10月にVol.1が公開となった、鬼才ラース・フォン・トリアーの『ニンフォマニアック』。先日、やっとVol.2を観てきました。Vol.1だけ観たときの感想は以前書いているので、今回はVol.2の感想と、あとは全体を通した主題について考えてみたいと思います。
「『ニンフォマニアック』って何?」という方は、ぜひ予告編を観てみてくださいね。とってもR18なかんじの、悪趣味な映画です。
映画『ニンフォマニアック Vol.1 / Vol.2』予告編 ソフトバージョン - YouTube
以下ネタバレをふくみますので、気になる方はご注意を。
色情狂と、性依存症の境目はどこ?
まず、タイトルの『ニンフォマニアック』の名の通り、この映画は「ニンフォマニアック=色情狂」の女性、シャルロット・ゲンズブール演じるジョーが主人公です。ジョーの若かりし日を演じているのは、モデルのステイシー・マーティン。
Vol.1では、このジョーの、幼い日の性の目覚めを描いたり、「今すぐヤッて服」とかいう露出の激しい服装で男性たちを誘惑した10代の頃を描いたり、父親との死別のエピソードが語られたりするんですが、Vol.2ではさらに過激な方向へ。たくさんの男性たちの1人であったジェロームとの間に愛が芽生え、結婚して息子も生まれるんですが、一般的な意味で「幸せ」になったはずのジョーはなぜかそこで不感症になってしまい、SMに走ったり、言葉の通じない黒人とのプレイに走ったりするんですね……。ちなみに、『ニンフォマニアック』はR18ですが、どちらかというと「ハードすぎて萎える」といったかんじの映画なので、女性が1人で映画を観に行ったりしても全然だいじょうぶ。逆に、ドキドキを期待するカップルや夫婦で観に行くのは避けたほうが賢明でしょう(珍しく有益な情報を提供する私)。自分の場合、Vol.2の鞭打ちのシーンなんかは、見ていられなかったので実は薄目でした。
男漁りがひどすぎて職場の人に心配されるまでになってしまったジョーは、Vol.2でついに、性依存症の女性たちが集まるカウンセリングに参加することになります。予告編を見ていただけると出てきますが、大きなホールのような場所で女性たちが輪になって集まるシーンですね。
始めはカウンセラーの指示に従い、家中にある「性」を連想させるモノ、書籍などをすべて処分し治療に励もうとするジョーですが、最終的にそれを投げ出し、(ここも予告編にありますが)「私は色情狂よ。そんな自分が好き」と言い放ち、カウンセリングの場を後にしてしまいます。
Vol.2を観る限りだと、実はこの後、下半身の痛みがひどくて性行動を断ったジョーに発熱や痙攣などの禁断症状*1が出てきてしまうシーンがあって、「それってやっぱり普通に依存症なんじゃ……」と私は思ってしまったんですが、とにかくジョーはここで「色情狂」と「性依存症」はちがう、とはっきり言い放っているんですね。そして私はこのシーンが、本作においてジョーが最もカッコよく見える、または爽快感があるシーンであるように思いました。
救済とその不可能
ところで本作は、とある事情から路地裏で倒れていたジョーと、そのジョーを介抱した初老の男(Vol.2において童貞であったことが明かされる)・セリグマンとの対話という形式をとっています。自らの性衝動のせいで愛する人たちを傷付け、自分自身も傷付いてきてしまったジョーは、ラストシーンにおいて、「私はもう、女性としてのセクシュアリティを排除する」みたいなことをセリグマンにいいます。
「色情狂と性依存症はちがう!」と言い放ち、奔放で自由なジョーを4時間近くかけて描いてきたにも関わらず、「え、結局そこに着地すんの」と私はポカーンとしてしまったんですけど、そこでさらにセリグマンが、「もしこれが男性の物語であったなら、とても凡庸なものだっただろう」みたいなことをいうので、まぁそうなんだけどじゃあ今までの4時間は何だったんだとか思ってしまって、このラストシーンの意味が、観終わった直後はよくわからなかったんですよ。鬼才ラース・フォン・トリアーが、そんなベタな終わらせ方をしていいのかと、納得いかなかったんですね。
で、もう一度『ユリイカ』を読み直しまして、このラストシーンは批評家の佐々木敦氏が語る「救済とその不可能」という言葉で説明すると、すっきりするということに私のなかでなりました。この言葉で解釈すると、前作『メランコリア』や『アンチクライスト』、さらには『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の主題とも通じます。トリアーの作品において、登場人物たちはいかなる場合においても救済されないんです*2。
ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー 『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ
- 作者: ラース・フォン・トリアー,シャルロット・ゲンズブール,ステラン・スカルスガルド,園子温
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2014/09/27
- メディア: ムック
- この商品を含むブログ (3件) を見る
ここからラストを思いっきりネタバレしますので注意していただきたいんですが、一通り自分の半生を語り終えたジョーは、”女性としてのセクシュアリティを排除する”と宣言し、眠りにつきます。そして初老の男・セリグマンはジョーのいる部屋を一度出ていくんですが、何を思い出したか部屋に引き返してきて、”セクシュアリティを排除する”といったジョーと、行為に及ぼうとするんですね。ジョーはそんなセリグマンを拒否して逃げていき、紳士的だったはずのセリグマンの「大勢の男とヤったくせに……」という情けない言葉が響くなか、映画は幕を閉じます。
つまりどういうことかというと、”女性としてセクシュアリティを排除する”ことによってこれまでの罪を償い、救済に向かおうとするジョーだったはずなのに、セリグマンに求められてしまったことによって、結局セクシュアリティ、女性性を排除することなんてできなかった、ということが証明されてしまうわけです。どんなに遠ざかろうとしても、”排除する”と宣言しても、セクシュアリティというものからはだれも逃れられない。ジョーはこれまでの罪(もし、それが罪なのだとしたら)を償うことなんてできない。救済は不可能で、死ぬまで自分の「性」というものの呪縛からは解き放たれはしないんだぞと、そういうラストなのかと解釈しました。
このあたりは、ぜひ映画を観終わった人と語り合いたいところです。
まとめ:結局、ジョーは「悪い人間」だったのか?
「色情狂」のジョーは、作中でしきりに「私は悪い人間なの」というセリフを繰り返します。確かに、10代の頃からたくさんの男性たちを誘惑し、ついには欲望のために夫と息子を捨てるまでに至ってしまうジョーの人生は、道徳的なものだとはいえません。
でも、本当にジョーは「悪い人間」だったのでしょうか。このあたりはもちろん正答なんてものは存在しないので、映画を観終わった人が各々考えてみればよいことだと思います。
「悪い人間」だったのか、あるいは「悪い人間」ではなかったのか。もし「悪い人間」だったとするならば、どこが「悪」だったのか。欲望のままに生きてしまったところか、夫と息子を捨てたところか、借金の取り立てという裏稼業の仕事をするようになってしまったところか、身寄りのない「P」という少女に騙すようなかたちで接近したところか。
私自身の答えをいうならば、「まぁ良い人間とはいえないけど、悪い人間ではなかったんじゃないかな」と思いました。ジョーはたまたま性欲という厄介なものに突き動かされて人生を歩んできたわけですが、人間はそれぞれ、欲望に突き動かされて生きているという点ではだれもが同じだからです。ちがいは、ただそれが、社会的なものであるか、反社会的なものであるか、というだけです。
トリアーを「挑発者」に仕立てるのは、見る者自身の「良識」である。『ユリイカ』に載っていたこの言葉で本エントリを締めくくろうかと思いますが、久々に面白い映画を観たなーと思いました。まわりの人の評判は気になるところですが、ポイントは本当にいろいろあるので、感想をいいたくなる&聞きたくなる映画というかんじです。
トリアーさん、次回作も期待しています。