拝啓、天国のお母さま。
碇シンジです。
前々から一度お伺いしたかったのですが、貴方はどうしてあのクソ親父と結婚しくさりやがったのでしょうか。
貴方の夫にして我が敬愛すべき父上・碇ゲンドウ氏は、息子を十年にわたり放置するという偉業を成し遂げた挙句、得体の知れない巨大ロボットのパイロットに仕立てて尚且つぶっつけ本番実戦に放り出すという壮挙に打って出てくれやがりました。
僕が夜な夜な敬愛する父上のご尊顔を思い出しつつ藁人形に五寸釘を打ち付けたところで、一体誰が責められましょう?
いや、しませんでしたけどさ。呪いなんて効果あるわけないし。
どうせやるならミサトさんの拳銃くすねた上で面会申し込んだ方がまだしも成功率が……
……ああ、いえ。
そのような瑣末なことはともかくとして。
本日は、貴方の墓前にご報告申し上げたき儀がございまして、かように筆を取った次第であります。
古代の賢者は云いました。
恋とはつまるところ落とし穴のようなものだと。
それはまったく避けようがないもので、はまったが最後抜けられるものでもなく、しかもそれが幸福か不幸のどちらをもたらすかは、蓋を開けて見なければわからないものなのだと。
……実にいい得て妙と申しましょうか、今の僕にといたしましては全面的に賛同の意を表したいところであります。
ええ、はい。
回りくどい部分を廃して単刀直入にご報告申し上げるならば――
恋人が、できてしまいました。
むーん ふぇーず
絶章 少年の祈り
七瀬由秋
時は西暦2015年――
後に使徒戦争と呼ばれた灼熱の時代、その終盤。
アダムより数えて十五番目の使徒までが殲滅され、人々が戦乱の中にも馴れと安息を見出せるようになった時期。
彼、碇シンジは、人生で三度目の転機を迎えていた。
ちなみに、最初の転機は母が死んで親戚に預けられたときで、二度目は父に呼び出されてパイロットにされたときのことだ。
この二つの転機は、彼自身にとってはまったく完全に不幸でしかなく、これによって致命的に人格が歪んでしまったことを本人も薄々自覚してはいる。
しかし三度目の、今このときに迎えている転機は果たしてどう判断すべきか、彼としても悩まざるを得なかった。
クラスの男どもは口を揃えて幸福に決まっているだろうと決めつける。
クラスの女たちは無秩序にきゃーきゃーと騒いでいる。
保護者兼上司は言葉を惜しんでただにやにやと笑い、同僚に至っては顔を真っ赤にして怒り狂うのみ。
――いや、まったく。
彼本人にしても不幸だなどとは思わないのだが、といって幸福と言い切るには良識とか理性とかいうものが納得しない。
とりあえず、彼がいいたいことは一つだけだ。他の何よりも一つだけだ。
機会があるならば夕陽に向かって叫んでもいいし、全人類の前で宣誓するように唱えてもいい。
そう、バカップルなんてなりたくねぇ――と。
学校に通うことに、今更意味があるのだろうか。
彼は何度かそう自問したことがある。
熾烈さを増す使徒との戦い。どうしようもなく絡まり合った人間関係。そもそも明日があるのかどうかすら判然としない身の上。
模範的な回答をするならば、であるからこそ学校に通うのだ、そういうことになるだろう。
少々クサいが実に説得力がある。納得できる。素晴らしい。
しかし、その学校ですら針のムシロと同義語になりつつある場合はどうあるべきか。
首でもくくるか。自由を求めて逃亡するか。引き篭もりを決め込むか。
ちなみに一番目は考えるまでもなく却下。さすがにそこまで人生捨てる気にはなれない。
二番目は現実が許してくれそうにない。特に敬愛する父と、その部下の方々が。
ならば三番目はどうかという話だが、それだけは絶対にできない相談だ。
彼女は小躍りして(いや、彼女はそういう感情表現はしないが)喜ぶだろうが、それは人倫の許さぬ道だ。今更人倫も何もあるかいという内心のツッコミはともかくとして、ともかく最期の一線を越えてしまいそうな気がする。否、気がするのではなく確実に越えてしまう。
消去法で決定を行うというのは何とも後ろ向きな話だが、考えて見ると今まで自分の人生で前向きになれたことは数えるほどしかないし、あってもすべからくろくでもない結果になってしまっているのだから仕方がない。
というわけで、彼は今日も学校に通う。
周囲の白眼視に耐えながら。
「ねぇ、碇君……?」
そうした彼の悲愴な決意に応じるかの如く――
委員長こと洞木ヒカリの眼は、今日もいい具合に据わっていた。
「私ね、今日という今日は、我慢の限界越えそうなんだけど」
「委員長のいいたいことはよくわかってる」
彼は疲れた表情で応えた。
「だから、何もいわないで欲しい」
「ううん、ごめんなさい。それって、できそうにないわ」
そりゃそうだろう。シンジは内心で同意した。彼がヒカリの立場でも同じことをいう。もっとも、彼は彼女ほど諦めが悪くはないが。
「委員長、落ち着いて省みて欲しい」
彼は悪あがきして見た。
「昨日も、一昨日も、そのまた前も、委員長は同じことを口にした。しかし、現状はどうだろう? ――変化なしだ! それはもう、日が沈むのと似たレベルの事象として受容するのが、理性を持ち合わせた人間の勤めだと思う」
「うん、そうかも知れないわね」
ヒカリは思ったより素直にうなずいて見せた。
「でも、貴方たちは人間で、意思があり、自我がある。自然現象と同じには考えられないわ」
これまたもっともな意見だ。彼は再び、内心でだけ同意した。
「ねえ? 私、そんなに難しいことをいってるかな? 人間の限界を越えるような無茶をいってるかな?」
「どうだろう。ただ、これだけは理解して欲しいのだけど、僕とて手は尽くしたし、努力もした。それこそ僕という人間の限界まで。しかし、結果はこの通りだ」
「だから碇君は諦めたというの?」
「考え得るありとあらゆる手段を尽くして、それでなお到来する現実を受容するのを諦めと定義するなら、その通りだ」
「ごめんなさい。私、どうしてもそこまで割り切ることができないの」
「諦めの悪さは一つの美質でもある。それは認める。しかし同様に、潔く口を噤むという美質もこの際は期待したい……ぐえっ」
末尾の呻き声は、別にふざけたわけでも持病があるわけでもなく、単に喉が絞められたからという物理的・解剖学的必然のもたらした結果である。
どうやら、ヒカリとばかり話しているのが気に触ったらしい。
「碇君――そして、綾波さん」
それこそ限界を迎えた様子で、ヒカリが大きく息を吸い込んだ。周囲のクラスメイトたちが一斉に耳を塞ぐ。
「いい加減、教室でベタベタするのはやめなさいっっ!! 不潔よーーーーーーっっっ!!!!」
そもそもの発端は、まぁ思春期の暴走とでも評する他はないと碇シンジは自己診断を下している。
第十五使徒との戦いで完全な挫折を味わい、家出までしてしまった惣流・アスカ・ラングレー。
加持の失踪――横死?――により、自暴自棄となってしまった葛城ミサト。
崩壊してしまった家庭環境。消滅してしまった家族関係。
生まれてこれまでの様々な経験により、よくいえばスレている、悪くいえばヒネていた碇シンジの精神も、さすがにダメージが積み重なっていたのだろう。
彼は半ば逃走するように家を出て、ぼんやりと街をふらついて――
たまたま出会った綾波レイの、ならば我が家に来ればいいという言葉にうっかり応じて――
しばらく一緒に暮らしているうちに、年頃の少年らしい欲望というもの(彼のようなヒネた上に枯れているような人間ですら、そういったものは存在する)を御しかね――
まあ、大多数の大人が眉をひそめるであろう関係になってしまったのである。
一応の自己弁護を試みるならば、最初からそういうつもりがあったわけではない。誓ってもいいが、軒先を借りる以上の意図はなかった。居候として慎み深く振る舞い、家主に感謝と礼儀を払っていた。
それがこのような関係を結んでしまったのには、彼女の方にも若干の責任があるのではなかろうかと彼は思う。いや、責任転嫁ではなく。
誰だって、同い年の少女(それもとびきりの美少女)が、風呂上がりに素っ裸で目の前をうろついたり、当たり前のように目の前で着替えを始めたり――さらには床で寝ると主張したのを強硬に引き止めて、一緒のベッドで寝ればいいなどと断言してきた挙句、ノーブラにシャツ一枚を羽織っただけで同衾してきたりすれば、いい加減理性も限界を迎える。おまけに、何度となく口を酸っぱくして婦女子の恥じらいなるものについて講釈しても、不思議そうに首を傾げるだけで聞き入れてくれなかったし。一週間にわたって我慢し続けた自制心をこそ褒めてやりたい(ちなみに、いざそういう関係にならんとしたとき、彼女の方が抵抗するどころか積極的に彼を受け入れたことを補足しておく)。
かくして関係を持ってしまった現在なわけだが、彼とて責任の取り方くらいは知っている。
欲望に流されたとはいえ、もとより憎からず想っていた相手だ。正式な恋愛関係を結ぶのに異議など唱える気は毛頭ない。
しかし、しかしだ。
今少し一般的な少年らしい交際を(肉体関係まで持って今更という指摘はさて置き)望むのは、果たして高望みに当たるのだろうか。
この日――第壱中学2−Aの教室の自分の席で、綾波レイ嬢に抱きかかえられながら、碇シンジ少年はつくづく考えるのであった。
「…………」
椅子に座っている彼の背後から手を回し、ぬいぐるみか何かを抱くようにその頭を胸に抱き締めている彼女は、相変わらず鉄壁の無表情だ。普通ここはバカップルらしく笑みを浮かべるところのはずだが、その鉄面皮にはいささかの揺らぎもない。
しかし事実として、彼女の細い腕は優しく、しかししっかりと彼の頭を抱き締め、ささやかに膨らんだ胸に押し当てるような形を取っている。
彼女のお気に入りの姿勢だ。ちなみに二番目のお気に入りは、彼の膝の上に座って自分が抱きしめられることであり、三番目以降に至ってようやく腕に抱きつく・膝枕する(される)といったレベルになる。
登校を再開した初日は、これを授業中にまで続行しようとしたのだからたまったものではない。さすがに危機感を感じたシンジが委員長・担任教師らと同盟を組み、授業なるものの意義とマナーについて講釈を行うことで事無きを得たのだが、それ以外の休み時間などでは彼女はいまだにそのペースを崩そうとしない。
目の前でいちゃいちゃするのを見せつけられるクラスメイト一同の視線が日々白さを増していくのは当然の成り行きであったし、潔癖症で知られる委員長・洞木ヒカリが怒り狂うのもまたやむを得ざるところであろう。
「かーっ、まったく、センセがここまでする男やとは思わんかったわ」
シンジが登校再開したのと同時期に退院してきたトウジが――彼は第十三使徒戦において片足を切断するという重傷を負ったのだが、その後のネルフの計らいでクローン培養された生体義足を移植され、ほぼ完全な健康体に戻っている――茶化すようにいう。
「……一つだけ反論したい。僕が自発的にこうしているわけではないんだ」
「その姿勢でいわれても説得力ないよなぁ……」
当然の権利として反論した彼に、相田ケンスケが首を振りながらいった。まったく妥当かつ正当な言い分である。
「まさか、シンジと綾波がここまで完全無欠なバカップルになろうとは……」
「ちょっと前までは想像もせんかったのぅ……」
「やっぱり、肩を並べて戦う間に愛が芽生えたってトコかな」
「泣かせる話やのぉ……わしらとしたら、素直に祝福してやるべきなんやろな」
「しかし、それも限度があると思わないか?」
「まったくやの。やはり人として越えてはならぬ一線ゆうもんがあるべきや」
すぐ目の前で好き勝手なことをいっている。からかい半分なのはたしかだが、本音もかなり混じっているあたりが心を抉る。
「あのねぇ」
額に青筋を浮かべて立ち上がりかけた彼は、次の瞬間、一際強く頭を抱き締められて着席を強いられた。
「…………」
見上げると、綾波レイが相変わらずの無表情で彼の顔を見下ろしている。愛のテレパシー(命名:ケンスケ)というもので意訳を試みるならば、じっとしていて、というところだろうか。
首に回された腕に込められた力は相変わらず強い。これまた意訳するならば、私以外の人と話しすぎ、ということになるだろうか。
そう、綾波レイ嬢は、いささか嫉妬深かった(←極端に控え目な表現)。
自分以外の人間とシンジが会話するのを好まず、自分以外の誰かが碇シンジに触れることを好まない。そう、相手がトウジやケンスケであってすら、である。
さらに突き詰めるならば、碇シンジが自分以外の何かに(もはや「誰」という次元ではなく)意識を向けること自体が、そもそもお気に召さないらしい。
もし彼が、路傍の石ころを大事にしまい込む趣味でも持っていたなら、彼女はその石ころにすら嫉妬するかも知れない。いや、絶対に嫉妬する。断言してもいい。
一応、最低限の譲歩として、日常会話を行うくらいは許容している(らしい)のだが、それも度が過ぎると(彼女がそう判断すると)、無言の内にプレッシャーをかけてくる。
……自分はもしかして人生を早まったのかも知れない、そう物思いにふける碇シンジ、十四歳であった。
「はんっ!! まっっったく、見てらんないわ!!」
アスカが刺々しく口を挟んだ。
「あんたたち、頭ン中、それしかないわけぇ!?」
「だから誤解しないでくれ。僕は今少し常識的な交際を心がけて」
「黙りなさい!!」
ぎゅっ。
「……イエス・サー」
正面と背後の双方から言論弾圧を受けて、彼は口を噤んだ。
ちなみに、先日まで洞木ヒカリ宅に家出し、引き篭もりを決め込んでいたアスカが何故このように元気に登校しているのかといえば、それは例によって例の如く彼と綾波レイの現状に関係がある。
図解するならば――
登校再開した初日に碇シンジ、ヒカリからアスカの現状を聞く→心配。気もそぞろ→綾波レイ、いつもの如く嫉妬→ヒカリに頼まれ、シンジ、アスカを説得に→レイ、当然の如く同行→アスカ、聞く耳持たず→シンジ、困る→レイ、切れる(ただし無表情)→レイ、無表情のままアスカをぶん殴った上、力ずくで洞木宅より連れ出し、荷物か何かのように運搬して葛城宅に放り込む→恐怖と怒りにより、アスカ、自暴自棄より立ち直る(?)。どうやら復讐を誓ったらしい→現在に至る。
以上のようにして、アスカはかつてを上回る熱意をもってレイの弾劾に余念がない。
国家であれ自己であれ、革命の原動力には怒りが必須ということだろう。人間、何かに怒り狂っていれば、あれこれ悩む暇などない(喜ばしいことかどうかは知らないが)。
「ファースト! あんたには羞恥心とか常識とかいうものはないわけ!?」
「…………」
レイはゾウリムシでも眺めるかのような視線をアスカに向けた後、
「…………」
どこまでも無言のままに、シンジの頭をさらにさらに自分の胸へと押しつけた。ある意味、言葉などよりよほどわかりやすい返答である。
「くぉの……」
アスカの額に青筋が浮かぶ。
「シンジも抵抗しなさいっ! あんたが黙ってるからこいつ、どこまでも頭に乗ってっ!」
すいません、アスカさん。実際に手を出してしまった僕の発言権は、議会に例えるならば落選議員のそれに等しいんです。
心の中で冷静に自己評価を下し、身動きが取りにくいなりに頭を振る碇シンジであった。
「こ……こ……こ……このぉ」
ある種の悟りに到達しかけた彼の表情をどう解釈したか、アスカの目つきがさらに険しくなった。
「この浮気者っ!」
何ですと?
一体何を言い出すのかと、シンジはアスカを見つめる。
激昂せる彼女の目じりに浮かんでいるのは――涙、だろうか?
「あんたがそんなにナンパな奴だなんて、思わなかったわっ!」
顔を真っ赤にして、アスカは決定的な一言を叫んだ。
「あたしにキスしたのは遊びだったわけ!?」
――その瞬間、時間が止まった。
否、止まったのはあくまで周囲の連中の時間だけだ。
当事者三名の時間は、恐ろしいほど正常通りに刻み続けていた。
「…………」
レイが(やっぱり無表情なままに)青白いオーラじみたものを立ち昇らせ、
「ぐぇぇ!?」
回された腕で首筋を力一杯締め上げられたシンジは断末魔の悲鳴を上げる。
「あ、あれは暇潰しだと自分で……」
「あたしのファースト・キスを奪ったのは事実でしょ!?」
「え。嘘」
「ば、馬鹿ぁ――っっ!!」
アスカはぐすぐすと鼻を鳴らしながらわめき散らす。彼のあまりに素直な反応が多大なショックであったらしい。
「…………」
レイは相変わらず無表情のまま、ただ彼の首をぎりぎりと絞め上げようとしている。
必死でその腕から頚動脈のポイントをずらそうともがきつつ、彼はふと周囲を見渡した。
『…………………………………………』
シベリアの凍土よりなお冷たい無数の視線が、そこに広がっていた。
もはや誰に説明されるまでもない。
碇シンジは乙女の敵であり、男の敵であった。
「いぃかぁりぃくぅんん?」
「センセ……」
「シンジ……」
女子の代表一名(洞木ヒカリ)、男子の代表二名(鈴原トウジ及び相田ケンスケ)が、ゆらりとした怒気と共に立ち上がる。
嗚呼、四面皆楚歌を歌いたる也。
天国のお母様。何故に貴方は早く死んでしまったのですか。いい人ほど早く死ぬのですかそうですか。畜生、死ぬ前に一度でもいいからあのクソ親父の顔面をぶん殴ってやりたかった。
碇シンジはある種の覚悟を固め、瞼を閉じた。
せめてもの、そして最期の意思表明として、口を開く。
「……僕、平穏に生きたいです」
『ふざけんなぁぁぁ!!』
まあ、理解が得られるとは思ってなかったさ――
周囲の理解を諦め、ついでに綾波レイの腕に抗うことも諦めて、彼は嘆息した。
頚動脈の血流が止められ、意識が急速に薄らいでいく。余談だが、頚動脈を的確に絞められた場合、人間は七秒で失神できる。ついでにそのまま一分以上絞められ続けると余裕で死ねる。
果たして一分以内にレイが解放してくれるだろうか?
まだ見ぬ未来の可能性に思いを馳せつつ、碇シンジの意識は闇に沈んだ。
時は流れて、放課後――
終礼が終わると同時に、綾波レイは教室を飛び出していた。
彼と自分の鞄だけを携え、クラスメイトなどには脇目も振らない。
無表情の内にもある種の気迫を漲らせたその勇姿に、何かいいかけた委員長を含めたクラスメイト数名がモーゼの十戒の如く道を開ける。ちなみに後日、彼ら彼女らは「……怖かったんです」と言葉すくなに語ることになる。
向かう先は保健室。午前の休み時間に気絶してしまった(彼女が気絶させた)愛しい少年が昏々と眠り続けている所である。本来ならば付きっきりで看病するつもりだったのだが、委員長と担任教師を含めた連中があまりにしつこく泣きついてくるため――そして何より、「碇君もきっと綾波さんがきちんと授業を受けることを望むはずだから」という言葉にほだされ、これまで休み時間ごとに様子を見に行く他はなかった。
「ファースト!」
静かに、しかし駆け足よりも速いペースで廊下を進む。
「ちょっと待ちなさい!」
階段をホバークラフトの如く下りていく。見る者が見れば、どうして歩いているようにしか見えないのにあれほど速度が出るのかと物理法則に疑義を呈するだろう。
「こら、聞こえないの!?」
一階に着いた。保健室は廊下の端にある。
相変わらず表情を変えないまま目的地に辿りつこうとしたその寸前、
「待てっつってるでしょーが!!」
強引に肩を捕まれ、綾波レイはやむなく足を停止させた。
「…………」
ぬぅぅぅ……と効果音でも付きそうな動作で首を巡らせる。やっぱり表情は変わらないのだが、憤怒とでも評すべき激情が眼から溢れている。
「あ、あんたねっ! いい加減にしなさいよ!」
妨害者――セカンド・チルドレンは、乱れた呼吸を整えながら彼女を睨みつけていた。
もちろんレイにも怯む理由などない。むしろこちらから糾弾するように、溶岩を閉じ込めた絶対零度の氷のような――というのも矛盾した表現かも知れないが、そう表する以外にない――眼でそれに応じる。
「あいつ、どうするつもりよ」
セカンド・チルドレンは問うた。あいつ、というのが碇シンジその人であることは、説明されるまでもなかった。
彼女は冷然と見返す。答える価値のない愚問だった。もう放課後。学校に対する義務は果たした。後は彼を連れ帰り、いつものように二人だけの時間を過ごす。それ以外に何をする理由も、ない。
セカンド・チルドレンにもそれが伝わったらしい。彼女は数瞬の沈黙を挟んでから、
「……返してよ」
静かに、そういった。
「……シンジを、返して。あいつは、あたしたちの――あたしとミサトの、家族なんだから」
少し鼻声だったかも知れない。
セカンド・チルドレン惣流・アスカ・ラングレーは、間違いなく本心からいっていた。
「そりゃ、あたしにその権利がないのはわかってる。あたしはあいつにひどいことをしたし、いいもした。あたし自身が家も何も放り出して逃げ出してた。でも、あたしは……」
すんすんと鼻を鳴らして。
セカンド・チルドレンは決然と顔を上げ――
でもって、驚愕に顔を強張らせた。
多分、綾波レイが表情一つ変えることなく、大きく拳を振りかぶって殴りつけようとしている様を視認したからだろう。
「がっ、ぎゃ、ごっ!?」
まずは顎に一発左フックを入れ、よろめいたところへ人中(顔面にある急所の一つ)にストレートをかまし、後はもう面倒になったので手当たり次第に肘やら膝やら何やらを叩き込む。
ごすべきばこ、という恐ろしげな音が響き渡り、後にはぴくぴくと痙攣するセカンド・チルドレンの骸(いや、かろうじて生きてはいる)だけが残された。
「…………」
彼女はこの期に及んでも鉄壁の無表情のままに、あっさりと踵を返して保健室に急いだ。
セカンド・チルドレンの切ない訴えなど、実は半言半句たりとも耳に入れていない。
綾波レイ――愛のためなら重戦車の如き突進力を発揮する娘。
立ち塞がる物は問答無用で即時殲滅。座右の銘は見敵必殺。たった一つのためならば、他のすべてを切り捨てて動じない。
碇シンジ一個人のためならば、地平の果てまでも進撃するであろうその姿は、いっそ神々しいほどであった。
ようやく意識を取り戻したとき、何というか、ゆっさゆっさと揺れる暖かな背中に乗せられていた。
つまりはおんぶされていたということなのだが。
碇シンジは胡乱な頭で状況を確認する。
目の前には見なれた蒼銀の髪。
――意外にパワフルなんですね、綾波さん。
心の中でぼんやりツッコんでから、彼は我に返った。
「あ、綾波? も、もう歩けるから」
見れば周囲は論議の余地なく街中であった。疎開が進んでいる今日、さほど人通りは多くないのだが、その多くない通行人からの視線がとてつもなく痛い。あんた僕を晒し者にしたいんですか、と彼は泣きたくなった。
察するところ、教室で失神させられてしまった彼を、自宅まで運んでいるというところらしい。腕時計を確認すると、驚いたことに午後五時近かった。あっちの世界へ飛んだのが、一時間目終了後の休み時間であったことを考えると、かなり長い間意識を失っていたようだ(もしかしたら本当にあの世へ足を踏み込みかけていたのかも知れない)。彼を叩き起こしたりすることはなく、自力で背負って連れ帰ろうとするあたりに、綾波レイという少女の物の考え方が見て取れる。
「…………」
レイはどこまでも無言のままに、しかし渋々と彼を背中から下ろした。
「世話かけたね。重かっただろ?」
鞄を受け取りながら、その労をねぎらう。
レイはふるふると頭を振った。さすがにネルフで鍛えているだけあり、同世代に比しても細身の部類に入るシンジを背負うのは大した負担でもなかったらしい。
歩き始めると、彼女は彼に当然のように密着し、腕へと抱きついてくる。相変わらず人目は気になるものの、こればかりはさすがの彼も文句をつける気にはなれない。綾波レイは、いうならば依存症じみたところがある。どんなときでも彼の体温を感じていなければ落ち着かないらしい。そのことは、付き合い始めてすぐに知った。
そして彼にはそれに逆らうことはできない。押し倒した引け目というか、つまりは惚れた弱みだが。
自分が幼少時の経験からいささか歪んだ人間になったのと同様、彼女も人格的な歪みを抱えている。それだけのことだろうと彼は考えていた。何より彼は、彼女の持つ歪みというものにも、しっかり惹かれてしまっている。バカップルなどと呼ばれるのもむべなるかな、だ。まあ、まだまだ世間一般の常識に未練があるので、人前で過度にいちゃつくのだけはどうにか我慢して欲しいところなのだが。
軽い重みを右肩に感じながら、連れ立って歩く。
取り立てて会話はない。彼はもともと話術の名手という柄ではないし、彼女は言葉のやり取りにさほどの価値を置かない。恋愛ドラマでよくいわれる、「口に出さねば伝わらないこともある」という言葉とはまったく逆の場所に彼女はいる。
彼がそこにいてくれて、自分がその存在を実感できればそれでよし。すべては言葉という概念ではなく実行動あるのみ。それが綾波レイの信条であるらしい。
「…………」
歩きながら、物問いたげな視線を感じて、彼はレイの顔を見やった。
まったくもって相変わらずの鉄面皮――なのだが、彼はそこに「不機嫌」の色合いを見て取った。ほとんど読心術の領域に達した観察眼だが、彼はその判断に疑いを持っていない。
「どしたの?」
足を止めて、訊ねて見る。
「…………」
レイは無言のままに、白昼の路上で彼に唇を重ねてきた。
それも何というか、いわゆる大人のキスである。
行き交う通行人が一瞬唖然とし、次いで何やら囁き合いながら視線を逸らして歩み去って行く。
おーまいがっ、と碇シンジは嘆息しかけ、彼女の不機嫌の理由に思い至った。朝方のアスカのキス事件暴露を根に持っているものらしい。この激しいキスは、つまるところレイにとっては消毒(アスカには失礼な表現だろうが)の意味合いがあるのだろう。レイの思考法によれば、彼に触れていいのは綾波レイただ一人で、彼に匂いをつけていいのも綾波レイただ一人、そういうことになる。
ならば彼には何ができるだろうか。
――天国のお母様。貴方の息子は頑張って生きてます……
通行人の白い視線と囁き声を感じつつ、そのまま一分以上に渡る「消毒」を受け入れ、ようやくのことで体を離してから彼はいった。
「えーと、その……今はもう、綾波の傍にいることを選んだわけだから」
頼むから機嫌を直して下さい。祈るような気分でいったのだが、レイは相変わらずじぃ……と彼を見つめている。彼の観察眼から判断すると、不機嫌は七割解消されつつもなお健在、そんなところか。
「…………」
レイは無言のままに、両手の指を開いて彼に示す。
それが何を意味しているのか、理解できるのは彼だけであったろう。そして理解した瞬間、大量の冷や汗を浮かべつつ彼は抗弁した。
「へ、平日にそれはヤバくないかな。明日も学校はあるんだよ?」
「…………」
レイは譲る気配はない。
「……せめて五回」
「…………」
「…………六回で」
「……………………」
「……………………七回。お願い。十回ともなると、さすがに僕の身が持たない。腰が抜ける。干からびる」
「………………………………」
レイはようやく、不承不承ながらうなずいてくれた。ちなみに、五回とか六回とか七回とかいう数字が何を意味しているかはまったくの不明だ。
再び腕を組んで歩き出しながら、彼は天を仰いだ。
心の中で慨嘆する。黄色く見える太陽なんてものは、二度と拝みたくないんだけどなぁ――と。
……かくして。
ろくでもない養育環境のおかげでいい加減ヒネくれつつも、一般常識に未練を残す少年と――
最初っから一般常識などとは縁がなく、過剰な愛欲を隠しもしない少女との――
これが、西暦2015年における現状であった。
この後、二人には数多くの試練が待ち構えているのであるが……
若くして悟りの境地に達しつつある彼と、彼さえいれば世界が滅んでも一向に頓着しない彼女は、それが当然であるかのように二人して、試練を乗り越えていくこととなる。
……そしてとりあえず当面の試練は、今夜に控えている過酷にして幸福な七連戦と、
「もう許せない……絶っっっ対、馬鹿シンジを連れ帰ってやるっっっ」
通りかかった親友兼委員長に保健室に担ぎこまれ、全身に包帯を巻かれつつ決意を燃やしている赤毛の少女であったりした。
終
後書き
2006年度年賀状メールに添付したお年玉SSです。
コンセプトは「Moon
Phaseの設定を少年期っぽい性格のシンジで」。
その意味ではMoon
Phaseのパラレルであり少年期のパラレルということもできるかと。
そしてアスカ嬢、またもいじられ役(笑)。