2006年9月7日(木)
寄稿 原作者、山中恒さん(2)
 《転校生》あれから二十五年
 それから正に四半世紀、その間、ぼくらを取り
かこむ社会的な状況は、ぽくらの願わない、好ま
しくない方向に徐々にかわり始めた。一九八五年、
中曽根康弘首相が戦後初の八月十五日、靖国神社
公式参拝をしてアジア諸国から非難された。翌年、
「日本を守る国民会議」編集の教科書にアジア諸
国の非難を浴びたときに、藤尾正行文相が「日韓
併合は韓国にも責任がある」と発言、罷免された。
だがこのあたりから、責任あるリーダーたちの放
言を「かっこよい」とする風潮が出始めた。それ
を皮切りに、今や言いたい放題、やりたい放題で、
国益を損ねようとアジア諸国と感情的摩擦を引き
起こそうと、耳もかさない小泉純一郎首相がかっ
こよい、決断力があるとされるようになったので
ある。
 ぽくにとって、尾道は魂の自由な青春映画の誕
生の町で、あの映画に触発された多くの若者の夢
を育んで来た町であった。もちろん、その後の大
林監督作品になった『さびしんぽう』も、ぼくに
は、まだ初めて尾道を訪れたころの何かがあった。
ところが、『あの、夏の日〜とんでろじいちゃん』
(一九九九年)のあたりから尾道の町が、ぼくに
はよそよそしく変貌し始めたような気がした。自
然の景観だけ残して、個性の無い、きわめて一般
的な地方都市に変わり始め、ぼくにとって、遠い
町になりつつあった。
 その決定的な要因は、昨年の、映画『男たちの
大和』の戦艦大和のロケセット公開である。これ
を尾道の人集めのポイントにしたのである。人を
集めて金さえ入れば、何をしようと知ったことで
はないということなのか。もちろん、その背景に
は小泉内閣による緊縮財政の地方交付金の抑圧も
あったが、あの戦争で悲しい最後を遂げた若者を
悼むというよりは讃美するような映画のシンボル
に、ぼくらの魂の自由な青春のシンボルが乗っ取
られたような苦々しさを感じた。
 もちろん大林監督にとって尾道は生まれ故郷で
あるから、ぼくとはいっしょにならないが、ぽく
は自ら進んで尾道に行こうという意欲は失せてし
まった。今はそのことがひどく悲しく、つらいと
思う。今の尾道がぽくのささやかな願いをぶちこ
わしてしまったような気がしてならないのだ。だ
が、それは単に尾道だけの問題では無い。ぽくの
生まれ故郷の小樽もまた悲しいマイナス変貌を重
ねつつある。今や世の中の風潮は戦前の国体原理
主義的な信仰の復活を目指して暴走を始めたよう
に思える。ぽくの歳を考えると、持ち時間は多く
は無いし、やれることもかぎられている。でも映
画『転校生』にこめられた魂の自由な青春を若い
人たちに呼びかけることをやり続けたいと思う。
                 (おわり)

連載を終えて
町はどう歩んできたか
 25年で失われた生活と風景

◎..この映画《転校生》25周年のシリーズで諸氏
への取材と寄稿文の依頼を始めて間もなくして、
大林監督から「昨夜突如、《転校生》のリメイク
映画を作りませんかというお話しが、ある映画プ
ロデューサーから持ち上がりました」とのメール
が届いた。「このタイミングで−」と一瞬驚いた
が、考えてみれば自身によるリメイクこそが「ご
く自然な流れ」なのかも知れない。
◎..25年間これまでにも、傑作と称される《転校
生》のリメイク企画は、大林監督以外の手によっ
てたびたび試みられてきたのである。原作の『お
れがあいつであいつがおれで』はフランス語やハ
ンゲル語訳も出版されていて、フランスの映画監
督がハリウッドでという話しもあったという。記
者も大林監督と並んで観たことがあるが、韓国で
は″海賊版″もどきの映画が実際に作られて、ビ
デオにもなっている。日本ではNHKと民放が
『おれが−』を原作に、映画《転校生》の要素を
いいとこ取りしながらテレビドラマにしたことが
何回もあるほど。しかし映画でのリメイクは、尾
道を舞台にした、あのあまりの強烈な印象があっ
てか、実現出来なかった。
◎..現在徐々に構想が固まり、撮影に向けて動き
始めているという。大林監督のこと、リメイクと
言えども恐らく一般に考えられるリメイク作品で
はあるまい。撮影地は「50年後にも市民に見ても
らえる映画を作ってほしい」との願いを監督に託
す信州・長野市だという。
◎..尾道で生まれた《転校生》が全国で愛され現
在も生き続けて25年。もしここで、尾道《転校生》
の″弟分″となる信州《転校生》が誕生すること
になれば、生みの親である『尾道』という町のこ
の4半世紀の歩みも、合わせてクローズアップさ
れることになろう。果たして私達はこの間、全国
の人に誇ることが出来る町を日々創造してきただ
ろうか? 連載を前に改めてDVDで《転校生》
を鑑賞したが、25年前に活き活きと写し出された
当時の尾道の生活と風景は、残念ながら多くを失
っているのである。
◎..輝いている町の姿が、映画の中で永遠に生き
続けることは町にとって宝物のように嬉しいこと
だが、これが「映画の中だけで−」となるのは、
本当に寂しいことである。
                 [幾野伝]



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