評価が二分する「ヨルタモリ」
10月からタモリの新番組「ヨルタモリ」がスタートした。3月に「笑っていいとも!」を終了して以来のタモリによる新レギュラー新番組。当然ながら期待は高まっていた。で、フタを開けてみると……その評判は「すばらしい」「くだらない」と真っ二つ。どうやら、ちょっと「つかみづらい」という印象が、こういった評価のバラツキを生んでいるようだ。今回は、この評価が二分することの理由が、実はタモリの芸風に依存している、そしてそれこそがタモリの魅力であるという前提で論考を進めてみたい。「ヨルタモリ」の進行
先ず番組の進行を確認しておこう。とある東京の右半分、湯島辺りにあるバー”White Rainbow”が舞台。レギュラーはママの宮沢りえ、常連客のエッセイスト・能町みね子、そしてタモリ。ただし、タモリは別人として登場する。扮するのは、現在のところ大阪で工務店を営む坂口政治、または一関でジャズ喫茶を経営する吉原という人物だ。ここに毎回、2人のゲストが登場する。1人は文化人系で、これまで劇作家・宮沢章夫、音楽家・大友良英などが登場。もう一人はスペシャルゲストで、第一回は不明だが(スタッフの1人?)、二回目以降は井上陽水、上戸彩、堂本剛、松たか子が出演している。展開は、能町、文化人系ゲストがすでに一杯やっているところにスペシャルゲストが登場。5分ほどトークを続けたところでタモリ扮する人物が登場する。そこでしばらくトークを続けるのだが、途中、タモリは電話やトイレといった所用で二回ほど席を外す。その間、残りのメンバーがテレビを見るのだが、これがタモリが演じるショート・コント。現在のところ「世界音楽紀行」「国文学講座」「ドッキリマル秘報告」「ワールドショッピング」がある。
この間、タモリ扮する人物が、わけのわからない蘊蓄を傾けながらトークを続け、最終的に終電に間に合わないからと言って途中で店を出て行く(その際は、ツケ)。
内容はこれだけだ。しかも、途中の会話が脈絡なく続く。言い換えれば適当な始まりと終わりがあるだけで、とにかくダラダラと続くのだ。なので、番組の一貫性や物語、仕掛けを予期して番組に臨むという、視聴者の一般的な構え=コード(たとえば「水戸黄門」なら勧善懲悪で、最後に印籠が出るという「お約束」の進行)を完全に裏切っている。言い換えれば大雑把な「枠」が用意してあるだけ。だから、こういったものがないと落ち着かない視聴者には中身が読みづらく、スゴくイラつくコンテンツに仕上がっている。
タモリは終わった?
そしてこの一般的な構え=コードは、タモリ自身にも向けられている。50代半ば以下の視聴者にとってタモリとは「笑っていいとも!」のイメージがデフォルト=コードとしてある。「ヨルタモリ」は、まあ適当に(「適当」はタモリの座右の銘)ダラダラやっているのは同じだが、「いいとも!」は昼の番組だったこともあり、タモリ、そして番組にはほとんど毒がなかった。つまり、タモリは無難に(つまり「適当に」)やっていた。ところが「ヨルタモリ」は、これを裏切っている。言うならば「毒」がある。エッジな展開だ。しかも長寿番組「タモリ倶楽部」より、ある意味、一層毒を吐いている。わけのわからなさ、エッジな人間の登場、エロネタの満載、大衆受けしそうもないようなギャグ(たとえば「国文学講座」でタモリ演じる季澤京平教授はどうみてもただのスケベなのだが、これをアカデミックな蘊蓄でオブラートしてしまうのでなんともいえないリアリティが生じる。ちなみにこれは、おそらく、かつてタモリが演じた中洲産業大学教授の文系教授への転換だろう)。「タモリはもう終わったな」なんて書き込みが2ちゃんねるでなされるほど。我らがタモリが帰還した?
「君子豹変」したかに思われるタモリ。ところが、僕のように50代半ば以上でタモリのデビュー当時からタモリを見ている人間にとって、このパフォーマンスは少しも「君子豹変」ではない。むしろ、これは「本質」だ。タモリの芸のルーツは「密室芸」。新宿三丁目ゴールデン街で、わけのわからない文化人やゴロツキを相手に、メディアでは決して映すことが出来ないギリギリ、いやギリギリを超えてしまった芸をやるというのが基本。テレビに登場したイグアナ芸やハナモゲラ語は、いわばその象徴化された存在(もっともテレビ向けにある程度、毒を抜いていたが)。赤塚不二夫と2人で裸になりながらローソクショーをやるなんてことを毎夜繰り広げていた人間なのだ。70年代、パーソナリティを務めた「オールナイトニッポン」でも数々のアブナイコーナーを用意し、当時のオタクたち(当時、まだそんな言葉はなかったが)を驚喜させていた(NHKのラジオニュースを切り貼りしてマッシュアップしてしまうなんて著作権無視のコーナーすらあった。バレて中止させられてしまったけれど、そのことすらネタにするという「エッジさ」だった)。こんなタモリを知っている人間は、82年に「笑っていいとも!」が始まって、司会者としてタモリが登場した際には、むしろそちらの方を「君子豹変」とみていたはずだ。つまり、当初はスゴイ違和感で「いいとも!」を見ていた。ただし、タモリの「適当」感覚にとって、そんなことはどうでもいいこと。メディアに流されながらもダラダラと「いいとも!」を続け、気がつけば三十年を超える国民的番組となり、今やタモリはカリスマ。オーディエンスからも「タモリさん」と「さん」付けで呼ばれる尊敬すべき人物になった。
ところが、この「ヨルタモリ」では、こうやって培ってきた社会的評価を全く無視するかのように、かつての密室芸を再び展開しはじめたのだ。ハッキリ言って視聴者無視というか「いいともタモリ派」をバッサリ切り捨てている。そんなことをしたら視聴率がどうなるのか?いいや、タモリはそんなことはお構いなしである。仮にお客が離れても、それは「適当」だから、そりゃそれでいいとでも思っているのではないか。かつてタモリはNHKの番組「ブラタモリ」で秋葉原を取り上げたとき、この街を褒め称え「振り返らない街」と表現したが、それは要するに自らのことを表現しているということになる。つまり、タモリもまた「振り返らない」。
そして、多くの視聴者がこの番組に違和感を感じる中、「タモリ原理主義派」の50代半ば以上のタモリ・フリークたちは、この「密室芸」「大衆無視」の復活をおそらく大歓迎しているだろう。それは、いうまでもなく「イグアナタモリの帰還」に他ならないからだ。実際、「ヨルタモリ」でのタモリのパフォーマンスはすっかり三十年以上前に戻っている。原理派からすれば、三十数年ぶりにタモリに対する「違和感」を解消したのだ。
ただし、タモリは「振り返らない」。そうやってノスタルジックにタモリを歓迎している年配層もまた「適当」にいなしていくのだろう。
でも、なぜタモリは回帰したのだろう?それはタモリがジャズだからだ!(続く)
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