愛犬が亡くなってひと月近くが経った。
食事をとるとき、朝目が覚めてリビングのドアを開ける瞬間、よく散歩に連れていった遊歩道、至るところに愛犬の面影が残っていて、ぼんやりとしているとまだ姿がそこにあるのだと錯覚する。その瞬間現実にぐいっと引き寄せられて「もう彼女は死んだんだよ」と私に耳打ちしてくるのだ。
写真を見ても、まだ匂いの残るタオルケットを抱きしめても、そこに彼女の姿はない。
さみしい
じわじわと心に染み込んでくるその感情を言葉に変えて吐き出していく。すると家族が私にこう返してくれるのだ。
「さみしいね」
そう、さみしい。特に何を求めているわけではなかった。だけどその言葉は私にとって救いだった。さみしいという思いを共感してくれる人がいること、それが私のさみしさという水に温かな流れを注ぎ、ぐらぐらとその水面を揺らめかせた。
父が亡くなったときはこんな思いしたことはなかった。さみしくても言葉に出せなかった。私達家族は父の自殺に対してそれぞれが孤独なさみしさを抱いていたに違いないだろう。少なくとも私は口にすることができなかった。さみしさに怒りや悲しみがまとわりついた混沌めいたその感情を形容する言葉を私は持たなかった。
愛犬は私にとってペットというより家族なのだけれど、天寿を全うしてくれたという感謝の思いがとても大きい。老衰で少しずつ命の音が小さくなる身体を撫でながら死を受け入れる時間があった。「がんばったよね」「えらいよね」あたかな言葉をかけることに夢中になっていたように思う。自分がうつになって社会人して自立するまで頑張って父の代わりに見守っていてくれていたのかもしれない。だから今、このタイミングなのかもしれない。がんばったよ、がんばった。ありがとう、ありがとうという思いでいっぱいだった。だから今さみしくてもそれを抵抗なく受け入れることができている。天寿を全うするということは遺される者たちにそんな置き土産をくれるのだ。
これだけでも精一杯生きることに意味はある。
今まで死を受け入れるということは硬い岩を自力で砕くような行為だと思っていた。でも水のようにさらさらと流れて心を満たす死もあるのだ。
それはあなたが教えてくれた。あなた達が教えてくれた、死を受け入れるとは生きるということ。死を分かち合うことが愛だということを。
家でひとりで酒飲んでも美味くない。ひとりで飲んでも美味い酒をまだ知らない
— ポンコつっこ (@ponkotukko) 2014, 11月 14