外伝 1901年
女神ハウメアの神殿が王宮に隣接する地に建設され、ハワイ王国の住民の心の拠り所になっていた。
神殿の完成祝いの時に女神ハウメアが再び降臨したが、一人の若い女性を巫女に指名した後は姿を現してはいない。
巫女を中心に神官によって運営されており、定期的に『バハムート』が姿を現して住民に安心感を与えていた。
実際に女神ハウメアが降臨してからは欧米の搾取から解放されて、食料も豊富になって生活レベルも大きく改善されている。
ハワイ王国の治安も安定して、外国人による不当な搾取が行われる事は無くなった。
その恩恵をもたらしてくれたハウメアに感謝の念を持つ住民は多く、連日、各地から大勢の人達が神殿を訪れていた。
そして子供が産まれると神殿に御参りして、女神の祝福を得る風潮が広まっていた。
「巫女様、この子に祝福をお与え下さい」
「元気な赤ん坊ですね。女神ハウメア様の加護がありますように」
「ああ、ありがとうございます!」
下世話な話だが、神殿で祝福を得るのは無料だ。神殿はハワイ王国の国費と住民からの寄付金によって運営されている。
ハワイ王国の住民の心の拠り所として、神殿は重要な役割を果たしていた。
そのハワイ王国の様々な建物や工場群は日本の財閥系企業によって建設が進められたが、神殿だけは日本総合工業によって建設された。
神殿の地下には巫女しか知らない秘密の部屋があり、そこで巫女は陣内と衛星通信回線を使用して話していた。
『巫女の仕事はどうかな? 多くの人達を騙す役目を負って貰ったが、これもハワイの為と頑張って欲しいのだが?』
「……ハウメア様から巫女に指名された時は、驚きましたし嬉しかったですね。ですが、陣内様に睡眠教育を受けて真実を知りました。
正直言って嘘をつく事で悩んだのは事実ですが、これも国民の精神安定になると割り切りました。
それに陣内様がハワイ王国を救ってくれたのも事実です。ですから、最近は与えられた役を果たそうと頑張っています」
『済まんな。女神ハウメアはもう姿を現さないつもりだし、バハムートも出現回数を減らそうと思っている。
やり難くなるだろうが、ハワイの人達の心の拠り所として頑張って欲しい』
「ええ。欧米の侵略を防ぐ為に縁を切って、現在のハワイ王国は日本に頼っています。ですが、我々の独自性は失われてはいない。
その日本との橋渡し役を務めます。女神が居るからと傲慢になる事無く、謙虚に生きようと神殿を訪れる人に呼びかけてます」
『こちらはハワイ王国を支配する気は無く、独自性を持って自立してくれれば良いんだ。
無理に日本に有利なように運ばなくてもな。その辺りは考えているさ』
「女王陛下にも日本との友好が大事とは言ってはいますが、無理な押し付けはしていません。
実際、日本の方達のお陰で農業や工業が発展して、生活レベルが改善されています。
それに日本人の定住者も増えて、大切な仲間になっているのです。誰でも友好を大事にすると思いますよ。
国民に笑顔が戻っていますから、だいぶ良い雰囲気になってきています。カップルも増えて、子供も増えています。
それはそうと……以前から御願いしていた件はどうでしょうか? あたしも女なのですから切実な問題です」
『えっ!? ……あ、ああ、あの件か。もうちょっと待ってくれ!』
「そう言われて一年が経ちました。もう結論を出していただいても良いのではありませんか?
このままでは、あたしはハウメア様に仕える巫女として朽ちていくだけです。
祝福を求めて幸せそうな夫婦が赤ん坊を抱いて神殿に来るのを見ると、複雑な気持ちになります。
女として、子を産みたいと考えるのは当然です! その為に陣内様の子種をいただきたいのです!」
宗教によって異なるだろうが、一般的に神殿の巫女は神に仕える事が求められ、結婚や出産を認められる事は少ない。
今回の場合、公式には女神ハウメアから御指名を受けた事になっている。当然、男と結婚するのは問題が大きくなる。
引退して別の女性に巫女の役を引き継げれば良いのだが、そうなると巫女の交代が頻繁になり機密漏洩の危険性が増す。
かと言って、存在しない女神の為に、一生独身を貫き通すのも若い女性にとっては酷な事だ。
それらの制約から、ハウメア神殿の巫女が出した結論は、秘密を共用する陣内と関係を持つという事だった。
妊娠や出産は女神からの授かりものとか言って、適当に誤魔化せる。最悪は女神ハウメアの再降臨をしても良い。
女の幸せを放棄したくは無いが、かと言って一般人相手の恋愛や結婚は無理だと分かっていた。
妥協の結果、陣内を選んだだけだ。陣内に心底惚れ込んでいるような事は無い。陣内の容姿は巫女の許容範囲内だったようだ。
陣内としては、こちらの意向を汲んでハワイ王国の為に尽くしてくれる人なら誰でも良いので、深く考えずに巫女を選んだ。
ポリネシアの情熱的な美貌とスタイルに少しは心を動かされたが、最初から邪な事をしようと若い女性を巫女に選んだ訳では無い。
子種を求められているが、沙織と楓、さらには子供達に知られようものなら、軽蔑の視線で見られる事は間違い無かった。
『そ、そうは言っても、これでも妻子ある身なんだ。少しはこちらの事情も考えてくれ』
「まだ二十代前半のあたしに、一生涯独身で子供も産むなというのは酷い話じゃありませんか!?
それに陣内様と会った時には、胸やお尻に強い視線を感じます。あんな視線で見つめられたら、あたしも……。
そういう事ですから、ちゃんと責任は取って貰わないと困ります。奥様と子供達には内緒にしておきますから。
子供を認知さえしていただければ、あたしが責任を持って育てます!」
この後、どうなったかは陣内と巫女の二人だけが知っている事だ。
そしてこの後、機密保持をどうするかが、陣内の大きな悩みになっていた。
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バハムートが神殿の中庭の上空に現れると、参拝していた人達は一斉に跪いた。
侵略者だったアメリカを追い払って、自分達を守ってくれたのだ。ハワイ王国の守護神として崇められている。
余談だが、色ごとにニックネームが付けられて、子供達の間で流行りだしていた。
「はーー。ありがたや。バハムート様のお陰で、わし等の生活が守られたんじゃ」
「今でもアメリカの船がハワイに近づかないのは、アオちゃん達のお陰だもんね」
「それを言ったらピーちゃんの方が凄いんだよ。近くを通った飛行船を撃ち落したんだって! 知らないの?」
「こらこら、バハムート様をちゃん呼ばわりか。まったく子供は怖いもの知らずだの」
バハムートは全部で五体。赤と青と黄とピンクと緑の原色で色づけされている。
ハウメア神殿に二体が常駐して、残り三体が南鳥島基地で待機している。(ウェーク島は目立つ為に不可)
五体が同時出撃するような事態は発生しないだろうから、定期的なメンテナンスを陣内の個人所有する南鳥島で行っていた。
余談だが、ハワイの子供達に一番人気なのはアオちゃんだった。
ローマ教皇庁はバハムートの秘密を探ろうと、諜報員をハワイに派遣しようと試みていた。
しかし、欧米人の入国は厳しく禁じられていた。ならばアジア系の司祭を送り込もうとしたが、入国が許可される事は無かった。
その為、民間人に扮したアジア系の司祭がハワイ王国にやって来たが、バハムートに一睨みされて失禁したのは別の話だった。
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タイ王国の東北部のコーラート台地は、雨量が少なく農作物が育ちにくい環境の為に、貧困地域の代表格として知られていた。
しかし過去形の話だ。今のコーラート台地は変貌しつつある。
建設用の重機を大量に持ち込み、貯水池や農業用水などの水利工事を進めた結果、徐々に肥沃な大地へと変わりつつあった。
収穫量が増えた為に住民に笑顔が戻り、生活レベルも改善されている。
その立役者は渋沢系の企業で、その日も日本から派遣された作業者が汗を流して働いていた。
「ふーー。暑かったが、これで今日の仕事は終わりだな。帰って一杯やるか?」
「そうだな。まだ全体の半分も開発は終わっていないが、開発が進んだところは収穫が上がってきている。
お陰で現地の人も協力してくれる。今日も何か差し入れはあるかな?」
「どうだろうな。あんまり辛いものは身体に悪いって言うし、程々が良いんだけどな。俺は酒が飲めれば良いさ。
そういや、ソンティはどうした? 事務所に戻ったのか?」
「ソンティは隣村の重機が壊れたって言うんで、修理に行っている。まだ十二歳なのに器用なもんだ。
機械なんて扱った事も無かったはずなのに、修理までしちまうから大したもんだよ」
「気が利くしな。何でも大きくなったら、日本に行って仕事がしたいって言ってたな」
「へー。そりゃ将来が楽しみだ。さて片付けるとするか」
日本から派遣された作業者は、簡単なプレハブ造りの住居を拠点にして仕事を進めていた。
最初の頃は言葉も通じずに、何処の余所者だと思われる事も頻繁にあったが、作物の収穫量が上がってくると周囲の目も変わってくる。
近隣にも成功の話が広まり、自分達の村の開発を進めてくれと陳情に来る人も増えていた。
現地の住民との関係は良好で、作業に協力してくれたり、差し入れを持ってきてくれるような関係だ。
中には親の許可を得て、本格的に協力してくれる子供の姿もあった。
その子供はソンティと言うのだが、十二歳になったばかりだ。小柄だが、器用な子供として日本人作業員に受け入れられていた。
「ただいま戻りました。過負荷でヒューズが焼き切れていたみたいですね。それとハーネスが切れ掛かっていたので直しておきました」
「おー、ご苦労さん。こっちに来て酒でも飲むか?」
「おいおい、子供に酒を勧めてどうするんだよ。まだ早過ぎるだろう! 冷たいジュースにしておけ」
「いえ。少し下さい。多くは飲めませんけど、今のうちから慣らしておきたいんです」
「へー、良く考えているな。ソンティは日本に行きたいんだってな。日本に行って何がしたいんだ?」
「……親が許してくれるか分かりませんけどね。でも、行けるんだったら重機を製造した日本総合工業に行ってみたいです!」
「ほう。日本総合工業か。ソンティは頭も良さそうだし、理化学研究所がやっている日本総合大学にも入れるんじゃ無いのか?
上手くいけば奨学資金も貰えそうだ。何なら口を利いてやろうか?」
「本当ですか!? 是非、御願いします!」
「ああ。明後日にうちの会社の重役が視察に来るって話があったんだ。まだ誰が来るかは連絡が来ていないから分からないがな。
話す機会があるかは分からんが、もし機会があったらお前の事を言っておくよ。日本語も直ぐに覚えたし、将来は有望な奴だってな」
「はい! ありがとうございます!」
ソンティは貧しい家庭の五男坊だが、聡明で機械の操作に慣れていた。
そして本人もゆくゆくは日本に行って勉強して、故郷の発展に頑張りたいと周囲に話していた。
明後日に来るお偉いさんが、どんな人なのかは分からない。
しかし、貧しさから抜け出して生活改善を望むソンティは、チャンスを失わないようにと機会を伺っていた。
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日本総合工業のマークをつけた飛行船は、コーラート台地の上空をゆっくり飛行して、現在開発中の地域の空き地に着陸していた。
そこから最初に降り立ったのは陣内と渋沢の二人だった。その後に警護の人が五人降りて周囲を警戒している。
「開発を始めてから約八年か。かなり広範囲に開発が進みましたね」
「これも君が重機を優先的に回してくれたお陰だよ。まだまだ開発を進めなくてはいけない地域は多いが、それは徐々に進める。
幸いにも現地の人は友好的だからな。さて、事務所に行って現場の意見も聞いて来ようか」
「「「お父さん、待って!!」」」
歩き出そうとした陣内と渋沢を呼び止めたのは、一緒に連れてきた七歳になった真一と香織と真治の三人だ。
置いて行かれては困ると、慌てて飛行船から降りてきていた。(ちなみに、下の二人の子供は自宅で母親達と一緒に居る)
「回りの人は仕事をしているんだから、邪魔するんじゃ無いぞ。煩くしたら帰りまで飛行船から出さないからな」
「「「はーい」」」
「元気だな。まあ、ゆくゆくは君の後を継ぐんだ。子供の頃から見聞を広めておくのは良い事だからな」
世界には豊かな地域や貧しい地域など色々な場所がある。将来を考えて、色々な場所に子供を連れて来ていた。
コーラート台地の人々は貧しい生活を強いられてきたが、改善されつつある。良い社会勉強になるだろうと、今回も連れてきていた。
渋沢の後を陣内が、その後を手を繋いだ三人の子供が歩いていると、現場の責任者が渋沢に声を掛けた。
「まさか渋沢会長が来られるとは予想もしていませんでした。事前に連絡を頂ければ、色々な用意をしておいたのですが」
「はっはっはっ。今回の訪問は非公式だ。あまり固くなるな。生活状態や問題点が無いかの確認だけだからな。
子供連れでもあるし、そう構わんでくれ」
「分かりました。では、このお子さん達は渋沢会長のお孫さん達なのですか?」
「挨拶が遅れました。私は日本総合工業の陣内です。今日は現地を見たいと思って、子供を連れてお邪魔しました。
ただ見学するだけです。仕事の邪魔はしませんから、お構いなく」
「日本総合工業の陣内って……まさか陣内総帥なのですか!? し、失礼しました! おい、冷たい飲み物を直ぐに用意するんだ!」
「いえいえ、お構いなく。我が社の重機がどのような使われ方をして、どんな事が出来るのかを実際に子供に見させる為です。
こら、皆さんの仕事の邪魔をしちゃ駄目だぞ。そっと遠くから見るんだからな!」
「「「はーーい」」」
「元気の良いお子さん達ですね。あちらのバラック小屋の重機は修理待ちですから、ご自由に見られても大丈夫ですよ」
「そうですか。では、お邪魔させていただきます。三人とも手を繋いで来るんだぞ」
陣内は子供を連れて故障中の重機のところに向かった。それを渋沢と現場の責任者は見つめていた。
「渋沢会長が来られたのも驚きでしたが、まさか日本総合工業の陣内総帥が、子供を連れて来られるとは思ってもいませんでした。
心臓に悪いですから、驚かさないで下さい」
「はっはっはっ。済まんな。陣内君もあまり公に動くと周囲が煩くなるからな。こうやってお忍びで来させて貰った。
君達の粗捜しをするつもりは無く、単なる現地視察だ。あまり固く考えんでくれ」
「はあ。それにしても、あの人が僅か十年ちょっとで日本総合工業をここまで立ち上げた立志伝中の人か。
まだ若いのに大したものですね」
「陣内君もかなり苦労をしてきたからな。まあ、これからも仕事は多い。まだまだ頑張って貰わなくてな。
それはそうと、工事の進捗はどうかね? 現地の人との問題はあるかね?」
「チャーン島の工場群から必要な建設資材は定期的に入ってきていますし、現地の人との関係は良好です。
今のところは人手不足以外の問題はありません。ああ、そうだ。現地の十二歳の男の子に仕事を手伝って貰っているんです。
将来は日本に行って日本総合工業で働きたいとか。会長の方で口利きしていただけませんか?」
「ほう、十二歳の男の子か。けっこう真面目に働いているのか?」
「ええ。日本語も直ぐに覚えましたし、機械の修理関係も出来ますので重宝しています。
家が貧しくて学費は出せないでしょうから、出来るなら奨学金を使わせてやりたいと思いまして」
「ほう……機械の修理をか。良いだろう。後で資料を送る手筈をつけよう。その試験に合格したら口利きをする事で良いな」
「はい。ありがとうございます!」
陣内の話や渋沢と現場責任者の話を、ひっそりとソンティは聞いて考え込んでいた。
(試験か。まあ大丈夫だろう。これで上手くいけば日本に行って、奨学金で学校に進める。
うちの家計じゃ学校に行くのは贅沢だからな。最低でも日本に行って、産業促進住宅街に入れれば教育は受けられる。
それに大学にも行けるかも知れない。こりゃ監督に感謝だな。後は親と兄ちゃんと姉ちゃん達の説得だ。
日本で歌姫が成功したから、日本へ行く事の拒否反応は無いから大丈夫だろう。
……それにしても、あの人が日本総合工業を立ち上げた陣内さんか。
あの人が未来から来たんだろうか? それとも噂の巫女様が影にいて、あの人は操り人形に過ぎないのか?
直接話さないと分からないだろうけど、今は駄目だ。もうちょっと様子を見る事にしよう。
日本の支援が入ってから、生活が楽になってきたんだ。慌てる必要は無い。じっくり見極めてからでも遅くは無い)
ソンティは客観的に冷静な判断を下せる下地を持っている。
そのソンティでも、家族というしがらみを捨て去る訳にはいかない。貧しい家だが両親と兄弟を大切に思っているのだ。
タイ王国全体が良い方向に向かっているから、慌てる事は無いだろう。
そのソンティは重機の修理を行おうと、子供達がはしゃいでいる場所に向かっていた。
余談だが、タイ王国の貧困地域がこの時期から豊かになり始めたので、これからタイ王国は史実と異なる道を歩んでいく。
史実でバンコクにあった『タニヤ』も、かなり違った形で実現していく。機会があれば、是非とも行く事をお勧めする。
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エチオピアは赤道に近いが大部分を山岳地帯と高地が占める為、年間の平均気温は十六度と比較的冷涼になっている。
(ちなみにインドネシアは赤道直下でかなり暑い。リアウ諸島要塞やシムルー島要塞には、冷房設備は完備されている)
降水量が多くて農耕も行われているが、未開発も多くて開発の余地は十分にあった。
また、降水量が多い為に侵食が激しくて、深い谷や崖が多いのも特徴の一つだった。
国防には適しているだろうが、国内インフラの整備には問題がある地域は多い。
そしてアフリカ大地溝帯で分離されたソマリアに隣接する東部高原は乾燥地帯で、そこの開発が急がれていた。
「エチオピア軍は主に防衛陣地を建設して、俺達は現地の人と協力して橋の建設や水利工事を進めるか。
これで良いのかな? もうちょっとエチオピア全体で、農業開発に取り組んだ方が良いと思うんだが?」
「仕方ないだろう。イタリアとエチオピアは戦争をした間柄で、イタリアはまだエチオピアを狙っているんだ。
【出雲】からジブチを経由した輸送も妨害していて、エチオピアの近代化を歓迎していない。
国防を固めるのは仕方のない事さ。まあ、俺達は地元の人達と協力しながら農業開発を進めれば良い」
「現地の人達が協力的なのは良いさ。感謝の眼差しを向けられるのは気持ちが良いからな。
でも高台は空気が薄いから、ちょっと動くと息切れが激しい。これなら首都の工場建設の方が良かったかな」
「あちらは激しい運動は無いからな。でも、奥地の山岳地帯で鉱山開発や井戸掘りをやっている連中から比べればまだ良いほうだ。
適所適材で配置されたと思って諦めるんだな」
「まあな。山じゃ此処ほど現地の人からの差し入れも無いだろうし、もっと空気が薄いから大変か。
此処で重機の操作方法を現地の人が覚えてくれれば、後々で俺達が楽できる。頑張るしか無いな」
「イラン王国でも地下資源の開発が進められて【出雲】に輸入され始めているけど、このエチオピアも地下資源の宝庫だ。
【出雲】に居る女房や子供の為にも、頑張るとしようか」
世界には色々な国がある。
国土の大部分を山岳地帯が占めて、首都が標高二千メートル以上の高台にあるエチオピアは、日本人にとって異境だった。
しかし、国際政治の関係から泣き言は言えない。苦労するのが嫌だと考える人間は、真っ先にプロジェクトから外されていた。
現地の人達の協力や差し入れなどもあって、【出雲】から派遣されたチームは頑張って開発工事を行っていた。
陣内もエチオピアに視察には来ていた。しかし高山病に悩まされた事もあり、子供を連れてくる事は断念していた。
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ロタ島の地下と海底には、天照基地に準ずる規模の秘密施設があった。
世界各地への通信施設は元より、保守用の部品生産工場や大規模な修理工場まである。
『白鯨』や潜水艦の運用基地、さらには未来から持ち込んだ兵器を配備した迎撃施設も用意されていた。
日本の海洋戦略を影から支える最重要拠点の一つと言えるだろう。
秘密施設の運用要員は全て睡眠教育を受けており、機密保持の面では問題は無い。配置された職員は約五百人だ。
表向きでは、ロタ島は日本総合工業のリゾート地として開発されていた。
道路が二つに割れて飛行船が地下から発進するような機能は無く、地上には社員用の宿泊施設や幹部の別荘が立ち並んでいた。
海水浴場も整備され、釣りなどの大人が寛げる施設も多く用意されている。
その中で一際大きいのが陣内家の別荘だ。地下の秘密施設への出入り口もあり、プールなどの慰安施設も揃っていた。
子供達にしても、ロタ島にくれば他の観光客(日本総合工業の社員)の子供とも遊ぶ事ができる。
その為に、天照基地よりロタ島の別荘に行く事を子供達は希望して、陣内一家の慰安旅行はロタ島が定番になっていた。
そうなると面白くないのは天照基地の織姫だ。定期健診を行う以外は、子供達と会う機会が激減してしまった。
子供自体に接する事が無かった織姫にとって、素直な子供達はお気に入りだった。
劣勢を挽回しようと、ロタ島の陣内家の別荘に立体映像装置やサブ制御システムを移管し、子供達と接する機会を増やそうとしていた。
そして……
「わー、この浴衣の生地はすべすべしてる! 気持ち良いや。ありがとう」
「そうね。汗もべとつかないし、色も良いわ。織姫さんありがとう」
「わーい。織姫姉ちゃんのプレゼントだ。大好きだよ!」
「ちょっと小さい。でも織姫姉ちゃんが作ってくれたから着る」
「お父しゃん、抱っこ! エヘヘ」
『あらあら、三人ともちょうど良い寸法ね。喜んでくれて嬉しいわ。美沙ちゃんは背が伸びたから、少し小さいか。
直ぐに作り直すから一日待ってね。真樹くんは……浴衣よりマスターの方が良いのね』
「いつも済みませんねえ。織姫さんの作ってくれた衣類は着心地が良くて助かります」
「本当。デザインも良いし、参考にさせて貰いますわ」
何処かのジジ馬鹿のようにプレゼント攻撃を行い、織姫は子供達との接点を増やそうとしていた。
今回も光合成繊維工場で生産した新生地を使用した浴衣を、五人の子供達に贈っていた。
上の三人の寸法は合っていたのだが、四歳の美沙は少し寸法が小さかったようだ。
真樹は末っ子の為に、陣内に纏わり付いていて浴衣にあまり興味を示さなかった。
沙織と楓にも浴衣を贈り、デザインも含めて好評だった。
「織姫姉ちゃん。後でお話を聞かせてね。お姉ちゃんのお話は面白いから大好き!」
「あたしも! この前のお話は途中で終わったでしょう。続きが聞きたいの!」
「ボクはお姉ちゃんの新しい衣装が見たいな。だって綺麗なんだもん!」
「花火がやりたい」
「ボクも。お父しゃん、花火」
『あらあら嬉しい事を言ってくれるわね。じゃあ、真一くんと香織ちゃんと真治くんは、別の部屋でお姉さんがお話を聞かせてあげるわ。
マスター、地下倉庫に花火を用意しておきましたので、美沙ちゃんと真樹くんは、それで遊ばせて下さい』
「ああ、いつも済まないな。子供達が世話になる」
『いえいえ、私も子供と接するのは楽しいですからね。じゃあ、隣の部屋に行こうか?』
「「「はーーい」」」
まだ子供達には史実は教えてはいない。それは初等教育が終わって、中等教育に進む時にと考えている。
幼少の頃から織姫に接して、一般市民が知りえない技術に馴染んでいる子供達に、拒否反応は無いだろう。
子供はいつしか大人になっていく。そして陣内の後を継ぐ宿命を、最初から課せられている。
もっとも今の子供達は、純粋に優しく綺麗なお姉さんの織姫に懐き、そして慕うようになっていた。
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日総出版は童話や小説、歴史評価、推理小説、ファンタジー小説、様々な技術本を出版しており、かなりの種類が揃えられていた。
それに制御コンピュータに書かせた漫画本もあって、一般の本屋に並んでいる書籍の半数以上は日総出版の出版物だった。
飛行船から撮影された各地の写真集は結構な人気を博しており、それが海外旅行に行くきっかけになった人も多い。
そんな中、日本の某少年(十二歳)は目的の本を見つけて熱心に目を通していた。
(トルコは順調に発展中か。それにしても【出雲】が出来て、心の祖国に支援を行うなんて、想像すらしていなかったな。
飛行船の定期便があるから、大人になれば行けるだろう。どんな仕事に就けるかは分からないけど、働き出す前に一度は行ってみたい。
これからどうしよう? 未来の知識を使おうにも、技術差があり過ぎるから無理だ。飛行機が無くて、飛行船が使われている時代だし。
コンピュータの自作なんて無理だし、実用化されている技術に便乗して知識を使うしか無いだろう。
どうやら日本の上層部に、未来の知識を持つ人間が居る事は間違いない。怪しいのは巫女様と理化学研究所や日本総合工業あたりだ。
遊園地のアトラクションの【天照W】が、その証拠だ。もし行ったら、どうなるんだろう?
……絶対に捕まるだろうな。下手をすれば拉致されて、洗脳される可能性もある。
かと言って、このままじゃあ何時まで経っても這い上がれない。何時かは決断する必要があるだろう。
でも、心はトルコに向いていても、実際の日本の家族を捨て去る事も出来はしない。悩みどころだな。
今の生活では豚肉を食わなくて済むのは助かるが、そのうちに出回るだろう。何とか対策を考えないと)
日本の生活レベルは改善されていて、少しずつ肉を食べる習慣が広まっている。
しかし、心の宗教上の理由から絶対に豚肉は食べないと、少年は固く誓っていた。
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日本の某地方に住んでいる少年は周囲から浮いていて、兄弟もいない事から大部分の時間を一人で過ごすようになっていた。
同世代の子供達を見下して、上から目線でしか話せなかった事が大きな原因だ。
特に二年前に国内の遊園地に行った後から症状が酷くなっている。その日も古い蔵の中で、一人で座って考え事をしていた。
(まったく、どいつもこいつも俺の優秀さが分かっていない! 俺は転生者なんだぞ! しかも凄腕のシステムエンジニアだったんだ!
それが何でこんな田舎に住まなくちゃ為らないんだ!? 絶対におかしい! こんな時代に転生しても、技術を生かせないじゃないか!
それにしても、日本を動かしている連中に未来の技術を持った人間が絶対に居る! 巫女か理化学研究所が怪しい。
遊園地のアトラクションにあった【天照W】なんて、形がまるっきり同じだ。間違いは無い!
展示内容は誤魔化していたが、良く見れば実際のモデルに従った内容だ。説明員は碌に質問に答える事も出来はしなかったがな。
俺のスキルを生かす為には未来の知識を持った奴と接触した方が良いんだろうが、用心する必要がある。
それにしても日帝の支配する地に俺が転生するとは、歴史の皮肉か。まあ良い。日本人女のハーレムを絶対に作ってやるぞ!)
この少年は遊園地のアトラクションの【天照W】に注目して、説明員に質問を繰り返した事がある。
その為、少年は陽炎機関の監視対象になっていた。
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オーストリアに住む某少年は、秘かに悩んでいた。そしてついに結論を出して、同じ街に住むユダヤ人に頼み事をしていた。
「お前はユダヤ人じゃ無いだろう? 何だってそんな事をするんだ? 改宗するつもりなのか?
お前の年齢なら遅過ぎる事は無いけど、無理する事は無いんだぞ」
「……何も聞かないで手術を御願いします」
「まあ良いけどな。親には内緒だろう。割安でやってやるから安心しろ」
「ありがとうございます!」
少年が頼んだのは、ユダヤ人が男子に行うのが習慣になっている『割礼』の手術だった。
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イギリス帝国の貴族の跡取り息子のチャーリーは、ベットのシーツに付いた赤い染みを興味深そうに見ながら、
裸のままで隣で泣いている若いメイドに冷たい声を浴びせていた。
「何時まで泣いているんだ。一応言っておくがパパに告げ口したら、お前から誘惑されたって言って屋敷から追い出すからな。
貧乏人のお前なんか、誰も構っちゃくれないさ。ああ、これから俺に尽くせば給料も上げてやる。感謝しろよ!」
「うっうっうっ。お母さん、お父さん……」
「ふん! しみったれた奴だな。シートはちゃんと交換しておけよ! それから身体をいつも綺麗にしておけ!」
そう言うと、チャーリーは身体を洗う為に浴室に向かった。
(ふふっ。貴族って良いな。いくらメイドに手をだしても構わないんだからな。これは前世で苦労した褒美なのか?
俺達を馬鹿にしていた白人の女を組み伏せるのは楽しいもんだ。これからハーレム街道まっしぐらだ!)
前世で人種差別を受けたチャーリーは、この時代の貴族の子供に生まれていた。
そして特権意識を持つに至り、ハーレムを作る事を決心していた。
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淡月光は世界各地に進出しており、一部の販売商品の現地生産を推進していた。
全てを日本から輸入するのは無理で、現地雇用を促進させる効果も見込んで欧州各地に生産委託工場があった。
フランスにある工場もその一つだ。小さな工場だが、ある夫婦が職人を数人雇って経営している。
休憩時間に、その夫婦は一人娘について話し合っていた。
「最近のマリーは少し女らしくなって安心したよ。子供の頃は乱暴で男の子と良く間違われたくらいだからな」
「そうですね。マリーもうちで生産している商品の世話になる年頃ですからね。
女らしくなって貰わなくは困りますよ。もっとも、男の子に近づかれると緊張するのは変わっていませんけどね」
「まだ十二歳なんだし、今のうちから男と仲良くされちゃ困るぞ。まあ、大人になってもそうじゃ困る事も確かだけどな。
嫁に行けないんじゃ、不安になっちまう」
「マリーは可愛い女の子なんです。最近は女の子らしい言葉を使うようになって一安心ですよ」
「小さい時から機械好きで利発な子だったからな。昔はマリーが天才じゃ無いかと思ったが、普通の子で安心したよ。
だけど、将来に男がやるような仕事がしたいって言われたらどうする?」
「その時に考えれば良い事ですよ。まだ十二歳です。あなたは心配し過ぎです」
その夫婦の一人娘のマリーは幼い頃から器用で利発な女の子だったが、言葉遣いも乱暴で良く男の子に間違われていた。
しかし十二歳になって女らしさが出てきたので、夫婦は少し安心していた。
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アメリカは西部の広大な地域を封鎖しているが、それでも残った国土は広大で、海外進出も進んでいる事から活況だった。
大手の財閥による独占の傾向はあったが、小さい財閥の数も相当数になる。
その中の一つ、バルナート財閥の一人息子のエドウィン・バルナートは、一人自室で考え事をしていた。
(日本に俺と同じく未来の知識を持った奴がいて、政治に介入しているのは間違い無い。
巫女の存在も嘘っぱちだな。そうなるとハワイ王国やインディアンの神の呪いも疑わしくなる。オーストラリアの件もだ。
しかし電子部品も碌に作れないで、あんな事が出来る筈が無いんだ!? それが大きな疑問だ。
でも、日本の遊園地にあるアトラクションの写真は、確かにあの時代の日本の宇宙ステーションの形だ。
まったく、どうやって知識だけで結果が出せるんだ!? その秘密が分かれば、うちの財閥も大きく成長が出来るんだがなあ。
俺は子供で動ける範囲は限られている。しかし、大人になれば別だ。この合衆国を影から操るぐらいに大きくしてみせる!)
エドウィンは家が裕福な事から、海外の情報を容易に得られる立場にあった。その為に、日本に転生者が居ると看做していた。
ただ、知識だけで成果を出すには今の時代の技術が遅れ過ぎている。その差をどうやって埋めたのかが、分からない。
その理由が分からないうちには動けないと判断して、今は状況の把握に努めていた。
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日本が巫女の神託を利用しているので、各国の諜報機関は秘密を探る傍らで、可能な範囲の不可思議な情報の収集も行っていた。
ある諜報機関では、定期的に報告会が行われていた。
「日本での非合法活動は、全て日本側の妨害で失敗している。現地組織の被害も甚大だ。やはり方法を変えるしか無いだろう。
奴らのホームグラウンドでの行動は控えるしかあるまい」
「仕方ないか。それにしても、我が国の民間の占い師や魔女組織などの怪しげな奴らは全滅だ。
どいつも役には立たずに、金を渡すと持ち逃げされる始末だ。ローマ教皇庁にかなりの資金を渡しているが、まだ成果は出ていない」
「寄付で贅沢な暮らしをしている司祭が多いからな。まったく善良な信者から金を集めて偉そうにしているんだから始末に悪い。
以前は信者の児童を性的虐待した事も問題になったしな。その癖、成果を出す為に資金をもっと多く回せと要求してくる」
「もう少しは待つが、ローマ教皇庁が結果を出せなければ資金提供は打ち切るしか無い。
文句を言ってくるだろうが、その時は盛大な嫌味を言ってやるさ」
「世界各地で古い宗教が再評価され始めた。生贄を捧げる儀式を復活させたところもある。
可能性は低いだろうが、ハワイ王国やインディアン、アボリジニ、鯨の神のように各地の神が復活したら大きな問題になるぞ」
「だから過激な儀式をやっているところは、取締りを強化している。万が一でも現地の神が甦ったら、大きな被害を受けるからな。
そうそう、ブラジル支部から奇妙な報告が入っていたな」
「奇妙な報告? どういう内容だ?」
「何でも貧しい農村の十二歳の子供が、未来からやって来た生まれ変わりだって言ったそうだ。
しかも、未来では今の清国が『大中華帝国』に名前を変えて、我々と対等以上の国力を持っているとな。
その子供は前世では『大中華帝国』の将軍だったが、高待遇(ハーレムを希望)なら我々に協力すると申し出てきた」
「……ほう、あの清国が我々と対等以上の国力を持った帝国になっていて、その子供は将軍だったと言うのか? それでどうしたんだ?」
「調査員が詳しく話を聞いたが、宇宙に進出しないと駄目だとか、日本を滅ぼさないと世界が滅びるとか支離滅裂な話だけだ。
まともに取り合わなかったら、怒って襲い掛かってきたんで射殺したという報告だ」
「当然だろうな。しかし、あの清国が我々と対等以上の国力を持ったとは。空想好きなのは本人の自由だが、些か奇抜過ぎるな」
現在の清国は義和団の乱が終結して、やっと北京議定書が結ばれたばかりだ。
列強の草刈場と化している清国が、欧米と肩を並べる帝国になっていると言われても信じる者は誰もいない。
某映画のように、映画俳優が現役の時代に、その映画俳優が未来で大統領になっていると言っても、容易に信じられるものでは無い。
本人は貧しい生活から抜け出すきっかけになればと考えたらしいが、信用されなくては意味が無い。逆に嘘吐きと思われるだけだ。
こうして未来の魂を持つ転生者がまた一人、姿を消していた。
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今の清国は列強の侵略が進み、税も重くなって住民の不満は高まっていた。
そんな中、北京近郊の街に住む呉奇偉は、妹が寝た後に母親と話していた。
「母さん、父さんの俸給だけじゃ足りないだろう。俺が働くよ。妹にはひもじい思いはさせたくは無いんだ。
最近は母さんは働き過ぎだよ。このままじゃ、身体を壊してしまう」
「……最近は税が重くなって生活が厳しくなってきちまった。まったく異人がのさばって治安も悪くなる始末だ。
父さんの居る軍隊から出る俸給も、少しずつ減ってきているからね。……済まないが頼むよ」
「任せておけって! その代わりに母さんは少し休んでよ。今の状態じゃ身体を壊しても薬は買えないんだからさ」
「分かってるよ。この前の戦争で父さんが無事だったのが何よりだ。来月には帰ってくるから、その時はご馳走だよ」
「ああ。俺が頑張って働くからさ。父さんに俺の成長を見せてやるんだ!」
(前世で習った歴史では、欧米や日本が侵略してきたとあったよな。でも、こんな大昔の事なんて覚えちゃいないよ!
日本はこれから侵略して来るのか!? でも、街の噂じゃ日本は侵略してこないと言っている。
どっちなんだよ!? こんな場所じゃ碌に情報が集まってこない! やっぱり大人になって官吏に為らないと駄目なのか!?
未来の知識を上手く使えないのは悔しいが、それでも官吏ぐらいには為れるだろう。それで家族を養うんだ!)
情報は重要なものだが、居る環境によっては入手できる内容も限られたものになってしまう。
それと人間の記憶は曖昧なものだ。歴史家ならともかく、数百年前の歴史を細かく覚えている一般人など殆ど居ない。
それに大まかな常識レベルの事なら応用が利くが、技術の事になるとまったく手が付けられない。
そのジレンマを呉奇偉は感じていた。
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中国には列強の進出が相次いで、各地の治安が乱れていた。しかし、安定している地域もあった。
福建省と浙江省(杭州以南)が該当する。日本が求めた為に、清国はその地域の不割譲を宣言した。
その結果、福建省と浙江省(杭州以南)は日本の領分という暗黙の了解があった為、列強の侵略の手は伸びてはいない。
その為、他と比較すると安定した治安が保たれていた。もっとも、賠償金の返却の為に重税が課せられているのは同じだ。
それでも列強の兵の姿が見えないというのは、住民の平穏を保つ大きな要因の一つだった。
その福建省に住む胡適は、芸術好きの叔父と話していた。
「紫禁城にあった美術品と文化財を台湾に持ち込むだと!? まったく清国の権威も地に堕ちたもんじゃ!」
「でも管理権はこちらが持って、何十人かが派遣されるんでしょう。我が国が復活した時に、返還要求を出せば良いじゃ無いですか?
それより今は国の近代化を進める方が優先だと思います。幸いにも此処には列強の侵略は及んでいません。今がチャンスです!」
「近代化を進める方が優先なのはワシも分かる。だがな、国の宝とも言える美術品や文化財が持ち出されると思うと悔しくてな。
まあ、珍妃様が責任者で赴かれるというのが慰めだ。後で一般公開すると言うから、見に行くつもりだ。お前も行くか?」
「ええ、日本が台湾をどう開発したのかが気になります。是非とも行ってみたいですね」
(日本は台湾を植民地では無く、併合して日本領として扱っているんだよな。
未来の知識に基づいて運営されている日本が、台湾をどう開発しているのかを知るのも重要だ。
ここじゃあ、南米の情報なんて全然入らないし、情報の孤島かよ。早く大人になって情報収集ルートを作らないと手遅れになる!
未来の情報を持った奴が今の日本を動かしているなら、今の中国に手加減するはずが無い。必ず潰すだろう。
とばっちりを避ける為にも早く動かないと拙いんだが、こればかりは大人に為らないと駄目だな)
子供では動けないというジレンマを抱えていたが、それでも周囲の状況は切羽詰ったものでは無い。
その為に、ある程度は落ち着いて情報収集に務めようと胡適は考えていた。
前世の祖国の事は気にはなったが、それ以上に今の生活を守る方が重要だと割り切っていた。
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今の李氏朝鮮はロシアに大部分を支配され、民兵組織もロシア軍によって組織される程に支配が深まっていた。
そして食料も徴発されて、民間に出回るものが激減して飢餓が慢性化している。
「ほれ、今日の飯だ。さっさと食べて仕事に行って食料を貰ってくるんだよ!」
「えーー、これだけ!? こんなに少ないんじゃ仕事の途中で動けなくなっちゃうよ!」
「親に向かって何て事を言うんだ!? 親の言う事は黙って聞くんだ! さっさと食べて行くんだよ!」
あまり詳細な記述をすると食欲が減衰するから、それには触れないでおこう。
ただ、育ち盛りの十二歳の食事にしては少な過ぎて、見た目や栄養価の問題があるのも事実だった。
李氏朝鮮は儒学(朱子学)思想で染められており、家族制度と階級が厳格に定められている。
その為に、年長者に逆らう事は基本的に許されていない。
国の発展を阻害させる大きな要因だが、現状を維持するには便利な事から、仏教を排除して国教として広められていた。
叱られた子供の金恨玉(十二歳)は、空腹を我慢して仕事場に向かっていた。
その道中、蓄積された怨みを日本に向けていた。
(こんなひもじい思いをするのも、全ては日帝の所為だ!
まったく情報が入ってこないから分からないけど、ユダヤ人の国が南部に出来たなんて絶対におかしい!
俺と同じく未来を知っている奴が日本を動かしたに違いない! 未来の仕返しをするなんて卑怯な奴らだ!
それにロシアと組むなんて、上は何を考えているんだ!? このままじゃ国が滅びてしまうぞ!?
絶対に俺は生き残って這い上がってやる! そして俺をこんな目に遭わせた日帝に復讐してやる!)
如何に未来の知識を持っていても、子供ではどうしようも無い。下手な事を口走れば、気が触れたと勘違いされるだけだ。
まずは生き延びるのが優先になる。その為には空腹を我慢してでも、働かなければならない。
金恨玉は仕事中でも考え事をしていた為に、何度か失敗をしてしまった。
その結果、報酬である支給食料を減らされる事になったが、それは自業自得というものだった。
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ローマ教皇庁はキリスト教の総本山であり、全世界のキリスト教信者の心の拠り所とも言うべきところだ。
ハワイの女神ハウメアによって威信が傷つけられたが、人間というものは都合の悪い事は忘れるところがある。
寄付金は減ったが訪れる信者の数はあまり変わらず、神に祈りを捧げる普段の生活習慣も変わってはいない。
奇跡や予言の実現の為に各国政府から秘かに国家予算を投じられていても、教皇庁の活動は表面上は以前と変わらなかった。
しかし運営資金が減り、各国政府から早急に結果を出せと迫られている上層部は、深刻な危機感を抱いていた。
「おい、そっちの状況はどうだ? 何か成果は出たか?」
「いや、まったく駄目だ。本当に過去に出来たのか疑問だよ。何が足りないんだか?」
「善良な信者相手ならともかく、我々だけが読める門外不出の機密文書に嘘が書かれている筈が無いんだがな。
こうなりゃ、民間の魔女組織に働きかけしてみるか?」
「馬鹿を言え。各国政府が試みて失敗しているんだ。資金を投入している我々がそんな事をしようものなら、金を返せと言われるだけだ。
それに魔女組織に助力を要請したら、中世の魔女裁判の責任追及が待っているぞ! そんな馬鹿な事は考えるな!」
「それもそうか。まったくどうやったら神の奇跡が再現できるんだ!? こっちが教えて欲しいくらいだ」
「アジア人の司祭をハワイに潜入させたが失敗だ。日本もな。アメリカの封鎖地域やオーストラリアは、誰もが怖がって逃げている。
参考になるところは無いな」
「いっその事、生贄を捧げている宗教儀式をやっているところに人を派遣するか? 何か新しい発見があるかも知れん。
何なら罪人(背教者)を送り込んで生贄にしても構わんが?」
「そうだな。ちょっと上に相談してみよう」
人間誰しも努力すれば、成功するというものでも無い。成功の影に努力はあるが、努力イコール成功では無い。
その真理をローマ教皇庁の上層部はひしひしと感じていた。
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現在の欧州の各王室は血が濃く混じり、イギリス女王ヴィクトリアに由来する血友病が各国の王室関係者に多く発病していた。
十年前に日本が数種類の血液型がある事を発表したので様々な研究が行われているが、まだ血友病の治療方法は確立されていない。
そして各国の王族は血友病の恐怖に怯えながらも、日々を生きていた。
その中の一人に、現ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の甥であるヴァルデマール・フォン・プロイセンが含まれていた。
(スラムの生まれだった俺が、何の因果でドイツの皇室の一員として生まれ変わったんだか。
科学は遅れてはいるが、食事には困らない。しかし、血友病なんて因果も背負っているとは。まったく運命は皮肉だな。
この時代の血友病は難病で、治療法は無い。俺も何歳まで生き延びられるか、まったく分からない。
唯一、希望があるとすれば、科学技術で成功している日本が治療法を確立させる事だ。転生者が居るらしいから、可能性は高い。
伯父上である皇帝陛下に御願いして、日本の理化学研究所に要請を出して貰ったが、結果がどうなるかだな。
だが……もし生き延びられれば、今度こそ這い上がってみせる!
スラム生まれだった俺だが、苦労して心理学の専門家になったんだ。科学技術は遅れていても、人間の精神なんてそうは変わらない。
未来の心理学を使えば、大きな成果が出るだろう! 頼む! 俺を生き延びさせてくれ!!)
血友病で有名なのは、ロシアの皇帝ニコライ二世の子供達だろう。
皇太子アレクセイはまだ生まれていないが、その姉達も潜在的な血友病の保因者だ。
そして、ロシア皇帝一家以外にもドイツ皇室や他の皇室一族にも血友病の保因者は多かった。
ヴァルデマールは血友病に怯えつつも、未来への展望を深く考えていた。
今のところは未来で学んだ心理学を応用して、両親や伯父の信用を得ていた。
このまま行けば早期に権限を委譲させて貰って、独自の方針を採る事が可能になるかも知れない。
もし血友病を克服して生き延びられれば、祖国のドイツを発展させて栄華を極める事を夢見ていた。
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(あとがき)
転生者はこれで全員ではありませんが、中盤までに出揃う予定の人達の日常を書いてみました。
同世代の有名人を検索してみれば、ある程度は絞り込めると思います。(あまり多いと書ききれない為に、人数を制限しました)
転生者が科学技術のギャップに悩むのは宿命です。知識はあるけど有効に生かせない。その苦悩を背負って貰っています。
細かい歴史資料や科学技術関係は無理でも、この方面の技術は重要だなどの大方針については的確な判断が下せるはずです。
決して能無しではありません……と思います。味方には恩恵はありますが、敵方には無い。構想の時からの意地悪な設定です。
現在は一個数十円で入手できる簡単な電子部品も、製造するとなると動作理論を確立して製造精度を向上させないと無理です。
あの時代でそれが可能なのか? 転生者の努力に期待します。
科学分野は無理でも心理学を応用した対人交渉は、大いに成果が上がるでしょう。
総じて転生者は知識があるから有利だという考えが主流だと思います。
しかし、あまりに掛け離れた技術の世界からやって来た場合は? 何事もケースバイケースと言う事だと思います。
人間の執念というのは時には物凄い事も実現する事があります。転生者の執念が何をするのか?
その結果は作者にもまだ分かっていません。
(2013. 7.28 初版)
(2014. 3.16 改訂一版)
管理人の感想
世界中に様々な転生者がいるようですね。
それにしてもドイツの皇族にも転生者……場合によっては歴史は大きく変わりそうです。
まぁ転生者がいくら頑張っても陣内さんには勝てそうにはありませんが(汗)。