日総新聞はスクープを繰り返す事で、読者の数を徐々に増やしていた。
読者を啓蒙して公共マナーを普及させ、諸外国の真実を知らせて、現実というものを突きつけていた。
そして読者は自分が井の中の蛙だと言う事を悟り、諸外国には日本の常識が通用しない事を思い知った。
日本ならば隣人の善意が期待できる可能性は高いが、外国の場合はその可能性は低くなる。
日本人同士なら自分が悪くなくても謝れば場は収まるが、外国の場合は相手に弱みを見せる事になって徹底的に付け込まれる事がある。
恩を受ければ恩で返すのが日本の常識だが、自分さえ良ければと考える外国の一部の人達は、恩を仇で返す事もある。
日本の常識は世界の常識では無い。通用する場合もあるだろうが、相手によっては逆効果になる場合がある。
以心伝心という諺が日本にあるが、そんなものは海外では通用しない。沈黙は負けを意味する。
日本は長い封建社会だった為に、上に依存する傾向はあるが、盲目的な信頼は良くない結果を齎すだけだ。
これから国際関係が深まる上で、日本人の道徳観の向上も重要になる。自己主張が有り過ぎても問題だが、無さ過ぎても問題になる。
これらの事を実例を踏まえながら、継続的に報道していた。
現実を知らされたのは読者だけだ。日総新聞の読者以外の人達の意識はまだ変わっていない。
その為のラジオ放送だ。これなら不特定多数へ、リアルタイムで情報が伝えられる。
間違った事を伝えたら大きな問題になるので、それらの問題の抽出を含めてラジオ事業部で連日の会議が行われていた。
日総出版は童話やSF小説、ファンタジー小説、様々な技術本を出版していた。
童話もそうだが、SF小説やファンタジー小説は海外の読者の目にとまり、翻訳本も少しずつ出ている。
技術本に関しても、翻訳要請が相次いでいた。
さらに淡月光の協力を仰いで女性週刊誌を発刊して、海外を含めた読者を徐々に増やし始めていた。
富士山頂の電波送信塔には既に職員が常駐して、試験放送を始めていた。
その険しい自然環境の為に訪れる観光客など無く、静かな環境で職員は業務を行っていた。
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昨年の年頭に領土に編入した島々の工事は殆どが終了していた。(初期工事のみ。潜水艦基地は別)
残っていたのはウェーク島だけだ。それでも、港湾施設や倉庫群は完成している。現在は燃料貯蔵施設を建設中だった。
倉庫には様々な物資が積み上げられ、それらは秘かにハワイ王国に運び込まれていた。
それらの物資は、秘かに集めた現地の不満を持つ若者の訓練に使われていた。
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フランス政府の許可を取った陣内は、ベトナムの首都に近い沿岸部のハイフォンに工場の用地を取得した。
そして淡月光の工場の建設を始めた。もっとも工場と言っても殆どが手作業の工場だ。
大きい割にはスカスカの工場なので、来年には稼動できると見込まれている。
此処に日本から大量の水分吸収素材を持ち込んで、手作業で組み込んで海外に輸出する。
ベトナム国内向けには、現地で調達した材料から水分吸収素材を製造する装置が一式持ち込まれている。(低レベル技術品)
下着は現地の材料を集めて、一から製造する生産ラインを構築する計画を進めていた。
現地の雇用を促進させ、信頼を得る事を最大の目的としている工場だ。(輸出は補助的なもの)
従業員は最初から数百人を予定しており、住居や慰安施設も充実させた。最終的には数千人を雇用する計画だ。
これらを異国で一から構築するのは大変な作業になる。(人目があるので、ロボットを使用する裏技は使用できない)
その責任者に選ばれたのは、寺島浩介と妻の美雪だ。
浩介は主に工場の建設を、美雪は従業員の募集と管理に動いていた。
尚、北部の丘陵地帯の開発権利も得ていた為、そちらの開発も同時に行われている。
そこから産出された資源は一旦は淡月光の工場に運び込まれ、その後に日本に輸出される。
また、ベトナムの北部の商人と契約を結んで、継続的に大量の食料を買い上げる事になった。
勿論、適正価格だったが、それでも日本よりは価格は安い。
こうして現地の経済を活性化させ、豊かな生活にする事で、信頼を得ていく計画は徐々に進められていった。
余談だが、民族衣装のアオザイの大量注文は、現地産業の大きな刺激となっていた。
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勝浦工場は順調に稼動している。
各種の工作機械、鉄、農業用車両、建設用車両、真空管、無線通信機、ラジオ受信機などが連日生産されていた。
造船も順調で、五千トンクラスから二万トンクラスの民間用の輸送船が次々に建造されている。
その中で見慣れない物の建造が、内陸部の工場で行われていた。
アメリカから秘かに輸入したヘリウムを使用した飛行船二隻だ。スペックは史実のツェッペリンと似通っている。
全長は二百五十メートル。ディーゼルエンジンを搭載して、時速約百五十キロで飛行が可能だ。
年内には完成して、一隻は軍に納入して操作方法の訓練を行う。
残り一隻は日本総合工業が宣伝用に試験運用する。(【出雲】やベトナムへの緊急輸送用も兼ねる)
これが使えるようになれば、人類は空を手にする。史実では1897年に試作されたが、今回はそれの完成型だ。
問題が無ければ、来年には五隻以上を追加建造する計画を立てていた。
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海外事業部が運営しているダミー商社は、上手く機能していた。
各国の植民地の資源を安く大量に買い漁り、アメリカでは東テキサス油田や未開発の金鉱を採掘する事で莫大な利益を上げていた。
ヘリウムを始めとして、ウラン資源や希少金属類の買占めも順調に進んでいる。
そして今では、インドネシアや中国の雲南省と広西省にも活動の範囲を広げていた。
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秋は深まり、紅葉を楽しむ季節になった。そんな中で天照機関の定期会合が行われていた。
「国内の改革はだいぶ進んできたな。まだ機械化の恩恵が及んでいない地域は多いが、普及は時間の問題だろう」
「ああ。小型の特殊車両に加えて、大型の車両も徐々に普及し始めた。これでさらに効率が上がる。
燃料の供給や整備体制も徐々に進められている。だが、生産の方は大丈夫なのか?
需要は大幅に増えたが、生産が追いつかないようでは困るぞ」
「農業用と建設用の特殊車両の一部は、協力会社に生産を委託しました。我が社は大型タイプのみを生産します。
小型タイプは輸出を始めましたから、そちらの会社もかなり潤う事でしょう。全部が我が社だけでは対応しきれませんからね」
「貿易全体を見ると輸出が激増して、貿易収支の黒字は増える一方だ。それで国内改革も弾みがついている。
良い循環サイクルになっている。この調子が何時までも続けば良いのだがな」
「大規模農業を進める過渡期で収穫量が一時は減ったが、不足分は海外からの輸入で補う体制も整った。
そして今年の米の収穫は昨年と比較して上がっている。まだまだ荒地を開拓する余裕があるから数年は増加傾向だろう。
食料自給率はなるべく維持したいから、輸入は補助的な扱いだな。国内の農業を発展させる事も重要だ」
「国内の各産業は急成長を遂げている。そろそろ鉄の需要が不足気味になってきた。勝浦工場の増設工事を前倒しに出来ないか?」
「そろそろ頃合ですかね。分かりました、検討を進めます。【出雲】の開発も今のところは順調に進んでいます。
屋外農場の収穫は失敗でしたが、屋内農場の方は成功です。冬季に屋内農場の拡張工事を行います。
砂漠の緑化も少しずつ進んでいます。来年以降は入植者を大幅に増やせるでしょう。
工場群の一部は来年から稼動するものも多くあります。
ベトナムの工場も順調です。あそこから資源が入ってくるようになるには時間が掛かりますが、目処はつきました」
「ふむ。日総新聞は頑張っていて、国民の意識にも変化が出始めている。これでラジオ放送が始まれば、さらに変化は速まるだろう。
養殖の方はまだ成果が出ていないと聞くが、人工真珠は来年から出荷できるそうだな」
「はい。世界各地で少し混乱が起きるでしょう。史実ではクエートが困ったそうですから、支援の手を差し伸べて共存を図ります。
それはそうと、イギリス政府からカナダの伝染病の解明に協力して欲しいと、要請があったのは本当ですか?」
「ああ。だが、丁重に断った。何せ陣内の用意したウィルスに感染して、日本人が死んでは馬鹿だからな。
アメリカも原因解析が出来なくて手詰まりだと聞いている。東テキサス油田が見つかったから、そちらに夢中らしい。
しかし、利でもってアメリカを誘導するとは陣内も中々食えない真似をするな」
「まったくだ。あのまま東テキサス油田の事を公表せずに、少々落ち込ませた方が良かったかも知れぬな」
アメリカの飽くなき開拓精神を、天照機関が厄介に思っていたのは事実だ。
力こそ正義、勝てば官軍と言う棍棒政策で諸外国に力を奮うアメリカは迷惑な存在だ。まあ、他の列強も似たようなものだが。
インディアンを虐殺して土地を手に入れた事を正当化する態度を改めないと、将来的に付き合えないと判断されていた。
「アメリカの指導層を排除できれば良いのですが、そんなに都合良くは行きません。
彼らも闇雲に突き進む危険性を勉強したと思いたいですね。ハワイに続いてフィリピンでも手痛い勉強をして貰うつもりです。
それでも態度を改めなければ、雌雄を決する事になるでしょう。本心では、そんな事が無いように思っています」
「ふむ。アメリカの方は取り敢えずはそれで良いだろう。オーストラリアとインドネシアの工作は順調だ。
上手くいけば数年で今の支配者を叩き出せるかも知れん。それと来年のハワイ王国の工作だな。準備は万全だろうな」
「勿論です。現地の若者と接触して軍事訓練を始めています。それと『あれ』の準備も出来ています」
「良かろう。それでハワイ王国の欧米の帰化人は排除されるだろうが、自業自得というものだ。
その後の計画が進めば、世界は神秘主義が流行るかも知れんな」
「その傾向は既に出ている。皇室の巫女が地震を予知した事が知れ渡り、列強は魔女と接触を開始している情報もある。
時計の針を逆回しする事になるかも知れんが、少し調子に乗って植民地支配を続けている彼らに痛い教訓を与えねばな」
「教訓と言うが、我が国に力がある訳では無い。そこを間違うとしっぺ返しが戻ってくるぞ」
「そうだな。気をつけよう。それと日清戦争は二年後の予定だが、来年にはある程度の兵器は揃うのだな」
「陸軍に関しては先に納めた自走砲を追加で準備します。海軍については飛行船を年末には納入します。
来年に訓練を行っていただいて、使って貰えばと考えています。上手く使いこなせるなら、追加で最低五隻は納入します」
「期待している。国内の改革の目処がついたから、今後は海外工作を進めるステージに進むようだな」
「ああ。しかし世界は広い。我々だけでは手が回らない。現地に権限の一部を移管する事を進めよう」
天照機関のメンバーは陣内を含めても七名だけだ。これだけで国内と海外の全てを管理できるはずも無い。
特に陣内は勝浦工場や国内の協力会社との調整、それと海外工作に深く関わっている。
多忙を極めており過労死が心配される程だった。ストレスが溜まると、判断ミスをする危険も高くなる。
だからこそ、出来る限りの権限の委譲が進められていた。
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北米大陸の広大な西部地域(太平洋側も含む)が原因不明の伝染病によって閉鎖された事は、アメリカ国民に大きな衝撃だった。
『明白な天命(マニフェスト・デスティニー)』というインディアンが聞いたら激怒する自分勝手な大義を掲げて西部地域を
開拓してきたのだが、それが挫折した。伝染病の原因を特定しようと医療関係者は頑張っているが、芳しい成果は無い。
医療関係者の多くが伝染病で病死した事と、イエロージャーナリズムに染まった新聞社がインディアンの呪いだだと書き立てる事で
アメリカ国民の多くが不安を感じていた。(陽炎機関の買収した新聞社:テキサス新聞も含む)
そんな中、テキサス新聞が東テキサス油田が発見されたと大々的に報じた。
西部地域が封鎖された事で挫折感を感じ始めていた国民は、そのビックニュースに飛びついた。
そして西部地域で感じていた不安を吹き飛ばそうと、テキサス州に多くの開拓者が集まっていた。
そんな状況を、複雑な表情で政府の上層部は見つめていた。
「封鎖地域の伝染病の対策はまだなのか?」
「……はい。原因の解明を行っている医療関係者までが発病する有様で、目処はまったく立っていません。
発病した医療関係者はすぐに検体扱いにしてあります。しり込みする医者も多くなって、対処のしようがありません」
「発病した開拓者を嬉々として解剖した医者が、今度は解剖される側になるのか。まあ良い。因果応報というやつだな。
カナダ側でも伝染病が流行しているらしいが、イギリスもお手上げだ。日本に頼もうとしたが、断られたらしい。どうすれば良い!?」
「幸いな事にミズーリ川の東側までは伝染病は来ない。検体の解析を行っている医療関係者は別にしてな。
本当にしばらくは西部地域を封鎖するしかあるまい」
「……ここまで来ると、本当にインディアンの呪いだと信じたくなるぞ」
「止してくれ! 今までインディアンの虐殺を行ってきた騎兵隊の将兵の一部が、原因不明な病気で次々に死んでいるんだ!
本当なら俺達はどうなるんだ!? 不安で夜も眠れなくなったら、責任を取ってくれるのか!?」
「落ち着け。西部地域は封鎖されたままだが、東テキサス油田が見つかったお蔭で国民に蔓延していた不安は払拭された。
これは喜ぶべき事だ。伝染病の対策は進めなくては為らないが、その間の繋ぎとしては巨大油田は有難い存在だ」
「西部から逃げ出した開拓者が、一斉にテキサス州に向かったからな。
来年はハワイの工作が行われ、スペインを対象にした準備も着々と進んでいる。
カリブ海と太平洋に進出できるとなれば、国民の開拓精神も多いに刺激されるだろう」
「ハワイの工作は大丈夫なんだろうな?」
「ああ。既にハワイ王国の実権は、全て我々が握っている。イギリスが文句を言ってくるかも知れんが、地理的には我が国が近いからな。
問題は無い。それにイギリスはカナダとオーストラリアの問題に掛かりっきりだ。ハワイ王国は完璧に落せるさ」
「オーストラリアか。あそこは伝染病では無くて、原因不明の襲撃者の所為で内陸部から入植者が叩き出されているからな。
最近になって原因不明の事柄が多くて、本当にどうしてしまったんだ!? 神は我らを見捨てたのか!?」
「東テキサス油田は神の恩恵じゃ無いのか。そう悲観主義に染まる事は無い」
「そういう事だ。悪い事があったが、それさえも克服できれば、この新大陸は全て我々のものになる。
この広大な地に油田以外にも様々な資源が眠っている。それらは我々の物だ。我々には天命があるんだ!」
アメリカには開拓者精神がある。挫折を味わったとはいえ、それが失われなかった事は政府関係者にとって喜ぶべき事だった。
そしてアメリカの将来は、栄光の道が開けていると信じていた。
日本がウェーク島の開発を進めている事は知っていたが、ハワイ王国を手に入れた後は力ずくで奪おうと考えていた。
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イギリスは世界各地に多くの植民地を持っている。
植民地から得られる利益は膨大なものであり、イギリス財界の発言力も大きくなっていた。
しかし植民地からの利益は多くても、治安維持に多大なコストが掛かっている。植民地の治安を維持しなければ、利益は上げられない。
支配者はそのような宿命を負っている。そして今はオーストラリアの治安悪化が大きな問題になっていた。
そして影響はイギリス政府だけでは無く、財界にも及んでいた。
「インド駐留艦隊の兵士約千五百人が内陸部で全滅してから、あの手この手で内陸部の調査を行ったが尽く失敗か。
栄光あるイギリス軍は何処に行ったのだ! まったく情けない!」
「無線通信機を持たせても、何故か急に通信できなくなったりしたそうだ。
小グループに分けて調査をしても、何処からか見ているように的確に指揮官を狙撃している。現地はかなり動揺している」
「捕らえていたアボリジニを囮に使った作戦も失敗した。既に被害は兵士だけでも八千人にも及ぶ。
入植者を含めれば、十万人以上の被害が出ている。内陸部の鉱山開発が中止された事で、経済にも影響が出始めている」
「力押しは無意味という事だな。相手がどんな武器を使用しているのかさえも分からんし、現地はパニック寸前だ。
政府は困惑して、魔女組織に協力を要請しようと画策している始末だ。
我々は固有の武力を持ってはいるが、軍と比較すると極めて小さい。我々に出来る事など少ないぞ」
「カナダの方も手詰まりだし、最近は問題が多過ぎる。まったく、どうしてしまったんだ!? 神は我々を見捨てたのか!?」
「……これ以上の被害は許容できん。開発を一時中断せざるを得ないだろう。それと我々の方でも魔女組織に独自に接触してみよう」
「魔女などの、あやふやなものを信じるのか?」
「別に信じている訳では無いが、使える可能性があるのなら試すのも良いだろう。日本で実績が上がっているのだ。
試して駄目なら捨てるだけだ」
「良かろう。最近はオランダの東インド植民地(インドネシア)でも不穏な動きがあると言う。まったく最近は何かがおかしい」
「発展途上国の日本が、色々な新商品を開発しているくらいだからな。天変地異の前触れかも知れんぞ」
「笑えんジョークだ。日本が開発した真空管を、未だに我が国の技術陣が開発できないとは情けなくなったものだ」
「日本をそう馬鹿にしない方が良い。中東の【出雲】の開発は、驚異的な速度で進められている。
我々はイランにいるムバラクに秘かに支援しているが、些か拙い事になるかも知れん」
「クエートの実権を握らせ、我が国の影響下に置こうとするあの計画か。確かに日本が【出雲】の開発を成功させれば拙いな」
「表立った工作は出来ない。情報では【出雲】からクエート市民に飲料水を無料で配布して、良好な関係を維持していると言う事だ。
今しばらくは様子を見た方が良いかも知れぬな」
「そうするとしよう。オーストラリアの件は撤退も視野に入れ、魔女組織と接触する事にしよう。
オーストラリアで減った利益はインドと清国で回収する。異論は無いな」
「ああ。補填できるなら構わない。それとアフリカの富も掻き集める事にしよう」
世界に覇を唱えているイギリス帝国だが、カナダとオーストラリアで躓いていた。
そして打開策は見えてこない。それならとアフリカ、インド、中国大陸で失った富を補填しようと財界は動き始めていた。
「それはそうと、日本の新聞社がラジオ放送を数年のうちに始めると発表したそうだな。
我が国でも実用化されていないのに、日本に先を越されるとはどういう事だ?」
「真空管を使えば、日本が輸出している無線通信機と同じものは製造できる。だが、広域用の大出力タイプとなると話は違ってくる。
悔しいが、無線技術では日本が先行しているんだ」
「真空管の生産元という事もある。大量の真空管を使って、大出力の送信機を用意するのだろうな。
高さが三千メートル以上の山の頂上に電波送信塔を建設しているし、本気なのは間違い無いだろう」
「ラジオ放送でも日本に先を越されるか。ディーゼルエンジンの件もある。
配下の技術陣に国内で試作させているが、かなり効率が良いエンジンらしい。上手くすると戦艦にも応用できそうだ」
「日本では既に輸送船に搭載されているらしいからな。我が国も早く実用化に目処をつけなければな。
こうなると、日本が戦艦を自前で建造するのも時間の問題か?」
「そうだな。武装や装甲の問題はあるが、その可能性は十分にある。詳細な粗鋼生産量は不明だが、原材料の輸入が激増している事から
かなり国力が上がったと見ていいだろう。開国してまだ二十年少々しか経過していないのに、どういう事なんだ?」
「やはり日本には謎があると考えるべきだ。調査部が理化学研究所を中心に、日本を調べている。
その報告を待って、対応を考えよう」
この時代は数々の新発明のラッシュが続いていた。とはいえ、日本の発明ラッシュは不自然過ぎた。
イギリスを含めた諸外国の注意を喚起するのに十分過ぎた為、各国の調査機関は日本に職員を派遣していた。
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日本総合工業の海外事業部が運営するフランスのダミー商社の名前は、ドゴール商会と言う。
トップには睡眠教育(この場合は洗脳と置き換えても良い)を受けたフランス人を据え、周囲を日本人で固めていた。
表向きはフランス人が日本人を雇っている形を取っている。その社長室では今後の方針の打ち合わせが行われていた。
「ではアフリカの鉱物資源の購入は、従来通りに続ける方向で良いですね」
「ああ。フランス領インドシナの鉱山開発を進めるのと、中国大陸からの資源の輸入を急がせてくれ」
「中国大陸では鉱山開発はしないのですか? あそこには有望な鉱山が豊富にありますが?」
「清国の国内動乱で鉱山利権を失う危険性が高いからな。採掘した資源を購入するならともかく、鉱山権利を得ると後々が面倒だ。
フランス領インドシナでも動乱の危険性はあるが、雲南省へのルート開発の意味を含めて拠点を構築する」
「了解しました。淡月光のベトナム工場の建設資材と、【出雲】への建設資材は順調に運びこめています」
「アメリカ南部の東テキサス油田の権利を、トルーマン商会から購入した。
まったくダミー商社同士で売買を行うなんぞ、真実を知っている人間から見れば茶番なんだがな。
まあ、他から怪しまれない為には仕方の無い事だが。採掘施設を用意して、石油販売で利益を出すぞ。
そして、その利益を元手に、アメリカの未開発鉱山を買い占める。その計画の検討を急いでくれ」
「見つかっていない金鉱の地域をリストアップしています。天然ガスやヘリウムはトルーマン商会が内緒で進めていますからね。
我がドゴール商会は鉱物資源を主に扱って、重複しない方向が良いでしょう」
「アメリカにはチャーチル商会とハインリッヒ商会も入り込んでいるからな。運営元が同じとはいえ、それを知られる訳にはいかない。
くれぐれも無関係を装って、他に気付かれないように注意してくれ」
ドゴール商会はフランスが支配している各植民地、それとアメリカに進出していた。
それでも他のダミー商社との関係を気付かれないように分野や地域を分けている。
こうして徐々に世界各地の資源を手に入れながら、富を増やしていった。
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日本総合工業の海外事業部の運営するオランダのダミー商社の名前は、シーボルト商会と言う。
オランダに嘗ての勢いは無かったが、それでも東インド植民地を持っている事からそれなりに裕福な国家だ。
そのオランダの東インド植民地では、北部アチェ王国の反攻が始まった事から、行動に腐心していた。
「スマトラ島への投資は厳禁だ。その代わりにボルネオ島とジャワ島の鉱山開発を進めさせろ」
「北部アチェ王国の反攻には、政府軍も手を焼いているそうですからね。危険地域には立ち寄らないほうが利口というものですね」
「まったくだ。最初は陽炎機関が武器や弾薬を支援していたが、最近はチャーチル商会がオーストラリアの防衛用という名目で
大量の武器を仕入れて横流しをしてる。もっとも、陽炎機関が供与した武器より性能が劣っているから文句を言われたらしいがな」
「イギリス軍の制式武器なんですけどね。まったく贅沢な事だ」
「食料は我々が調達して、チャーチル商会経由で彼らに渡っている。何か複雑な気持ちだよ」
「列強のダミー商社同士が裏で繋がっているとは誰も考えないでしょうからね。スペインへの食い込みは順調に進んでいます」
「そうか。それを隠れ蓑にしてフィリピンの革命派と秘かに接触するんだ。支援はまだ出来ないがな。
それとスペインの閣僚クラスとのコネを早めに作っておいてくれ」
「了解です。しかし、オランダという国の制限がありますから、我々のシーボルト商会の動ける範囲は狭いですな。
イギリスやアメリカ、フランスの商会が羨ましいですよ」
「立場は其々だ。ベトナムや【出雲】の資材調達や日本への原材料の搬入は他とは変わらない。納得しろ」
「分かっています。アメリカへの進出は順調に進んでいますからね。ただ、アフリカに食い込めないのが残念です」
所属している国家の勢力範囲でしか、シーボルト商会は動けない。(自由主義のアメリカは別)
それは自明の理であり、その範囲内で動けば良い事だった。そして主な対象はインドネシアとスペインが商会の活動範囲だった。
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ロシアは世界最大の領土を誇る国家だが、大部分は寒冷地帯にあって発展しているとは言えない。
そのロシアでは皇帝が絶大な権力を握っている。その為に海外事業部のダミー商社は置かれずに、淡月光の支店が進出しただけだった。
それでも現地で下着や女性専用用品の生産を始めたので、ロシアの経済発展に貢献していた。
そして貴族の女性達に日本への理解を深めさせ、ある種のブランド扱いになるまで成長していた。
その様子をロシアの閣僚は複雑な表情で見つめていた。
「最近の発電機や電灯は全て日本製になってしまったか。洗濯機や冷蔵庫も輸入が増えている。由々しき事だな」
「そう目くじらを立てる事もあるまい。淡月光は女達の専用用品の販売会社だ。
ロシア帝国の脅威となるものでは無い。もう少し鷹揚に構えた方が良い」
「別に焦っている訳では無いぞ。ただ気に入らないだけだ。
家に帰ると妻や娘が日本の芸術品を眺めて、日本のお茶を飲んでいるのが嫌なだけだ」
「ほう? さてはあの苦いお茶を飲まされたのか?」
「……そうだ。あんな苦いものを誰が好き好んで飲むものか!」
「一つアドバイスしておこう。高級品であれば味はかなり良い。だが、冷めてしまうと途端に拙くなるぞ」
「本当なのか? 分かった。家に帰って妻と娘に伝えておこう」
「それにしても、日本が此処まで我が国に入り込むとは最初は思っていなかった。未開の国とはいえ、侮れないかも知れぬ。
現在は皇太子殿下の御命令で、シベリア鉄道の建設と極東の開発を進めている。上手くいけば日本を手に入れる事ができるだろう」
「数々の新商品を開発している日本は何処か異常だ。
無線通信機もそうだが、ラジオ放送を始めると事前に発表するとは、技術の開発が終わっていないと出来ない事だ。
ディーゼルエンジンもそうだ。昨年のうちに輸送船に搭載している」
「まだまだ隠してある技術がありそうだ。それも日本を占領すれば理由は分かるだろう。
極東開発を進めておこう。それには清国と朝鮮への圧力を強める事が必要だな」
日本はまだ列強からは発展途上国と見做されていた。とはいえ、最近の発明ラッシュを含めても日本に謎があると各国で思われていた。
そしてロシアは立地条件から、日本への直接侵攻を考えていた。
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ドイツの某酒場で、ある技術者が泥酔していた。名前はルドルフ・ディーゼル。史実のディーゼル機関の開発者だ。
日本が今年の初めにディーゼル機関を発表したが、ルドルフも同じものを研究していた。
そして日本が発表した機関は自分が研究していたものより完成度が上げられていたのを知り、失意の中にあった。
そのルドルフを同僚が優しく慰めていた。
「おい、ルドルフ。酒もその辺にしておけよ。身体を壊すぞ」
「ほっといてくれ! 苦労して研究していた新機関が、日本に先を越されて発表されたんだぞ!
しかも俺の研究中だったものより遥かに完成度は高いんだ! 噂じゃ輸送船に搭載されていると言うし、完璧な実用機関だ。
俺の研究の日々は、あの努力は何だったんだ!?」
「仕方無いだろう。今の時代は新発明が相次いで発表されているんだ。こういう事もあるって。次があるだろう」
「そりゃあこういう時代だから、先に開発した者の勝ちだよ。でも、日本は農業用や建設用の特殊車両も開発しているじゃないか!
無線通信機もそうだし、ラジオ放送を数年内に始めると宣言している。何で日本がそこまで出来るんだ!?」
「それは俺だって知りたいさ。そんな事よりハインリッヒ商会から支援の申し出があったろう。かなり良い条件だけど、どうするんだ?」
「……ハインリッヒ商会? 何の話だ?」
「おいおい。机の上に置いたのに見て無いのか? 新技術の開発を全面的にバックアップするスポンサー契約の申し出だよ。
支度金も用意してくれるそうだし、今までの借金も返済できるぞ」
「本当か? ……分かった。今から会社に戻って書類を確認してくる!」
「酔っ払っている状態で見ても駄目だろう! 明日にしておけよ」
ハインリッヒ商会は海外事業部が運営するダミー商社の一つだ。日本が史実の発明を横取りする事で、苦しむ人達も出てきている。
開発に取り掛かっていなければ罪悪感も感じないが、史実の開発の直前に成果を横取りしたとあっては、罪の意識も感じてしまう。
罪滅ぼしという訳では無いが、陣内はルドルフ・ディーゼルに秘かに資金援助をする指示を出していた。
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今年の清国に大きな変化は無かった。つまりアヘンの流入や、資源と富の海外への流出は続いていた。
それでも清国は広大な領土を持つ大国だ。直ぐに滅亡する事など無い。
だが現状に我慢できるはずも無く、複数の財閥の当主は集まって、密談を行っていた。
「今年も列強の搾取の手が緩む事は無かった。起死回生の方法は無いものなのか!?」
「列強との格差は如何ともし難い。我が国では国産の戦艦は建造できずに、列強から戦艦を購入している。
何としても、あれらの技術を我らのものにしないと駄目だ。今は耐える時だろう」
「列強の工場が進出してくれば、そこから学び取る事はできる。
それに列強に行っている連中が、技術を覚えてきてくれれば良いのだがな。どちらも待つ事が必要だ」
「それまでは列強が資源を好き勝手に持ち出すのを、指を咥えて見ているだけか。
アヘンの流入も増える一方だし、我が国は骨抜きにされてしまうぞ! まったく、忌々しい!」
「最近は価値が無い土砂までも運び出しているからな。チャーチル商会とドゴール商会だったな。
まったく何を考えているんだか、奴らの考えている事は分からん!」
「最近の日本は新商品を次々に開発して、それを列強が大量に輸入している。
つまり日本は列強が欲しがるものを開発できた訳だ。その日本の技術が手に入れば、我々の力が取り戻せるのではないか」
「日本か。朝鮮を巡って関係が悪化している。という事は、力ずくで奪い取ると言う事か?」
「当然だ。日本も以前は我が国に臣従してのだから、我が国が支配しても構わないだろう。寧ろ、そうすべきなのだ。
もっとも、海軍を増強しないと駄目だろうがな」
「今の政府では無理だろう。そうなると、我々の方で日本と接触した方が良いかも知れぬな」
「ああ。列強のように我らも日本から新商品を導入する事を検討してみるか」
今の清国は袋小路に入っていた。改革を進めようにも皇帝を含む指導層の理解は得られず、民衆の動きも鈍い。
一部の財閥関係者や政府関係者が頑張ろうにも、他の枷が重くて改革は進まない。
その為、まずは日本からの輸入を増やしてみようという意見に、多くの財閥関係者は同意していた。
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淡月光の社長の楓(二十七歳)は、腹心の部下二人と会議を行っていた。
「やっと国内生産が安定してきたわね。各地の老舗の呉服屋と契約を結んで販売を委託したから、全国に淡月光の商品は浸透している。
海外も現地生産が軌道に乗り出したし、順調で助かるわ」
「それでも一部では生地が悪くて不評なところもあるのよ。現地の協力会社に指導はしているけど、やっぱり最高級品は日本の生産品よ。
それに水分吸収素材の出来も日本製が一番ね。差別化を図るには良い状況だわ」
「お茶や工芸品を中心に日本文化の浸透も進んでいるし、良いイメージUPになっているわね。
あたし達はそのうちに外務省から表彰されないかしら?」
「日本のイメージ向上に努力したからって? お役所の評価なんて要らないわよ。現地の評判が全てよ。
それにしてもベトナム工場は来年には立ち上がるかしら? 何も無いところから建設しているから大変よね」
「列強の現地生産は順調に進んでいるし、あの工場は現地の供給分と東南アジア各国に輸出する分の生産が目的だもの。
それに現地の雇用を促進して日本への信頼を高めるのが目的だから、少しくらいは遅れても問題無いわ。
ベトナム北部の丘陵地帯から運ばれてくる資源の輸出拠点としての運用は始まっているから、焦る事は無いわ」
「陽炎機関の工作も少しずつ進んでいるようだしね。それはそうと、ベトナム工場の商品の輸出先には清国は含まれないのよね」
「当然よ。これから戦争をするって言うのに、態々混乱に巻き込まれたくは無いわ。オーストラリアもね。
アメリカにしたって東部には進出したけど、それ以外は現地の販売店と提携して販売は任せてあるわ。
後は現地の協力会社の手綱を握っていれば大丈夫よ」
「天照機関の工作に合わせて活動しなくちゃ為らないのが不便よね。まあ、それが最初からの宿命だけどさ。
陽炎機関のバックアップも大変よね」
「うちの会社だけを考えられる訳も無いしね。やっぱり日本全体の動きにリンクしないと駄目よ。政経分離なんて理想に過ぎないわ。
それこそ真に見捨てられたら、淡月光はあっという間に潰れるわよ。それに国があってこそ、会社が安心して経営できるのよ」
「分かっているわよ。それにしても真か。楓だけが陣内様を名前を呼べるんだよね。
そう言えばこの前のサンプルのアオザイは着たのよね。陣内様はけっこう反応した?」
「……何時もの三割程度増しの元気だったわね。まったく、あんた達は何でそんなに察しが良いのよ!?」
「そんなの簡単に分かるわよ。楓がアオザイを着て、陣内様を誘惑しない訳が無いでしょ」
「そうそう。うちらの会長なんだし、手厚くフォローしてね」
楓は急成長している淡月光の社長という立場と並外れた容姿で、国内は元より海外でもかなりの知名度になっていた。
当然、収入も桁違いに多い。既に一生一人でも食べていけるだけの蓄えは出来ていた。『くの一』だった頃には考えられなかった事だ。
そうなると、つまらない男に縛られるつもりは無く、世界のひのき舞台を楽しみ始めていた。
今までは影の存在だった為に、日の当たる世界を憧れていた事もある。
そんな楓を口説く男は、国内もそうだが諸外国にも多かった。だが、楓は全てを断っていた。
自分より優れたところを彼らに見出せなかった為もある。そんな楓は容貌は並みの陣内と関係を続けていた。
陣内より容姿に優れて話術も上手い男など大勢いる。だが、最初からの関係という事もあり、ずるずると続いていた。
恒例の忘年会の前日にも会う約束を交わしている。
アオザイや色々な衣装を着たりして陣内にサービスしているが、そんな自分に何故か安堵感を感じている楓だった。
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第四回目の日本総合工業の忘年会の翌日に、陣内は実業家の渋沢と会談していた。(バニーガールは居なくて、二人だけだ)
「今のところは勝浦工場も【出雲】も順調だな。来年は戦争の準備も始めなくては為らなくなる。忙しくなるぞ」
「ええ。国内の改革は順調に進んで、協力会社への生産移管も徐々に進んでいます。
日本総合工業だけが大きく為り過ぎても困りますから。適正規模の会社を維持しないと、不況になった時の被害が大きいですからね」
「ふむ。今までの我々は会社を大きくすれば、生産量も増えて良い事ずくめだと考えていた。しかし未来の情報を知った今は違う。
設備投資もそうだが、会社を大きくすると言う事は、社員を養う為の多くの仕事を必要とする。
それが列強の世界進出に繋がっていったのだからな。私が関係する多くの会社にも、過剰な設備投資は控えるように指示してあるよ」
「そうして下さい。生産力が不足するなら、他の会社に一部を委託するなどの分散処理も可能です。
まあ、機密情報の取扱には注意が必要ですから、全てのケースに生産委託が可能とは限りませんけどね」
「ケースバイケースという事だな。それはそうと国内は各種の農業車両や建設用車両が普及を始め、一部では自家用車も増え始めた。
電気の普及が進んで生活が便利になり、鉄や石油の需要が激増している。これらの多くを供給しているのは勝浦工場だ。
そろそろ拡張計画を実行に移すのか?」
「そうですね。重化学事業部と造船事業部の第二期拡張工事計画の準備は進めてありましたが、実際に来年から工事に着手します。
ですが北海道と四国の第二と第三工場群の建設は、日清戦争が終わってからですよ」
「それは分かっている。用地の取得は完全に済んで今は私の名義になっている。何時でも君に売却できる。
それと諸外国から勝浦工場の見学申請があったと聞いたが、大丈夫なのか?」
「見せるのは沿岸部の製鉄所と造船所、それに製油所ぐらいですよ。内陸部の機密工場群は絶対に見せません。
製油所を見られると原油を内陸部から運んでいる事に気がつくでしょうが、承知の上です。少しは見せないと彼らも納得はしません。
本当に諸外国から我が社は目をつけられたみたいですね。中国から製品の輸入打診がありましたが、断りました」
「……ふむ。陣内君が大丈夫と言うなら安心しておこう。それにしても君のところで建造している輸送船は好評だな。
今では五年先まで受注が来ていると聞くぞ。私の系列会社も頼んだ口だがな」
「ありがとうございます。ですから造船所も拡張工事を行います。それと飛行船が二隻、完成しました。
一隻は軍に納入しますが、一隻は我が社で運用します。『轟雷』と『轟天』と名づけてあります。
既にテスト飛行は終了して安全性は確認済みです。遊覧飛行に招待しますよ」
「本当か!? 是非とも頼む! それと私以外にも他に六人ほど頼みたいのだが」
「構いませんよ。では渋沢さんを含めて七人のチケットを後で送ります」
まだ飛行船は正式発表はしていない。
軍に納入する轟雷号は僻地で一年間の訓練を行う計画で、轟天号は宣伝やら【出雲】への輸送に使われる計画だ。
その宣伝の為に遊覧飛行に招待した人達は、五百人を越えていた。
「ありがとう。それと車で少し疑問に思ったのだが、個人用の乗用車の普及は進めないのかね? 史実ではあれほど普及したのだろう?」
「今は農業用と建設用の車両と、バスの普及を進めていますが、個人用は時期尚早だと思っています。
まだ性能は低くて価格は高いですからね。金持ちが趣味で買うのを止める気はありませんが、一般大衆にはまだ早い。
ガソリン供給体制と車両の整備体制が整って、欧米で普及し始めた後にします。これ以上、諸外国から目を付けられたくはありません」
「今でも十分に諸外国の視線を浴びているだろう。まあ分かった。
そして来年はラジオ放送の準備を行うのか。あの富士山頂の電波送信塔は私も驚いたぞ。国民も大いに注目している」
「宣伝効果を兼ねていますからね。飛行船と併せて派手な宣伝を行いますよ」
「楽しみにしているよ。話は変わるが、陣内君の私生活は落ち着いたようだな。君が遊郭に出かけたという噂を聞かなくなったぞ。
それで身を固める覚悟は出来たのかね? お相手はあの沙織君か? 何なら私が仲人をしても良いぞ」
「そ、それは……ちょっと待って下さい! プライベートの話は勘弁して下さい!!」
今の陣内は二十六歳。同居している沙織(二十一歳)の性格や容姿も気に入っていて、結婚する事を考えていた。
何より相性が良い。一緒にいて落ち着ける女性というのは男にとって得がたいものだ。(楓の場合は落ち着くというより興奮する)
だが、最近は沙織にばっかり構っていた為に、由維(十五歳)と美香(十七歳)が拗ねたようで困った事になっていた。
沙織が陣内を喜ばせようとベトナムの民族衣装のアオザイを自宅で着たら、二人も負けじと着て陣内を挑発している。
美香は栄養バランスの良い食事を取り続ける事で、沙織に手が届くくらいのスタイルを手にしていた。(由維も急成長中)
その為に沙織 VS 由維&美香という構図になり、自宅の雰囲気が険悪化していた。
結婚は日清戦争が終わった後という沙織との約束があるが、それを自宅で口に出せない。
由維と美香が忙しい日々を送り、自由な時間が無いから不満が溜まっているのは承知している。
出来るだけ二人の時間を取れるようにして、沙織との爛れた時間を増やそうと陣内は考えていた。
ここで第三者の余計な介入は避けたい。ただでさえ、楓との関係が沙織にばれそうで拙い。
陣内の仕事は多く、多忙を極めている。最近は私生活の面でも、悩みが多い陣内だった。
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「ただいま」
「お帰りなさい、真さん」
「お帰りなさい、陣内様」 「お帰りなさい」
自宅に帰った陣内を、アオザイを着た沙織と由維と美香の三人が出迎えた。
そして沙織は自分の指定場所を誇示するように、陣内の横に移動して腕を抱えていた。
陣内の腕に沙織の胸が押し付けられて、陣内の鼻の下が若干伸びる。それを目敏く察した由維と美香は抗議の声をあげていた。
「沙織さん、ズルイわ! 少しは遠慮しても良いんじゃ無いの!?」
「そうよ、あんまし見せ付けないで欲しいわ!」
「あら、あたしは真さんの婚約者だもの。当然でしょ。あなた達も早くお相手を見つければ良いのよ」
「ちょっと待ってくれ! 渋沢さんと会って疲れているんだ! お茶くらいは飲ませてくれ!」
「あら、ごめんなさい。今から淹れるからリビングで待ってて」
一時が万事、この状態だ。陣内の胃に大きなストレスを与えていた。原因は分かっている。
由維と美香の仕事が忙し過ぎて、余裕が無いのだ。十代の女の子に過大な仕事を与えたのは陣内であり、その事は反省していた。
以前に四人で話し合って、由維と美香を普通の女の子に戻そうと提案したが、その時には二人から捨てるのかと涙目で抗議された。
それ以降は、二人を業務から外す事は考えなかった。とはいえ、二人の不満を解消させない事には沙織との関係に影響してくる。
そんな事を考えながら陣内はリビングに移動したが、由維と美香は陣内の横に移動して腕を胸に抱えて陣内を挑発していた。
由維は年齢平均を超えるスタイルになり、美香は最初に沙織と会った時と遜色ないスタイルに近づきつつある。
ここで顔をにやけさせたら沙織の機嫌が悪化すると思った陣内は、必死に両腕から伝わってくる刺激に我慢した。
そして沙織がお茶を淹れて持ってくると、四人は其々が椅子に座って牽制し始めた。その雰囲気を破ったのは陣内だった。
「由維と美香に頼みがあるんだ」
「はい、何でしょう」 「何でも言って下さい。なんなら夜の奉仕でも喜んで」
「……来年の一月末までを引継ぎ期間として、二月から二人に各地の産業促進住宅街の視察、それと三月から日総新聞に勤務して欲しい。
勿論、家は此処に住んで構わない。二人を除け者にする気は無い。ただ、今より二人に自由な時間をあげたいんだ」
「……陣内様、あたしを捨てるんですか!?」
「嫌です! あたしは陣内様と一緒に仕事がしたいんです!」
「落ち着いてくれ! 二人を嫌いになった訳じゃ無くて、まだ十代の由維と美香の時間を奪っているのを申し訳なく思っているんだ!
もう分かっている事だからはっきり言うが、俺と沙織は男女の関係にあって数年以内には籍を入れる。
由維と美香は随分と女らしくなったよ。でも、俺にとって二人は妹みたいな存在だ。幸せになって欲しいんだ!
このままずるずると勝浦工場の運営に関わって、貴重な青春を費やす事は無い。二人の事を考えた結果だ!」
「……それで日総新聞を選んだのね」
「新聞社か。出会いも多そうだし、大丈夫かしら?」
由維と美香は睡眠教育によって未来の事を知り、この時代の最高水準の教養と知識を身に付けていた。
はっきり言って、普通の同世代の男では太刀打ちできない。
だからこそ、自分達より上の存在の陣内にアクションを掛けたのだが、沙織がいたので駄目だった。
由維と美香は今でこそ沙織と対立しているが、本音ではお姉さんとして慕っている。
まあ、その辺は複雑な乙女心があったのだろうと御理解いただきたい。
沙織は陣内が決断した事に内心では嬉しかったが、それでも二人を追い出すようで申し訳なく感じていた。
その為に、今日は女三人だけでお風呂に入って一緒に寝ようという事になった。
沙織との爛れた夜を期待していた陣内は、一人寂しくベットに入った。
こうして1893年以降は、陣内の私生活が大きく変わっていく。
ちなみに、楓との関係は沙織に疑いを持たれながらも続いていた。これも若さ故の欲望の為かも知れなかった。
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不可思議な空間を経由して、この時代に来たのは陣内だけでは無かった。
陣内と一緒にこの時代にやって来た魂を持った幼児が、この年の最初の時点で世界中で40名居た。
だが、栄養不足、疫病、親の育児放棄、等の問題から全員が生き延びられた訳では無い。
1892年末の段階で生き延びた幼児は33名だった。
彼らの年齢は二歳。やっと言葉を話し始め、よちよち歩きをしている。
そんな彼らが世界の歴史に介入できるはずも無い。だが、将来は分からない。
彼らが今後の歴史にどう関与してくるのか、今は誰も分からなかった。
(2013. 5.25 初版)
(2014. 2.23 改訂一版)