九月に入り、朝鮮半島での戦争は小康状態を保っていた。
平壌を落とした日本軍はそのまま清国領へ進軍すると思われていたが、何故か撤収してしまった。
現在の日本軍が占拠しているのは済州島と巨済島と鬱陵島、それに釜山と仁川だけだ。
清国側の主力艦隊を破り、勢いに乗る日本軍は怒涛の勢いで攻めて来ると考えていた清国側は拍子抜けしていた。
日本軍は損害が多い陸戦を出来るだけ避ける方針だ。酷寒の地で越冬するのを避ける為もある。
そして史実では花園口に上陸した第二軍を再編成し、次なる作戦の準備を行っていた。
準備が整うと、大本営は大攻勢を指示していた。
まず連合艦隊本隊は李氏朝鮮の沿岸部の軍施設を、海上からの砲撃で徹底的に破壊した。
引き続き大連、旅順、威海衛など、渤海と黄海の沿岸の清国の軍施設にも攻撃を行った。
占拠する意図は無く、清国側の海軍力を削ぐのが目的だ。上空からの偵察で射程内の陸軍陣地も尽く攻撃された。
一方、第一遊撃艦隊は進路を台湾に定めていた。史実では花園口に上陸した部隊を乗せた輸送船を護衛している。
そして台湾に上陸すると、抵抗する清国側に徹底した攻撃を行った。
台湾の完全占拠には時間が掛かる。橋頭堡と補給物資の輸送ルートを確立すると、第一遊撃艦隊は二手に分かれた。
一つは上海近くの船山群島に、一つは南シナ海の海南島を占拠を開始した。
澎湖列島は海上からの砲撃で軍施設は破壊した。
日本側の基本方針としては、出来るだけ中国大陸に干渉しない事としている。
だから大陸での陸戦は必要最低限に止め、中国側の海への出口を完全に塞ぐように済州島、船山群島、台湾、海南島の占拠を目指した。
これらの事が次第に明らかになるにつれ、各国で動揺が広がっていった。
「日本は朝鮮半島で清国軍を撃破したが、占領もしないで撤退し、清国の外洋に面した島々の占拠を進めている。
これはどういう事だ!? 日本は半島や大陸に進出しないつもりなのか!?」
「分からん。朝鮮や中国沿岸の軍施設の大半は、海上からの砲撃で破壊された。もはや清国側の海上戦力は完全に失われたと言って良い。
士気も最低だと聞いているし、残存艦艇があっても大した抵抗は出来ないだろう」
「台湾と海南島を占拠するとは大きく出たな。しかし船山群島は上海に近いぞ。我々の権益が侵害されるのでは無いのか!?」
「いや、日本軍は上海に対して、清国側が攻撃しない限りは日本側も攻撃しないと宣言した。まず、あそこの権益は大丈夫だろう。
しかし、これが日本の大方針なのか!? 大陸の資源を欲しがっていたのでは無いのか!?」
「分からん。あれだけ石油を使うエンジンが普及したのに、石油の輸入は横ばいだ。寧ろ、減少傾向にある。
だが、鉱物資源は貪欲なまでに輸入をしている。資源が不足しているのは間違い無いのだろうが、どうにも理解できない」
「清国側の軍隊が疲弊するのは我々としても好都合なのだが、あまりに弱体化されてはロシアの問題が出てくる。
海軍力は激減したが、まだ陸軍兵力が残っている今が調停のタイミングかも知れん」
「そうだな。これ以上、日本に一人勝ちされると、我々としても少々困った事になる。さっそく両国の調停に入ろう」
列強は日本が大陸に侵攻しないのは理解できなかった。石油はともかく鉱物資源の輸入量を知っているので尚更だ。
日本の真意は理解できなかったが、清国が弱体化し過ぎても、日本が勝ち過ぎてもバランスを崩してしまう。
清国の自国権益を何より大事にしたい列強は、必要以上の清国の弱体化を望んではいなかった。
頼みの綱だった清国の主力艦隊は敗北し、自国沿岸の軍施設を尽く破壊された朝鮮王宮は大混乱していた。
「まだ日本軍と連絡はつかないのか!? 仁川の部隊は、まだ使者に会おうとしないのか!?」
「は、はい。献上品を持参した使者も全て追い払われております。日本軍は我々との一切の交渉を拒んでおります!」
「日本軍が此処まで強かったとは判断を誤ったか! 占拠されたのは一部に過ぎんが、放置しておくと占領地が広がる可能性もある。
直接日本に使者を送れないのか!?」
「仁川の部隊がこちらを監視していますので、秘かに使者を出すのは困難です。
さらに日本と関係があった開明派のメンバー全員を粛清してしまいまして、あちらと面識を持つ人間がおりません。
金玉均の晒し首の件や日本の使者を殺害した事で、日本側の我々への心証は最悪かと思われます」
「くうう! 処刑するのが早過ぎたか! 日本との接触が駄目なら、清国に早急に日本と和議を結ぶように使者を出せ!」
朝鮮王宮は混乱していたが、清国の西太后は激怒していた。李鴻章を呼びつけて激しく詰問していた。
「主力の北洋艦隊が日本艦隊に簡単に負けて、渤海と黄海の沿岸の施設が次々に破壊されている。
陸軍もあっさりと負けたとはどういう事なの!? 我が軍は何をしているの!? 日本軍を殲滅できないの!?」
「日本軍は色々な新兵器を投入しているようで、我が軍では対抗できませんでした。
正直、物量では我々が勝っていたのですが、結果としてはこうなってしまい、誠に申し訳ありません」
「これからどうなるの!? 日本軍は我が物顔で沿岸部を荒らしまわっていると言うでは無いですか!?
このままでは天津に上陸されて、この北京にも来るかも知れないのですよ!」
「恐れながら申し上げます。日本は海上戦力では優位に立っていますが、依然として陸上の戦力では我々が優位です。
朝鮮半島では敗れましたが、我々が戦力を集結させる前に攻撃を受けたからです。
もし天津に日本軍が上陸したとしても、圧倒的多数の我が軍で包囲殲滅する事も可能です。
海上では敗れましたが、陸上ではまだ勝機はあります」
「……ではどうするの? 日本軍が我が国に上陸するのを待つだけなの!?」
「いえ。恐らく彼らは彼我の戦力分析は行っていて、態々上陸はして来ないでしょう。だから台湾や海南島を占拠したのです。
そして沿岸部は海上からの砲撃に止めています。このまま放置すれば、我が国の損害が大きくなるだけです。
まだ被害の少ないうちに講和した方が好ましいと考えます」
「……良いでしょう。だが過剰な譲歩は許しません! その事を肝に銘じて日本との交渉を始めなさい!」
現在は船山群島、台湾、海南島の占領が進められており、台湾海峡の要衝の澎湖列島の軍施設は破壊された。
各島々の占拠が終われば、次は何処を狙われるのか? 今の清国に日本の海上戦力に対抗できる力は無い。
大陸内部に引き込めれば勝機が見えるが、台湾と海南島の防衛は無理だ。それにこれ以上の沿岸部の被害を拡大させられない。
こうして清国でも、戦争を終結させる動きが表面化していった。
***********************************
陸戦を最小限に押さえ、海上からの砲撃によって清国に大打撃を与えた為、史実に比べると日本の戦死者は激減していた。
そして戦争終結の兆しが見え始めた事から、天照機関は協議を行っていた。ちなみに陣内は欠席している。
「史実よりは占拠地は少ないが、被害も少ない。このままいけば当初の予定通りになるだろう」
「はい。まず李氏朝鮮とは一切の交渉を禁止しています。今頃は怯えているでしょうから、計画は大丈夫と思われます。
既に済州島と巨済島と鬱陵島、そして釜山の沿岸部からは全ての住民を立ち退かせて各施設の建設に入っています。
釜山に関しては住民の抵抗運動がありますが、こちらはその都度鎮圧してあります。
各島の全住民は半島に移送済みですから、邪魔する者は居らずに施設の建設は順調です。
清国に関してですが、渤海と黄海の沿岸の主要な軍施設はほぼ破壊しました。ですが天津周辺は手をつけておりません。
現在占領中なのは船山群島、台湾、海南島ですが、完全占拠まではまだまだ時間が掛かる見込みです」
「澎湖諸島と東沙群島を手に入れられれば、中国の周囲を我が国が全て管理する事が出来る。
中国の行動範囲は渤海と黄海に限定され、太平洋に進出する事は出来なくなる。将来を見据えた戦略だな」
「清国に利権を持つ列強の通行の権利は当然認める必要がありますが、それは問題にはならないでしょう。
将来、アメリカが中国大陸に大々的に進出した時は分かりませんが、それは十年以上は先の事です」
「今の占領地と澎湖諸島と東沙群島が手に入れば、後は交渉だな。
列強や清国も和議の動きがあるから、早ければ年内にも交渉が始まるだろう」
「ふむ。例の飛行船はどうする? あれを持っている事を清国や朝鮮、それに列強に見せ付けるのだろう?」
「交渉が始まっても、条約を結ぶまでは戦争継続だからな。その辺は少し考えよう。陣内の意見も聞きたい」
今のところは開戦前に考えたシナリオ通りに事は進んでいた。
このまま行けば、史実では来年の春に行われた日清講和条約が前倒しで行われるだろう。
その講和条約締結前に、ある作戦を実行する必要があると出席メンバーは考えていた。
その時、大元帥の持っている携帯無線機が鳴り出した。本来は会議中はマナーモードにするのだが、今回は特別だ。
それに大元帥の持つ携帯無線機に連絡を入れて来るのは陣内だけだった。
「……そうか。無事に沙織と楓の子供が産まれたか。……沙織が先で楓の方が後か。……何!? 沙織は男の子と女の子の双子だと!?
楓は男の子一人か。分かった。子供の守り刀は追加で渡す。そうだ。写真を撮って必ず転送しておけ! 絶対に忘れるな!!」
「……陛下。初孫で嬉しいのは承知しておりますが、あまり仰々しいのは拙いのでは?」
「陛下が十九の時に子供を作ったとは外聞があります故、公には出来ません。御自重下さい」
「ええい、煩い! 偶には良いでは無いか! それに陣内は功労者だぞ! それに報いるのは当然だ!」
「この戦争が無事に終了すれば、籍を入れると申しておりましたしな。講和条約締結の後に華族の地位を与えてはどうですか?」
「ほお。それは良いかも知れぬ。ここまで日本を改革した功績もある。この戦争も陣内が居たからこそ、被害も少なく済んだ。
一考の価値はあると思います」
「陣内からは華族など窮屈だから、要らぬと言われた事がある。だからこの話はこの辺にしておけ。
褒章の件は後で考えておく。勲章だけでは不足よな。それに変に目立つ事は嫌っているからな」
今回の戦争の終結が見え始めたとして、天照機関の出席者は上機嫌で会議を終えた。
そして何人かは、勝浦工場の陣内のところへ出産祝いを持って向かっていた。
***********************************
フランスは普仏戦争に敗れた結果、鉄鉱石と石炭の豊富なアルザス=ロレーヌを失い、莫大な賠償金を課せられて貧窮していた。
その為に少しでも利益を得ようとタイ王国へ工作を仕掛けたのが、昨年のパークナム事件だ。
国内経済の不振から、国内資金は有利な海外投資に向けられる傾向があった。
そして、ロスチャイルドなどのユダヤ系の金融資本が、フランス国民の貯蓄を東欧州への投資に回した。
しかし1882年には金融恐慌が発生し、多くの投資銀行が破産した。銀行が倒産したからには、預けた資金は戻っては来ない。
その結果、貯蓄を失ったフランス人は金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせた。
ロシアを筆頭にして欧州各地でユダヤ人の迫害が続いていた。
その背景には土地を所有する事が許されずに、金融業に進出して成功したユダヤ人の存在があったからだ。
そんな状況のフランスで発生したのが、ドレフュス事件だった。
フランス陸軍情報部はパリのドイツ駐在武官邸から、フランス軍関係者内に対独通牒者がいることを示すメモを入手した。
陸軍の参謀本部は漏洩した情報を知りうる立場にいた人物達の調査を行い、筆跡が似ているとして参謀本部付きのユダヤ人砲兵大尉、
アルフレド・ドレフュスを逮捕した。
しかし具体的な証拠どころか状況証拠すら欠いていた為、ドレフュス逮捕の事実はすぐには公表されなかった。
この事を反ユダヤ系の新聞が大々的に報じ、ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を軍部が庇っていると論じて、
軍部の優柔不断を糾弾した。慌てた軍上層部は証拠不十分のまま、非公開の軍法会議でドレフュスに有罪の判決を下し、
南米の仏領ギアナ沖のディアブル島(デヴィルズ島)に終身城塞禁錮とした。
後年においてドレフュスの無罪は確定するのだが、フランスにおいてもユダヤ人排斥の動きは顕在化していた。
こうしたユダヤ人排斥の動きはフランスだけで無く、他の欧州各国で数多く見られていた。
ロシアは露骨にユダヤ人追放処置を取ったくらいだ。そんな彼らが移住できるのは、本来ならアメリカだった。
インディアンを虐殺して領土を拡張していたが、言葉も常識も通じて自由を重んじる国だ。
周囲からの迫害された多くのユダヤ人は、移住先としてアメリカに行くのが当時の常道だった。
だが、アメリカがハワイ王国の女神の制裁を受け、インディアンの神の報復を恐れて内陸部を閉鎖すると風向きは変わった。
原因不明の伝染病が流行り、神の制裁を受けたと聞くと、巻き添えを恐れる人間も出てくる。
そんな彼らに、少数枠だが移住の受け入れを申し出たのが日本だった。
対馬や沖縄というあまり開発されていないところだが、既に移住した人達が安心して暮らしていると聞くと移住する人達が出始めた。
現在、約八万人のユダヤ人が対馬や沖縄に住んでいて、占領した済州島と巨済島と鬱陵島、そして釜山の開発に従事し始めていた。
***********************************
史実より少し早く、九月の末にイギリス帝国とイタリア王国が、日本と清国の講和の仲介を申し出て来た。
そして清国からも李氏朝鮮を含めた講和交渉を求めてきた。
船山群島と澎湖諸島と東沙群島の占拠は終わったが、まだ台湾、海南島は終わっていない。
だが、頃合と判断した日本政府は、清国と講和交渉を行う事を決定した。
そして李氏朝鮮に関する全権を清国側が持つ事を条件に、講和交渉の準備を進めた。
李氏朝鮮は清国の属国で、政治的にも依存している。もっとも今回の清国軍の敗北は、李氏朝鮮を失望させるには十分だった。
とは言え、今からロシアを宗主国と仰ぐには時間的にも無理がある。
その為に、日本軍の脅威から早く逃れようと、この件に関する全権を清国に委ねた。
これらの事は国民には公表されずに、水面下で進められていた。
***********************************
『こちらは日総ラジオ放送です。本日のニュースをお知らせします。
日総新聞は六月にお会いしました皇室の巫女様と、再び会う事が出来ました。
今回も御尊顔は拝見できなかったのですが、重要な御話をお聞きしました。
六月以上に重大な事が、明日に東北方面で起きるかも知れないと御告げがあったそうです。
何でも浮かれている臣民の自戒を求める神様の訓戒とか、仰っていらっしゃいました。
政府当局は巫女様の御告げを聞いて、明日は東北方面に厳戒態勢を布くと発表しました。放送を聴かれている皆様は御注意下さい』
翌日の十月二十二日の夕刻。山形県酒田を震源としたマグニチュード7.3の大地震が発生した。(庄内大地震)
史実では死者七百名以上、負傷者八千人以上を出した大地震だが、事前の厳戒態勢によって被害は史実よりだいぶ抑えられた。
そして今年に入って二回の巫女の予言の事は、海外でも大きく報道されていた。
***********************************
十一月一日。ロシア皇帝アレクサンドル三世が逝去し、ニコライ二世が即位した。
以前に日本を訪問したロシア皇太子が皇帝に即位したのだ。史実ではロシアの最後の皇帝だ。
現実は史実と違った動きを見せ始めていたが、まだ完全な乖離をしているとは言えない。
天照機関は既に歴史を改変する覚悟を決めていた。そして積極的に動き出していた。
十一月下旬に、清国から張蔭垣と邵友濂が講和の為に来日した。
だが全権委任状を持っておらず、地位も低い為に交渉は出来ないと日本側は拒否した。
李氏朝鮮の全権委任状も無いのでは、話す価値も無い。
講和を求めてきたのは清国からなのに、こんな杜撰な対応は問題があるとして、天照機関は李氏朝鮮と清国に警告を与える事にした。
***********************************
十一月下旬、仁川に居座っている日本の部隊が不気味な沈黙を保っている事に、朝鮮王宮は大きな不安を抱いていた。
清国からは日本との講和を進めたければ、早く全権委任状を出せと突っつかれていたが、何とかロシアを引き込んで
上手く講和が出来ないかと画策していた。この辺りは事大主義の信奉者に相応しい行動と言えるだろう。
その朝鮮王宮の上空に、大きな日の丸が描かれた十二隻の飛行船が飛来した。
「おい、あれは日本の飛行船か!? なんであんなに多いんだ!? 確か就役しているのは民間の五隻だけじゃ無かったのか!?」
「そんな事を言われても、十二隻の飛行船は目の錯覚じゃ無いぞ! 日本はどうするつもりだ!?」
「俺に聞くなよ! 王宮の真上に移動して何をする……何か黒いのが落ちて来たぞ! あれは爆弾なのか!? 逃げろ!!」
十二隻の飛行船の一隻が朝鮮王宮の真上に移動して、何か黒い塊を投下した。
投下されたものは爆発はしなかったが、朝鮮王宮の中庭に突き刺さった。それは模擬弾だった。
そして同時に大量の漢文で書かれた印刷物が空中から配布された。(まだハングル語は普及していないので漢文)
それには『年内中に講和が纏まらなければ、来年早々に大攻勢を掛ける。決断するのは李氏朝鮮である』と書かれていた。
識字率が低いので読める兵士は少なかったが、国王である高宗と王妃の閔妃はその意味を理解した。
顔を真っ青にした二人は、慌てて清国への全権委任状を作成した。
***********************************
十二隻の飛行船は朝鮮王宮に警告を与えた後、時を置かずに清国の皇帝が住む紫禁城に向かっていた。
この時代、空を移動できるのは、唯一日本が運用している飛行船だけだ。
空を飛ぶ手段が無かった時代では、通常の戦争において首都が急襲されるというのは、ほぼあり得ない事だった。
沿岸部にあるなら奇襲は成立するかも知れないが、北京のような内陸部の首都は周辺を制圧してからで無いと攻撃さえも出来ないのが
今までの常識だった。だが、空を移動する飛行船の存在が今までの常識を覆した。
まだ清国の陸軍兵士は五十万人以上は存在する。だが、そんな陸軍兵士など関係無いと、飛行船は紫禁城に到達した。
そして朝鮮王宮と同じように模擬爆弾を紫禁城に投下して、警告が書かれた大量の印刷物を空から北京全域に配布した。
つまるところ、空からの進入を何とかしなければ、陸軍の戦力は無用の長物になってしまう事が実証された瞬間だった。
いくら大軍を抱えていても、指揮中枢を空から攻撃されてしまえば戦争などあっという間に終わってしまう。
それを日本軍は出来ると脅しを掛けてきた。軍事的には一大エポック的な事件だと言えるだろう。
今回の飛行船の飛来に関して、死者は一名も出ていない。だが、日本がその気になれば北京は火の海になると西太后は恐怖に怯えた。
そして日本への講和の使者を、急いで準備するよう命じていた。
余談だが、史実で最初の空軍による地上攻撃は、1911年にイタリア陸軍航空隊がオスマン帝国軍の部隊を攻撃した事になっている。
今回は模擬弾の為に実害は無かった。これを最初の空軍による地上攻撃として認めるかで、後世の歴史家は論争する事になる。
***********************************
清国と戦争中だったが、勝浦工場は以前と変わらない製品を生産して、活況を呈していた。
もっとも内陸部の工場で建造されていた飛行船十隻は既に姿を消していた。
十隻のうちの六隻を軍に納入(軍の保有数は十二隻)、残る四隻を友好国や海外拠点への遊覧や輸送に使用していた。
これで日本総合工業が所有する飛行船は全部で五隻だ。
来年も十隻の飛行船の建造を計画しているが、総数で三十隻になったら国内用の建造を終了して後は輸出用に切り替える予定だ。
史実通りなら十年後には飛行機が実用化され、やがては飛行船は廃れる運命にある。
過渡期の技術だが、上手く利用できたと内心では思っていた。念の為に、アメリカから秘かにヘリウムの輸入は続けている。
明日には清国から全権大使である李鴻章と李經方が、下関に到着すると天照機関から連絡を受けている。
そして明後日から始まる講和会議に、陣内も出席するように指示は受けていた。
明日は飛行船を使って下関に移動しなくてはならない。今晩は沙織と楓の三人でと考えると、頬が緩む陣内だった。
その陣内の妄想を三人の赤ん坊の泣き声が中断させた。臭いから判断すると大の方だろう。
沙織と楓は子供の夜泣きの為に寝不足なので、寝室で寝ている。溜息をついた陣内は、我が子のオムツを交換しようと動き出した。
**********************************************************************
講和会議は下関の割烹旅館・春帆楼で行われていた。念の為に言っておくが、和室では無く洋式のテーブルの部屋だ。
清国側の出席者は李鴻章と李經方。日本側は伊藤博文と陸奥宗光と陣内。
余談だが、史実では小山豊太郎という政治活動家が、拳銃を撃って李鴻章を負傷させた。
今回は警備を厳重にした為、馬鹿な政治活動家による襲撃事件が起きる事は無かった。
李鴻章は伊藤の顔は知ってはいたが、陣内は初見だ。だが、特に気にもせずに講和会議が始められた。
清国側は台湾や海南島の停戦よりも、講和条約の締結を優先させるつもりだった。それが西太后の強い要望だからだ。
そして日本との講和条約の締結によって、他国の更なる干渉を招くような項目は控えるように望んでいた。
それは清国の立場の考えだ。日本は自国の立場に沿った要求を行っていた。
「占領が完了したのは、船山群島と澎湖諸島と東沙群島です。占領中なのは台湾、海南島ですな。まずはこれの割譲を求めます。
そして我が国は、それ以上の貴国領土の割譲は求めないと、最初に明言しておきます」
「……我が国を渤海と黄海に抑えようと言う事か。それにしても、それ以上の領土を求めないというのは本当ですか?」
「他の賠償金や資源の方で、交渉が纏まればです。基本的に我が国は、貴国に踏み込む気は無い。
ロシアの脅威に対抗する為に、朝鮮半島の近代化が不可欠と判断しただけです。それより他の項目の要求内容に移りましょうか?」
「そうですな。一つ一つ毎に決めていくより、まずは全体を把握した方が判断し易い。それで御願いしたい」
「まず賠償金は二億テール(今の日本の国家予算の約三倍。史実と同じ)と一億テール分の資源。割譲する領土は先に言った通り。
そして我が国は今後一切、貴国の内陸部に進出しないと宣言します。逆に貴国も我が国に進出しないと約束していただきたい」
「何と!? 賠償金はともかく、日本が我が国に一切進出しないと宣言すると!? それは本当ですか!?」
「貴国の沿岸部へは通商の為に進出しますが、内陸部へは一切進出しません。日本政府の命令という形で、国民に正式に発表します。
従わない者は犯罪者として、厳重に処罰します。貴国の官吏が内陸部で日本人を見つけたら、拘束して処罰する権利を認めます。
同時に貴国も我が国に進出する事は出来なくなります。通商は別ですが、貴国民の移住や土地買収は一切認めません。
その代わりと言っては何ですが、貴国に武器を供給しますので、支払いを資源で行っていただく契約を結びたいと考えています。
今回は朝鮮をめぐって貴国と対立しましたが、基本的に大陸の混乱は望みません。
貴国が治安を回復する為の武器の供給を我が国が行う事にしてはどうでしょう? 鹵獲した貴国の戦艦も返却しても良い」
(我が国が中国側に望むのは資源のみ。その資源でさえ、一時的なもので依存する気は無い。
大陸と経済的な結びつきがあると、絶対に欲に駆られた輩が蠢く。だったら、法的に交流を廃止した方が良い。
今なら実害は少ないから、講和条約という名目があれば、国民も納得するだろう。交流が進んでからは無理だからな。
個人的な繋がりは制限できんが、騙される輩は減る。大陸からの移住を禁止できるから、国内に不穏分子を抱えなくて済む。
今の清国なら列強の進出を苦々しく思っているから、面当ての意味でも我々の提案を呑むだろう。
武器を欲しがっているだろうし、上手く誘導できたな。我々が関わらなくても大陸は混乱する。それに巻き込まれたくは無いからな)
「……武器と資源の交換か。確かに悪くは無い提案ですな。ちょっと待って下さい」
(賠償金額と資源の量が多いのが不満だが、下手にごねると北京が火の海になる危険もある。
台湾と海南島、それに船山群島と澎湖諸島と東沙群島を奪われるが、本土の割譲は無いから言い逃れは可能だ。
それと、日本が今後は我が国に進出しないというのは、他の列強への牽制にもなる。
軍の立て直しが迫られているから、鹵獲した戦艦を返してくれて、武器を売ってくれるのも良い。
どうせ資源は安く買い叩かれるだろうが、それで再軍備ができるのなら良しとするべきだろうな。
他の列強さえ持っていない自走砲を手に入れられれば、我が国が有利になる。
直ぐに飛行船は売らないだろうが、それは時期を待てば良い。
早急に講和をしろとの命令だから、この内容で講和を進めるしか無いだろう)
そこまで考えた李鴻章は、戦争が始まった原因である朝鮮の事に日本側が言及しない事を怪訝に感じた。
「そう言えば李氏朝鮮の事は何も要求がありませんな。そちらはどうするのですかな?」
「貴国の内容の次にと考えていました。まず最初に言っておきますが、我が国は李氏朝鮮の独立を求めません。
貴国の属国である事を認める用意があります」
「何と!? では今までの我々の戦いは何だと言うのですか!?」
日本が清国と李氏朝鮮に宣戦布告したのは、朝鮮を独立させて自国の勢力下にするのが目的だったはずだ。
なのに伊藤の言葉は最初の目的を完全に放棄したものだ。清国としては大国の面子を保つ為にも、李氏朝鮮を属国として留め置きたい。
確かに清国の望む方向なのだが、伊藤の含み笑いに何かを感じた。
「ロシア帝国の南下を防ぐ為に、李氏朝鮮の独立を最初は考えていました。李氏朝鮮にも利益があると判断したからです。
ですが貴国の援軍があると聞くと、我が軍に宣戦布告もしないで攻撃をしてきた。我々では面倒を見れないと判断を変えました。
彼らを管理するのは、古来から従えてきた貴国が適任と判断しました。ただ……」
「ただ? 何でしょう?」
「ロシアの脅威が迫る中、我が国としても朝鮮半島をこのままにして良いとは思ってはいません。
よって、朝鮮半島の南部の全羅道、慶尚道、忠清道、済州島と鬱陵島を日本に割譲する事を要求します。
李氏朝鮮の支配する国土の約三分の一ですね。この地を無人の状態で割譲していただきたい!」
「何と!? 朝鮮半島の三分の一を要求!? それを認めろと言うのか!?」
「最初の我々の構想では、朝鮮全土を独立させるつもりでしたが、裏切られましたからね。李氏朝鮮とは縁を切りたいと考えています。
貴国にしても朝鮮全土を失うより、残り三分の二を貴国の属国として残した方が面子が立つのではありませんか?」
「…………」
李鴻章はそこで考え込んだ。日本は清国の有する大兵力を無視して、皇帝の居城である紫禁城を直接攻撃できる力を持っている。
それを恐れた西太后からは、必ず日本と講和するように命令を受けている。そして出来るだけ清国の面子を保つようにも言われている。
領土の割譲は島々だけなら問題は少ない。清国の威光を恐れて本土の割譲を諦めさせたと、言い逃れは出来る。
李氏朝鮮に関しては支配する領土こそ減るが、今まで通りに清国の属国だ。それに首都の漢城は含まれていない。
やたらと首都(漢城)が境界線に近いが、それは李氏朝鮮の問題だ。清国には関係が無い。
そこまで考えた李鴻章は『無人の状態』というのが気になった。
「李氏朝鮮の南部領土を割譲する時の条件で、無人と状態と言われたが、どういう意味か?」
「その通りです。済州島と巨済島と鬱陵島、そして釜山の沿岸部からは現地の住民は全て漢城方面に送ってあります。
それらを拡大させて、割譲する全羅道、慶尚道、忠清道の住民全てを北部に移していただきたい」
「……それを我々に行えと!? どれほどの労力が必要だと思っている!?」
「それも条件ですね。寧ろ李氏朝鮮には現地の住民を引き上げさせた方が、日本への嫌がらせになると言って自主的にやらせた方が
利口というものです。期限は三ヶ月間。期限を過ぎても住民が残っていれば、賠償金を上げる事にしてもらいましょう」
「……日本は土地さえあれば、そこの住民は不要だと言うのか!?」
「彼らは『斥倭斥化』(日本も開化も退ける)と言って、我々や近代化を拒んでいます。
それと我々に協力して朝鮮の近代化を進めようとした人達全員を、残虐な方法で処刑してしまった。
既に李氏朝鮮側で開化を進めようとした人がいなくなっては、我々も朝鮮に改革を望むのは無理と言うものでしょう。
だったら彼らの望みを叶えてあげようと思いましてな。我が国の国防上、朝鮮南部を押さえていれば何とかなると判断しました。
念押ししておきますが、朝鮮南部をどう使おうが我々の自由という事で宜しいですな。勿論、不法入国者は厳しく対応します」
「……中々辛辣ですな。良いでしょう。賠償金の金額を含めて、ゆっくりと条件を詰めましょう」
こうして下関の講和会議は基本方針が決定して、細部の条件が徐々に詰められていった。
***********************************
清国と日本が同意した下関条約の主な内容は以下の通りだ。
・ 日本は朝鮮国の主張を認め、従来通りに清国との関係を維持する事を承認する。朝鮮国の近代化は求めない。
・ 朝鮮国は賠償金の代わりに全羅道、慶尚道、忠清道、済州島と鬱陵島を日本に割譲する。
尚、日本に割譲する地にある文化財は全て運び出す事とする。もし移動できない文化財がある場合には申告すれば後日に移転する。
(対外的な事を考慮して、無人の地という言葉は削除された。住民の立ち退きに関しては後述する秘密協定に記載)
・ 清国は船山群島、澎湖諸島、東沙群島、台湾、海南島を日本に割譲する。
日本は清国の内陸部に一切進出しない事を宣言する。また、清国も日本の領土内に一切立ち入らない事を宣言する。
この宣言により、中国の内陸部に居る日本人は直ちに撤収し、日本領に居る清国人も全員が撤収する事とする。
尚、相手国の政府が認めた場合や、現地施設が被害を受けた場合の立ち入りは例外処置として認める。
・ 清国は賠償金二億テールと、一億テール分の資源を日本に支払う事とする。
・ 清国は日本に割譲した領土から希望者全員を本土に引き取る事とする。
公式発表される下関条約は以上の通りだ。そして一般公表されない秘密協定の内容は以下の通りだ。
・ 清国は責任をもって下関条約締結の三ヶ月以内に、割譲する領土から清国人を全て撤収させる。(先住民は除く)
朝鮮の割譲する領土も同じく、三ヶ月以内に無人の地にする事を約束する。
もし三ヶ月以内に住民の撤収が終了しない場合、五千万テールの資源を日本に支払う事とする。
・ 日本は清国軍の建て直しの為に、武器を供与する。清国は対価として資源を日本に支払う事とする。
尚、日本が供与するのは陸軍用の武器のみで、海軍用の兵器は含めない。飛行船は後日に再協議とする。
・ 日本は清国の内陸部の土地の取得を行わない。領事館などの公的機関は除く。
同じく清国は日本の土地の取得を行わない。領事館などの公的機関は除く。
清国側にしても李氏朝鮮との関係が維持されたので、大国としての面子が保たれた。
日本がこれ以上清国の権益を侵さないで、軍の建て直しに協力してくれるのはメリットだ。
日本は資源さえ確実に入ってくれば、わざわざ内陸部に進出する必要は無い。態々、騒乱に巻き込まれたくは無い。
余談だが、朝鮮南部の住民の強制立ち退きは、清国が李氏朝鮮に対し『住民を残すと日本の労働力になってしまう』と唆した為、
清国軍と李氏朝鮮軍が共同で住民立ち退きを行う事になっていた。
<<< ウィル様に作成して頂いた日本近隣地図 >>>
**********************************************************************
年末に下関条約は正式に発表された。
同時に割譲される朝鮮南部の領土は『東方ユダヤ共和国』に譲られ、そこにユダヤ人国家が建設される事が正式に日本から発表された。
尚、済州島と鬱陵島は日本の領土となり、巨済島は二国の共同管理地区になっている。
それは国内外に大きな反響を呼んでいた。
日本国内の評判は良好だ。得られた領土は思った程は多く無かったが、それでも多額の賠償金が手に入った。
朝鮮南部をユダヤ人に譲るのはどうかと言う意見も多かったが、放浪の民族に救いの手を差し伸べると同時に、大陸からの防波堤の
役割を期待していると発表されれば、仕方が無いという気持ちの人も増えている。それほどロシアの脅威は大きい。
国内に保護していた約八万人のユダヤ人は、住民の立ち退きが住んだ朝鮮半島の南部地域に移住を始めていた。
日本の占領下にあって、色々な施設の建設が進んでいた巨済島と釜山の沿岸部を拠点にして建国をする。
彼らは日本各地の建設現場で重機を扱い慣れている。住民が立ち退いた土地を再開発する必要はあるだろうが、
予め日本総合工業が生産してきた大型の建設用重機が大量に導入されると発表があった事で、楽観視されていた。
陸軍の兵器を生産している財閥系の企業も大喜びだった。政府が清国との間に入るが、安定した兵器の受注が確保できた。
自走砲も日本総合工業から生産委託されるのが決定している。
例えば銃を一つ納品する代わりに、銃を三つ作れる資源が手に入る。差益は政府との折半になるが、民間企業としても嬉しい限りだ。
日本国内にいたユダヤ人は、いきなり朝鮮半島の南部に自分達の国家が建国されると聞いても、理解できなかった。
ユダヤ人は欧州では土地を持つ事が禁じられ、その為に金融業に従事する者が多い。
そして教育を大切にして、成功すると現地の人から迫害される。そんな人生を送ってきた人達は多かった。
迫害こそされたが、暖かい支援の手を差し伸べてくれる人達は少数だった。
ましてや国家を建国できるような領土を、自分達に供与してくれるなど考えた事すら無かった。
これも最初から天照機関、いや陣内が考えた事だ。中東の【出雲】の為に、将来のイスラエルに関連する問題を事前に回避する。
ユダヤの世界ネットワークを日本の為に使えるようにし、恩を売ると同時にロシアや朝鮮の防波堤の役割も期待する。
ユダヤ人にも喜ばれ(防波堤という汚れ役を負わせたが)、日本にも十分なメリットはある。
日清戦争が始まった初期に国内のユダヤ人の纏め役とラビ(宗教指導者)に事が成ればと持ちかけ、二つ返事で涙を流して感謝された。
現在、日本にいるユダヤ人を中心にして『東方ユダヤ共和国』は建国される。
地理的に一番近い日本が、建国の支援を行う。建国資金は世界中に広がるユダヤ人ネットワークが出す事になった。
その資金を使った様々な注文の大部分は日本に来る。そして時期を見て、日本と軍事同盟を結ぶ事になっている。
一応、ユダヤ人が日本に経済進出をしない密約を結び、『庇を貸して母屋を取られる』ような事が起こらないようにしている。
余談だが、同時期にハワイ王国と日本で軍事同盟を結ぶ計画が進んでいる。
日本国内と世界のユダヤ人にとってはビックニュースだが、それを苦々しい表情で見つめている人達もいた。
***********************************
朝鮮の国王である高宗と王妃の閔妃は、下関条約そのものは清国に全権を委任した事もあって、渋々とだが承諾した。
割譲する領土に住民を残しておくと日本の労働力にされてしまうと言う論理で、全ての住民を北部に立ち退かせるのも同意した。
文化財の移転も指示されたが、残っている文化財は多くは無い。これについては、どうでも良いと考えていた。
だが、割譲する領土にユダヤ人国家の『東方ユダヤ共和国』が建設される事を聞いた時は、騙されたと二人して激怒していた。
冷静に考えれば日本は朝鮮を騙した訳では無い。清国の代表である李鴻章には『朝鮮の南部をどう使おうが我々の自由』と言っている。
だが、感情的になった二人は、日本が朝鮮を騙したのだと感じていた。(あくまで本人の主観)
二人の心の中にあるのは、どうやったら日本に一泡吹かせられるかだ。
だが、如何せん国力も無い李氏朝鮮に出来る事は少ない。それに清国の監視もある。
割譲する領土の住民の強制立ち退きを手抜きすれば、清国から目を付けられる。
今の李氏朝鮮に出来る事は、秘かにロシアと接触を深める事だけだった。
尚、割譲する領土の住民の強制立ち退きは難航した。
住民にしてみれば、住み慣れた土地を何故離れなくてはならないか理解できなかった。そして当然抵抗する。
その抵抗した人達を、清国軍と李氏朝鮮軍の兵士が強制連行していった。
その有様は日本以外の諸外国の新聞記者に克明に記録され、報道された。
その影には陽炎機関が買収したスコットランド新聞とテキサス新聞、そしてユダヤ資本の新聞社などが数多くあった。
***********************************
清国の西太后は李鴻章から条約交渉の詳細を聞いていたが、『東方ユダヤ共和国』の建国にあまり注目しなかった。
李氏朝鮮が当てにならないから、代わりにユダヤ人を用心棒に選んだのだろうぐらいに考えていた。
直接領土を削られる立場と、属国の領土が減ったという立場の違いの見解の差だろう。
莫大な賠償金は痛いが、それでも日本から武器の供与が受けられるのは有難い。
何しろ自走砲はまだ何処の国も持っていない兵器だが、日本は清国に供与する事を約束していた。
そして各地に配備する為に、三百もの自走砲の手配を頼んだところだ。それ以外にも小銃などの武器も多数注文した。
それには大量の資源を輸出する必要があるが、人手を手配して作業させれば済む事だ。
それと日本が清国をこれ以上侵略せずに、土地の購入さえもしないと宣言した事を西太后は喜んでいた。
上手くいけば日本の力を使って近代化が進められ、列強にも対抗できるのでは無いかという希望を西太后は感じ始めていた。
***********************************
日本と清国の戦争が、日本の勝利で終わった事はイギリスでは冷静に受け止められていた。
戦争が始まる前は、清国が勝つと予想されていた。
だが、二つの陸上での戦いと、二つの海上での戦いが圧倒的に日本に有利に終わった時点で、この結末は予想されていた。
それでも飛行船十二隻を使った首都への攻撃と、朝鮮南部の割譲された領土にユダヤ人国家を建国するのは驚きだった。
「日本人は外交下手だと思っていたが、考えを改めなくてはならないようだな。
まさか朝鮮から割譲させた領土に、ユダヤ人国家を建設するとは想像すらしていなかった」
「それは同感だな。少し前からユダヤ人を保護していたのは、この時を狙っていたのかも知れん。そうだとすれば油断できない相手だ。
開国してまだ三十年も経っていないと言うのに、世界を手玉に取るなんて、どういう奴らだ」
「日本がロスチャイルドと接触しようとしたのは金目当てかと思っていたが、結局日本は戦費を追加調達しないまま戦争に勝利した。
という事は、ユダヤ人国家を最初から創るつもりだったのかも知れん。
聞いた話だが、ロスチャイルド財閥は戦争中の日本と接触しようとしたが、一度は断られたらしい。
戦争が終わってユダヤ人国家が建国されると聞いて、最初に接触を断ったロスチャイルド財閥は慌てているらしいからな」
「あそこはユダヤ人だからな。仲間から圧力が掛かったんだろう。我々には出来ない事だ。
まったく何でこんな事態になったんだ。日本もこちらに事前に相談してくれりゃ良いのに」
「ユダヤ人に与えられる土地は結構広い。押し詰めれば、数百万人なら受け入れられる規模だ。
そこに世界中のユダヤ人が集まれば、国家など簡単に出来てしまう。
考えようによっては、各国の嫌われ者を受け入れてくれると言う見方もある」
「日本はユダヤ人に救いの手を差し伸べたと言われているが、同時にロシアや朝鮮の防波堤の役目を負わせたんだ。
頭の良い連中だからリスクは分かってはいるだろうが、祖国が出来る魅力の方が上回ったんだろうな。
そして日本は地理的な条件を生かして、ユダヤ資金が流入して栄えるという訳か。まったく、してやられた!」
「厄介者のユダヤ人を引き受けてくれるから、各国とも『東方ユダヤ共和国』を承認する予定だ。
あの朝鮮に触手を伸ばして、ユダヤ人を公然と追放しているロシアだって承認するんだ。この流れは変えられない」
各国ともユダヤ人の扱いには手を焼いていた。
優秀な事は間違い無いが、宗教上の問題もあってユダヤ人は受け入れたく無いという感情がある。
その優秀なユダヤ人に国家を与えて大丈夫かと言う気持ちと、厄介払いが出来るという気持ちが微妙なバランスだった。
それに承認しないとなると、公然としたユダヤ人の反撃があるかも知れない。此処は同調するのが利口者と言うものだ。
「そりゃそうだ。うちもそうだが、フランス、ドイツ、オランダ、スペインも同調している。
それに邪魔しようにも、日本の飛行船十二隻の脅威がある。何処の国も飛行船の襲撃を防げる武器なんて無いんだ!」
「軍艦を我々に注文するくらいだから三流国と思っていたが、とんでも無い間違いだったな。
それに民間ベースで五隻しか持っていないと判断していた飛行船を、日本軍が十二隻も所有していたとはな。
これからも増え続けるだろうから、我々も開発を急がなくてはならない」
「日本は数年後には外販を始めると言ってきたが、待ってはいられない。
それまでに開発できれば良いが、駄目な場合は日本から輸入する必要がある」
「一隻だけで良いんだがな。それを分解して解析すれば、同程度のものは造れる自信はあるんだが」
「それは向こうもお見通しだから、中々売らないんだよ。まったく小賢しい奴らだ。最近は先手を取られっ放しだ。
まったく凄腕の占い師でもいるんじゃ無いのか!?」
「日本は今年に入って二度も、ラジオで巫女の予言と言って災害を事前に報道して、地震の被害を抑えた実績がある。
ひょっとして今度の戦争も、巫女の予言を最大限に使ったんじゃ無いのか!?」
「……戦争が始まる一年前からユダヤ人を保護した事から、可能性は大いにあるだろう。
そういえば情報局が接触していた占い師はどうした? こちらに協力すると言ったのか!?」
「いや。支度金を渡したら持ち逃げされた。今は指名手配している」
「くそったれ! オーストラリアは放棄寸前だし、何か良いことは無いのかよ!」
「日本の外務省から連絡があったが、例の不平等条約の改正を行いたいと申し込んできた。
飛行船の脅威もあるから、改正せざるを得ないだろう。その時に飛行船を一隻だけでも売れと条件をつけるか」
「……頼む」
列強筆頭のイギリス帝国が、日本の実力を認めた。それは他の列強も同じだった。
何しろ今の日本と戦って勝てると言える国は無い。飛行船が首都にやってきても、それを迎撃する手段は無いのだ。
飛行船を撃ち落す兵器を開発するか、同じ飛行船を持つしか対抗手段は無い。
ロシアとグレートゲームを繰り広げているイギリス帝国は、日本が大陸への進出をしないと宣言した事で、今後をどう進めていくか
頭を悩ませていた。中世と変わらない朝鮮に、ロシアの脅威が伸びる事は間違い無い。
清国のイギリス利権を守る為に、ユダヤ人と日本人を上手く利用できるのかを秘かに検討し始めた。
日本は自国の国力を弁えているので、列強と戦争をする気は無かった。
戦争に勝ったと浮かれていた国民も、『臣民の自戒を求める神様の訓戒』の地震が発生した事で、威勢の良い論調は抑えられていた。
そして諸外国の日本への認識が改まったのを確認し、史実では日露戦争に勝った後に行われた不平等条約の改正を外務省は進めていた。
***********************************
アメリカは複雑な思いで日清戦争を見つめていた。
出来る事なら日本と立場を変えて、自分達が清国と戦争できていればと考える人間は多かった。
そんな彼らにとって、日本が得た領土は島々のみで、大陸に進出しないと宣言したのは驚きだった。
何故、資源があるのに奪わないのか? 何故、勝者の権利を行使しないのか!? 何故、得た領土をユダヤ人に分け与えたのか!?
自分達と異質な文化を持っているのは分かっている。分かっているが、日本の行動を理解できない彼らだった。
そして日本が清国に進出しないという事は、まだ自分達が進出できるチャンスがあると言う事だ。
国内の内陸部は完全封鎖され、国民の開拓精神が萎縮している傾向がある。このままでは拙い。
何とか国民の目を海外に向けさせ、合衆国の国力を国民に知らしめる必要がある。国民に自信と誇りを取り戻させねば為らない。
その為の準備は着々と進められていた。第一の標的はスペインだ。
スペインを落とせば、カリブ海のキューバやプエルトリコと、太平洋のフィリピンやグアムが手に入る。
カリブ海を自国の内海にしようと目論んでいるアメリカにとって、恰好の獲物だ。
それにフィリピンを得られれば、中国大陸に手が届く。唯一気がかりなのは、スペインが日本と秘密交渉を始めたという噂だ。
今の日本の飛行船に対抗する手段は合衆国にも無い。その技術がスペインに渡ると拙い事になる。
そう考えた合衆国の政府上層部は、秘かに日本との交渉を開始した。
***********************************
日本の主要港の付近には、各国の商人の使っている館がある。
最近は日本との取引が増えた事から、昨年より多くの商人が日本に滞在している。
日清戦争で軍需物資を売り込めると意気込んだ商人もいたが、結局日本は追加の物資を購入しないまま戦争に勝利した。
利益を得たもの、損をした者、それらの商人の交流会が行われていた。
「今年の日本は朝鮮と清国との戦争で終わったな。しかし半年で決着がつくとは思わなかったよ」
「まったくだ。小国の日本が大国である清国に戦争を挑んだんだ。絶対に負けると思っていたし、長引くとも思っていた。
買い込んだ物資を売り捌けなくて困っているんだ。日本政府は責任を取れ!」
「八つ当たりするなよ。しかし日本が飛行船を大量に配備していたり、自走砲を持っていたのは驚きだよ。
こうなると日本を三流国だなんて言えなくなる。噂じゃ不平等条約を改正する動きがあるって言うし、そうなれば儲けが減るな」
「今の日本を公然と三流国だなんて言えるところは無いさ。各国とも必死で飛行船の対抗手段を考えている。
それが出来るまでは日本の天下だろう。飛行船の大軍が、欧州まで押し寄せてくるんじゃ無いかって恐れているんだ」
「日本は国力の限界が分かっていると見えて、意外と控えめだぞ。
もし本国が飛行船をあれだけ持っていれば、直ぐに侵攻を始めるだろう。
それをしないって事は、日本の拡張は無いと考えても良いんじゃ無いのか。
あの清国の内陸部に進出しないって正式に宣言したんだからな。まあ、俺達には無理だがね」
「まあな。朝鮮から割譲させた領土をポンとユダヤ人に与えちゃうんだからな。やっぱり東洋人の考える事は俺達には分からない」
「そこで東洋人と一括りにしない方が良いぞ。東アジア紀行にも書かれていたが、清国と朝鮮、日本は其々の文化が違う。
一緒にすると怒鳴られるかも知れないからな」
「ああ、気をつけるよ。それはそうと、ユダヤ人の方は何か動きがあるのか?」
「そうだな。東方ユダヤ共和国の建国のニュースは、欧米に一斉に広まった。
まだ受入れ準備が整っていないから大量移民は出来ないが、徐々に各国から移住してくるそうだ」
「そうなると東方ユダヤ共和国に建設資材が売り込めるな。これは良い儲け話だ」
「遅いよ。ユダヤ人は自分達のネットワークを使って、大量の建設資材を運び込んでいる。あのロスチャイルドが動いているんだ。
それに日本の財閥系の会社からも建設資材が供給されたって話だ。今頃売り込んでも遅い。買い叩かれるだけだ」
「くそっ! 良い話は無いのか!? そうだオランダの東インド植民地はどうだ!? あそこはまだ現地の勢力と争っているんだろう?」
「現地勢力に大量の武器や食料を支援している組織があるらしく、オランダ軍は押され気味なんだ。
そこに売り込みに行ったら、疑いの目で見られるぞ。まったくオーストラリアではパースを放棄したし、残るは東海岸のみだ。
どうなるか、分からないよ」
「景気が良い話は無いのかよ!? 朝鮮はどうだろう。あそこは領土を失っても、人口は変わらないだろう。何か売り込めないか?」
「……少しは勉強しろよ。あそこは借金だらけで、物を売り込んでも借金の証文しか貰えないぞ。
それも何時回収できるか分からない借金だ。最悪の場合は踏み倒されるリスクもある。それでも良いなら、行ってみれば良い。
清国の方がまだ資源を回収できる見込みがあるだけ、マシってやつさ」
「ハワイ王国には行けなくなったし、タイ王国は今じゃ日本の独壇場だからな。
コーラート台地に行ってきたが、巨大な機械が動いて大きな穴を掘ったり、用水路を整備していた。機械の威力ってやつなんだな」
「へえ。噂だけど中東の【出雲】の開発もだいぶ進んだらしい。もう消耗財関係は、現地で生産しているって聞いたぞ。
この前にイラン王国に売り込みに行ったら、【出雲】マークの商品が出回っていた」
「その話は俺も聞いたな。オスマン帝国に徐々に【出雲】マークの商品が出回り始めたってな。
あんな砂漠しか無いところを一から開発するなんて、日本人はどこか異常だよ」
今年の日本は朝鮮半島に始まって、清国に終わったと言えるかも知れない。
だが、人の目につかないところでの動きが止まっていた訳では無い。
ハワイ王国、ベトナム、タイ王国、【出雲】の開発は静かに進められていた。
***********************************
清国は小国である日本に戦争で負けてしまった。
島々こそ日本に奪われたが、本土の割譲は無かったし、属国の朝鮮も健在だ。
それで清国の面子が保たれると考える人間が居る一方で、トンでもない失敗だと考える人間もいた。
その中に海外との交易を行っている商人がいた。彼らは国際人として優秀な部類だが、政府に対する発言権は無かった。
「政府は奪われた領土が島々で済んだから一安心と言っているが、商人の立場で考えると海外への進出を抑えられたんだ。
納得いかない! 済州島−船山群島−台湾−澎湖諸島−東沙群島−海南島のラインを日本に握られるとは!
本土が無事だからって喜べるか!?」
「頭の固い政府はそこまで考えないんだろうな。まったく日本は上手くやったな。
朝鮮の南部の領土を割譲させて、そこにユダヤ人を住まわせるとは。ユダヤ人の世界ネットワークも日本に協力するだろう。
日本は強力な金蔓と用心棒を同時に手に入れたんだ」
「清国政府は日本製の武器を大々的に導入するそうじゃ無いか!? その代価は国内資源だと!
それを我々が上手く使えれば、もっと効率的になるものを!」
「我が国の工業力では自作できないから、仕方が無い事だ。
しかし小癪なのは、日本は我々に武器は供給するが、工作機械は出荷しないと言ってきた事だ。
ハワイ王国やタイ王国に出荷しているのは知っているんだぞ!」
「日本は我々の事を金蔓としか見ていないって事だな。忌々しいのは、それに気づかないで喜んでいる政府の馬鹿野郎だ!」
「日本から輸入されるのは武器や弾薬、それと消耗財だけだ。その代価は資源だ。
沿岸部にしか立ち寄らないと宣言したけど、本当に信じられるのか!?」
「それは事実らしい。内陸部にいた日本人は一斉に引き上げて、船山群島に近い上海に移ったって聞いている。
我が国の内陸部に日本人が立ち入ったら、拘束して処罰する権利も日本は認めたからな。
それと船山群島に巨大な港湾施設が建設されるらしい。軍港じゃ無くて、資源の仮置き場と聞いている」
「聞いた話だが、台湾と海南島の抵抗勢力は全てこちらに移送されてきて、日本は現地の開発を急ピッチで進めているらしい。
海南島は鉄資源が豊富だって言うのに、日本に奪われやがって!」
「日本で商売していた同胞は、戦争が始まると一斉に国内に引き上げた。
戦争が終わって日本に行こうとしたらしいが、条約で日本に行けないんだとさ。まったく日本は我々と付き合う気があるのかよ!」
「付き合いは表面的なものだけにして、深く関わらない方針かも知れん。少し気をつけた方が良い。
今の日本はどこか異常だ。とんでも無い事を計画している可能性がある!」
日本は列強のダミー商社を使って、中国の資源を貪欲に輸入してきた。
その中には直ぐに使える鉄鉱石などの資源もあるが、ウラン資源や希少金属類も多く含まれている。
そして今回の条約で、日本は公然と中国の地下資源を安価な価格で大量に手に入れられる事になった。
しかし、中国の石油資源の開発は時期尚早だと判断して、その所在も含めて開発を行う事は無かった。
そして中国の資源に過度に依存する事なく、早期に打ち切られても大丈夫なように多角的に輸入先も開拓されていった。
尚、日本が清国の内陸部に一切進出しないと宣言した事は、清国では一般的に歓迎されていた。
日本が大陸の内陸部に進出して、これから起こる騒乱に民間人を含めて巻き込まれない為の施策だが、上手い事に誤解をしてくれた。
そして日本人で中国大陸に進出をしたいと考えている人達も、法(国際条約)によって行動を制限できる。
一度でも関係を深めてしまうと、交易で利益を得ている人達の反対で中々縁を切れなくなる。だったら、最初から薄い関係の方が良い。
中国の近代化に関わるつもりも無く、人材交流さえも抑えたい天照機関の思惑は一般に知られる事は無かった。
***********************************
沙織が出産した双子は男の子と女の子で、名前は『真一』と『香織』と名づけられた。
そして同じ日に少し遅れて出産した楓の子供は男の子であり、『真治』と名づけられた。
三人の乳飲み子は、日本総合工業の協力会社が販売しているベビーベットにスヤスヤと寝ていた。
今まで沙織と楓が三人に授乳をしており、満腹になったのだろう。三人とも無邪気な可愛い寝顔だった。
その三人の可愛い寝顔を見ながら、陣内と沙織、楓の三人が少し疲れた様子で話し合っていた。
「やっと寝てくれたか。こうして寝ていると可愛いんだが、泣いている時は本当に困るよな!」
「赤ちゃんはまだ話せないから、泣く事でしかお腹が空いたとかオムツを交換してくれって言えないんですよ。
それでも師匠や由維と美香が、オムツ交換やお風呂を手伝ってくれるから助かるわ」
「そうね。真の赤ん坊を抱く手付きって、どこか不安なのよね。やっぱり父親なんだから、もうちょっと慣れて貰わないと困るわ」
「天照機関の他のメンバーからは、親馬鹿だって言われているんだぞ!
この前だって朝鮮王宮と紫禁城に向かった飛行船への指示をしたのは、真治のオムツ交換をしながらだ。
飛行船に乗り込んでいる士官に真治の泣き声を聞かれて、戦争とオムツ交換とどっちが大事だって文句を言われたんだ!
少しは俺の立場も考えてくれ! 今は肩身が狭いんだ!」
「真さん。父親の義務を蔑ろにして貰っては困りますわ。可愛い我が子に愛情を注がないで、どうするんです!?」
「そういう事。仕事が忙しいのは分かるけど、育児も待った無しなんだからね。今夜のお風呂もちゃんと入れてね」
「まだ動けないから良いが、これでよちよち歩きを始めたら手が付けられなくなる。
その時はベビーシッターとして、天照基地から汎用アンドロイドを一体を、この家に常駐させるからな!」
「そう言えば最近は織姫さんとも話して無いわね。あちらの建設は順調なんですか?」
「真が未来から来たって言うのは教わっていたけど、未来の技術があそこまで発展しているとは思わなかったわ。
あの技術を大々的に使えば、こそこそと真が裏で動く必要は無いでしょう。そうなれば真も育児に専念できるんじゃ無いの」
「出来ないって分かっていて、からかうなよ。まあ天照基地の建設はまだまだ遅れているけど、それなりに進みだしたよ」
天照基地の事は沙織は知っていたが、楓は知らなかった。出産を契機に楓も家族の一員として、織姫と会わせて未来の技術も教えた。
三人の赤ん坊が産まれた今、天照基地の権利を引き継ぐ後継者の問題にも繋がっていくからだ。
まだまだ先の話だが、準備を怠って良い事では無い。
天照基地の造船所と石油生成プラントは完成間近だった。これも建設用ロボットを引き上げた為だ。
まだまだ施設の完成には程遠いが、着実に天照基地の建設は進んでいた。
来年からは軍艦の建造を進める計画だ。国内の各造船所でも進めるが、一線を画した艦艇は天照基地でしか建造できない。
まだまだ防衛施設など手付かずのものはあったが、他が安定してきた事で基地建設は順調に進みだしていた。
***********************************
転生者達はまだ幼くて、世の中に影響を与えるような行動力は持っていない。逆に周囲の状況に左右されるひ弱な存在だ。
そして幼いが故に入ってくる情報も限られてしまい、世の中の動向をまったく知らない。
それでも日本が日清戦争に勝利し、朝鮮半島の南部を割譲させてユダヤ人国家を建設した事は、多くの転生者の知るところとなった。
遥かな過去なので記憶は曖昧だが、それでも史実と違っている事は察せられた。
(どういう事なんだ!? 日本と中国は数百年前に戦って、中国が散々根に持って言い掛かりを付けていた事は知っている。
でも日本が中国大陸に進出しないとは、どういう事だ!? しかも朝鮮半島の南部にユダヤ人国家を建設するだと!?
これじゃあイスラエルの建国が無くなる。この世界は俺達の住んでいた世界の過去じゃ無いのか?
どうも知る限り、日本の様子がおかしい。確かに記憶は曖昧だけど、こんなに日本が大々的に動くはずが無い!)
(イスラエルが無くなって、東アジアにユダヤ人の国家が建設されるなんて、世界の流れは大きく変わってしまうじゃないか。
ハワイ王国に女神が出現した事や、アメリカとカナダの一部が封鎖された事もおかしい。
オーストラリアは放棄する寸前という情報だ。この世界は俺達の世界の過去じゃ無くて、別世界かも知れないけど、どこか異常だ。
そして全部じゃ無いけど、日本が関わっている可能性は高い。俺と同じく未来から転生した奴がいるかも知れない。
でも、俺と同じ条件だとしても、まだ子供で政治に関与できるのか? いったいどういう事が起きているんだ!?)
(こんな昔の記憶は曖昧だけど、ここまで日本が色々な分野でリードするなんて無かったはずだ。
という事はやはり未来の知識を持った奴がいるって事だ。
やはり転生者は俺だけじゃ無くて、他にもいるって事だろう。状況証拠として、日本の結果が示している。
俺はまだ子供で何も出来ないけど、大きくなったら絶対に未来の知識を使って這い上がってやる!)
(日帝の奴らが祖国の南にユダヤ人国家を建設するとはどういう事だ!? 奴らは俺達を植民地にして搾取するはずだ!
それに中国の属国のままで、こんな貧しい生活を続けろって言うのか!? 嫌だ! もうこんな不衛生なところに住みたく無い!
こんな環境じゃあ、いつ身体を悪くするか分からないじゃ無いか!? 南部から移り住んできた奴らが増えた所為で食料が足りない!
何時まで空腹に我慢しなくちゃ成らないんだ!? これも全部日帝が悪いんだ! 俺が大きくなったら、絶対に責任を取らせてやる!)
(まさか日本があたし達の為に国家を建設してくれるとはね。しかも朝鮮とは完全に縁を切るつもりかしら。
前世でも同じユダヤ人だったから分かるけど、絶対に今の日本には未来の知識を持った人間が居るわね。
そうじゃなければ、こうも世界を手玉に取れないわ。あたし達に救いの手を差し伸べてくれたのは嬉しいわ。
でも同時に、ロシアや朝鮮への防波堤の役割を負わすとは、中々のやり手のようね。
さて、お爺様が日本と接触する時に同席させて貰いましょう。上手くいけば、このシナリオを考えた人間に会えるかも知れないわ)
前世での立場や、男女別、そして転生先の国家の状況によって、転生者の生き方は違っていた。
まだ四歳児に出来る事など限られてくる。極一部の例外を除いて、未来の知識を持っているメリットは転生者に無い。
まずは生き延びて自由に動けるようにならないと、自らの知識を使う事さえ出来ない。
彼ら転生者にどんな運命が待っているか、今は誰も知らない。
(2013. 6. 1 初版)
(2014. 3. 2 改訂一版)