皇居の年頭の行事が終わった後で、天照機関としての三回目の新年会が行われようとしていたが、陣内だけ姿が見えなかった。

 今まで遅刻が無かった陣内だ。怪訝に思った参加メンバーが連絡をとろうとした時、皇居の主宛に通信が入ってきた。


「陣内か。どうした? もう全員が揃っているぞ。お前が遅刻など珍しい…………沙織が妊娠していて、悪阻が酷いだと!?

 ……そうか……分かった。お前は付き添ってやれ! 後で必ず報告に来い!」

「ほう、沙織が妊娠とは。新年早々、目出度い事だな」

「女の悪阻程度で、この天照機関の新年会を欠席するとは、少々甘くは無いか? 女の事より、国家の大事を優先すべきだ」

「女にとっては一大イベントだからな。初産でもあるし、慌てるのも仕方が無いだろう。

 初めての子供だから、右往左往するのも当然だ。あまりきつい事を言うのは可哀想だ」

「これで陣内がやっと身を固める。此処までやってくれたが、やはり独り身だと少し不安だったからな。

 子供が生まれて家庭を持てば、今以上に安心できる」

「最初に会った時は我々に怯えていたが、最近は少し肝が据わったようで逞しくなっている。

 人使いも少し慣れてきたようだし、ある程度は仕事を任せられるようになってきたな」

「昨年のうちに追加の自走砲と飛行船は納品された。偵察について協議したかったが、後にしよう」

「昨年は色々とあったが、何とか上手く行っている。【出雲】、ハワイ王国、タイ王国、其々が順調に開発が進んでいるな。

 一番先に効果が出るのはタイ王国か?」

「ハワイ王国の地下資源は少ないからな。民間ならともかく、我々の立場ではアメリカが動き出さないとハワイのメリットは無い。

 それより、タイ王国の食料と地下資源に期待したい。民間ベースではベトナムも上手く行っている」

「ハワイの女神の出現で一時は混乱したが、今では各国とも落ち着きを取り戻している。

 今まで通りに食料や資源の輸入が続けられれば、我が国の繁栄が約束されると言う物だ」


 様々な新商品が国内に普及し始めた事で、経済が活発化している。そして輸出も大幅に増加した事が、さらに好影響を与えている。

 とは言え、日本の資源は乏しい。海底資源の採掘が出来るまではまだ時間が掛かり、それまでは諸外国から輸入する必要がある。

 それに海底資源の採掘が可能になっても、資源温存の意味から諸外国から継続して輸入する方が好ましい。

 そういった理由から、日本は色々な手段を使って世界各地の資源を集めていた。(ウラン資源や希少金属類も含む)


「さて、史実では春には朝鮮半島で甲午農民戦争が発生し、収拾がつかなくなって日清戦争が発生したのだったな。

 その朝鮮半島の様子はどうだ? 本当に農民の反乱は起きそうか?」

「はい。米や大豆などの食料価格の高騰と、地方官の搾取が農村経済をかなり圧迫しています。反乱は間違い無く発生すると思われます」

「ふむ。その準備は万全なのだな?」

「勿論です。史実ではろくな準備は出来なかったようですが、今回は事前に兵器や弾薬、食料などの備蓄は済ませてます。

 進軍ルートの検討も終わっており、事が発生すれば速やかに行動に入れます。海軍艦艇の修理は事前に済ませてあります」

「李氏朝鮮が農民の反乱を抑え切れなくて、清国に出兵を要請する。我が国もそれに対応して軍を出す。それは史実と同じだ。

 清国も軍を撤退させる事は無く、そこで決裂する。そこまでは良いが、絶対に朝鮮王宮は占拠せずに丁重に扱うのだぞ」

「はい。第三国の記者がいますから、我が国が李氏朝鮮の王室を尊重して独立させる為に動いていると認識させます。

 もっとも、こちらの好意に対してどう反応するかが見えていますので、少々頭が痛いですが」

「諸外国の手前、どうしても日本は筋を通す必要がある。我が国の国益が優先だが、現地の利益にもなる。

 それが理解できぬというなら最終的には決別するが、段階を踏まぬ事には大義が立たぬ」

「我々に協力的な開明派の数は少ないから、清国に協力するのが目に見えていますからね。

 それが分かっていても、あちらの善意を期待する。まあ表面上だけですが。事が終わったら、その報いは受けて貰います」

「我が国の国益の為に朝鮮の独立を求めるが、我が国には朝鮮を保護して発展させる義務など無いからな。

 彼らにとっても良い事だとは思うが、最終的に尊重されるのは李氏朝鮮の判断だ。上海で暗殺される金玉均についてはどうするのか?」

「朝鮮にも金玉均のような優れた政治家はいたが、李氏朝鮮は彼のような政治家とは相容れない存在だ。

 李氏朝鮮の支配層である両班の無能さを追求して、そう公表する予定です。

 我々が朝鮮に本格的に介入するなら、是非とも助けたい人物ですが……」

「……たしか凌遅刑になるのだったな。遺体をバラバラにされて各地で晒しものにされてしまうのか。

 凌遅刑は生きたまま肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで殺す処刑方法だが、その苦痛が無いだけマシというものか」

「その凌遅刑の様子も写真つきで世界各国に報道します。それで李氏朝鮮の実態が知れ渡り、我々の立場が強化できるでしょう。

 罪滅しと言っては何ですが、彼の妻子は必ず保護します。もっとも国外で保護する事になりますが」

「李氏朝鮮は自分達の利益を求め、清国にも自国の利益を求めて行動する権利がある。列強も我々も同じ事だ。

 そして利害が対立すれば衝突し、大きくなれば戦争になる。この時代では事の善悪より、負ける事が何よりの悪だからな。

 嫌な時代だが、今を生き抜くには我々も時代の流れに従うしか無い。流れに乗れない国は滅びる運命にある」

「唐や隋の時代は交流があったが、千年以上も日本はまともに中国と交流を行っていない。

 過去において我が国の師だった事は間違い無いが、千年以上も前の事に囚われる事は無い。

 過去の歴史を穿り返すなら、元寇の事だって言い出せる。まあ、そんな過去の事を蒸し返しても、常識知らずと思われるだけだがな。

 弱肉強食は今の時代の常識だ。その常識からは誰も逃げる事は出来ない」


 史実では今年に朝鮮半島で農民の大規模な反乱が発生し、それが元で日清戦争が勃発する。

 その準備は整えてある。だが、後々の利益を考えて一部の人間の犠牲も止むを得ないと、謀略も進めていた。

 それらが国内外に知られれば、十分に批判の対象になるだろう。だが、日本の国益を最優先するのは当然の事だろう。

 そして天照機関の計画した謀略は、非情に徹して進められていた。


 天照機関のメンバーは陣内から睡眠教育を受けて、史実の事を知っていた。

 そして史実の日本の悲惨さを知ったが故に、同じような過ちを犯さないよう厳しい方針を採っていた。

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 日総新聞は理化学研究所の公式発表を掲載した新聞を出していた。くどいようだが他社は報道していない独占スクープだ。


『理化学研究所の北垣代表は、結核のワクチンを開発したと発表した。

 尚、この摂取には医者の診断が必要になるとされて、一般向けの販売は無く、主に医療機関向けの販売になる。

 既にワクチンは量産体制に入っており、直ぐに出荷可能だと表明している。

 まずは国内の普及を目指すが、諸外国から要望があれば輸出も可能と発表した』


 マンネリ化と言われそうだが、期待を裏切るのも悪いかなという程度の軽い気持ちの発表だった。

 結核のワクチンを待ち望んでいる人達は多いが、例年のように新年早々の理化学研究所の発表は思った程のインパクトは無かった。

 他には協力会社から乳幼児用の色々な新商品を生産・販売すると発表があったが、一部の御婦人を除いてさほどは注目されなかった。

 だが、最後の記事に多くの読者は目を剥いた。


『淡月光の川中楓代表は、出産の為に夏までには代表の座を退く事を正式に発表した。

 後任人事は調整中であり、来月には発表される見通しだ。

 復帰の予定は今のところ未定だが、淡月光の運営に支障は出ないと保証している。

 川中代表が結婚するような話は一切無く、個人的な事情として出産に関する事は沈黙を守っている』


 淡月光と日総新聞は日本総合工業の子会社であり、社長同士は顔馴染みでもある。

 そんな経緯から陣内に知らせぬまま、楓の妊娠が日総新聞から発表された事で大きな混乱が発生していた。

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 昨年と同じく、正月休み明けの初日に理化学研究所から新商品の発表があったが、諸外国の注目を思った程は集めてはいなかった。


「また今年も新年早々に新商品を発表か。今年は結核のワクチンだ。確かに望んでいる人は多いだろうが、何でこんなに冷静なんだか」

「マンネリ化しているからだろう。それに今年は一つだけだからな。日本の理化学研究所もそろそろネタが尽きてきたんじゃ無いのか?」

「去年以前の発表の方がインパクトは大きかったからな。

 それに昨年はハワイの神の降臨で大騒ぎしたし、この程度で驚く事は無くなったよ」

「何だか感覚が麻痺したようで怖いな。それより飛行船の事は何も書いてないのか?

 日本が建造して運用している飛行船は、まだ一隻だけだ。量産になれば、うちも購入したいんだがな」

「現地の駐在員からは何も報告は入っていない。大きな日の丸をつけているから、かなり目立つ。

 日本−ハワイ間、日本−ベトナム−タイ王国−【出雲】の遊覧飛行は殆ど満員らしいから、早く追加建造があると思っていたんだが」

「あの大きさのものを浮かすんだから、水素ガスを使っているんだろうな。しかし、水素ガスは爆発の危険性がある。

 日本はどうやってそれを克服したのかを早めに知りたい。それが分かれば、国内で飛行船の建造は出来るさ」


 列強でも色々な発明が成されているが、どうしても量産とかインパクトとかを比べると見劣りしてしまう。

 特に日本は新発明が即輸出に繋がっており、その有効性の面からも日本の新商品のリバースエンジニアリングを進めていた。

 今、列強が特に力を入れているのが真空管、無線通信機、飛行船だった。


「最近の日本の新開発に刺激されて、各国で色々な科学技術の研究が盛んになったと聞くが、あんまり予算が増えていないようだな。

 普通なら負けじと予算をつけるはずだろうに、何故なんだ?」

「知らないのか。各国とも科学技術研究の予算を上げようと目論んだんだが、他から横槍が入ったんだ。そっちに予算を食われたのさ」

「横槍だと? 何の事だ?」

「科学技術が重要だという認識は変わらない。だけど、ハワイの女神のような脅威が無いとは言えないだろう。

 それを予防する為にも、膨大な予算が占い師とか魔女組織に流れ込み始めたんだ。政府が内々で接触を開始したらしい。

 時代に逆行していると言えなくも無いが、古来の神々の脅威を忘れる事は出来ないだろう」

「……そんな事に貴重な予算が使われていると言うのか!? 信じられない!」

「それが現実だ。日本は『巫女』という神に仕える女性を使って、地震を予知した。

 そしてここ数年の日本の発明ラッシュに、何らかの神の力が大きく影響しているのでは無いかと囁かれているんだ」

「……なる程。それで上手くいけば、我々も神の恩恵に与れるかも知れないと言う事か」

「ハワイ王国は大々的に神殿を建設しているし、他の国でも古来からの神が再評価され始めた。

 どうなるかは分からんが、出遅れると拙いと考えた各国が一斉に動き始めたのさ」


 諸外国の一般市民はハワイの女神に驚愕したが、やがて自分には何も影響が無いと知ると、今までと変わりない生活をしていた。

 だが施政者はそうもいかない。万が一でも他の国の神が目覚めて、報復されてはたまったものでは無い。

 そういう考えが列強の施政者の脳裏を強く過ぎり、キリスト教では無い民族古来の神や魔女組織が注目されていた。

 時代に逆行するような考え方だが、実際にアメリカが受けた被害を知ると放置して良い問題とは考えなかった。

 こうして科学技術の重要性は変わらなかったが、占いや魔術などの研究を進める事が国家の極秘方針として定められていた。


「そういや淡月光の社長を勤めている美女が妊娠して、引退するって本当なのか?」

「ああ、本当らしい。もっとも特許は全てあの美女が持っているし、何らかの関わりは残すだろうさ。

 最近の淡月光は現地生産を進めてきたから、だいぶ落ち着いたらしい。もっとも、日本からの輸入品が高級品なのは変わらない」

「写真を見た事があるけど、日本人でもあんな美女が居るんだな。それで結婚しないなんて勿体無い。

 お腹の子供の父親は誰だか知っているか?」

「俺がそんな事を知る訳が無いだろう! 財産目的の男を嫌ったのか、そこら辺は分からんが、独り身のまま出産するらしいぞ」

「ふーーむ。各国から上がる特許料だけでも莫大だからな。女手一つでも生活に困る事は無いか。

 うちの女房と交換して欲しいくらいだぜ。そうなりゃ、俺は左団扇で一生楽して過ごせるってもんだ」

「馬鹿言ってろ。お前みたいな奴と結婚するくらいなら、一生独身で過ごす方が良いと思う女のほうが絶対に多いぞ!」


 楓の出産はゴシップ話として、あっという間に広まった。楓ほどの美女が結婚しないで子供を出産して、現役を退くのは十分な話題だ。

 女性の権利が十分にある証明にはなるが、やはり世間の興味を惹く。

 海外の女性の間でもそれなりの騒ぎになり、日本国内では子供の父親は誰かという事で各地の井戸端会議が盛り上がっていた。

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 陣内は日本総合工業の代表であり、秘かに回収した海外の財宝を別にしても日本有数の資産家になっていた。

 勝浦工場で生産される商品の販売利益や、理化学研究所が発表した特許使用料などがあり、僅か数年で莫大な資産を持つようになった。

 しかし陣内はそんな資産に大した価値を見出してはいなかった。財宝を別途で持っている事もあって、蓄財せずに次々に投資に回した。

 勝浦工場の第二期拡張工事、海外事業部の運営するダミー商社、日本国内は元より世界各地の孤児院など、色々な方面に渡っている。

 注目を集めている理化学研究所や淡月光の親会社の社長と言う立場もあって有名にはなったが、人間嫌いという事でも知られていた。

 まず華族絡みのパーティにはお誘いがあっても、出席した事が無い。

 海外の重要人物が面会を求めても、部下に対応させるだけで絶対に会わない。

 普通ならこんな事は許されないが、日本総合工業は殆どが国内向けの事業を展開している為に出来た事だ。

 協力会社の社長ならともかく、普通の人はまず会えない。日総新聞も含めて、新聞社の取材に応じた事も無い。

 皇居に出入りする事も多く、明治の元勲とも頻繁に会っている噂があり、諸外国の目が陣内に向けられつつあった。


 陣内は出世は考えず、名誉も得るつもりは無く、慎ましい幸せがあれば十分と考えていた。

 根っからの職人気質は、会社の代表になっても変わらなかった。その為に出来る限りは他との接触を控えている。

 そんな陣内だったが、昨年末に知らされた沙織の妊娠で混乱していた。

 まず沙織を正式に秘書から外し、予備の秘書の二名を正式な秘書に昇格させた。(二名とも二十代の男)

 そして由維と美香に頼み込んで、沙織の付き添いとしていた。(沙織は完全に仕事を止めさせられ、出産の準備をする事になった)

 協力会社に頼み込み、乳幼児用の色々な商品の生産と販売を行う事にして、出来る限り沙織の出産と育児のフォローが出来るように

 準備を進めていた。皇居の主からは沙織の素性を打ち明けられ、絶対に責任は取るのだなと詰め寄られた事も大きく影響している。

 少々気が早いだろうが、産まれてくる子供の為に由緒ある刀を守り刀として受け取ってしまった。


 そんな陣内が楓の出産の記事を読んでしまった。

 恐らく日総新聞の青山代表は楓に頼まれて、断りきれなかったのだろう。それは十分に推察できた。

 だが楓が代表の座から降りるとなると、その後任人事に陣内は関与せざるを得ない。これは淡月光の親会社の代表である陣内の責務だ。

 沙織と殆ど同時期に、楓と自分の子供が産まれてくる。

 まだ親になる覚悟などないが、話し合いは必要だろうと楓と腹心の部下二人を呼び出した。


「……何で妊娠した事を先に話してくれなかったんだ。新聞を読んで心臓が止まるかと思ったよ」

「あら、そんな個人的な事は陣内様にお伝えする必要は無いと思ったからですわ。

 御相談もせずに代表を退く事を新聞発表したのは、御詫びさせていただきます」

「楓? どういうつもりなの?」  「ま、まさか楓は……分かった。尻拭いはしてあげるわ」

「……二人は俺達の関係を知っていると言ってたな。その上で、俺を名前でなく苗字で呼ぶのか? それが楓の結論なのか?」


 楓が妊娠した事を陣内に隠してまで新聞発表したのは、お腹の子の父親の事は世間に明らかにしないと決めた為だ。

 身を固める気は無く、忍術の避妊術を使っているからと陣内に言った手前、今更子供が欲しくなったとは矜持が邪魔して言えない。

 沙織との結婚は来年以降になると陣内から聞かされていた事もあって、先手を打てればと考えたのも事実だ。

 だが、沙織も同時期に妊娠してしまったのは、楓にとっても予想外の事だった。

 それに楓の妊娠を知った半蔵から沙織の素性を聞いて、陣内を混乱させないように太い釘をさされた。

 史実であれば今年に清国との戦争が発生する。そして陣内はその対応に追われる事は既に分かっている。

 そんな陣内にお腹の子供の責任を取れなど、絶対に口にしないと楓は心に誓っていた。


「お腹の子供はあたしの子です。あたしが責任を持って育てます。

 陣内様からは色々な特許をいただきましたから、それで十分に生活できます。これ以上は望みません。

 今年は色々と陣内様はお忙しくなります。あたしごときに構っている余裕は無いと思いますが?」

「楓の馬鹿……」  「…………」

「……正直言うと、年末に沙織の妊娠を知らされてパニックになったよ。さらには楓まで妊娠していたとはな。

 俺みたいな中途半端な男が父親になるだなんて、本当に良いのかと悩んだのは事実だ。でも今は覚悟を決めた。

 沙織の子供と楓の子供の父親になる決心はついた。言い難いが、沙織が俺の嫁になる事は変えられん。

 だが、楓の子供が俺の子供だと言う事も認めさせる! 俺は小心者だろうが、それでも子供の責任から逃げるつもりは無い!!」

「……本気なの? あたしは避妊術を使っているって真に嘘をついたのよ?」

「こんな事で嘘が言えるはずが無いだろう! 沙織には土下座でもして謝るさ。ただ楓に嫁の座はあげられないのは許してくれ」

「……まったく馬鹿ね。でも、ちょっと待って! お腹の子供を真が認めてくれるのは嬉しいけど、世間には知らせないで!

 今年の戦争騒ぎもあるでしょうから、騒ぎは避けたいの。公にするのは数年後で良いから」

「分かった。それと楓は一人暮らしだろう。面倒を見て貰える人は居ないんだよな?」

「陣内様、待って下さい! 三人で話をしたんですが、楓の出産はあたし達が面倒をみます!」

「そうです! 安心して下さい!」

「ちょっと待て! 楓は代表から退くが、顧問という形で淡月光との関係は続く。

 二人のどちらかに淡月光の代表を任せるから、妊娠した楓の面倒は見させられない。

 そして沙織の面倒を見る為に、真崎小雪という女性が陽炎機関からうちに来る事になった。

 出産経験もあるそうだし、うちの由維と美香も交代で休んで沙織の面倒を見る事になった。そういう訳だから楓もうちに来ないか?」

「げっ!? あの『師匠』が!?」  「あの婆はまだ生きてたのか……」  「憎まれっ子、世に憚るとはこの事か……」


 陣内が真崎小雪という名前を出した途端、三人の顔が一瞬で変わった。

 特に楓は口調までも昔に戻ってしまったようだ。その様子を陣内は興味深げに見ていた。


「……知り合いなのか?」

「あたし達『くの一』の師匠よ。まさか、こんな時に出てくるとは思って無かったわ」

「信頼できるのか?」

「……厳しい師匠だったけどね。確かに出産経験もあるから、頼りになると思うけど……まさか師匠の手を煩わす事になるとは」

「沙織も可哀想に」  「……同感」

「……ま、まあ頼りになると分かれば良いさ。ところで楓が家に来る件はどうする?」

「少し考えさせて……それよりあたしの後任は、二人に任せる事で良いのね?」

「ああ。給与も大幅アップだ。頑張ってくれ!」

「……あのう、沙織も楓も妊娠中だから陣内様の不満はどうします? あたし達がお相手しましょうか?」

「それ良いわね! じゃあ次の機会に三人で「却下!!」 ……楓、邪魔しないでよ」

「これ以上、事態を複雑にさせないでよ! それに直接できなくても色々とあるから、あんた達は心配しなくて良いわ!

 それにお師匠様にこの事がばれたら、どんな折檻を受けるか知らないわよ!」


 最初に四人が集まった時は緊迫した雰囲気だったが、最後は気が抜けた雰囲気に変わっていた。

 そして妊娠初期の楓は二人の腹心の部下に引継ぎを行い、ある程度安定したら陣内の自宅に移る事が決まっていた。

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 日本資本によるハワイ王国の開発が始まって、約半年が経過していた。

 半年ではさほどは効果は出ないが、それでも日本から大量の消費財が流れ込んだ事で、色々な変化が出始めていた。

 神殿の建設も進んでいる。完成まではまだまだ時間が掛かるが、生粋のハワイ王国の人達の心の拠り所になるものだ。

 そして今まで自分達を搾取していた入植者が一掃された事で労働意欲が戻っており、作業の効率が上がっていった。

 ハワイ王国の人達は生活が徐々に変わっていく事を、肌身で感じ始めていた。

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 ベトナムに対して日本が行っている事業は、孤児院(運営して四年目)と淡月光の工場(稼動して一年)だ。

 そして北部の丘陵地帯の開発と、フランスの承認を得て始めた通商によって、ベトナムにも変化が出てきた。

 孤児院は多少の噂にはなったが、ベトナム全体から見ると無名の存在だと言える。

 それでも、中に目を向けると三十人の孤児を抱えて、将来的には楽しみな施設でもある。

 植民地という事もあって碌な教育機関は無いが、その孤児院では高度な教育を施していた。

 日本文化も暇を見て孤児に広めてある。才能があると思われる子供も居て、孤児院の運営に携わっている老夫婦の期待も大きい。


 一方、淡月光の工場は現地の若い女性を多数雇用している事から、現地の経済に少しずつ好影響を与え始めていた。

 日本から大量の消費財や電気設備が流れ込み、逆に大量の資源や食料が輸出されて、現地の経済が活性化している。

 特に淡月光の工場で働いている女性達の購買力は、無視できない程に上がっていた。


 それと淡月光の工場で募集している【出雲】への出稼ぎも増えていた。

 彼女達は【出雲】の女性専用宿舎で寝泊りしていて、稼ぐ賃金も馬鹿には出来ない。

 それはベトナムに還元され、日本との交易が順調に進む一つの要因になっている。


 北部の丘陵地帯の開発は順調では無かった。タイ王国とフランスの仲介を日本が務めた事で、多少の嫌がらせはある。

 それでも急ぐ事無く、現地の人を雇用して地下資源の開発を行っている。そして中国の雲南地方への接触も秘かに行われていた。

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 昨年のパークナム事件からタイ王国と日本の関係が深まり、渋沢の系列企業の進出が進んでいた。

 チャーン島(面積:約217km2)の港湾施設や工場群の建設が進められ、コーラート台地には大量の建設用の大型重機が運び込まれた。

 この建設用重機を使って、貯水池や農業用水路を整備して、この地の農業生産量を飛躍させる計画だ。(地下資源採掘も含む)

 実現までには長い年月が掛かるだろうが、現地の人達も協力してくれる。

 首都の付近の日本人老夫婦が運営している孤児院は人々の噂になっており、日本の評判を高めるのに役立っている。

 こちらも孤児達にも高度な教育を実施しており、将来が楽しみな孤児達もちらほら出始めていた。

 さらに、初期型の工作機械も数多く導入されて、少しずつ工業化が進められていった。


 それとコーラート台地の若い女性に対して、【出雲】への出稼ぎの募集が始められた。

 一部からは何故若い女性のみなのかという疑念の声もあったが、先行して進めているベトナム女性の説明で納得して貰っている。

 ベトナムと同じように日本から消費財や色々な設備が輸入され、そしてタイ王国の地下資源や食料が大量に日本に輸出され始めた。

 飛行船の飛行ルートにタイ王国が入った事で、人材交流も深まって日本との交易量は増加の一途を辿っていった。

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 【出雲】の開発が始まって三年目だ。港湾施設や工場群、住居、農場なども形になり始め、日本からの移住者は一万人を超えていた。

 ベトナムやタイ王国からの若い女性の出稼ぎもあって、雰囲気も華やいでいる。すでに結婚した人達も何組か出ていた。

 重化学コンビナート群や軽工業の工場群の一部は稼動を始め、生産を行っている。

 既に生産品の一部はクエート市やバスラにも出回り始めていた。【出雲】の近辺に電化製品を生産できるところは無い。

 そういう理由もあって【出雲】と近郊の国家との関係は、今のところは良好だった。

 そして史実のサウジアラビアを建国したサウード家に支援して、その関係を深めつつある。


 今のところ【出雲】に軍隊は無い。小規模な警備隊だけだ。国境を徐々に拡大しているのは、今のところはばれてはいない。

 そして完全に工業化が進み、人口が十万人を超えたタイミングが皇室直属の軍隊を立ち上げる時だと計画されていた。



ウィル様作成の地図(出雲版)
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 アメリカはハワイの女神によって甚大な被害を受けたが、日本から輸入した初期型の建設用重機を使用して復興を行っていた。

 そして失われたペンシルべニア油田の代わりに、東テキサス油田の開発を急ピッチで進めている。

 一方で広大な西部一帯を原因不明の伝染病の為に、完全に封鎖していた。

 伝染病から市民を守る為と政府は発表したが、一般市民の間ではインディアンの呪いを恐れた為だと信じられている。

 ミズーリ川の上空でインディアンが良く使うトーテムポールが、空に浮いているのが目撃された事が噂の拡散に拍車を掛けた。

 広大な国土の三分の一を閉鎖した訳だが、それでもアメリカは広くて地下資源や人口が多い大国だ。

 精神的な衝撃を受けはしたが、南部の開発を進める事で国力は徐々に回復していった。


 カナダは西側のブリティッシュコロンビアとアルバータ、サスカチュワン州を完全に閉鎖していた。

 この辺りはアメリカと同じ理由だ。そしてその三州を除いた地域の開発が進められていた。


ウィル様作成の地図(北米版)

 オランダの東インド植民地(史実のインドネシア)のスマトラ島では、現地の勢力の北部アチェ王国の反撃が始まり、

 沿岸部はともかく内陸部ではオランダ軍は徐々に押され始めていた。

 ちなみに海外事業部の運営する孤児院はジャワ島にあり、北部アチェ王国との抗争は影響しない。

 こちらも運営は順調に進み、孤児達は高度な教育を受けていて老夫婦の秘かな楽しみになっていた。


ウィル様作成の地図(東南アジア版)

 オーストラリアは危機に瀕していた。アボリジニの神を恐れて完全に内陸部から撤退していた。

 そして沿岸部も徐々に襲撃事件が発生するようになり、治安は極度に悪化していた。

 一部の人間は近場のニュージーランドに移住を開始し始めている。現地の当局にも打つ手は無く、治安維持に努めるのが精一杯だ。


ウィル様作成の地図(オーストラリア版)

 これ以外の植民地の様子は以前とは変わらず、列強の苛烈な支配の下で混沌としていた。

 一時的には各地の神が目覚めるのでは無いかと恐れて搾取の手を緩めたが、やはり何も起こらないと分かると元通りになっていた。

 こうして世界はある程度の変化があったが、あまり変わる事無く人間は各自の営みを続けていた。

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 現時点の朝鮮半島は李氏朝鮮の第26代国王の高宗が支配している。だが実権は気が強い閔妃が握っていた。

 閔妃は1884年の甲申政変で清国に助けられた事もあって、清国への事大主義に傾倒している。

 そして李氏朝鮮は莫大な借金を抱えており、その返済の為に国内の農村から過酷な取立てを行っていた。

 輸出の為に国内の食料の価格は上昇し、各地の農民の生活を直撃し、大いなる不満が各地に渦巻いていた。


 この時点で政治面では清国寄りになっていたが、経済的には日本が朝鮮の交易の多くを占めていた。

 天照機関は朝鮮に対しては現時点で特に工作しない方針だった為に、史実と同じような状況になっている。

 朝鮮の識字率向上の為に井上角五郎が普及させようと試みたハングル文字は、両班の妨害で一向に普及が進んでいない。

 天照機関は李氏朝鮮の意向を重視し、無理な押し付けはしないように日本国内の各組織に通達を出していた。

 この為に、一部の李氏朝鮮に善意を持つ人や、朝鮮と関係を深めるべきと考える日本人の行動に制限が掛かっていた。

 李氏朝鮮は近代式軍隊を持っているが規模は小さく、国内の産業と呼べるのは第一次産業だけだ。

 電気はほとんど普及が進んでおらず、交通の便も極めて悪い。工業化も全然進んでいないのが、李氏朝鮮の実情だった。

 この朝鮮の不安定な状態は、ロシアの南下を危惧するイギリスなど各列強の懸念を抱かせていた。

 その為に朝鮮を清国か日本か、それとも両国の共同統治でも良いから早く安定させれば良いと考えていた。

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 日本帝国陸軍の最上層部は今年に日清戦争が起きる事を知っていたが、下の人間はそんな未来の事など知る由も無い。

 昨今の状況を踏まえてロシアの脅威を感じ、一刻も早く防波堤として朝鮮の独立を進めるべきだと言う意見の持ち主は多かった。

 つまり多数の軍人にとって、朝鮮の独立を認めない清国は完全な敵だった。

 危機感を抱いている軍人に、自走砲やトラックを用いた軍事演習は鬱積した気持ちを吹き飛ばすには十分な効果を発揮した。

 歩兵や騎兵が主流の現在、トラックを使った高速移動や自走砲による敵陣への砲撃は清国に十分対抗できると確信させていた。

 軍需物資は大量に対馬に集められている。そしてそれらを運ぶ高速輸送船は数多く就役している。

 秘密兵器である飛行船の訓練も進んでいた。六隻の飛行船は誰にも見つからないように、極秘で訓練されていた。

 こうして帝国陸軍は内部の不安を取り除き、訓練を繰り返しながら運命の時を待っていた。


 日本帝国海軍の最上層部は今年に日清戦争が起きる事を知っていたが、下の人間はそんな未来の事など知る由も無い。陸軍と同じだ。

 ロシアや清国の脅威を、陸軍以上に感じていたのが海軍だ。

 何しろスペック上ではロシアはおろか、清国にも対抗できる艦船を持っていない。多くの海軍将兵が不安になるのも当然だろう。

 だが高性能無線通信機が各艦艇に搭載され、スムーズに電話連絡を取れる事が知れ渡るとその不安もだいぶ収まってきた。

 陸軍の六隻の飛行船の事は一般将兵には伏せられていたが、緊急時には日本総合工業が持っている轟天号が索敵を行うと内示された

 事も大きく影響している。補給船も多数が配備された。

 正面戦力こそ劣っているが、それを補助する各部隊は大幅に強化されていた。

 そして史実では修理中で出撃できなかった艦艇も、今回は事前に修理を済ませて万全の用意を整えていた。

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 季節は春。五年前と比較すると、日本各地の農村の様子はだいぶ変わっていた。

 まずは電気の普及がかなり進んだ。五年前なら夜には真っ暗だった農村も、今ではちらほらと電気の灯が見えるようになった。

 そして家電製品の普及も進んでいる。そして人影が昔と比べると減っていた。これも小作人が産業促進住宅街に移った為だ。

 その不足した労働力を補う為に、農業用の特殊車両の普及が進んでいる。

 同時に農業用水などの水利工事も進み、荒地もトラクターで開墾が進められている。

 一時期は衰退するしか無いと諦めの色が漂った農業関係者も、機械化の恩恵を受けて顔色を良くしていた。

 村の人口が減ったので将来を心配する声もあったが、近くの学校から授業の一環で子供達が手伝いを始めると不安の声も消えていった。

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 明治初期の北海道は未開発の地域が多く、ロシアに対抗する為にも官民で移民団が結成されて開拓が進められてきた。

 そして天照機関の設立以降は、さらに巨額な予算が投入されて大規模な開拓が進められた。

 大型の農業用特殊車両や建設用の重機が投入された事で、開拓の速度に拍車が掛かった。

 自然として残すところは残し、開拓できるところは徹底的に開発する方針だ。

 広大な原平野に農地や牧場などが次々に出現していった。第一次産業ばかりでは無い。

 工業化も進められていた。そして工業化の目玉は日高に建設する予定の日本総合工業の北海道工場だ。

 まだ本格的な建設は出来ないが、今は整地などの基礎工事が徐々に進められている。


 そんな開発ラッシュの北海道だが、ひっそりと暮らしている人達もいる。アイヌの人達だ。

 元々は北海道は彼らの住んでいた土地だ。その彼らを保護する法律を制定し、穏やかに同化を図ると同時に文化を残す事を計画した。

 こういった少数民族の文化は失われると二度とは戻らない。

 他の植民地支配の苛烈さを知っている天照機関は、国内だけでも少数民族のアイヌの人達との共存共栄を図っていた。


 北海道は広い。そして普通の人なら立ち寄らないような場所に大規模な産業促進住宅街が五つ、分散されて配置されていた。

 そこにはアメリカからはインディアンが、オーストラリアからはアボリジニが移り住んでいる。

 食料は全て陽炎機関が支援しているが、彼らを遊ばせておく気は無かった。

 ある者は慣れない農業作業を行い、ある者は軍事訓練を行っている。そして子供や若者は勉強に勤しんでいる。

 いずれ彼らは故郷に帰る。その時に自立できるようにと、多方面からの教育が行われていた。

 最終目標は、彼らだけで他の国家と対等に国交を結べるレベルになる事だ。

 これらの事は大多数の日本人に知られる事無く、秘かに行われていた。

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 日本は地震や台風、火山などの天災が多い。その対策の為に災害予防研究会が1889年に設立されていた。

 そして産業促進住宅街を災害時の避難所に指定したり、火災を予防する為に消火器や消防組織の充実に努めていた。

 今年は戦争という大きな事件が発生するが、大火や地震も発生する。彼らはその対策について協議を行っていた。


「今年に戦争が発生するが、災害は待ってはくれない。その対応を進める必要がある」

「六月に横浜で大火と東京で地震が起きる。そして十月には山形で大地震だ。

 事前に近くの産業促進住宅街に必要な物資を集めさせるが、事前予防をどうするかだな。

 以前の濃尾地震の時のように、陛下の勅命で避難訓練を行う方が良いのか?」

「天照機関からは、あまり陛下の勅命は使いたくは無いとの連絡を受けている。

 ハワイ王国の女神の事件があったから、諸外国は予言や占いに過敏になっているから、注目を集めたくは無いとの事だ。

 どうするべきかな?」

「横浜の大火は消火器の普及や消防組織の拡充が進んでいる事から、被害は抑えられるだろう。もしかすると、発生しないかも知れない。

 東京の地震も史実では死者が二十四名だから、大騒ぎする程の事でも無い。問題は山形の地震だ。史実では八百名以上の命が失われた。

 被害も大きいし、事前に何らかの警告は行いたいな」

「そうだな。濃尾地震以降は免震設計の建設が進みだしたが、普及率はまだ低い。大きな地震があれば被害は拡大してしまう。

 史実通りなら既に日清戦争が始まっているから、何らかの警告をした方が良いだろう」

「そうだな。だが皇室の巫女の神託が無かった事で、逆に皇室に対する不信感を持たれないだろうか?」

「それは一理あるな。よし、その事を報告書に記載して天照機関に上申しておこう」


 人には役目というものがある。

 国家の方針を左右する戦争が起きるが、災害予防研究会のメンバーは己に課せられた職務を忠実に実行していた。

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 陣内はまだ知らなかったが、陣内と同じ時代を生きた魂を宿した幼児が世界中に居た。

 記憶を取り戻していない子供もいれば、赤ん坊の時から記憶を持っている者もいる。

 そして様々な環境の為に死亡した者もいれば、赤ん坊の時から意味不明な事を口走って親から捨てられて死んだ者もいる。

 現在それらの魂を持った幼児で生き延びているのは、記憶を取り戻していない者か、状況を把握して時期を待つ事にした者だけだった。

 彼らの身体はまだ幼く、一人で行動する事など出来はしない。だが、用心深い者はこれからの計画を秘かに考えていた。


(まったく何て時代に生まれたんだ! コンピュータも無ければネットも無い! 飯も不味いし炭酸飲料も無い!

 こうなったら大きくなって俺が会社を立ち上げて、このロシアを影から支配してやる! 俺の持ってる知識を使えば絶対に出来る。

 何と言っても未来の知識を持っているんだからな! こんなに昔の歴史なんか覚えて無いけど何とかなるだろ)


(何で黒人の俺がイギリスの貴族の子供に生まれ変わったんだ!? だが、これはチャンスだ!

 アフリカ連合で下っ端兵士の俺だが、未来の知識を持っているから上手くやれば出世は思いのままだ!

 俺達を馬鹿にした白人の女どものハーレムを絶対に作る! まずは健全な肉体にする為に、基礎トレーニングをしっかりとしないとな)


(大アラブ連合の一般市民の俺が、何でこんな大昔のフランスの職人の家に生まれ変わったんだ!? しかも女の子!?

 今は可愛いから良いだろうが、大人になったら……嫌だ! 何が悲しゅうて男の俺が、男の嫁にならなくちゃいけないんだ!?

 ……こうなったら一生独身でも良い! 未来の知識を使って這い上がってやる!)


(アメリカ共和国の研究者だったあたしが、何でアジアのこんな小国の貧乏人の子供に生まれ変わったの? しかも男!?

 こんな不衛生なところだけど、まずは生き延びなくちゃね。それにしても生まれ変わったのはあたしだけなのかしら?

 まだ分からないわね。今は子供で何も出来ないけど、大人になったら絶対にこの国を変えて見せる!)


(大中華帝国の将軍だったワシが、何で南米のこんな僻地の農家に生まれ変わったんだ!? だが、これはチャンスだ!

 未来の知識を上手く使えば、のし上がる事も十分に可能だ! 昔は実現できなかったハーレムを今度こそ実現させてみせる!)


(何だよ此処は!? 俺の大昔の祖国はこんなに不衛生で貧しかったのか!? 絶対におかしい!

 時代劇でも昔から祖国は栄えていたはずだ! これも全部日本が悪いんだ!

 こうなったら俺が未来の知識を使って、日本を逆に植民地にしてやる! この恨み、絶対に晴らしてやる!!)


(同じ日本に生まれ変わって、良かったんだか悪かったんだか? こんな大昔の歴史なんて覚えて無いけど、日本が世界に先駆けて

 新商品を次々に発表しているっておかしいよな。もしかしたら、俺のような転生者が他にもいるかも?

 だとしたら何としても接触しないと! 上手くいけば俺の知識を使って、極楽な生活が出来るかも知れないぞ!)


 例えだが、二十一世紀の人間に鎌倉時代の元寇の細かい内容を知っているかと質問しても、答えられる人間は少ないだろう。

 人類が宇宙に進出して二百六十八年経過した時点で、1890年頃の歴史を細かく覚えているのは一部の歴史マニアか研究者くらいだ。

 つまり彼らの多くの転生者は未来の知識を持っていたが、こんな大昔の事を細かく覚えている人間は皆無だった。

 そして身体は幼児という事もあって、入ってくる情報も限られて具体的な行動に移れずにいた。

 以前は敵対していた国に生まれた人間もいれば、同じ国に生まれ変わった者もいる。

 男が女に生まれ変わった者もいれば、その逆もある。これがどういう事態を引き起こすか、知る人間は誰もいない。


 科学技術というのは過去からの蓄積があって、初めて新しい技術が開発される。

 例えば優れたコンピュータ技術の知識を持っていても、電気がろくに普及していない時代では未来の知識は何の役にも立ちはしない。

 未来で優れた兵器を開発した人間が、一からICやLSIを製作できるだろうか?

 時間を掛ければ出来るかも知れないが、そう易々と出来るはずが無い。それは他の付帯技術の向上も求められる為だ。

 冷蔵庫は電気が無ければただの箱に過ぎない。彼ら転生者達の以前の能力を発揮するには、絶対的に科学技術が不足している。

 彼ら転生者達が、これからの歴史にどう介入していくのか、今は誰も分からなかった。

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 まだ肌寒い日が多かったが、それでも春の息吹が感じられる季節になっていた。

 そんな中、日本の財閥の当主が集まって会談を行っていた。


「ハワイ王国への投資は今のところは順調だな。自由に使える港湾施設は確保できたし、アメリカや南米との交易も順調に拡大している。

 観光産業はまだまだ時間が掛かるだろうが、まずは中継貿易地点としてハワイ王国を上手く使えそうだ」

「タイ王国は渋沢の系列に独占されてしまったがな。あそこの食料や資源に介入できなかったのは残念だ」

「それを言えばベトナムもだ。【出雲】はやっと産業基盤が立ち上がったが、まだまだ利益を生み出すには時間が掛かる。

 我々が【出雲】に進出するのは、もうちょっと先だな」

「今年の戦争がどうなるかによるな。史実であれば、戦争に勝って朝鮮半島を手に入れた。

 未来の事を知っている陣内が、そのまま朝鮮半島を手に入れるとは思わんが、何かしらの介入は行うだろう」

「あそこの無能な両班を徹底的に粛清して、教化を進めるかも知れん。併合はしないで保護国にする可能性もある。

 プライドが異常に高い彼らを、天照機関がどう扱うかだ。その辺りはお手並み拝見というところだな。

 戦争の準備として大量の軍需物資を軍に売って、かなりの利益をあげた。

 そして朝鮮半島の復興用の建設資材は大量に用意してある。今回も儲けさせて貰うさ」

「政府、いや天照機関とは協議していないのだろう。そこまで勝手に進めて問題が無いか?」

「我々の資金で大量の建設資材を用意したのは、我々の自由だ。そこまで干渉される事では無いからな。

 我々は商人だ。儲かる話があれば、それに飛びつくのは当然の事さ」

「軍が軍需物資を大量に貯め込んだのは知っているが、それ以外の情報は入ってこない。

 陣内が新兵器を用意したとか聞いていないか?」

「飛行船はまだ一隻しか就航していないし、特に陣内から兵器関係を供給したという話は聞いていない。

 知っているのは多数の高速輸送船を陸軍や海軍に納めた事ぐらいだな。我々からは輸送用トラックを軍に納めている」

「今年の戦争は事前に準備は出来ているから、史実通りに勝つだろう。さて、その後がどう変わるかだな」


 天照機関と財閥の方針は異なる。一方は日本の国益を重視して行動し、一方は自分達の利益を求めて行動する。

 今のところ、両者の行動は大幅には乖離していない。財閥独自の行動も天照機関の邪魔をするような事は無い。

 何時までもこの関係が続くかは、知る者は誰もいなかった。


「そう言えば淡月光の女社長が変わったが、あまり混乱は無いようだな。最初はともかく、最近は安定していたしな。

 もし混乱があれば上手く内部に入り込もうとしたが無理だった」

「ああ、川中という女が妊娠して代表を退いた件か。後任は佐藤という副社長だった女だな。

 あそこの会社の株式は全て陣内が握っているから、介入は無理だ。下手にやれば、陣内から目を付けられるぞ」

「世界各地に支店を広げつつあるし、入ってくる特許料も莫大な金額になっている。

 確かに手に入れば旨味はあるが、女じゃ無いとあそこは運営できない。馬鹿な事は止めとくべきだ」

「川中代表が妊娠した件だが、父親が誰か知っているか?」

「いや、その件は口を閉ざして黙していると聞いている。何か情報が入ったのか?」

「陣内の秘書が妊娠して引退した。二人の男が代わりに正式な秘書に格上げされたらしい。

 そして陣内の前の秘書が自宅に居るそうだが、そこに川中前代表も居るらしい。そうなると川中代表と陣内の関係がどうかと思ってな」

「陣内の秘書と言うと、あの豊満な女か。川中代表には及ばないが、それでも良い女には間違い無い。

 その美人秘書と同居していたんだろう。その陣内が川中前代表に手を出すか? ……いや遊郭通いをしていたから、あり得るか」

「そういう事だ。そうなると今の陣内に女はいない。食い込むチャンスかも知れんぞ」

「あまり派手には出来ないな。下手をして逆鱗に触れても困る。だが、やってみる価値はあるだろう」


 あくまで財閥当主の目的は利益の追及だ。日本の国益も考えているが、優先順位は異なる。

 そして陣内の持つ技術を独占できれば、さらに利益が出る事は確実だ。こうして財閥当主は色々と計画を考え始めていた。

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 勝浦工場は製鉄所や造船所の第二期の拡張工事が続けられ、活況を呈していた。

 不況という文字など知らぬがごとく、休む事無く工場は操業して、建設現場では重機が動いている。

 石油の需要が上昇した事で、石油生成プラントの稼働率も次第に上昇してきた。とは言え、まだまだ上限には達してはいない。


 変化と言えば、北海道の日高工場と四国の伊予北条工場の建設資材や、設置する予定の色々な設備の生産が始まっていた。

 初期型の農業用特殊車両や建設用の重機の生産は完全に協力会社に移管し、勝浦工場では大型の各種車両の生産に切り替えていた。

 真空管の生産は相変わらず自動生産ラインで行われており、勝浦工場の売り上げに大きく貢献している。

 造船所の方も相変わらず輸送船をメインにした建造が行われていた。

 今年は航空機事業部の拡張を行い、年内中に十隻の飛行船を就役させる予定で建造が進められていた。


 今の勝浦工場は戦争を間近に控えた工場とは思えないほど、民生用の製品で溢れていた。

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 日総新聞は以前からラジオ放送を本年中に開始すると発表し、その為の様々な準備を行っていた。

 富士山頂の電波送信塔もその計画の一環であり、安価なラジオ受信機を日本各地の役場や交番に無償配布したりしていた。

 使い物になるかも分からないラジオ受信機を金を払って手に入れるなど、一部の道楽家ぐらいだろうと思われていた為だ。

 だが、昨年から試験放送を繰り返して、音声の明瞭さや受信可能地域の確認を行ってきた。

 そして日総新聞の紙面で、とうとう正式なラジオ放送を開始すると発表された。

 ラジオ放送を行う組織の準備も完了し、色々な放送設備の準備も完全に整った。

 そして予告された日の指定時刻に、各地の役所や交番の周囲には多くの野次馬が集まる中、記念すべき正式な初放送が行われた。


『こちらは日総新聞のラジオ放送事業部です。これから正式にラジオ放送を開始する事を皆様に御報告します。

 まずは海外から入ってきたニュースをお知らせします。

 李氏朝鮮の開明派の政治家である金玉均氏は日本に亡命していましたが、上海で攘夷派の人物に暗殺されたと情報が入ってきました。

 金玉均氏は朝鮮の近代化を進めようとした人物でしたが、今の李氏朝鮮に受け入れられずに日本に亡命していました。

 日本では福沢氏を含めた各界の重鎮と親交があり、惜しい人物を亡くしたと一部で失意の声が聞かれます。

 政府は金玉均氏のような立派な政治家を暗殺した李氏朝鮮を非難し、その死に報いる為にも近代化を進めるべきだと表明しています。

 また、朝鮮半島で生活に貧窮した農民の反乱が始まった情報もあります。

 日本政府はこの事態を重視し、現地の日本人の安全確保に全力を注ぐとコメントしております。

 さらに外務省は朝鮮半島の混乱が収まらないうちは、渡航を自粛するように各界に注意を促しております』


 記念すべき最初のラジオ放送で伝えられたのは、後で甲午農民戦争と呼ばれる日清戦争の前触れとなる事件だった。


(2013. 6. 1 初版)
(2014. 3. 2 改訂一版)