うちからチャリで10分の新宿バルト9でみてきた。
ファルシのルシがコクーンでパージみたいな話かと思ったら、アーサーCクラークの都市と星だった。
アニメ的な文脈として
ハッキング・電脳世界のシーンは攻殻機動隊/サマーウォーズ由来の伝統的なビジュアライズなんだけど、ハードコアテクノなBGMがスピード感ある映像と同期しててそこは非常に良い。
虚淵が規定する戦闘描写は、アニメや漫画のお約束である「強いAに対抗するには同じA」みたいな図式をとにかく否定したいのだと感じる。Fate/Zeroの切嗣もしかり、アルドノアゼロも、ガルガルンティアみんなそうだ。
アンジェラのキャラクターとしての造形は声優の釘宮に負っている部分が大きくて、世界観を説明するために典型的なディーヴァ市民を演じてみた後、肉体の檻を経験した後はただの釘宮としてしか扱ってない感じだった。
そういう意味では非常にハイコンテクスト。とはいえ、あれの客層を考えると何の問題もないのかもしれないが、裏テーマとしてCGの美少女キャラを釘宮にマッチさせるというのがあったように思える。非常にフェティッシュなカメラアングルが多かった。
SFとして
SFとしてみると色々突っ込みどころはあって列挙してもいいんだけど、たぶんそれは作ってる側もわかってやってて、作劇上の都合で見栄えがする方を選んでいると思う。
たとえば彼らは肉体はあくまで地上に降りるためのハードウェアで副次的なものなので、コクピット経由せずにコンピュータに直結すればいい。とはいえ、作中で実際そういうシーンあったんだけど、中に人がいないのは寂しい。そういう都合。
ディーヴァ市民は、コンピューターのリソースに限界があるから優秀な人格に計算資源を割り当てるべきだ、自分は自らの優秀性を明らかにして電算資源を割り当ててもらうんだ、という価値観を持っているのだけどのだけど
人一人を電算するコストがあの世界でどういう設定があるのかもしれないが、何百年後の電算資源が足りてない、というのは今のハードウェア進化とペースをみている技術者としてはあんまりピンとこない。
無理やり解釈すると、一度文明が崩壊しているってのは読み取れるので、そのへんで歯止めがかかったのかな。とはいえ寂しい世界感だ。
SF的人間論
電算される人間ははたして人間か。人間の感情を理解し会話できる機械は人間として扱ってはいけないのか。自己を人類の末裔と定義したコンピュータにとっては、もはや人間は祖先の一つでしかないのかもしれない。
っていうよくあるSF進化論もあったんだけど、記事冒頭で述べたように自分は「都市と星」読んだばっかりだからそれに引きずられてしまった。イーガンの順列都市でもいいが。
想像主たる人間がいない後も健気に人間の命令を果たそうとするロボットはかわいい、っていうの虚淵作品にかぎらずよくあるんだけど、やっぱりこのテーマはいいと思いつつも未来の「強いAI」はもっと賢いだろ、と思ってしまうのがエンジニアの性な気がする。
ジャンゴはナンパ野郎じゃなくてクッソかっこよかったです。