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鎌倉時代人と現代日本人、ミトコンドリアDNA同じ特徴

2008年02月21日10時59分

 今日の日本人は、古くから列島に暮らしていた縄文人に、大陸から渡ってきた弥生人が合わさり誕生したと考えられている。それでは、両者の融合はいつごろから進んだのだろうか。日本人の形成をめぐる大きななぞに、遺伝子の面から一つの回答が示された。鎌倉時代に関東地方に住んでいた人々のミトコンドリアDNAの特徴は現代人とほぼ同じだというのだ。これまで「顔立ちが独特で不可解な存在」とされてきた中世人。その成り立ちが最新の科学技術によって見えてきた。

■中世の人骨61体を解析

 国立科学博物館人類史研究グループの篠田謙一研究主幹(分子人類学)が、神奈川県鎌倉市の由比ケ浜地域の二つの遺跡で発見された鎌倉時代の人骨61体からミトコンドリアDNAを抽出し分析した。

 ミトコンドリアDNAは母親から子どもへと受け継がれる遺伝子で、現在の地球上のすべての人類は、かつてアフリカにいた1人の女性の子孫だという「イブの仮説」を生み出すなど人類の歴史の解明に新たな世界を開いている。微量でも分析が可能な方法が開発されたことで1990年代後半から急速に研究が進み、日本では縄文人や弥生人のDNAが調べられ、現代人との比較が進められてきたが、その中間となる中世の人骨を対象としたまとまった研究は、これまでなかった。

 配列の特徴によってミトコンドリアDNAはハプログループという集団に分類する。血液型のように人はどこかのグループに属し、グループにより分布に特徴があることが分かってきている。Dは東アジアに広範に存在し、Gはシベリアなど北方に多い集団。Bは中国南部で誕生したらしい。M7aは沖縄に多いのが特徴で、旧石器時代に南から伝わり日本列島に住み着いた縄文人を代表するグループとの見方が強い。Aは、北米・中米の先住民では最も多いが、ユーラシア大陸では北方に限定……といった具合だ。

 篠田さんは61体のDNAを分析・分類し、その構成比を1月に東京であった研究会で発表した。DとGでほぼ3分の1を占め、AよりもBの頻度が高く、M7aの比率も現代の本土日本人とあまり違わなかった。

■縄文人・弥生人の融合進む

 鎌倉は都市であり、各地から集まった多様な人がいたと考える余地もある。だが、茨城県東海村で見つかった人骨でも同様の結果がまとまった。名古屋大大学院生だった坂平文博さんが手がけた研究で、昨年暮れに学術雑誌に発表された。室町時代中ごろの製塩集落の遺跡で、49体からDNAデータを得たが、結果は篠田さんが行った鎌倉の分析とほぼ一致した。

 「縄文人と弥生人の融合は九州で始まり徐々に東に進んだはずで、中世には現代と同じレベルの融合が関東地方にまで進んでいたことを示している」と篠田さんは判断する。

 鎌倉時代の鎌倉に日本人が住んでいた――一見当たり前とも思える結論だが、人類学において中世人は不可解な存在だ。鎌倉で出土した人骨を形状の特徴から研究してきた聖マリアンナ医科大の平田和明教授(形質人類学)によると、中世人は頭が前後に長いうえに顔が上下に短く、上あごが出ている特徴があり、「明らかに他の時代の人とは異なっている」という。

 その違いをめぐり議論が続き、縄文人に似ているとして、縄文人の子孫ではと主張する研究者もいたというが、平田さんは「古い時代から現代まで列島の人間は遺伝的に連続している可能性が高いことが裏付けられた」と今回の研究を評価する。「顔立ちの違いは環境の変化といったことが原因なのでしょうが、中世の日本列島で何があったのでしょうか」と平田さん。

 篠田さんは「DNAは、私たち日本人とは何なのかということを考える切り口になるはずだ」と研究の狙いを語る。比較には50体程度まとまった人骨が必要で、貝塚で見つかる縄文時代と、甕棺(かめかん)に埋葬した弥生時代を除くと酸性土の日本列島では骨は残りにくい。前途は決して容易ではないが、「同じ鎌倉時代で、東北と北陸が分かれば、日本人の成立がもう少し具体的に語れるようになるでしょう」と見通しを示した。

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