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2014.11.12
日本の格差社会は「差が見える」から問題になる:サイゼリヤで食べることで”気遣う”富裕層
友人から、最近の親仲間はサイゼリヤで飲み会をすると聞いた。なんでサイゼなんかに、と思ったら背景は貧富の差にあるらしい。金持ちも貧乏な家もクラスの親御さんには混ざっており、波風立てないためにはたらふく食べても2000円くらいで済むサイゼリヤがいいのだ、という。つまり、富裕層側の”気遣い”である。
格差社会という言葉はもう新しくない。また、日本特有のものでもない。アメリカでトップ0.1%の富裕層がそれ以下の富の総量を超えたようだ。1929年、世界大恐慌の時代以来のことらしい。下の図はハフィントンポストが作成した格差を示すグラフ。
1975年から2007年までに、収入がどのように分配されてきたかを国別で示している。トップ1%が握る富が全体に占める率が茶色になっている。これを見ると、アメリカ、カナダは特に格差がひどい。

格差社会自体はどの国にも溢れているし、格差が”ある”こと自体は問題ではない。格差を乗り越え、上昇するチャンスが受験や福祉で平等に与えられていれば、むしろ格差は「がんばった分だけ報われる」社会の表れでもある。とはいえ、富裕層への移動が頻繁に起きるわけではない。中央大の山田昌弘教授は日本の問題は「格差の固定化」にあると述べた。がんばった子ではなく、お金持ちの子がお金持ちになる傾向が強まっているというのだ。
しかし、それでも国民の満足度に大きな影響があるとは思わない。金持ちが連日パーティをする中で労働者が餓死するほどの格差があれば別だが、貧しくてもそれなりに生きていけて、コミュニティで受け入れられる場所があれば満足ではないだろうか。その考え方は”マイルドヤンキー”のような、脱成長志向の若者に反映されている。-お金持ちにはなれなくても、地元で仲間と行くいつもの場所が幸せ-という価値観は、少なからず共感を誘う。
しかし、日本では格差が問題視される。
なぜならば「貧しい家と、富裕層の家が頻繁に接触する」からだ。
たとえばイギリスでは貧しい家の子と、富裕層の子が一緒に授業を受けることはない。イギリスは階級社会なので、富裕層の子弟は全寮制の私立に小学校から通い、そのまま大学進学を目指す。
いっぽう、労働者階級の子弟は公立高校で義務教育を終えるとすぐに労働者になる。階級によって利用するスーパーマーケットすら異なるので、接点はほとんどない。仮に労働者階級からベッカムのようにサッカー選手が輩出されても、彼の階級が上昇するわけではない。英語のアクセントすら異なる階級社会では、幼少期の教育からやりなおさない限り階級を変更できない。
別にイギリスの階級社会が優れているというつもりはないが、少なくとも私が知る範囲で固定した格差=階級があることを問題視する声は聞いたことがない。かく言う私も中産階級の学校に通ったので、労働者階級の声すら知らないのだが。
しかし、日本は違う。日本ではごく一部の子供を除き、初等教育を公立の学校で受ける。地域差によって貧富が多少分類されていても、必ずそこには貧乏な子、裕福な子が混ざる。私は”東京だったら普通、地方では金持ち”くらいのそこそこ家庭で育ったので、小学校で貧乏で家にシャワーが無い子を見るのは衝撃だった。彼らも彼らで、夏休みに今年はどの国へ行こう?なんてノンキな話をする私のことが許せなかっただろう。
いったん交じり合った交友関係は続くこともある。facebookには小中学校の友人が複数いるが、同級生Aはフルート奏者になってミュンヘンに留学しており、同級生Bは18歳で結婚してトラック運転手の夫と一緒に3人の子供を育てている。音楽留学は年間600万以上かかるとも言われ、私の家庭ではほぼ不可能。このような歴然とした差が「同級生」というあたかも同じくくりで扱われることに違和感を禁じえない。
そして、そういった場合に遠慮するのは「富裕層」だ。ご飯を食べるとき外ならサイゼリヤかさくら水産で、それでも相手のペース以上にお酒を飲んではいけない、海外の話はしない、暮らしぶりが判るような話ではなく「男女間の友情ってあると思う?」みたいな、誰とでも話せる話題を選ぶ。それでもちらっと現状がもれることがある。そのとき、富裕層は「しまった」と思い、貧困層は「なぜ”同じ”なのにこんな差が」と思う。
格差が問題に見えるのは、目に見える場所に差があるからだ。派遣社員の前に正社員が座っていて「同じ」仕事をしている。「同級生」で貧富が明らかに違う。平等だといわれているのに実情が異なるとき、怒りが生まれるのは当然のことである。
そういう意味で、私は階層別に学校を分けたり職場を分けたほうがいっそお互いにやさしくなれるのではないかと、一番最初のサイゼリヤの件を聞いて思っている。無論、教育という格差移動のチャンスをむしろ今より手厚く用意しながら。
格差社会という言葉はもう新しくない。また、日本特有のものでもない。アメリカでトップ0.1%の富裕層がそれ以下の富の総量を超えたようだ。1929年、世界大恐慌の時代以来のことらしい。下の図はハフィントンポストが作成した格差を示すグラフ。
1975年から2007年までに、収入がどのように分配されてきたかを国別で示している。トップ1%が握る富が全体に占める率が茶色になっている。これを見ると、アメリカ、カナダは特に格差がひどい。
格差社会自体はどの国にも溢れているし、格差が”ある”こと自体は問題ではない。格差を乗り越え、上昇するチャンスが受験や福祉で平等に与えられていれば、むしろ格差は「がんばった分だけ報われる」社会の表れでもある。とはいえ、富裕層への移動が頻繁に起きるわけではない。中央大の山田昌弘教授は日本の問題は「格差の固定化」にあると述べた。がんばった子ではなく、お金持ちの子がお金持ちになる傾向が強まっているというのだ。
しかし、それでも国民の満足度に大きな影響があるとは思わない。金持ちが連日パーティをする中で労働者が餓死するほどの格差があれば別だが、貧しくてもそれなりに生きていけて、コミュニティで受け入れられる場所があれば満足ではないだろうか。その考え方は”マイルドヤンキー”のような、脱成長志向の若者に反映されている。-お金持ちにはなれなくても、地元で仲間と行くいつもの場所が幸せ-という価値観は、少なからず共感を誘う。
しかし、日本では格差が問題視される。
なぜならば「貧しい家と、富裕層の家が頻繁に接触する」からだ。
たとえばイギリスでは貧しい家の子と、富裕層の子が一緒に授業を受けることはない。イギリスは階級社会なので、富裕層の子弟は全寮制の私立に小学校から通い、そのまま大学進学を目指す。
いっぽう、労働者階級の子弟は公立高校で義務教育を終えるとすぐに労働者になる。階級によって利用するスーパーマーケットすら異なるので、接点はほとんどない。仮に労働者階級からベッカムのようにサッカー選手が輩出されても、彼の階級が上昇するわけではない。英語のアクセントすら異なる階級社会では、幼少期の教育からやりなおさない限り階級を変更できない。
別にイギリスの階級社会が優れているというつもりはないが、少なくとも私が知る範囲で固定した格差=階級があることを問題視する声は聞いたことがない。かく言う私も中産階級の学校に通ったので、労働者階級の声すら知らないのだが。
しかし、日本は違う。日本ではごく一部の子供を除き、初等教育を公立の学校で受ける。地域差によって貧富が多少分類されていても、必ずそこには貧乏な子、裕福な子が混ざる。私は”東京だったら普通、地方では金持ち”くらいのそこそこ家庭で育ったので、小学校で貧乏で家にシャワーが無い子を見るのは衝撃だった。彼らも彼らで、夏休みに今年はどの国へ行こう?なんてノンキな話をする私のことが許せなかっただろう。
いったん交じり合った交友関係は続くこともある。facebookには小中学校の友人が複数いるが、同級生Aはフルート奏者になってミュンヘンに留学しており、同級生Bは18歳で結婚してトラック運転手の夫と一緒に3人の子供を育てている。音楽留学は年間600万以上かかるとも言われ、私の家庭ではほぼ不可能。このような歴然とした差が「同級生」というあたかも同じくくりで扱われることに違和感を禁じえない。
そして、そういった場合に遠慮するのは「富裕層」だ。ご飯を食べるとき外ならサイゼリヤかさくら水産で、それでも相手のペース以上にお酒を飲んではいけない、海外の話はしない、暮らしぶりが判るような話ではなく「男女間の友情ってあると思う?」みたいな、誰とでも話せる話題を選ぶ。それでもちらっと現状がもれることがある。そのとき、富裕層は「しまった」と思い、貧困層は「なぜ”同じ”なのにこんな差が」と思う。
格差が問題に見えるのは、目に見える場所に差があるからだ。派遣社員の前に正社員が座っていて「同じ」仕事をしている。「同級生」で貧富が明らかに違う。平等だといわれているのに実情が異なるとき、怒りが生まれるのは当然のことである。
そういう意味で、私は階層別に学校を分けたり職場を分けたほうがいっそお互いにやさしくなれるのではないかと、一番最初のサイゼリヤの件を聞いて思っている。無論、教育という格差移動のチャンスをむしろ今より手厚く用意しながら。
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