顔してるの?」
「いや、お前こそなんだってそう普通に入ろうとしてんだよ。よく見ろよ看板。魔王ってなんだ魔王って」
しかも元だぞ?と、さながら親とはぐれた子猫のように、警戒心を剥き出しにする兄を、とりあえずどうどうと宥めながら、
「いいじゃん。こういうメルヘンなのって、女の子に人気でしょ?」
「メルヘンというか、この場合はむしろメンヘル的な怪しさが漂うんだが……」
「別に、危ない店じゃないし。見た目だってほら、一軒家風で可愛い感じでしょ?」
「まあ、確かに外見は普通だが……」
「中だって普通のお店だよ。こんばんわ――って、あれ?」
相変わらず少し重い木の扉を押し、中に入ってみるが。相変わらずカウンターの奥にいると思った、角の生えた魔王は意外なことに不在だった。はてなと首を傾げる。
「……定休日?」
「んだよ。やってないのか?」
後ろから続けて入ってきた兄が、人の頭ごしに店内を見回す。小夜子も一緒にきょろきょろ探してみたが、やはり角と牙の生えた魔王陛下のお姿は見当たらなかった。
「店の表にはOpenの看板出てたぞ」
「うーん、鍵もかかってなかったし……ひょっとして、買い出しにでも行っちゃったのかな?」
「鍵もかけずにか?不用心な奴だなー」
兄が呆れたように言った。まあ確かに、短時間とはいえ鍵を開けたまま留守にするなど、防犯上はあまり褒められたことではないが、どっこいこの店の主は魔王である。勇者クラスでなければ、訪れる者もないという城に住んでいたら、当たり前の防犯観念も身につかなかったのかもしれない。
「どうするお兄?今日は帰る?」
「いや、せっかくだからちょっと待ってみようぜ。鍵も空いてたし、すぐに帰ってくるかもしれねぇし」
「大丈夫かなー。私たち、これ不法侵入とかにならない?」
たとえ客として訪れたにしろ、店主のいない店で堂々と寛ぐにはあまり褒められたことではない。しかし、兄はどうということもなさそうは表表情で、
「別に平気だろ。閉店中にピッキングして侵入したってんならともかく、ちゃんと表にOpenの看板出てたんだし。外さみーしさ」
「でもお母さんはお兄が出かけるって聞いて、残念そうにしてたよ」
久しぶりに帰ってきた息子と、一緒に食事をしたかったのかもしれない。なんだかんだで、娘よりも息子に甘い母だ。
しかし、兄は憮然として言った。
「なんでたまに実家に帰って来てまで、家の晩飯作らされなきゃなんねーんだよ」
「お兄のご飯美味しいじゃん。お母さん、今日は手抜きが出来るって喜んでたのに」
「あの人が手抜きするのはいつもだろ。つーか、うちの母ちゃん、普段からロクに料理なんぞしねぇじゃねえか」
今晩は久しぶりに兄と一緒に(兄の手料理を)食べられると思っていたらしい母は、兄妹が揃って出かけるというと、大層がっかりとしていた。しかし、ならばついてくるかと聞いても、外は寒いからとあっさり断るところが、母の母たる所以である。
兄がフリーダムに座っているのに、自分だけ立って待っているのも馬鹿馬鹿しい。小夜子は自分も席につこうと椅子を引き――
「我が店で一体何をしておるのか」
「あ、店長さん」
不意に入り口から聞こえてきた地獄の底から湧き上がるような、無駄な迫力に満ち満ちた声に振り向くと、そこにはいつの間に帰ってきたのか魔王陛下が立っていた。
黒のパンツにジャケットを羽織った姿は、まるで近所のコンビニにちょいと出かけるだけのような気軽さだが、魔王クラスともなれば、そんな当たり前の服装がまたビックリするほど似合わない。なんか逆コスプレをしているようだ。
変装のためか、あるいは最近めっきり冷え込んでた夜の冷気を防ぐためか、邪悪に尖った耳を隠すように深くニット帽をかぶっているか、どっこいどんなに上手に隠しても、こめかみから伸びたぐるりと渦を巻く角だけが見事にニットの外に出ている。隠しきれなかったわけではなく、わざわざそれ専用に穴まで空いているほどの用意周到っぷりだ。
しかし、角用に穴の空いたニット帽なんて、一体どこで売っているのだろう。
……お手製?
とある可能性が天啓のように彼女の脳裏に閃いたが、ニット帽の完成度を見るに、追求しても彼女の乙女心の柔らかい部分が傷つきそうなだけなので、深く追求しておくことはやめておいた。
かわりに、入り口に佇む魔王に道を譲るように座りかけの椅子から立ち上がる。
「お久しぶりです。その、以前はどうも。あと、すみません勝手にお店に入っちゃって」
「どこぞの勇者かと思いきや、そなたはいつぞやの小娘か。ふん、こんな短期間に再び訪れるとは、よほど我が料理の虜となったと見える。して、そこの男はそなたの連れか?」
「あ、はい。実は私のーー」
魔王の視線に促され、兄を紹介しようとして。
ちらりと見ると、兄は硬直していた。驚きに見開かれたぱっちり二重がーームカつくことに、下手にアイプチ使ってる女子よりよほど二重ラインがくっきりしているーー店長の人間と呼ぶにはあまりにも整いすぎた美貌、血色を凝縮したような真紅の瞳、そして何よりニット帽の穴から伸びる角に釘付けとなり。そして。そして。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!! 頭から角が生えてるうううううううううっ!? 魔王だあああああああああああああああっ!?」
妹に引き続き一目で店長の正体を見抜いた兄が、魂の底から絶叫をあげた。
しぃんと静まり返った夜更けに響く、ご近所さんに迷惑であろう、絹を裂くような野郎の悲鳴を聞きながら小夜子は、そういえばお兄は昔から怪談やホラーが苦手だったなぁと思い出した。
***
夜中に騒ぐなと怒られた。
そもそも、営業許可を取ってあるとはいえ、世間一般的には現在の時刻が遅い時間であるということ。店舗が駅前の繁華街ではなく、住宅街に居を構えているということ。開業時に近隣への挨拶周りは済ませているが、それでも率先して迷惑をかけてもいい理由にはならないということ。
「いくら真夜中に営業しているとはいえ、この店は別に風俗でもカラオケでもない。余の目の黒いうちは、二度とかような真似は許さん。しかと心得ておけ」
「はぁ、すみません……」
ホラー映画に出てくる吸血鬼のような真っ赤な瞳でこちらを睨みつけながら(店長にとってはひょっとして睨んでいるつもりはないかもしれないが、デフォルトの目つきが鋭すぎるせいで睨んでいるようにしか見えない)、パーフェクトにまっとうなことを淡々と語る店長に、他に言い訳のしようもなく、小夜子は申し訳ない思いで頭を下げた。
恐縮して身を縮こまらせる小夜子に、反省の証をみたのか、店長はそれ以上は咎めることなく、客人に飲み物を出してくれた。カウンター越しに出されたお茶に、兄がビクリと震えたが、彼の魔王に対する拒絶反応はその程度で済んだ。
「ふむ……しかし、店で騒いだのは感心せぬが、こんなにも短い間に、しかも家族とはいえ、新規顧客を連れて来訪したこと自体は褒めてつかわそう」
「あ、やっぱり分かりますか。兄妹って」
名乗る前にあっさり言い当てられてしまったが、昔から兄妹揃うたびに、似ていると言われ続けてきたので、それほど驚くことではなかった。実際、彼らはとてもよく似ている。兄の方がまつげが長くて、兄の方が瞳が薄くて、兄の方が肌が綺麗で、兄の方が髪の毛がサラサラしているが、レベルはどうあれ、目鼻立ちや口元などの、パーツ自体はとてもよく似ている。
……我が兄ながら、実に妬ましい。なんで逆に産んでくれなかったんだ母よ。
「ああ、そなた達の魂の色はとてもよく似ているからな。ここまで近しい色合いとなると、非常に近しい肉親以外にはありえぬ。親子でない限りは兄妹ぐらいしか可能性がない」
「………………」
生まれてから一度も指摘されたことのない相似点だった。
ツンツン、と隣に座る兄が、不安そうに肘で脇腹をつついてきた。
「……おい、大丈夫か?魂とか言ってるぞ。魂狙われてんじゃねぇのか俺ら」
「えー、大丈夫だよ。お兄心配しすぎ。こんなの、単なる世間話みたいなもんだって。あのですね、店長さん。今日は、お兄のデートの下見に来たんですよ」
「ほう……デートとな?」
店長の迫力ある真紅の眼差しが、すぅ……と兄に向けられる。途端、兄がひっと小さく悲鳴をあげて身をすくめた。図体ばかりはでかくなったくせに、相変わらず小兎よりも小さいハートを持つ男である。昔お化け屋敷で、恐怖のあまり彼女を放置して逃げ出してきたことは、今でも一族間でお正月に語り継がれる伝説となっている。
「お、おおおおおおお、おう。っこ、こここっこここいつからららら、いいいいい、いい店があるって、聞いててててて―ー」
「ほほほほほほほほう。そそそそそそ、そそそそそれは、なななななかなか、みみみみ見る目があるなななななな。しししししし、して、どどどど、どういったたたたたた」
「あ、店長さん店長さん。兄はちょっと緊張してどもってるだけですから、別に話し方合わせてくれなくてもいいです。普通に話してください。普通に」
「そうか」
親切心なのか、逆にわざとだったのか。震える心臓とともに、滑舌まで振動するようになってしまった兄の口調に合わせて、やたらと無意味にどもっていた魔王の口調をやんわりと止める。二人同時にあんな喋り方をされた日には、聞き取りづらくて適わない。
一方で、そんな魔王の気さくさに少し気分がほぐれたのか、あるいは妹の魔王に対するあまりに気安い態度に、恐怖心が薄れたのか。改めてごほんと咳払いした。
「お、おう。じ、実はな、俺の彼女が最近、こういうおしゃれなカフェとかに興味があるらしくてよ……まあ、俺としてはどっちかっつーと、焼き鳥屋みてーな、がっつり食える系の店の方が好みなんだが、せっかくの妹の勧めだし、アイツと来る前に、ちょっとどんな店か覗いておくのもいいかなーって思ってよ」
「ふむ……なるほど。そういうことか。鳥肉……か。丁度いい」
精一杯に虚勢を張りつつも、どもらないように必死になって早口でまくしたてる兄に(緊張すると早口になるタイプ)、魔王はふっと唇の端を釣り上げた。
「飛んで火にいる夏の虫とは、まさに汝らのことよ。今日この日、我が店に訪れた幸運を感謝するがよい」
魔性の美貌に浮かぶ、不敵な笑み。薄く開いた唇から、わずかに鋭い牙が覗く。人を喰らう獣のように禍々しく、しかしどこか見るものを魅了する、自信に満ちた獰猛な笑み。
「お兄とやらよ、案ずるな。そなたの望み、そなたの願い。全て余が叶えてやろう。そして、同時に予言する。全てが叶った暁には、そなたは間違いなく余の元に平伏すであろう!」
訳:お客様のご希望にそったメニューを、こちらでご用意させていただきます。
ボリュームや盛り付けに関しましても、自信をもってお勧め出来る一品です!一度お試しいただければ、きっとご満足いただけると思います!
サービス業のくせに妙に上から目線な魔王語(プラス高々とした哄笑つき)は初心者には厳しかろうと、接客用語に翻訳してやろうと思い隣を見ると。
いつの間にか、兄がいなかった。
がらんとした椅子。開け放たれたままの扉から、妙に寒々しい秋風が入り込んでくる。
店長のあまりの迫力に、兄はびびって逃げ出した。
◆◆◆
魔王さんのワンプレートカフェご飯
お肌プルプル! コラーゲンたっぷり! ピリリと薬味の効いたシンガポールチキンライス!
女性にオススメ!これで冷え性もばっちり改善! しっとり柔らかな鳥肉に、優しい味の生姜スープを添えて。
女性に嬉しいコラーゲンたっぷりの鳥肉と、体の中からぽっぽと温まる生姜のスープを添えたセットメニューです。これさえ食べれば、翌日のお肌は完璧かも?
作り方
鍋にたっぷりとお湯を沸かし、生姜とニンニク、ぶつ切りにした長ネギを入れる。好みで玉ねぎを入れてもよい。
お湯が沸騰したら、そこに不死鳥の肉を入れて一煮立ち。ただし、仕留めたばかりの不死鳥の肉は、油断するとすぐに燃えて再生しようとするので、保管の際は気をつけること。
鍋に蓋をして、低温でじっくり、じんわりと肉に熱を通している間に、茹で汁をちょいとすくって醤油を一匙。そのスープでご飯を炊く。炊飯器だと時間がかかるので、圧力鍋で一気に炊き上げてしまうのが、時短ポイント。
肉に火が完全に通ったら、さっと水洗いしたあとに水気を切って、薄くスライス。
最後に、鍋に残ったスープの味をみながら、塩と醤油で味付け。あれば好みで少量の香菜を加えても美味しい。
低温でじっくり調理した柔らかい鳥肉(不死鳥)と、その肉で出汁をとった贅沢な生姜のスープ!不死鳥の回復力で、食べれば明日はぷるぷる美肌間違いなし!
鳥のうまみを最大限に味わえるメニューです。鳥肉が大好きなあなたにも、美容が気になるあなたにも、ともにご満足いただけること間違いなし! あっさりとした茹で鶏に、コクのあるごま油と醤油、刻みニンニクを混ぜた特製タレをかけて、仲良くどうぞ召し上がれ!
***
とりあえず兄に携帯で連絡したら、意外と素直に帰ってきた。
呼び出すにあたり、魔王語(翻訳バージョン)を添えたことが、効果を発揮したとみえる。小心者のわりに、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが、兄の長所であり短所でもある。
むしろこの場合、身内である兄よりも店長への言い訳を考える方が、難易度が高かった。なにせ、客にせっかくサービストーク(魔王語バージョン)をしていたところ、その本人が目の前で脱兎のごとく逃げ出してしまったのだ。これは、失礼というレベルの話ではない。脳内で素早く対策検討会を開いた小夜子は、はたしてこれで正解なのだろうかと悩みつつも、兄が腹を下していたこと、ここ最近の冷え込みで、彼の繊細な腹が限界に達していたこと、しかし初めて訪れた店でトイレに篭るのも忍びなく、ダッシュで家まで帰ったことを、おずおずと伝えた。きょうび、小学生でも騙されないような単純明快な嘘オンパレードだったが、意外にも魔王は「さようか。ならばしかたあるまい」と、驚くほどあっさりご納得された。
「その程度のことで、余が機嫌を損ねるはずもなかろう。しかし、我が店の厠を汚すまいとしたその気遣いは褒めてつかわす。だが以前も申したとおり、余が目指すは訪れる客が心ほっこり落ち着ける隠れ家のような店。自宅の厠を使うのに、気遣うものもおるまい。おぬしの兄には、次回より気にせぬよう申し伝えよ」
第一、厠の掃除は小悪魔に任せておるゆえ、余的には問題ない。と、さらりと付け加えた一言により、なるほどこの店の衛生管理は魔王のみで行っているわけではないのだということが判明した。まあ、いくら店長を勤めているとはいえ、トイレ掃除をする魔王陛下というのも、なかなか想像がつかないが。
「ちゃーっす……」
がらん……と扉が開き、逃げ出した兄が戻ってきた。さすがに少し気まずいのか、しょんぼり肩が落ち込んでいる。しかし魔王陛下はまったく気にした様子もなく「腹の具合はどうだ?」と聞いた。「腹?」そのへんの事情をメールで説明していなかったので、兄がはてなと首を傾げるが、小夜子が咄嗟にとった、鳩尾に肘を突き刺すというファインプレーによって事なきを得た。
うぐぐと腹を押さえてうつむく兄に「まだ不調のようだな」と、セリフのわりにあまり心配してなさそうな視線を向けると、コトリと湯のみを出した。腹痛の兄にお冷はよくないと気遣ったのだろう。ほんのりと温かそうな湯気が立ち上る。香りからすると、きっと中身はほうじ茶だ。
「腹痛ともなれば、胃に優しいメニューがよかろう。今宵のメニューは、余の采配に任せるがよい。ちょうど折良く、弱った体にはうってつけの素材を入手したところよ」
くくくっ……と、エプロンを装備しながら、暗黒色の笑みを浮かべる魔王を見て、兄が今更ながら、不安そうに耳元に口を寄せてきた。
「……な、なぁ。なぁ、本当の本当に大丈夫なのかあの人! 人? の作るもんなんか食べたりして。食べたら最後、うっかり魔の眷属とかになっちゃったりしないか?」
「大丈夫だよ。お兄心配しすぎ。別にそんなことないって。ただの普通のカフェ屋さんだから。ちょっと店長さんに角と牙が生えてるだけだよ」
「角と牙が生えてる時点で、全然ちっとも普通じゃねぇだろ!?」
「そんなことないよ。確かにちょっと誤解されやすい外見だけど、ああ見えて店長さん、実はすっごくいい人だし」
「魔王は人じゃねぇだろ!?」
「ちょっと、お兄。本人の前でそういうこと言うのは失礼だよ。それって人種差別だよ」
「だから魔王は人じゃねぇだろ!?」
兄と妹がお互いに縮まらない価値観の中で、言い争っているうちに――
「待たせたな」
相変わらずの上から目線で、店長の大きな手が、カウンター越しに小夜子の前に料理を置く。大皿が一枚だけだ。どうやら、本日はワンプレートものらしい。
「わぁ、今日のご飯も美味しそう! 店長さん、なんですかこれ?」
「うむ。これはな『一皿で鳥のうまみを一人占め! 食べればちょっと旅気分? 美肌の味方、シンガポールライス不死鳥|《フェニックス》仕立て』だ」
「へぇー」
単純に料理名を聞いただけなのに、例によって例のメニュー名をフルネームで答えてくれた。
多分、せっかく考えたメニューなので、言いたくて仕方なかったんだろうな、と思った。
「シンガポールライスって言うんですね。初めて聞きました。店長さんって、意外と地球のレシピに詳しいですよね」
「たゆまぬ努力の結晶だ」
恐らくは、異国というか、異界というか、魔界出身であろう立場で、これだけいろいろと地球のメニューを見事に再現する手腕は、実際に見事なものだった。
本日、真っ白い大きめの皿の上には、ライス、チキン、小さいマグカップに入ったスープと、サラダかわりの焼き野菜が乗っている。見た目的にも、いかにもカフェ飯らしい盛り付けだったが、前回の絶品パンを期待していただけに少し残念だ。
「あの……店長さん。今日のセットには、パンはつかないんですか?」
駄目元で聞いてみると、店長はただでさえ迫力のある顔を僅かにしかめ、
「ふむ……どうしてもと乞うならば、単品として用意出来ぬこともないが、しかし注文する前によく考えよ。そして、己の内なる魂に問いかけるのだ。この皿の量で、果たして本当に自分の腹は満足しきれぬのかと――そして、この時間に炭水化物をを必要以上に摂取する危険性を犯してまで、今この場でどうしてもパンが食べたいのか、と」
「すみません。やっぱりいいです。また今度にします」
魔王様に深夜における乙女としての心得を説かれ、小夜子はあっさりと要求を引っ込めた。と、ちょいちょいと隣の兄が袖を引っ張ってくる。
「……なぁ。俺の分は?」
「あ、本当だ。あの、店長さん……ちょっと一人分足りないみたいなんですけど」
もしや、兄は腹痛(デマ)なので、本日は胃を休めるために大人しくほうじ茶(温かい)でも啜ってろという意味なのだろうか。いや、そりゃ確かに家に帰るほどの腹痛と偽ったのはこちらだが、本日の目的はなにより、兄の次回デートの視察である。しかし、ここで肝心の兄が食べられないとあっては本末転倒。次回のデートにも活かせない。どうしたものかと思っていると、案ずるなとばかりに店長がゆるりと重々しく首を振った。
「皆まで言うでない。そのような失態、余が侵すはずもなかろう。心配せずとも、すぐに用意してやる」
「あ、そうなんですか。よかった」
ほっと一息つくものの、店長は相変わらず一仕事終えた男の顔で寛いだまま、新たに一人前を用意する気配はない。かわりとばかりに、一つ大きく手を打った。
「……さきほど話したであろう? このメニューは不死鳥の肉を使ったものだ。不死鳥、というのは底なしの生命力が売りの鳥でな。たとえ死した後であろうと、炎の中から何度でも蘇るという凄まじいまでの回復力を持っている。その生命力は、精肉となったあとでも僅かではあるが残っている。なので、このように少しばかり脅かしてやると――」
店長の大きな手のひらが鳴らす、ぱんっ!という大きな音とともに。
ぽんっ、とこちらも音を立てて、テーブルの上に置かれたメニュープレートが、どこからともなくもう一人前分現れた。
絶句する兄妹を前に、店長がごくしれっと続ける。
「と、このように驚きのあまり鳥肉が生命力を振り絞り、細胞分裂を起こした結果、メニューがもう一人分増える」
「そんなわけあるかああああああああああああっ!?」
あまりの理不尽に、恐怖のメーターを振り切ったのか、兄が絶叫をあげた。
だが、こうして実際に目の前にある以上、否定しても仕方ない。小夜子もまた驚いてはいたが、それでも兄よりは落ち着いた(と、自分では思う)態度で、まじまじと皿を見つめた。ほかほかと温かそうな湯気を立ち上らせる、見た目もそっくりはプレートが二つ。ぱっと見だけでは、どちらが鳥肉の生命力の慣れはてか区別がつかないほどだ。盛り付けも完璧で、どちらからも間違いなく、食欲をそそる美味しそうな匂いがする。
小夜子が出した結論は一つだった。思わず感心しながら呟く。
「エコですねぇ」
「サヨちゃんの目は節穴かよ!?」
妹の予想以上に呑気な感想が気に食わなかったのか、兄が血を吐くような勢いで悲鳴をあげた。混乱のあまりか、呼び名が子供時代に戻っている。サヨちゃん。お兄ちゃん。昔は互いにちゃんづけだったものだが、それも今は昔。小夜子が小学生を卒業したあたりから、呼び名にちゃんが消えている。時の流れとは残酷なものだ。
小夜子が時と共に移ろいゆく兄妹関係をしみじみと考えていると、店長が忘れていたとばかりに付け加えてきた。
「そうそう。ちなみに、忘れておったが今回のメニューは、材料そのものは一人前分しかかかってないので、料金のほうも一人分でよいぞ。二人分の料理を食べて、なんとお値段は一人分! どうだ? ボリューム、値段ともに満足出来る、まさしくデートにピッタリなメニューであろう?」
「そういう問題じゃねえええええっ!」
ドヤ顔で得意がる魔王に、兄が全力で絶叫した。一方小夜子は、その良心的なお値段設定に思わずパチンと手を打った。
「わぁお得」
「サヨちゃんはもう黙ってろ!」
「やれやれ。夜中に大声を出すなと言ったであろう。そなた、一体何が気に入らんというのだ」
「気に入るとか気に入らないとかいう問題じゃねぇだろ!? なんでだ!? なんでいきなり食いもんが増殖するんだよ!?」
「だから、それは不死鳥の持つ生命力ゆえ――」
「たとえどんだけ生命力かカンストしてようが、死後調理済みの状態で、メニュー増殖なんていう特殊能力があってたまるか!?」
「だがこうして実際に」
「やかましいわ! つーか大体! 百歩……いや、億歩譲ってこれが不死鳥の生命力のたまものだと言い出すなら、肉はともかく米からスープやらが増えるのはなんでだ!?」
「共に鶏出汁を使っておるからだ。米を炊く時の水と、スープ自体にな。そう不思議がることもあるまい。不死鳥は奇跡の鶏。ゆえにこうして類稀なる奇跡を起こす」
「奇跡すぎんだろうが!? だったらなんで食器まで増えてんだよ!?」
「それは奇跡サービスというやつだ」
「そんなミラクルがあってたまるかああああああああああっ!?」
目の前の出来事を処理しきれなかったのか、兄がいろいろと限界そうな悲鳴を上げる。そんか兄がを、迷惑そうというか、軽く面倒くさそうな視線で眺める店長に、申し訳なさを感じつつ、小夜子はそっと兄の袖を引っ張った。
「もう、お兄ったら! そんなに騒いじゃお店にご迷惑だって。それに、これすっごく美味しいよ? ぎゃーぎゃー言ってないで、お兄も食べてみなよ」
「なんでお前普通に食ってんの!?」
あまりに騒がしいので、試しに一口と勧めてやると、素で驚かれた上に若干引かれた。まったく失礼な反応である。意味がわからない。
「だって美味しいもの。なんでもなにも、そもそも私たち、食事しに来たんじゃない」
「いや、でもそれ……拍手で増殖するんだぞ? ちなみに、お前食ってるのどっち?」
「オリジナル」
「てことは、俺が謎ミラクルによって増殖した方を食うのか……?」
なにやら俯く兄の顔があまりに沈痛だったので、小夜子は今更ながらではあるが、そっと目の前の皿を押し出した。
「……えーっと。交換する?」
「……いや、いい。よく考えてみれば、そっちを食うのもそれはそれで勇気がいりそうだし」
そして、ぐっと顔を引き締めると。意を決したように箸を手に取る。
「……いいだろう。俺も男だ。いくら昔から天然入ってる無神経なボケ体質とはいえ、仮にも妹が平然と食ってるもんに、いつまでもビビってられっか! けどな、俺はこいつよりずっと繊細に出来てんだ。当然、味にもそれなりに煩いぞ! 半端な飯じゃ納得しねぇからな!」
「ふっ……おもしろい。臨むところよ。我が真髄……我が力の結晶たる本日のおすすめメニューを食べたあとで、もう一度同じセリフが吐けるものならな!」
まるで決闘を申し込むがごとき兄に、それこそ売り言葉に買い言葉と、魔王が不敵に受けて立つ。が、受けてたってもあくまでそれは食事の話であり、実際にガチンコで殴る蹴るの勝負をするわけではない。
ごはんの話だよー。
まず最初に兄が手をつけたのは、ほんのり色づいたご飯からだった。箸でつまみ、えいやっと一口。
「!?」
うまい。
いや、甘い。
炊きたて(あるいは分裂したて)のご飯は、驚くほどつやつやとしていた。よく見ると、皿に盛られた米は、一粒一粒までもが見事にぴんとしっかり立っている。昔、田舎で食べた釜で炊いた米みたいだ。
あの時の米は、まるで花嫁衣装のように純白だったが、この米は違う。ほんの少し、僅かにだが、醤油が混じっているらしい。が、炊き込みご飯というほどに強い味付けではない。むしろ、隠し味と言ったほうが、この場合は正しいだろう。僅かに、しかし隠しきれない引き立て役としての醤油がちょいとばかり混じることによって、米の甘みが絶妙に引き出されている。
(マジかよ……米だけで、こんなに美味いのか?)
内心の驚きを隠せない兄に、魔王やよくぞ気づいたとでもいいたげに、してやったりと笑みを浮かべた。
「気づいたか。そう……この米は、鶏出汁と醤油で薄く味付けしたものを、土鍋で炊き上げたものだ。昨今の炊飯器がいかに高性能であれ、ここまでのポテンシャルを引き出すことは敵うまい。これが、お米の本気というやつだ」
「ああ、だから美味しいんですね」
隣で妹がなにやら納得の表情で頷いている。だが。
(――っくそ!)
なんとなく素直に認めるのはシャクだったので、彼は次の品に箸を伸ばした。確かに、米はうまい。が、自分が食べたいのはどちらかというと肉だ。見たところ、シンプルな茹で鶏である。なるほど、確かにこれなら女性受けはするかもしれないが、焼き鳥屋や居酒屋のメニューに慣れた自分には、きっといささか物足りないだろう。
あまり期待はしないまま、皿に乗っていたタレにちょいと肉をつけて食べてみる。
ぱくり。
その瞬間。彼は、己の敗北を悟った。
肉が。
驚くほど柔らかい。
てっきり淡白かと思いきや、そうではない。そうではなかった。
確かに、鶏肉自体にそこまで強い味付けがあるわけではない。おそらく、下味はシンプルに塩だけだろう。だが、そこにタレがかかることで、弱々しさなどまったくない。しっかりとした食べ応えのある肉に変化する。
ごま油がコクを引き出し、醤油がしっかりと味の土台を支え、そこに加わる刻みニンニクが、男の自分でも十分に満足のいく味を生み出しているのだ。
ぱくり。ぱくり。ぱくり。
気がつくと。
箸が止まらなくなっていた。
タレのついた肉を食い、そのまま米を口に運ぶ。出汁のきいた米、しっとりと柔らかい肉のうまみ、それら全てにタレが合わさり、混じり合って口の中で絶妙なハーモニーを生み出す。
ガツ、ガツ、ガツ、ガツ。
止まらない。
肉、米、肉、米、と交互に箸を運ぶ内に、皿の上はあっという間に空になっていく。悔しさと勿体無さを噛み締めながら、かれはふと箸休めも兼ねて、今だ手付かずだったスープに手を伸ばした。一口。
――ほぅっ
鶏のうまみが十分に引き出されたスープ。そしてそこにぴりりとアクセントを加える生姜。体の芯から温まる優しい味わいに、思わずほっこりため息をついた。
皿の上の料理はあっという間に空になった。腹も、心も、十分に満足だ。味ももちろん、申し分ない。くそっ、くそっ、くそっ、魔王のくせに、くそ!
角が生えてるくせに、牙も生えてるくせに。なのにこんなに料理が美味いだなんて、反則じゃないか、くそっ!
不貞腐れながら茶をすする。さっぱりとしたほうじ茶の味わいが、食後の締めにふさわしい。と、気がつくと、お茶はまだ温かくほこほこと湯気を立てていた。食事前に出して貰ったはずなのに。ということはつまり、こちらが夢中になって食べているうちに、こっそりお茶を取り替えておいてくれたのか。くそっ
魔王のくせに、嫁のように気がききやがって。魔王のくせに!
「ね? お兄、美味しかったでしょ」
妹の得意げな顔に苛立ちを覚えるが、どんなに悔しくとも、これは認めざるを得ない。彼はそっぽを向きながら「まぁな」と小さく答えた。
綺麗に食べ終わった兄妹たちに、魔王は最後にデザートを出してくれた。とろりとした黒蜜のかかった葛餅。つるんとした食感と、濃厚な蜜。はらりはらりと上からまぶされたきな粉が、まるで、一足早い粉雪のようだ。
これもまたうまい。悔しいがうまい。
魔王の予言は本当だった。
全ての料理を食べ尽くし、締めのお茶までほっこりいただいたあととなっては、もはやその技量に、料理に、完全に平伏すしかなかった。
「……確かに、美味かったよ。よく知りもしないくせに、騒いだりして悪かったな。見た目も、味も、完璧だった。こんな感じの店なら……俺の彼女も、連れて来てやったら、きっと喜ぶだろうな」
それは、彼にとっては敗北宣言のようなものだったが。
勝者の余裕か、あるいは王者の風格か。兄の言葉に、しかし魔王は特に勝ち誇ることもしなかった。禍々しい真紅の瞳に、まるで初めてのお手伝いを親に褒められた子供のような嬉しそうな色を浮かべ、うむ、と一つ重々しく頷く。
「いつでも来るがよい。余は、逃げも隠れもせぬ。この店でいつまでもお主らの挑戦を待ち続けよう」
――ただし、営業時間内に限る。
不敵に笑う魔王に、きっかり一人分のお会計を払うと、心とお腹を一杯にして兄妹は、そのまま店を後にした。
***
後日。
彼女さんと一緒に魔王カフェに行ったのかと小夜子がメールで尋ねると、兄から一言『別れた』とだけ返信が来た。
母から仕入れた情報によると、なんでも兄が彼女との大切な記念日を忘れていたことが原因らしい。
ちなみに、その記念日とは『二人で初めて一緒に電車に乗った日』記念だった。
今度、魔王カフェで兄に奢ってやろうと思った。