十一月 06

Pizzicato Five: Japan’s Pop Culture Overdose

90年代のアメリカに映った、ピチカート・ファイヴの魅力

 By Barry Walters

 

「今まで聴いてきた素晴らしいレコードのすべてを撹拌器に入れ、その上に最高のビデオ・クリップのモンタージュと思いっきり実験的なヘヴィーメタル・ギターを加え、更には大げさで愛らしいファッションで味付けしたものをまるごと、日本が持つアメリカの消費文化に対する捻れたイメージと合成した音楽。それをさらに超越するようなものを想像してみて欲しい…」

 

これは私が20年近く前に   ピチカート・ファイヴ初の欧米ツアーの一環としてサンフランシスコで行われたライブを観て書いた、レヴューからの一文である。今振り返ってみても、彼らとの初対面となったこの1995年のライブは、最も衝撃的で完成度の高いコンサート体験の1つだった。そして彼らのレコードは、今でも私のお気に入りの上位に数えられている。

 

 ピチカート・ファイヴは様々な顔を持つバンドだったが、平凡になることは決してなかった。80年代中頃にイージー・リスニングのバンドとしてデビューした ピチカート・ファイヴは、その後数年間をプラスティック・ソウルな声質を求めるヴォーカル探しに費やし、1990年に3代目として野宮真貴が加入してメンバーが落ち着くと、ダンス/ポップ・アート/レトロ・フューチャリスト・バンドとして多角的な活動を開始し、あらゆる音楽ジャンルと20世紀中頃以降のアート・ムーヴメントを取り入れていった。1994年にUSのインディ・レーベルMatadorがサンプラーEP『Five by Five』でこのバンドを紹介する頃になると、 ピチカート・ファイヴはオリジナル・メンバーでプロデューサー/ソング・ライター/マルチ・インストゥルメンタリストの小西康陽と野宮の2人だけになった。2001年に解散するまで、彼らは14枚のアルバムと、さらに多くのリミックスやコンピレーション、そして大量のEPやシングルをリリースした。

 

 

ポップ・ミュージックが殺風景でモノクロだった時代に、エクレクティックなピチカート・ファイヴはネオンのような輝きを放っていた。彼らが国際的な注目を集めるようになったのは、90年代のアメリカ音楽を定義したグランジとギャングスタ・ラップの象徴だったKurt Cobain (Nirvana)とTupac Shakur (2 Pac)に突然の死が訪れた頃だ。ハウス・ミュージックさえもゲイ/ブラック・シーンから切り離され、ストレート向きでメロディー要素が少なく、形式的な音楽に様変わりしてしまっていた。その結果として生まれたエレクトロニカが「ニュー・ロック」と呼ばれ、ブリット・ポップがオーソドックスな音楽の焼き直しをやっていた時代だった。実は90年代は、他のどの時代よりも女性ロック・アーティストが活躍していたのだが、大多数は騒々しく荒い、野蛮な、典型的な男型の音楽が占めていた。威圧感を増すためにギターをダウン・チューニングすることも珍しくなかった。そんな西海岸北西部でネルシャツを着て怒りをぶちまけていた野郎たちに対し、ピチカート・ファイヴのフェミニンで軽快な音楽は、今以上に新鮮に響いた。

 

「暗くて陰気な音楽は好きじゃないです。何故そういう音楽を作るのか理解出来ない。」1996年に私が行いこれまで公開されることがなかったインタビューで、小西はこう語っている。これは私のライブ・レヴューを面白いと感じた彼らが、自分たちのことを理解しているらしいアメリカ人の音楽評論家に会ってみたいといって実現したインタビューだった。「音楽には現実を投影すべきではないと思う。音楽は魔法のような、現実を忘れさせてくれるようなものであるべきだと思っているんです。」

 

 

 ピチカート・ファイヴは、明るくラディカルだった60年代の音楽からインスピレーションを受けている。「僕にには3人のスーパー・スターがいて、それはJean-Luc Godard、Andy Warhol、そして野宮真貴です。」小西はかつて『Puncture』誌にこう語った。 ピチカート・ファイヴのヴォーカリスト野宮真貴は、まるでつまらなそうな態度や、気まぐれな発言ができない星の元に生まれたかのような、素晴らしく快活で、驚くほど落ち着きのある女性だった。ピチカート・ファイヴとして活躍する前、その最中、後もプロのモデルをしてきた野宮真貴は、60年代にロンドンで活躍したモデルTwiggyのようにとてもか細かった。ちなみに世界的に最も知られている彼らの楽曲「トゥイギー・トゥイギー〜トゥイギー対ジェイムズ・ボンド〜」は、野宮が1981年にリリースしたソロ・アルバムの曲を1991年にリメイクしたもの。この楽曲はオリジナルをよりシンプルにし、でもカフェインで目を覚まさせたようなアレンジが施されており、ピチカート・ファイヴがその後生み出す多くの楽曲の原型となった。

 

初期のWarholのアイドルだったBaby Jane HolzerEdie Sedgwickと同じように、野宮も大きな存在感を持つ。Factory出身のMary Woronovのように、往年のハリウッド女優を模倣したドラァグ・クイーンのような衣装もを着こなす、美しい女性だ。彼女はヴィンテージや化学繊維の衣装を好み、ウィッグを着けて人工的なイメージを作り上げた。The Staple Singersに捧げられた「Sweet Soul Revue」のビデオ・クリップの野宮は、Audrey Hepburnのような出で立ちでMick Jaggerのようなダンスをしているかと思えば、後半にはPan AMのスチュワーデスのような衣装で登場する。

 

 

 ピチカート・ファイヴは、初期De La SoulやDeee-Liteよりも前から、はつらつとポストモダンを象徴していた。 ピチカート・ファイヴの楽曲は、Fifth DimensionやLeft Bankeのようなバロック・ポップのオーケストレーションとヴォーカル・スタイルを正確に模倣しながら、スピーディーなディスコ風ブレイクビーツの生演奏、Godardのジャンプ・ショットのようなヒップホップ的プロダクション手法も用いられていた。ギターが激しく鳴らされる時さえも、洗練されたサウンドだった。1995年から、初代ギタリスト高波慶太郎の後任としてツアーに参加したブラボー小松は、妬ましいほどのカッティング・テクニックでギターを轟かせることが出来た。その様子は、UKのテレビ番組『The Word』で「トゥイギー・トゥイギー」に合わせながら披露する見事なサーフメタル風プレイで確認出来る。

 

1991年のアルバム『女性上位時代』からは野宮時代の美学が強く打ち出され、1992年のアルバム『SWEET PIZZICATO FIVE』では、クラブ・ミュージックへと接近。そして翌1993年にリリースされた『ボサ・ノヴァ2001』は、バンドの音楽的な博識ぶりと、快活なテンポ、甘いメロディー、優れたパフォーマンス、サンプルと演奏のシームレスな融合、野宮のポップスターとしての才能が見事にまとめられている。このアルバムは小西と同じくらいのレコード・マニアで、レーベル・オーナーでもあった小山田圭吾が共同プロデュースした作品だ。小山田は1980年代後半から1990年代初頭にかけて人気を博した英国風バンド、フリッパーズ・ギターのメンバーだが、 ピチカート・ファイヴはこのバンドと共に「渋谷系」のパイオニアとして知られていた。東京発のこのムーヴメントは、前衛的なポップ、ジャズ、ラウンジ、ボサノヴァ、ブリル・ビルディング系ガールズ・グループ、西海岸系ハーモニー・グループなどを融合していた。彼らの名前を世に知らしめることになった収録曲「Sweet Soul Revue」は、一般的なJ-Popのように化粧品のCMとのタイアップでヒットし、アルバムもトップ10入りを果たす。小山田はといえば、これ以降もソロ名義Corneliusとして何度も作品をトップ10入りさせている。

 

 

 

これらは日本以外では起き得なかった現象だ。90年代から00年代初頭にかけての渋谷は、東京の流行に敏感なティーンにとってのタイムズ・スクエアのようなところで、世界的なレコード・ショップが集まっていた。タワーレコードやHMVなどの外資系も、レコファンのような日系ショップと肩を並べるような膨大な品揃えを誇り、CDの再発ラッシュもピークを迎えていた。また再発/リマスター盤がなかったとしても、渋谷に無数に存在した中古やレアなアナログを取り扱うレコード・ショップを回れば見つけられる可能性が高かった。

 

『ボサ・ノヴァ2001』では、 ピチカート・ファイヴと小山田はアンダーグラウンド・シーンの過去へのフェティシズムを抽出し、それをファッショナブルな輝きを求めるJ-Popシーンと融合させることに成功した。小西はこのように洗練されていながら、破壊を重んじる面もあった。彼にとってのもう1人のヒーローは、Sex PistolsのマネージャーMalcolm McLaren。小西はピチカート・ファイヴをコンセプチュアル・アートとギミックの基に作り上げていた。例えばUSでリリースされた『Made in USA』が、大分県宇佐市から取られているタイトルのように、『万事快調 tout va bien』のタイトルも、Godardの実験映画のタイトルから取られたものと思われるが、この曲のコーラス部分の「Beep-Beep、Beep-Beep、Yeah!」はThe Beatlesの楽曲「Drive My Car」からの引用となっており、非常にキャッチーだ。また1994年の『オーヴァードーズ』に収録されている「Airplane」も、Donovanの「Epistle to Dippy」に似ており、同アルバムに収録されている「Hippie Day」も、Young-Hold Unlimitedの「Soulful Strut」へのオマージュとなっている。野宮の変わり続ける派手な衣装と、信藤三雄が手がけるピチカート・ファイヴの大胆なジャケット・デザインのように、インスピレーションの元ネタが分かり易いという特徴が、言葉の壁を越えた評価に繋がった。グランジとギャングスタ・ラップの多くが大げさで芝居じみたものを断固として拒否する中、ピチカート・ファイヴはマルチメディアを最大限に利用していた。

 

 

 ピチカート・ファイヴはいつだって特別だった。でも、野宮の加入は小西にとってのAnnabella Lwin、McLarenがBow Wow Wowで見出した活発なシンガーのような存在を得たことを意味した。しかし、Lwinや他のJ-Popのシンガーとは異なり、野宮は10代の少女ではなかった。 ピチカート・ファイヴとして野宮と小西が活躍したのは30代から40代にかけてで、意識的に行われていた複雑なアレンジは彼らの豊かな経験に裏付けられていたが、ライブにおけるエネルギーとパワーからは快活な若さが感じられた。唯一の例外は、小西の歌詞と楽曲を子供のように表現する野宮の歌い方で、そこから生まれる楽しさは非日常にさえ感じられた。Vincente Minnelliのように、小西はゲイ的な理由からではなく、単純に女性を愛していたという理由から、このフェミニンなアートを生み出していた。「僕は小さく、美しいものが好きなのですが、一番美しいと思うのが女性なんです」と、彼はコメントしている。

 

『ボサ・ノヴァ2001』が日本のメインストリームに衝撃を与えた後も、 ピチカート・ファイヴはその生産性を維持した。高波の脱退により、小西は1994年の『オーヴァードーズ』からさらにバンドのクリエイティヴ面の指揮を担うようになり、楽曲がハウス寄りになったことでアレンジにおいてもミックスにおいても野宮の存在感を押し出すようになり、野宮の人気も上昇した。小西は学者のような賢さと異端ゆえの面白さで、楽曲制作もミュージック・ビデオのディレクションも務めるようになった。彼が手がけた —この2人が手がけたものの中で最も楽しく完璧なファンクを体現しているー「Happy Sad」のビデオでは、野宮がまるでWattstaxのThe Staple SingersにMartha ReevesとIke Turnerが加わったかのように、ギタリストとバック・コーラスと戯れている。

 

 

「20代で ピチカート・ファイヴを始める前、僕は映画ばかり観ていました。それらに関する評論もすべて読みました。ですから、音楽を作り始めた時、僕の中にはそれらの映画が染み付いていて、映画と同じ視点から曲を書いていた。アルバムを制作することは、GodardやFelliniが映画を制作するのと同じ取り組み方だったと思います。野宮真貴は僕にとってのGiulietta Masinaです。僕たち2人はFelliniとMasinaのような関係なんですよ」

 

これは、ピチカート・ファイヴのアルバムには始まり、本編、エンディングという長編映画のようなストーリー性が備わっていることも意味している。『オーヴァードーズ』の最後の曲「陽のあたる大通り」で、は、野宮が「バイバイ」と歌っているくらいだ。また、アルバムにはテーマが設けられていることも多かった。次作『ロマンティーク96』では、日本のファッション業界と共通する彼らの大きな関心対象である、フランスがテーマとなっていた。このアルバムには Serge Gainsbourgが手がけたBridget Bardotの楽曲「Contact」のカバー(Kraftwerkの「Pocket Calculator」のサンプルを組み合わせている)が収録されており、 ピチカート・ファイヴにとって過去最大のヒットとなったが、Matadorがコンピレーション『The Sound of Music by Pizzicato Five』を同時期にリリースした関係で、アメリカでは発売されなかった。(The Beatlesをアメリカで発売していたCapitol Recordsのように、Capitolがディストリビューションと出資を行っていたMatadorは、ピチカート・ファイヴの作品をアメリカ国内向けの独自のアートワーク・楽曲・ミックスを施してリリースしていた。)

 

 ピチカート・ファイヴの北米での人気は、すぐにYellow Magic Orchestraのそれを上回るものになったが、彼らがアメリカに迎合することはなかった。『ロマンティーク96』の収録曲で日産のSUV車ミストラルのCMにも起用された、彼らの最も売れたシングル「ベイビィ・ポータブル・ロック」もアメリカではリリースされなかった。野宮も、Matadorから英語バージョンが数曲収録されたコンピレーションが発売された以外は、たまに英語のフレーズを使用することはあっても、本格的な英詞での歌入れは行わなかった。「日本では、歌詞の中に英語のキャッチフレーズを使うことがよくあります」と、野宮は指摘する。「日本は非常にアメリカナイズされていて、他のカルチャーと調和している国です。ですから、例えば『グルーヴィー』という英語の言葉を私たちが使っても、日本のリスナーはちゃんと理解出来るんです。」

 

 

小西と野宮は英語力を高める努力をする代わりに、ポップという共通言語を選んだ。1997年のアルバム『ハッピー・エンド・オブ・ザ・ワールド』は、彼らのリズムの特徴だった速いブレイクビーツを誇張させ、ドラムンベースのようなスタイルで使用している。対照的に1998年に発表された『プレイボーイ・プレイガール』は、小西が得意とするBurt Bacharach流のハーモニーを中心とした作りになっていた。そのマイナー・キー にメランコリーな歌詞が乘せられていた収録曲の中には、明らかなユーモアが盛り込まれている。1曲目の「不景気」では、「気のきいた男の子 ここしばらくは出会わない/ほんとにちかごろ不景気/ほんとに神様あなたは不公平」と、日本の当時の不景気を笑い飛ばすように歌っている。

 

「音楽で一番大事な要素は、ユーモアだと思っています」と、小西は強く主張する。「野宮真貴の歌のそういうところが僕が好きなんです。歌詞の内容というよりは、彼女の歌い方ですね。かといって、歌詞は重要じゃないと言っている訳ではありません。ただ、歌詞を聴いたファンに『共感出来る』と思って欲しくないんです。勿論、僕は色々なことについて真剣に考えていますが、ファンの皆さんとはそういう部分を話したくない。」

 

 

1999年の『PIZZICATO FIVE™』の頃には、既にピチカート・ファイヴの活動は終わりに近づいていた。小西のアレンジ能力は衰えを知らず、柔らかなグルーヴはバンドの幅広いスタイルを更に押し広げていたが、その音楽の新鮮さを保つための仕掛けが不足するようになっていた。東京をテーマにしたこの作品は、SparksのRussell MaelやフランスのBertrand Burgaletなどのゲスト・ミュージシャンを起用した関係から、野宮の出番が減り、最終的に2001年の『さ・え・ら ジャポン』で不自然な形で彼らの活動は終わりを迎えると、その後、解散ライブが開催され、最後のベスト盤がリリースされた。現在、ピチカート・ファイヴの作品は全て、日本・アメリカ共に廃盤となっている。

 

 ピチカート・ファイヴを振り返る際に忘れがちなのが、彼らの最後のことだ。正直に言えば、私は彼らの終わりには興味が無かった。その頃にはAirやThe New Pornographersなどが台頭し、エレクトロニック・ミュージックやインディー・ロックにも明るい兆しが見え始めていた。それでも私は今も、彼らのことをグランジ時代を乗り越えさせてくれたバンド、笑顔の音楽版ハローキティだと思っている。

 

「僕たちはアメリカのポップ・カルチャーを凄くキュートだと思います。アメリカが僕たちのポップ・カルチャーに対して思うのと同じように。」小西は1996年のインタビューの最後でこう話している。「カルチャーを輸出すると、相手側では違った形で受け止められます。当然、僕たちは多くのアメリカ・イギリス音楽を取り入れてきましたが、それをある意味逆流させた。アメリカの人たちも、それが自分たちの文化だと認識できないほど変えてしまったのかもしれません。僕たちはアメリカのカルチャーを少しねじ曲げて、お返ししたわけです。」

 

Thanks to Keiichi Hoshi for research assistance.