中日スポーツ、東京中日スポーツのニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 中日スポーツ > 芸能・社会 > 紙面から一覧 > 記事

ここから本文

【芸能・社会】

同い年、山田洋次監督悲痛 「健さんが元気でいることが どんなに励みであったことか」

2014年11月19日 紙面から

高倉健さんの訃報を受け、報道陣の質問に応じる山田洋次監督=東京都世田谷区で(小平哲章撮影)

写真

 高倉さんの代表作のひとつで、俳優人生のターニングポイントになった「幸福の黄色いハンカチ」の山田洋次監督(83)は18日、東京・成城の東宝スタジオで会見。同作で共演した武田鉄矢(65)も東京都内で昭和の大スターの死を悼むなど多くの関係者が悲しみに沈んだ。

     ◇

 高倉さんと監督は同じ年。「健さんが元気でいてくれることが、どんなに励みであったことか。だから、健さんがまた仕事に入ると聞いたときは、ぼくもがんばれると思った。健さんがいなくなってしまい気落ちしている」と肩を落とした。

 訃報を聞いたのは新作「家族はつらいよ」を横浜市内で撮影中のこと。最後に会ったのは、ずいぶん前の「映画祭の時の控室だった」そうで、近況は高倉さんと親しい小林稔侍から聞いていたという。

 「幸福の−」の出演依頼の時が初対面で、高倉さんは当時珍しかったジーンズの上下で山田監督の仕事場に現れた。「非常に鮮烈でした。物語を説明したら『私はいつ体を空ければいいですか?』って。玄関まで見送ると『私にとって今日はとてもうれしい日ですよ』と言って出て行った。足早にね。あの日のことは忘れることができません」

 同作で出所した主人公が、ラーメンをおいしそうに食べるシーンがあるが、「あのために健さんは1日か2日絶食していたと後から知り、感心しましたね」と役者魂をたたえ、「非常に行き届いた人で、極めて繊細で人の気持ちがよくわかる、ナイーブな怖いほどピリピリした神経の持ち主だったですね」と振り返った。

◆渥美清さんに並ぶ偉大な俳優

 高倉さんが好きだったというフレーズ「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」を、目を潤ませて読み「きっと覚悟して、従容して死につかれたのだと思いますね」と、最後まで俳優の美学を貫いたスターを称賛。「ぼくの長い映画人生でめぐり合った2人の偉大な俳優は、渥美清さんと高倉さん。2人ともひっそりと、みんなに迷惑をかけたくないという気持ちで亡くなった。“黄色いハンカチ”に渥美さんと健さんが久しぶりに出会うシーンがある。あの場景がいまぼくの目の前に浮かびます」と語った。

◆武田鉄矢 泣いて感謝「演じることの純真さを教えてくれた」

 武田は、東京・赤坂のユニバーサルミュージックで会見し、“恩師”への思いを涙ながらに語った。

 マネジャーから訃報を聞いたという武田は「この事実をどう受け止めたらいいのか。ぼうぜんとしています。もう10年もお会いしていませんでした。お体のことは全く知らなかった。風の便りやCMで元気そうに見えたのですが…」と話した。

 共演したのは1977年。演技のイロハも知らなかった武田に、高倉さんは、やさしくアドバイスをくれたという。

「ぼくにとっては仁侠(にんきょう)映画の美しい、健さんじゃなく、やっぱり、“幸福の黄色いハンカチ”の健さんなんです。何も分からず、必死でやっていたぼくを乗せてくれ、優しい言葉で励ましてくれた。演じることの純真さを教えてくれた。ぼくの一生の宝になった。ご恩は一生忘れません」

 後輩思いの高倉さんだったが、武田がテレビ番組などで健さんの事を話題にするのを知って、「ベラベラしゃべるんじゃない、と健さんに言われたこともありました」。

 そして、高倉さんがつぶやいた言葉が今も忘れられないという。「ある時、健さんは富士山のようですね。立っているだけで絵になる、と言ったら、健さんは富士山は寂しいぞ、と…。おまえは駆逐艦のように走り回って良いな、と。寂しい思いがいつもあったのかな」

 

この記事を印刷する

PR情報

おすすめサイト

ads by adingo




中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日新聞フォトサービス 東京中日スポーツ