このはなブログ

言いたいことは全部ポイズン

【読み物】無題

そのとき千鶴は思わず、これはもしかして母が喋っているのではないかと錯覚した。
しかしながらそこにいるのは千鶴と、友人である洋介だけであった。

当たり前だ、ここに母がいるわけがない。

そう考えながら右手に持ったジョッキをぐいと傾けた。
ぬるくなった液体が、少しの刺激とともにサラサラと喉を通過していく。

「あ、生でいい?」

「うん。」

千鶴のジョッキが空くのを見ると洋介はすぐに店員を呼び、自分の分と千鶴の分の生ビールを追加で注文した。

2人ともかれこれもう6杯ほどのジョッキを空にしているが、洋介がまだまだ帰る気ではない様子を見て千鶴は安堵した。

アルコールによる作用と洋介の心地よい相槌のおかけで、千鶴はいつになく饒舌だった。
今は自分の好きな小説家のことを熱く語っているところだ。

しかしながら、先ほどから自分の声に被さって聞こえてくる母の声がいちいち鬱陶しい。
酔ってぼやっとした頭の中には、ベラベラと饒舌に喋る母の声と、それを静かに見つめる自分の姿があった。

誰だ。今喋っているのは一体誰なんだ。

千鶴はだんだんと嫌な気分になってきた。

「なんかわたしばっかり喋っちゃってるね。今度は洋介の話しよ!」

そう言われて照れ笑いする洋介に向かって千鶴はいくつかの質問を投げかけながら会話を続けていく。

千鶴が男を判断するときの基準は2つしかない。
「アリ」か、「ナシ」か。
それだけだ。

そして洋介は前者だ。だからこうして興味を持つふりをして会話するのも苦ではない。

きっと洋介も同じことを思っているのだろうと思う。
洋介にとってきっと千鶴は「アリ」なのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。

「これ飲んだら店を出ない?」

千鶴が提案すると洋介は承諾した。

2人で店の外に出ると空気は思ったよりも冷えていて、思わず「ひゃあ」と声が出るほどだった。

「夜になるとやっぱり寒いね。」

「うん、日が出ているうちはだいぶ暖かいんだけどね。」

2人は当たり前のことを喋りながら互いの様子をうかがった。

「千鶴、このあとどうする?帰る?」

「どっか行きたい、かも。」

「どっかで飲みなおす?カラオケでもいいよ。」

「うーん、もう飲めない、かな。」

そう言って千鶴は洋介の胸に自分の頭をトンと寄りかからせた。
洋介の胸から聞こえる鼓動がどんどん速くなっていく。

「じゃあちょっと休もうか。」

「うん。」

洋介は千鶴の手を引いてゆっくりと歩き出した。

「こんなに寒いのに吐く息が白くならないね。」

どうでもいいような話をしながら目的地に向かう。

その間にも千鶴はまるで亡霊のように自分の体にまとわりつく母の姿を感じ、それを振り払うのに必死だった。

洋介に可愛いと褒められた目も、嘘ばかり喋る口も、自分を安売りすることでしか己の価値を見いだせない浅はかさも、もう何から何まで千鶴は母親そっくりであり、千鶴にとってそれは呪いのようなものだった。

しばらく歩いていくと、目の前に安っぽい洋風の建物群が見えてきた。
赤く光る「満」をたくさん通り過ぎたあと、やっとのことで巡り合った「空」を2人で同時に指差して笑った。

部屋に入ると千鶴は洋介に七色に光る風呂を茶化しながら勧め、自分はベッドにごろんと横になった。
来る途中に買ったミネラルウォーターをちびちびと飲みながら、頭がぼわーっとして気持ちのいい感じがしたので、これでもう安心だ、と思った。
何が安心なのか、千鶴自身にもさっぱり分かっていなかったが。

しばらくすると、全身に黒い鎧を身につけた洋介が七色に光る風呂から出てきた。

がしゃんがしゃん。
がしゃんがしゃん。

重みのある音を鳴らして近づいてくる鎧のあまりにも場違いで滑稽な様子に、千鶴は困惑の笑みを浮かべた。

「洋介?」

千鶴は中に洋介がいないことを知りながら、それでも彼の名前を呼んだ。

鎧が千鶴の正面まできたとき、ふいにその中から小さな女の子がごろんと飛び出してきた。
まるでたった今ジャングルをくぐり抜けてきたかのように、彼女の腕や足にはたくさんの擦り傷が見える。年齢は3歳くらいであろうか。

「誰。なんなの。」

見覚えのある赤いスカートを無視して千鶴がそう呟くと同時に、突如見覚えのない天井が視界に現れた。

混乱したまま少しズキリと痛む頭を起こすと、そこに女の子の姿はなく、ソファで缶ビールを飲む洋介の姿が見えた。

「あ、起きたな。」

洋介は千鶴の顔を見てやれやれといった様子で笑った。
どうやら千鶴は眠ってしまっていたようだ。

「すんごいいびきかいてたよ。」

「え!うっそ。うそでしょ!わたしいびきなんてかかないもん!」

洋介がからかうように言うので、千鶴は全力で否定しながら彼のもとへ近づいていった。

「うそじゃないよ、すんごいうるさかったんだから。」

洋介がニヤニヤしたままなおも話を続けようとするので、千鶴はすばやく彼に覆いかぶさり、彼の口を自分の口でふさいだ。

そして洋介が自分を受け入れるのをしっかり確かめたのと同時に、先ほどの女の子の姿がふと頭をよぎり、一瞬だけ顔を上げた。

彼女はなぜ、あんな鎧を着ていたのか。
彼女はなぜ、あんなに立派な鎧を着ながらも全身傷だらけだったのか。
彼女はなぜ、全然痛くもないような顔をしていたのか。

なぜ彼女は子どもの姿だったのか。

それらの答えを千鶴は知っているはずだったが、どうしたのと言うように洋介の顔が再び千鶴に覆いかぶさると、もうそれっきりいつものように何も感じなかった。