2006年9月3日(日) 寄稿 映画作家、大林宣彦さん...(1) 《転校生》が生み出したもの |
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発端は「文学のこみち」であった。ある夏、尾 道に帰省し、子供の頃から大好きだった千光寺山 の小道を辿った。吃驚した。あの美しい花肖岩の 肌が、傷だらけになっていたのだ。夏、日陰の岩 に裸で抱き付いてみたまえ。地球の冷気が全身に 伝わって来る。冬、セーターの躰で日溜りの岩に 抱き付いてみたまえ。ぽかぽかと全身が、太陽を 抱いたように温められる。自然に包まれて生きる 事の悦びや畏れを、ぼくは古里の山から学んだ。 古里の素晴しさとは、そういう事だ。 ぽくが傷だと思ったのは、敬愛する林芙美子や 志賀直哉の文が、そこに刻まれていたからである。 子供の頃、難しい大人の文学を、我が家に残され た叔父や叔母の書棚の中から見付け出して一所懸 命に読んだ。「海が見えた、海が見える」。この 言い方は逆じゃないのか? 「海が見える、海が見えた」が遠近法で言えば 順当だろう。しかし、東海道、山陽線を含めて、 尾道の町に汽車が入る時の線路のカープは日本一 の急カーブだと知った。だから、汽車がカープを 曲ると、いきなり海が「見えた」であり、後から ゆっくり屋並の向うに「見える」なのだ。尾道独 自の味わいである。成程芙美子は、表現の順序を 変える事で、尾道に帰る旅人の心情を描出し得た のだ。こうして文章表現の力と美しさをぽくは学 んだのであった。 しかしこの岩、あの岩、滅多矢鱈にこう文字が、 しかも恣意的にその一部だけが羅列されたのでは、 文学の尊厳どころか、まるでデパートの展示場だ。 第一、尾道の子供たちが、もうこの岩に抱き付い て、自然を学ぶ機会を失って了う。悲しくて、恐 ろしい事ではないか。それに″文学のこみち″と は、まず自分自身の言葉と出合う事。ぽくは十六 歳、この場所で″さびしんぽう″という言葉と出 会った。三十年後、ぼくはこの言葉から自らの映 画を紡ぐ。古里がぼくを育ててくれるのだ。 だが古い尾道の友と話すと「尾道には新幹線も 通らん、アンノン族も来ん、ディスカバー・ジャ パンとも無縁じゃ。何とかして観光資源が欲しい んじゃ。お前のように古里を離れた人間には分か らんじゃろう」、と言われた。ではぽくなりに出 来る事は何か? 映画を作ろう。この尾道の素晴 しさを映画に描いて、全國の人に知って貰おう。 丁度一年間、企画準備していた《転校生》を尾 道で撮ろう。地方ロケは何かと経費が嵩んで大事 になるだろうが、よし、ここで一番、古里孝行だ。 ところが撮入の二週間前に、スポンサーが降板し た。無一文では映画は出来ぬから、普通はここで 中止である。だが古里孝行を止める訳には行かぬ。 東京新宿からバスー台に機材を含めてスタッフ 出演者全員で出発。現金はほんの僅か。チーフ助 監督は制限された私物にパンツ三枚を入れたが、 思い直して一ケ月分を詰め込んだ。ロケは三日持 つまいと思ったのだが、それでは映画に申し訳な い、と自棄糞交りでそうしたのだ。一ケ月後、無 事撮影最終日を迎えた朝、彼は泣きながらぼくの 部屋に最後のパンツ姿を見せに来た。「撮り了え ましたね! 良かったですね!」。助監督内藤忠 司はこの苦労をバネにして、尾道映画五本に付い た後、一本立ちの監督になる。 原作者山中恒さんとは尾道映画三本。「今度は ぽくの古里・小樽で撮って下さいよ」、とは《さ びしんぽう》ロケ時、尾道のふいの雪に遭遇した 朝、「尾道は小樽とそっくりだ!」、との山中さ んの思いが募ったもの。小樽映画《はるか、ノス タルジィ》はこうして生まれ、映画が地方都市を 繋いで行く端緒ともなる。 《転校生》が若し挫折していたら、この映画で デビューした小林聡美や、尾美としのりのその後 の運命はどうなったであろう。ぽくもまた尾道で 映画を撮る事も無く、その後に続く10本の尾道映 画も存在しなかったであろう。ではその中でデビ ューした原田知世、原田貴和子、鷲尾いさ子、石 田ひかり、中江有里、宝生舞、勝野雅奈恵、宮崎 あおいらの運命だって、大きく変っていただろう。 映画一本、作るか作らないかは、まことに多くの 人の運命を変えて了うのだ。 尾道で《転校生》を撮るとなって、「放映は何 時ですか?」、とよく聞かれた。「テレビじゃな く、映画です」、と応えると、「わあ、映画はも う何年も見ていないなあ」。当時、映画とは、そ ういうものだった。しかしその後発生した″尾道 ロケ地巡り″の騒ぎは、ぼく自身にも想像以上の 映画の力を再発見させてくれた。しかし尾道での 最初の試写では、一寸した問題が起きた。「ごみ 箱のような、尾道の恥部が映っている。これでは 観光客誘致にはとてもならん。上映中止は出来な いか」、という話まで出た。無理も無い。黒白の くすんだ画面に、細い狭い崩れかけた石段の道、 ひび割れた瓦屋根、今にも倒れそうな土壁。「金 が有れば直ぐにでも直したい、恥ずかしい場所ば かり映し出されたのでは、アンノン族など見向き もせんわ!」。 ぽくは尾道のシワを撮ったのである。老いた両 親の顔に刻まれた深いシワは尊い。ぽくはそれを 醜い、恥ずかしいなどと思った事は無い。それは、 例えば子育て日記である。ぽくを育て上げてくれ た両親の喜怒哀楽が、永遠の表情となって記憶さ れているのだ。同じように古里にもシワがある。 そのシワを愛でないで何の古里孝行であろうか。 その思いは全國の人に伝わり、尾道は他の開発型 観光地とは一味も二味も違った、古い日本の古里 として人びとに愛されるようになった。高度経済 成長期の日本の動きには、逆行する形でである。 それに応えて、ぽくも《転校生》ロケ記念碑の 御袖天満宮への建立の要請をお断りした。記念碑 は映画を見てくれた人の、心の思いとして残れぱ よい。その人が思い出の地を訪ねた時、何時か見 たスクリーンの中と同じ風景がそこに守られてい れば、それで充分。記念碑など、その思い出の風 景を壊すだけだし、次の他の人の映画撮影の邪魔 にもなる。記念碑は、万人の古里を、私物化する だけだ。ぼくはそれを千光寺山の花岡岩の″傷″ から学んだのだ。 (つづく) |