11/16 感情を安易に表出しないことの効用

 書く本が分厚い作家の文章を分析的に読んでみると、「すべてを書こうとしている」傾向が見えてくる。もう少し具体的にいうと、場所を移動するたびにそこがどんな場であるか詳細まで説明しようとしたり、人物が現れるたびにそれがどんな人であるか頭の天辺から爪先まで描写しようとしたり、視点人物のうちに生じた反応(疑問や感想といったもの)をすべて記述したり……といった傾向である。

 一般に、そういったすべてを説明してくれる文章を読んでいると、いわゆる”感情移入”(僕がもっとも厄介だと思う用語の一つだ)は容易になる。視点人物が何を考えているかわかるし、その反応が正常であればあるほど、彼(彼女)に自分を重ねられる。場や人に関する情報が多く与えられることで、読者の浮かべるヴィジョンはより明確になる。物語に歓迎されているという印象は強まる。過剰でさえなければ、大抵の人はそういった”すべてを書こうとしている”文章を好む。(もっとも、映画や漫画がエンターテインメントの基礎におかれた現代において、厳密な情景描写というまどろっこしい手法は嫌われる。その数千字に亘る描写は写真が一、二枚あれば済む話ではないか、写真を用いない理由はあるのかと問われて、即座に反論ができる作家は意外と少ないのでないか。皆、慣習的に「情景描写がしっかりしているほど良い小説である」と信じてやっているふしがある。写真がない時代ならいざ知らず、誰もが簡単に動画を撮れてしまうこの時代だからこそ、あえて文字による描写に拘る理由を自覚しなければならないのだろう)

 一方、あまり多くを語らない文章、特に視点人物のうちに生じた感想や疑問や激情といったものの直接的な表現を故意に避ける文章というものがある。ハードボイルド文体の創始者アーネスト・ヘミングウェイが用いた、「内面」を信用せず「行動」「によってのみ人間を描こうとした(とは言われているものの、実際に読んでみると案外心情の描写が多いことに驚かされるのだが)非感傷的リアリズムとも呼ばれる手法はまさにその典型だが、僕にとってはこの文体がデフォルトだ。ヘミングウェイやチャンドラーと出会ったのは高校時代だったが、龍や春樹も含め、ドラマ俳優がやるような”悲しい”を表情や声や仕草によって大袈裟に”表現”しようとするやり方とは対をなす、ヒステリックな層の読者からは「非人間的」「無感動」と形容されるような文体が僕にはよく馴染んだ。読者である僕が哀しむより先に登場人物に哀しまれたり、僕が感心するより先に登場人物に感心されたりしてしまうと、白けてしまうのだ。ヒステリックな文体は僕にとって笑い声つきのバラエティ番組のようなものだった。「さあ、ここで笑え!」と命令されているような。

 『いたいのいたいの、とんでゆけ』の中で、僕は確かこんな意味の文章を書いた。「大切な感情というものは、安易に表出して発散させてしまうよりも、そっと胸の中にしまっておいた方が、いつまでもそこに残り、増幅されていくものである」。そういうわけで、僕は嬉しいとき安易に嬉しいと、また幸せなとき安易に幸せだと、登場人物に思わせたくないのである。またその話とは一見正反対の理屈だが、悲しい・辛い場面で「悲しい、辛い」と書かずに進めることによって、それを書いている側も読んでいる側も、「こんなのは大したことじゃないんだ」という視点に立つことができる。騒ぎ立てるほどのことではない、泣き叫ぶほどの悲しみではない。この効用に、僕はずいぶん救われてきたように思う。文体というのは認識の指針でもあるのだ。

 

11/15 作家の仕事

 手元に『いたいのいたいの、とんでゆけ』の見本が届いた。ディスプレイで見るのと著者稿で見るのとでは物語の印象が変わってくるように、本になるとまた文章の感触が変わる。製本された時点で、初めてそれは僕の手を離れて、「もの」として存在するようになる。突き放して見つめられるようになるのだ。そこで読み返してみると、思ってもみない長所を発見することになったり、逆に頭を抱えたくなるような短所を発見することになったりする。

 三時間ほどかけて読み通した。校正時の読み方(誤字を見逃さないようなミクロな読み方)をしそうになるのを堪え、またことあるごとに執筆時を思い出しそうになるのを抑え、フェアな読書を心がけた。発見があった。脱稿直後は6章「いたいのいたいの、とんでゆけ」がもっとも優れた章だと思っていたが、どうやら9章の「そこに愛がありますように」が、一番の見所になっていたようだ。6章にも9章にもいえることだが、僕はそこで「新しいやり方」を試した。新しいものは、楽しい。そして楽しんで書けた場所ほど出来はよくなる。当然の事実を再認識させられた。

 無論、今から見ると拙い場所も多くある。前作と比べれば徐々によくなってはいるものの、自分で満足できる文章が書けるようになるまでには、まだまだ経験を積む必要があるだろう。だが、ウィリアム・サローヤンもいっているように、文章の技術そのものは誰でも磨くことができる。

 サローヤンは『パパ・ユーア・クレイジー』の序文で、その息子アラム・サローヤンに向けて、以下のようなメッセージを書いた。

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 作家が一つの作品を書きあげる。彼は、同じ時間を使って別の作品を書くこともできた筈であった。新しい作品を書くという仕事の第一歩は、何をどのように書くかを「決断」することに他ならぬ。
 どの作家にとっても、この「決断」が、書くという仕事の半分であるといってよいだろう。いや、ある作家には半分以上であるかも知れず、私に至っては、それがすべてであるとすらいってよい。実際に机に向かって書くということ自体は大したことではないし、作家はそのような作業には上達することもできるのだ。
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 そう。僕らは”そのような作業には上達することもできる”。問題は何をどのように書くかを決断すること。僕は情けない人間を書き続けるだろう。手遅れの幸せを、破滅的な美しさを描こうと足掻き続けるだろう。そしてそれに適した方法は、多分誰かに習うことができないのだ。僕が自分で考えるしかない。それは孤独な戦いだ。だが、戦うだけの価値はある――とヘミングウェイ風に今日の雑記を締め括る。

 

11/14 ”黒歴史”の必要性

 本にサインをしている。謙遜でも何でもなく、自分の字で新しい本を汚すのには抵抗がある。綺麗な字とは言いがたいし、今のところ自分のサインに価値があるとは思えない。


 無名時代に誰に頼まれることもないサインの練習をするという行為がよく「黒歴史」として挙げられているが、僕はそれをやってこなかったために今苦労している。子供の頃から自分のペンネームやサインを考えておけばよかった、と悔やんでいる。今のペンネームは慌てて二日くらいで決めたものだし、そのペンネームがサイン向きかどうかという点までは検討していなかった。おまけにしょっちゅう「縋」を「槌」と間違われる。一文字目から三文字目にかけて徐々に感じが複雑になっていくようにしたかったからこんな字にしたのだけれど、もう少し読みやすい漢字にしておけばよかったのかもしれない。とはいえ、冲方丁や日日日や入間人間みたいな初見殺しのペンネームが彼らの本の売り上げに悪影響を及ぼしているかというとそんなことはなさそうなので、大した問題ではない気もする。(冲方丁の「冲」が「沖」でないことに気付いている人がどれほどいるのだろう?)

 「黒歴史ノート」という、書きもしない壮大な物語の設定だけを書き連ねたノートがあるらしいが、僕はそういうものを作ってこなかったせいで、今苦労しているといっていい。僕は物語の設定資料を作るのが苦手だ。舞台は「いつかのどこか」でいいと思うし、登場人物の名前にも執着がない。次作こそきちんと設定資料を揃えてから執筆に挑みたいと思っているけれど、いつも途中で「作りこんだ作品」を投げ出して「ふっと思いついた作品」に取り掛かって、そちらを先に仕上げてしまう。こういうとき、過去に作った黒歴史ノートがあれば便利なのにと思う。自分の願望を詰め込んだノートを一冊、人は分別がつく前に作り上げておくべきなのだ。

 

11/13 圧倒的な生が連想させる死と、その逆

 ショッピングセンターやデパート、それにコンビニエンスストアなどで、クリスマスソングが頻繁に聞こえてくるようになった。クリスマスを嫌う人は多いけれど、僕はこの、街中に赤青緑のイルミネーションが灯り、クリスマスツリーが設置され、恒例の『恋人たちのクリスマス』や『ラスト・クリスマス』が流れるこの感じが素直に好きだ。僕の中では今でも百貨店的・遊園地的・シンセサイザー的なものに目がない四歳の僕が幅を利かせている。80年代の古き良き恥ずかしき音楽――『テイク・オン・ミー』とか、『トゥゲザー・フォーエヴァー』とか、『フリーダム』のような――を聴いていると彼は元気になる。色褪せたジーンズにオーバーサイズの白Tシャツをインして首にチェックシャツを巻いているような壊滅的なファッションが象徴するあの時代が、けれども一番幸せそうに見える。僕は行きたくないけれど。

 夏と冬のどちらが好きか、という問いへの返答は、おそらく出身地がかなり影響してくる。僕は一年の半分を暖房と共に過ごすような寒い土地に生まれたので(本州でもっとも寒いといわれる藪川へも車で一時間ほどでいけてしまう)、耐えられない暑さよりは耐えられない寒さの方をより多く経験している。だから夏の方に良いイメージを抱く。でも冬の方が好きだという人の気持ちも十分わかる。

 気温とは関係ないものを基準にしている人もいる。どちらがより美しいか? ひぐらしの鳴く夕暮れの橙も、大雪の降った翌朝の銀世界も、赤提灯の続く商店街も、イルミネーションの煌めく並木通りも、何者にも替え難く美しい。

 僕は夏と冬の美しさの本質を、それぞれ、「生によって相対化された死」と「死によって相対化された生」だと考えている。夏はなぜ美しいか? それは溢れんばかりの「生」によって、逆に微かな「死」が白いシャツに染みこんだ血のように決定的に浮き彫りになるからだ。冬はなぜ美しいか? それはすべてを覆いつくすずっしりと重たい「死」によって、かえって僅かな「生」が山中の電話ボックスのように輝くからだ。

 僕たちはあまりに圧倒的な生を目撃すると、そこに死を感じ取る。生命というのがいつまでも続くものではなく、それが活動的であればあるほど早く燃え尽きると経験的に知っているからだ。しかしあまりに圧倒的な死を目撃すると、今度は逆にそこに生を見出す。死を意識することで、初めて、普段意識しない生命の灯の揺らめきを胸の中に感じることができるのだ。春から夏にかけて、僕は人の死のことばかり考えていた。これから数箇月は、生について考えを巡らせるだろう。

 

11/12(2) ためになるアドバイスほど、ちっともためにならない

 多くの時間を喫茶店や深夜営業のファミリーレストランで過ごす。毎日、必ずと言っていいほど、どこかから「アドバイス」が聞こえてくる。誰かが誰かに向かって仕事や人間関係について講釈を垂れている。ためになる言葉が聞こえてきた試しは一度もない。せいぜい、PHP文庫や知的生き方文庫の量産型コラムに載っている、筆者が”多様な経験”を通して得た”教訓”とやらをそのままなぞったようなものが関の山だ。一体何度同じ話を繰り返せば気が済むのだろう? 人が進んで誰かに何かを教えようとするとき、その裏には、「自身の持つ情報は他人にとって価値のあるものであり、その情報を持つ自分という人間には価値がある」という仮説を補強したいという動機が少なからずある——そう決めつけてしまうのは僕の穿ち過ぎだろうか?

 チェーンの喫茶店に入れば必ず聞けるそうしたイージーな「助言」を、有り難がる人もいる。しかし僕が見たところ、彼らはそこから新たな知見を得ているというよりは、自分の考えを、ひいては人生の指針を肯定してくれるような心地よい言葉が繰り返されることを望んでいるだけで、それは知的な刺激を求めているというよりは、音楽的な快感を求めているに過ぎない。聞き慣れたメロディが繰り返されることを望むように。

 本当に”ためになる言葉”は、必ず、受け手に努力を強要する。脳を鍛えるには結局のところ特定の「脳に良い行動」を繰り返すのではなくただ「慣れていない行動」を試してみることが有効であるように、その人にとって本当に有用な言葉とは、その人の中にない言葉である。

 人が言葉を聞いて、即座に「深い」とか「文学的だ」とか言うとき、その言葉は深くもなければ文学的でもない。真に深い言葉は、それを耳にした人間を沈黙させる。真に文学的な言葉は、それを耳にした人にある種の傷を与える。ゆえに、人が「深い」「文学的だ」などと言うとき、それが意味しているのは、その人がかつて「深い」「文学的だ」と教えられた情報に似ている、同じカテゴリに属する言葉だと捉えられただけである場合がほとんである。

 聞き手に努力を強要しない言葉は、どこまでいっても、慰めや祈り以上のものにはならない。真にためになる言葉は、聞いた瞬間に心の奥底に沈み込んで、そこからじわじわと、考え方の枠組みに影響を与えていくものである。即座に理解できてしまう情報ばかりを集めて得られるのは成長ではなく空虚な自信だ。それはその人の人生を生きやすいものに変えてくれるかもしれないが、致命的な勘違いは雪達磨式に増えていく。気づけば誤解と偏見の怪物と化して、膨れ上がった自尊心とそれに見合わない境遇に腹を立てて両手を振り回す惨めな生き物になりかねない——いや、それは僕の願望に過ぎず、本当はそういう人間の方が遥かにこの世界に適応していると言えるのかもしれない。

 

11/12 五歳や十二歳の自分を殺さないで生きていくということ

 二十四歳になってもくだらないものに恋をする。空っぽのポップソング、見え透いた娯楽小説、ステレオタイプのキャラクター。そういうものを好きになる自分を悪いとは思わない。二十四歳になっても十歳や十二歳のために存在する何かに恋をするとき、それは僕の中にいる十歳の僕や十二歳の僕が恋をしているのだ。

 僕は成長の過程で新たな自分を形成しつつも古い自分を殺さなかった。あるいは無理をして統合しようとしなかった。だから、頭の中に、十歳の僕や十二歳の僕、いや、それどころか五歳の僕や三歳の僕までもが不完全な形とはいえ保存されている。彼らが何かを好きになったり嫌いになったりする自由を制限することに意味はない。その意思が二十四歳の僕によるものでないという事実を認識してさえいれば、二十四歳の価値観を保ちつつ十二歳の価値観で楽しむという分裂症的曲芸は、案外難しくない。

 人は身軽になるために要らない荷物を捨て、さらに必要な荷物を一つにまとめようとする。だがそうやって得た身軽さは、確かにその人の人生を生きやすいものにするかもしれないが、多様な価値観を認め保つだけの筋力はどんどん失われていく。それが「大人になる」ことだと勘違いしている人が多い。だからといってそれを批判するつもりはない。無理解が悲しいだけだ。

 

11/11 午前三時の考えごと

 よくある誤解に、「自分はものを考えている」というのがある。もうちょっと厳密にいうと、「自分は自発的にものを考えている」という誤解である。実際に人の頭を覗いたことがあるわけではないので断定はできないが、それでも僕は、ものを考えるのが仕事である人ないし趣味である人を除けば、過半数の人間が自発的にはものを考えていないと思っている(この話題は、ちょっと危険だ。視点を変えれば「そもそも人は自発的にものを考えるようにはできていない」という話になるし、そこから「というか人に自由意志はあるのか」みたいな話に発展してしまう。僕のいう「自発的」の定義は、「頼まれてもいないし必要にも迫られていない」程度の意味と捉えてほしい)。

 そう、頼まれてもいないし必要にも迫られていない問い、たとえば「映画で人が死ぬシーンを見て悲しくなるのはなぜか、悲しいと涙が出るのはなぜか、なぜ涙が出るとすっきりするのか、惨めな涙との違いは何か」といった問題について、徹底的に考えてみた経験のある人間は、多分百人に一人もいない。なぜならそれについて考えろと言われたこともなければ、考える必要性を感じたこともなかったからである(先にいっておくが、涙が出る理由や感動のシステムがわかったところで、涙は出るし感動もする。原因がわかることで神秘が失われて感動が損なわれるというのは誤解だ。感情という偉大な機能を舐めてはいけない。あれは無意識の未来予測装置なのだ。現実を差し置いて実感を優先させてしまうという重大な欠陥を抱えてはいるが)。試しに身近な人間に聞いてみるといいが、誰も問わないし答えて特にならない問いというのは、誰もその答えを知らないし、それ以前に考えてみたことさえない。せっかく自主的に考える能力があるのに、これでは人口無脳である。定められた問いにしか答えられないのだ。

 ほとんどの人は刺激に対して反応しているに過ぎない。そしてそもそも「考える」ためには何かに「考えさせられる」必要があるわけで、思考の本質とは反応である。では自発的にものを考える人はどうなっているのかというと、その「何か=刺激」を自分で作り出せる人が、「自主的にものを考えられる人」なのではないだろうかと僕は予測する。いや、「作る」というよりは、「加工」といった方が正確かもしれない。作るというとゼロから何かを生み出したような印象を与えてしまうが、僕の表現したいところは、他の人が刺激として受け取らないものを刺激に変換したり、古い奥底にある情報と関連付けて刺激化したりするという能力である。そうやって自分の中で刺激に加工したものにはきちんと反応が生じる。回りくどい説明になってしまったが、ようするに、「自主的に考える」能力とは「自主的に問う」能力であり、「自主的に問う」ためには「加工」する必要があって、それが行える人間は超少ないということだ。午前三時。こういう時間に書く文章がまとまっていた試しがない。小説にしても、午前二時を過ぎた辺りに書いたものはいずれも視野狭窄に陥っていて書いている最中は優れたものを書いた気になっていても翌日見直すとほぼ全文削除というのが多かった。

 

11/10 正しさへの逃避

 あらゆる情報が鮮明になり過ぎて、「自身が有能である」という幻想に浸るのが難しい世の中になった。誰もが、嫌でも井の中の蛙を認識せざるを得ない。皆、早いうちにアイデンティティの拠り所を能力以外のものにしないと、遅かれ早かれそれを打ち砕かれることになると理解し始めた。そこで有能さの代わりに何が用いられるようになったかというと、それが「正しさ」だ。

 僕が小学生の頃は「オンリーワン」などと言って、それぞれがそれぞれにしかない長所を持っているものだというお約束のもとにアイデンティティを形成しようとする動きが流行ったが、すぐに皆それが悪手だと気づいた。というか、考えようによっては、ナンバーワンよりもオンリーワンの方が難しいのだ。Webを眺めていると、「それぞれの個性」というものがいかに馬鹿げた幻想だったかわかる。顔を隠してしまえば、皆ほとんど区別がつかない。SNSのアカウントの中身が突然入れ変わったとして、文法を正確に模倣してさえいれば、入れ替わりに気づく人はいないだろう。有名人のなりすましアカウントが数ヶ月間本人だと思われていた例もある。個性なんてそんなものだ。

 そこで人々が見いだしたのが「正しさ」だ。それはたとえば、「自分はそれほど能力に恵まれたわけではないが、少なくとも自分にとっての最善は尽くしている」といった形のエクスキューズめいた正しさ。注意深く観察すると、そういう人に限って「最善を尽くしている」わけではなく「最善を尽くした気になれる行動を好んでいる」だけで、頭を使えば二十分で終わる課題を愚直に一日かけて行うような消耗を人生だと思っているのだけれど、まあこの話題に関しては追求せずにおこう。

 僕が問題としているのは、倫理的に正しい側に立って「悪」を糾弾することによって、自分という人間の属性が「善」になると思い込み、それにアイデンティティのすべてを賭けてしまっている人々だ。有能であるか、個性的であるか、といった基準を捨て、「それでも自分は常に正しい判断を下すことはできる、”人間ができている”のだ」と極めて曖昧で都合の良い基準に縋る人は、決してここ数年で急増したというのではなく昔から一定数存在するのだが、Webの普及によって「正しくなさ」を見つけるのが以前より遥かに容易になったため、そういう連中が元気になった——というのがおそらく正確なところだろう。

 「人間ができている」、「良心的である」、これらはどんなに落ちぶれた人間でも、自分がそうであると思い込もうとすればそう思い込める、最後の拠り所だ。しかし多くはその根拠が希薄であることを無意識に自覚しているため、正しさの感覚を補強するために、わざわざ「正しくなさ」を見つけ出してきて槍玉にあげる。そういうのを見ていると、僕はひどく気が滅入る。皆、何かを攻撃したり貶めたりする前に、一度自問してみるべきなのだ。「もし自分に魅力的なパートナーと十分な財産と有り余る時間があったとして、それでも今と同じ態度をとり続けるだろうか?」。怒りというのは基本的に自分の不甲斐なさから生じるものなのだ。

 

11/9 みんなのあこがれるてんさい

 眠いと言っているくせに十二時を回った瞬間11月9日分の日記を書き始める。というかこれは本当に日記なのか? 僕の書く11月19日の日記や10月26日の日記はそのまま4月28日や7月2日に流用できてしまう。日付に意味がなさ過ぎる。新作『いたいのいたいの、とんでゆけ』について何か言っておいた方がいいのかもしれないが(今のところ字数にしか言及していない)、どうも今の僕は、度重なる校正作業を終えて間もないため、「しばらくあれから離れていたい」の時期にあるのだ。これは多くの作家が共感してくれるところだと思う。繰り返し自分の書いたものを一字一句漏らさぬように読んでいると、作品の出来とは関係なくただただうんざりする。何が良くて何が悪いのかわからなくなる。人によってはこの作業が一番楽しいらしいのだが、僕がその気持ちを理解できる日がくるとしたら、それは今の三十倍くらい文章が上手くなったときだろう。

 天才について考えていた。初めに言っておくと、僕はこの言葉が嫌いだ。確か福原愛が言っていたと思ったが、「天才」という言葉はそれを使われた人の才能以外の要素を覆い隠す。自分より遥か高みにいる人間と自分の間にある途方もない差を量的でなく質的なものに変換してしまう姑息な言葉が「天才」だ。だから僕は極力この言葉を使いたくない。

 けれども創作の中であれば話は別である。僕の大好きな講談社ノベルスの作家たち(大好きな一方で、ああいう作品を書こうとは一度も思ったことがないのは、ある種のスポーツを観戦するような気分で僕がそれらを読んでいる証かもしれない)は、とにかく「天才」が大好きだ。本格ミステリの名探偵はまさにその典型なのだが、それ以外にも様々な種類の天才が現れ、様々な形でその天才を披露していく。「天才」の定義については皆それぞれ一家言あるようで、天才が天才たる所以が様々な解釈で語られる。そして作者自身も隙あらば「天才」になってやろうという姿勢がうかがえる。桁外れのインプットと病的なアウトプットを基本とする態度は求道的とさえ言えるかもしれない。そういうものを読むとき、やはり僕自身も天才について考えずにはいられなくなる。天才の定義はどうでもいい。どうすれば僕たちはこの圧倒的な存在、「天才」に近づけるのだろう? 無意識にその道筋を探してしまう。

 検索の仕方が悪いから正確なソースは提示できないが、「人間の限界は認識に基づいている」という説を裏付ける情報の一つに、「それまで百メートル走で十秒を切るのは不可能とされていたが、一人がその記録を破った瞬間、十秒を切る人間が次々と現れ始めた」というものがある。トレーニング方法や理論や靴の改良のおかげだといえばそれまでだけれど、僕としては、この原因が「十秒は切れない、という認識を捨てられたおかげ」だと信じたい。短距離走の世界においてそれが真実であるかどうかは何とも言えないが、少なくとも小説の執筆においては真実だと思う。それまで誰もが「まともな文章を書こうと思ったら一日に三万字が限界だろう」と思っていたところに、誰よりも上手く誰よりも優れた文章を一日に十万字書く人間が現れたとしよう。しかも、御丁寧にそれを人前で実践してみせたとする。多分それを見た人々は、翌日から自分の限界を超えて書き始めるだろう。「ああ、人間って本来それくらい可能なんだ」という認識がそうさせるのだ。

 こういった革命を必要としない、元々基準に上限を一切設定していない人間。それが僕の考える天才の類型の一つだ。もちろん他にもいろいろと条件はあるけれど、まず明らかに「限界点」の基準が違うだろうとは思う。などと書いているうちに二十分以上過ぎてしまった。本来この程度の文章は五分で書けるはずである――と本心から思い込ませてくれる誰かが傍に必要なのだ。僕のような凡人には。

 

11/8 価値のある情報の大半は頭から取り出した途端に腐ってしまうのだ

 何だか僕はひどく眠いらしい。だから今日の文章はいつにも増して散漫である。そもそもこの日記をどれくらいの人が読んでいるのか僕にはわからない。冗談抜きで、ひょっとしたらまともに読んでいる人は二、三人程度なのかもしれないと考えている。だから好きなことが書ける。Twitterよりはよほど地の僕を出せる。

 「好き」を理屈で解明しようとしたり「感動」の原因を明らかにしたりといった行為は無粋とされるが、僕たち創る側がこれを自覚的に行わない手はない。「自分は理屈でなく感性で書いている」と宣う者もいるが、その大半は無意識の、あるいは非言語的な理論のことを「感性」と呼んでいるに過ぎない。理論を言語化しないというのは逃げでもあるし、一つの知恵でもある。言語化には二つの利点がある。明確にし定義するということは、記憶が容易になるということである。言葉にできない感覚は記憶に定着させにくい。どんなに優れた理論も忘れてしまっては意味がない。そういった意味で重要である。もう一つは、非言語からの翻訳行為によって、他者への伝達が可能になるということ。だがこの二つは同じ機能と言えるかもしれない。「他者への伝達」はそのまま「未来の自分」、「記憶が薄れ始めた自分」に置き換えることができるのだから。

 僕はそれを一つの知恵でもあるといった。なぜかというと、この内から外への翻訳の過程で、多くの情報が確実に失われてしまうからだ。世に数多存在する「口だけの理論家」が何一つとしてまともな業績を残せないのは、多くの場合、彼らが言葉というものを信用し過ぎてしまっていることに起因する。彼らは作品を読み、法則を導きだし、一般化し、それを自身の書くものに適用しようとするが、法則を得た時点でもただでさえ恐ろしい量の情報が失われているというのに、さらにそれをわかりやすく言語化してしまったら、いよいよその情報は五人の手を経由してきた氷の欠片みたいに大半が失われてしまう。だから言語化しないというのは一つの手なのである。膨大な数の作品を鑑賞した後、「何となく頭にある”良い感じ”」と今書いているものを何度も照合する。そういうやり方が可能なら、無理をして学習の成果をまとめる必要はないのだと思う。しかし以前も述べた通り、人は「わからない」「曖昧である」「どっちつかずである」といった状況に死ぬほど弱い。不安よりは、誤解と抱き合わせの安心を選ぶのが人なのだ。ゆえに何とかして言語化する、そして本質を損なう。理論を活かしたかったら、自己翻訳能力を鍛え抜くか沈黙するしかない。

 

11/3 感情移入優先型の物語とロールプレイングゲーム

 そのうちあらゆる娯楽がビデオゲームにお株を奪われる時代がくるかもしれない、と思う。現在、Microsoftが「イルミルーム」なるものを開発しているらしい。プロジェクタで壁一面をスクリーンにするものらしく、しかも壁は必ずしも平面である必要はなくて、必要に応じて周囲の家具等の情報を三次元的に収集して映像を調整してくれるそうだ。

 僕は「壁一面をスクリーンにして……」という文字列を見たとき、「ひょっとして、上下左右前後六面に映像が投射されて、まるでゲームの中にいるような感覚が得られるのか」と想像したのだけれど、そういうビデオゲームが家庭用に開発されるのも決して遠い未来の話ではないだろう。いや、僕が知らないだけで、ヘッドマウントディスプレイを使えばとっくにその程度のことは可能なのかもしれない。

 たとえば、少々悪趣味だが、将来こんなゲームが出るかもしれないな、と僕は想像する。物語がある。プレイヤーの役目は、ひたすらその主人公を演じることだ。RPGのロールプレイングは元々そういう意味だが、それを究極的に押し進めると、以下のようになるのではないかと僕は想像する。あたかも現実世界のように繰り広げられるドラマに組み込まれたプレイヤーの正面左下には、「次にすべき行動」「次に言うべき台詞」がリアルタイムで表示される。人によってはその機能をオフにして自分なりの正解を見つけ出そうとするかもしれないが、どちらかと言えば受動的にそれに流されることに快を見いだす人が多いだろう。プレイヤーが指示された台詞を口にすると、それに応じてゲームが展開する。

 馬鹿げた仕組みに聞こえるかもしれないけれど、人はこの「世界に影響を与えている感」に恐ろしく弱い。改めて振り返ってみるとわかるかもしれない、僕たちが、自分が何かしらの存在(それは具体的であればあるほど良い)に影響を及ぼしたという感覚が欲しくて無意識に取っている行動の何と多いことか。たとえ指示された行動を忠実に行った結果だとしても、その役割の担い手が自分であったというだけで人は満足するものである。

 そして究極のロールプレイングゲームは、ある種の物語を駆逐する。感情移入型の、現実では満たせない欲望を満たすために読まれる物語を読むとき人の脳で起きていることを限界まで押し進めると、最終的にはそうしたRPGに行き着いてしまうのだ。そして実際のところ、単純に物語を自分とは関係のない話として突き放して楽しんでいる人は少ない。ことに娯楽作品においては優秀な主人公に自分を重ねることで得られる全能感や恵まれた境遇にある平凡な主人公と一体化することで見られる白昼夢を目的としている場合がほとんどだ。少なくともそれらに関しては、いずれ現れるであろう究極のRPGに取って代わられる気がする。物語の「想像の余地」について口にする人も、自分の想像力を超えて快適な空間を見れば、「全部人任せでいいじゃないか」と投げ出してしまうだろうから。

 

11/2 引き続き、意味にまつわる話

 僕はそれを「解釈文化」と呼んでいる。抽象的な作品を見たとき、それを非常に安直なメタファーに置き換えることで、それを「解釈可能」なものにして安心しようとする習慣のことだ。曖昧さへの耐性がない人間は自分が何かを理解できない状態を一秒でも早く終わらせたいので、ときには真実を犠牲にしてでも意味を付与する(面白いのは、この「曖昧さへの耐性のなさ」は知能の高低にあまり関係がないというところだ)。

 こうした「解釈」がもっとも頻繁に見られるのが、音楽だ。というか、歌詞だ。近頃散文的な歌詞(私は〜で〜であり〜であるがゆえに〜を愛している、といった内容を韻やリズムを犠牲にしてまで懸命に説明してくれる涙が出るくらい親切な歌詞のことだ)が増えたように感じるのは、そうした”解釈”の余地のない歌詞の方が”意味”が通りやすく、より多くの”共感”を得られるからだろう。それに、散文的な歌詞は聴き手に「考える」を要求しない。ゆえに考えたくない人間——つまり大多数の人間——に支持される。商売としては正しい。僕に文句をいう筋合いはない。

 僕が問題としているのは聴き手側の「解釈教」の人間だ。端的に言うと、「トトロの後半でメイの影がないのはメイが既に死んでいるからであり、トトロは彼女を迎えにきた死神である」といった説を大喜びで受け入れ、「『かごめかごめ』と”かごの中の鳥”とは腹の中の子供であり”後ろの正面”は妊婦を突き落とした人物である」といった説を嬉々として語るような人たちのことである。

 解釈。それ自体は素晴らしいものだ。自分の書いた詞について真剣にその意図を探ってもらえるのは作詞者冥利に尽きるだろう。だが彼らのいう”解釈”というのは、大抵の場合、あまりにも限定的だ。これもあの悪名高き国語教育の悪影響だと思うのだが、彼らは意味深な文章を見るとすぐ、より大きくてより深刻でより高尚めいた何かと結びつけたがる。赤いものを見るたびに「血のメタファーだ」と騒ぎたて、静的なものを見かければ「死のメタファーだ」と叫び、あれを見ては「現代社会のメタファーだ」、これを見ては「戦争のメタファーだ」、それを見ては「原発のメタファーだ」「子供のメタファーだ」「自殺のメタファーだ」……などと勝手に決めつけては、「この歌は深いなあ」と満足げに頷くのである。(ちなみに”解釈の”余地もないほど徹底的にナンセンスな歌詞を見ると、彼らは「この歌詞は適当に作られたものだ!」と怒り立てる。詩的感覚のない彼らは”解釈”を奪われると手も足も出ないからだ)

 もう少し作り手の存在も”解釈”する努力をしていれば、そんな誤解は生まれなかっただろうに、と思う。彼らは「歌詞は歌詞であって物語ではない」という大原則を忘れてしまっている(そういう意味では、たとえば「じん」はある種の誤解を子供たちにばらまいたという意味で少々罪作りな存在かもしれない。もちろん悪いのは彼の曲の聴き方を他の曲にまで適用してしまう人たちの方なのだが。人は物語が大好きで、それを求めるべきでない場所でも求めてしまう。甲子園であろうと殺人事件であろうとノーベル賞であろうと、そこにないはずの物語をでっち上げて飲み込みやい話にする、というか「よくある話にまで貶める」)。そう、砂糖が塩でないのと同じくらい当たり前の話なのだが、歌詞は物語ではないのだ。

 確かに物語を歌にする人間もいるし、状況や心情の説明に歌を用いるオペラというジャンルもあるが、それでも優先されるのは「音楽」だ。それはメロディのために詞を犠牲にするということではなくて、そう、たとえるなら、絵の具と筆と画用紙があるとして、重要なのはそこに描かれる人間が何を考えながら何をしているかではなく、全体の色やかたちの調和である、という風に。語と語の組み合わせ、語とリズムとメロディの調和、全体と部分の調和といったものが最優先されるのだ。「解釈教」の人間はその絵をイラスト的・記号的にしか見られない。絵画的に見るということを知らないのだ。だから何となく書き込まれた鳥を見て、「この季節にこの場所に鳥がいるということはこのような事態が予測でき、ゆえに筆者は空虚な現代社会を批判している」みたいな話になってしまう。鳥なんて、ただ空の色が寂しかったから付け加えただけかもしれないのにね。

 

11/1 やさしい小説としての本格ミステリ

 僕が常々言っているミステリブームの胡散臭さについて、太田忠司がノベルス版の『冷たい密室と博士たち』に寄せた解説で非常に的確な意見を述べている。

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 本格ミステリほど読者に優しい小説は、他にないのではないかと思う。
探偵はすべての手がかりを集めてみせ、懇切丁寧に推理の道筋を説明し、犯人が誰かまで教えてくれる。読者は考える必要などどこにもない。最後まで読めば、謎はすべて解かれるのだ。
 ミステリは知的な読み物、なんて台詞は、じつはとんでもない間違いなのかもいしれない。まったく知恵を働かせなくても、中身を楽しむことが可能なのだから。
 事実、今日のミステリの隆盛は、そうした「考えなくてもいい小説」の量産によってもたらされている、と考えられなくもない。通勤通学の合間に、休憩時間の暇つぶしに消費されていく物語たちは、決して少なくないだろう。
 もちろん、そうした流される読み方をせず、提示された謎と真剣に対決する読者も、多いはずだ(と、信じたい)。しかしそのような読者であっても、せいぜいが割り算程度の計算を使うだけで、最後には謎が奇麗に算出されることを望んでいる。そうなっていなければ、たちまち失敗作ないしはアンフェアというレッテルを貼りつけてしまうだろう。
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 なるほど、と僕は頷かされる。僕たちが複雑なミステリを読んだことで得られる思考の加速感、あれは言うなれば、助手席のスリルなのだ。確かにスピードは大したものだ、それに伴うリスクもすごい、用いられている運転技術も相当なもので、その運転に振り回されないようにシートにしがみつくのは一見かなりの努力を要するように見える——しかし、それを運転しているのは運転席の人物なのだ。助手席の人物は、ただしがみついていたに過ぎない。

 「考えなくても良い」は現代の娯楽を語る上で欠かせないキーワードだ。それは現代人が昔と比べてまともにものを考えなくなったというわけではなくて、情報が溢れ過ぎているためにいちいち立ち止まって考えている暇がなくなったというだけの話であって、ドストエフスキーの時代に長大な小説が流行っていた理由が「暇な人が多かったから」であったのと似たような話だ。余暇時間にまでわざわざ頭を使いたくないと感じるのは自然なことだ。

 とはいえ本当にまったく頭を使わなくていい作品ばかり見るわけにもいかない。人は絶えず「意味」を求める存在だ。90年代のサブカルチャーで疲れきった人間が癒しを求め肩の力を抜いて楽しめる作品を求めていた00年前半に流行した「日常系」が廃れてきた理由もそこにある(と思う)。作品を鑑賞した後は、何かしら有益なものを見たとか、有益な考えに触れたと考えたくなるものだ。そこで、たとえば「頭を使わなくても読めるが、頭を使ったような気になれる」ものに手を伸ばす。それは文学であったりミステリであったり映画であったり音楽であったりするが、共通点は「受け身でいられる」ことだ。

 別にそれが悪いことだとはいわない。僕は創る側の人間だからいつまでも受け身でいるわけにはいかないというだけで、他のフィールドで頑張っている人間が娯楽時間にまで頑張る必要はどこにもない。僕が主張したいのは、赤川や東野といったミステリを読む人間を見て「そんな二流ミステリを読むなんて、知的とは言い難いね」みたいな発言をする人間だって、自分が馬鹿にしている連中と大して変わりがないということだ。

 

10/31 音声的に読むこと、視覚的に読むこと

 本を早く読む方法には大きく分けて二つあると思う。一つは言うまでもないが、「ひたすら数をこなすこと」。苦労して読めば読むほど処理能力は上がる。また知識が蓄積されるほど、初めて見る単語や初めて見る構文や初めて見る論調といったものが減っていくので引っかかりが少なくなり、読書速度は上がる。そしてもう一つの方法だが、これはいわゆる「斜め読み」で、より厳密にいえば「個々の文字を追わずに文章を一つの固まりとして捉える」読み方、つまり「頭の中での音読をやめて——つまり音声的に処理することをやめて——画像的に処理する」読み方だ。十年ほど前、当時流行した「速読」のテキストを胡散臭いとは思いつつも何か一つでも役に立つ情報があることを期待して十冊ほど読んでみたのだが、大きく分けて、右脳がどうとか映像記憶能力がどうとかいう非現実的な類のものと、こうしたブロック的処理を提唱する比較的現実的なものの二派に分かれていた。

 仮に前者のような速読が誰にでも可能なものだとしたら今頃そのテキストに描かれていたような「ページをぺらぺらと捲るだけで本の内容をすべて把握できる」新人類が世に溢れているはずなのだが、少なくとも僕の周りにそういう能力を持った人間はいない。あの手のオカルトじみた自己啓発本の狡いところは、たとえ効果が見られなくとも、謙虚な読者が「おそらく自分には向いていなかった/自分の努力が足りなかった」と考えてしまうようにできているところだ。そういうわけで「右脳式」の速読は信用していない。そういうことができる人がいる事実を否定する訳ではないが、その技術が(あるいは天分が)人に教わってできるようになるという類のものだとはどうしても思えない。

 以上の理由から僕にとって「速読ができるようになる」とは「単純な処理速度の向上」か「音声的処理から視覚的処理への移行」を意味しているのだけれど、この読み方が通用するのは平易な文で書かれた本、それも自分の通じている分野の本のみだ。たとえば僕がいきなり工学分野の本を手渡されて「速読してみろ」と言われたところで、わからない言葉が多すぎる。逐一前後関係からその言葉の意味を類推し仮説を設けた上でそれで意味が通るかどうか確かめる過程が挿入されるために100ページほどのテキストだろうと通読するのに何時間もかかってしまうだろう。逆に日常的な語彙のみを用いて描かれその展開もすべてテンプレートに従いどこかで聞いたことのある台詞ばかり並んでいる小説などは、300ページほどあろうと一時間もあれば読めてしまう。

 話が逸れてきた。そもそもどうして速読の話など始めたのかというと、「音声的処理」「画像的処理」の説明がしたかったからだ。音声的処理は一文字一文字頭の中で声にして読むために音読ほどでないにせよおそろしく時間がかかる。例の「さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる」が何となく読めてしまう現象を利用して、さらに大きな単位、最初と最後の文章を把握してその間にある文章を一度画像的に取り入れた後で意味の通るように再構成しなおすという一連の作業を無意識に行う画像的処理を行うことで人は非常にスピーディに文章を読めるのだけれど、それがいいことばかりかというと、案外そうでもない——というのが今回僕がこの雑記を通じて考えたかった主題だ。

 僕はどうしても小説を読む際に「沢山の本を早く読みたい」という不純な動機から画像的に文章を処理してしまう。ここでさらに話が逸れるが、速読ブームの少し後に、速聴・音読ブームが起きた。速聴については、高速道路から一般道路に出るとしばらく何もかもがスローに見える(インターチェンジ効果)という現象を言語野でも起こせないかという発想から始まったらしく、音読された文章を2~4倍速で聴くことにより処理速度が格段に上がるという理屈らしい。早口の人間と付き合っているうちに会話の反射速度が上がる、みたいなものだろう。確かに意味がないとは言えないが、「速さを意識した音声的処理による読書」でも同じ現象は起きるので、無理をして実際の音声にこだわる必要はなさそうだ。

 一方「音読が脳に良い」と主張した人たちは、その理由を「インプット(目)の直後にアウトプット(声)とインプット(耳)が行われるため」としていた。なるほど確かにアウトプットは重要だ。「実際に使ってみる」以上に確実な記憶法はない。口から出てきた声を耳によって聞くためインプットが二重に行われるという話もちょっと面白い。しかし、と僕は思う。これは実感的にそうだからという話なのだが、頭の中で音読しながら文章を読むとき、僕たちはその声を頭の中で聴いている。声色や語調をきちんと使い分け、聞き分けている。もちろんより明確なインプット・アウトプットが行われるのは音読の方だろうが、発声というのは自分で思っている以上に体力を消耗するものだ。目や頭よりも先に他の部分が疲れてしまう。以上を踏まえると、言語処理力を鍛える上で一番効率的なのは、単純に「頭の中で声に出して読む」という原始的な読み方なのではないかと思う。(とは言いつつ、単純に滑舌や発声に良い影響があるので音読は音読ですばらしい方法だと思う。子供には今の五倍くらい音読をさせるべきだ。海外に通用する人材とやらを作りたかったら外国語の取得以前に母国語を今の十倍は上手く使えるようにしなければならないだろう。母国語というのは思考の道具そのものなのだから)

 

10/30 ウェルニッケ野とかブローカ野とか、とにかくその辺りの話

 11月22日発売の新刊『いたいのいたいの、とんでゆけ』は370頁と、前作に比べるといささか長めの話となった。字数にすると15万5千字ほどだ。以前の僕が一度に扱える字数は精々13万字ほどだったので、その頃と比べるとずいぶん進歩したものである。そもそも今作は僕としては10万字程度の中篇として書いたつもりだったのだ。多分今なら20万字くらいなら無理なく扱えるだろう。ノベルス系作家と比べると20万字や30万字など軟弱に過ぎるのだが。あの界隈(特に講談社ノベルス)は良くも悪くも未だに「本は分厚ければ分厚いほどいい」みたいなディケンズ的バルザック的アーヴィング的キング的なあの恐竜文化を引きずっているように見えるのだけれど、未だにはっきりとした理由がよくわからない。物語というものをどこまでも純粋に信じきった結果なのかもしれない。好きだけどね、長い話。

 どうして長い話を書けるようになったかというと、それはもちろん一作目二作目を書き上げたことで僕が少なからず成長しているからなのだろうけれど、最近森博嗣や舞城王太郎を一気に読んでつくづく思い知らされたのが、僕のインプット量の少なさだ。速筆作家になるために必要な素質は二つある。一つは「過剰なまでのインプット」。もう一つは、「こだわりのなさ」だ。後者は少々誤解が生まれそうだが、もちろんこれは速筆作家の文章が雑だというわけではなく、「彼女は喜んだ」といった表現を書く際に「少なくともここじゃ無理して凝った表現に拘る必要はどこにもねえよな」と割り切ることができるという意味での「こだわりのなさ」だ。実際、彼らの考えるとおり、「彼女は喜んだ」「彼女は言った」「彼女は頷いた」で済むならそれで十分なのだ。ところが自分の文章がいつどこから批判されるかと神経質になっている僕らは中々そう割り切ることができない。たった一つの瑣末な表現のために類語辞典を前に三十分ほど唸ってしまう。

 前者の「過剰なまでのインプット」はそれによって知識量や表現の幅が増えるということも確かに大切なのだが、近頃感じるのは、破裂寸前になるまでのインプットにはそれだけでない素晴らしい効果が期待できるらしいということだ。どうやら僕たちは呼吸するように文字を読んでいるうちに言語野――長い間、脳の機能局在論と全体論との間で議論があったようだけれど、ある種の失語症の存在によって今では局在論が優勢なようだ――が活性化するらしい。当たり前と言えば当たり前の話なのだが、これによって得られる恩恵が僕の想像を遥かに超えて大きいようだ。「言葉を探し出して出力するスピード」が飛躍的に向上する恩恵は思いついたイメージを文章に置き換えるスピードの上昇よりも思考の加速の方にあった。『いたいのいたいの、とんでゆけ』の初稿を提出してからというもの日記の更新が増えたのは多分そのためだ。頭が破裂するほどのインプットと脳味噌を絞りきるようなアウトプット。それが今の僕にはとても心地よい。これを毎日限界まで続けていれば僕のような人間でも一日100枚とか書けるようになるのかもしれない。でもそうはならないだろう。僕の最大の美点であり最大の欠点である「飽きやすさ」がそれを許さない。

 

10/29 作家にとってのフォントレンダリングの重要性

 このウェブサイトを見ればわかるように僕は機械に弱いのであまりはっきりとしたことは言えないのだけれど、やっぱりWindowsとMacintoshとではどう見てもフォントレンダリングの質に違いがある。長い間Winユーザーでいると目の方が慣れてしまって違和感がなくなるけれど、よくよく見れば、特に手を加えていないMS明朝体の見難さは尋常ではない。MSゴシックもMS明朝ほどではないけれど文字によっては「おいおい皆、本当にこれでいいのか」と言いたくなるくらい酷い表現がなされている。Mactypeを使えばある程度Macintoshに近い環境を作ることはできるのだけれど、Office 2013のWordを含めたWPFで作られたアプリケーションは皆Mactypeが適用されないらしく、おまけにMactypeは今年の1月をもって開発終了してしまったらしい。

 プリントされていない段階の原稿の校正においてフォントの見易さは重要だ。自分なりに試行錯誤した結果、どうしてもWordでは限界があるので、もともとは青空文庫の閲覧用に作られた「smoopy」という縦書きテキスト閲覧ソフトを通すようにしている。それだけでWordのみの校正に比べて精度が3割程度上昇する。そもそも職業作家がWordのような器用貧乏ソフトを使うのはどうかとも思うのだが、どうも職業作家用と銘打たれたテキストエディタに魅力的なものが見当たらないので結局使い慣れたWordを用いている。今のところ、機能については文字の色が変えられて蛍光ペンが引けてルビがふれて校閲機能があれば十分と感じている。だがフォントレンダリングに関してだけは未だ不満が多い。

 そろそろ僕もMacに乗り換える時期なのかもしれない。フォントのためだけに、と笑う人もいるかもしれないが、物書きにとってフォントレンダリングの美しさは下手をすればそのまま思考速度に直結する。自分の書いた文章を読んで、そこから刺激を得て更に発展させていくのが物書きなのだ。100円のシャープペンシルで書いた原稿より数万円の万年筆で書いた原稿の方が良いに決まっている……というと「本質的な差はない」と反論する人がいるが、「使っていて気持ち良い」というのは創造的な仕事をする者にとっては想像以上に重要なのだ。要するにそれは手のひらの中の仕事場なのだから。

 良い時代になったもので、モンブランのマイスターシュテュック149と同程度の金額を払えばMacbook Airの13.3インチが買える。13.3インチを使うくらいならProを買えという人が多いが、僕にとって重要なのは「ストレスを感じずに読めるサイズの文字を一度にどれだけ表示できるか」なので11.6インチでは不十分だ(以前はワープロとして使うのなら10.1インチでも十分だと思っていたがいざ使ってみたら頻繁にホイールを回す必要に迫られ作業に集中できないということがわかった)。そういうわけで、近いうちに僕もスターバックスでMacbook Airを開く人間になると思う――といっても既にiPad AirとiPhone6を持ってファミレスを渡り歩いているので何を今さらという感じなのだが。タブレットを持っている自分というのはあまり好きではないのだけれど、昨年のAMWの忘年会のビンゴ大会で当たってしまって、売るのも忍びないからキーボードを取り付けてそのまま使っている。しかし今のところタブレットを持っていて良かったと思うシーンは少ない。動画サイトの閲覧やネットサーフィンを除けばpdf形式の論文を読むくらいにしか使っていない。

 ところでmacのメリット・デメリットについて調べていたら、WinとMacのインターフェイスの差について、こんな発言を見つけた。”二つの栓がある蛇口を想像してほしい。片方をひねると熱湯が出て、片方をひねると水が出る。「HOT」「COLD」と文字で書かれているのがWindows。「赤」と「水色」で色分けしてあるのがMac。これくらいの差はあるかもしれない。”その喩えが適切かどうかはさておき、素敵な表現だと思った。あるいはmacユーザーの間では有名な比喩なのだろうか。 

 

10/26 世界が終わらない「セカイ系」について

 その言葉を聞いて最初に連想するのは『最終兵器彼女』、続いて『イリヤの空、UFOの夏』、『Air』、それから元凶である『エヴァンゲリオン』、忘れられがちである『ほしのこえ』といった作品だ。清涼院や舞城、西尾といったメフィスト系作家の作品群もそこに含まれるのかもしれないけれど、一般的には前述したようなアニメーション・ビデオゲーム・コミック的想像力と親和性の高いジャンルと考えられている。

 セカイ系の定義としては、東浩紀の”主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群”がもっともしっくりくる。「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念からなるという元長柾木の話はちょっとわかりづらいが、「きみとぼく/社会領域/世界の危機」とい3つの領域のうち、「社会領域」の部分を故意に消去して、「きみとぼく」の問題が直に「世界の危機」に繋がるのがセカイ系であるという話はわかりやすい。この図式は”社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かない”という点で批判されもしたし、”みずからのジャンルの虚構性、チープさを明らかにした上で、なおかつ真摯な物語を語ろうとした”と賞賛されてもいる――以上、ほぼWikipediaからの引用だけれど、一応は宇野や東の本に目を通した身からすると、よくまとまっていると思う。

 その大半が90年代後半からゼロ年代にかけて書かれたセカイ系とカテゴライズされる作品群が僕は好きだ。しかし具体的に一体どこが好きなのかは考えてみたことがなかった。作中に漂う死の匂いに惹かれているのは確かだが、絶対にそれだけではないだろう。そこで、定義を再確認した上で検討してみることにした。”「きみとぼく/社会領域/世界の危機」の3領域、およびその飛躍”と書いてじっくり考えているうちに、結論らしきものが出てくる。それが正しいかどうかは重要ではない。僕が僕自身を納得させるロジックを成立させられるかどうかが、こういう個人的な考え事においては大切なのである。

 セカイ系は「きみとぼく」の小さな関係性が具体的な中間項を挟むことなく「世界の終わり」のような抽象的な大問題に繋がる、「きみとぼく」の行為や危機感がそのまま世界の状況にシンクロするという特徴を持つのだが、この「中間項を挟むことなく」という一文が僕の心を捉える。たとえば『最終兵器彼女』においてこの中間項の省略ぶりは顕著だ。「なぜ最終兵器が”ちせ”でなければいけなかったのか?」「”最終兵器”とは何なのか?」「どこの国がどのような理由で”戦争”をしているのか?」そういった、SFであれば中核にくるであろう問題が、セカイ系の作品ではまったくといっていいほど語られない。『イリヤ』は作者の秋山瑞人がSF畑の作家であるためにそれらしい語りがなされてはいるけれど、結局人類が戦っている相手がどのような存在なのかは最後まで明らかにされない。そして僕のようにゼロ年代に青春時代を送った人間からすると、その一見逃げともとれる態度は、けれどもどこまでも「適切」に感じられる。

 同年代の人間が皆同じように感じているかはわからないけれど、少なくとも僕から見れば「僕⇔社会⇔世界」という図式はどうも胡散臭い。高速化と引き換えにあらゆる実感が失われている現代においては国どころか市や地区のレベルでさえ「集団に属している」という感覚は希薄だ。僕が何かしらの選択をする、するとその影響は巨大なブラックボックスを潜り、あるとき突然ぽんと目の前に結果を突きつけられて、過程も知らされぬまま「これがお前の選択がもたらしたものだ」とだけ言われる――そんなたとえが一番実感に即している。だから「社会領域」を故意に省き、多くは選択の誤りを過程は知らされぬままに世界の崩壊という形で知らされる「セカイ系」は僕にとってリアルだ。

 しかし実感にリアルであることがセカイ系の魅力かというともちろんそうではない。また前島のいう「真摯な物語であること」に惹かれているわけでもない。おそらくだが、僕はセカイ系が好きだというよりは、その方法によって副次的に発生する現象が好きなのだ。具体的に言えば、先ほど例として用いた「ブラックボックス」そのものの存在を僕は好ましく思う。意図的に設定される巨大な空白。世界の終わりと繋がっているその空白の不吉さがたまらなくぞくぞくするのだ。オカルト界隈では有名な「アポカリプティック・サウンド」は、どこからともなく巨大な金属音が聞こえてくるという理不尽極まりない怪奇現象なのだが、その真偽はさておき僕はこの話が大好きで、理由はやはり「不吉さ」なのだろう。なぜそれが不吉かというと原因が一切わからないからで、そういう「わからない」というのはこの情報社会においては珍しい感覚であり、現代人の怠慢気味の想像力を働かせる貴重な機会ともいえる。そう、想像力。僕にとってセカイ系の空白は親切に残された想像の余地なのだ――というと、一気につまらない話になってくるので、ここでようやく自作と関連付けた語りを展開することにしよう。

 セカイ系について書かれたものを読んでいて思ったのだが、僕の書く物語は「世界の滅びないセカイ系」なのかもしれない。「きみとぼく」の関係が「社会領域」を経由せずどこかへいく、という点は共通しているのだが、だからといって「世界が滅びる」ことはない。ゼロ年代が終わったところで物を書き始めた僕たちの世代には「世界の終わり」対してある種の白けた感じがある。それはもはやありふれた手法の一つに過ぎないという認識がある。しかも誰がどうやったって「世界の終わり」などというものを総合的に描くことはできないのだということも知っている。それでも「セカイ系」の形式がもたらすすっきりとした心地よさが忘れられない。となると、もうこうするしかないのである。「きみとぼく」の関係が社会とは切り離されたところでちょっとしたブラックボックスを経由しつつ極めて個人的に終わる、それによって擬似的な「世界の終わり」がもたらされる。そんな構造なのだろう。なんというかこれまた非常につまらない話になるが、社会性のない人間にとってセカイ系の社会領域を排除するやり方は心地よいのだ。潔癖症的にある種の煩わしさを排除することによって無類の心地よい空間を作り上げている村上春樹の作品世界がそうであるように。

 

10/23 僕たちは自分の脳味噌を舐め過ぎている

 たとえばある歯科技工士のもとに突然神のような存在が舞い降りて「君の歯科技工士としての才能は15だが、実はピアニストのしての才能が700あるのだよ」と言ってきたら、多分その人は歯科技工士をやめてピアノを始めるだろう。でも直後、「ちなみに職業的なピアニストは平均20000程度の才能をもっているのだよ」などと言われたら、二度とピアノなどに近づくものかと思うだろう。投資し甲斐のあるところに投資する。それは当然の考え方だ。

 僕たちが自分の思索家としての才能を大体10程度と見積もっていたとしよう(すると僕たちは世間一般の人間の思索家としての才能を大体8程度と見積もっているだろう。いわゆる”平均以上効果”だ)。最大値のを知ることができるのは世界で一番賢い人間だけだろうが、いずれにせよ10程度の才能では投資のし甲斐がないと誰もが考える。だから早い段階で「徹底的に考えること」を諦める。自分たちはそこまで頭が良くないし頭が良くたってそこまでいいことがあるわけじゃないし頭が良くなくなって幸せになれる! と決めつける。その判断が正解かどうかの議論に意味はない。問題は「徹底的に考えることを諦めた僕たち」が10程度とみなしていた数値は、多分実際は500くらいあるということだ。数値に根拠はないが、とにかく桁違いにその見積もりは誤っている。

 僕たちは自分の脳味噌を舐め過ぎている。脳味噌というのは他の器官と比べるのが馬鹿らしくなるくらい鍛え甲斐のある器官だ。これだけ努力に応えてくれる器官は他に存在しない。ところが愚かな僕たちは自分の脳は鍛えるだけ無駄だと思っている節がある。どこでそんな誤解を身に着けたか? 決まっている。学校だ。義務教育だ。あそこで誤った「頭が良い」の定義を与えられ、それに従って非効率な努力を強いられ、そして過半数の人間が「君はそこまで頭が良くない」と言い渡される。「ああそうか、自分はそこまで頭が良くないのだ、ならば頭が良くないなりに生きて行こうじゃないか」と悪い意味で開き直る。

 違うのだ。僕たちの脳味噌はそう悪くない。体操選手の才能がある人間に兎跳びでグラウンドを一蹴させて膝が壊れたからあいつは使い物にならないと決め付けるくらい理不尽で残酷なことを僕たちは自分の脳味噌に対してやっている。なんて、もったいない。この数年間、僕にはインプットのための時間、それを十分に噛み砕いて消化した上でアウトプットするための時間が腐るほどあった。そして実際に腐らせてしまったのだ。今からでも僕は脳味噌を鍛えてやらなければならない。確実に、確実に、読まなければいけない本が、一生かかっても読みきれないほどたくさんある。それだけでも僕の気は遠くなる。

  


10/20 「最近の子供はこれを知らないらしい」という言葉の厭らしさ

 気づけば同世代の人間が「最近の若い者はこんなことも知らないのか」を口にするようになってしまっていた。九十年代の流行を示して「今の子供はこれを知らない(から可哀想)」と嘆いてみたり、当時の悪しき風習を取り上げて「今の子供はこれを経験していない(から人格的に未熟だ)」と眉を顰めてみたり。やはりどんな世代も、自分たちの時代が最後の良心だったと思い込んでいるのだろう。でもそんなことはないのだ。時代はどんどん良くなってきている。少なくとも、自分で自分を成長させようという意思のある人間にとって、これほど良い時代はない。情報は凄まじい速度で手に入るし、自分を売り込む手段というのも格段に増えた。大学における飛び級のようなシステムがクリエイティブの世界にも形成されつつある。

 僕は今の子供が羨ましいし、今の大人が羨ましいし、自分の世代が愛おしい。それでいいのだと思う。どんな時代が訪れたところで、人々はその枠の中で「0」から「100」を決めてやっていく。幸せな世代など存在しないし、不幸な世代というのも同様に存在しない。その世代の中に幸せな人間と不幸せな人間がいるだけだ。皆が不幸な時代における不幸というのは大したものではないし、また皆が幸せな時代における幸せというのもまた大したものではないのだから。

  

10/16 ”この人は、女性がそんなに好きではなかったんです”

 『know』が面白かったので関連書籍の『虐殺器官』『ハーモニー』と平行して(伊藤計劃の経歴は60年代のロックンローラーみたいに格好良い)『ファンタジスタドール イヴ』を読む。あ、これ最高のやつじゃんと僕は思う。そうそう、こういう小説を僕は求めていたのだ。目を覆いたくなるけれど、指の隙間から向こうを覗き見ずにはいられないような、そんな小説。

 『ファンタジスタドール イヴ』は男性から見た「女性」の話だ。誤解を恐れずに言えば、最後の最後まで女性というものがわからなかった頭の良い愚かな男たちが、苦悩の末に「もう俺たちを絶対裏切らない理想の女の子作っちゃおうぜ」と決意したところで終わる話と言える(この後に付属している年譜がまた面白い)。導入や展開の仕方から太宰治の『人間失格』を下敷きにしていることが窺えるけれど、同時に僕は武者小路実篤の『友情』に近いものをずっと感じていた。

 主人公である大兄が自己嫌悪の極みに達し「醜悪な自分を救ってもらいたい、普通の人間に戻りたい」と願い、唯一信頼していた後輩の女の子の下宿に駆けつけたところで起きたのはありきたりな悲劇で、でも一人の人間を絶望させるにはありきたりな悲劇で十分で、この後彼はある意味で神になるわけだけれど、それが実篤の『友情』の主人公野島が親友に意中の女性を奪われ(いや、奪われるも何も最初から彼のものではないのだが)、おまけにその女性に「あの人生理的に受け付けない」とまで言っていたことを知って憤死しそうになりつつもそれをバネに(実はこの”バネに”という言い方はあまり好きではない。人の絶望を馬鹿にしている言葉だ)作家として大成した流れを想起させた。

 でもこの作品の一番の見所は、アニメ版『ファンタジスタドール』を見る目が完全に変わってしまうその批評的な構造にあるのだろう。ノベライズとしてこれ以上優れた回答を僕は見たことがない。そうとも、小説と言うのは本来「そういう部分」を受け持つべきなのだ。悪名高き『レオン』のノベライズみたいなやつじゃなくてね。こういうミソジニーを地でいく話って、現代に多い恋愛恐怖症患者にはすごく響くのではないだろうか。異性を恐れるあまり、安心して一方的に”消費”できる「完璧な(虚構の)異性」ばかり追い求めている人々に、がつんと。

(以下、ラストシーンより引用につきネタバレ注意。)

   *

「この人は、女性がそんなに好きではなかったんです」
「そうなんですか?」
「ええ」
 ご婦人は、写真を眺めました。
「本人は、女性が大好きだと思っていたようですけれど……、でも、この人は、普通の人でした。人並みに女性が好きで、人並みに嫌いな、……ただそれだけの、普通の人だったんですよ」

   *

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」は『人間失格』の締めの台詞で、これもまたパロディの一環なのだろうけれど、この台詞があるおかげで読者の僕たちは”すっ”と物語を俯瞰的に見つめなおせるようになる。端的にいえばそういう話なのだ。ちょっと運が悪くて、ちょっと上手くいかなくて、ちょっと歯車が狂っちゃっただけなのだ。野崎まどのすごいところは、インプットしたものをものすごーく綺麗に分解して構成し直してアウトプットできるところにあると思うんだけれど、それもこうした「一歩引く姿勢」があるからできることなのだろう。というか、昨年末にMW文庫・電撃文庫の作家の方たちとお会いした際、普通にまどさんとも会話をした気がするのだけれど、あのときせめて『know』だけでも読んでいればなあ……。

 

10/11 非人間的なまでのポップさと、それに耐えうる本人のキャラクター性について

 顰蹙を買うというのは突出して目立っていてかつ良くも悪くも強固な価値観を持っていないとできないことで、そういう観点から見るとSEKAI NO OWARIの存在は非常に興味深い。僕は彼らの音楽については「この時代に、まだここまでポップにやれるなんてすげえなあ」と素直に感心するのだが、ウェブにおける彼らの反感の買い方は本当に凄まじい。村上春樹だってここまで嫌われてはいない。ONE PIECEだって、カゲロウプロジェクトだって、ここまで血眼で批判されてはいない気がする(これらを全面的に否定するのは「自分は物事を正視していません!」と宣言するようなものだろう。でも「売れてるもの=駄目なもの」と本気で思っている人は悲しいくらい多くて、「変わらず売れ続けてる」ってことがどれだけすごいのかを考えようとする人はあんまりいない)。

 どうしてSEKAI NO OWARIがここまで目の敵にされるのだろう? ちょっと真面目に考えてみた。多分だけれど、彼らの音楽は非人間的なまでにポップなので、それをやっている人間が身近にいそうな感じの人だと”浮く”のだ。音としての心地よさを追求したいわゆるアニメ声をアニメキャラクターが発しても違和感はないが、生の人間がそのような声で喋るとすさまじい違和感を覚えるように。極端なことをいうようだけど、SEKAI NO OWARIが作るような曲って、初音ミクやきゃりーぱみゅぱみゅ的な存在が歌った方が、一周してもっとすんなりと受け入れられるのかもしれない。彼らは彼ら自身の作る曲のポップさに耐えうるキャラクターをしていない(そしてあそこまでの過剰なポップさに耐えようと思ったら、きゃりーぱみゅぱみゅみたいにある意味で人間を卒業するか、顔を出さずに活動するかしかなくなる)。

 自分なりの答えが出てすっきりした。それにしても、こういうタイプの新人が出るたびに「音楽業界に対する悪影響」を語る人がいるが、これについては文学業界における悪影響をしょっちゅう指摘されている村上春樹本人が口にしたささやかな反論、「村上春樹が日本文学を壊したというけれど、村上春樹程度に壊される日本文学なら、もう壊れちゃっていいんじゃないか(うろ覚え)」を挙げて反論したい。AKBが音楽を駄目にした、EXILEが音楽を駄目にした……みたいなのも同様だ。それで壊れるような音楽業界なら、それまでの音楽業界だったということだ。

 

10/5 僕たちは努力や才能や運について何を知っているのだろう?

 努力と才能と運のうちどれが一番重要か、みたいな話になった途端に饒舌になる人が少なくない。ただどうも努力派にせよ才能派にせよ、その主張は何らかの形で自分を安心させる・納得させるために行われているようにしか見えない、という場合が多々ある。才能派が自分の諦めを正当化したがっていたり、努力派が自分の足掻きを正当化したがっていたり、あるいは自分が頑張って駄目だった人が才能派になったり、自分の才能のなさを認められない人が努力派になったり。いずれにせよ不毛な議論だ。第一我々のような半端な人間が才能や努力について何を知っているというのか。乗ったことのない車の優劣について語るようなものだ。本物の努力家を見たらそれは努力の天才に見えるかもしれないし、本物の天才を見たらそれは無意識の努力家に見えるかもしれない。

 僕個人としての考えをいえば、「努力家」なんてのは才能の表れ方の一つに過ぎないし、「天才」なんてのは幸運の表れ方の一つに過ぎないし、「運」の良し悪しについて語るほど馬鹿げたこともない。境界線の曖昧な、しかも包含関係にあるこの三つを並列で語っても仕方ない。ただやればいいのだ。実体のないものについてあれこれいって自分を甘やかしている暇があったら。

 

10/4 ごった煮のエンタメ観の持ち主が増えてきていることを僕は好ましく思う

 そういえばそんな本も買っていたな、と思い出して野崎まどの『know』を読む。メディアワークス文庫最大の功績は『ビブリア』の革命を除けば野崎まどを発掘したことであるという話を聞いたことがあるけれど、なるほどそれも納得の出来(もっとも『know』はハヤカワJAで書かれたものだけれど)。人の脳に<電子葉>が移植された超情報化社会の話。僕の世代は攻殻機動隊やマトリックスのおかげでこういう設定にまったく違和感を覚えずに済むという点で恵まれている。

 非常に面白く読み終えることができたのだけれど、きっとこういう作品は「よくない読まれ方」をされがちなんだろうなと思いウェブで感想を漁る。評価は基本的に高いのだけれど、案の定、「我々の読んできたハードSFから見ると浅いし軽い」的立場の人と「なんだか専門用語が多くてよくわからないし落ちも曖昧」的立場の人がちょくちょく低評価をつけている。僕の中の奈津川四郎が中指を立てる。ヘイヘイヘイ、てめえの非寛容さと見識の狭さを棚に上げてんじゃねえぞマザファッカー!(あくまで僕の中の奈津川四郎の言葉である)

 これを「浅い」という人とは多分ハヤカワSF的発想(ハードSF的なテーマをハードSF的に扱う)に侵されすぎてるし、これを「難しい」という人は仮にもSFと銘打たれている本なんだから数十や数百の専門用語くらい覚悟しておかなけりゃならなかったのだ。最近増えている、カテゴリーを逸脱する「クエスチョンつきのエンタメ作家」を読むときは一旦脳味噌を二歳の子供みたいにしなければならない。でないと古きよきラーメン好きが次郎インスパイア系の店に入ったみたいな事態になる。ある時期のチャンドラーが文壇からも本格ミステリ読者からも偽者扱いされていたみたいに。

 野崎まどは実をいうとまだ二冊目で、だから断言することは出来ないのだけれど、この人は多分ある種の<超越的なもの>に関心を抱いている。多分ここがハードSFの読者と齟齬が生じる要因になっている。そういう立場の人にいわせれば多分この作品はいささか神秘的に傾きすぎているのかもしれない。プラス、その手の本と同じ読み方をしようとすると、どうしてもこの「知ル」や「連レル」のような、息をするようにキャラクターノベルを読んできた僕たちにとってはとても馴染み深いタイプであるキャラクターに違和感を抱く。しかしだからといってこれらのキャラクターがしっくりくるタイプの読者があっさりと『know』を受け入れられるかというとそうでもなくて、今度は「SF的お約束」を(本作品では非常に抑え目にされて入るのだが)受け入れる下地が要求されるというところで躓く人がいる。両方を受け入れる素養がある、あるいは単に脳味噌がやわらかい人なら総合的に楽しめるエンターテインメントが『know』だ。多くの人がその点に触れていないけれど、この小説、映像喚起力が素晴らしい。アクションシーンは言うまでもないが、些細なSF的ツールの表現が「読者の脳から綺麗なものを引っ張り出してくれる」ものとなっていた。

 「メフィスト賞」なんかを中心に、こういうごった煮のエンタメ観を持った人が増えてきている事態を僕は好ましく思う。そして今日も僕は大いに自己嫌悪する。皆こんなに全力を尽くして彼らを彼らとして機能させているんだ、僕はこのままでいいのか? いつまで立ち止まっているつもりだ? このまま脳味噌を腐らせるくらいなら全財産を才能ある人間に寄付して死ね! それが嫌なら進歩しやがれってんだ。

 

10/3 やっぱり僕たちは佐藤友哉が好きだ

 佐藤友哉『クリスマス・テロル』を買ってそのまま喫茶店に入り読む。多分書いた本人はこういう雑な読み方を望んでいないのだろうけれど、ひとえに続きが気になったので一気に読み終えてしまう。めずらしく集中できたので、隣のテーブルでアルバイトを辞めることの是非について二時間近くにわたって語り続けていた大学生四人組の会話も気にならなかった。佐藤友哉がこの作品において何をしでかしたか(まさしくそれはテロだった、と言われている)は既に噂として聞いていたが、いざ実物を前にすると変な笑いがこみ上げてくる。そして僕は読者という生き物が自分にうってつけの本を見つけたときに抱きがちなありきりたりな感想を声に出さず呟く。これは僕の物語だ。ただし今回の場合、登場人物が自分に似ているとかストーリーが自分の運命を暗示しているとか思想が自分のそれと一致しているとか、そういう話ではない。もっと卑近な種類の「僕の物語」なのだ。どこにいてもアウトサイダーにしかなれない、フィービーのいないホールデン・コールフィールド”の”物語ではなく、”が”書いた物語。

 以下、本文より抜粋。これから読む予定のある人は注意してほしい――と言っておきはするものの、これから『クリスマス・テロル』を読む予定のある人の中でその結末を知らない人がいるのだろうか? いや、僕が思っているほどにはこの事件は有名ではないのかもしれない。だから念のために言っておこう。ネタバレに注意。

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 さて、聡明に聡明を重ねた『あなた』ならば既に気づいていると思うが、今作『クリスマス・テロル』を最後にして、佐藤友哉の短い作家生命は終焉を迎える事となった。
 鏡家サーガは、もう書けません。
 金にならない人間をいつまでも置いておくほどこの業界は裕福ではないし、それに才能のある後続部隊に道を空けるために、前線の中に紛れ込んだ三流を排除するのは極めて自然な行為だ。
(中略)
 いや勿論、僕は自分の作品達が三流とは微塵も思っていない。確かにミステリとしては下の部類に入るかも知れないが、しかしそんな事は関係ないだろう……と云う考えの持ち主は、どうやら自分だけだったらしい。作中で熊谷尚人が行った演説にもあるように、世界とは新しいものを求めている癖に、いざそれがやって来ると混乱する保守的な空間なのだ。僕は憎らしくて仕方がない。
(中略)
 無視。
 無関心。
 僕が何よりも恐れているのはその二つだ。僕の作品など存在していないかのような態度で書評を書き連ねる批評家、僕の作品など存在していないかのような態度で読了リストを重ねる書評サイトの管理人達、僕の作品など存在していないかのような態度が露骨に示されている地方の書籍コーナー。僕はページを開くたび、ネットを繋ぐたび、本屋を通るたびに深い哀しみに襲われる。
 そして思い知らされるのだ。僕とあなた達との距離を。
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 何がすごいかと言うと、この文章がウェブサイトやSNSの日記に書かれたものではなく、本のあとがきとして書かれたものでもなく、ちゃんと『クリスマス・テロル』の終章として書かれたものである、という点だ。そんな感じで、佐藤友哉は自分がそれまで書いた『鏡家サーガ』を受け入れなかった読者を糾弾する。新しいものを受け入れず既存のものを擁護する世界に呪詛を吐く。よく『音楽界への遺書』『文学界への挑戦状』みたいなラベリングをされる作品があるが、この作品はどこまでもストレートに「遺書」だ。次のことを考えている人間がこんな風によりにもよって読者に怒りをぶつけられるわけがない。
 当然、読者は怒った。書評サイトも怒ったし、アマゾンも怒ったし、あの温厚な読書メーターも怒った(ブックログは確認していない。でも多分怒った)。「こんな幼稚なやり方のものはテロとすら言えない、出版社は何をやっているんだ」と激昂した。『暗闇の中で子供』に対する反応からもわかるように、エンターテインメントと思って読んでいた物語が不完全な結末のまま文学的にぶん投げられると大抵の読者は怒る。そういうのをエンターテインメントに持ち込むな、という意見は確かにもっともであるとは思う。僕も自分が書く側の人間でなかったらそういうやり方には眉を顰めただろう。

 僕は言葉に詰まる。こういう未知の何かについて語る枠組みを持っていないことを自覚する。道具がないと僕たちは思っている内容をそのまま表現することさえできない。唯一つ言えるのは、僕はここまで誠実で切実な叫びをそうそう聞いたことがない、ということだ。いや、厳密にはちょっと違う。何というか、このポジションの人がこういう風に叫ぶのを、僕は初めて見たのだ。よくある「目が出ない作家志望の青年の嘆き」とか「これ以上何を書いていいのかわからなくなった大御所」ではなく、高校を卒業してフリーターと無職の間をいったりきたりしながら小説を書いて「戦慄の二十歳」などと言われて華々しくデビューしたにもかかわらず三冊目までどの本も重版がかからなくて担当編集から「重版童貞」と罵られ原稿を踏まれた佐藤友哉がこれを書くから最高なのだ(おまけにこの後彼は文学賞を立て続けに取り始めるのだから痛快だ)。ジャニス・ジョプリンが唄う『クライ・ベイビー』が最高なのと似たようなものなのかもしれない。そういえば東浩紀が「結局文学は私小説作家がキャラクター化するのが一番受けるよね」と嘆いていたけど、僕らはやっぱりそういうのに弱いんだろうな。

 

9/29 自称読書家に求められているのは「文学」ではなく「文学的」なのだ

 僕みたいな駆け出しのエンタメ作家が文学についてあれこれ言うのはおこがましいと承知の上で言うのだが、自称「読書家」の大半は文学というものを何というか清々しいくらいに誤解している。多分その原因は義務教育時代の国語の授業で、多くの「読書家」が、あの頃教わった「作者の言いたいことは何か(テーマは何か)」「登場人物に共感(感情移入)できるか」「自分が主人公と同じ立場にいたらどうするか」といった道徳的な読み方からいつまでも抜け出せていないのだ。その読み方はある意味では文学と最も遠いところにある(文学の目的の一つは、そういう馬鹿みたいな繰り返しから抜け出すことなのだ)。そして書店に平積みされている”傑作”を読むことで覚えた「伏線の巧妙さ」「どんでん返し・衝撃の結末」といった下品な読み方が彼らの読書観に止めを刺す。何度でも言うが、僕は伏線至上主義者と共感至上主義者が大嫌いだ。あくまで一ジャンルの評価基準にすぎないそれらを小説全体に適用するのはもはやある種の暴力行為だ。

 何でこんな話をする気になったのかというと、最近の「読書家」の、いわゆるW村上への態度が酷すぎるからだ。二人とも自分の頭で物を考えることのできる稀有な作家なのだが(僕を含め、作家の九割は自分で物を考えることができない。高橋源一郎のSFに関する引用でも有名な話だが、どんな世界も九割まではクズなのだ)、春樹と見れば叩くし、龍と見れば「ブルー」だけちらっと読んだ経験もとにエログロ風俗作家と決め付けたり「半島」「五分後」「クジラ」のあらすじだけ読んで左翼と決め付けたり。そしてそういう連中に限って芥川とか太宰とか三島とかいった大御所を褒めちぎるのだ。思うに、彼らは自分の中に漠然とある「文学的イメージ」に沿っているかどうかで評価を決めているのではないだろうか? それらしい文章、それらしい語彙、それらしいテーマ、そしてそれらしい退屈さを持った作品から感じられる「文学的イメージ」に浸って安心したいだけではないだろうか? 文学の主要機能の一つである「既成の何かぶっ壊す」を本当の意味で経験するにはどうしても同時代の作家を読まざるを得ないだろうに、今さら花袋とか二葉とか多喜二とかいった資料的価値の方が強い作家を好んで読むのはなぜか? それはやはり「文学的雰囲気」に浸ることを最優先した結果なのではないか? ついでにあんまり関係のないことをいうけれど、最近といわず昔からなのかもしれないが、日本におけるどの文学賞も「ちょっと尖った私小説」を厚遇しすぎじゃないのか?

 いずれにせよ僕のような部外者が口を出す話ではないしそんなことを考えているくらいならエンターテイメント業界の云々について考えたほうがいいんだろうけれど、困ったことに僕はエンタメ業界に関しては何の文句もないし何の心配もしていない。こちらの世界は文壇とか批評家とかが権威を握っているわけではないのである程度の自浄機能があるし、そりゃあ作品の質よりもマーケティングに依存しすぎている感は否めないけれど、どの世界だってそれは同じことだ。

 

9/21 春樹の呪い、確信犯的な独り善がり

 僕はニーチェを読んだことがないくせに『哲学者の格言』みたいな本からニーチェの言葉を引用するような人間が嫌いだけど、今回何気なく引用しようと思っていた「他人の自我にたえず耳を貸さねばならぬこと――それこそまさに読書ということなのだ」とはニーチェの言葉らしくて、僕は恥ずかしい。

 新しい作家の本を読むたびに僕はこの言葉を痛感する。僕の自我はおそろしく強靭で頑固なため、リアルタイム性の強い作家の本を読むとき、最初の五十ページくらいは常に拒否反応を起こしている。特に今の三十代に多い、「自我のあり方が村上春樹に影響されている人々」の本を読むとき僕は基本的に苛立っている(もちろん楽しみつつ、だ)。理由はわかりきっている。僕の中にも少なからず彼らと似た部分があって、かつその部分を自己嫌悪しているからだ。

 具体的な例を挙げると ――いずれの作家のことも僕は尊敬しており自分とは比べ物にならないほど優れた作家と認識しているという前提で話を聞いてほしいのだが――佐藤友哉、白河三兎、本多孝好、河野裕(『いなくなれ、群青』においてのみ)、杉井光(これもまた『すべての愛が許される島』においてのみ)といった作家の本を読むとき、僕は広義の自己嫌悪とも呼べる自我の対立を感じる。彼らのルーツには間違いなく春樹的・柴田的なものがある(乱暴なカテゴライズだけれど、これはもう断言してよいと思う)。僕の好きな舞城王太郎も『暗闇の中で子供』では包み隠さず春樹的・オースター的・カーヴァー的・そしてトム・ジョーンズ的な文学アプローチを試みているが、その後彼は彼なりのやり方を獲得していく。ところが先に挙げたような作家は八十年代以降に属する自我の強い男性作家の半数が罹る春樹的呪縛から逃れられていない。もしくは逃れようともしていない。ゆえに彼らの文章は(そしておそらく僕の文章も)、自己反省的で弁明的なものになる。その態度は「確信犯的な独り善がり」とも呼べると思う。「だってどうしようもないじゃないか、僕は僕なのだから」。

 もちろん彼らはただ何となく春樹的でいるのではなく、彼のどこまでいっても個人的なアティテュードに共感を覚えたからこそ、そのアプローチに可能性を見出したからこそ、春樹的であることから逃れようとしていないのだろう。ただ、舞城のような作家を見た後では、「果たしてそれでいいのだろうか?」と思わなくもない。他人のアプローチというのは結局のところ(この言い方も春樹的だ。”結局のところ”、”あるいは”、”決定的に”、”損なわれる”……そういう単語使いまで影響されている作家が最近は本当に多いのだ)<つなぎ>でしかなく、いずれは通過すべきものなのだ。そして僕もまたそういった呪縛から逃れられていないために、似たような呪いに罹っている作家の文章に引っかかりを覚える。”果たして僕たちはこのままでいいのだろうか?”、と。

 

9/1 後出しのじゃんけんで勝利し続ける人々の話

 ウェブの即時性はあらゆるメディアに対して理想的なタイミングでの「後出し」を可能にする。テレビや新聞や雑誌に書かれていることを受けて、まだその発言が人々の意識に残っているうちに反論できる。困ったことに、ウェブに見られる既成メディアへの反論はやたらと正しく聞こえる。いわゆる「ネットで正義に目覚めた人」がウェブの情報を妄信するのもそのせいだ。そのメタ的な構造もあって、ウェブを「もっとも客観的なメディア」として信頼する者も多い。だが彼らは重大な点を見落としている。というか、彼らに限らず下手をすれば世間の大半が、「論争というのは後出しした方が必ず勝つ」という原則を見落としている。よほど単純な真理(「虐殺は良くない」「教育は重要」など)を主張するのでもない限り、人の発言には必ず穴があるもので、それは論理性とか不注意とかいったレベルの話ではなく、そもそもあらゆる意見に反論の余地があるというだけなのだが、かなりの人が「Aに対してBという反論が成り立った場合、BはAよりも正しい」と信じてしまっている。多分にそれは「BがAを打ち負かした」という印象のせいだ。大衆はわかりやすさを好む。しかし実際に行われているのは終わってしまった試合を見て「自分ならここでこうするからこいつに勝てる」というようなことだ。そうやって一方的な勝利宣言をすることで、彼らは何を得ようとしているのか? それは「自分が一端の人間である」という感覚だ。日頃満たされない自尊心を少しでも補強するために、彼らは今日も後出しのじゃんけんで勝利し続けるのだ。

 

8/9 わかりきっているはずのこと

 追い込まれた人間が卒業アルバムを捲るような空しい動機で昔好きだった作品を次々と見返して(聴き返して)いる。『菊次郎の夏』、『トゥルー・ロマンス』、『ディフィニトリー・メイビー』、『ベガーズ・バンケット』、『イリヤの空、UFOの夏』、『コインロッカー・ベイビーズ』、『ファンファーレと熱狂』、『ネコソギロジカル』などなど。そうした作品を味わった後、ベッドに横たわって転寝をする。目を覚ますと、ほんの一瞬、子供の頃のような目で世界を見ることに成功する。本来世界はもっともっともっともっと生々しい場所で、僕の五感は死んでいて、レンズの汚れを拭き取れば、今の百倍切なくて百倍愛おしい気分になれるんだということを再確認する。

 わかりきっているんだ、と僕は思う。プレーンな目を取り戻せばもはや状況の良し悪しは意味を失い存在でき知覚できることそのものが生き甲斐になる、そんなことはわかりきっているはずなのに、中々人間は子供の頃のようにあらゆるバイアスを排除した上で物事を見つめることができない。一度、自分を空っぽにして全国各地を巡り歩き良質な書を読み漁り美しい音楽に浸りきりたい。今の僕はひび割れたレンズだ。それにできるのは、せいぜい歪んだ像を見せて物珍しさを売りにすることくらいだ。

 

8/8 比喩は意味の奴隷ではなくイメージの仲介者であるべきなんだ

 『コインロッカー・ベイビーズ』を読んだのは高校以来だった。エネルギーに満ちた小説が読みたくて手に取ったのだが、二冊の本を書いた後だからか、初読時はただただ振り回されるばかりだった小説を、楽しく読むことができたように思う。あの頃の僕は話の筋や心地よい比喩を追いかけるだけの貧しい読書しかできていなかったのだな、と実感した。

 初期の村上龍は純粋な書き手だった。あまりに純粋すぎて、理解できなかったのだろう。今、僕は彼のことを、無表情のまま様々な方法で虫を殺す子供のように考えている。そこにはグロテスクだとか残酷だとか汚いだとかいう価値基準は存在しない。ただ面白いからそうしているのである。自分の指先一つで小さな生命が多様な反応を返すのが面白くてたまらないからそうしているのである。

 トマトジュースの入った瓶をテーブルの角に叩きつけてその音や衝撃や飛び散る破片や赤いどろりとした液体がテーブルの上に広がり床に滴り落ち絨毯に染みこみ生臭い匂いを放つ、そういうのが「刺激」として単純に面白いという(勿論よい意味で)赤ん坊のような感性を恐れず貫き通したのが村上龍の凄まじさだ。感性が死んだ人間 ――それは大人に限らず、七歳の子供にも感性が死に切った者はたくさんいる――は、それを過度に理性的に処理しようとして、「このトマトジュースは血の比喩で……」みたいな馬鹿げた読解をしようとする、もしくは単純にそれを不潔だ悪趣味だ美的でないと切り捨ててしまう。あらゆる偏見を捨てて、五感でイメージを楽しむこと。(初期の)村上龍から僕が学んだのは、多分そういうことだ。『コインロッカー・ベイビーズ』は一言でいってイメージの集積だ。どろどろぬるぬるべとべとした村上龍的イメージが偏執的なまでにびっしりと敷き詰められている。「心臓の優位性」「破壊とゼロからの再生」「強烈な目的意識の重要性」みたいな”意味のある”テーマの方を人は追いたがるけれど、彼が最優先させていたのはやはりイメージを畳み掛けることだったのではないかと思う。

 

7/18 ときにはゲームやライトノベルの話を

 田舎は遊び場が少ない。午後十時を過ぎると、腰を据えて楽しめる場所はかなり限定されてくる。大学生になってからしばらくは、何もない道をひたすらドライブしたりシャッターの閉まった商店街を歩いたりするだけでも楽しかったが、数年もするとそれだけでは物足りなくなってきた。そのことで僕と友人のKはずいぶん悩んだ。最終的に、僕らはゲームセンターにたびたびいくようになった。二人とも、まさか自分がアーケードゲームに熱中するなど思ってもみなかった。無為な遊戯に熱中するたび、僕は『1973年のピンボール』を思い出した。なるほど、こういう気分なのか。

 何事もやるからには上達しなければ意味がないという考えを持っている僕が選択したのは対戦格闘ゲームだった。やってみなくてもそれが非常に奥の深い世界だということはわかっていたが、実際に数箇月やり込んでみて、改めてそれを再認識させられた。知識の獲得、反復練習、観戦、イメージトレーニング、そして実戦経験。スポーツや勉学と何も変わるところはない。ただしそれはどこまでやっても基本的に無意味で役に立たない。僕はその先のなさに惹かれる。意味のないプライドの世界。しかし、それは人間の本質でもある。

 今年の三月頃に稼動したゲームに『電撃文庫 FIGHTING CLIMAX』なるものがある。タイトルをみれば容易に想像できるだろうが、電撃文庫に出てくるキャラクターの登場する対戦格闘ゲームだ。友人の一人がそれを僕に紹介してくれた。以前の僕なら女性キャラクターが大半を占めるようなゲームにはまず手をつけなかったのだろうが、電撃文庫の姉妹的存在であるメディアワークス文庫で本を書いている身として強い縁を感じ、試しにプレイしてみた。すると想像していたよりバランスの取れたゲームになっており、個人的にはかなり楽しめた。聞いた話によると、ゲームシステムの担当がTYPE-MOONの『MELTY BLOOD』と同じところらしい。惜しいのは、僕が電撃文庫と聞いてまず想像するのが『イリヤの空、UFOの夏』、次点が『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで』であり、いずれもメインキャラクターとしての登場の見込みはなさそうだということだ。どちらも人の心にⅢ度の傷をつけることのできる稀有な作品なのだけれど。

 

7/13 それは音楽に限った話ではなくて

 ストーンズやドアーズに代表されるような不穏な高揚感を理解できるようになったのは十八歳頃で、恥ずかしながらそれまではその手の音楽の良さがまったくわからなかった。だがそれは僕の感性の鈍さだけが原因ではない。普通に生きて普通に音楽を聴いていたら、特にこの国においては、リズムやグルーヴといったものに対する感覚がいつまでも育たない。ヒットチャートは耳と口だけで音楽を処理するような仕組みを僕たちの中に作ってしまう。体で音楽を聴く――そもそも音楽とは「振動」である――という感じを覚えたのは、初めてスタジオに入って大音量でエレキギターをかき鳴らしたときだった。

 同じことは物語についてもいえる。中高時代、僕が考えていた「優れたストーリー」とは、ポップな歌メロでしかなかった。演奏や楽器については何も考えていなかったのだ。心地よさを求めることは悪いことではない。それどころか、人が何かを作るうえで頼りになるのは、最終的には快不快、あるいは美醜の判断だけだ。ただしここでいう美醜の区別は、「蝶は美しく、蛾は醜い」といった慣習的区別ではない。ときとして、蝶が醜く、蛾が美しく感じられる瞬間というのがある。爛れた火傷跡や黴の生えた果物や荒れ果てた工場といったものが、そのものの性質は保ちつつ「快」に転じる瞬間、それを的確に捉えられるようになることこそが、優れた物語の書き手になるということなのだと思う。

 

7/10 想像力の足を使うこと

 四日連続の更新は忙しさの証拠だ。僕は「時間があるから日記でも書こうか」というタイプではない。また「今日は印象的な出来事があったから日記を書こう」というタイプでもない。忙しさがある水準を超えると、途端に僕は日記を書くようになる。試験勉強を前にした学生が部屋の掃除を始めてしまう現象と、根っこは同じだろう。あるいは、巨大な課題を処理するにあたって、少しでも頭の中の無秩序や混沌を減らしておきたくなるのかもしれない。書く対象が何であれ、文章を書いた後は、頭の中が整理される。あらゆるものがあるべき場所に収まったような感覚が得られる。

 どう足掻いても人間である以上は怠惰なので、黙っていると退化していく。こうやってキャパシティを超えて何かをしなければいけないという機会を与えられることで、ようやく進歩しようという気にもなれる。僕は変わらなければならない、と思う。枷を探し出して、それを取り外さなければ。考えて、考える。息抜きをして、また考える。手元の道具だけでどうにかしようとしないことだ。想像力の手だけでなく、足も動かすのだ。

 

7/9 野蛮な人々

 こういうことはツイッターではいわないようにしているのだが、実をいうと、僕はウェブが大嫌いだ。自分が潔癖だといえる分野における罪人を探し出しては安全なところから石を投げ続ける暇な連中、ろくに知りもしない社会問題に口を出しウェブで得た偏った知識のみをもとに御意見番を気取る連中、常に呆れ憂う側に立つことによって空虚な自尊心を保とうとする連中、人々の関心注目を集めるために息を吸うように嘘をついたり他人の業績を横取りしたりする情けない連中、そういう人々はウェブのせいで増えたというよりはウェブによって浮き彫りになったという方が正しいのだろうが、とにかくどこを見回してもそういう連中が必ず視界に飛び込んでくるウェブが、僕は大嫌いだ。近頃は聞こえてくる笑い声の大半が誰かを嘲笑う声で、僕はうんざりしてしまった。虚偽の論文も議員の汚職もゴーストライターも、その領域に元々強い関心のあった人ならともかく、普通に生きている人は三日で忘れてしまうべき話題だ。いつまで引きずるつもりだろう? 他に考えるべきことは、他に話題にすべきことはいくらでもあるはずだ。死体蹴りをしている暇があったらもっと真面目に自分の幸せについて考え努力するべきだろう。2014年は嘲笑の年だ。魔女裁判を喜んで鑑賞していた時代と何も変わっていない。相変わらずちっぽけで野蛮な人間ばかりだ。

 皆が悪口で盛り上がっている中に飛び込んで、「昨日蛍を見たよ! きれいだった! 皆にも見せたかったよ!」と騒ぐような空気の読めない人が増えればいいな、と僕は思う。すばらしい風景が、すばらしい音楽が、すばらしい映画が、すばらしい料理が、すばらしいお酒が、とにかくすばらしいものが世の中にはいくらでも転がっている。自分と一生かかわる機会のない人間のことをいつまでも気にしているべきではない。

 

7/8 翻訳小説ばかり読むわけ

 小説家が小説について語るとき、どうしても一旦自分を棚にあげないと何もいえなくなってしまう。だから僕は一旦自分を棚の最上部にあげて戸を閉める。

 国内の小説よりも翻訳小説を読むことの方が多い。おかげで僕の書く日本語はどこかぎこちない。いや正直にいおう。翻訳小説を読んだ後だと、大衆小説に書かれているような日本語がぎこちなく感じられる。そういう本を読んでいるとストレスが溜まる。だから読まない。ここでいっている「ぎこちなさ」は、文章力がどうのこうのという話ではない。国内の大衆文学における慣習の話だ。たとえば時制。史的現在が脈絡なく使用されること、それ自体は問題ではない。たとえば心理描写。「意識の流れ」の手法も、共感的感動を至上のものとする(してしまっている)大衆小説においては、まあ効果的なのだろう。だが果たしてどれだけの人がその手法がかなり特殊なものであるということを意識しているのだろう? ただ何となく皆がそう書いているからそう書いているだけではないのか? なぜ過去のことを現在形で書くことが許されるのか。なぜ事実の羅列の中に唐突に心の声が挿入されることが許されるのか。そういうことを意識しながら書いているようには、とても見えない。

 だが何より現在の大衆小説から僕を遠ざけているのは、「人生に対する全面的信頼」だ。これはもはや小説に限った話ではないのかもしれないけれども、本来そこに一番気をつかうべき媒体である小説においてないがしろにされているのがどうしても気になる。何といえばいいのだろう? どの小説からも、NHKの連続テレビ小説的な「人生辛いこともあるけど皆で誠実に生きていればなんとかなるでしょ感」がぷんぷん漂ってくるのだ。もちろん、最終的な結論がそれだというのなら僕からは何もいわない。だが彼らはそれを最初からそういうものとして認識しているようにしか見えないのだ。人間が基本的にはどうしようもない存在で、死は決定的であり生は不条理なものという前提から出発している人がどれだけいるのだろう? ここまで語って、僕は自分を棚から下ろす。すべての批判は自分自身に返ってくる。せめて自分くらいは満足させられるものを書かなければ、という思いを僕は新たにする。

 

7/7 蛍を探す

 友人と蛍を探しにいった。ここ十年ほど、蛍のピークが過ぎた八月に「そういえば蛍なんて生物がいたな」と思い出し、「来年こそは蛍を見るぞ」と決心するというのが続いていた。今年こそは蛍を見つけなければならない。午後七時を過ぎた頃、僕は一つ上の友人に電話をかけた。「蛍を見にいきましょう」。彼は即諾してくれた。

 穏やかな水場、完全な暗闇、そういう場所を探して原付で走り回った。ニュータウンの頂上にある水辺の公園を散策してみたが、いかにも蛍が育ちそうな環境が整っているのに、それらしい光は見当たらない。諦めて引き返して駐車場についたところで、僕は足を止め、友人にいった。「いました」。僕が指差した方向にあるぼんやりとした光を見て、彼も歓声を上げた。「まさかこんなに早く見つかるとは思いませんでした」と僕はいった。「蛍って、本当にちゃんと光るんですね」。

 その後は神社やダムを巡ったが、いずれの場所でも一、二匹の蛍を見つけることができた。意外にも、生活圏内に蛍はたくさんいた。それなのに一度も見ることができなかったのは、「蛍を見つけよう」という意識を持って目を凝らす経験が僕らに不足していたからなのだろう。

 

4/25 「思い出のプラス補正」か、「現在のマイナス補正」か

 きっと既にどこかの誰かが僕よりもスマートに説明してくれるであろう事柄について、あえて僕なりのつたない説明を試みようと思う。たとえば、子供の頃にいったディズニーランド。最後にあそこを訪れてから十年近くが経過した今、僕の中のディズニーランドはいわゆる<思い出補正>によって神格化されてしまっている(情けない話)。ゆえに今僕が「ディズニーにいきたい」といったら、それは実物のディズニーランドにいきたいというよりは、思い出によって理想化されたディズニーランドにいきたいということである。現地を訪れて僕が感動したとすれば、それは実物のディズニーランドにきた喜びというよりは、理想化されたディズニーランドに少しでも近づけたという喜びである。よくよく考えるとここで起きているのは妙なことだ。初めは現実を見て幻想が生じるという形だったのが、時を経て、幻想を再現するために現実が存在するようになっているのだ。二次創作が一時創作を引っ張るような事態が起きているのである。

 僕はこういった入れ違いを、想像力というものの本質を考える上で重要なトピックの一つだと考えている。僕が理想化され神格化され思い出によって補正された「ディズニー」を改めて再現したら、それは以前より純粋な――妙な言い方になるが、間違いなく本物よりディズニー的な――ディズニーランドになるはずである。しかし、ある意味ではそれこそが本物のディズニーランドなのだと僕は思う。それまで見ていた「実物」のディズニーは、認識の垢に塗れていたのだから。

 

4/21 「考える」と「想像する」

 僕は「考える」と「想像する」は、「追う」と「逃げる」くらい性質の異なるものだと思っています。「考える」は初めから標的が設定されていて、あとはそれをどう捕まえるかという単純な話になるのですが、「想像する」は追っ手がどこから現れるかもわからず、明確なゴールもなく、ただただ身を隠す場所を探して走り続け、しかも定期的にその場所を移すという終わりのない行為です。たとえ創造的な職業についている人でも、その多くは、「想像する」ことが苦痛になって、「考える」ことだけをするようになっていきます。人は「ゴールの明確な基準がない」「公式がない」といった種類の不安には滅法弱いのです。しかし、形式化したかくれんぼを進歩させるのは、いつだって隠れる側です。追う側が進歩することがあるとすれば、それは、隠れる側がこれまでにない手段で身を隠したときなのです。

 

4/9 漂白から生き延びた色

 僕は空しさを死ぬほど恐れている。中学生の頃、ふとした拍子に空しくなった。それまで好きだったことの大半が馬鹿げているように思えた。思春期にありがちな恥じらいからくる白けではない。事実、それらは馬鹿げていたのだ。早目に過ちに気付いてよかった、と僕は思った。そして、これからは空しくならない物事だけ集めて生きていこう、と決意した。

 空しさから逃れる方法はたった一つ。考えて考えて考えて考え抜いた末に物事を選択し、それらを最後の最後まで疑い続けることだ。それはとても苦しい生き方だが、空しくなるくらいなら苦しい方がましだと考える人は少なくない。また、空しさから逃れられるわけではないが、それを和らげる方法なら、他にもある。空しくなるより先に白けてしまうことだ。色褪せる前に漂白してしまえばいいのだ。そうして初めから真っ白なものとして扱う。時折、漂白したはずなのに僅かに色が残ることがある。そのときは、素直にその色を愛すればいい。

 

4/4 ピギー・スニードに火をつけて、それから救おうとすること

 文学趣味の俗っぽさを露呈することになるんだけど、今の僕が好きな短編を三つ選べと言われたら、多分以下の三つを挙げると思う。

・舞城王太郎『熊の場所』
・ジョン・アーヴィング『ピギー・スニードを救う話』
・レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役に立つこと』

 僕のことだから気取って海外文学ばかり取り上げるのかと思いきや、真っ先に思いついたのは舞城王太郎だった。でも仕方のない話だ。短編『熊の場所』には、僕の好む要素がこれでもかとばかりにぎっしりと詰まっている。短編なんてものは、出来がある水準を超えてしまえば、好みの問題なのだ。たぶん。

 『熊の場所』のあらすじは、大体こんな感じだ。主人公の少年「沢チン」は、嫌われ者のクラスメイト「まーくん」の鞄から、切断された猫の尻尾が転がり落ちるのを目撃する。それは一体何なのだと訊ねようと口を開いた瞬間、「まーくん」は彼に「あっち行け阿呆、殺すぞ」と言う。「沢チン」は「まーくん」が怖くて逃げだすが、かつて父親に受けたアドバイス、<恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐに戻らねばならない>を胸に、「まーくん」への恐怖に打ち克つために踵を返す。

 これだけ書くと、どこら辺が僕の好みと合致するのかさっぱりわからないだろうから補足しよう。僕が一番好きなシーンが、沢チンがまーくんから逃げ出して一目散に家へ逃げるとき、「毎日聞いて聞きなれて、意識しないと聞き忘れて聞こえない音が、今さら意味ありげに聞こえて」、それを彼は「自分の生に突然走った緊張から、無意識のうちに、慌ててあらゆる感覚を剥き出しにして、短い生を精一杯生きようとしたのに違いない」と解釈するところ。他にもいろいろ。まーくんが自分を殺したがっているのを知った沢チンが「殺させてあげないと可哀想だよなあ」みたいに考えるところも好きだし、沢チンの父親が<熊の場所>に戻ることを決心するまでの思考の流れも好きだし、結局まーくんも<熊の場所>に数年越しに戻ろうとして、でも<熊>である<猫& gt;に敗北してしまうところも好きだし。

 『ピギー・スニード』の話は、豚と暮らし豚扱いされていた男が豚小屋で焼け死んだことを知った少年時代のアーヴィングが、初めて「改定作業」を行い、物語を作ったときの話。月並みだけど、最後のあの文章にやられた。
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「おやおや、ジョニー。だからスニードさんが生きてた時分に、もうちょっと人間らしい扱いをしてやってれば、そんな面倒くさいことをしなくてもよかったろうに」
 それができなかった私は、いまにして考える。作家の仕事は、ピギー・スニードに火をつけて、それから救おうとすることだ。何度も何度も。いつまでも。

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 僕も一応は作家の端くれになってわかったのだけれど、本当に本当にそうなのだ。僕たちはピギー・スニードに火をつけて救おうとするべきだ。ピギー・スニードに甘いお菓子を食べさせて王冠をかぶせるような真似はしてはらならないのだ。時には空腹の極限まで追いつめた上で最良の食事を与えるのもいいだろう。それで死んでしまったとしても、そのときはそのときだ。

 

4/3 生きていた頃の話

 この季節になると、生きていた頃をよく思い出す。もちろん今だって生きているには生きているのだが、十五歳を過ぎたあたりから、能動的に「生きている」というよりは「死んでいない」といった方がしっくりくるような精神状態が続いている。頭に靄がかかって、世界を構成するすべての要素に透明な膜がはりついているとでもいうか。たとえるなら、西瓜を見ても、その水分をたっぷり含んだ真っ赤な果肉やあの爽やかな甘さを想像できなくなり、ただ「西瓜だ」としか認識できなくなった――といった感じだ。

 僕に限らず多くの人間がこの精神的不感症にかかっているものと思われる。もちろん、この病を治す方法はいくらでもある。スポーツ、アウトドア、モーターサイクル、旅行などはその代表だろう(だが一番手っ取り早いのは、恋をするか死に直面することだと思う)。実際、僕もこの手のレジャーを楽しんでいる間は、一時的に不感症から脱出できる。だがあくまで一時的だ。一晩が過ぎれば、あっという間に元の無感覚人間に戻ってしまう。

 春になると思い出すのは、大学生活の中でほんの数か月だけ、しっかり生きていた時期があったということだ。そのときの僕には視界に入るものすべてが鮮明に見えたし、聞こえる音はひとつひとつ分離してくっきり聞こえたし、あらゆるものの匂いが嗅ぎ分けられた。世界の音質や画質や匂質が普段の五倍くらいに上昇していた。僕がこれまで知覚していたのは「世界もどき」に過ぎなかったんだ、と確信を持っていえた。いつでもあんな気分で生きていられたら、きっと小説なんて書く必要はなかったんだろう。正しい世界を失った今の僕は、せめてそれを擬似的に再現しようとして小説を書いている。『三日間の幸福』では、数ページだけ、「正しい世界」の再現に成功している部分がある。そういうのが今の僕にとってのささやかな救いだ。

 

4/2 とても日記的な日記

 どうしようもない感情というのはいつもある。それが膨らんだとき、僕は移動することで対処する。移動の手段は車でもバイクでも電車でもバスでも徒歩でも何でもよくて、でもやっぱり自由度の高い車が一番ちょうどいい。好きな音楽を流しながら、一人であてもなく大きな道路を走り続け、適当な店を見つけて入り、そこを折り返し地点にする。何てことのない公園だとか、昭和の空気を残したドライブインだとか、寂れたゲームセンターだとか、無理にカテゴライズすると、「とうに見捨てられてしまった場所」をゴールにすることが多い気がする。いつでも世界に見放されてた気分の僕は、僕以上に見放されたものを見て癒されようとしているのだろう。無生物との傷の舐め合い。いつか破傷風になるだろう。

 今日の折り返し地点は健康ランドだった。道路沿いの看板は元の色がわからないくらい色褪せていた。浴場に入ると、見事に老人しかいなかった。サウナで汗を流し、風呂上りに瓶牛乳を買って飲む。フロントの右前方には古いアーケード筐体が置いてあったが、電源がささっていなかった。左前方にはUFOキャッチャーがあり、中を覗くと、意外にも新し目のぬいぐるみが積んであった。休憩室は六畳ほどの広さで、大量の漫画本が長方形の箱の中に無造作に入れられていた。

 駐車場に戻り車に乗り込んだが、まだ帰る気にはなれなかった。僕は鞄から取り出した残り三分の一程度まで読み進めていた文庫本の続きに取りかかった。旅の話だ。こういうのは自宅で読むより、知らない土地で読んだ方がしっくりくる。中々良い本だった。読み終えて顔をあげると、世界がいつもとはほんのちょっとだけ違って見えた。日が沈み始めていた。車のキーを捻り、エンジンをかけた。オーディオに繋がれたiPodはandymoriの『ネバーランド』を流していた。「ネバーランドはどこにもない、ふと気づいたら誰もいない」。この曲を聴くたびに僕は<実にラストアルバムに相応しい歌だったなあ>と思う。こんな感じで僕はどうにか正気を保っている。もっと普通のやり方で感情を処理できたらいいんだけどな。

 

3/21 『聲の形』の最新刊を読んで、加害者という最大の弱者について

 『聲の形』はウェブでも相当話題になり、当時僕もツイッターであの作品について軽く触れたが、最新刊を読んで、一巻や二巻で得た「なるほど」とはまた別の「なるほど」を得た。すげえなあと思う。

 良くも悪くも素直な人の多くは、この作品を読んで少なからず不快感を覚えるだろう。典型的な「嫌われるタイプのキャラクター」が次々と出てくるのだ。主人公の石田が小学生時代に障害者をいじめて転校させた経歴の持ち主という時点で、潔癖症の読者は感情移入しにくいに違いない。さらに聴覚障害者という、同様に弱い人間にとっては理想的過ぎるヒロイン像にも、人によっては強い嫌悪感を持つだろう(作者の大今良時は女性であるということを知れば、そっちの抵抗感は多少薄れるのだろうけれど)。

 僕はこの作品を単純に「障害者との向き合い方」という風には捉えたくない。それどころか、聴覚障害というのは一つの表れ方でしかないとも思っている。僕にとって『聲の形』は、「コミュニケーション」と「罪悪」、そして何より「弱さ」の話であるように見える。しかしここでいう”弱さ”とは障害者やいじめ被害者が持つ種類の弱さではなく、むしろこの作中人物の大半が抱えている弱さのことを指している。

 それについて語るために、まず加害者と被害者の話をしておきたい。人は、自分を加害者であると思うよりは被害者であると思いたがる。多くの物語において語られる悲しみは、「被害者としての悲しみ」だ。私はこんなにひどい目にあった。彼はこんなひどい目にあった。だがその立場は、見方によってはとても狡いというか――「安全」だ。何からの安全かというと、「自責」という非常に厄介な感情からの安全だ。被害者は加害者を憎み、犠牲者は不運を憎めばいい。だが加害者であるゆえに不幸になった者にはそうした慰みが許されない。ひたすら過去の自分を責めるしかないのである。

 当然のことをいっているようだが、この「加害者としての不幸」、さらにいえば「加害者にならざるを得なかった・意図せずなってしまった者としての不幸」と正面から向き合っている作品というのは、常にマイノリティだ。皆、自分が不幸になることはあっても、自分が悪人になることはないと思っているから、感情移入しにくい。むしろそれを遠ざけることによって、自分が悪ではないことを証明したがる。僕はそういう傾向を残念に思う。だからこそ、僕は先日の日記で引用した供述文に心打たれたのだろう。彼が語っていたのは、その内容の是非はともかく、「無能ゆえに悪人にならざるを得なくなった人間の悲しみ」と向き合うような話だった。

 余談だが、僕の書いた『ひーちゃんとはーちゃんの話』の主題のひとつも、実をいうとそれなのだ。つまらない言い回しになるが、「自分の弱さゆえに悪になってしまった」人はどうすればいいのか? そして一度犯した罪を贖うことなどが本当にできるのだろうか? 取り返しのつかない行為に対する「償い」など、自己満足に過ぎないのではないか?

 ずいぶん遠回りをしてしまった。さて、『聲の形』は基本的に加害者視点のストーリーだ。一巻では歪んだ無邪気が災いしていつの間にか加害者になり、それを責められて被害者になった主人公・石田が描かれている。彼は被害者になったことで初めて自分が危害を加えた相手の気持ちを知り、その罪を償おうと決意する。改心した石田と歪まずに成長していた西宮の再会は出来過ぎというくらいに感動的だ。

 だが二巻では、西宮の周りの人間たちが、石田に「後悔しているから何だっていうんだ?」を突き付けてくる。彼女の失われた時間は戻ってこない。お前のやったことは消えない。西宮の母親はいう、「あなたがどれだけあがこうと幸せだったはずの硝子の小学生時代は戻ってこないから」。石田はそれに対して細かい言い訳はしない。「はい!」と大声で返事するだけだ。僕はそれを最良の回答だと思う。

 そして最新刊の三巻では、佐原と植野という二人の同級生との再会が描かれている。佐原の登場も石田の考え方に大きな影響をもたらしたようだが、僕としてはこの巻における植野の描かれ方に注目したい。この植野という女の子は作中筆頭の「いやなやつ」だ。障害者と仲良くしている子を「偽善者」と蔑み、自分の身が危うくなれば他人を蹴落とし、そうした過去の行いを一言二言の謝罪で清算できると思っている、いってみれば典型的なクズ。ところがこの子、この三巻を見る限り、どうやらただただ空回りしているだけで、「そんなつもりじゃなかったのに、嫌なことばかり口にしてしまう人」だったようなのだ。

 想いを寄せる石田にも読者にも嫌われる女の子を見て、僕は思う。あるいはこの子こそが最大の弱者なんじゃないだろうか、と。もちろん彼女が弱いから彼女のすることはすべて許されるべきだというわけではない(前回の供述文のときと同じ文脈になってきたな)。ただ、僕はこう考えずにはいられないのだ――そういう、「弱さがもとで加害者になり、ゆえに誰からもその不幸を『自業自得』としか認められない人物」の抱える悲劇こそが、もっともどうしようもないものなのではないか、と。

 

3/20 トム・ジョーンズの『拳闘士の休息』

 三百ページ分の発言権を与えられてもほんの数行さえ意味のあることを書けない僕だが、それでも、いやだからこそ、読むものだけは「意味のあること」であるように心がけている。ただ困ったことに、僕は自分にあった本を選ぶのが苦手で、これだと思って手に取った本が二ページ読んだだけでうんざりしてしまう代物であることもしょっちゅうだ。しかしなぜか海外の本のことになると話がまったく変わる。「これだ」と思って手に取った本は、大体想像通りの「これ」だ。まあ翻訳されている時点である程度価値の高い本である可能性が高い、というのもあるが。

 何がいいたいのかというと、僕は自力でトム・ジョーンズを発掘したことを遅ればせながら自慢したいのだ。「拳闘士の休息」。もしそのタイトルがハヤカワや新潮の背表紙に書かれたものであったら僕は見向きもしなかっただろう。だが河出から出ている「拳闘士の休息」だ。これは何かあるな、と僕は直感的にそれを本棚から抜出し、十日ほどの間をおいてそれを読み始めた。短編集だったが、一つ目の作品を読んだところで、どこか懐かしい感覚を覚えた。だがその正体はわからぬまま、二つ目三つ目と読み進めた。こいつは当たりの作家だ、と思った。彼は文学的なことを書こうとして文学的なことを書いている人間とは違う。文学的な思考があるから文学的なことを書ける人間なのだ。
 六つ目を読み終えたところで、何気なくあとがきを見て、僕は苦笑いしてしまった。

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現在、本書の他に翻訳で読むことのできるトム・ジョーンズの作品は、以下の通り。
・短編
 「スリ」柴田元幸訳『いずれは死ぬ身』(河出書房新社)収録
 「コールド・スナップ」舞城王太郎訳『ファウスト』vol.2(講談社)収録 
・エッセイ
 「私は……天才だぜ!」村上春樹訳『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』(中央公論新社)収録
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 この三人が揃って翻訳する気になる作家なんて、そりゃあ気に入らないわけがない。舞城好きの間では彼の文体の元ネタとして有名なようだが、それにしても、もうちょっと売れたっていいんじゃないだろうか? 確かにこの人、トム・ジョーンズは天才だ。本人もそういっているのだから間違いない。

 

3/17 とても正確なクエスチョン

これを読んでいました。

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1 - http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/

 念のためにいっておきますと、僕は決してこの人に同情の余地があるだとか社会問題がどうとか文学性がどうだとか語るつもりはありません。名文を書くのは犯罪者だけではありませんし、こういうときだけ殊更「すごい文章だ!」と持ち上げるのは、ただ筆者が異様に若く美しいからというだけの理由で持ち上げるのと根本は一緒だと思うのです。
 感想をひとつだけ。「どうしようもないことは、どうしようもないんだな」。
 以下、気になった部分を抜粋。

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 ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。

 以前、刑務所での服役を体験した元政治家の獄中体験記を読みました。その中に身体障害者の受刑者仲間から「俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ」と言われたという記述があります。自分には身体障害者の苦悩は想像もつきません。しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。

 自分は昨年の
1215日に逮捕されて、生まれて初めて手錠をされました。しかし全くショックはありませんでした。自分と致しましては、「いじめっ子と両親によってはめられていた見えない手錠が具現化しただけだ」という印象でした。

  また、刑務所での服役も全く恐くありません。少なくとも娑婆よりは、人生の格差を自分に突きつけて来る存在に出会うことはないでしょう。いじめがあっても刑務官さんたちは、自分の両親や小学校の担任教師よりはきちんと対応して下さるでしょう。刑務所の生活には自由や尊厳がないと言いますが、自分には、それは娑婆でも同じことですから、何も恐くありません。また今回の逮捕を巡る報道により、自分は全ての日本人から見下される存在になり果てましたが、自分の主観では、それは逮捕前も同じで、それが単に顕在化したに過ぎませんから、特に改めて苦痛を感じません。

 自分のデタラメな声明文を真に受けた前述の臨床心理士がtwitterで「愛する人を失って云々」などとツイートしていましたが、自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15
年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。つまり自分には失って惜しい人間関係もありません。自分は留置所から借りたスウェットを着てこの場に立っていますが、それはつまり自分には公判用のおめかし用の衣類を差し入れてくれる人など誰もいないという意味です。ただ自分は自己憐憫に陥ってはいません。むしろ無用な人間関係がないことを清々しいとすら思っています。自分の帰りを待つ人も誰もいませんので、気楽で気楽で仕方がありません
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 さて。別に彼は僕らからの慰めの言葉など必要としていないのでしょうが、それでも声をかけるとしたら、何というべきなのでしょう。マリリン・マンソンがいったように、「ただ話を聞いてやる」べきなのでしょうか。彼はとても正確なクエスチョンを示したのだと思います。

 この陳述に対するウェブの反応を見てみると、やはり「こじらせ」「甘え」「自己憐憫」といったコメントも少なくありません。間違いではないでしょう。しかし同時に、そのことに本人が気付いていないとは思えないのです。自分の絶望が取るに足らない自己憐憫であることを、彼は十分自覚していたはずです。それが言い訳にならないことは重々承知していたはずです。そしてだからこそ、彼のような人間は追い詰められるのでしょう。わかりやすい不幸を背負わない彼の嘆きは、すべて未熟でくだらないものとして扱き下ろされ、こうして発言の機会を得るまでは、同情の欠片も受け取れずに生きてきたはずです。本人を含め、彼の悩みを受け入れたり肯定してくれる人は誰一人としていない。見方によっては、こういう層こそが一番の弱者なのではないでしょうか。だから同情してやれ、というわけではないのですけれど。

 

12/29 棒読みで愛を語るひとびと

 文体の変化に驚いた人がいるかもしれない。特にウェブ版においては、僕はライ麦ライクな口語体を用いるようにしていた。ウェブという媒体を用いる場合、明らかにそちらの方が自然だし、読みやすく入ってきやすいからだ。書籍化にあたってあれを使い続けるつもりはなかったのだが、一作目はある種の決意表明、あるいは感謝状のような意味合いで、特別にホールデン口調を採用した。ここら辺は僕が積極的に誤解させていた面もあるのだが、僕は別にあのやり方でしか書かないというつもりはまったくないのだ。二作目において用いたような比較的プレーンな文体の方がリラックスして書けるし、さらに言えば、二作目よりももっと淡白で細切れの文体が好みなのだ。そういうわけで三作目は(もし出せるのだとしたらの話だが)、たぶん、もっと癖がなくて薄味で他人事な文体になるのだと思う。僕は「少ない」んじゃなくて、省略過多の文章にあこがれる。でも先のことはわからない。うんざりするくらい典型的な口語体で書いているという可能性も十分にある。この文章をどう締めればいいかわからないが、とにかく一つ言えるのは、小説書くのは超楽しいということだ。書いていない時が楽しくなさすぎるだけかもしれないが。

 

12/5 物語の奴隷、人間っぽい何か

 今月25日には二冊目が出るわけだけど、かつて読んだ村上龍のエッセイの中で、井伏鱒二が「三冊目が本当の勝負」みたいなことを言っていたことが強く印象に残っていて、だから僕は数か月前から三冊目のことを気にしている。というのも、一冊目というのは、ちょっと無理をすれば”書けてしまうもの”なのだ。二冊目は一冊目の経験や反省から、少なくとも技術的にはより良いものが書ける。問題は、三冊目。ある程度書きたいものを書きつくし、言いたいことを言いつくし、素材を出し尽くした後で、まだちゃんとしたものを書けるか。そういった意味で、三冊目が勝負なのだと思う。

 というわけで三冊目の内容なのだが、実をいうと、とっくに決まっている。というか、「三日間の幸福」よりも前、「スターティング・オーヴァー」よりも前、それどころか「あおぞらとくもりぞら」よりも前に、僕はその作品の構想を練っていた。ノエル・ギャラガーはファースト・アルバムを出す前から「オール・アラウンド・ザ・ワールドはサード・アルバムに入れる」と言ってメンバーを呆れさせていたそうだが、僕もそれに倣って……というわけではないが、とにかくデビュー前から三作目の構想はあった。本当は「あおぞら」より先にそれを書こうとしていたのだが、構成が入り組みすぎて、「今の自分には無理だな」と保留していたのだ。そして二作目を書き終えた今、ようやくそれを書く準備が整ったようだった。

 アウトプットの前に一度インプットの期間を設けようと思って、ここ一週間、これまでずっと避けてきた「最近の本」を読んでいるのだが、あまりにもするっと入ってくることに、何よりも驚いている。海外文学の読みづらい文章と覚えにくい人物名に慣れているせいもあるのだろうが、それに加え、僕の中にも少なからずある「現代人的感覚」がどの本にも必ず見受けられるために、あまりにも”わかってしまう”のだ。だからするっと入ってくる。そして僕は、自分の中にも存在するそういう感覚が、あまり好きではない。

 僕が「最近の本」の中に見出した、「現代人的感覚」の正体。たぶんその一つは、フィクションに慣れすぎて、というか現実よりフィクションの方によっぽど精通してしまっているがために、あまりにも物語が物語的であり過ぎるということだろう。「どうせ嘘なんだから」というしらけもそこにはある。というか率直に言って、僕には彼らの書いている人間が「人間っぽい何か」にしか見えないのだ。あまりに役者めいているというか。諫山創の言葉を借りれば、「物語の奴隷」的であるというか。そしてそういう傾向からは、僕も逃れられてはいないのだろう。気をつけなきゃなあと思う。

 

10/16 全ての要素がパズルの材料でしかないという虚しさ

 僕自身かつてミステリー小説を楽しく読んでいたし、それを書く人間のことを素直に尊敬しているし、何より僕自身がエンタメ畑の人間で、とても人のためになるようなものは書いていないということは承知しているが、その上で言わせてもらおう、最近ミステリー小説の存在が人々の読書の形を歪めてきているように思えてならない。ミステリーを読むことそのものが悪いというわけではない。「小説的な楽しみ」というものの基盤にミステリーを据える人が増えてきている、ということが問題なのだ。おすすめの本はないかと問われて、ジャンルの指定もされていないのに、ミステリーばかり挙げてしまう、本=ミステリーの人なんかがまさにそうなのだが。

 読書は最後まで楽しみ方が分かりにくい趣味のひとつだ。何百冊という本を読んできた人でも、実は本の楽しみ方というものが未だにわからず、ただ「その本を読んだ」と言いたいがために読んでいるに過ぎない、ということも多々ある。無理もない。僕を含めてという意味で言うのだが、九割九分の人は小説(文学)の読み方を間違っている。でたらめな国語教育のせいで、僕たちは、小説とは「作者に言いたいこと(それは大抵教訓的なこととされている)があって、それを表現するための筋がある」と思い込まされている。糞どうでもいい葛藤や教訓がそこにあると絶えず信じさせられてきた。僕たちは”文章そのもの”を味わうようには教えられていない。「なぜそれは、そのように書かれなければならなかったのか」については考える機会を与えられていない。より極端を目指す文学を、より普遍的に解釈することばかり教えられてきた。受験現代文と文学が読者に求めていることは、ほとんど正反対の位置にあるといっていいかもしれない。

 そんな人々が文学に触れて面白いと思うわけがない。それでも読書というものには漠然とした憧れを抱いている。そういうとき、彼らはミステリーに走ってしまう。その世界は一見複雑だが、ルールは至極単純だ。「公正なやり方で、読者を驚かせること」。ミステリーにおいては、最終的に、すべての文章の目的が明らかになる。「あの文章は、このためにあったのか」がすべてはっきりとわかる。「曖昧さに対する耐性」がない人々にとっては、これほど嬉しいことはない。自分が触れている価値を容易に言語化できる分、「自分は今価値あるものに触れている」という安心感を容易に獲得できるからだ。

 そして一番の問題点は、そうした楽しみには映画や漫画などでは中々触れられないため、「これこそが読書の醍醐味なんだ」と思い込んでしまうことだ。すかさず、「これこそが本の読み方なのだ」という罪作りな勘違いがそこに生じる。緻密な構成、張り巡らされた伏線、意表を突く結末こそが本の価値基準なのだと彼らは思いこむ。優れた文章とは、そうした整った筋を邪魔しないというのが前提条件であると考える。また読者がすんなりと共感できるものこそが良い感情描写なのだと決めつける。すんなりと入ってきて、「読書」の楽しみを妨げないものこそが素晴らしいという本末転倒な価値観が育つ。

 人間のためのミステリから、ミステリのための人間になってしまっているという本末転倒、全ての要素がパズルの材料でしかないという虚しさには目を向けない。彼らは新しいものを読みたがっているが、根本的なところでは、「同じ楽しみの再現」を望んでいるという意味で、同じものばかり読みたがっている。そのため、何かが「引っかかる」、意味が「曖昧である」、思考が「わからない」といった、再現の妨げとなるものを極度に嫌う。でもそれこそが、本来、「読書」であったはずなのだ。新しい何かを知ること。すんなりとは入ってこず、何とか咀嚼して飲みこめるようなそれにこそ、知的な「栄養」がある。似非読書家の彼らが求める「読書」は、流動食に過ぎない。しかしもう一度言うが、決してミステリーを読むこと、好きでいることは別に間違いではない。読書の根底にそれを据えることがまずいのだ。一ジャンルとして楽しんでいるのであれば、まったく問題ない。

 

10/15 ライターズ・ハイ

 これだけはずっとわからないし今後もわからないんだろうが、果たしてレッドブルがすごいんだろうか、それともレッドブルを必要とするような状況において発揮される集中力がすごいんだろうか、よくわからない。睡眠時間は三分の二程度になるし、執筆効率は二十倍くらいになる。ただ、普段はこういう集中は長くは続かなくて、大体三日くらいで跡形もなく消えてしまった後、どうしようもない虚脱感を残していくものだが、今回はそれが十日以上続いている。

 ひょっとすると僕は、生まれて初めてのライターズ・ハイを経験しているのかもしれない。とはいえ締め切りはすぐ傍だ。あれこれ検証している暇はない。魔法が持続しているうちにすべてを仕上げなければならない。

 

10/4 世界が優しくなるとは限らない

 あんまり適当なことを書くわけにもいかないので、ここ最近はずっと、死ぬ前に人が何を考えどう行動するのか、考えたり調べたりしている。「あなたは死ぬ前に何がしたいですか?」という問いへの答えはものすごい数見てきたのだけれど、どうも納得いくものは少ない。強烈な違和感を、僕は覚えている。

 健康な人はどうも、「死ぬ前にしたいこと」と「生きているうちにしたいこと」をあんまり区別しない。だがこの二つ、似ているようで、全然違うのだ。死者の視点と生者の視点。大抵の人は後者の立場で考えるから、「すっきり死ぬため」にやっておきたいことを挙げることが多い。身辺整理とか、知人に感謝を告げるとか、好きな人に好きといっておくとか、おいしいものを食べるとか、欲しかったものを買うとか、見たかったものを見に行くとか、生きたかった場所へ行くとか。

 でもそういうのって、本当に「死ぬ前」にやりたくなるだろうか。部分的には重なるだろうけど、でもやっぱり、それはあくまで生者の視点である気がする。考え抜いた結果、ひとつ確信を持って言えることがある。死ぬ前にはものすごく寂しくなるだろう、ということ。誰かに覚えていてもらいたくなるだろう、ということ。

 他人の墓を作るのは、自分の墓を作ってもらうため、という側面がある。死んだ人を覚えておいてやることによって、死んだ自分が覚えていてもらえるように仕向けているのだ。

 死ぬ前にはさみしくなるだろう。だが、そうやって人恋しくなった余命僅かの彼に、人はどこまで構ってやるだろうか。生きている人間は、これからも生きていかねばならない。これから死ぬ人間に、いつまでもは付きあっていられない。厭世的すぎるかもしれないけれど、とにかく僕は、こういうことをいいたいのだ。「僕たちの死期が迫ったからといって、世界が僕たちに優しくなるとは限らない」。いや、それどころか、生から脱落した部外者として、遠ざけられる可能性さえあるのだ。人々のいう「死ぬ前にしたいこと」がしっくりこないのは、彼らが世界を信頼しすぎている感があるからかもしれない。それと、極端に楽しいことばっかりしようとする人も、それはそれで、死への未練がどんどん強くなってしまう気がするのだが、そういうことは考えているのだろうか。楽しけりゃ楽しいほど泣いちゃう気がするぜ。

 こういうと何かのサービスの宣伝みたいだけど、「安心」と「納得」を手に入れようとするかもしれないな、僕だったら。「少なくとも死を意識しはじめてからの人生は悪くなかったし、死ぬこともそんなに悪くない」という心理状態をどうにかして作らないと、やっていけなさそうだから。

 

9/29 小悪夢に対する抗体のようなもの

 午前三時に目が覚めたときの得体の知れない憂鬱を抱えて夜風に吹かれながら歩いていると、人がくだらない歌を作ってしまう理由さえよくわかってしまう。なんで早目に寝て深夜に起きるとこんなに気分が悪いんだろう、と僕は考える。寝る前に儀式を行わなかったからだ、という結論に達する。

 うまく説明できないのだが、僕は寝る前にいつも、適切な音楽を聴き、適切な考え事をして、適切な精神状態にして、「覚悟を決めて」眠るようにしている。そうすると大抵は悪くない気分で寝ることができる。逆に言うと、そういう儀式を行わないと、大抵はよくない気分で起きることになる。疲れで自然に眠ってしまったことで、儀式を怠ったから、こういう最悪の目覚めになるのかもしれない。

 あるいは、単に深夜に起きることで、途中で醒めてしまった夢の印象をそのままこっちに持ち込んでしまうことが原因かもしれない。寝覚めが悪かったことからして、悪夢を見ていたことは確かだ。僕の見る夢は、基本的にリアルというか、おもしろみがない。電車に乗り遅れる夢だとか、誰かに嫉妬する羽目になる夢だとか、何かに失敗する夢だとか、そういう”漠然とした不安”に関する夢ばかり見る。もしかすると、僕は例の儀式を行い覚悟を決めることで、そうした小悪夢に対する抗体のようなものを作っているのかもしれない。

 もっと強い抗体を作らなきゃな、と僕は思う。ヴォネガット風にいえば、「そろそろ新しい物語をこさえる必要がある」ということだ。

 

9/25 早く人が死ぬ話を書きたい

 スターティング・オーヴァーの発売日なわけだけど、僕はずーっとこの作品についてある違和感を抱えていて、それで今日改めて手元の本を読み返してみて、ようやくわかったんだ、そして思ったんだ、「早く人が死ぬ話を書きたいな!」って。そう、早く人が死ぬ話を書きたい! 正確に言うと、僕は「死」そのものが書きたいんじゃなくて、死を通してプレーンになる「目」を通して見える景色が書きたいだけなんだけど、なんにせよ早く人が死ぬ話を書きたい。

 

9/21 行間に敬意を払わないひとびと

 僕は誤解というものが死ぬほど嫌いだ。多分、こう書いた時点で、既にたくさんの誤解が生まれ始めていると思う。僕はそのことを悲しく思う。物事があまりに正しく伝わらないことを、言葉というものがあまりにコミュニケーションツールとして未熟であることを、言葉を使いこなすべき僕らがあまりに未熟であることを、悲しく思う。幸いなことに僕自身はそれほど誤解の被害を受けていない。それでも悲しく思う。

 あらゆる意見は必ず反論の余地がある、ということを前提として、ならばそれを否定した上でどれだけ生産的な意見を述べられるかというところから始めるべきなのに、反論のみにとどまっている人間が多すぎる。行間に敬意を払わない方法なら、反論は必ず可能なのだ。言ってもいないことがいったことにされ、言ったことが言っていないことにされる。言葉というものの構造がそれを助長している。もちろん他に頼るべきものはないから、僕らはどうにか言葉でやっていくしかない。しかし、送り手がどんなに慎重に言葉を用いたところで、受け手が言葉に鈍ければ、どうしようもない。誤解は必ず生じる。言葉は「わかるもの・伝わるもの」であるという認識を捨てることに伴う不安は生命の危機さえ人に感じさせるが、でも結局のところは言葉は「わからない・伝わらない」ものなのだ。

 はっきり言って、言葉は未だに一か八かだ。こうなると、もう放っておいてくれと言いたくもなる。定型句以外を口にしたくなくなる。とはいえ、何にも伝わらないよりは、その十倍の誤解を連れて来ることになろうと、何か伝わった方がいいに決まっている。そういうわけで、今日も僕は言葉を使う。言葉を鍛える。言葉に鍛えてもらう。大体、言葉に絶望するには僕はまだ言葉との付き合いが浅すぎる。

 

9/17 物語における「都合のよい女の子」について、僕が本当に思っていること

 言うまでもないことだが、「読者」は日に日に賢くなってきている。作り手としての僕も、作り手として賢くなってきているとは言いがたいが、やはり「読者」としては日に日に賢くなってきている。作り手と読み手の距離は着実に狭まってきていて、読者は作者の「意図」や「背景」を行間から読み取るようになってきている。

 たとえば、こんな女の子が作中に現れたとしよう(それは別に男の子でも良いのだが)。何の魅力のない主人公を愛してくれる女の子。彼女は病弱で、知り合いが少なく、「自分などに優しくしてくれるこの人(主人公)は、なんて優しい人なのだろう」と思い込んでいる。彼以外の誰かが自分を好きになってくれるとは露ほども思っていないのだ――

 ここで「読者」は思うかもしれない、「ああ、この本の『作者』は、そういう、『自分に快を与えてくれる存在、かつ自分を絶対に傷つけない存在』を欲していて、そういう女の子から永遠に唯一無二の依存対象とされたいという心理が、こうした登場人物の存在にあらわれているのだろうな」、と。

 彼(彼女)の言い分はおそらく正しいし、作者も薄々それには勘付いているだろう。ところでそういう「作者の願望に基づいた女の子」のことを、人は一般に「都合のよいヒロイン」と呼ぶ。そして、そうしたものを書く作者を人間的に未熟で弱い人間だとみなす。

 ここで僕の頭に疑問が浮かぶ。では逆に、「どこまでも妥当な理由で主人公を愛し、まったくこちらの思う通りにはならない、独立した自我を持った依存的でない強い女性」であるヒロインがいたとしよう。この人物が健全な欲求からでてきたというのであれば、確かにそれは褒められるべきことかもしれない。だが「書き手」というのは、どこまでも見栄を張る存在だ。そういうったヒロイン像を描くことで、一部の書き手は、こういう欲求を満たしているのかもしれない ――「自分はこういう”正常”なヒロインを描ける、成熟した人間なんだぞ」。

 健全派と演出派の比率がどれくらいを僕が知るすべはないが、一つ言えるのは、そうした「成熟した自分」の欲望を演出したがる人間のやり方と、「未熟な自分」の欲望を包み隠さず表現する人間のやり方、どちらが本当に「都合がいいか」は、一概には決めつけられないということだ。見方によっては、前者の描くヒロイン像もまた、彼の自尊心を満たす上では、「都合のよいヒロイン」と言える。都合のよさが表れるのがより実生活に近い場所である分、そういう生活レベル・人生レベルでの見栄を張るための「都合のよさ」というのは、作中レベルにおける「都合のよさ」よりも、よほど都合がよいと言うこともできるのかもしれない。一方、自分の願望をさらけ出し、それを未熟なものとして批判される覚悟を持ったうえでそういったものを書いている人がいるのだとしたら、それは自ら「都合の悪い」やり方を選択しているということになる。

 僕の言いたいのは、多分こういうことになるんだろう。「都合のよいもの」を描くことが都合の悪さに繋がっていることもあれば、「都合のよくないもの」を描くことが都合のよさにに繋がっていることもあるのだ。

 

9/16 記録のためではなく、書くための記録

 特に僕の場合、書くことがあるから日記を書くというよりは、日記を書きたいから書くことを考える場合の方が多い。そこで僕は書くことを考える。ここ数週間は、起きたら大学へ行って研究を進め、帰ってビールを一缶飲み、煙草を吸って酔いがさめたところで執筆、書けなくなったところで寝るという非常に単純な繰り返しが続いていたものだから、書くことというのは非常に少ない。

 タイピングの話。おそらく僕は普通の人と比べて遙かに長くキーボードに触れているのだが、タイピングがあまり上手くない。早く打つことはできるのだが、どうも指づかいが美しくない。余計な動きが多く、そのせいか指の疲れも激しい。

 そこでこの夏休みを利用して、タイピングを一からやり直すことにした。やり方は簡単、正しいタイピングを心がけ、間違った打ち方をしてしまった場合は、たとえ入力が正確であろうともう一度打ち直すこと。たくさんのことに気付く。やたらと「人差し指→中指」の連携にしたがる傾向、薬指の独立ができていないせいで打鍵のラグが生じること(ピアノみたいな話だ)、縮める筋肉が不器用であるせいで句読点をやたら親指で打っていたこと、「ー」と「^」を間違える回数の多いこと。

 長年続けてきた習慣を変えるのは難しい。それは肉体的にもそうだが、これまで自分がやってきたことを否定するということは、これまでの自分自身をも否定することだ。これまでの自分がやってきたことは間違っていて、無駄だったのだと認めることだ。それには少しばかりの勇気と、たくさんの余裕が必要となる。しかしこういった小革命は、コストパフォーマンスの向上を僕にもたらすとともに、大きな刺激となってくれる。身近なものほど、見慣れたものほど、その変化は際立つ。まるで三原色が四原色になり、味覚が二つ増えたみたいな気分になる。

 

9/12 一見無作為に、その実、非常に戦略的に選択される名前

 発売まで残り二週間弱。現物が届いた。こうして手に取ると、ようやく自分の本が出版されるのだという実感が湧いてくる。逆に言えば、これまで僕はあまりそういう実感を得られないできた。普通の小説家は新人賞に応募するなり持ち込みをするなりしてデビューするといった手順を踏むものだと思うのだが、僕はその過程をすべてすっ飛ばしてしまった。新人賞の発表を待つという気苦労をしなくて済んだのは喜ばしいことだが(想像するだけで胃が痛くなりそうだ)、その代わり賞金が入ったり授賞式に呼ばれたりすることもないので、実感というものを得る機会がほとんどない。本当に僕なんかの本が出るのか? そんなに上手い話があるのか? いまだにそういう要らぬ心配が絶えない。

 今更思ったのだが、よく僕がペンネームでデビューすることが許されたものだ。大抵の出版社、編集者なら、ウェブの名義そのままで出版することを強要してきそうなものである(いや、それ以前に、僕自身がげんふうけいと名乗った覚えは一度もなく、いつも「”げんふうけい”の僕」としか言っていないのだが)。あるいはタイトルを強制的に「げんふうけい」にさせられるか。いずれにせよ、僕はそういうのは嫌だった。ウェブにはウェブに適した”ことば”がある。そこでは名前的な名前は慎重に避けられ、記号的な名前が、一見無作為に、その実、非常に戦略的に選択される。しかし、本人が望まないのに、ウェブの”源氏名” をそのまま現実に持ちだして売ろうとするやり方は、理由はあえて説明しないけど、時としてはとても冷たいやり方と言えるだろう。

 これがいい報告なのか悪い報告なのかは分からないが、手元に届いた本を、湯船につかってじっくり読んだ後、僕が持った感想は、「今の俺ならもっと上手く書けるな」というものだった。もちろん、当時の僕でしか書けなかったようなフレーズもいくつかあるのだろうが、「スターティング・オーヴァー」を書ききったことで、僕も少しは成長したらしい。元々僕は、出発点があまりに未熟なために、いまだ書けば書くほど上手くなる状態にあるのだ。次の作品には今回の2倍期待して欲しい――と言うと一作目を露骨に貶す形になってしまうので、まあ1.2倍くらいを期待して欲しい。そして更に次作品が出せるのなら、それには  1.5倍の期待をして欲しい。とはいえ一作目にも期待はして欲しい。ウェブ版の三倍は面白いはずだから。

 

8/31 懐かしい、あの自己完結的な癒し

 秋が近づくとアコースティックギターの音が恋しくなって、クラプトンの「アンプラグド」に代表されるような音が聴きたくなる。乾いた音が秋らしいというのもあるだろうが、何より、僕が初めてギターを買ったのが秋のことで、それから数か月、ギターのことしか頭にない時期が続いていたということが一番の理由だろう。あの頃はギターのことを考えるだけで幸せだったし、出来ることが一つずつ増えていくのがたまらなく嬉しかった。ああいう、フィービー風に言えば「実際のもの」に根差した喜びというのは本当にいいものだ。

 最近はエレキギターを触る機会の方が多いのだが、もう一度あの時期みたいに生ギターに入れ込んで、「実際のもの」と触れ合う時期が欲しいと今でも思っている。

 当時弾いていて楽しかったのは、たとえばポール・マッカートニーの「Jenny Wren」、先述したエリック・クラプトンの「Lonely Stranger」みたいな曲だ。こういう曲を秋の曇りの日、静かな部屋で一人弾いていると、懐かしい、あの自己完結的な癒しが得られたものだった。

 

8/23 読み甲斐のある脱線

 スターティング・オーヴァーが”きちんとした”小説形式で書かれていることについては既に何度も触れているけど、ちょっと文章を齧っている人なら、「今まであの特殊な形式で物語を書いていた人間が、急に小説形式で書けと言われて書けるものなのか?」という疑問が湧くかもしれない。一般的な話をすれば、そういうことも大いにあり得ることだとは思う。

 ただ、ひとつ誤解しないでいて欲しいのは、そもそも僕は初めっから通常の散文に特化した人間で、それを無理矢理ウェブに馴染む形式に直して公開しているものが、今の「げんふうけい」なのだということだ。ゆえに今回、見やすさを意識したウェブ特有の改行リズムを意識しなくて済んだり、これまで避けていた「徹底した描写」がある程度になったりしたことで、僕はかなりのびのびと文章を書くことが出来た。

 今回、「ドッペルゲンガー」が主人公と対峙して長々と会話するシーンがあるんだけど、こういう持論の主張、演説的な場面を入れることができたのが個人的に嬉しい。それから、主人公が二周目の中高時代を回想するシーン。回想っていうのは基本的にその間話が進まないからウェブでは避けるようにしていたけど、文庫版では容赦なく好きなだけ書くことができた。そういうわけで、大幅に加筆した部分に関しては、いつもより文章が生き生きとしていると思う。校正を終えて気づいたのは、僕自身が楽しんで読めたのは「加筆修正部分ばかり」だったということ。

 やっぱり文章の魅力っていうのは、ただ筋を進めることや期待と不安を煽って翻弄することではなく、「読み甲斐のある脱線」なのだと再認識させられた。スターティング・オーヴァーを書き終えて思ったのは、そんなことだ。

 

8/22 淀みきった牛河のシフトと、仮面としての役割

 ようやく、「1Q84」が350円の時期から105円の時期に移行した。古本屋の話だ。立場や状況がどんなものになろうと、基本的に本にはあまり金を使わないというのが僕の主義だ。決して僕は純粋な物書きではないし、真面目な物書きでもなく、だからこそ外部の想像力をもって執筆にとりくめるのだと考えている。文学も音楽も、生活に彩りを添える一要素に過ぎない。肝心なのはもっと実際的な何かだ。

 350円の値札の上から105円の値札が重ね張りされた1Q84を六冊すべて購入し、一日200ページ程度のペースで読み返す。すると当然だが、初読では見えてこなかったものが見えてくる。しかし僕の心に最もくっきりとこびりついたのは、やはり初読でも僕の中に強い印象を残して行った、「ねじまき鳥クロニクル」においても脇役として登場した「牛河」の存在だ。春樹の小説において、こういった人物――はっきりと相手に不快感を与え、誰からも好意を与えられない人物――は、登場こそするものの、そこからの視点で切実に物事が語られることは、ほとんどなかったか、まったくなかったと記憶している。春樹特有の潔癖な描写から逸脱した人物。その牛河が、1Q84においては主人公の一人として機能している。

 多くの読者が同じことを感じたと僕は踏んでいるが、牛河の登場からしばらくして、僕たちは青豆よりも天吾よりも牛河のターンを望んでいることに気付く。ある物事に対する見方が、語られ方や筋書きによって”ずれ”て、より適切らしいところに収まること――それが小説の醍醐味のひとつだとすれば、牛河の章が面白くならないわけがない。「ねじまき鳥」においては不吉な予言を告げる烏のような役割にとどまっていた彼が、ひょっとすると、これまでの春樹作品の中では、もっとも容易に共感可能な人物に変化するのだ。こういう”シフト”は、単純ながらも非常に有効な手法だと僕は考えている。

 ただ、こういったシフトが面白いのは確かだが、それ以上に興味深いのは、牛河という極端な仮説――仮面と呼ぶこともできるかもしれない――を通して物事を語ることによって、村上春樹という作家の中から、これまでは中々引き出せなかった物がするすると引き出されているということだ。それは、ある偏った人間と二人きりで会話することによって、「こんなことを自分が喋るとは思わなかった」といった内容が口からこぼれ出してくることと少し似ているのかもしれない。「カフカ」のナカタ青年も似たような役割を果たしてはいたが、彼は良くも悪くも中身の少ない、プレーンな存在として描かれていたのに対し、牛河はしっかり”淀みきって”いる。だからこそシフトが面白いし、仮面としても面白いのだ。

 

8/21 決定的な死ではなく、ちょっとの間、死んでいること

 一日のうちで本当にリラックスできるのは深夜だけで、十二時を回った頃、外の空気を吸いに行くのが僕の日課になっている。徒歩一分程度のところに住宅街を見下ろせる丘があって、そこで煙草を一本吸う。ときどき空を見上げて、月や星なんかを眺める。この時期になるとメンソール系の煙草に手を出してしまい、毎年欠かさず後悔している。いいかげん懲りるべきなのだ。

 夜が好きで、眠るのが好きだ。僕の書く話には、主要人物が寝ている場面がいくつも登場する。眠るのが好きな人間は半分くらいは死ぬのが好きだというのが僕の持論だ。たぶん間違っているんだろうが、間違っているから意味がないということにはならない。だから僕は持論を曲げない。

 僕らは毎晩疑似的に死んでいる。しかし、もちろん死を好む僕らは決定的な死を望んでいるわけではない。ただ、ちょっとの間、死んでいるのが好きなだけだ、死ぬのが好きな人間は、必ずしも生きているのが嫌だというわけではない。生活が充実していようと、輝かしい栄光を手にしていようと、愛している人間に愛されていようと、それは根本的には関係のない話だ。死をこの上なく悲惨なものとして捉えているか非現実的に綺麗なものとして捉えているかというのも、まった関係のない話だ。僕がここで言っている”死”は、もうちょっと別の意味で用いられている。消滅、などと言った方が適切なのかもしれない。

 

8/20 100%起きる1%について

 チャールズ・ブコウスキー、「詩人と女たち」より、会話部分のみ引用。飲んだくれではあるがそこそこ名の知れた中年作家と、その恋人である若い女の会話。

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「わたしは偉くなる! わたしはほんとうに偉くなる! わたしがどれほど偉くなるか誰にもわからない!
「わかったよ」
「あなたはわかってないわ。わたしは偉くなるの。あなた以上の可能性を秘めているのよ!」
「可能性なんて関係ないよ。ただやればいいんだ。可能性なんていったら、ベビーベッドにいるほとんどの赤ん坊の方がわたしよりも持っている」
「でもわたしは成し遂げるの! わたしはほんとうに偉くなるの!」
「わかったよ。でもそうなるまでまずはベッドに戻ったらどう?」
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 この部分を読んだ後、僕は「可能性」ってものについて考えずにはいられなくて、だから考えてみた。この若い女はまだいい、こういう言い回しをする分にはまだ可愛げがある。まずいのは、成功者を前にして、心の中で「俺にだって可能性はあった」と考えてしまう輩だ。「チャンスさえあれば、俺だって」。しかしチナスキーが言う通り、可能性の話なんてのは無意味なのだ。「ただやればいい」といった先にあるのは、そして結果が全てを語るだろう、ということだ。もしそのとき成功できなかったのなら、ある意味ではそれは、「可能性がなかった」と言えるのだ。成功率99%において1%が起きてしまった、なんてことが誰に言えるだろう? その1%が起きる確率が100%だったかもしれないじゃないか。人間の可能性は見せかけに過ぎない。

 

7/28 ミスター・ノーバディ

 明日からウェブも酒も煙草も運動も外出も一切できなくなるので、今日のうちに全部を楽しんでおく。これから数日は、音楽鑑賞と読書だけが娯楽だ。健康的と言えば健康的なのだが、それはそれで不健康だ。

 せっかくペンネームを決めたのはいいのだが、最初のうちは、いざメールや電話で「三秋です」と言うとき、どうも妙な感じと言うか、悪いことをしているような気分になった。出会い系サイトのサクラでもやっているような気分。

 最近は徐々にこの名前にも慣れてきたのだが、今度はまた別の不都合が生じてくる。大学院生になってからというもの人付き合いが激減して、人から名前を呼ばれる機会が激減した。――たとえば僕の本名が山田さんだったとしよう。近頃の僕は、山田さんとして生きている時間より、三秋さんとして生きている時間の方が多いのだ。少なくとも書いている間や書くことについて考えている間、僕は三秋縋なのだから。おかげでたまに本名を呼ばれると、逆にペンネームを呼ばれているような気分になるという奇妙な現象が起きている。そのうち、ミスター・ノーバディになってしまうよ。

 

7/27 みあきすがるの理由

 人に会って話したいこともなければ、ツイッターでつぶやきたいこともない。僕はここ数週間の集中的な執筆によってすっかり言いたいことを言いつくしてしまったようだ。アウトプットによって空っぽになった僕は、実に久しぶりにインプットを開始した。映画を毎日一本見て、本を何冊か並行して読む。街を当てもなく歩いて、目に入ったものについてあれこれ考えてみる。片付いた頭の部屋は想像以上にスペースを持て余していて、今ならいくらでも詰め込めそうに思えた。

 そうそう、ペンネームがようやく決まった。三秋縋。「みあきすがる」だ。再三にわたって言っているように、僕は名前というやつにほとんど関心がなくて、実を言うと九月末に発売される「スターティング・オーヴァー」に出てくる登場人物の名前も既に何人か忘れてしまっている。どうして三秋縋なんて名前にしたのかも記憶が定かでないのだが、たぶんイニシャルをMにしたかったんだと思う。村上とか舞城とかの傍に置いてもらえるから、とかそんな単純な理由。

 

7/15 ライ麦畑から連れ出して

 クソみてえな音楽ばかり流すブック・オフに入店するたび非常にファック・オフな気持ちにさせられることが分かっていても、僕の読書環境を支えるのはこれまたクソみてえな本しか扱わない大学図書館(ポール・オースターもカート・ヴォネガットさえもない)、それと風が吹けば音を立てて崩れそうな市立図書館くらいしかないから、結局そこに足繁く通うことになる。

 あまりに頻繁に訪れる物だから、段々と僕は店員並かそれ以上に書棚の中身に詳しくなり、いつどんな本が入ってきて、出ていったのか、かなり正確に分かるようになってしまう。更にそれを重ねているうちに、もはや一斉に入ってきた本の中で、この本とこの本とこの本は同一人物が売ったものだ、といったことが分かるようになってくる。今日は趣味の良い客が本を売っていったらしく、そこら辺の本屋じゃ置いていないような本まで、安値で手に入れることができた。一番嬉しかったのは、バロウズが百円で何冊も手に入ったことだ。この辺りの古本屋じゃ、中々そういうことは起きない。

 日記を書くのは約一か月ぶりで、その間に文体の変化が起きたのだろうかと読者は想像するかもしれないが、なんてことはない、次の小説の文体を模索中というだけだ。二か月近くホールデン口調ばかり取り扱っていたせいで、すっかりこういう文体が愛おしくなってしまった。それにしても、つくづく日記ってやつは重要だと思う。自分が世界をどういう風に見て、それをどういう風に表現するか、その練習として最も手っ取り早いのが日記だ。よく、お題を見てそれについて短編小説を書く、というトレーニングから始める人がいるが、日記を書けと僕は言いたい。日記は洞察力と表現力を鍛えてくれる。世界を見て日記を書くべきだ。

 そう言うお前はどうして日記を一か月もサボっていたのか、と聞かれると耳が痛い。僕は確かに忙しかった。「スターティング・オーヴァー」の改稿と院の研究に追われ、日記を書く時間が取れなかった、と言い訳すれば、多くの人は納得してくれるだろう。だが僕は知っているのだ、そういう時期こそ、本来日記を書くべきなのだということを。この一か月弱の経験で、僕はつくづくそれを思い知った。執筆のみに集中している自分の書いたものなんて見たくもない。気を抜くと自分が今何を書いていたのか忘れるくらいでいいのだ。
  

 

6/19 兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ

 まあ聞いてくれ。「ライ麦畑につかまえて」では、主人公ホールデンとその幼い妹フィービーの間で、こんな会話が交わされるんだ。

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「いや、フィービーよ。僕にはうまく説明できないな。僕はただ、ペンシーであったことが何もかもいやだったんだ。わけはどうしても説明できないな」
「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」
「違う。違うよ。絶対にそんなことはない。だからそんなことは言わないでくれ。なんだって君はそんなことを言うんだ?」
「だってそうなんだもの。兄さんはどんな学校だっていやなんだ。いやなものだらけなんだ。そうなのよ」

(中略)

「一つでも言ってごらんなさい」
「一つでも? 僕の好きなものをかい?」

(中略)

「兄さんは一つだって思いつけないじゃない」
「いや、思いつける。思いつけるよ」
「そう、じゃあ言ってごらんなさい」
「僕はアリーが好きだ」「それから、今してるようなことをするのも好きだ。こんなふうに君といっしょに坐って、話をしたり、何かを考えたり――」
「アリーは死んだのよ――兄さんはいつだってそんなことばかり言うんだもの! 誰かが死んだりなんかして、天国へ行けば、それはもう、実際には――」
「アリーが死んだことは僕だって知ってるよ! 知らないとでも思ってるのかい、君は。死んだからって、好きであってもいいじゃないか、そうだろう? 死んだからというだけで、好きであるのをやめやしないやね――ことにそれが、知ってる人で、生きてる人の千倍ほどもいい人だったら、なおさらそうだよ」「それはともかく、僕は今みたいなのが好きだ」「つまり、この今のことだよ。ここにこうして君と坐って、おしゃべりしたり、ふざけたり――」
「そんなの、実際のものじゃないじゃない!」
「いや、実際のものだとも! 実際のものにきまってる! どうしてそうじゃないことがあるもんか! みんなは実際のものをものだと思わないんだ。クソタレ野郎どもが」
「悪い言葉はよしてよ。じゃいいから、何か他のものを言って。兄さんのなりたいものを言って。たとえば科学者とか。あるいは弁護士とかなんとか」

(中略)

「僕が何になりたいか言ってやろうかな? なんでも好きなものになれる権利を神様の野郎がくれたとしてだよ」
「なんになりたいの? ばち当たりな言葉はよしてよ」

(中略)

「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっと飛び出していって、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」
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 これを読んだ人の大半は、終盤の「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」を見て、「ははあ、タイトルに繋がるこの部分はさぞかし重要な台詞に違いない」と思うんだけど、一連の会話において重要なのは、「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」「そんなの、実際のものじゃないじゃない!」という妹の問いかけだと、僕は思うんだよな。それについて説明しようとすると、どうしても陳腐な物言いになってしまうから、あえてそれは避けるけど。

 ホールデンの本質は反抗心や純粋性なんだという解釈が多いけど、そんな言葉で片付けちゃっていいものなのか、僕は未だに疑問に思っている。

 

5/20 王様は裸じゃなかったのに

 村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は運良く発売から数日後に知人から借りて読むことができた。「ああ、今はスプートニク的で国境の南的でアフターダーク的な時期なんだな」、というのが第一の感想。そしてそういうものを今の春樹が書くことは、もちろん悪い事じゃないに決まってるのだが、タイミングとしては最悪だ。何せ今回の春樹は、少なくとも表面上は「わかりやすい」ものを書いてしまった。もちろんこれまでのような突飛な話、「死のバトンタッチ」やら「想像の責任と性交」みたいな話は出てくるのだが、全て、一見解釈可能な形に収めてしまった。

 さて、このことによって元気になるのが、「1Q84」を読んでもやもやしていた層だ。彼らとしては、「自分は彼の作品を理解できなかった」と考えるより、「彼の作品は理解するに値しないものだった」と考えられた方が都合が良い。自分の無知・無理解を受け入れなくて済むからだ―― まあ、そういう社会心理学的な話はおいとこう。率直に言って僕は不快だった。表層的な部分だけを読んで「自分には合わない(理解できないのではなく趣味に合わない)」と決めてかかり、自説を補強するような箇所ばかり本文から抽出して、「ほら、これはこんなにくだらない」という連中のことが。彼らは一人きりなら自信がなくてそんな大それたことは言えないのだが、「周りの皆」も同じように「村上春樹」を叩いているから、安心して攻撃する側に立てるのだ。「お洒落を気取りたい人間が読む鼻もちならないサブカル小説」ということにしておかないと、それが理解できない自分が低い存在となってしまうから、皆必死なのだ。

 不思議でならないのは、エルサレム賞とカフカ賞を受賞した人物が、そんな「糞みたいな小説」を書いたと断言できる人々の自信がどこから湧いてくるのか、ということだ。エルサレム賞とカフカ賞がたいした賞じゃないと断言できるということだろうか? 僕は決して権威主義の人間というわけではないのだが、ただ単純にそう思うのだ。ピカソの絵が下手だと自信満々に言う連中がいるが、それと似たようなものなのだろう。とにかく彼らは表面的な、言語化が容易な物事に縛られ過ぎている。結論を焦り過ぎている。まず、どうして自分がその本を「読めた」と思っているのだろう? 多分あの本を買った人間の七割は、物語の筋だけ追って、首を傾げたまま斜め読みで読了しているのだろう。そしてもやもやが残って、ウェブで感想を見に行って、批判意見が並んでいるのを見て安心した後、自分もそれに加わって、「村上春樹を叩ける自分」に酔いしれながら下品で無意味な批評を垂れ流すのだ。時には人格批判まで加えながら。

 たとえば、裸の王様。あれがもし、本当に馬鹿には見えない服で、頭の良い人間には見える服だったとしよう。そして王様にはそれが見えていたとする。ところが民衆は馬鹿だから服が見えない。そこで一人が言いだす。「王様、裸じゃないか?」。すると周りも「よかった、自分だけじゃなかったんだ」と安心して、「そうだよな、裸だよな」と口々に言いだす。そして全員で言うのだ、「王様は裸だ」と。だがそんなことはないのだ。事実、王様の服が見えている人間も少数ではあるがいるし、王様もその服の存在をはっきりと感じている。だが民衆は、王が裸だということにしておかないと、自分たちが低能であることを認めざるを得なくなる。だから大声で何度も言うのだ。王様は裸だ、王様は裸だ、と。今起こっているのはそういう話。

 

5/8 「三日間の幸福」について

 ゴールデンウィーク後半はずっと雨だった。だからこういうものを書く気になったのかもしれない。晴れてたら桜を見に行っていたと思う。東北の桜は五月に咲く。馬鹿にしている。

 ツイッターでも言った通り、この話の骨格は友人との会話から生まれた。「寿命売りたいな」なんて話をしながら昼間からお酒を飲んでいたのだが、「でも実際、いくらくらいで売れるんだろう?」と思ったとき、この話が始まったのだ。折よく翌日からゴールデンウィークだった。前半を構想に費やし、後半を執筆に費やした。「三日間の幸福」は、執筆時間も三日間だったのだ。おもしろい偶然。その分、文章に粗は目立つ。表現も浅い。だが今発表しないと次がいつになるか分からなかった。

 ウェブで公開し終えて数時間後、夜道を散歩しながら音楽を聴いていたら、イヤホンから「空も飛べるはず」が流れてきた。「色褪せながら、ひび割れながら、輝くすべを求めて 君と出会った奇跡がこの胸に溢れてるきっと今は空も飛べるはず」という歌詞は、この作品に当てはまるところがあるなと思ったが、実を言えば、執筆中は「進撃の巨人」のOPテーマが頭の中で鳴りやまなかった。終盤のシーンでさえそれだったからどうしようもない。皆も僕と同じ状況で物語を読みたかったら、進撃の巨人のOPを流しながら読むといい。ぶち壊しになること間違いなしだ。
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