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(朝日新聞「けいざい進話」)豪華列車いざ出発(JR九州、全4回)

2013年10月23日 | JR各社経営方針

豪華列車いざ出発:1 剛腕社長、貫いた夢

2013年10月16日05時00分

写真・図版

「ななつ星」の前で報道陣の質問に答える唐池恒二JR九州社長(中央)。この後、列車に乗り込んだ=15日午後、福岡市のJR博多駅、池田良撮影

写真・図版

  JR博多駅の6番ホームは平日の昼間だというのに、時ならぬ人だかりができていた。15日午後0時47分。九州をひとまわりする豪華寝台列車「ななつ星」の第1便が、警笛を鳴らしながらゆっくりと動く。着物の女性やスーツの男性ら28人の客が、磨き上げられたワインレッドの車体の窓から手を振っている。多くが、首都圏に住む50〜60代の富裕層の夫妻だ。

 JR九州は、この客車7両と機関車の1編成に新幹線なみの30億円をかけた。シャワー室にはヒノキが張られ、客室の洗面鉢は佐賀・有田焼人間国宝14代酒井田柿右衛門の遺作。壁には福岡・大川の家具職人の繊細な装飾が組み込まれている。バイオリンやピアノの生演奏もあり、すし職人が目の前で腕をふるう。
 飛行機とのスピード競争に敗れ、1990年代以降に相次いで姿を消した寝台列車。いま、贅沢(ぜいたく)な時間やおもてなしに浸る「動く高級旅館」として、九州で新たな一歩を踏みだした。

 地方のローカル線を多く抱えるJR九州は、鉄道部門で年100億円を超す赤字が続く。国からの基金3877億円の運用益でどうにか黒字にしている。
 それなのに、JR東日本や西日本の計画より3〜4年早く豪華寝台列車を実現できたのは、社長の唐池恒二(60)の強い思い入れがあってこそだった。

 ななつ星のことになると、唐池の指示は格段に細かくなる。「食堂車で出すフォークやスプーンは、ノーベル賞の晩餐(ばんさん)会で使われた新潟県のメーカー製にするように」
 食事のメニューは、デザートまで自分で味わって厳選する。選ぶ楽しみは欠かせないと、シャンプーやリンスは2種類ずつ置かせ、乗務員のおじぎには「かしこまりすぎている」と注文。列車がまわるコースも唐池の提案を軸に決まる。ななつ星の担当部署は、社内では社長直轄の「天領」とささやかれる。
 唐池は、大阪育ちの根っからの関西人。京大では柔道部主将だった。1977年に国鉄に入り、87年の分割民営化の前の4年、大分と福岡・門司での勤務を経てJR九州に移る。
 バブル景気で右肩上がりの時代。「九州を一周する豪華な寝台列車をつくったら、きっと受けるよ」。30代半ばの唐池は、福岡・中洲の繁華街で知り合った広告マンの言葉が忘れられなくなる。
 40代にかけての10年間は、鉄道の仕事から離れていた。九州料理の店「うまや」の外食事業や、博多と韓国・釜山を結ぶ高速船「ビートル」の就航を軌道に乗せる。

 2009年に4代目の社長に就いたとき、会社は売り上げの6割近くを外食などの鉄道以外の事業で稼ぐようになっていた。それでも、最初に思い浮かべた次の一手は、あの豪華寝台列車の構想だった。
 人口の減少が著しい九州で、鉄道事業の先行きは厳しい。単なる移動の手段ではなく、列車で過ごす空間や時間を楽しむしかけはできないか。「外から観光客を呼び込む起爆剤にできる」との確信があった。
 社長就任から1年ほど。リーマン・ショックの余波がまだ残るなか、20人ほどが集まった本社の幹部会議で、唐池は初めて豪華列車計画を提案した。30億円の投資額に対し、計画での売上高は年5億円に届かないという。
 利益も運行開始から10年平均で、年1500万円。手間ひまをかけるのに、採算性は低い。「こんな高い列車に乗る人がいるのか」。幹部たちは慎重論を述べ、会長で前社長の石原進(68)も不安を口にする。
 ほどなくして開かれた再会議。唐池は、首都圏が基盤の大手百貨店が分析したデータを手に「国内だけで、100万円単位の買い物を気軽にする層が100万人以上いる。必ずうまくいく」と断言した。

 ある人の存在が、トップの強気の決断を支えていた。

 =敬称略 (土屋亮)

キーワード <ななつ星> 正式名称は「ななつ星in九州」。「九州7県の観光のシンボルに」との願いを込めた。機関車をのぞいて客車が7両ある。名前の候補には、豪華客船を舞台にした米国の名作映画のタイトルと同じ「めぐり逢い」や「九州一周」の英語の頭文字をとった「MARK」(Make A Round Kyusyu)などがあった。九州観光の七つの特徴(自然、食、温泉、歴史文化、パワースポット、人情、列車)も表現したという。3泊4日コースは、昼すぎに博多を出発し、夕方に大分・由布院で下車。散策などを楽しむ。夕食を車中でとった後、夜中から2日目の朝にかけて宮崎県に向けて走る。長崎方面をまわる1泊2日コースもある。


豪華列車いざ出発:2 常識破りの「器」をつくる

2013年10月17日05時00分

写真・図版

 豪華寝台列車を議題にした幹部会議の半年前、JR九州社長の唐池恒二(60)は、社外デザイナーの水戸岡鋭治(66)に計画を打ち明けていた。2010年初頭のことだ。

 「こんな列車を走らせたかった。よく決断してくれた」

 1988年から一貫してJR九州の列車デザインを担ってきた水戸岡のひと言に、唐池は自信を深める。結論が持ち越された2度目の幹部会議に、強い決意で臨んだ。慎重だった会長の石原進(68)は「社長の決断にゆだねるほかない」と思った。豪華列車計画は了承された。

 その水戸岡も、かつては社内から不満の声を浴びていた。JRの「常識」にとらわれない斬新な提案を繰り返すからだ。

 92年、博多―西鹿児島(現・鹿児島中央)間を4時間で結ぶ特急「つばめ」のデザインを任されると、テーブル付きの個室や食堂車を図面に書きこんだ。欧州の長距離の夜行寝台列車「オリエント急行」のようなゆとりをもたせたいと考えたが、食堂車は「座席が少ないと採算がとれない」と反対にあう。

 宮崎の海岸線と山中を走る観光列車「海幸山幸」では、燃えにくい特殊加工をした木材を車体や内装に使った。これも「非常識」な試みだった。

 こうした列車は次第に鉄道ファン以外にも受け入れられ、乗客が増える。水戸岡は、一目置かれる存在に変わる。あの幹部会議から3年、今月15日に走り出した豪華寝台列車「ななつ星」は内装の9割に木材を使い、前例にとらわれない水戸岡デザインの集大成として仕上がった。

 第1便の2日目、16日も乗り込んだ小川聡子(43)は、水戸岡に繰り返し言われた言葉が忘れられない。

 「私ができるのは、列車という『器』をつくるところまで。この先、列車を成功させるのはあなた方の力です」

 小川は日本航空客室乗務員を17年勤め、26倍の難関を突破して1年前、乗務員25人のひとりに選ばれた。このときの決意の言葉は「世界一のおもてなしでお客様を迎えます」。その質を試される日々が、始まった。

 16日、第1便は午後2時すぎに鹿児島・隼人駅に着いた。28人の客はこの日だけ列車の外に泊まる。最高級客室の2組・4人は、東京ドーム13個分の山中に五つの棟が点在する1泊20万円の「天空の森」に向かった。

 全体の統括役、JR九州クルーズトレイン本部次長の仲義雄(38)は1年半、毎月、ここを訪れてきた。本社から片道3時間半。主人と話をし、季節ごとに変わる宿や自然の表情を確かめる。他の立ち寄り先とも、すべて直接顔をつきあわせて交渉した。

 「手間ひまをかけないと、いいものはできない」。顔の見えるおもてなし。それは、ななつ星という「器」の外にも広がっていた。

 =敬称略 (土屋亮)

 


豪華列車いざ出発:3 立ち寄り誘致へ旗振り合戦

2013年10月18日05時00分

写真・図版

ななつ星の専用バスを、小学生たちが列車の絵入りの小旗をふって出迎えた=16日、鹿児島県霧島市、中村幸基撮影

  • 写真・図版

 17日午後2時すぎ。豪華寝台列車「ななつ星」の乗客28人は、鹿児島県霧島市の隼人駅前で住民に見送られ、丸一日ぶりに列車の旅に戻った。

 霧島市は、3泊4日コースで唯一の車外での宿泊地。前日に降り立ったときは4400人が出迎え、赤い帽子の小学生は懸命に列車の絵入りの小旗をふっていた。隼人駅からバスで旅館に直行する当初計画に、市が「地域で歓迎したい」とJR九州に提案。歓迎旗111本がはためく道を抜けて、鹿児島神宮に立ち寄る日程になった。

 「おいしいお茶ね」。境内で女子高生がふるまう霧島茶に、客の笑顔がこぼれる。列車が通るだけの地域、客が降りない駅のホームでも、過熱気味の歓迎行事は続く。

 初日の15日は、列車が通過する福岡県うきは市の鉄橋の近くで、市民ら約170人が、「WELCOME」の人文字をつくり、手をふった。

 大分・豊後竹田駅でも最終日の18日、単線ですれ違う列車を待つ2分の間に、旗ふりを計画。列車の客は降りないが、大分県竹田市防災無線で沿線も含めて参加を呼びかけ、1千本の旗を用意した。

 第1便は3日目までに、宮崎市や大分県由布市など4市の市長の出迎えをうけた。

 「長崎にも寄ってください。私もお迎えに立ちます」
 2年ほど前、長崎市長の田上(たうえ)富久(56)は、コース案に長崎が入っていないと知ると、JR九州社長の唐池恒二(60)に何度も頼みこんだ。2010年のNHKの大河ドラマ龍馬伝」が終わり、観光客が伸び悩むなか勝ち取った、1泊2日コースの停車駅。初日の26日、伝統の龍(じゃ)踊りが長崎駅で客を出迎える。

 どの自治体も、地域あげての歓迎行事は「ささやかでも続けたい」と口をそろえる。熱意をみせるのは、JRがななつ星の立ち寄り先を年単位で見直す方針だからだ。

 九州は各地に景勝地が点在するが、山あいが多く、交通の便が悪い。京都や北海道に比べて、有名な観光地がそう多いとは言いがたい。富裕層に立ち寄ってもらえば、地元は潤い、知名度も上がるだろう――。そんな思惑がある。

 豪華列車にかける期待が高いのは、これまで九州を走ってきた9本の観光列車が、全国から観光客を呼びこむ「しかけ」になってきたためだ。

 1989年にできた1本目の「ゆふいんの森」の乗車率は、いまも6割以上。鹿児島中央―指宿(いぶすき)の「指宿のたまて箱」、熊本―人吉の「SL人吉」は8割にのぼり、リピーターは多い。

 客車7両のななつ星の乗客は最多で30人。毎週走っても年3千人で、大型クルーズ船1隻に満たない。唐池は「乗れなくても『豪華列車が走る九州に行きたい』と思う人が増える」と自信をみせる。これから、各地は観光地としての魅力をどこまで底上げできるだろうか。

 =敬称略 (中村幸基、土屋亮)

 


 

豪華列車いざ出発:4 目指すは上場、独り立ちへの旅

2013年10月19日05時00分

 

 豪華寝台列車「ななつ星」の第1便は4日目、JR博多駅に戻ってきた。

 18日午後5時34分。帰宅ラッシュで多くの人が行き交うホームに、予定よりほんの少し遅れて、28人の乗客がそれぞれの表情で降り立つ。

 乗務員に手を差し出されてうれしそうな人、疲れ気味で列車から降りるときに足を踏み外しそうになった人。妻と乗った静岡県浜松市の県職員、溝口久さん(55)は「ほとんど車内で、おなかはすかなかった。揺れるので眠りも浅かった」とこぼしたが、大方の客は「快適だった」「また乗りたい」と笑顔だった。

 走行距離は1100キロ。東京―博多間なら新幹線で5時間ほどのほぼ同じ距離を、九州を時計回りに一周、のんびりとめぐる。JR九州日本初と触れ込む「クルーズトレイン」の初旅は、大きなトラブルもなく幕を閉じた。

 豪華客船を連想させるネーミングは、テレビやネットの話題でも独走した。3年後の豪華列車計画で追いかけるJR東日本が「『クルーズトレイン』の呼び名を使わせて」と、頭を下げにくるほどだ。

 常にきらびやかな車体を保ち、一流のおもてなしを提供するななつ星。その挑戦は、「九州観光のシンボル」にとどまらない。「経営基盤の弱い地方鉄道会社」から抜け出せるかの、試金石でもある。

 ローカル路線が多いJR九州は1987年の国鉄分割民営化のとき、北海道や四国とともに採算が厳しく、国から支援を受ける「三島会社」と呼ばれて誕生した。

 その3社のなかで初めて自立し、「全国区の大企業」へ仲間入りを。豪華列車構想の具体化と時を同じく発表した「2016年度までの東証1部への株式上場」の目標には、そんな思いがにじむ。

 ただ、国からもらった3877億円の経営安定基金を返上するつもりはない。これで鉄道事業の赤字を埋めて経営を成り立たせているためだ。年50億円ほどの税優遇も「できれば続けてもらいたい」というのが本音。とはいえ、かつて上場をめざしたJR北海道は、この税優遇の扱いが決まらず、上場を見送った。

 「日々の安全運行が我々の第一の仕事。これを決して忘れず、豪華列車をやりなさい」。新型車両を次々に採り入れ、高速バスやマイカーとの競争に負けない会社をめざしたJR九州初代社長の石井幸孝(81)は、ななつ星をこの10月に走らせると説明にきた現社長の唐池恒二(60)に、こう釘をさした。

 ところが、ななつ星は9月の試験運転中に、社内規則に反して半世紀近く放置されていた電柱にぶつかる事故を起こす。原因不明の緊急停止もあり、在来線ダイヤを何度か大きく乱した。

 安全を最優先に考え、国に頼らない会社へ。JR九州の独り立ちの旅。道のりは平坦(へいたん)ではない。

 =敬称略

 (土屋亮)=おわり


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