今年は「バスラの戦い」からちょうど100周年にあたります。

バスラとはイラクの南端にある町です。100年前に、ここでオスマントルコ軍とイギリス軍が戦闘を交えました。

皆さんは「超ド級」という言葉を聞いたことがありますか?

「超ド級」とは「超ドレッドノート級(の戦艦)」を指し、英語だとSuper-Dreadnought Classとなります。

ドレッドノートとは戦艦の作り方を指します。

ドレッドノートが登場する前は、戦艦の砲撃手は当てずっぽうで大砲をぶっ放していました。

しかしこれでは遠距離の敵に命中しないので、艦橋で自艦の航行速度、相手の航行速度などを計算し、同一口径の大砲の砲門を、すべて同じ角度に一致させて一斉に撃つという、いわゆる「斉射」技法を採りいれたのがドレッドノート級戦艦です。

HMS_Dreadnought_1906_H61017
(出典:ウィキペディア)

ドレッドノートは1906年にイギリスでジャッキー・フィッシャー提督の指導により建艦されました。世界で最初の、近代的で、圧倒的な火力とスピードを持つ戦艦というわけです。

ドレッドノート級の戦艦は、その後の建艦競争のグローバル・スタンダードとなり、ドイツとイギリスとの間で激しい競争が始まります。

この建艦競争は、ほかのどの国よりも沢山の戦艦を持つことで抑止力を獲得し、相手に戦争を思いとどまらせるという意図がありました。

その意味で冷戦時代の大陸間弾道弾(ICBM)の「核の競争」と同じ性格を持っていたわけです。しかし核競争が相手よりもっと多くのミサイルを持つことで安心を保障することが出来なかったのと同様、ドレッドノート級戦艦を相手より沢山保有しても、それで安心を買うことは出来ませんでした。

1805年にトラファルガーの海戦で英国が勝利して以来、イギリス海軍は世界の制海権を100年に渡って堅持してきました。その期間、アメリカの南北戦争、普仏戦争などの局地的な戦争はあったものの、世界は概ね平和でした。言葉を換えて言うならば、イギリスの圧倒的な覇権が、世界の秩序維持に役立っていたわけです。

しかしビスマルクがドイツを統一すると、それまでヨーロッパ大陸の中で最も細分化され、諸侯が割拠していた中心部に、ドイツという強力なコアが生まれました。

ドイツのカイザー・ウイルヘルム二世はビクトリア女王の孫だったので、イギリスとは懇意であり、またイギリスは仰ぎ見る存在でした。しかしそれと同時に、カイザー・ウイルヘルム二世はイギリスに対してライバル心を燃やしました。

ドイツは遅くして国家の建立がなされた関係で、植民地戦争には乗り遅れました。ドイツが世界の舞台に登場したときには、すでに植民地の山分けは終わっていたのです。ドイツが強い海軍を持つことに情熱的だったのは、このためです。

イギリスはドイツが海軍を持った当初は、ドイツをライバルとはみなさず、むしろ先輩の立場から、いろいろな技術指導をしました。

しかしドイツが建艦競争を止めないので、途中から「ちょっと待ってくれ、あなたがどんどん建艦すると、われわれも制海権を維持するために建艦しなくてはいけなくなる」とドイツに対して競争のエスカレーションをストップすることを申し入れます。

長い間、ドイツはイギリスと一戦を交えるつもりはサラサラありませんでした。しかしドイツ海軍の戦力は、そうしたフレンドリーな気持ちとはウラハラにどんどん増強されてしまったのです。

Battleship_building_scatter_graph_1905_onwards
(出典:ウィキペディア)

イギリスは、ドイツのフレンドリーな外交上の関係ではなく、両国の海軍の作戦能力の差異に次第に注目するようになります。

ビクトリア女王の時代には、英国は「名誉ある孤立」政策を貫いていました。しかし1901年にビクトリア女王が死ぬ頃には大英帝国は傾きはじめ、もはや単独で世界を支配できなくなりました。

そしてエドワード七世が即位するわけですが、エドワード七世はフランスと密約を結びます。エドワード七世は人生を楽しむタイプの楽観主義者で、パリが大好きでした。イギリスがフランスと手を結んだのは、このエドワード七世のフランス好きによるところが大きいと言われています。




さて、ドレッドノート級戦艦は当初石炭を燃料としていました。しかし石炭は燃料補給の際に手間がかかるし航行中にボイラーに石炭をくべる作業が煩わしいです。煤煙は濃い黒色で、遠くからも目視できるため、敵に位置を知られやすいです。また重油に比べて熱効率が悪いので沢山の燃料スペースを必要としました。

重油は石炭の二倍の熱効率があるので燃料スペースを倹約できます。それは一回の給油でずっと遠洋まで航行できることを意味します。煙が濃くないので敵艦に発見されにくい利点がありました。さらにボイラーそのものも小さい設計で済みます。

海軍大臣ウインストン・チャーチルはイギリスの戦艦の燃料を重油に切り替える決断をします。

さて、重油を燃料に使用する際の最大の問題は、イギリス国内で充分な量を確保出来ないという点です。そこでイギリスが目を付けたのが、イランから産出される原油です。

すでに英国はアングロ・イラニアン・オイル・カンパニー(AOIC)というジョイントベンチャーをイランと始めており、1912年にはその最初の精油所であるアバダン精油所が完成していました。

しかしチグリス・ユーフラテス川を隔てたすぐ向こうのバスラは、オスマントルコの支配地でした。1914年に第一次世界大戦が始まると、敵国であるオスマントルコからアバダン精油所を守る必要が高まりました。

当時オスマン帝国は「ヨーロッパの病人」と呼ばれており、どんどん領土を失っていました。

バスラはオスマン帝国にとって、辺境の、御しにくい居留地に過ぎませんでした。さらに当時のメソポタミアは国家の体を成したところは存在せず、バスラ、バクダッド、モスールなどは、それぞれ人種的にも宗教的にもユニークな町として存在していたのです。

ドイツは対外進出の一環としてドイツ銀行の肝いりでバクダッド鉄道のプロジェクトを計画していました。トルコとバクダッドが鉄道で結ばれてしまうと、アバダンに精油所を持つイギリスの利害は脅かされてしまいます。

これもイギリスがバスラ攻略を行った理由です。

ただその時点でもイギリスの究極の関心事はインドの安全保障でした。

イギリスが当時唯一のイスラム国家だったオスマン帝国と一戦を交えた場合、アラブ圏の回教徒が覚醒し、インドに矛先を向けることでその安全を脅かすことを心配していました。

またイギリスがオスマン帝国と戦争になった際、イギリスと親密な関係を維持してきたクウェートの王族を守るという意味もありました。

イギリスが英本土からではなく、植民地であるインドから、主にインド人で構成される軍隊をバスラに派遣したのは、これらの理由によります。

イギリスは緒戦に勝利します。

この戦勝に気を良くしたイギリスは、バクダッドまで攻め上がります。この頃にはモスールの油田の潜在力が認識されはじめ、バスラ=バクダッド=モスールを一括りにする国家を打ち立てる構想が出てきたからです。

こうして戦争目的は当初のアバダン、バスラ地域の確保から、こんにちのイラク全土を包括する地域の支配という目標に拡大してしまうのです。

この後、ガートルード・ベルがファイサルを初代イラク国王に推挙するわけですが、そのエピソードは以前紹介しました。