日総新聞は昨年の秋に設立された新しい新聞社であり、事実だけを淡々と報道する事から面白みに欠けて読者の数は少なかった。

 それに『公共のマナーを守ろう』とか、『言葉遣いを丁寧に』とかを社説に掲げた事から、煩わしさを感じる人も多かった。

 他の新聞社が報道しないような内容や諸外国の風習などの記事を載せたので、変わった新聞社と噂されている。

 関東圏の地域紙だが、1890年の正月休み明けの翌日の朝刊で、理化学研究所や淡月光の特許申請の記事を掲載した。

 他社は報道しておらず、日総新聞の独占スクープだった。


『理化学研究所の北垣代表は昨夜、新型発電機と高効率変圧器の開発に成功し、特許申請を行った事を発表した。

 この開発は昨年に特許を取得した風力発電機や新型ベアリングの開発の延長になるものであり、特に新型ベアリングによる効果で

 長寿命と高い発電能力を実現している。出力は五万KWと大型で発電所向けの仕様になっている。

 新型電灯の普及が進み出したので電気需要が増加しているが、これでさらに電気の普及が進むと予想されている。

 生産は日本総合工業と三菱重工業の二社に委託している。既に量産体制に入っており、販売は夏頃から行われる。

 既に国内の電気会社の数社から引き合いが来ている。輸出に関しては、今のところは白紙である。


 さらに新型の消火器を開発した事も発表した。

 高さ五十センチ程度の一体構造の容器に高圧ガスを消火剤として充填して使用する。重量は御婦人でも簡単に持ち運べる程度だ。

 一度使うと専用機械によって消火剤を補充する必要があるが、使用方法は数分の講習で身に付けられる。

 政府の災害予防研究会は、各地で多発している火災の予防になるとして消火器の普及を進めると発表した。

 既に昨年から協力会社に生産を委託して大量の在庫があり、来週から代理店を通した販売を行う。

 尚、小型の消火器以外にも高性能ポンプを使った大型の消火器も年内中には開発する計画だと言う。


 最後に農作物の収穫量を増やす為に、寒冷地仕様の米や麦などの品種を開発した事も発表した。

 東北の一部で試験運用を行って、収穫が増えたと判断されれば大々的に普及を進める予定だ』


『昨年から新型の風力発電機や電灯を生産・販売している田中製造所は、受注量の増加に伴って国内の工場を追加建設する事を発表した。

 又、風力発電機の応用で新型のポンプやファンを開発した事も発表した。既に生産に入っており、今月中には出荷される』


『淡月光の川中代表(二十三歳)は、新しいタイプの女性の下着や女性専用用品を開発し、特許申請した事を発表した。

 これらは新しい女性専用用品という事で、販売店舗内で女性従業員から説明を受けながら試着をして販売する方針だと言う。

 昨日から仙台、東京、名古屋、大阪、福岡の五ヶ所の販売店舗が開業している。

 直営工場は東京と大阪の二ヶ所にあり、昨年のうちから生産を行っており、直ぐに販売を開始する。

 川中代表は麗しい美女で既に自社製品を愛用しており、是非とも他の女性にも勧めたいと発言している。

 また新しい化粧品や幼児用の紙オムツなどの商品も特許を申請しており、同時に販売を開始する』


 日総新聞の紙面には、他社では報道していない新商品の関連記事が掲載されていた。

 これ以外にも自転車やバイクの生産を行っている会社の工場増設や、各種の新しい工具や測定機器などの出荷量の増加も伝えていた。

 国内関連だけでは無い。海外の産業状況や景気動向なども含め、香取線香などの日本からの輸出品の増加状況も掲載されている。

 これらの記事は白黒写真入りで掲載されており、読者の反響を呼んでいた。(特に美女の川中楓の記事に注目が集まっていた)

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 災害予防研究会は天照機関と交渉して予算を確保して、大量の消火器を全国各地の交番や政府の事務所に配置した。

 さらに試験運用という形で浅草区を任意で選び、そこに残った消火器を重点的に置き、住民に防火訓練を施した。

 この結果、史実では二月の二十七日に1469戸が消失した大火事が、大きくなる前に消火器で消し止められた。

 こうして消火器は効果が認められて徐々に国内に普及していく。さらに海外への輸出も増加していった。

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 勝浦工場で生産された各種の工作機械は、昨年の後半から徐々に国内の協力会社に供給され始めた。

 加工精度はこの時代の最高レベルだ。さらに高精度な工作機械も生産できるが、輸出もあるので加工精度は抑えていた。

 とは言え、出荷された工作機械と同じレベルの物は今の日本には少なく、使い方を覚えるのも一苦労だ。

 これらの教育に睡眠教育をする余裕は無く、都内のある工場で連日の実習訓練が行われていた。

 そこで効果を発揮したのが高い識字率と、今までに培った職人達の技能だ。

 丁寧に作られたマニュアルを徹底的に読み尽くし、実機でその操作を覚える。

 これらの工作機械は全て統一規格に基づいて製造されており、ネジや工具の規格も統一されている。

 基本操作から機械の調整、修理内容まで徹底的な教育が行われた。

 さらに統一規格の説明を受け、加工した部品の寸法を測定機器で計って規格内に収まっているかの実習も行われた。

 概ね、一人の実習期間は約二週間。そして使い方を覚えた彼らは自分達の工場に戻って、後輩達に同じ内容を教える教師役になる。

 こうして、徐々に各種の工作機械が日本国内に普及していき、それに伴って基礎工業力が向上していった。


 工作機械以外に、各種の自動機械の出荷も開始された。(機密保持契約を結んだ協力会社のみ対象)

 この時代にベルトコンベアを使用した自動生産設備は、何処を探しても存在しない。

 安定した品質の物を大量に生産するのに、一々手作業では困る。その為の自動機械だ。

 勝浦工場に勤務する工員達のレベルは他と比較すると高いが、それでも自動機械を製造するにはスキル不足だった。

 その為に、勝浦工場の自動機械の生産ラインには制御コンピュータに直結している自動ロボットが配置されている。

 この完全自動ラインで生産された自動機械の種類は以下の通りだ。


 ・ ベアリング製造装置    機密保持が出来る協力会社に供給済み。勝浦工場にも設置済み。

 ・ ネジや工具等の製造装置  全て機密保持が出来る協力会社に供給済み。勝浦工場にも設置済み。

 ・ 紙製造装置        全て機密保持が出来る協力会社に供給済み。

 ・ 自動印刷装置       全て機密保持が出来る協力会社に供給済み。

 ・ 電線製造装置       全て機密保持が出来る協力会社に供給済み。

 ・ 真空管製造装置      勝浦工場に設置。国内の協力会社用は手作業レベルの装置を製造中。

 ・ 吸水素材製造装置     女性用品や紙オムツ用。全て機密保持が出来る協力会社に供給済み。


 まだまだ自動生産機械の需要はあるが、機密保持を考えると大量に製造は出来ない。

 それに工作機械のような汎用性能は無く、特定分野の製品にしか対応していない。

 組み立てや検査にも高い技術が要求される為に、コンピュータ制御の自動ラインで生産している。

 人海戦術が使用できない為に、製造に時間が掛かるが仕方の無い事だ。

 自動生産設備で生産された部品は、品質が均一な上に、大量生産が可能になる。

 こうして、品質が安定した色々な部品は、大量に日本国内に出回り始めていた。


 電気の供給に関しても、国内用に用意した大型の発電機(五万KW出力)が出荷された。

 従来の発電機と比較しても高性能であり、各地の発電所に徐々に導入されていった。

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 淡月光の国内の販売拠点は五ヶ所(仙台、東京、名古屋、大阪、福岡)だ。

 何処の販売拠点も造りは似通っており、外から見ると大きな看板があるだけで、何を扱っている店かは判断できない。

 この時代はショールームに女性の下着を置く事自体が憚られる。

 (化粧品や紙オムツは男が買いに来る事も考えられたので、店頭販売が出来るようになっている)

 外観は地味だが、店内に入ると明るい華美な造りとなっている。店内にはマネキンが並べられ、色鮮やかな数々の下着が並んでいた。


「いらっしゃいませ! 当店に来られるのは初めてでしょうか? 下着は試着できますので、私どもに一声お掛け下さい。

 使い方を説明させていただきます。それと化粧品や色々な女性専用用品は隣の部屋にありますので、御覧下さい。

 そちらも興味を惹かれたものがありましたら、御説明させていただきます」


 店内に入ると小奇麗な若い女性店員が声を掛けてくる。店内には男の姿は一切無い。

 そして女性は安心して色々な商品を見て、気に入ったものがあれば試着する。下着以外に化粧品や装飾品も置いてある。

 奥に行けば店舗の数倍の大きさの倉庫がある。この時代の流通は発達している訳では無い。

 商品の輸送にも時間が掛かるので、最低でも一か月分ぐらいの商品を倉庫にストックしていた。


 日総新聞の記事もあって、東京の販売店舗は最初から大盛況だった。

 それ以外の店舗でも徐々に口コミ(井戸端会議)で噂が広がり、一ヵ月後には何処の店舗も連日満員の状態になっていた。

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 日本の理化学研究所が次々に新商品の特許を申請し、関連会社で生産と販売を始めた事は諸外国の視線を惹き付けていた。


「昨年の風力発電機や新型の電灯に引き続いて、発電所用の大型発電機を日本が開発したか。

 日本は発展途上国だと思っていたが中々やるな。今はカタログと仕様書を要求しているところだ」

「今はエジソンの直流送電とステラの交流送電の争いの真っ最中だぞ。日本はいち早く交流送電に舵を切ったという事か。

 でも、これからの主流がどうなるか分からん。今は発電所用の発電機より、風力発電と新型電灯の方が需要は多いんだ」

「あれは送電されていない地域にとっては有難いからな。発電効率も良いし、電灯は寿命が長くて明るい。

 昨年に風力発電機と貯電装置を300セットと新型電灯1000個を仕入れたが、高価なのにあっという間に売り切れだ。

 追加の発注をしたが、納品は遅れている。他の国からも大量の発注があったらしいな」

「風力発電機の電力は少ないが、寿命が長いのが良いな。それもあの新型のベアリングの性能に依存しているらしい。

 あのベアリングがあれば、我が国でも同等の製品を造れるという話だ。それにもっと性能が良いポンプやファンもな。

 国内の各企業は日本に大量のベアリングを発注して、新商品の開発に躍起になっている。まあ、壊れ難いというのは良い物だ」

「まだ電灯が切れたというクレームは来ていない。予備の電灯を仕入れてあるから、故障した時も修理は簡単だ。

 ご丁寧に、取扱説明書と交換用工具、それに電圧測定器も一緒に来ている。しかも使ったらかなり良いんだ。

 他の用途にも使えそうだから、日本から各種の工具と測定器も大量に仕入れる」

「それを言ったら安全防具もだ。あのゴム製の手袋だと電気工事の時も安心だ。他の安全防具も色々と仕入れておいてくれ」


 理化学研究所は発電所用の発電機を開発したが、時は『電流戦争』の真っ最中であり、海外では本格的に採用する動きは少なかった。

 もっとも、交流陣営のウェスチングハウスは理化学研究所の発電機と変圧器の優秀さに驚いて、数台を発注していた。

 それよりも今は、送電されていない地域でも気軽に使える風力発電機と電灯に注目が集まっていた。

 昨年に販売開始され、少ない故障率と電灯の寿命と明るさは、多くの人々の欲しがるものとなり、大量の受注が舞い込んでいた。

 それに付随して、日本製の工具や安全防具、それに測定器の性能が徐々に認められ、そちらの方の受注も増えていった。


「それと蚊が多いアフリカやアジアの植民地に送ったあれの効果は分かったのか?」

「あれ? ああ、香取線香の事か。かなり評判が良い。マラリア対策に丁度良いし、大量の香取線香を発注しておいたぞ。

 現地の職員も喜ぶだろう。おまけに消火器と蚊帳も頼んでおいた」

「使うのは現地人では無く、我々だな。まあ当然の事だ。それにしても昨年日本から取り寄せた自転車はどうだ?」

「我が国の自転車よりも性能は良い。だが、数年経てばあれ以上の物を国内で生産する事は可能だ。

 サンプルの自転車を技術者に渡しておいたから、後で詳細な報告書があがってくるだろう。

 国産するまでは日本から輸入した方が良い。都市部には不要だが、田舎に行けばかなり重宝される」

「日本がこんなに多くの新商品を続々と開発するとはな。あそこは開国して二十年ちょっとしか経っていない途上国のはずだ」

「発電機と電灯、それに消火器や自転車、バイク、それに蚊避けの商品。どれも大勢に影響が無いものばかりだ。

 日本の工作機械の輸入や技術導入は減ったが、機関車や戦艦は未だに国産できない国だぞ。

 器用な国民性だと聞くし、精々俺達の生活レベルが上がるような新商品を開発してくれれば良い」

「……日本の淡月光という会社が、女性専用用品を開発して特許を取った事は知っているか?」

「いや知らん。しかし女性専用用品を開発? 男がする仕事じゃ無いな」

「そこの社長は若干二十三歳の美女だ。日本国内で販売を開始して、大繁盛らしい」

「二十三歳の美女!? 日本は途上国で女性が会社を起業するなんて絶対に無いと思っていたぞ! それは本当か!?」

「ああ。在日大使の奥方がサンプルをうちの女房に送ってきたんだ。そしたら女房もかなり気にいってな。

 来年辺りに淡月光が海外進出を検討しているという話を聞きつけて、我が国に進出するように秘かに要請しろって煩いんだ」

「……日本製の女性専用用品か。品質は大丈夫なのか? それより、どんな商品なんだ?」

「男は知らなくて良い事だと冷たく返されたよ。来月に日本に行ってくるが、その時に淡月光の代表に会ってみるつもりだ。

 写真を見たが、かなりの美女だ。会うのが楽しみになってきた」

「……日本の女性で、そんなに美女なのか?」

「新聞に写真付きの記事が掲載されていたんだ。胸元を大きく開けた服を着込んでた写真だ。しかもかなり大きい。

 会っても胸元に視線が行かないように注意しなくちゃな」

「……俺も連れていけ。一回は日本を直接見てみたいんだ」

「分かった。準備しておこう」


 理化学研究所や他の会社が開発したのは、全てが民生品だ。その為に諸外国の注目は集めても、脅威とは受け取られていない。

 工作機械は国内だけに出荷して、海外への輸出は行われていない。

 統一規格に基づいて生産された商品の品質は高く、十分に諸外国に受け入れられるレベルになっていた。

 こうして徐々に日本から諸外国への輸出が増えだし、貿易収支の改善につながっていった。

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 日本総合工業の海外事業部の役割の一つに、列強の国の複数のダミー商社を運営する事がある。

 この時代はまだ日本は発展途上国と見做されており、日本人が商社を運営しても信用が無くて、相手にされない事が多い。

 その為に現地の人(白人)を商社のトップに据えて、運営する必要があった。

 イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、アメリカが対象とされた。

 現地の領事館の協力の下で、善良だが貧困に喘いでいる人達を何人か見つけ出した。

 そして日本人に雇われる事に同意した後、陣内の面接の後に睡眠教育を受けていた。(裏切らないように強烈な暗示を含む)


 そして海外の埋もれていた財宝や沈没船の財宝の一部を使って、次々に海外の商社を立ち上げた。

 商社のトップは暗示を受けている現地の人だが、日本から出資されている事は分からないようにしてある。

 全部で五社だ。それぞれが独自資本の扱いだが、海外事業部の指示で動く。

 あまり目立たないようにしながら、第三国を経由して日本に次々に安価な資源や物資を運び込み始めていた。

 尚、これらの商社は日本からの輸出には一切関わらない。これも日本との関係を怪しまれない為だった。


 そしてダミー商社のもう一つの役目は、各地の未発見の有益な鉱山や油田の事前の買占めだ。

 直接購入して拙い場合は別のダミー会社を経由して購入する。アメリカのダミー商社は、東テキサス油田の地域を購入し始めていた。

 それ以外にも、中国や東南アジア、南米、中東、アフリカなど有望な場所はいくらでもある。

 現在では価値の分かっていない希少資源やウラニウム資源を事前に買占め出来れば、将来に渡っての効果が期待できる。

 こうして表向きは列強の商社という立場を利用して、世界各国の資源を少しずつ抑え始める計画が進んでいた。

 もっとも、列強の大手資本の隙間を狙った工作だ。あまり派手にやって、大手資本と対立しては潰される。

 その為に、大手資本グループとのコネクション作りも進めていた。


 余談だが、清国の資源の買取には特に力を注いでいた。数年後から混乱が激しくなるので、事前に出来るだけ多く買い占める為だ。

 手間が掛かる開発では無く、あくまで買取だけなのでフットワークは軽い。

 目立たない範囲で大量の資源を買い付け、それを日本に売却して利益を上げ始めていた。

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 ハワイ王国は1840年に憲法を公布して、立憲君主制を布いていた。そして欧米の入植者が、次々にハワイ王国に帰化した。

 そして帰化した欧米人の政府要職への着任が認められ、その結果、外国人の土地私有が法律で認められた。

 そうなると多額の対外責務を抱えたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、

 約十二年間だけでハワイ諸島全土の七割以上が外国人の所有となってしまった。


 帰化人が持ち込んだ感染症によって先住ハワイ人の人口が激減し、労働力不足を補う為に中国や日本から多数の移民が来ていた。

 アジア系移民からは一切の投票権を奪い、収入や資産などの一定のラインを超えた人間しか投票権を持てない。

 その結果、ハワイの実権はハワイ国王には無く、多くの土地を所有して富を蓄えている外国人富裕層にあった。

 現在のハワイ王国は、アメリカとイギリス、先住ハワイ人の三勢力が互いに対立している。

 アメリカのジャーナリズムは、二十年以上前からハワイ諸島をアメリカに併合するべきだと主張している。


 まさにアメリカに植民地化される一歩手前の状況だった。

 このまま放置すれば、1893年にクーデターが発生してハワイ王国は滅亡する。そして1898年にハワイはアメリカに併合される。

 それは日本の国益と合致しない。その為に陣内は列強のダミー商社に指示して、ハワイの辺鄙な土地を購入して拠点構築を進めていた。

 陽炎機関は立ち上げたばかりで、大部分の人材は育成中だ。工作開始は来年の予定だが、事前準備は怠らない陣内だった。

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 貧困という理由から、新天地を求めて日本から海外に移住した人達は多い。アメリカやハワイ王国などが主な対象だ。

 だが、土地を所有して開墾するのでは無く、過酷な労働条件の下で雇われる人が殆どだった。

 その為に、身体を壊すと直ぐに解雇されて野垂れ死ぬ運命が待っている。

 そんな移住者に、天照機関から支援の手が差し伸べられた。(国内の貧困層の人も対象)

 まだ未墾の地が多いブラジル政府と交渉して、現地の荒地を天照機関が購入して日本人を入植させる契約が成立した。

 食料や物資なども支援する。史実ではブラジルに最初の移住者が入ったのは1908年だが、前倒しで移住が実施される事になった。


 天照機関はブラジルで工作する予定は無かったが、現地に日本人街を造ったり、ある程度の拠点があった方が好ましい。

 そのような消極的理由からの支援だった。もっとも、未来の情報で地下資源があると分かっている土地は優先的に購入し始めている。

 政府が出した好条件につられ、ブラジルに移住していく日本人が徐々に増えていった。

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 日本総合工業の海外事業部の役割の一つに、工作対象の列強や植民地の孤児院を運営する事がある。

 現時点でイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、スペイン、アメリカ、ベトナム、タイ、インドネシアの十箇所だ。

 完全な慈善事業だが、副次的な目標としては日本人の評判を上げる事と孤児の中からの人材発掘がある。

 表面上は日本人の老夫婦(実際には元隠密)が、現地の裕福な人に雇われて孤児院を運営するというものだ。

 現地の人は高齢の人を選び、亡くなったらその遺志を継いで老夫婦が孤児院の運営を引き継ぐという長期計画だった。

 その為に、ある程度は治安が良い小都市の辺鄙な場所が立地条件となった。

 そして付近に空き地があれば、そこも購入して生活の足しになるようにと野菜の栽培を行うつもりだ。(孤児の教育の一環)

 陣内から睡眠教育を受けて現地の言葉や風習を習い、日本総合工業から資金援助を受けている。

 ベトナムに赴いた一組の老夫婦は、リビングで疲れた身体を休めていた。


「年明けからこちらに来て、三ヶ月だが少し落ち着いてきたな。カインのお蔭もあるが、私達への視線が和らいだのが分かる」

「私達を雇って孤児院を運営するという形をとっていますが、日本の老夫婦がこんなところに来たのか不思議だったんでしょう。

 此処の周りは同じような人種だから良いですけど、欧米に行った組は大変らしいですよ」

「あそこは周囲が白人だけだからな。日本人が居ると目立つのは仕方が無い事だ。

 我々を雇う人を見つけるのも苦労したろうな。まあ、高齢であれば貧乏でも構わないからな。カインの教育も薬を使って楽に済んだ。

 そのカインが連れて来た孤児はまだ三人だけだ。貧しい割には孤児が少ないというのは良い事だ」

「もっと街中に行けば、大勢いますよ。ですが街中にはキリスト教会がありますからね。

 私達が孤児の面倒を見ていると知られると面倒な事になりますから、こんな辺鄙なところで十分です。

 孤児の数の目標がある訳でも無いし、気長にやれば良いんです。服部様からも言い含められたではありませんか」

「分かっている。本来の『草』の役割も無く、本当に慈善事業だけすれば良いとな。

 だが、幼い子供達を見ていると忍術を仕込みたくなってくる。

 この前に忍び込んだ盗賊を投げ飛ばしたが、最初は手裏剣を投げようとしてしまった」

「まったく、この人は! 私達はカインに雇われて孤児の面倒をみる善良な老夫婦なんですよ。それを忘れては駄目でしょう。

 私も『くの一』の技を教え込みたいという気持ちを抑えているんですからね」

「孤児達に勉強を教えながら、日本の文化に親しんで貰うか。ワシが勉強を教え込むんだから、この国の最高学府並みの教育をしてやる」

「頑張って下さいね。孤児達が成長して働くようになれば、私達の信用も上がるでしょう。

 それに私達も此処の人達とまめに話し合った方が良いでしょう。別に『草』の仕事じゃ無くても、情報は必要ですから」


 各国に派遣されたのは、『草』の仕事に従事していた人達だった。だが、既に日本国内でその必要性は無い。

 残り少ない老後だが日本の為になるならばと、募集に応じた。本当に慈善事業が目的なので、気が楽という事もある。

 老夫婦の子供達は日本に居る。自分達が異国の地で死んだら、後は子供達が後を引き継いでくれる約束になっている。

 実際にやってみて、無垢な子供達の世話に生き甲斐を感じ始めている老夫婦だった。

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 昨年から風力発電機、貯電装置、新型の電灯を生産している田中製造所は大忙しだった。

 国内は元より、世界各国から大量の受注が舞い込んできている。

 新工場の建設は進められているが、それまでは今の工場で受注をこなすしか方法は無い。とは言え、朗報が無い訳では無かった。

 勝浦工場から出荷された各種の工作機械が次々に稼動して、従来の機械を上回る精度と加工速度を発揮していた。

 新しい工作機械によって生産効率が上がり、同時に品質も安定してきた。だが、工場の作業員には疲労が蓄積されていた。


「工場長。全員が毎日夜遅くまで仕事をして、疲れが溜まっているんです。たまには早く帰らして下さいよ!?」

「新工場が立ち上がるまでの辛抱だ。もう少し我慢してくれ。

 それと新工場用の作業員の実地教育が終わったから一週間後には、ここに仮配属される。そうなれば少しは休みが取れるはずだ」

「そうは言っても、大型発電機や変圧器の生産まで入ってきているんですよ! 俺の帰りがずっと遅いんで、嫁がカリカリしているです!

 何とかして下さいよ! このままじゃ、俺は家に帰っても冷や飯しか食えないんですから!」

「……おかしいな。従業員の嫁の誕生日には会社から贈り物をして、御機嫌取りをしているはずなんだが?」

「うちの嫁の誕生日は来週です。本当に嫁の誕生日に会社から贈り物があるんですか!?」

「昨年も結構稼いだし、今年も大きく稼げそうだしな。まあ家族サービスってやつだ。

 それと新工場用の作業員が仮配属されて、余裕が出来たら遊郭に連れて行ってやる。だから頑張れ!」

「遊郭!? じゃあ、俺は淡月光の川中社長みたいな豊満な女が良いです!!」

「馬鹿野郎! 淡月光の社長が遊郭にいるもんか!? それに居たなら、俺が先に指名する!」

「だから、『みたい』って言ったでしょ。ああ、あんな豊満な女がいないかな?」

「あの社長も日本人離れした身体つきだよな。日総新聞の記事を見たが、出来れば身近で会ってみたいもんだ」

「まったくですよ。でも遊郭って高いんでしょ。そこまで会社が金を出してくれるんですか? それとも工場長の自腹ですかい?」

「あほう! 嫁から小遣いを貰って万年金欠の俺が、自腹を切る訳が無いだろう!

 あんまし大きな声じゃ言えないが、遊郭の団体無料券を知り合いから貰ったんだ。一回しか使えないがな」

「遊郭の団体無料券って、そんなものがあるんですかい!?」

「病気に掛かって死ぬのを待つだけだった遊女を、理化学研究所が引き取って治したそうだ。

 あそこの医者が無料で定期的に遊女達を診察して、病気があれば治しているんだと。それで感激した女将が団体無料券を渡したんだ。

 使いきれないからって、少しうちの会社に流れて来たんだ。俺が持っているのはその一つだ。他の野郎に言うんじゃねえぞ」


 田中製造所の昨年の経常利益は一昨年の三倍だった。今年は昨年よりさらに利益が増える見込みだ。

 この工場で生産された製品は社内の検査工程で品質チェックを受けた後、三菱商事(史実より前倒しで設立)に引き渡され、

 そこから国内や世界各地に出荷される。(日本の統一規格に準じた品質を維持)

 状況が安定すれば田中製造所の自前の販売ルートを整備する考えもあるが、今はそんな余裕は無い。

 製造業は製造に専念し、商社は販売に専念する方式を採っていた。(どちらも陣内は株式を取得している)


 他にも自転車やバイクは国内の交通能力の向上の為の普及に努め、蚊帳や香取線香はマラリヤなどの疫病対策として国内への普及と

 積極的な海外への輸出に務めている。

 これ以外にも来年には扇風機や洗濯機、冷蔵庫を販売する計画がある会社は、急ピッチで工場の準備を急いでいた。

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 梅雨の時期は不快指数が増す。エアコンが効いた快適な部屋で、淡月光の社長の楓は腹心の部下二人と会議を行っていた。

 淡月光の本社は都内にある。陣内と直接連絡を取れる無線通信機を備えた近代的な造りだ。

 列強に海外支店を展開する事から、交渉がし易い都内を本社としていた。

 室内は快適な温度と湿度だったが、部屋の雰囲気は暗く、三人の顔は青褪めていた。


「……まさかここまで販売が伸びるとはね。これじゃあ二ヶ所の国内の直営工場だけじゃ足らないわ。海外に進出するなんて無理ね」

「それは早計よ。まずは直営工場を拡張するのと、販売拠点に隣接したところに工場を増設すれば国内の需要は賄えるわ。

 従業員を募集すれば絶対に集まる。何と言っても女性従業員に割り引いた値段で、商品を販売しているのが噂で広まっているもの。

 それでも足らなければ、産業促進住宅街の御婦人達の内職として不足分を補えば良いわ。問題は海外ね。

 船便で輸送をするにも限度があるし、やっぱり現地工場を建設しないと駄目かしら」

「ちょっと落ち着きましょう。まずは下着の販売は予想を下回っている。これも今の日本じゃ栄養が不足しているから仕方の無い事だわ。

 でも海外は違う。マーケットリサーチでも海外では下着関係は日本の数倍以上は売れると判断されているわ」

「……今の日本の栄養摂取量が不足気味なのは同意するわ。でも、それを言ったら楓はなんなの!? 

 今までの顧客データを見たけど、Fクラスなんて誰もいなかったわよ! あたしはBクラスよ。もう、楓は何でその大きさなのよ!」

「大きけりゃ、それなりに悩みもあるのよ。もう、話をずらさないで! 下着に関しては国内は大丈夫よね。問題はあれ用の商品よ。

 これを増産しないと海外に進出なんて無理だわ。陣内様からは水分吸収素材は今の五倍以上の供給は可能と連絡を受けている。

 今の直営工場の規模拡大と、販売拠点に隣接したところに工場を新規に立ち上げる事にしましょう!」


 販売を開始して約六ヶ月だったが、予想以上の売り上げになっていた。

 もっとも、諸事情があって下着の国内販売は予想を下回った。だが、化粧品や女性専用用品の売り上げは予想の倍以上だった。

 各地の店舗からは追加の出荷要請が相次いでおり、直営工場は二十四時間のフル稼働だ。

 それと紙オムツの需要はあるが、裕福な家庭が多く無い事から販売は思ったほど伸びていない。

 国内の問題は何とかなりそうだが、海外はこれからだ。

 陽炎機関の工作活動にリンクして海外販売を行う計画の為に、来年の海外進出が遅れる事は許されない。

 海外では国内以上に需要が大きくなると予想されたが、商品の生産をどうするかで三人は頭を悩ませていた。

 諸外国の大使夫人達にサンプルを送った。かなり好評で、商品を大量購入して本国に送った事から問題が複雑化した。

 各列強から自国に淡月光の支店を開業するように、強い要請が掛かったのだ。

 放置すれば日本政府に直接交渉するような強気の態度だ。この時期に列強と揉め事を起こしたく無いので、楓はさらに悩んでいた。


「元々、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スペイン、ロシア、アメリカの八ヶ国には進出するつもりだったから

 派遣メンバーの教育は済んでいるから良いわ。言語から現地の風習、マナーに渡って完璧よ。

 進出を要請してくるくらいだから、店舗や工場の便宜は現地政府に期待できるわ。

 でも、人材が不足しているから他の国は直ぐには無理ね。八ヶ国以外は順次進める事で納得して貰いましょう。

 それで販売拠点は良いけど問題は生産よ。下着は特許を取ったから現地の会社に委託する事も出来るわ。

 そこで日本製の生地を勧めれば、繊維業界の輸出も増えるしね。化粧品は協力会社に頑張って貰えれば良いわ。

 問題はあれの用品と紙オムツね。人口も多いし、富裕層も多いから日本の数倍の生産量を確保しないといけないわね。

 やっぱり専用の高速輸送船を用意して水分吸収素材をピストン輸送、現地で協力会社を見つけて生産委託するしか手段は無いわ」

「そうね。現地の工場を立ち上げるとなると、私達だけでは手が回らないし問題も起きるからね。生産委託する方が楽だわ。

 今の列強の技術じゃ、勝浦工場から出荷される水分吸収素材以上のものは生産できないもの。

 あれさえ握っていれば大丈夫よ。現地の雇用も促されるし、歓迎されると思うわ」

「海外の支店に派遣するのは『くの一』が最低一人と睡眠教育を受けた一般女性が五〜六人程度。支店の管理と接客ね。

 日本のイメージを上げる為に、マナー教育は特に徹底する必要があるわ。

 それと下働き用に男が十名程度。その中に陽炎機関のメンバーを含めるのよね」

「服部様の命令よ。陽炎機関としても、うちの会社は良い隠れ蓑になるわ。それに防犯の意味を含めてあるもの」

「現地の人達から見れば、未開の国から来た若い女の子だものね。現地の飢えた男共の餌食にならないようにしなくちゃ。

 容姿端麗な女の子を選ぶから、特に注意が必要よ」


 陽炎機関は対外諜報機関だが、今の日本に外国の活動拠点などまったく無い。

 だからこそ、淡月光の海外進出に便乗して拠点を構築する計画を立てた。まあ、派遣する女性職員の護衛も兼ねているが。

 こうして海外に進出する時は現地に生産委託する方針が決まり、細かい内容は其々の派遣職員を含めて再度会議が行われる事になった。

 そして若い女性三人の会話は雑談に移っていった。


「日陰の存在だったあたし達『くの一』が、こんな表舞台に立てるとは、二年前じゃ考えもしなかったわね」

「これも寮に女性専用下着の試着の応募の張り紙が出された事が発端よね。真から陛下に協力要請があったのよ。

 皇居の女性方は誰も応募しなかったって聞いて、陛下が服部様に命じてあたし達の寮に張り紙を出したのよ。

 確かに女性用の新しい下着の試着を応募って言われても、普通の人なら尻込みするもの。

 連絡先が沙織になっていたから、少し不安だったけど応募したのよ。それが全ての始まりね」

「そう考えると沙織が淡月光の設立の一番の功労者って事ね。でも、陣内様が日本に来て直ぐにあの子が派遣されたのよね。

 沙織以上の『くの一』も居たのに、何で選ばれたのかしら? あの子は体術は人並みだったけど、床の実習はやって無いでしょう」

「陣内様の夜の面倒も見る役目なのに、床の実習をやっていない乙女の沙織が何で派遣されたの? 作為を感じるわね」

「さあ? 選んだのは服部様だし、聞いても教えてくれないわよ。それより沙織はまだ夜のお勤めはしてないみたいね。

 二人が並んだところを見たけど、距離を感じるわ」

「陣内様が楓にぞっこんだからじゃ無いの。陣内様に初めて会った時に、楓は下着姿で誘惑したんでしょ。

 それから関係は定期的に続いているものね」

「あたしが試着者唯一のFクラスだったから真に呼ばれて、話し込むうちに着心地を聞かれたから実際に見せただけよ。

 まあ、下着姿になる前から強い視線を感じて、つい『くの一』の習性を出しちゃったのよ。あたしも暫らくぶりだったし」

「それで陣内様はどうだった? 数百年先の未来のテクニックってどんなものなの?」

「……普通……でも無いわね。師匠から習った秘奥義を使っても、真は三分は耐えたわ。普通の男なら一分も保てないわ。

 技術がある訳でも無いけど、体力はかなりあるわね。容貌は並みだけど、そこだけは認めて良いわ」

「へえ? うちの班のトップだった楓の秘奥義をくらって、三分も耐えるとはさすがね。あたしも摘み食いしてみようかしら。

 楓が寝物語で陣内様に淡月光の便宜を御願いしてるんでしょ。あたしがやっても良い?」

「止めときなさい。真もそうだけど、あたしも不満を溜めないようにしているだけ。ちゃんと避妊もしてるし、お互いが本気じゃ無いの。

 あたしはもっと輝く表舞台に立ちたい。今から家庭の縛りに捕らわれたくは無いわ」

「楓なら出来るわ。日総新聞の記事に写真が載ってから、凄い人気だものね。国内だけじゃ無くて、海外からも注目されているんでしょ。

 この前もイギリス大使やフランス大使と会った事は知ってるわよ。

 今の経営が軌道に乗ったら、楓がモデルになって新しい洋服のブランドを立ち上げてみない。絶対に成功するわよ」

「以前から、美貌とその身体つきで狙った男は絶対に落すと楓は評判だったものね。今度は世界が相手ね」

「それも良いわね。でもその時はあんた達も一緒にモデルになるのよ。今から覚悟しておきなさい!」


 女三人集まれば、字のごとく姦しい。日陰の存在だった彼女達は、日の当たる場所で生きたいという願望があった。

 そして淡月光は海外進出を機に、一大ブランドとして立ち上がっていった。

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 昨年から続く産業促進住宅街の建設、各地の道路や鉄道の建設、港湾施設の改修工事に加え、新製品の生産の為に各地の工場稼働率が

 上がって、日本全体の経済状況は活性化していった。だが、逆に衰退傾向を示していた産業もある。それは農業だった。


 この時代の農業は自動化されていないので、何をするにも人手はいる。

 しかし、多くの小作人や水飲み百姓が産業促進住宅街に移り、工事や工場に勤め出した為に深刻な人手不足の状況に陥った。

 それは収まる気配は無かった。これから新設される工場も多く、さらに人手が不足する懸念が出てきた。

 この為に、史実では1900年に設立された農協(当時の名称は産業組合)が、前倒しで全国の農村に設立された。

 臨時の作業員を雇い、人手不足の農家に貸し出す業務を行うのが目的だ。

 それ以外にも、残った小作人達を方々に貸し出すなどの仲介業務も行う。

 さらには来年には普及が始まる予定の農業用車両の一括管理を行って、其々の農家を支援する役割も考えられていた。

 (農作業用車両の燃料等の管理業務も含む)


 農業用水の整備も少しずつ進み出し、寒冷地に強い耐性を持った収穫量の上がる品種が次々に投入されている。

 村の人口は減ったが、今後の事で少しは希望が持てるかも感じていた某東北地方の農家の三人は、道端でお茶を飲みながら話していた。


「今年の田植えは人手不足でどうなる事かと思ったが、あの農協のお蔭で何とかなったな」

「ああ。草抜きは自分達でやるしか無いがな。また秋の稲刈りの時は人手を頼まなくちゃならん」

「貧乏農家の田んぼを手に入れて、農地が増えたと喜んだのは一瞬だったな。今じゃあ大きくなり過ぎた田んぼを売り払う奴もいる」

「隣村の田吾作もそうだ。何処かの会社が安く買い叩いたらしい。田吾作は来年はどうするんだろう?」

「さあな。田んぼを売った金が尽きれば働くしか無いだろうが、人を顎で使っていたあいつがまともに働けるのか?」


 その時、自転車に乗ったある農夫が農道を通りかかり、三人の農夫に声を掛けた。


「おい、一休み中か? 頑張れよ」

「与平は自転車を買ったのか? 結構高かっただろうけど、乗り心地はどうだ?」

「雨の時は乗り難いが、道が固まっていれば乗りやすいぞ。結構遠くに行っても疲れんしな。これも文明の利器ってやつだ」

「まだ俺には買えんな。羨ましい」

「この自転車を使えば、結構遠くまで気軽に行ける。街じゃかなり広まっているそうだ」

「秋の収穫次第だけど、金が余れば買ってみようかな。田んぼが増えたから、良い値がつけば出来るな」

「おいおい、もう少し待った方が良いんじゃ無いのか? 隣村に電気が通じたろう。

 来年にはこの村にも来るらしいが、電灯をつけるにも金がいるんだ。少し我慢した方が良いぞ」

「そう言えば、隣村の田吾作は田んぼを売った金で、バイクや扇風機を買ったらしいぞ。それで新しい商売を始めるって言ってたな」

「本当か!? あの田吾作が商売を始めるのか?」

「バイクで街まで行って商品を仕入れて、村で売るらしい。この前は香取線香って蚊避けの新しい商品を売ってたな」

「へえ? 今はそんなもんまで売ってんのか。今度、隣村に行ってみるか」


 徐々に農村にも新しい商品が普及し始めていた。そして一部の人間は農業から商業に鞍替えする者もいる。

 農協が機能し出して農作業用器具の普及が始まれば、さらに変化の速度は増していく事だろう。

 今後はどうなって行くのか? 四人の農夫達は若干の不安を感じながらも、時代が変わっていく事を肌で感じ始めていた。

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 日総新聞は関東地域の地方紙だが、読者が増えれば全国紙への転換を計画している。

 国民の教養や見識を高め、民度の高い国民を育てる事を目標にしている為に、イエロージャーナリズムを徹底的に排除し、

 『事実を報道する事』に重点を置いている。当然だが面白みのある記事は少なく、読者も少なかった為に最初は赤字経営だった。

 だが、理化学研究所の新商品のスクープ報道や、淡月光の新商品や楓の写真を掲載した事で一気に多くの読者を得ていた。

 (楓は他の報道各社の取材は、多忙を理由に受け付けていない。読者からは楓の写真集の要望が多く寄せられていた)

 その報道姿勢は事実の報道を重視する他に、扇情的な報道をする他社に厳しい追及をする事で話題になっていた。


『○×新聞社はしきりに大陸や半島に進出するべきだと主張しているが、本当に我が国の実情を理解しているのだろうか?

 昨年の特別予算による産業促進住宅街の建設や、各地の道路や鉄道、港湾施設の工事等で少しずつ国内の景気は上向いているが、

 今の我が国に大陸や半島に進出する国力が本当にあるのだろうか?

 そんな余裕があるなら、国内の貧窮している人達の救済や、国内産業の発展に努めるべきだろう。

 政府は国内の貧困層の人達に救いの手を差し伸べ、同時に効率的な景気刺激策を実行している。これを持続させるべきではないか。

 こんな時期に我が国に利益が齎されるか不明な大陸や半島に、積極的な進出をする必要があるのだろうか?

 今後、国内の情勢が改善されてからでも遅くは無い。それに進出する先の国情の問題もある。

 彼らの国民性や生活習慣を詳しく調査して、本当に進出する価値があるのかを再検討するべきだ。

 勿論、国防が重要なのは承知している。ロシアの南下の圧力は清国でさえ対抗できなかった。

 だが、国内の改革を放り出して大陸や半島に夢を追うのは、現実を見ていないと言わざるを得ない』


『二年前に□△新聞社は、政府は弱者救済を進めるべきだと厳しく批判していた。

 そして今年の□△新聞社の記事では、弱者救済を目的とした産業促進住宅街や各種の流通機能向上の工事を無駄遣いと批判している。

 □△新聞社に報道機関としての矜持は無く、ただ批判する為だけに報道していると判断せざるを得ない。

 しかも□△新聞社は政府高官の発表の一部だけを強調した、『揚げ足』取りの報道が多く見受けられる。

 前後の文脈を無視して一部の語句を強調して報道するとは、□△新聞社の記者達は日本語をきちんと勉強しているのだろうか?

 満足な自国語も使えぬ人間を記者として採用しているなら、□△新聞社の見識を疑わざるを得ない。

 それとも□△新聞社は報道機関として『事実を報道』するという責務を放棄し、読者に媚びて売上部数を伸ばす事が目的なのか?

 そんな□△新聞社の報道姿勢に疑問を持った我が社は、徹底的に調査を行った。

 その結果、□△新聞社は某財閥の不利な報道を取り止める代わりに、某財閥から巨額な資金を内々に受理している事が判明した。

 これは立派な企業への恐喝では無いのか? 複数の記者は特定人物に有利な記事を書いて、その人物から現金を受け取った事もある。

 編集局長は某財閥から得た資金で豪邸を建てている。我々はこんな不正は見過ごす事は出来ない。

 次回の特集で、□△新聞社の社主から記者までの今までの不正を徹底的に追及する! これは我が社の社是に従った行動だ!

 もし我が社の社員が不正な資金を受理するなどの行為を行った場合は、懲戒免職処分にする事を約束する!』


 日本では言論の自由は一応は認められている。(この当時、政府に目を付けられた報道機関は発刊停止処分になる事はある)

 ○×新聞社に対しては、その主張に反する論陣を張っただけだ。特にどうこうする気は無かった。

 □△新聞は報道機関の責務を放棄し、読者に媚びて売り上げを伸ばす典型的なイエロージャーナリズムに染まっていると断定した。

 そして□△新聞の社主から平の記者まで、不正行為を行った場合は実名とその内容。さらには過去の犯罪歴まで徹底的に報道した。

 今まで他社の報道に反論する新聞社はあったが、同業者の社主や記者の実名、犯罪履歴の報道をするのは初めてだ。

 他の報道機関からの反論や攻撃もあったが、日総新聞は同業者批判を止める事は無かった。

 報道機関同士で自浄機能が働かなければ、徐々に汚染される。政治もそうだが、自浄能力の働かない業界は衰退する運命にある。

 これから報道業界が発展していく過渡期に、このような過激な同業者潰しを行った事は、今後に大きな影響を与える事になる。


 結局、日総新聞の報道記事によって□△新聞の不正が暴かれて、社主から平の記者まで不正に関わった人達は警察に逮捕された。

 そして深刻な読者離れもあり、□△新聞は倒産してしまった。

 この件は、不正を行えば日総新聞から徹底的な追及が行われ、社主でも警察に逮捕されるという強烈な教訓を残していた。

 そして以後の日本の報道業界においては落ち着いた報道が主になり、イエロージャーナリズムはあまり見られなくなっていく。


 数年後、日総新聞の記者が不正な報道を行った事が発覚した。

 それを知った編集局長はその記者を懲戒免職に、上司である自分に減給30%を半年間という処置を行い、それを紙面に掲載した。

 こうして日総新聞は他の新聞社と馴れ合う事無く、ある時は協調して、ある時は激しく紙面上で対立する事で成長していく。


 勿論、堅苦しい記事だけでは無い。各国の風習や面白そうな教養になる記事も掲載している。

 さらには新聞小説や四コマ漫画を取り入れて、読者の興味を引き付ける努力も怠ってはいない。

 そして子会社の出版社を使って、国民の素養を高めるような報道をしていった。

(2013. 5.18 初版)
(2014. 2.16 改訂一版)