都志見往来日記 抄



  寛政丁巳八月廿三日、府城を発し、己斐・古江・

草津を通、井ノ口に到る。折しも潮干落て浜伝ひに

過る程に、子乞の山海にそってたち厳島つくねの嶋

島南の海上に浮ひ、風景いはんかたなし、夫より汗

馬を過、八幡川の橋を渡り、道を右にとり北に向ひ

て行、右に八幡の社あり保井田村に至り、庄屋四郎

左衛門所に昼休す。

 予、四郎左衛門に向ひ、さきに過し汗馬の脇にが

きが首と伝所あり、がきとはいかにもいやしき名な

るが外に唱へはなきやと尋ねければ、されは、此辺

にては小山の嶮なるものをがきと申ならはし候。子

乞の山なともがきの内にて候と申により、其わけは

いかにといへは、四郎左衛門申すには、厳島縁起に

も佐西の郡宮内十がきか浦とかや申て、往古は草津

より小方迄の間を総て宮内と唱申候。当時はいずれ

いずれと申事は伝らす候へとも、汗馬の小山井口の

子乞の山なども十がきの内と申伝へて候。今にても

能くしらへ候ハヽ、十もあるべく候と云、がきとは

いづれ古言なるべし。

保井田を過、下河内へ移る所川端に茶店三軒あり、

川にちさき梁あり此所より山に登る。道次第に嶮に

して左右切り岸高きこと、三、四間はかり其間を過

る。此辺所々家あり、半道程登りて左山高く右の方

谷深し、過し夏の頃水内へ入治の人、夜中あやまり

て此所より落る事凡十四五間はかり、されとも幸ひ

に死に不及、水内へ行入治せしと所の者いへり。猶

登りて左の方森の内に社あり、此所を宮の風呂と云。

それより漸く登りて河内峠に至る暫く芝居して詠る

に、北に大山峨々として、半腹に細き樵路あり、下

に谷川帯の如くにめぐれり、上より見れば此川所々

渕ありて藍のことくに分る。此峠より西北の方へ斜

に下りて谷に入、左山高く右に流を見て行程に樹木

茂り隠々として冷かなり。道のあたりくハとら蘭雪

もよう美しくそれより葛原に移る。(後略)




 広島から己斐・古江・草津・井口を通り、井口では海岸を通って汗馬に出、八幡川を渡って北に向かい保井田村の庄屋四郎左衛門の家で昼休みをし、途中不審に思ったガキが首という地名について話し合ったこと保井田を出て下河内へ移るところに茶店が三軒あったこと(当時三軒もの茶屋があったということは、通行人がかなりあったのではないかと考えられる。)そして荒谷川を上り河内峠に至り、途中山道の嶮しさ、谷の深さ眼下に流れる川、前方の山々などについて詳細に書き記しており当時の旅の様子が実によく書きあらわされている。


         (五日市町誌より)




    都志見往来諸勝図   草津

    都志見往来諸勝図  井ノ口

     都志見往来諸勝図  汗馬 

     都志見往来諸勝図  八幡川

     都志見往来諸勝図  寺田

     都志見往来諸勝図  宮風呂

  <参考文献> 

     都志見往来日記 同諸勝図  広島市中央図書館

     五日市町誌  五日市町

     河内村誌  河内村誌編集委員会・河内公民館

     八幡川歴史ガイドブック  やはたがわまっぷくらぶ

     都志見往来諸勝図  河内峠