日本本来の集落社会といえば以上のようなものを想像するだろう。自然と調和する農村・漁村である。民家と民家は密接しており、そこには共同体が存在している。
実際に、こういうところでは、戦前とか、下手すれば江戸時代からの由縁の続いている親しい地域社会があったりする。いわゆる「講」のようなものが生きていて、助け合いをしていたりする反面、プライバシーはないだろう。
こういう場所でも車ですぐにコンビニに出られるし、ネットもあるのだから今の時代は便利になっている。
ところで、上のような風景も日本には存在する。
こういうただっぴろい平野部の農耕社会には不可解な点がある。それは、「集落のまとまり」が感じられないことだ。
首都圏でも、多摩地区や、神奈川県内陸部、埼玉や千葉の発展できなかった場所に行けばこういう光景はいくらでもある。大自然の中にポツポツと人間の住む場があるが、束ねるような共同体が把握しづらい。家と家の間はやたらと間隔が開いていて島宇宙になっている。
こういう農耕社会は不思議なことに、田舎のくせに地域つながりが見えづらい。
自治会・町内会くらいはあるのだろうが、となり近所の人との付き合いがまるでなかったりもする。古い住民の高齢者すら家の中でテレビを見てゴロゴロしたり、クルマを出して集落外の地域の人付き合いの集会に行ったりしている。
神社もひっそりとしていて、子どもたちが境内を走り回ってわいわいと遊び回る様子や、ご老人が談笑している風景もない。感じる「社会的な寂しさ」は、地方県庁所在地や腐っても首都圏に属する農耕社会の方が、もともと栄えておらず未来永劫都市化することがないと思われる農村漁村に比べると顕著である。
上の画像は東京都中央区、下は世田谷区だ。
バリバリ東京23区の中にある、都心なんて目と鼻の先といえる場所だが、その情緒には日本の本来の共同体が感じられる。
趣深い民家や老舗商店の隣に真新しい戸建て住宅やマンション・アパートが建っている光景から察しがつくように、新旧住人が混在している。しかし、縁もゆかりもない新住民であっても自治会に属し、回覧板を回したり、祭りがあれば手伝いに行ったりする。こういう場所ほど地域活動も盛んで、外国人が笑顔でお神輿をかついでいたりもする。表で地元住民らがワイワイと話す風景もある。当然これは、横浜や湘南や大阪など、あらゆる都市部にもみられる風景である。
改めて、「多摩ニュータウン」を筆頭とする小田急や京王線や東急田園都市線あたりの沿線にいくらでもある風景を見てみよう。
孤独な農耕社会の大自然の空白を埋めるように、田んぼや山や林の上に林立しているマンションやアパートはとても無機質だ。こういう場所の小学校では、新旧住民が通っているのだろうが、さして住民の性質に変わりはないかもしれない。方言の有無を覗けば、孤独な農耕社会出身の子と何も変わらないのである。マンション住まいの彼らも親は群馬やあたりの無機質な地帯の出だったりするのだ。
日本の風景を見ると「味気ない」のは圧倒的に都市部だろう。
しかし実質的に寂しいのは、過疎でもコミュニティが存在する農村漁村よりは「孤独な農耕社会」であり、それを無理やり都市開発した多摩ニュータウンのようなものである。平成以降地方各地で、土建屋利権政治で作られた道路沿いのイオンの吹き溜まりのような「劣化多摩ニュータウン」はより悲惨である。
「東京の人は冷たい」と言われているが、あれはきっと、北関東あたりのこの地帯でヤンキーにも慣れなかった人間のお上りさんと、京王線や田園都市線や埼京線などで渋谷までやってくる人たちが引き起こしていることではないか。
漁村・農村の本当の集落から見れば「満たされている」が、都市部から見れば自分たちとは異なる次元にある「農耕社会」である、「満たされた農耕社会」こそが孤独なのだ。そしてその社会の精神風土を踏襲し、表面的に都市化したニュータウンほど、悲惨な環境は存在しないだろう。