日総新聞の子会社の日総出版は、幼児向けの童話を激安価格で販売を始めた。

 この時期、幼児向けの本など殆ど無い。利益を出すのが目的では無いので、大量に病院などの待合所に置かれた。

 まだまだ貧しい人が多いので、童話本を買える人は限られている。ならば、まずは普及を目指そうと各地に無料で配布された。

 幼児が病気になれば、必ず母親は病院に来るのを見越しての事だ。それ以外にも各地の公共施設の待合室にも置かれ始めた。

 こうして徐々に童話というものが世間に普及していった。(一般販売も順調)


 子供向けの教育的内容が入った小説は、各地の学校に無償で寄付されていた。勿論、一部の教材もだ。

 これも普及を目指す為だ。完全な赤字だが、その補填は黒字に転化した日総新聞、そして日本総合工業が行っていた。


 大人向けの技術書も発行した。こちらは完全な営利目的だ。(一部の協力会社には無償で供与)

 物の作り方、原理、そういった基礎の技術が詰まった解説書(写真付き)だ。

 この時代はこういった書籍が無い事から、値段の割には大ヒット商品となっていた。

 日本語が分からない海外の人も買っていった程の出来栄えだ。


 費用もそうだが、こうした大量の印刷を行うには印刷所の能力も必要になる。

 だが、日総新聞の直営の印刷所は陣内が用意した自動印刷機を導入しており、印刷能力が不足する事は無かった。

 広告代理店の仕事も徐々に増えていった。こうして直営の印刷所の自動印刷機が止まる事は無かった。

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 5月10日。天照機関の会合が行われていた。皇居の主を含めて、構成員が全員揃った久しぶりの会合だった。


「史実では明日にロシアの皇太子が滋賀県警の巡査に襲われるのか。大津事件と言ったな。準備は出来ておるのだろうな」

「勿論です。日本が法治国家だと世界に知らしめる絶好の機会ですから、事前に馬鹿な巡査を拘束するような事はしません。

 ですが、ロシア皇太子の警護は厳重にさせます」

「史実では怪我を負ったが、今回は無傷で帰す訳だな。シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席する為に、我が国に立ち寄った。

 一部の新聞社でロシアの脅威を騒ぎ立てているからな。それに扇動された馬鹿者と言う事か」

「怪我を負わなくても、皇太子に弱小国の日本の警官が襲い掛かったとなれば、ロシアは犯人に極刑を要求してくるだろう。

 外務大臣には安易な回答はするな、司法の判断に委ねると回答させよう。そうすれば問題は無い。

 そして政府は司法の判断を尊重する姿勢を、諸外国に広められるという訳だな」

「冷静に見れば、軍事力では我が国はロシアの足元にも及ばない。ロシアの怒りを買えば、国が滅びると考えている輩もいよう。

 だが、ここは冷静に法に則って結果を出せば良い。もっとも、何らかの見舞いは必要になるだろうがな」

「史実の日露戦争の時の皇帝陛下か。何か工作は行うのか?」

「ニコライ皇太子側から事前に連絡が入っていまして、理化学研究所の北垣代表と淡月光の川中代表が面会する事になっています。

 そこで品薄で中々手に入らないビタミン剤の製造装置と無線通信機を献上する予定になっています。

 側近はいるでしょうが、そこで少し意識誘導をします。

 ニコライ皇太子は日本に興味を持っています。そうで無くては日本に寄港はしません。

 此処で日本が有利になるように誘導するつもりです」

「分かった。もし計画以外の事態が発生したら、速やかに報告せよ。絶対にニコライ皇太子に怪我はさせるな!」


 こうして史実通りに大津事件は発生したが、ニコライ皇太子に怪我は無く、犯人の巡査は無期懲役の刑が確定した。

 そして政府は司法に介入せず、司法の独立性を守った日本は法治国家だという事を世界に広めた。


 理化学研究所の北垣代表と淡月光の川中代表はニコライ皇太子に謁見した時に、ある事を伝えた。

 その言葉を聞いたニコライ皇太子は怪訝な表情になって、言葉の意味を理解できなかった。そして直ぐに忘れた。

 ニコライ皇太子がその時の言葉を思い出すのは、十年以上も経過してからの事だった。

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 現在のドイツ帝国はヴィルヘルム二世の治世下にあり、帝国主義を全面に打ち出して国力の増強に努めていた。

 労働者階級の保護を行い、国内の生産力を上げようと方針を打ち出していた。とは言え、貴族階級が力を失った訳では無い。

 裕福な貴族階級は多く存在して、無視できない経済力を持っている。

 そんな裕福な貴族階級の女性の人気を背景に、淡月光のドイツ支店は売り上げを順調に伸ばしていた。

 日本で生産した下着や化粧品、女性専用用品を販売しているが、遠隔地という事もあって船便で荷物が届くのにも時間が掛かる。

 その為に、何時も品薄の状態が続いていた。その現状を打破しようと、ドイツ支店長の佳織(くの一)は日本人職員と話していた。


「佳織さん。この調子じゃまた月末には品薄で店を閉めなくてはなりませんよ。お客様からも改善してくれって要望が多いです。

 もっと日本からの船便を増やすように要求できないんですか!?」

「してるわよ。でも、国内販売も伸びたから生産が追いつかないのが現状なのよ。だから現地生産を早く立ち上げろって本社が煩いの。

 まったく現場を無視して好き勝手を言ってるんだから!」

「でも、最初から現地生産を計画……ごめんなさい! 佳織さんは頑張っていますものね。でも、協力会社が見つからないんですものね」

「ドイツ人は頑固なんだから! サンプルの水分吸収素材を渡したら、絶対に自分達で作るから待てって言われたのよ。

 最初はこれを組み込んだものを作りたいと言ったのにね。職人気質なのは良いけど、紹介された三社ともよ。

 ドイツの技術は世界一! なんて喚いているもの。下着だけは縫製会社に頼めたけど、これじゃあ先が思いやられるわ」

「最初は変な目で見られる事が多かったですけど、最近は慣れましたしね。

 一人じゃ怖いけど、二人なら地元のお店にも入れるようになりました。ビールとソーセージが美味しいから癖になっちゃいますね!」

「……ビールを飲み過ぎると太るわよ」

「げっ! 本当なんですか!?」

「本当よ。ドイツ人でも年配の人は太っている人が多いでしょ。だから気をつけなさい!

 はあ、こっちに来てから休み無しよ! 良い人との出会いも無いし、このままじゃ干乾びちゃうわ!」

「えーー!? 佳織さんて、こっちのお客さんからは貴婦人みたいに思われているんでしょ!? 絶対に人気がありますよ。

 あたしだって道を歩いていると、何人かの男性から声を掛けられますし」

「あたしも声ぐらいは掛けられるわよ。でも、あっちは遊びだから簡単に許しちゃ駄目よ。泣くのは女なんだからね。

 はあ。あたしも蜘蛛の巣が張らないうちに、良い男との出会いが欲しいわ」


 淡月光の海外支店は最初から現地生産を進めるようにと、本社の楓から通達が出されていた。

 上手く行っているところもあれば、まだ全然見込みが立っていないところもある。

 今のドイツ支店は下着こそ現地生産が軌道に乗り始めたが、女性専用用品は目処が立っていない。


「もう苛々してきたわね。今日は地元のお店に行きましょう! あたしの奢りよ! 他の娘にも声を掛けてきて!」

「やった! 今日はただ酒だわ!」


 出会いというのは不思議なものだ。佳織が自棄酒を飲みに行ったそのお店で、地元の某実業家と知り合う事になり、

 抱えている諸問題が解決する事となる。その夜、佳織が自室に戻る事は無かった。

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 陽炎機関は天照機関の直属の対外諜報機関だが、設立して間もない為に工作員の育成に重点を置いていた。

 史実の特殊部隊を参考に、宮内庁の隠密を移籍させて二百人の工作員の再教育を行っていた。

 そして海外に拠点が無い事から、淡月光の海外進出に便乗して活動拠点を築き始めていた。

 淡月光の海外支店には単純労働者として、日本人の男が約五名ほどが派遣されている。その中の二〜三人は陽炎機関の工作員だ。

 最初から破壊工作等の物騒な事をする訳では無い。まずは現地に溶け込み、人脈を築くのが目的だ。

 言語は睡眠学習で身につけており、体術は人並み以上の技量を持っている。

 そんな彼らは、現地の労働者階級の人達が行くバーに頻繁に顔を出すようになった。

 偶には現地の労働者と喧嘩になる事もあったが、勝つのは陽炎機関のメンバーだ。

 そして一目置かれるようになる。こうして陽炎機関のメンバーは現地の人脈を着々と築いていた。


 そんな彼らをサポートする組織もある。全部では無いが、列強のダミー商社が秘かに彼らをバックアップした。

 海外事業部の運営する各地の孤児院もそうだ。こうして日本の海外工作は、異なる組織が徐々にリンクして進められていた。

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 【出雲】の買取にかなりの大金を使用したが、まだ天照機関に資金の余裕はある。

 その余裕がある資金を使って、陽炎機関は秘かに列強のダミー商社を経由して、イギリスとアメリカの小さな新聞社を買収していた。

 目的は日本が有利になるように、イギリスとアメリカの世論を誘導する事にある。

 小さな新聞社だから影響力は小さいが、事件そのものを報道する事で、他の新聞社の注目を集める事も可能だ。

 規模が小さくても使い方次第だ。それに独占スクープを続ければ、読者が増える事もあるだろう。

 日総新聞は真実を報道をする事を重視していたが、買収した二社は必要とあれば捏造記事も掲載する。

 そもそも、イギリスとアメリカの新聞社の大半がイエロージャーナリズムに染まっている。

 高が一社加わったくらいで騒ぐ事でも無いだろう。その事に陽炎機関の担当者の心が痛む事は無かった。

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 陣内は実業家の渋沢から呼び出されて、料亭で二人きりで密会していた。


「日本総合工業に進出して貰う場所だが、選定は終わったよ。今日はその連絡をしたくて君を呼んだんだ」

「結構早いですね。本来はマーケットリサーチをしてから立地場所を決めるのですが、今は先に産業を立ち上げれば、需要が後から

 ついてくる状況ですからね。機密が保持が容易で、労働力が確保できる場所は何処ですか?」

「君が言ったように、一極集中を避けて各地に産業を分散した方がリスク回避になる。それに地方の産業を活性化させたいしな。

 大規模工場用としては、一つは北海道の日高付近だ。賀張山(487m)の周囲一帯から沙流川までの一帯の約60km2だ。

 こちらは丘陵地帯が一面に広がっている。苫小牧に近い事から、将来的に労働力に不足する事は無いだろう。

 それと四国の愛媛県の伊予北条周辺だ。恵良山(302m)から高縄山(986m)の周囲一帯の約60km2だ。

 かなり急な斜面の地帯で平野が少ないが、勝浦工場のように切り開けるのだろう」

「住民を立ち退かせて貰えれば、夜間にロボットで作業は出来ます。ですが今は【出雲】が優先ですから、五年後以降の話です。

 その頃には大型の建設用重機も大量に国内に出回っているから、それを使って建設が出来るようになるでしょう。

 まずは土地の取得を御願いします。それと中規模工場の方はどうですか?」

「ああ。国内各地に平均して製鉄所や製油所を配置すれば、各地の経済状態の改善にもなるから、各地の有力者と交渉中だ。

 現在の候補地は秋田、仙台、富山、島根、熊本、沖縄だ。土地の確保が出来るかを確認中だ。少し待ってくれ」

「取り掛かるのは先ですから、そんなに急ぐわけではありません。気長に御願いします」


 大規模工場には火力発電所、石油生成プラントと石油精製プラント、製鉄所、造船所、重化学コンビナート群。

 中規模工場には火力発電所、石油精製プラント、製鉄所、重化学コンビナート群を建設する計画だ。

 まだまだ詳細計画は全然詰めていないし、他の会社の動向を確認する必要もある。

 【出雲】の開発もあるし、日清戦争の準備ある。それらの開発は日清戦争以降になるだろうと渋沢は考えていた。


「今は新商品の開発もあって忙しいのは分かっている。私の方は裏方に回ってバックアップさせて貰うよ」

「渋沢先生の助力で、多くの分野の産業が立ち上がってきました。本当に感謝しています」

「日本人なら当然の事だ。今は真珠や魚介類の養殖に力を注いでいる。発表は来年の予定だったな。

 しかし、発電機から始まって血液識別や壊血病の対策、真空管と無線通信機、農作業や建設用車両か。

 輸出も大幅に増えて、国内全体が活性化してきた。これも陣内君のお蔭だな。これからも頼むよ」

「こちらこそ御願いします。特に農村部の梃入れには多額の費用が掛かるでしょうが、宜しく御願いします」

「あまり天照機関の予算を大々的に使う訳にもいかないからな。農協への支援なら資金の回収も問題無いから、積極的に融資するさ。

 それが国内の農業改革の一環だからな。この二年でよくぞ此処まで進歩したものだと思うぞ。

 まだまだ貧しい人達は大勢いるが、この分だと十年もすればかなり数は減るだろうな」

「それが目標ですからね。国内改革と併せて海外工作も進めてますから、多忙な日々ですよ」

「まだ二十代なのに大したものだ。話は変わるが、身を固める気は無いのかね。

 最初はあの美人秘書とくっつくと思っていたが、そんな噂は聞かない。寧ろ、遊郭を遊び歩いている噂が広まっている。

 日本総合工業は、数々の新発明や発見をした理化学研究所と、爆発的に売り上げを伸ばしている淡月光の親会社だ。

 君はそこの社長だ。私が日本総合工業の協力会社に融資をしている事から、君と引き合わせて欲しいとの依頼が多く入って来ている。

 少しは外で遊ぶのを控えた方が良いぞ。そのうちに諸外国に目をつけられるかも知れん」

「……そうですね。御忠告に従って、遊びは控えるようにします。

 ですが、私も思うところがあって、日清戦争の終結までは身を固める事は禁じています。そこは察して下さい」

「まだ若いからな。だが、気をつける事だ。諸外国の目が君に集まる事は得策とは言えないからな」


 数々の発明と新商品を開発した理化学研究所と、爆発的な売れ行きの淡月光の知名度は高い。(日総新聞も同じ)

 だが、その親会社の日本総合工業は株が非公開という事もあって、注目度は低かった。過去形だ。

 石油や製鉄が潤沢に国内に供給され始めると、その供給元の日本総合工業に国内外からの注目が集まりつつあった。

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 エルトゥールル号の遭難した人を送り届けた後、帝国海軍の比叡と金剛は【出雲】に立ち寄って、十名を降ろしていた。

 予め、上手く領土の買取が行えたのなら、現地で受入準備をするようにと内示を受けていた人達だ。

 簡易住居と大量の食料と水が同時に降ろされ、彼らは現地の調査を始めていた。


「しかし内陸部は暑いな。これじゃあ生きていくのも一苦労だ。やっぱり居住区は沿岸部だな」

「沿岸部は港湾施設や工場群を建設する予定があるんだ。住居は少し内陸部にしないとな。

 それに海水の淡水化プラントを建設して、農地を開拓する必要がある。何時までも食料を輸入に頼る訳にもいかない」

「陣内代表が大型輸送機で風力発電機システムと電灯を持ってきてくれたから助かるよ。それと空調があるプレハブ住居もな。

 大型輸送機があれば、万が一の時でも直ぐに補給が来る。やっぱり安心できるのは良いな」

「定期的に食料や飲料水も運んでくれるからな。此処に長期間居るから、日本の食材が恋しくなるから助かるよ。

 それはそうと、現地の人の立ち退きが終了すれば、例の採掘用ロボットと建設用ロボットで一気に整地を進めるらしい。

 勝浦工場みたいに短時間で立ち上がるぜ」

「ここは日本と離れているからな。勝浦工場ほどは上手くは行かないだろう。早く、食料や水の自給が出来るようにしないとな。

 ここじゃあ水を撒いてもすぐに蒸発する。陣内代表の言ったように、屋内式の農地で蒸発した水を回収するようにしないと駄目だ。

 ビニールハウス式で良いだろうが、温度管理に気をつければ中東で稲作が出来るぞ」

「そろそろ列強のダミー商社が手配した建設用資材が到着する。明日は忙しくなるぞ。早めに寝ておけ」


 砂漠と荒地の土地であり、今まで住んでいた人は少ないが、立ち退きを待っている最中だ。

 そして詳細な現地調査を行って、各種の施設の建設に取り掛かる。

 日本から遠い為に、主な建設用資材はインドや欧州から運び込まれてくる。【出雲】の開発の歴史は始まろうとしていた。

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 今までの日本の数々の新商品は、輸出された全種類がアメリカの某研究所に運び込まれ、分解されて解析されていた。

 このような他社の商品を分解して解析、模倣する手法を『リバースエンジニアリング』と言う。

 その某研究所では、多くの研究員が日本の新商品に関しての協議を行っていた。


「理化学研究所が最初に特許を取ったのは、風力発電機関係と新型電灯。それとベアリングだ。これに関しての解析結果はどうだ?」

「風力発電機の性能は主にベアリングに依存している。このベアリングさえ量産できれば、国内でこれ以上の物を生産できる。

 このベアリングの均一した品質は素晴らしい。この品質を国内で生産しようとすると、どうしても熟練した職人が必要だ。

 現時点ではベアリングの量産は困難だと言わざるを得ない」

「ふむ。次は発電機と変圧器か。こちらはどうだ?」

「素材としても目新しい物は無い。こちらも安定した品質で、かなりの量のベアリングと高級油が使われている。

 ベアリングの量産問題を解決できれば、国産は可能だろう」

「消火器も解析した結果、国内で生産できる事が判明した。ただ、シームレックスの消火器の容器を製造する事が難しい。

 こちらも大量生産用の設備機器を導入すれば、可能という報告だ。中の中性強化液や粉末の解析も出来ている。

 まったく、日本は何時からこんなものを製造できる工業力を持ったんだ? そちらの方が疑問だよ」

「それは後にしよう。次は家電製品だ。そちらはどうだ?」

「扇風機、洗濯機、冷蔵庫共に今までの技術の応用品だ。目新しいものは無い。発想の転換という奴だな。

 これも我が国で製造する事は十分に可能だ。ただ、パテント料を支払う必要がある」

「……次は血液識別装置とビタミン剤製造装置を報告してくれ」

「原理さえ理解してしまえば、我が国以外でも製造は可能だ。ご丁寧に技術資料まで同時に配布してくれたからな。

 だが大量に製造して、この品質を維持できるかと聞かれれば、回答は難しくなる。

 単品であれば、日本の商品を上回る性能を持った製品は開発できる。問題は均一した品質の大量生産体制だ」

「……最後は真空管と無線通信機だ」

「真空管は今までの技術の延長線上にあり、ちょっとした発想転換をすれば我々にも開発できた。日本に先を越されたのは悔しいがね。

 無線通信機は真空管の応用だ。どちらも我が国で製造できるさ。パテント料は同じく支払わねば為らないだろうがな。

 研究を進めていけば、日本の真空管と無線通信機以上のものは開発は出来るだろう。

 その間は日本からの輸入は止められない。最低でも五年は待って欲しい」

「……カップラーメンもあるが、それはどうでも良い。香取線香もな。食品関係など、どうにでもなる。

 だが、電気や医療分野で日本に遅れを取る訳にはいかない。解析結果では目新しい技術は無く、日本の工業力が再確認された訳だ。

 これをどう見るかだな。開発元の理化学研究所より、製造元の情報を探った方が近道かも知れん」

「一理あるな。最近の日本は石油の輸入量が徐々に減少しているが、国内の消費量は右肩上がりだ。

 農業用や工事用の特殊車両を次々に導入して、原材料の輸入も激増している。しかし、需要が増えた筈の石油の輸入が減っている。

 どうしても、石油の輸入が減った事を説明できないんだ」

「日本で石油が産出された可能性は?」

「分からん。その可能性はゼロでは無いだろう。しかし、我々でさえ困難と判断した製品を造り出す工業力を侮る訳にはいかない」

「一度、日本の生産工場を視察すれば良いだろう。幸いにも風力発電機を生産している会社には伝手がある。頼んでみよう」

「良い案だな。俺も行かせて貰おう」


 この時代は新発見や発明が相次いで発表されていた。それには今までの技術の蓄積が必要になる。

 ある程度の工業力があれば、コピー品は容易に製造する事が可能だ。そして彼らの視線は、日本の生産現場に向けられようとしていた。

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 勝浦湾は活気に溢れていた。

 引っ切り無しに原材料を満載した貨物船が入港し、別の場所では製品を梱包したコンテナを輸送船に積み込んでいる。

 そして少し離れた造船所では五千トンクラスの輸送船(三宅丸級)と二万トンクラスの輸送船(石垣丸級)の建造が進められていた。

 当初の計画では造船所では五千トンクラスの輸送船を数年間は建造する予定だったが、急遽二万トン級の建造が割り当てられた。

 来年に発表する予定のディーゼルエンジンを搭載した最新型の輸送船だ。(しかも激安価格で納入予定)

 これも帝国海軍士官の不満を和らげる方策の一つだった。

 それ以外に、産業機器事業部には自走砲の砲身を、特殊車両事業部には車両の製造指示が出されていた。


 この造船所で建造された輸送船は主に国内で使用される。もっとも、淡月光の所有の輸送船は海外向けだ。

 海外に水分吸収素材を輸出、帰りには現地の特産品を満載して帰って来る。

 その利益は莫大なもので、淡月光代表の楓は全額出資の専用運輸会社を立ち上げようかと迷っている程だった。


 現在の建造ドッグにある輸送船の建造が終われば、次は五千トンクラスの油槽船を建造する。

 農業用と建設用の特殊車両の普及が各地で進み、ガソリンの需要が伸びている。

 その全量は勝浦工場から出荷されているが、油槽船の数が不足し始めていた。

 既に各地の港湾施設にはガソリンや重油、灯油などの貯蔵タンクが徐々に建設されている。

 こうして、日本国内に石油の普及が進んでいた。

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 季節は夏。今年の夏は暑く、新商品の扇風機と冷蔵庫の売り上げが伸びていた。

 少しずつ景気が良くなった事から、余裕が出てきた家庭で扇風機、洗濯機、冷蔵庫の購入が増えた為だ。

 こうなって慌てたのは電力会社だった。

 新型電灯の普及に加えて扇風機や洗濯機、冷蔵庫の普及が進み出したので、電気の需要が増えた。

 しかも、今後の増加傾向は変わらないとの調査報告が出てきている。

 そういう理由から大型の発電機を次々に追加導入し、火力発電所と水力発電所の建設に動いていた。


 尚、電力会社のトップは超高圧送電が可能になれば、勝浦工場の安価で豊富な電力を使用できると知っている。

 その為、自社の技術陣に超高圧送電の早期実現を命令していた。

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 今年の一月に、日本政府は所属が未定になっていた島々を領土に編入した。

 ウェーク島はアメリカから抗議があったが、既に現地で灯台と住居の建設に取り掛かっており、所有権が揺らぐ事は無かった。


 硫黄列島は政府の肝煎りで急遽移民団が編成されて、住居の建設に入っていた。

 尖閣諸島は規模が小さい事もあり、日の丸を掲げた灯台と緊急時の避難所の建設が行われていた。

 南鳥島(面積:1.51km2)は日本総合工業の所有だが、今のところは余裕が無く、日の丸を掲げた灯台と避難所の建設だけだ。

 将来的には護岸工事を行って、レーダー施設や小規模艦隊の補給基地、潜水艦基地を建設する。

 ウェーク島(面積:6.5km2)はハワイへの補給基地として最適な位置にある。現在は同じく灯台と住居の建設が進められていた。

 将来的には小規模な軍港として運用する。

 沖大東島(面積:1.147km2)は陣内の個人所有地であり、現在は日の丸を掲げた簡易住居のみが建設されていた。

 竹島(総面積:約0.23km2)は規模が小さい事から、灯台と観測所だけを建設している。

 沖ノ鳥島(面積:約5.78km2)は日本総合工業の所有だが、護岸工事を行って、灯台と緊急時の避難所の建設が進められていた。

 将来的には、レーダー施設や小規模艦隊の補給基地、潜水艦基地を建設する。


 現時点でこれらの編入した島々が、直ぐに使われる事は無い。一番早くてウェーク島が来年以降から補給基地として運用される。

 それ以外の島々は、日本が広大な海洋資源を確保する為に領土に編入されたのだった。

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 天照基地は大東諸島の北大東島(約12.7km2)に建設されている。(南大東島(約30.6km2)と沖大東島(約1.1km2)は唾をつけただけ)

 着工から二年以上経過しているが、勝浦工場の建設を優先させた為に当初の計画より遅れている。

 ましてや今は【出雲】の整地や各種の施設の建設を優先させているので、天照基地の大規模工事は完全に停止していた。

 現在の基地内の労働力は、汎用アンドロイド十五体だ。(十体は勝浦工場で稼働中)

 【出雲】の秘密施設が完成すれば五体を派遣させなくては為らないので、今は織姫の制御する自動ロボット設備の拡充に注力していた。


 今の天照基地は地下資源の小規模採掘システムがあり、原材料の精製から加工、部品製造から製品製造の一環工場となっていた。

 最初の頃は地下採掘で手に入らない素材の代用に悩んだが、今は勝浦工場から運び込んでいるので原材料には困っていない。

 勝浦工場に設置する各種の設備機器の製造が一段落ついて、これからは遅れていた天照基地の建設を進められると思ったが、

 今度は【出雲】の開発が優先される事になってしまった。

 お蔭で完成間近だった海水の淡水化プラントは、急遽【出雲】に搬送されていた。

 その為に海水からの重水素採取装置や海水に含まれる鉱石採取装置、造船所、石油生成施設は未だに建設中だ。

 光合成の繊維生産プラントとリサイクル施設、それに防衛施設は手をつけてさえいない。

 今日も忙しく汎用アンドロイド十五体が働いている。

 そんな状況で陣内は一人で天照基地に来て、基地全体を管理する織姫と話していた。


「勝浦工場の生産設備の製造は一段落したけど、今度は【出雲】へ持ち込む生産設備を用意しなくちゃな。

 取り敢えずは【出雲】に宇宙要塞用の大型核融合炉を運び込んだ。

 港湾施設の建設や工場群の建設には時間が掛かるだろうから、運び込む生産設備の製造は少し延ばしても大丈夫だろう。

 その空いた時間を使って、この設計図の物を作りたいんだが検討してくれ」

『……立体映像装置を改造して数十メートルサイズの立体を投影する事は、拡声器を含めても簡単です。

 ですが、全長二十メートルのドラゴン、図面には『バハムート』とありますが、漂流宇宙船にあった予備の反重力ユニットを体内に

 組み込んで動力炉と小型の粒子砲を使えるようにするなんて、どういうつもりなんですか? しかも超音波を使用した強制睡眠装置も!

 小型の粒子砲は隕石迎撃用で出力は低いですが、この時代では十分に使えます。

 それを態々ドラゴンの身体を作って組み込んで、口から発射させるようにするなんて、遊びで使うんですか?

 しかも、赤と青と黄とピンクと緑? このドラゴンで戦隊物の撮影でもするつもりですか?』

「いや、遊びじゃ無いさ。ちょっと小細工に使おうと思ってね。それと『バハムート』は西洋のドラゴンの形を取っているけど、

 海中を動く鯨を意識したものも考えているんだ。こちらはコードネーム『白鯨』。

 表層は特殊金属で装甲され、小型の軍艦ならば一撃で沈められる破壊力を持つ海中用兵器だ。

 空を飛ぶ術の無いこの時代だからこそ使えるトリックさ。無差別破壊に使うつもりじゃなくて、警告を兼ねた示威行動に使うつもりだ」

『分かりました。製造に取り掛かります。希望の納期は何時頃ですか?』

「そんなに急ぐ訳じゃ無いが、『バハムート』は来年の夏ごろまでには欲しい。『白鯨』は最低五体を再来年ぐらいだな。

 それと海外領土の【出雲】を得た事から、地球全体を衛星軌道上から監視する体制を整えたい。

 だから監視衛星も造っておいてくれ。衛星軌道には大型輸送機を使って投入するから、衛星本体だけで良い」

『生産ラインに組み込んでおきます。それはそうと今日はマスターはお一人ですね。沙織さんは置いてきぼりですか?』

「置いてきぼりは酷いな。ちょっと休暇をあげただけだよ。最近は激務続きだったからね」


 事実だった。陣内は年初めから協力会社の調整や、【出雲】の対応で多忙な日々を送っていた。

 世界各地の淡月光の支店や孤児院の視察もある。【雪風】を使って密入国したのだが、その全てに沙織は同行していた。

 最近は渋沢から遊びは控えるようにと忠告され、楓と長期間会っていないから陣内は自分の理性に自信が無かった。

 だから天照基地には一人で来ていた。その陣内に織姫から厳しい突っ込みが入っていた。


『二年以上も一緒に生活して、海外に行った時は同じ部屋に寝泊りしているのに、まだ清い関係だなんてどういうつもりですか?

 由維さんと美香さんは子供だから分かりますが、沙織さんは立派な大人ですよ。それにマスターの好みの女性でしょう。

 マスターの視線を解析すると、頻繁に沙織さんに向けられているのは分かります。沙織さんもマスターを度々見つめています。

 私はコンピューターですから人間の微妙な感情は理解できませんが、今の二人が不自然な事は分かります。

 どうして此処に沙織さんを連れて来なかったんですか?

 此処なら誰の邪魔も入らず、マスターと沙織さんの気持ちのままに好きなだけ出来ますよ』

「……織姫は俺の母親か!? 俺の私生活をそこまで詳しく観察しなくても良いぞ」

『そうはいきません。私の使命はマスターに仕える事ですから、身体の問題になるような事は無視できません。

 最近のマスターは他の女性と関係を持っていません。我慢は限界に近いと判断しています。

 勝浦工場の社長室で、何度沙織さんを後ろから抱きしめようとして止めたんですか?

 沙織さんは気がついていて残念そうにしていましたよ。彼女の気持ちを汲み取ってあげるのも男の甲斐性では無いですか?』

「……織姫も知っている通り、この時代に来るまでに俺は何度も他人に騙されて人間不信に陥っていた。

 そしてこの時代に来て、平凡な俺が重要人物として持ち上げられた。正直言って嬉しかったし、舞い上がっていたよ。

 でもな、この世界が俺の生まれた世界の過去だとしたら、俺がやる事で歴史が変わったら消滅する可能性もある。

 色々な商品を出したり【出雲】ぐらいの歴史改変じゃあ、歴史の修正力に揉み消される可能性もある。

 まだ、この世界が俺の時代の過去じゃ無いと断言できない。そんな俺が子供を作って消滅したら嫌だろう」

『……なる程。そういう事を考えていたのですね。確かに今までの出来事では、この世界があの時代の過去じゃ無いとは断言できません。

 ですが、どこまで歴史を改変してマスターが消滅しなければ、この世界が過去では無いと判断するつもりですか?

 それとも消滅を回避する為に、この世界への介入を中断されますか?』

「俺はこの時代に来てしまった。今更、後には戻れないさ。仮に俺が消滅する事になっても、改革を止める気は無い。

 とは言え、俺が沙織との間に子供を作って、沙織と子供だけが残される事態は避けたいんだ。

 だから沙織にまだ手を出さない。日清戦争に勝った時に、歴史は修正力が効かない程に大きく変わる。

 それを過ぎても俺が消滅しなければ、この世界は俺の生まれた時代の過去じゃ無いって判断する」

『……少し考え過ぎのような気もしますが。それに沙織さんとは避妊をすれば大丈夫じゃありませんか?』

「避妊!? その手があったか!? 楓は忍術を使って避妊していたが、沙織は教わっていないから駄目だと聞いていたんだ!

 だったら別の方法を採れば良いだけの事! 何でその事に気がつかなかったんだ!?(金的攻撃は体勢を変えれば大丈夫だろう!)」

『……その事がマスターを縛っているとは思いませんでした。分かりました。

 新薬品の開発日程を少し変更して、女性用の避妊薬を早めに発表して販売するようにしましょう。

 大ヒット商品になる事は間違いありませんし、今後の世界への発言力を増す事にもなります。それまでは我慢して下さい』

「……以前に【天照W】の大学の闇市で、面白半分でその薬を買って机にしまい込んでいたんだ! 全然使った事も無いから忘れていた!

 織姫、俺は直ぐに勝浦に戻る! 何か問題があったらメールで連絡してくれ!! いや、今晩だけは何があっても連絡は駄目だ!」

『……承知しました。一応、念押ししておきますが、沙織さんは初めてですから優しくしてあげて下さいね』


 陣内は既に【雪風】の格納庫に向かって駆け出しており、織姫の忠告が耳に入る事は無かった。

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 陣内の住居は勝浦工場の住居エリアの端にあり、そこに沙織と由維と美香の四人で住んでいた。

 由維と美香は各事業部間の調整で忙しく、まだ本社ビルで仕事をしていた。あまりにも忙しいので、今日は本社ビルに泊り込む。

 陣内が天照基地に一人で行った日の夜、沙織は個室で考え事をしていた。

 そして『くの一』の修行をしていた時の先輩の楓に、衛星通信電話を掛けていた。


「楓先輩、ちょっと相談を聞いて下さい!」

『開口一番に相談なの!? まったく衛星通信回線を使って、態々盗聴防止機能まで使っているから何事かと思ったわよ!

 一時間前までオーストリアの貴族と会って、お店の出店要求の話をして疲れているのよ。手短にね!』

「実は陣内様の事なんですけど……」

『……陣内様か。(最近は会って無いわね。あたしもストレスが溜まっているけど、真も限界に近いんじゃないかしら)

 いったい、どうしたって言うの!? まさか沙織にとうとう手を出したの!?』

「……まだなんです。陣内様の視線を強く感じるんですけど、あたしって魅力が無いんですか!?」

『あたしより劣るけど、沙織は豊満だし可愛い方だと思うわよ。……そう言えば最初に陣内様と会った時に暴漢に金的攻撃をしたでしょ。

 あれほど一般人が居る時には金的攻撃しちゃ駄目よって口を酸っぱくして教えたのに、やってしまったのよね。

 あれを見たら大抵の男の人は及び腰になるわよ!(だから男の前では猫を被りなさいって、お師匠様も散々言ってたでしょう!)』

「えーーー!? あれが原因なんですか!?」


 反射的に沙織は無線通信機に大声をあげてしまった。『くの一』の修行の一環で沙織は体術を修めていた。

 そして男の急所は金的だからという指導を受けていたので、素直にそれに従っただけだ。

 乙女の沙織は金的攻撃がどれほど男に悪影響を与えるかを知らない。そして知らないが故に、平然と行ってしまった。

 沙織に襲い掛かれば金的攻撃を受ける危険性があると、陣内は心の何処かで恐れていた事は誰も知らない。

 楓は軽い溜息をついて、沙織と陣内の出来事を細かく聞き始めた。


『……ふうん。料亭の離れに一緒に住んでいた頃から、沙織は陣内様の視線を感じていたけど何も無かった。

 陣内様は遊郭や料亭の通いの芸者と遊んでいたのね。(良かった。あたしの事はばれて無いわね)

 最近は一人で出かける事は少なくなって、沙織は以前より強い視線を感じるようになったのね。(ひょっとしてあたしが最後?)』

「師匠から言われた通りに腕を組んで歩く時は胸を押し付けたりしたんですけど、ギラギラした視線を感じるだけで何も無いんです。

 二人だけで仕事をしている時も、後ろから抱き着いてくるかと思っても何故か机に引き返すし……あたしって駄目なんですか?」

『……陣内様は沙織を嫌っている訳じゃ無くて、必死に我慢しているみたいね。それと金的攻撃した沙織を怖がっているのかしら?

 (なる程、あたしとした後はしばらくは大丈夫か。あれだけ絞り取ったんだものね。でも、最近は無いから我慢が限界という事かしら)

 あんたの代から床の実技実習が廃止されたから、まだ沙織は乙女なのよね。やっぱり実技実習をしないと駄目なのかしら?

 今度、あたしが陣内様に女の扱い方をじっくりと教育してあげましょうか? (沙織公認だとやり易くなるものね)』

「ちょっと先輩、陣内様を取らないで下さいよ! 遊郭通い程度は黙認できても、先輩相手じゃあたしの立場が無くなります!」

『あたしも淡月光の代表になって忙しい日々が続いているから、ご無沙汰しているのよ! (最近だけね。真とは四ヶ月ぐらい前か)

 そりゃあ、海外の貴族のお誘いはあるけど、魂胆が透かして見えるから遠慮させて貰っているの。

 陣内様だったら少し性格に難はあるけど、あの資産と技術は凄いものね。だからあたしが陣内様と良い仲になっても良いでしょう。

 それが嫌なら、沙織はもうちょっと積極的に動きなさい! (真は良い遊び相手だけど、あたしは本気に為れないものね)

 師匠からは床の実技は教わらなかったとはいえ、座学で技の説明は受けたはずだから少しは知っているでしょう!』

「そ、それはそうですけど、あれ以上積極的にですか……恥かしいんですけど……」

『欲求不満の陣内様を諸外国に知られる訳にはいかないの。品位が下がるし、外国の女スパイに引っ掛かっても日本は困るの。

 沙織は陣内様を好いているんでしょう! 女は度胸よ! しっかりしなさい! (他の女に引っ掛かるより沙織の方が安心だしね)』

「はっ、はいっ! あっ、陣内様が帰ってきたみたいなんで、電話は切りますね。ありがとうございました」


 翌日の日本国内の実業家の集まりに陣内と沙織は出席した。

 西洋風のパーティだった為に、沙織はドレス姿で陣内と腕を組んで出席していた。

 少々歩きづらそうな沙織だったが、顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 そして陣内は疲れたような様子だったが、穏やかな雰囲気を湛えていた。

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 淡月光は日本総合工業の全額出資の完全子会社だ。下着や化粧品を含めた女性専用用品を扱っている。

 外貨を稼ぐ事が主目的だが、日本女性の社会進出を進めて、諸外国に日本の社会状況をアピールする事も含まれる。

 その為に、淡月光の代表は女性である事が望ましい。

 発表前に国内の色々な女性に試着を頼み、その中の川中楓(元宮内庁所属)が陣内の目に留まった。

 そして陣内の希望で正式に宮内庁から移籍して、淡月光の代表に就任していた。

 楓は宮内庁の所属の『くの一』だったが、姉御肌の女性で組織の纏め役としても適任との判断が為されていた。


 川中楓は淡月光の代表として多忙な日々を送っていた。世の中にまだ無い女性専用用品を扱う事から、忙しくなるとは予想していた。

 だが、その忙しさは当初の予想を遥かに超えるものとなっていた。

 国内の五ヶ所と海外の八ヶ所に販売店(売り子は全て女性社員)を設置したが、予想以上の売れ行きだ。

 その結果、国内はもとより海外においても販売店舗が手狭になって、まだ進出していない国からの出店要請も多い。

 国内の直営工場(作業員は全員女性)は地域の女性の雇用に貢献してきたが、供給量が追いつかなくなってきた。

 水分吸収素材は日本総合工業の協力会社で自動生産設備で大量に生産しているが、どうしても手作業の部分はある。

 そんな状況で、海外の出店先の国や隣国の貴族からも、販売店舗の拡大や追加出店要請が相次いでいた。


 これらの海外対応は、現地に派遣した支店長(全員がくの一)が行った。

 睡眠教育で現地の言葉を習得し、きちんとした作法を身につけ、其々の支店長は進出先の社交界からは貴婦人として受け入れられた。

 其々の支店長の上に立つのが楓だ。優れた容姿を持ち、トラブルが発生した時は楓が現地に出向いて問題を解決していた。

 そんな楓は電話で沙織の相談を受けた後、ホテルの個室で下着姿で寛ぎながら考えていた。


(陣内真。未来の日本から偶然の事故でこの世界に来て、今は日本の改革の中心人物になっている。

 本当なら宮内庁の隠密として一生を終えるはずのあたしが、今じゃ世界規模の会社の代表になるなんて分からないものね。

 外見はぱっとしない冴えない男だけど、あの技術と資産は魅力的だわ。それに偉そうにする訳でも無く、熱心に働いている。

 大したものだわ。それにあたしを引き立ててくれた恩義もある。あたしも二十五歳だし、少しは気が引かれるわね。

 睡眠教育で覚えたデータ通りに、海外の男達はエスコートしたり表面上は優しくしてくれるけど、下心が丸分かりだわ。

 あたしの胸元に視線が集中するのがはっきり分かる。まあ、この辺は真も一緒だけどね。

 でも、海外の男達はベットに入ると性格が変わるというから、それなら真の方が身体の相性もまだ良いわ。

 まったく沙織も少しはしっかりしなさいよ! これで真が変わらなければ、本気であたしが落そうかしら。

 それにしても沙織は不思議ね。あの娘の期から床技の実習が廃止されるし、他に沙織以上の『くの一』もいたのに、何であの娘が

 真のところに派遣されたのかしら? 真っ先にあたしが派遣されていたら、とっとと落としていたわよ。

 まったく、半蔵様は沙織をエコ贔屓しているのかしら?)


 楓から見て、沙織は少し変わった『くの一』だった。体術は並みであり、容姿はそれなりに良いが、群を抜いた美女という訳では無い。

 性格もおっとりタイプであり、『くの一』としての適正に欠けるとも言える。そんな沙織が何故、陣内のところに派遣されたのか?

 そこに楓は意図的なものを感じていた。もっとも沙織は後輩だが、最後まで遠慮する相手では無い。


(沙織が頑張ったとしても、あたしが真としちゃ駄目って事は無いわよね。偶には復習しないと『くの一』の技も忘れちゃうし。

 あの無重力プレイの快感は中々他では味わえないわ。公私混同してる気がしなくもないけど、それくらいは役得よね。

 それに真も飲み込みが早くて、免許皆伝まではいかないけど免許ぐらいは取れそうだもの。

 真に本気には為れないけど、相性が良いから誘われたら嫌とは言えないわ。

 でも、今は淡月光に全力を注ぐ時よ。会社を経営するのがこんなにも楽しいものだとは、思わなかったわ!)


 昔のように『くの一』だからと言って、敵を暗殺したり情報を非合法行為で得たりするような事は無い。

 そもそも日本国内は統一されて、その必要性も無かった。皇室の護衛が主な任務だった。

 その『くの一』の中で、川中楓は容姿と技が群を抜いて優れていた。

 技術の指導をする長老の間でも、楓が狙ったら落せない男はいないだろうと噂されていたくらいだ。

 その楓は苦労して得た技を使う事無く、会社の代表として表舞台で輝いている。

 急成長している淡月光の為に、楓はその秘めた才能を存分に使い始めていた。

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 今の世界は激動している。ドイツ帝国の宰相ビスマルクの辞任に伴い、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。

 クリミア戦争では対立したロシアとフランスだったが、露仏同盟が進められていた。

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 北海道の奥地で、インディアンとアボリジニの志願者の実技訓練が行われていた。

 既に陽炎機関から派遣された教官(忍者)による基礎訓練は終了していた。今は陣内が用意した武器を使った訓練をしている。

 訓練しているのはインディアンの若い男女八十名と、アボリジニの男女五十名だった。


 パシッ パシッ パシッ


 小高い丘の上から五キロも先の標的を、狙撃用の粒子銃が立て続けに撃ち抜いた。

 狙撃用の粒子銃は漂流輸送船の船内にあったものだ。高性能スコープもセットされている。

 少し離れた場所では、通信機器の操作方法や小型の鳥型の偵察ユニットの扱い方の講習が行われていた。


「ほう。大分上手くなったな。これなら年内ぐらいに、現地で任務を行えそうだな」

「まだまだです。五キロも先の標的を撃ち抜けたのは、粒子銃の性能に負っています。接近戦では不安が残ります。

 ナイフや手裏剣の使い方をもっと覚えたいです!」

「おいおい、接近戦は駄目だと何度も言ったろう。敵に姿を見せずに、遠くから狙撃するんだ。

 教本にもあったように、相手が多数の場合だと物量で圧倒される。五キロ先なんて普通は見えないが、鳥型の偵察ユニットが使えるし、

 高性能スコープがあるから出来る事だ。この優位な点を出来るだけ有効に使うんだ」

「……分かってはいるんです。ですが虐殺されていった仲間の事を考えると、どうしても接近戦で仕留めたいと思う自分があるんです。

 自分が捕まって日本に迷惑を掛けられないのは十分承知していますが、どうしてもこの想いを抑えきれないんです!」

「抑えろ! 出来なければ派遣はさせない。こちらは無傷で相手の被害を出来るだけ引き出すんだ。

 それが結果的に我々の利益になる。散々、説明したろう!」

「……はい」

「君達は十人でチームになる。指揮官が一人、狙撃手が六人、通信・偵察が二人、補給が一人のチームだ。

 たった一人の身勝手が、チーム全体を危機に晒す事になる。肝に銘じておけ!」

「はい!」

「十月には現地の拠点設営に入り、君達の同胞を日本に保護する。君達に協力して貰ったお蔭で産業促進住宅街の第二期増設工事は

 順調で、一箇所あたりの収容人員が千二百人分から約三千人にまで増加されている。君達が残されている同胞を救い出すんだ。

 現地の拠点設営と日本への輸送、それと補給は陣内殿が面倒を見てくれる。心配する事は無い!

 だが、武器の扱いや心構えが出来ていない奴は派遣させない事を忘れるな!」


 総勢百三十名の兵士は陣内の支援を受けて、未来の武器や偵察ユニットを使って訓練に励んでいた。

 虐殺や迫害されている同胞を救う目的を持つ彼らの戦意は高かった。

 この時代に五キロ先まで届く兵士用の武器は存在していない。まったく相手に気付かれないように狙撃するのは十分に可能だ。

 こうしてアメリカとオーストラリアのゲリラ工作の準備は着々と進められていった。

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 海外事業部が設立させた列強のダミー商社は全部で五社だ。(イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、アメリカ)

 そのダミー商社は財宝に裏付けられた豊富な資金をバックに、活発に活動していた。

 海外の食料や各種の原材料を購入して、それを日本に次々に送り込んでいる。

 それと世界各地の未開発の鉱山や油田を次々に買い占めていた。(大手資本に目を付けられないように、ひっそりと)

 ウラン資源や希少金属類などもそれに含まれ、既に開発中の他社の鉱山からの買い付けも活発に行っている。

 それと平行して、大量の建設資材と各種の設備を【出雲】に運び込んでいた。

 それらの活動による利益は大きい。そしてその利益を再投資に向ける事で、各ダミー商社は成長していった。

(2013. 5.18 初版)
(2014. 2.23 改訂一版)