1900年は十九世紀最後の年だ。その象徴的な年に大きな事件が起きつつあった。
その事を日総新聞は年明け早々に報道していた。
『数年前から清国の各地で、現地の中国武術集団は侵略の尖兵であるキリスト教と激しい対立を繰り返してきました。
三年前にドイツが膠州湾一帯を占拠したのも、彼ら中国武術集団がドイツの宣教師を殺害したのが原因です。
昨年の末頃に山東省を追い出された彼らは義和団と名乗り、首都である北京に向かっています。
その途上で欧米各国の市民や舶来品を扱う商店を次々と襲撃し、現在は天津から北京へ通行できない状態になっています。
現在、北京には各国の公使館や民間人が多数住んでいますが、安否が気遣われております。
日本人の民間人はいませんが、公使館員の家族もおり、政府は救出の為に飛行船を現地に派遣する事を検討しています』
史実の義和団の乱の前触れだ。これが史実通りに進むのなら、北京の公使館区域で篭城戦を行う事になる。
そして清国の滅亡へのカウントダウンが始まる。今の日本は清国に進出していないので巻き込まれないだろうが、
犠牲者を減らす為と各国に恩を売る為、飛行船を使って非戦闘員の救出計画を進めていた。
列強は清国に義和団を取り締まるように強烈な脅しを掛けたが、その効果は無い。
既に北京に拠点を持つ各国は、厳重な警戒態勢を取っていた。
尚、今のところは日本と清国の関係は良好だ。日本が清国の内陸部に進出していない事もあり、政府間では問題は無かった。
寧ろ、日本から資源と交換に輸出される武器と弾薬が、今の清国軍を支えていると言って良い。
義和団の乱が起きたら、清国と列強の仲介をするつもりで考えていた。
『新しく領土に編入された台湾や海南島、グアムを含むマリアナ諸島、チャーン島など国内の開発は順調に進んでいます。
各地への移住も順調に進んでいます。また同盟国や友好国の日本人街へ移住をする人達も増加傾向を示しています。
それと日本人街を建設した各国からの我が国への移住者が増えて、国内に外国人街を複数建設する事も検討されています。
今後も同盟国や友好国との民間交流が進む見込みです。【出雲】への移住者はバスラ州方面で農業開拓が順調に進んでいる事もあり、
ケシム島やラーラク島を含めて、人口は二十五万人を突破しました。皇室直轄領という事もあり、国内より自由な気風に満ちています。
我が国はフィリピンとペルー、インドネシアの工業化に協力していますが、その状況を受けてアジアや中東、南米各国からの使者が
支援を要請する為に来日する事が多くなり、政府は対応に苦慮しています』
今のところは国内や同盟国、友好国に大きな混乱は無く、順調に開発を進めていた。
お互いに民間移民を進めて、人材交流や文化交流は活発化していた。
日本国内にも海外からの移住者が増えて、外国人が身近な存在になりつつある。
今の日本はアジアや中東、アフリカ、南米にまで支援の手を広げている。しかもフィリピンやインドネシアは独立の支援も行った。
それを聞いた列強の圧迫を受けている小国や、植民地支配されている各国から協力要請が相次いだ。
しかし、無い袖は振れない。今の日本の支援が国力の限界に近い事を訴えて、時期を待つように説得していた。
まあ、そんなに簡単に納得して貰える筈も無いのだが、何とか評判を落とさずにこれ以上の支援拡大が無いように努めていた。
今までの日本は太平洋や中東を中心に工業化の支援の輪を広げてきた。
将来的な見地からの行動だが、北方領域の開発が遅れていたのは事実だ。
北海道の開発は重点的に行われていたが、今年からは千島列島の開発や要塞化も少しずつ進められる事になっていた。
尚、日本の軍備は陸軍は縮小方向に、そして海軍は小型艦艇を中心に拡張が進められていた。諸外国の警戒を招かない為だ。
事実、陸軍の規模の縮小は効果はあった。
海軍の艦艇数は増えたが大型艦が無い為に、列強の警戒の視線は向けられても、危険視されるような事態にはなっていない。
『フィリピンの開発は各国が支援して進んでいますが、区割りがはっきりした為に、現地で混乱が発生しつつあります。
東方ユダヤ共和国と我が国は、北部のルソン島とミンドロ島、カラミアン諸島、バラワン島を中心に支援を行っています。
一方、アメリカは領土に編入したサマル島を要塞化して、そこを拠点としてフィリピンの支援を行っています。
現地で勢力の二分化が進んでおり、予定されているフィリピンの独立が懸念されています』
東方ユダヤ共和国と日本は、フィリピンのインフラを中心にした経済面の支援を重要視していた。
逆にアメリカは自国の手法を強引に導入し、農園や工場などの進出が相次いでいた。
独立準備中の各組織にも、アメリカは強引に介入を繰り返している。
もっともそれで利益が出ている現地の人もいるので、完全にアメリカが現地から敵視されている訳では無い。
東方ユダヤ共和国と日本が政治にあまり介入しない方針を採っているため、フィリピンの北部と南部の軋轢が顕在化しつつある。
ここで問題となるのはフィリピンの独立の為に、シーボルト商会が秘かに持ち込んだ武器だ。
2万丁の小銃と2500万発の銃弾、大量の爆薬などが殆ど使われないまま、現地の各有力者が持っている。
今のところはその武器は使われてはいない。しかし、これからも使われないと保証できる人間は誰も居なかった。
『ペルーの開発はハワイ王国を拠点にして、徐々に進んでいます。既に現地の整地は終了して、住宅や工場の建設に取り掛かっています。
インドネシアの開発は台湾や海南島、チャーン島に建設された工場からの支援と日本本土からの支援もあり、軌道に乗りつつあります。
人材交流や文化交流も活発化しております。宗教が異なるために問題が発生する事もありますが、現在は概ね落ち着いています』
フィリピンは日本近隣という事もあり、迅速な支援が可能だ。(人材不足はある)
しかしペルーは南米という地理的条件もあり、ハワイ王国の力を見込んだ開発が進められていた。
速度は他と比べると比較的ゆっくりとだが、確実に進んでいる。それにハワイ王国の工業の活性化という副次的な効果もある。
インドネシアも同じだ。速度はゆっくりとだが、台湾や海南島、チャーン島やタイ王国の景気に刺激を与えて開発が進められていた。
この他にも【出雲】が主体でオスマン帝国、エチオピア帝国、イラン王国の支援も着実に進んでいた。
ホルムズ海峡の要衝のケシム島とラーラク島の建設も同じだ。
ケシム島には工場群と海軍基地が、そしてラーラク島には要塞の建設が進められていた。
史実では本年に八丈島からの開拓団によって、大東諸島の開拓が開始された。
しかし現在は陣内の個人所有地として登録されていた。天照基地と海軍の秘密訓練基地がある為に、開拓が実行される事は無かった。
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日総新聞はラジオ放送局を持っており、年々規模を拡大していた。新聞の読者は国内は元より、海外にも多い。
各国の新聞社と情報交換契約を結んだ為に、日総新聞の記事は欧米にも伝えられるようになっていた。
さらにラジオ局は国内全域をカバーし、ハワイ王国や東方ユダヤ共和国、タイ王国、フィリピンにも進出していた。
その現地のラジオ局を背景に、さらに日総新聞は売り上げを伸ばし、多くの子会社を持つ大企業へと変わっていた。
「ほう。今年は理化学研究所の発表はまったく無しか。やはり賭けをしなくて正解だったな」
「当然だ。親の総取りなんかされてたまるか! それにしても理化学研究所が発表を止めたというのは、そろそろ限界かも知れない。
フィリピンやペルー、インドネシアの開発も人手が足りず、各国からの留学生も増える一方なんだろう」
「ああ。日本が陸軍を縮小したのも労働者不足だからと噂はある。しかし海軍は増強しているんだ。まだ油断できない」
「海軍と言っても警備隊レベルだろう? 一万トンを超える戦艦の発注を止めた事もある。
そんなに警戒しなくても良いと思うが?」
「清国に勝っても内陸部に進出せずに、沿岸部を固めたからな。今の日本は太平洋や中東に目を向けている。
まったく清国で内乱が起きる寸前だってのに、気楽なもんだよ」
「北京に公使館はあるけど、日本の民間人はいないからな。こっちは賊が襲ってこないかと不安だって言うのにさ。
他所の開発に忙しいから、清国には関心が無いってか! まったく、これを見越して清国に進出しなかったんじゃ無いのか!?」
「日本には地震を予知した巫女がいるからな。結局、政府が国内で探した占い師や魔女は全然使い物にならなかったらしい。
拙い! このままじゃあ、日本の一人勝ちになってしまう可能性もあるぞ!」
「それは考え過ぎだ。今回のフィリピンやインドネシアの件で、日本の限界が早くも訪れたんだ。
海軍は拡張路線だが警備隊レベルだし、陸軍を縮小した事もある。技術レベルは高くても脅威にはならないと考えている国は多い」
「しかし新聞の論調を見ると、やはり清国の騒乱には関心が高いみたいだ。これを契機に日本は何かをやるんじゃないのか!?」
最近の色々な発明を独占した訳では無いが、それでも大半の、しかも利益に結びつく多くの発明を日本が行ったのは事実だ。
それを背景に国力を高めて海外進出を進めている日本は、各国にとって油断のならない相手だった。
まあ、各国の権益を侵していないから、まだ警戒レベルで済んでいた。
それに陸軍の規模の縮小は各国から好意的に受け止められていた。
もっとも日本は陸軍を縮小したが、各地の拠点防衛の施設や部隊はしっかりと残している。
陸軍は八個師団に抑えたが、逆に機械化を進めて機動力を増していた。それに海兵隊は逆に増強している。
大規模な侵攻を行う気は無いが、島嶼作戦能力は十分に向上させていた。
「世界のあちこちで火種が燻っているというのに、日本の勢力下は安定している。まったく神様は日本をエコ贔屓しているのか!?」
「そうでも無いさ。フィリピンを巡ってはアメリカと対立が進んでいるし、エチオピア帝国を巡ってはイタリアとの関係が悪化している。
フィリピンやインドネシアの独立が他の植民地の独立運動に繋がりかねないと、イギリスやフランスやドイツが警戒している。
オスマン帝国やイラン王国の工業化を、最近はロシアやイギリスが気にし始めたし、清国の漁船団と衝突を繰り返している。
まだ大きな問題にはなっていないが、日本にも火種はあるという事だ。それにしても、最近のユダヤ人は活発に動いているな。
日本と協力して勢力を伸ばしている。上手くやってるよ」
「まだ分からんぞ。日本が上手くユダヤ人を使っているのか、ユダヤ人が上手く日本人を乗せているのか判断できん。
ロシアはユダヤ人を嫌っている。そのロシアがシベリア鉄道の建設を進めていて、朝鮮に進出しているんだ。衝突は時間の問題だ」
「シベリア鉄道が完成すれば、ロシアのアジア進出が加速されるな。そうなると満州や朝鮮は危うい。
まったく李氏朝鮮は何を考えてロシアに接近したんだ? 呑みこまれて国が無くなると分からないのかな?」
「奴らが決めた事だ。俺達があれこれ言う筋合いじゃ無い。事大主義の末路がどんなものになるのか、実例を見せてくれるだろう。
それにしても清国の騒動は収まる気配は無い。ひょっとすると、えらい事になるかも知れない」
「ああ。暴徒が二十万人を超えているという話もある。既に天津と北京の往来は出来ないと言う事だからな。
そうなると、北京に住んでいる各国の公使館が襲撃される危険性はある。注意しておいた方が良いな」
日本の南方領域であるフィリピンとインドネシアの開発は進められていたが、順調続きという事は無かった。
現地の人との感情的なトラブルや、他の列強の横槍もある。色々な問題があったが、何とか近代化を進めていると言ったところだ。
中東やアフリカ、南米での日本の動きを列強は警戒し始めていた。
しかし、最大の世界帝国であるイギリスは南アフリカのボーア戦争を継続中だったので、介入する余力は無かった。
新興国であるアメリカもフィリピンの利権や、インドネシアも将来の利権をちらつかされた為に介入を躊躇っていた。
他の列強は介入する事を検討したがアジアは遠く、日本の存在もあって結局は警戒するに留まっていた。
そこに来て、清国の義和団が起こした騒ぎに列強は注目していた。北京の自国の公使館の安全確保もあるが、騒ぎが大きくなれば、
さらに清国に進出できると考えている国もある。まさに清国は列強の草刈場と化そうとしていた。
尚、南米のペルーの方はまだ開発が始まったばかりで効果は出ていない為、列強は警戒しているだけで具体的な行動は行っていない。
列強の視線が中国やアジア地域に向けられている状態で、日本は【出雲】を中心とした工作を秘かに進めていた。
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フィリピンやインドネシア、ペルーの開発が日本やハワイ王国、タイ王国の景気の刺激剤となり、各地の工場生産量は記録を次々に
塗り替えていた。色々な問題はあったが、何とか日本の影響下にあるところは、好ましい状態が続いていた。
しかし、清国では義和団が騒ぎを起こしており、史実であれば義和団の乱と呼ばれる列強八ヶ国との戦争に突入する。
今回は日本は清国に進出していないので、七ヶ国との戦争になるだろう。それにどう対応するか天照機関は協議を重ねていた。
「各国が清国に義和団の鎮圧を要求しているが、それが実現できる見込みは無い。義和団は欧米人を襲撃しながら北京に進んでいる。
今のうちに北京の公使館の非戦闘員を避難させておいた方が良いだろう。もっとも日本人の非戦闘員はいないがな」
「地上ルートは義和団に塞がれているが、我々なら飛行船を使って空輸ができる。列強への貸しになる。
不安を持っている現地に、支援の手を差し伸べるべきだろう。それで後々の発言権が確保できる」
「ユダヤ人が以前に使っていた対馬の施設で受け入れ準備を進めている。列強のご婦人や子供に日本文化に親しんで貰おう。
それと大量には送れないが、空輸で増援を送り込む。さすがに現地の全員を救出するのは無理だからな」
「列強は一番近い位置にある我々に派兵を要請してくるだろうが、我が国は清国に利権を持っている訳では無い。
清国の内陸部に進出しないと宣言した事もあるから、現地に派兵するのは拙い。不要な清国の怨みを買うからな。
しかし、北京の籠城戦を支援するなら話は別だ。列強も納得するだろうし、名目も立つ」
「史実ではロシアと我が国が大兵力を派遣した。まあ、地理的な要因からだな。しかし今回は我々の関与は最低限に止める。
逆にフィリピンとインドネシアで戦えなかった、強い不満を持っているアメリカ陸軍に頑張って貰おう。
アメリカとしても中国に本格的に進出する良い機会だ。断る事は無いだろう」
「史実ではアメリカはフィリピンの制圧に手間取って大兵力を派遣できなかったが、今回は一応は平和裏に関わっている。
我が国は飛行船を使った支援と済州島を使った補給は行うが、義和団の鎮圧は清国に多くの利権を持つ列強にやって貰う。
此処で清国と大きく揉めたくは無いからな。寧ろ事態が落ち着いた時に仲介をして、我々の有利なように事を運ぶ方が利口だ」
「史実では五月に列強は大沽砲台の引渡しを清国に求めたが、今回は既に一月の時点で行われている。そして既に攻め落とされている。
やはり現実は史実と乖離を始めたという事だ。これからは予測しない事が発生するかも知れん。注意を払うべきだ」
「睡眠教育のお蔭で史実を知っているから、先回りした色々な手が打てる。
これからは、あまり当てには出来ないかも知れんが、我々の持つアドバンテージを有効に使わせて貰おうか」
今回の義和団の乱において、日本は傍観者とまではいかないが積極的な関与は避ける方針でいた。
精々、北京の各国の非戦闘員を飛行船で避難させて、包囲される公使館地域の支援を行う程度で止めるつもりだった。
そして列強に敗れた清国との講和を仲介して、日本が有利なように事を進める計画を立てていた。
清国に直接進出していないから、利権を持っている訳で無い。この程度の関与で十分だろうと見込んでいた。
そして史実と大幅に違うのは、フィリピンに居るアメリカ軍を大々的に中国大陸に引きずり込もうと考えていた事だ。
史実ではフィリピン人約六十万人を虐殺した米比戦争の真っ最中だが、今回は違う。
米西戦争と米蘭戦争において陸軍の出番は殆ど無かった。欲求不満のアメリカ陸軍の不満を解消(被害は受けて貰う)し、
中国大陸にアメリカを引きずり込む一石二鳥の効果を見込んだ長期計画だった。
アメリカ側も中国大陸への進出を望んでいた事だし、目論見通りになるだろうと推測されている。
今の歴史が史実と乖離を始めている事に若干の危惧を抱いていたが、計画を進めていた。
「ハワイ王国や東方ユダヤ共和国、タイ王国で現地の技術者が育ち始めたから、少しは手を抜けるから助かる。
オスマン帝国やエチオピア帝国はもうちょっとで軌道に乗るな。イラン王国やフィリピン、ペルー、インドネシアはこれからだ。
手が離れるまでは、まだまだ時間が掛かるという事だ。そう言えば【出雲】の例の計画は順調に進んでいるのかね?」
「ええ。史実ではサウード王家がリヤドを奪還したのは1902年ですが、今回は今年に行動を開始します。
王子に従う人間に武器を供与して、【出雲】で訓練を以前から行わせています。
我々がオスマン帝国やエチオピア帝国、イラン王国に支援をしているのを見て、全面的な協力を要望しています。
サウジアラビアの建国には時間が掛かるでしょうが、【出雲】が全面的に支援する事でアラビア半島の大部分を支配して貰います。
見返りとして【出雲】の領土の拡大と、友好関係を結んで地域の安定に努める事にしています。
海水の淡水化プラントの建設や工業化を進める事、それに砂漠の緑化に大々的に協力を求められています。
上手くいけばアラビア半島全域に影響力を行使できる上に、ガワール油田にも食い込める可能性もあります。
イギリスあたりが介入してくる可能性はありますが、今はボーア戦争中でまずは大丈夫でしょう。最悪は武力衝突も覚悟しています」
「フィリピンやインドネシア、ペルーの開発は時間が掛かるが、今の列強は清国に目が向いているから争いに結びつく事は無いだろう。
それに世界最大のイギリス帝国は南アフリカのボーア戦争に忙殺されているから、中東に兵を向ける余力は無い。
イギリスの増援を少しずつ削っているから、史実よりボーア戦争は長引くだろう。その隙に中東で我々の影響力を広める計画だ。
将来的に見ても大きなメリットがある。別に世界覇権を欲しい訳では無いが、友好国は多いほど良い」
イギリスはボーア戦争の為に余力が無い。だからこそ、この時期に中東で史実のサウジアラビアの建国の準備を進めていた。
紅海やアラビア海沿岸にはイギリスとオスマン帝国の植民地はあるが、そこには手を出さずに内陸部を抑える計画だった。
サウード王家には【出雲】の手厚い支援が行われて、その準備は着々と進められていた。
「オーストラリアは完全にイギリスの手から零れ落ち、ニュージーランドは陥落寸前か。現地の入植者は顔を青褪めている事だろう。
先住民に負けて奴隷になっても、それは先祖や自分達の報いと思って運命を受け入れて貰うだけだ。
アメリカのインディアンとオーストラリアのアボリジニはどうなっている? 上手くいけば強力な同盟国が誕生するんだろう?」
「小規模な街を建設して、近代化された生活に慣れて貰うのと狩猟生活から農耕生活に移行して貰う事に重点を置いています。
オーストラリアは外とは隔離された空間ですから何とでもなりますが、アメリカは陸続きですからね。
伝染病で隔離された土地にインディアンが居住しているのがばれたら、戦争騒ぎになるでしょう。
人口が少な過ぎるという問題もあります。オーストラリアはこのまま発展を続けて貰う形で良いでしょうが、インディアンに関しては
今のところは妙案がありません。まずはインディアンの人口を徐々に増やしながら対策を検討します」
「確かに人口問題はどうしようも無いな。欧州は増え過ぎた人口の為に、各地の植民地獲得に躍起になっている。
人口が少な過ぎての問題とは、些か複雑なものを感じるな」
「それは日本も同じ事だ。狭い国土だが人口が約四千万だ。もう少し人口を増やさないと工業化も進まない。
もっとも増え過ぎても困るのは列強と同じだ。そのバランスが難しい」
「災害予防研究会の活動のお陰で、地震や火災などの災害の死者が激減している。疫病対策も順調に進んでいる。
史実では昨年にペストが我が国に入ってきたが、未然に食い止められたのだろう」
「ああ。検疫を強化したし、不衛生な場所はできるだけ減らしている。蚊取り線香やゴキブリホイホイ、鼠捕り器の効果もある。
食料が豊富に出回っている事もあって、日本の人口増加は史実よりも早く進んでいる。数十年後が楽しみだよ」
天照機関の会合が和やかな雰囲気になったと思ったら、いきなり緊急電話の音が鳴り響いた。
「何だ? 今は重要な会議中………………分かった。直ぐに対応する」
「陛下、どうされました?」
「義和団が北京の各国公使館を包囲して、ドイツ公使を含む数百人の欧米人が殺害された。我が国の書記官も殺害された。
清国は義和団の暴挙に呼応して、我が国を含む八ヶ国に宣戦を布告した。少々、見通しが甘かったな」
「我が国は清国に進出していないのですぞ!? しかも武器を供与している! それでも書記官が殺されたと言うのですか!?」
「清国の上層部はそれを知っているが、義和団の連中は知らないのだろう。
それにしても、義和団の暴挙に呼応して我が国にまで宣戦布告を行うとは!? 恩を仇で返すとは、やはり付き合える相手では無い!
武器の供与も含めて、直ぐに対応する必要がある!」
「今までは義和団の鎮圧の為にも武器や弾薬が必要だろうと、資源と引き換えに清国に供与を続けてきた。
しかし、我が国にまで宣戦布告を行ったのであれば、対応を変えねばならん! 直ぐに飛行船部隊を北京に派遣しろ! 急げ!!」
史実と異なり、義和団の乱に日本は積極的に関与するのを避ける方針だった。
しかし宣戦布告をされたのでは、穏便に事を運ぶ事もできない。自国の書記官が殺された落とし前はつけなくては為らない。
列強は清国から宣戦布告を受ける前から、軍を動かしていた。大沽砲台は清国が宣戦布告をする前に、列強に落とされていた。
つまり列強は最初から清国を武力侵略する気があった。
如何に北京の駐在公使の要請があったとはいえ、戦争状態に陥る前に清国に兵を動かした事実は変わらない。
天照機関の計画は修正を余儀なくされたが、事態に対応するべく各メンバーは急いで動き出していた。
皇太子殿下の結婚が五月に予定されている。
延期するべきだという意見もあったが、日本国内に影響はあまり無いと言う理由から、婚儀は予定通りに行われる事になった。
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清国が義和団の乱に応じて宣戦を布告したのは、イギリス帝国、フランス、ドイツ帝国、アメリカ、ロシア帝国、イタリア王国、
オーストリア=ハンガリー帝国、大日本帝国の八ヶ国だ。
冷静に考えれば、列強に侵略されている清国が八ヶ国を相手取って宣戦布告を行うのは自殺行為だ。
一ヶ国でも勝利できないのに、八ヶ国全部に対してなど絶対に勝てるはずが無い。でもそれは、第三者の立場での判断だ。
清国はアヘン戦争など列強の侵略を受けて、次々と土地や資源、権益を奪われてきた。
そして戦勝国に所属する宣教師は清国の内陸部まで進出し、傲慢な態度で現地の人に接していた。
教会のただ飯を食べるライス・クリスチャンの有利なように宣教師は裁判に介入し、現地の反感を買っていた。
現地の人達から見れば、異国人が我が物顔で自国を好き勝手しているのだ。しかも次々に富を奪われていく。
清国の官吏も宣教師を含む外国人には及び腰で、何とか表立っての対立を避けている。
自国の官吏より外国人の方が偉いと、清国の民衆には思われていた程だ。
これで怒らない人など居ない。その人達の怒りが義和団となって爆発した。
大沽砲台を列強が戦争前に占拠したのは、重大な違反だ。もし、公平な第三者が判断したのなら、清国側が完全に正しいと判断する。
しかし列強は法を無視して、戦争状態に入る前に大沽砲台を占拠した。清国の権威を認めず、暴挙に及んだ。
時代は帝国主義全盛であり、弱肉強食が世の理だ。悪行を行っても勝利すれば正当化されるのも、また世の理だった。
天津の大沽砲台は、北京や天津へと遡航する艦船への防御の要となる砲台だ。これが落とされる事は北京の安全保障に大きく影響する。
さらに清国内部の権力闘争も加わり、清国は八ヶ国に宣戦布告を行った。
理性的な行動では無く、感情的な行動だろう。破れかぶれとも言える。
しかし冷静な視線で見れば、清国が列強に宣戦布告をしたのも仕方が無い事だと思える。それ程、列強の侵略は過酷だった。
一つ清国の誤算があるとすれば、義和団が日本の書記官まで殺害した事だ。
この事件が起きる前までは日本からは武器や弾薬の供与を受けている事もあり、少なくとも政府間の関係は良好だった。
しかし事態が此処に至っては、全ての海外勢力を国から排斥する事を目標にせざるを得なかった。
日本から武器や弾薬の供給が絶たれても、今までに貯めたものもある。短期決戦なら問題無いと判断された。
義和団は『扶清滅洋』(清を扶〔たす〕け洋を滅す)と『興清滅洋』(清を興〔おこ〕し洋を滅す)の主張をしていた。
その為に清王朝は義和団と協力して、海外勢力を追い出そうと動き始めた。
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清国から宣戦を布告された各国の動きは素早かった。
国内情勢の為に多数の兵力を派遣できない国は多かったが、それでも動員できる範囲で兵を集めた。
総兵力は約二万強の混成軍だったが、中でも多くの派兵を行ったのはアメリカとロシアだった。
アメリカはフィリピンに駐留している無傷の陸軍約一万人を、即座に中国に派遣した。さらに増援も行う準備も進めている。
戦いに飢えていた事と、中国での権益拡大を狙ったアメリカの動きは素早かった。
ロシアも同じだ。沿海州を手に入れ、清国の権益拡大を狙っていたロシアも敏速に動いた。
一方、世界帝国であるイギリスは南アフリカでボーア戦争を継続中の為に、派兵は少数だった。
そして地理的に一番近い日本の派兵は、約二百人(指揮官は福島安正)と少数に留まった。これには列強からの批判が多く出た。
しかし、陸軍を縮小した為に余裕が無い事と、清国に権益を有していない事、飛行船を使用して公使館区域の非戦闘員(女子供)を
対馬に保護して、現地に補給物資を供与した事を主張すると批判の声は収まっていった。
尚、保護した非戦闘員に中国人のライス・クリスチャンは一人も含まれていない。
北京の公使館の篭城の為に五百人の兵士が派遣されたが、その中に百人の陽炎機関のメンバーが居る事は列強の誰も知らなかった。
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八ヶ国の混成軍の指揮は、イギリス人のアルフレッド・ガスリーが執る事になった。
しかし混成軍とあって、各国の思惑の違いもあり、統一した行動は中々取れなかった。
最終的には公使館の解放が目的なのは間違い無いが、中国での権利の拡大の為に、さらなる動乱を望む国もあったからだ。
さらに武装の違いもある。各国毎に異なる武器と弾薬の為に、補給に苦しむ事になる。
日本は歩兵を中心とした部隊以外に、他の国には無い輸送トラックと自走砲も持ち込んでいた。
清国に輸出した武器は小銃がメインだが、中には沿岸砲や自走砲も含まれている。
それらが八ヶ国の混成軍に被害を与えれば、列強の批判は日本に向けられる可能性がある。
その為に、面倒だと思いながらも飛行船部隊による爆撃で真っ先に清国の砲台や自走砲を潰して、混成軍の露払いを務めていた。
その結果、混成軍は大した被害も受けずに天津を占領した。日本軍は小規模ながらも戦功は第一と、列強の評価を得ていた。
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清国が八ヶ国に宣戦を布告した事で、清国内に居住する外国人や中国人クリスチャンは孤立した。
特に北京に居た外国公使と中国人クリスチャンは、清国人から攻撃を受ける危険があり、事態は切迫していた。
紫禁城の東交民巷というエリアの公使館区域には、900名を超える外国人と約3000名の中国人クリスチャンが逃げ込んでいた。
しかし、各国公使館の護衛兵と義勇兵は合わせても500名未満だ。
二十四時間以内の国外退去命令が清国側から伝えられたが、義和団が包囲しているので逃げる事さえできない。
そして清国政府軍と義和団の攻撃が公使館区域に行われ、八ヶ国混成軍が北京を占領するまでの間は篭城を余儀なくされる。
兵力的には圧倒的に不利な公使館側だが、悪い条件ばかりでは無かった。
まずは攻撃する清国側にも積極的に攻撃を指示する者もいれば、消極的な者も居た。
清国側が勝利する可能性は低く、公使館側の人間を皆殺しにすれば、敗戦後に清国の立場が更に悪くなると考えたからだ。
攻撃側の意思が統一されていない事もあり、清国側の攻撃が手抜きになっていた。
さらに補給物資と五百名の兵士を乗せた日本軍の飛行船部隊が、直接公使館側に飛来した事も大きく影響している。
周囲を敵に囲まれた中で物資の補給の目処も立たない篭城側としては、思いもよらぬ援軍で士気は上がった。
非戦闘員を日本側が引き取ってくれたお陰で、戦い易くなった事もある。
以後の定期的な補給もあって、篭城側は士気が落ちる事無く防衛戦を行えた。
その指揮を執ったのは、語学が堪能な北京公使館付武官の柴五郎中佐だ。
尚、日本軍が援軍として派遣した部隊は、都市部の防衛戦に特化した訓練を受けていた部隊だ。
大火器は持ち込めなかったが、色々な新しい武装も装備しており、清国軍に容赦ない反撃を行った。
陽炎機関のメンバーは直接防衛戦に参加する事は無く、姿を変えて北京の街の中に消えていった。
中国人のライス・クリスチャン(教会のただ飯を食べている人)は約3000人も居た事もあり、日本側は保護しなかった。
彼らは同国人に忌み嫌われている。篭城が失敗すれば、虐殺される事は明らかだ。
その為、同国人と戦う公使館側の篭城戦に協力していた。
食べるに困ってキリスト教に帰依した彼らは、そうする事でしか生き延びる事はできなかった。
史実では、この北京の篭城戦が日英同盟の締結に繋がったと評価されている。
困難な状態にあって、日本人である柴五郎中佐の奮戦がイギリスに認められた結果だ。
しかし今回は篭城戦の前から、イギリスでは同盟締結の動きが進められていた。
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清国政府軍と義和団の兵数は、八ヶ国混成軍を圧倒していた。しかし、戦闘は八ヶ国混成軍が優勢に進めていた。
理由はある。清国政府軍は日本製の武器を装備していたが、武器の扱いに不慣れな兵士が多かった為だ。
その為に兵数では圧倒しても、武器を効果的に使う混成軍には対抗できなかった。
義和団に至っては銃火器を持つ人間は少数で、殆どが刀槍を持っているだけだ。
国を守るという士気こそ高い清国側だったが、武器を効果的に使えず指揮系統も統一されていない為に、多くの被害を出していた。
そして天津から北京への道中は、清国側の兵士と義和団のメンバーの多くの屍が放置されていた。
飛行船による空からの偵察と日本軍の自走砲による遠距離射撃の為、混成軍はあまり被害を受けずに北京に向けて進軍していた。
この八ヶ国の混成軍以外にも、他の場所で列強の軍が動いているところがあった。
一つはロシアだ。奴隷労働者により、シベリア鉄道の建設は史実よりも早まっていた。
そしてバイカル湖の区間を除いて、シベリア鉄道は一応完成していた。
その為にバイカル湖は船舶を使った輸送を行って、欧州から送り込んだ部隊で満州を占拠し始めた。
清国から宣戦布告された為に法に違反する内容では無いが、火事場泥棒と言われかねない行為だ。
しかし、帝国主義全盛の時代では他の列強も良く使う手だ。こうしてロシアは欧州の兵力を満州に移動させて支配を進めていった。
アメリカも動いていた。フィリピンのサマル島の陸軍一万を八ヶ国混成軍に派遣したが、遅れて準備が整った部隊約一万五千を
派遣して、江蘇省の連云港一帯を占拠し始めた。
欧州の列強は中国に租界や租借した地を持つが、アメリカの進出は遅れている。この機会に一気に中国への進出を目論んでいた。
日本にとっても好都合だ。フィリピンでアメリカの譲歩を求める代わりに、日本はアメリカの連云港一帯への進出を支援していた。
北京周囲では八ヶ国混成軍と清国側との激しい戦闘が続いていたが、それが各地に波及する事は無かった。
満州はロシアに占拠され、江蘇省の連云港一帯はアメリカに占拠された。
しかし他の地域では各地方の軍閥や有力者が、西太后の宣戦布告を偽詔として従わない事を宣言し、義和団の取り締まりを強化して
列強との関係維持に努めた為に、混乱は発生したが争いには発展しなかった。つまり地方は清王朝に従わないと明言していた。
日本からの武器の輸入(資源と交換)も地方では継続され、経済的に若干の混乱はあったが治安は保たれていた。
これは地方の有力者が結託して、地方の利益を優先させた結果だ。
明らかに支配者である西太后の命令に背くものだったが、西太后は彼らに罰を下す事は無かった。
西太后は八ヶ国連合に負けた場合の保険の意味で、各地方の独断を暗黙裡に認めて備えていた。
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若干二十歳のアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードは【出雲】で訓練を行った部隊を引き連れて、先祖代々の本拠地リヤドを
ラシード家から奪還するべく行動を開始していた。
史実では1902年に四十人の部下で行動を開始したが、今回は二年も時が早く、部下も百五十人と多かった。
これも【出雲】の支援の為だ。そしてマスマク城のアジュラーン総督を討ち取り、先祖代々の本拠地リヤドを奪還した。
現在のアラビア半島全域は貧しく、列強は殆ど注意を払っていない。(石油はまだ発見されていない為)
イギリスはボーア戦争に掛かりっきりで、他の列強の視線は清国に向けられていた。
そしてこの好機を逃さずに、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードは主要地域のハッサ、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズの
制圧に乗り出していた。資金面と補給面で彼を【出雲】が支援している事は、広範囲に知れ渡っていた。
そして【出雲】も国境線を西と南に拡大させ、そこの支配を進めると共にサウード家への支援も強化していた。
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八ヶ国の混成軍は順調に清国軍と義和団を打ち破り、北京を望む位置まで進出していた。
被害は最初に予想していた以上に少なかった。
これも日本が飛行船と自走砲を使った遠距離射撃で、交戦前に清国軍と義和団を攻撃した為だ。
見えないところから正確な砲撃を受けて、指揮中枢や大砲に被害を受けては戦意を保てるはずが無い。
八ヶ国軍は飛行船の支援の下で、済州島からの食料や弾薬・医薬品の補給を受けているので補給は万全だ。
今までの常識を覆すような楽な戦いに戸惑っているのもあったが、明日に北京攻撃を控えて戦意は高揚していた。
その様子を司令官であるイギリス人のアルフレッド・ガスリーは、幕僚と溜息をつきながら話し合っていた。
「此処まで楽な戦いになるとは思わなかった。混成軍の被害も少ないし、補給も順調だ。明日も勝利するだろう。
しかし、今後の事を考えると気楽に考える訳にもいかんな」
「はい。今回の戦闘のキーポイントは飛行船と自走砲です。空からの偵察を行い、遠距離砲撃で敵に被害を与える。
敵の指令中枢を潰して士気が落ちているところに突撃すれば、誰でも戦いに勝てるでしょう。かなり効果がある戦訓です。
言い換えると、空からの偵察をする能力と遠距離砲撃ができる能力が無いと、一方的に被害を受ける事に為りかねません。
我が国もそうですが、各国の飛行船は水素ガスを使用しており、運用には大きな注意が必要です。
しかし日本の飛行船は安全なヘリウムを使用しているから、運用リスクが少ない。その為に、こうして大々的に使用できる。
何とか我が国も飛行船への対抗策を考えないと、後々の大きな問題になるでしょう」
「日本は民間仕様のヘリウムを使った飛行船を販売すると表明しているが、代金は目が飛び出るくらい高い。
インドネシアは領土と引き換えに十隻の飛行船を手に入れたが、我が国の場合は面子もあるから無理だ。
そして日本はマラッカ海峡の要衝と、インド洋への出口を抑えた。
今のところは日本との関係は順調だが、今後はどうなるか分からん」
「しかし本国はロシアの南下を抑える為に、日本と何らかの軍事協定を結ぼうと動いていると聞いています。
それが締結されれば、我がイギリス帝国にとってもメリットがあると思いますが?」
「ああ。オーストラリアとニュージーランドを失い、カナダの西部を失った我々は、これ以上の損失を受ける訳にはいかない。
インドやアジアで反乱はあるが、何とか鎮圧している。南アフリカは戦争の真っ最中だ。今の我々に余力は無いからな」
今回の八ヶ国の混成軍の戦闘は、各国に飛行船を使った貴重な戦訓を与えていた。
しかし今は日本軍が味方だから良いが、今後もそうなるという保証は無い。欧州の戦場で、被害を受ける立場になる事もありえる。
その為に、飛行船の対策を講じることが必要だと、混成軍の各国の将官は考えていた。
つまるところ、制空権の確保だ。まだ飛行機は登場していないが、この時期から制空権の重要性が各国に認識されていく。
今のイギリスは困難に直面していた。
オーストラリアを完全に放棄して、その後はニュージーランドまで放棄せざるを得ない状況まで追い込まれた。
原因は『白鯨』だ。飛行船も現地に到着できずに、船舶を尽く『白鯨』に沈められては放棄するしか手段は無かった。
カナダ西部をインディアンの神の祟りから完全に封鎖地域にした事もあり、これ以上の権益を失う事は許容できない。
その為にインドやアジア、アフリカの各植民地の弾圧をイギリスは強めていた。
それに南アフリカのボーア戦争の影響が出始めていた。
船舶で増援を南アフリカに送り込んでいるのだが、『白鯨』による被害が一向に減らない。
輸送船団の全滅のような大きな被害は無いが、それでも船団の二割程度に被害が出ている。
討伐しようにも返り討ちに遭う事が分かりきっているので、何とかやり過ごせないかと本国は試行錯誤している。
こうしてボーア戦争は補給に勝るイギリスの優位は揺らがなかったが、史実よりは苦戦する形になっていた。
「南アフリカでは反攻に転じたと聞いているが、まだまだ予断を許さない。明日の北京攻撃を速やかに終わらせたいものだ」
「それは大丈夫でしょう。清国軍と義和団は士気こそ高いですが、武装は我々の方が圧倒的に勝っています。
公使館地域の非戦闘員は全員が日本に保護されており、そこに日本の援軍も入っていますので、現地の被害は抑えられるでしょう。
ただ、昨日に日本の指揮官が申し込んできた件が気になります」
「日本の指揮官の申し込み? ああ、紫禁城とその周囲一帯の略奪禁止の事か?」
「はい。紫禁城には貴重な文化財があり、その略奪や破壊は認められない。戦後の講和会議で処分を決めるべきだと言ってきました。
我々は清国に勝つ事に腐心してきましたが、日本は既に勝つ事を前提に動いています。少々、空恐ろしいものを感じます。
中東でもアラビア半島で何やら動いている様子です。油断はできないかと」
「アラビア半島か。ペルシャ湾を抑えて、アラビア半島の砂漠地帯を纏めようとしているのは知っている。
しかし人口も少なく、産業も資源も無いところだ。そこを抑えられても一向に構わん。
それより、日本は清国の内陸部に進出しないと宣言して、沿岸部を抑えて清国を内陸部に抑え込んでいる。
日本は本当に大陸に進出しなくて良いと考えているのだろうか? 資源だけ入手できれば良いと考えているのか?」
「分かりません。しかし今回の日本は混乱している様子もあり、準備も万全とは言えなかったようです。
あの日本でも準備不足があると知って、内心は安堵しているくらいです」
「日本は巫女の神託で政策を決定しているという噂もあるが、それが事実なら巫女の力も限界があると言う事だ。
安心するのも確かだな。まあ良い。取り敢えずは明日の北京攻撃を成功させてから日本の出方を伺うとしよう。
ああ、そうだ。日本から補給があった酒とつまみがあったな。用意してくれ」
「日本から補給のあった酒はまだ残っていますが、携帯食料のつまみは人気が高くて品薄状態です。
これが最後です。次は何時入るかは分かりません」
「構うもんか。明日の北京攻撃が成功すれば、補給も問題が無くなる。時間の問題だよ。
ああ、後で個人的に日本から輸入したいから、製造元を調べておいてくれ」
史実では北京攻撃は一日で終わって、その後に混成軍の略奪が発生して紫禁城の貴重な文化財が略奪や破壊に遭ってしまった。
しかし今回は、それを未然に防ごうと天照機関は動いていた。
史実では貧乏な日本軍は紫禁城にあった財宝と大量の玄米を鹵獲したが、今の日本はその必要は無い。
貿易収支は完全な黒字で、数々の新製品の輸出で日本はかなりの富を蓄えていた。
それに清国の財宝が欲しいのなら、講和会議で堂々と主張するつもりだ。
史実では約291万4800両の馬蹄銀や32万石の玄米を戦利品として得た事で内外の批判を浴びたが、今回はその愚を冒すつもりは無かった。
日本は済州島を経由して混成軍に大量の弾薬や食料を供給していた。
その中には軍用の携帯食料や保存食料もある。味付けも拘っており、混成軍の兵士に好評だった。
これにより、日本の様々な食材や料理が各国に広まっていった。
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八ヶ国の混成軍が間近に迫っている事で、北京は騒然としていた。
しかし清国の財閥当主は予め安全な場所に避難して、今後の事に対する協議を行っていた。
「政府軍も義和団も列強の混成軍には太刀打ちできなかったか。予想していたとはいえ、残念な事だ。
明日にも北京攻撃が行われるだろうが、勝敗は明らかだな」
「北京には四万人以上の兵士や義和団の連中がいるが、錬度が低いからな。この混成軍の快進撃の裏には、日本の飛行船がある。
紫禁城の公使館地域に頻繁に出入りして補給を行っていたり、空から偵察したりと好き勝手に動き回っている。
やはり列強に対抗するには飛行船を所有する必要がある」
「持つだけでは駄目だ。きちんと運用をしないとな。政府軍が兵数に劣る混成軍に負けたのは、満足に武器を使えなかったからだ。
忌々しいが、日本はそれを分かっていたのだろう。だからこそ、我々に資源と引き換えに武器を売ったんだ」
「日本は飛行船の売却に首を縦に振らなかったからな。とは言え、今の日本と手を切るのは拙い。
徐々に日本から技術を盗み、我々のものとしなくては列強や日本に対抗できない」
「中々難しい問題だ。日本はそれを見越して、我が国との民間交流を絶っている。
内陸部に進出して来なくて、我が国の人間が日本に定住するのを極度に警戒している。
あの『東アジア紀行』で悪評が広まったから、他の各国からも苦力として雇われていた者達が強制送還されてきている。
世界的に我々中国人の受け入れを拒むようになってきている。由々しき問題だ」
「日本が我々を貶める計略かと思ったが、あの本の出版は欧米の出版社だしな。まったく忌々しい事だ。
最近は李氏朝鮮がロシアの武力を背景に、態度が大きくなってきている。まったく、我が国が宗主国だと言うのを忘れたようだ」
多くの人口を有して、肥沃な大地と膨大な地下資源が眠る中国大陸は、最後のフロンティアと欧米に認識されていた。
だからこそ欧米は熱心に中国大陸へ進出している。しかし、その中国の工業化は全然進んでいない。
その為に人口は多くとも、国力には結びつかない。工業化を進めたくても、資金も技術も無い。支援してくれる国家も無い。
どの国も中国の工業化を支援せずに、資源や富を奪う事ばかり考えている。その筆頭は日本かも知れない。
日本の冷淡な態度には腹が立ったが、武器の入手元という意味からも縁を切る事は出来ない。
属国である李氏朝鮮の増長振りもあり、今の中国人には腹の立つ事ばかりだ。
弱肉強食の時代に、善意から工業化の支援を行ってくれるような国は無い。
だからこそ中国は自力で工業化を進めなくては為らないが、今はその目処さえも立ってはいなかった。
「話を戻すが、明日の北京攻防戦の勝敗は明らかだ。その後が問題だ。列強は巨額の賠償金や権利、そして領土を要求してくるだろう。
そして清王朝は更に税を上げる。そうなったら住民の反感は抑えきれない。もはや清王朝の命運は尽きたと言って良いだろう」
「その後にどうするかで、我々の運命が決まってくる。革命で大きな犠牲が出るだろうが、それで国が立ち直れるなら喜ばしい事だ。
それに少数民族である満州族の王朝など、さっさと滅びれば良い。その後は我々漢民族が再興する!」
「列強とどう関係するかでも大きく影響するぞ。列強の支配を受けながら力を蓄えるのか、何処かと手を組んで列強に対抗するかだ。
今の状態では自力で列強に対抗するのは困難だ。だとすれば日本の力を当てにするしか無い」
「列強でさえ一目置く科学技術を持っている日本だ。忌々しいが、資源と引き換えなら武器は入手はできるだろう。
しかし我が国の近代化を、日本は望んでいないだろう。本当に日本と手を組んで良いものなのか?」
「短期的には日本しかない。長期的には分からん。それに日本と手を組むと決めても、それを最後まで守る必要は無い。
日本は我が国の内陸部に進出しないと宣言しているが、それはポーズで裏では何を考えているか分からんからな」
「北京が落とされたら混成軍は略奪に走るだろう。中には貴重な文化財が破壊されるかも知れぬ。それに日本が何処まで加担するかだ。
それを見てから判断しても遅くはあるまい。我々にはまだ時間があるのだからな」
民主主義を採用している国家の場合、選挙で当選したら任期中に何らかの成果を上げなくてはならない。
表立った成果を上げなければ無能者として、次の選挙で落選する運命が待っている。
だからこそ選挙で選ばれた人達は、任期中に実績を上げようと拙速に走る傾向がある。
しかし選挙に関わらない人達なら、長期的な視野に立った行動が可能になる。
それには大きな権力や資金を持っている有力者が該当する。天照機関もこれに含まれる。
言い方を変えると、民主主義とは短期的な視野でしか動けない制度かも知れない。
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アメリカは八ヶ国の混成軍に、最大規模である歩兵約一万人を派遣していた。
そして混成軍以外にも、江蘇省の連云港一帯に多くの兵を派遣して占領を進めていた。
現地の抵抗は思いの他、激しいものがある。しかし武装の違いもあり、アメリカは現地の抵抗を力で制圧していた。
アメリカ軍にも少なからず被害が出ていたが、それでもこの地を得られれば良いと強引に占領を進めていた。
最近は出番が無かった陸軍も、今までの鬱憤を晴らそうと抵抗する住民の虐殺を行っていた。
そしてこの地に要塞と工場群を建設して、アメリカの中国進出の一大拠点にしようと計画していた。
ロシアは満州の占領を進めていた。義和団がアムール川沿いのロシアの街ブラゴヴェシチェンスクを占領すると、
その報復にロシア国内の中国人居住区を壊滅させ、一気に満州を占拠した。
そして満州の中央にあるハルビン(哈爾浜)に、要塞や工場群を含む一大拠点の建設を進めようとしていた。
ロシア皇帝ニコライ二世は、満州を永続的に自国の領土として開発を進めるように命令を下していた。
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李氏朝鮮は慢性的な飢餓に悩まされながらも、表面的には治安は保たれていた。
年間で十万人以上の国民がロシアに売却され、その現金収入があったからだ。人口が減った為に、回ってくる食料も若干は増えた。
清国を見限ってロシアについた事で、国内の勢力はロシア一色だ。日本や清国寄りの意見を持った人達は、尽く粛清されてしまった。
ロシア軍は職についていない若者を強制連行して、アヘンを使って簡単な軍事訓練を行いだしている。
本来は内政干渉以上の問題だが、今の李氏朝鮮にロシアに抗議する人達はいない。
年を追うごとに東方ユダヤ共和国との国境線では緊張が増している。
人口は二年前には約700万人だったが、現在は約620万人だ。
現在の東方ユダヤ共和国の人口は、300万人突破も時間の問題と言われている。
東方ユダヤ共和国が年が追うごとに人口が増えているのとは逆だ。朝鮮半島に戦乱の気配が漂い始めていた。
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陣内は大本営に協力する傍らで、各地の工場の運営やインディアンやアボリジニに援助活動を行うなど多忙を極めていた。
そんな陣内にとって自宅に帰って、子供と戯れるのは十分な癒しになっていた。
上の子供三人、真一と香織と真治は七歳になり、美沙は四歳に、一番下の子供の真樹は三歳になった。
自宅には大人七人以上が楽に入れる大浴場がある。陣内は子供と一緒に風呂に入り、仕事の疲れを癒していた。
「ねえ、お父さん。学校に行って佐助君と話したんだけど、うちのお風呂ってシャワーがついているって言ったら驚かれたよ。
ここら辺のお家はシャワーがついていないの?」
「勝浦工場の職員用の住宅には全部ついているはずだがな。まあ、ジャグジーが付いているのは産業促進住宅街の共同銭湯ぐらいかな。
でも、家のお風呂が豪華だって自慢しちゃ駄目だぞ」
「分かってるよ。佐助君は仲の良い友達だしね。他にも菖蒲ちゃんとか、太郎君とかも仲が良いんだよ」
「お兄ちゃんは結構人気者だもんね。でも鏡花ちゃんはあたしの友達だから、取っちゃ駄目よ」
「そんな事はしないよ。皆で仲良く遊べれば良いじゃない」
「明日は学校の校庭で野球をやって遊ぶもんね。明日こそはお兄ちゃんからヒットを打ってみせるよ」
「真治には負けないぞ! 絶対に三振にしてやるさ」
「こらこら、喧嘩はしないの」
「お姉ちゃん、真樹と一緒に行って良い。お兄ちゃんと一緒に遊びたいの」
「うーん、美沙は四歳でしょう。保育園が終わってから真樹と来る? だったらお姉ちゃんと一緒に野球を見ようか?」
「見るだけ? ボクはお兄ちゃんと一緒に遊べないの?」
「真樹はまだ三歳だからね。野球が終わった後に家に帰ってきたら、一緒に遊ぼう!」
「やった!」
陣内は子供に特別扱いはさせてはいない。学校も勝浦工場の近くの普通の学校に通わせていた。
もっとも、以前に誘拐未遂事件があった事もあり、教師や用務員に陽炎機関のメンバーを送り込むなどして安全には気配っていた。
将来には睡眠教育を受けさせて、天照基地などの陣内の持つ様々な秘密施設を受け継ぐ子供達だ。
一緒にお風呂に入れるのも後数年だけだろう。その後は羞恥心が発達してくれば、香織は真っ先に一人で風呂に入るようになる。
その子供との貴重な触れ合いの時間を、陣内はにこやかな表情で楽しんでいた。
「お父さんのお腹が出てきたよね。大丈夫なの?」
「ほんとだ。ぷにぷにしてる」
「ボクにも触らせて!」
「お父さん、大好き!」
「お父しゃん、ボクも」
幼い子供は正直なものだ。陣内がこの世界に来て十一年。既に三十路に入っていた。
最近の運動不足もあり、子供にお腹を触られながらも、どんなダイエットが良いかを考え始めていた。
(2013. 7.14 初版)
(2014. 3.16 改訂一版)