キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

なぜ海外文学は売れないのか? もうすぐ絶滅するという海外文学について

海外文学が読まれない、売れない、翻訳できない


 『絶望名人カフカの人生論』の著者、頭木弘樹さん(@kafka_kashiragi)が「海外文学の翻訳が売れないから、翻訳できなくなってきている」というつぶやきが3000RTを超えた。

 「印税と翻訳料の違い」(わたしの周囲は若手が多いためか無報酬の話が多く、あっても微々たるものだろうが)や「業界全体の話なのかどうか」「そもそも本当の話なのか」など考えることはあるが、なにがすごいかといえば、このつぶやきが3000RTを超えたということである。

 3000といえばおなじみのフレーズ「海外文学のコア読者は3000人」の3000だ。3000人のうち全員がTwitterをやっているはずはない(特に文学おじさんはやらなさそう)から、わたしの周囲以外でこのつぶやきが拡散されたということは、コア読者以外がなんとなく興味を持ってRTしたと仮定してよさそうだ。


※「海外文学の翻訳」関連のつぶやきは6ツイートあるので、ぜひ一読を。

海外文学にほんのり興味がある人はそれなりにいる

 くしくも昨日「ガイブン初心者にオススメする海外文学・文庫編」という記事を書いたところ、2000PV・70ブクマ超えを記録した。この記事を書いていて思った、そしてブクマのコメントなどを読んで感じたのは「海外文学に興味がほんのりある人は意外にいるんじゃないの?」ということだ。ためしに書いてみたら、やっぱりそれなりにいる気がする。

 そもそもこの記事は、「リクエストをもらったらそれっぽい海外文学を1冊オススメする」企画を開催したとき、リクエストをくれた人たちのうち半数ぐらいが「ふだんはあまり海外文学を読まない人」だったために書いた。さらにいえば、わたしのTwitterアカウントはほぼ海外文学ネタと幻想しかたれ流していないにもかかわらず、なぜか1800フォロワーほどいて、ここ1年はとくにフォロワーの増えるスピードが加速している。

 また、ノルウェー・ブック・クラブがまとめた「世界最高の小説100」リストは2000近くのブックマークがついている。リストものはブクマをかせぎやすく、だいたい「あとで読む」タグがついてあとで読まれないものだが、それにしてもこのブクマ数はわたしにとっては驚きだった。

人々は「海外文学」を読みたいわけじゃない。「いい作品」「読んでよかったと思える作品」「最高の作品」を求めているのだ。物語に貪欲な人は、フォーマットは問わない(好き嫌いや相性はあるにせよ)。映画でも、アニメでも、ゲームでも、漫画でも、アマチュアがつくった動画でも、文学でも。残念なことに、文学はこの中ではもっとも敗北している。

 海外文学はもはや、表マーケットで経済活動を続けるか、アマチュアや海賊版翻訳に頼る裏マーケットになるか、という選択肢を突きつけられつつあるとすら思っている。

 本記事は「表マーケットでの経済活動」にポイントをしぼって話を進める。つまり問いはシンプルだ。「なぜ海外文学は売れないのか?」「なぜ海外文学を買わないのか?」

 なお、わたしは仕事上では文学にまったく縁がない分野に生息しているため、これはあくまで外部から見たうえでの話である(ただコンテンツ畑なので、コンテンツのシェア獲得とマーケティング、課金は永遠のテーマだ)。ガイブン業界の慣習やしがらみは抜きにして、話を進めることをご了承いただきたい。

なぜ海外文学は売れないのか?

 なぜ海外文学は売れないのか? 答えは単純で「既存マーケットでは経済活動を維持するのに十分ではない」、つまり「新規マーケットをじゅうぶんに獲得できていない」からだ。「光文社古典新訳文庫」や「池澤夏樹=世界文学全集」のように、新しいマーケットをとりこもうとする意欲的なシリーズは一定の成功をおさめた。紀伊国屋書店新宿本店のいかれた文学集団「ピクウィック・クラブ」は、すばらしく凝った海外文学フェアをつくっていた。

文学ブルジョワ、あるいは4000円のランチが安いと思うマダム

 だが、まだ足りない。アプローチが量的にじゅうぶんではない。

 つい最近、都甲幸治さんが『ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち』を上梓し、その序文で「それでも僕たちは本を手に取らない。どうして?」「この人の本ってこんなに面白いよ。2000円なり3000円なり投資しても、絶対に後悔しないよ。そうした身近なアナウンスが全くないからだ」とのべている。この問題提起は心の底から同意できるが、わたしからすれば最初に“2000円なり3000円なり”のハードカバーを買わせようとしている前提じたいが間違っている

ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち いま読みたい38人の素顔と作品

ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち いま読みたい38人の素顔と作品

 マダムに「ここのフレンチのランチは本当においしいの。ミシュラン二つ星のクオリティでたった4000円よ」といわれて、ためらわない人がいるだろうか? ふだんランチに高くても1000円しかかけない人にとって、いかに質がよくても、いきなり4000円は高すぎる。

 同様に、一般的には「本=文庫」であり、ハードカバーは「買う人っているんだ!」(実際に言われた)なのである。漫画や文庫が売れるのは「書籍にはらってもいい」と思える金額の範囲内だからだ。

「ハードカバーを買ってもらわないと、経営がなりたたない」という気持ちは痛いほどにわかるが、売り手の理屈はぶっちゃけ消費者にとってはなんの関係もない。消費者はつねに「自分にとって価値があり、かつこの値段なら払ってもいい」と思うものにたいして財布を開ける。絶滅するという悲鳴を聞いたとしても、なら絶滅すれば? と思われるだけだ。

売り手側がやれること

 もし1冊でも買ってほしい、海外文学のおもしろさを知ってほしいと思うなら、売り手側がやるべきことは決まっている。


 まずは選書。

  • おもしろい作品、いい作品、読んでおもしろかったと満足してもらえる作品(大前提。彼らは“おもしろい物語”を求めている)
  • ボリューム層の価格認識にあわせた「文庫」
  • 長くないもの
  • 日本語として読みやすいもの(最近のものはクオリティが高いので、そこらへんを中心に)

 そして手法。

  • 「この漫画がすごい!」「このBLがすごい!」などの刷新される(ここ重要)入門リストをつくる
  • 彼らの身近な話題や興味(時事ネタや漫画など)とセットにして売る
  • ガイブン漫画、動画、イベントをたくさん作る


 マーケティングには量的アプローチと質的アプローチがあるが、見ているかぎりでは海外文学は「量的アプローチ」「ライトユーザー獲得」「Webプロモーション」が圧倒的に足りていない。これもまた業界あるあるなのだが、一般的に出版社は悲しくなるほどにWeb・ITまわりが弱い。だから取り残されている。ここについても解決策はあるが、そこまで手がつけられていないという状態なのだろう。

なぜ海外文学を読もうとしないのか?

 さて、売り手側だけでなく、こんどは買い手側から考えてみよう。なぜ海外文学を読もうとしないのか? なぜ海外文学はおもしろくないのか?
これまで周囲の友人や知人、TwitterやWeb上でいろいろな人の意見を聞くかぎりでは、ざっくり下記のようにまとめられそうだ。

  • どれがおもしろいのかわからない(案内がない)
  • 量が多すぎて、選べない
  • 日本語が読みにくい
  • オススメ本を読んでみたけどつまらなかった
  • 海外そのものに興味がない

 ここで注目したいのが「オススメ本を読んでみたけどつまらなかった」というところである。これは売り手側から見れば「ライトユーザーをいったんは獲得したけれど、脱落した」ということだ。ここの失敗を減らす必要がある。

良い文学ジジイは死んだ文学ジジイだけだ

 牧眞司さんは著書『世界文学ワンダーランド』で、「文学をつまらなくしている三悪人」として「国語担当の石頭教師」「ここ掘れワンワンの研究者」「半可通の文学ジジイ」をあげ、文学ジジイについては「存在性そのものが邪悪なので、例外はありえない。良い文学ジジイは死んだ文学ジジイだけだ」とすがすがしいほどに容赦なくたたききっている。

世界文学ワンダーランド

世界文学ワンダーランド

※文句なしにおもしろい文学を山もり紹介してくれる、マイベスト指南書。ごついもの&絶版&ハードカバーが多いので初心者向けではないけどすばらしい。


 わたしは平和な鳥類なのでここまでドラスティックではないが、こういう「ちょっと興味がある人の心をボッキリ折りにかかる文学ファン」に苦々しい気持ちを抱えているのは確かなのだ。

「日本食」代表として、外国人に納豆を食べさせようとする人

 たとえば「海外文学の名作を読みたい」という初心者にたいして、ジョイス『ユリシーズ』やカフカ『城』を紹介してしまう人は、もれなく爆発するかエペペすればいい。「翻訳じゃなくて原文を読め」派にいたっては、どうかその言葉を永遠に封じて百年の孤独を感じるか、ペドロ・パラモしていただきたい。

 はっきり言っておくが、『ユリシーズ』『城』『ファウスト』『白鯨』『失われたときを求めて』あたりは「文学の納豆」である。

 「日本食を食べてみたいけれど、どれがオススメ?」と聞いてきた外国人にいきなり「納豆」を勧める日本人がいるだろうか

 「いや、確かに納豆はおいしいけれど、最初にそれだと日本食が食べにくくなる」

 「ほかにもおいしくて外国人の口にあうものがあるよ」

 良心的な人ならこう考えて、まずは彼らのニーズに合いそうなSUSHIやTERIYAKIを勧めるだろう。

 たしかに納豆は日本の食生活に不可欠だし、独創的でおいしく、かつ健康にいい。わたしは毎日、納豆を食べられる。しかし、それはわたしがすでに小さいころから慣れ親しんでいるからであり、最初からあれを出されたら面食らい、とまどい、「これが日本食なのか……しかしどうにも口にあわない……」としょんぼりすることだろう。


 こういう、せっかく興味を持ってくれた人をしょんぼりさせるようなことが、文学界隈ではしょっちゅう起きている。戦前、あるいは戦後すぐにつくられた古くさい「名作」リストを引き合いに出して、やたら分厚く難解な作品、ハードカバー書籍をオススメする人の、なんと多いことか。

 「最初に、本当にいいものを読んでほしい」

 「読みやすいものだけを読みたいという精神は甘え」

 「いいものも悪いものも、どっちも読んでみてほしい」

 こういうことをいう人たちは全員、納豆リコメンダーおじさんだ。一部の売り手ががんばっていても、検索結果や質問掲示板にはまだまだこうした「初心者クラッシャー」がはびこっている。

 本当にこれらの作品をおもしろいと思って勧めているのかは怪しい。「こんな難解な本を読んでいる自分はすごい」「漫画を読んでいるような人間にはわからない」などと、文学を「選ばれし自分」のアクセサリーにしている人は、若い世代にもおじさん世代にも一定数いる。

「初心者クラッシャー」を避ける方法


 「おもしろい海外文学を読んでみたい→名作を探す→初心者クラッシャーにあたって爆死」という悲劇的なループを続けないためにも、まずは「納豆を勧めているかどうか」を知る必要がある。

 文学ジジイも納豆リコメンダーおじさんも一定数いるから、彼らの行動を制限することはできない。とくに「海外文学にほんのり興味があるけれど、どれを読んだらいいかわからないから探している」初心者諸君にとっては、「こちらのニーズを把握せずに独善的に勧めてくる」人をいかに見抜き、自衛するかがポイントだ。

1.『ユリシーズ』『魔の山』『ファウスト』『白鯨』『城』を勧めてきたら避ける

 なぜか納豆リコメンダーは「やたら長い文庫」を勧めたがる。こちらが初心者であるといっているにもかかわらずこの5冊を勧めてきた時点で、その人の話は聞かなくていい。これら「初心者クラッシャー」を人生数冊目に読んでしまったら、ほぼまちがいなく海外文学がキライになる。ほか『イリアス』『神曲』などもこの部類にはいるが、なぜかこれらを勧める人は少ない(そもそも彼らも読んでいないから?)。

2.マルケス百年の孤独』を勧めてきたら避ける

 これも、個人的には地雷である。『百年の孤独』はまぎれもない傑作だが、初心者向けではない。「ハードカバー」「登場人物がやたら多い」「超常的なことがどんぱち起こる」など、あまりにもビギナーズに優しくないつくりだからだ。「個人的に好きな作品」として挙げるぶんにはまったく問題ないが、初心者相手にこれを勧めるのは納豆すぎる。

3.『地下室の手記』以外のドストエフスキー作品(新潮版)を勧めてきたら避ける

 基本的にドストはやたら長い。ついでに名前がややこしい(光文社の古典新訳文庫版は名前を統一しているので、その限りではない)。確かに王道どころの『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』は滅法おもしろいし、まちがいなく傑作だし、新潮文庫で手軽に手に入るのだが、いきなりこんな長いものをぶつけることは、わたしにはためらわれる。短めのものをいくつか読んで「海外文学っておもしろいかも」と思った段階なら大丈夫だと思うので、ぜひハイテンションなドスト節に酔っぱらってほしい。


 ものすごく雑なのでいろいろなところから怒られそうだけど、もうこれぐらいばっさりいかないと、ガイブン致死率の高さを予防できないのではと感じている。

 なお、世の中にあるのは「自分が好きな本」「海外文学の名作リスト」がほとんどで初心者を想定したものが少なく、多くは上記の作品が入ってしまっている。周りの人に聞いてみたり、掲示板をつかってみれば、納豆リコメンダーおじさんに当たってしまう。

「だったら見るものないじゃん!」と言われればそのとおりなので、近々またリストを作る予定。それまではこちらでご勘弁ください。

まとめ:もうすぐ絶滅するという海外文学について

 頭木さんのつぶやきのように、もうすぐ日本における海外文学の翻訳は絶滅するのだろうか? 

 そもそも日本は翻訳大国だ。世界規模で見ても、これほど話者が少ないマイナー言語で、これほど多くの文学が翻訳されている国はめずらしい。北欧の友人たちは「アニメも映画もスウェーデン語なんかには訳されないから、英語を勉強して英語のまま見ている」という(だから彼らの英語はものすごくうまい)。わたしたちは世界的に見ても、恵まれた状況にいる。

 一方で、いまは圧倒的なコンテンツ過多の時代でもある。コンテンツを作る手間とコストが劇的にさがったため、プロアマを問わずあらゆる人がさまざまなメディアでコンテンツを作りまくっている。たいして、買い手のコンテンツに使う時間とお金は限られている。だからいまは、コンテンツ製作者が買い手の興味と資金を取り合って激闘をくりひろげているわけだ。

 昔にくらべて、商品の質は全体的に上がっているし、買い手のリテラシーだってたいして下がっているわけではない。ただこれは、需要と供給のバランスの問題だ。おもしろいかどうかもわからない海外文学にわざわざお金と時間を使って、博打してまで読もうという気がおきないのは当たり前だ。しかし、このままでは絶滅とまではいかなくとも、衰退していくのは目に見えている。


 もうすぐ海外文学は絶滅するのだろうか? 

 わたしはこの問いに、希望をもってノーと答えたい。だからなんだかんだと6年間、ブログを書き続けているのだ。海外文学の名前を検索してこのブログにたどりついた人、Twitterをフォローしてくれる人、わたしに海外文学を供給してくれる出版社と翻訳者、おもしろい作品を勧めてくれるコンテンツ、本屋のフェア、本読みの友人たち、すべてに愛がある。

 ただ、愛だけでごはんは食べられない。だから生存戦略が必要なのだ。もし、ちゃんとした経済活動を続けるつもりがあるのならば。


 海外文学はワンダーランドだ。はっきりいって、むちゃくちゃおもしろい。海外文学で遊び、ゆかいに死んでいく人生でありたい。

 なにかを愛してきゃっきゃと楽しんでいる人を見るのは、どの分野であれ楽しいものだ。だからわたしはきゃっきゃし続けるし、ほかの人ももっときゃっきゃしてほしい。そして「あそこの人たちなぜか楽しそう」と思う人がいるのなら、どうぞこちらへ。われわれはいつでも歓迎しています。

これまでにつくった海外文学リスト