2006年9月5日(火)
寄稿 映画作家、大林宣彦さん...(2)
 《転校生》が生み出したもの
 古里のシワを守り残したいのがぽくの思想なの
だから、映画による開発は一切お断りした。″尾
道が全国区になった″という事で、ぽくは日本中
の地方の町を巡って講演旅行をするようにもなっ
たが、「尾道は町興しじやない、町守りです」、
がぼくの変らぬ主題だった。「だから尾道は、皆
さんに愛されているんですよ。それが証拠に、尾
道にはロケ記念碑など、一つも有りません」。こ
れがぼくの自慢、誇りだった。当時の向島町が
《あした》の船着き場をバス停として使いたいと
引き受けて下さった時も、総て新しく塗装し直し、
映画のセットとしての気分を消し、観光案内もし
ない事が約束だった(向島町が尾道市になってか
ら、この約束が破られて、あたかもセットが保存
されているかのように観光案内までがされている
事を知り、この部分では慚愧に堪えぬが、実体と
してはバス停の雨宿りとしてお役に立っているの
で嬉しい。バス停をご利用の皆さんが、観光客に
煩わされない事を節に願うのみ)。
 文化とは、そこに元元在るものを尊む心。文明
とは、そこに無いものに憧れる心。どちらも大切
だが、日本は余りに文明的(それに伴う経済的)
発展を遂げたために、文化の心が失われたのが、
現存の不幸に繋がっているのだとぽくは思う。
「行き過ぎた文明は人類を滅す」、とぽくらは子
供の頃学んだ。ぽくは我が古里・尾道は″文化の
里″であって欲しいのだ。そのための″古里映画
孝行″なのである。
 先年″ベルリン映画祭″に《理由》が招待上映
され、その帰途古い港町ポルトヘ旅したが、″ポ
ルトガルの洗濯女″で知られるように、まあ町中
が洗濯物だらけ。お負けにざあざあ石鹸水は流れ
放題だし、尾道と同じ細い石段の道は犬のうんち
がごろごろ。文明的に言うなら未開発、不潔のご
ちゃ混ぜ。でもこの町は″世界遺産″だ。それは
この町の持つ人間の喜怒哀楽、文化に対してのご
褒美。そういう心を、尾道には大切にして欲しい
のだ。それは21世紀、人間が人間らしさを取り戻
すための″資源″でこそある、とぽくは信じてい
るのだから。文明とは常に″楽″を求めるが、文
化とは詰りは″我慢″の事。日本人はその美しさ
をよく知る國民であった筈である。
 温故知新、スローライフ、オンリーワン。そう
いう人間の賢さが、今甦りつつある。「尾道では
ね、我慢という言葉が美しいのよ」、とテレビで
気高く言い放った魚屋のおぱちゃんは、ぼくの誇
りだし、尾道にはそういう新時代のリーダーに成
り得る能力が一杯ある筈だ。尾道の土堂小学校の
児童たちが″大林映画″を研究発表してくれたそ
うだ。「尾道には、人への思いやりや優しさ、愛
がたくさんある町だ」、と未来を生きる古里人は
言う。「思いやりや優しさ」とは、人類にとって
最も大切で、しかも実現するには難しい行いだ。
他人や未来の事を大切にして、現在の自分を犠牲
にする事だからだ。土堂小の児童たちの古里認識
と自分にはそれが出来ると信じる勇気に、ぽくは
大きな拍手を送ろう。あの時、ぽくの映画を全力
で支えてくれたのも、母校の同級生たちだったな
あ。そういう映画を、ぽくは尾道の人たちと作っ
たのだ。尾道の中田貞雄商工会議所会頭(当時)
の個人的な資金援助などで現場を凌いだ《転校生》
は、日本テレビが撮了後に製作費を出してくれ、
同局で三年間、ゴールデンウィークのゴールデン
タイムに30%の視聴率を上げたという。映画館で
も拍手の渦。この映画を見てテレビや映画の世界
に入った、という人もこれまた驚く程多い。また
《転校生》《さびしんぼう》などは、今も色んな
所で上映されていて、ビデオもよく売れ続けてい
る。四半世紀昔の映画というより、今でも″現役″
の映画なのだ。
 現在尚美学園大学院はじめ、三つの大学で学生
たちを教えているが、彼らは初めて《転校生》や
《さびしんぼう》を見る。孫のような若者たちが
夢中になり、卒論のために尾道やぼくのロケ現場
を訪ねて来る。未来の映画が、そこからまた始ま
ってもいるのだ。
 尾道でまた映画を作りたいと思う。だが″大和″
のロケセット保存のような事は、ぼくには出来な
いし、やらない。尾道市から資金援助を受けた事
も無いし、そんな金が有るなら映画館を作ろう。
尾道は″ロケの町″ではなく、″映画の町″であ
って欲しいから。大和の収益金で、せめて映画館
が誕生するなら嬉しかった。観光が優先するので
は、映画が文化にならぬし、映画《男たちの大和》
のためにも悲しい。そう考えるぽくが映画を作る
事が、尾道にとって喜ぱれるのかどうか、今のぽ
くには分からない。
 けれどもそういうぽくを喜んで迎えてくれる地
域も沢山ある。″50年後の子孫に見せたい″映画
を、などという依頼もある。《転校生》をかつて
見てくれた人たちだ。「十歳の時《転校生》を見
た幸せ」を、その人は語る。詰りは「尾道」だ。
たとえ他所の地で映画を撮ろうとも、ぼくのその
精神は「尾道」で育んだもの。むしろ「尾道」が
「全國」に広がっているのだ、とぽくは思ってい
る。それは映画の″尾道効果″だろう。「監督の
映画を見て尾道へ行きましたよ」、という挨拶は
毎日のように聞く。しかしその実態はカウント出
来ないし、する必要もない。《時をかける少女》
から23年経って、原田知世が結婚したと聞くと、
″結婚記念″に尾道へ来たというファン。そうい
う人たちこそが、真の″尾道映画ファン″である
と、ぽくは思っている。今年から来年に掛けて、
三本の映画が進行している。尾道で敢えてロケは
しないが、これもぼくの″尾道映画″である。尾
道は大林映画を生んだ古里、″映画の町″であり、
《転校生》は尾道を普遍にした。ぼくはそう思っ
ている。「″尾道映画″のような映画を是非私た
ちの町で」、という依頼が絶える事も無い。市民
は勿論、警察も消防署も″丸抱え″状態で撮影隊
を熱く迎えて下さる。その事実を、尾道の友たち
に是非信じ、誇りに思って欲しい。
 《転校生》一本が無ければ、今のぽくは無かっ
た。妻恭子が初めてその名を公にした第一回プロ
デュース作品であったし、尾道を愛し尾道で死ん
だ美術監督薩谷和夫さんの墓があるのも尾道だ。
ぽくをぽくにしてくれた尾道と、尾道の友人たち
に、心から感謝します。非力なぽくですが、これ
からもぼくが信じる映画作りを続けます。有難う!
また、尾道で映画を撮りたいなあ。......
                 (おわり)



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